中川イセ

日本の元政治家

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中川 イセ(なかがわ イセ、1901年明治34年〉8月26日[1] - 2007年平成19年〉1月1日)は、日本政治家地方議会議員)、北海道網走市博物館網走監獄を運営する財団法人網走監獄保存財団の元理事長。

中川 イセ
なかがわ イセ
生年月日 1901年8月26日
出生地 日本の旗 日本 山形県東村山郡干布村上荻野戸
(後の天童市
没年月日 2007年1月1日
死没地 日本の旗 日本 山形県網走市
出身校 荒谷尋常小学校
(後の山形県天童市荒谷小学校)
所属政党 自由民主党
称号 勲五等宝冠章
藍綬褒章
紺綬褒章
従五位

日本の旗 北海道網走市議会議員
当選回数 7回
在任期間 1947年 - 1975年
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中川イセ - 天童市

網走市議会の初の女性議員。昭和中期の網走市において、上水道敷設による水質改善、人権擁護活動、女性の地位向上などの活動で地域発展に貢献し、「網走開拓の母」と呼ばれた[2][3]。政界以前の波乱に富んだ人生でも知られ、網走市民には「中川のばっちゃん」の呼び名で親しまれた。1968年(昭和43年)にTBSテレビで放映されたテレビドラマ『流氷の女』のモデル。本名、中川 いせよ。旧姓は今野。山形県東村山郡干布村上荻野戸(後の天童市)出身[1]

人物歴

2歳のとき、産後の肥立ちの悪かった母が死に瀕したため、里子に出された。預かり先で極貧生活を送りつつ、荒谷尋常小学校(後の山形県天童市荒谷小学校)に通った[4]。学業は優秀であったが、4年修了後に生家に戻された。すでに実母は死去しており、継母のもとで家業を手伝わされ、進学は許されなかった。11歳のとき、継母との不仲から家を出た[5]

山形、米沢市東京市(後の東京都)を渡り歩き、女中奉公、女工、給仕など、様々な職を転々とした[6]。妻子持ちの男性に騙されて暴行され、1918年大正7年)に17歳にして女児を出産、未婚の母となった。身内を頼ることもできなかったため、やむを得ず娘を里子に出した[7]

1919年(大正8年)、娘の養育費捻出のため北海道に渡り、網走の遊廓に入った。客を喜ばすために趣向を凝らし、遊女として次第に頭角を現し、一時は遊郭きっての看板遊女となった[1][7]

1921年(大正10年)、牧場経営者である中川卓治と結婚して身請された。中川家の親戚たちから結婚に反対されて居場所を失ったため、開拓景気に沸く樺太に渡り、夫婦で牧場、旅館、飯場などで働いた[7]

1926年昭和元年)に中川家により網走に呼び戻され、夫婦で牧場を営んだ[8]。しかし1928年(昭和3年)に夫の父が死去、14万円の借金が残った。労賃日給1円、そば・うどんが10銭、月給100円以上を得る者は網走でわずか3人という時代であり、網走で一番の借金額であった。そこで札幌へ向かい、銀行の頭取に直談判して熱弁を振るい、50年月賦で返済すると約束した。当時の人間の平均寿命は50歳といわれ、50年もの月賦は前代未聞であった[9]。以降は返済のため、牧場仕事で乗馬を特訓し、牧場に加えて馬喰(馬の仲介業)などの仕事を必死にこなした。最終的に返済を終えたのは1947年(昭和22年)のことである。巨額の借金を約束の約3分の1の年月で完済できたことは、網走中の話題となった[7][10]

1932年(昭和7年)、14歳になっていた娘を里親先から引き取った。子供はほかに、離婚歴のある夫の連れ子、その1歳下の養子がいたが、養子は戦争により失われている[11]

市議会議員活動

1947年(昭和22年)、網走の市制施行とともに戦後初の統一地方選挙が行われた。女性が参政権を得て初めての選挙であり、中川は夫に出馬を勧められた。中川本人は気が進まなかったものの、「学歴のない中川が選挙に出る」との陰口に憤慨し、出馬を決心をした[12]

選挙運動といっても、知人といえば牧場仲間の女性ばかりで、ほかの候補者のような派手な選挙運動はとても無理であった。自転車に乗ってメガホンで呼びかけ、民家を一軒一軒訪ねて家の壁などにポスターを貼らせてもらった[13]

地道な活動は支持者たちの好評を得、それまでの数奇な経歴も話題を呼び、庶民女性たちにも支持された。同情票も手伝い、当選者27人中25位で当選を果たした。女性立候補者5人中で当選者は1人であり、女性初の網走市議員であった[13]

第1期は下位当選の上、政界では素人同然のために議会から爪はじきにされた。せめて子供の健康をと、子供たちを集めてラジオ体操を始め、自費で買った景品を配った。子供たち相手に名乗った「ばっちゃん」の名が、その後の愛称となった[13][14]

その後も連続計7回の当選を果たし、7期にわたって市議会議員を務めた。2期以降は上位当選であり、トップ当選も2回果たし、活動が本格化した[13]。議員の傍らで人権擁護委員後述)、自由民主党北海道支部連合会連婦人部長(後述)、家庭裁判所家事調停委員、網走婦人会長、母子相談員、社会教育委員、防犯協会理事、福祉協会理事[15]、網走市物価監査委員、法律相談員など、多くの公職を歴任した[16]

なお政界の関係者としては、義弟に東条貞がいる(中川の夫の妹が東条の妻)。中川が長年にわたって中央政界に大きく関ったのは、この東条によるところが大きいと見られている。一方で中川の夫の父は東条を気に入るあまり、多額の選挙資金をつぎ込んでおり、これが前述の膨大な借金の元にもなっていた[17]

上水道の敷設

市議会議員としての最大の功績は、上水道の敷設である。平成期には網走の水は日本で2番目に良質といわれ、「あばしりの天然水」として市販されているほどだが[12][18]、それは上水道敷設後の話である。湧水井戸に頼っていた当時、網走の水の質は非常に悪かった。どこの水もアンモニアの臭いが強く、主婦たちは洗濯にも炊事にも難儀していた。使い物になる井戸はわずかであり、そこに毎日水汲みの行列ができていた。この労力の浪費を解決すべく、中川は上水道敷設に乗り出した[7][13]

網走市内で上水道に利用できる水源には、湧水のほかに網走湖が考えられたが、中川は将来性や水質、水量を考慮してそれらに見切りをつけ、網走から分村した東藻琴村(後の大空町)の藻琴山にある最高品質の湧水に目をつけた[19]。しかし、網走までの約30キロメートルの距離が障害となった。当時の網走の年間の一般会計予算は1億6千万円だが、試算された費用はそれをはるかに上回る約3億円に昇っていた[7]

中川は鉄工会社である日本鋼管(後のJFEエンジニアリング)との交渉のため、市議会の助役と議員1人とともに東京へ向かった。中川が飛行機に乗ったのはこれが初めてであり、離陸に驚く様子を周囲は笑っていたという[19]

東京で日本鋼管に毎日通った末、ようやく社長と会うことができた[12]。しかし、交渉はやはり費用の問題で難航。中川は5年払いを申し出たが、それには2億円の担保が必要であり、その担保すら網走にはなかった[12]。そこで中川は、自分の牧場の持ち馬150頭に加えて、同席していた議員の私有地を担保に入れると言い出した。私財を担保にすると聞いて驚く日本鋼管側に対し、中川はさらに「網走の子どもたちの命が、将来がかかっているんだ。こっちも命がけだっ![※ 1]」と言い放った[7][19]

この中川の必死の熱意に日本鋼管側が感動し、交渉が成立。1952年(昭和27年)から着工され、1954年(昭和29年)に給水開始。こうして網走市の上水道が実現した[19]。平成期においても網走市の水は、大空町東藻琴の藻琴山の麓にある水源地から供給されている[20]

この功績により中川は、私財を担保にして網走の水道を作った人物として後々まで語り草になった[12][21]。もっとも後年の中川本人の弁によれば、実際には牧場の馬は私物ではなく預かり物、土地もほとんどはすでに担保に入っていたものであり、それらを担保にすると言ったのは、どうせ交渉が駄目ならとの思いで吹いたホラだったという[19]

人権擁護活動

 
網走刑務所教誨堂

1950年(昭和25年)に人権擁護委員に就任し、女性解放運動に携わった[22]。自身の遊郭の経験で、人身売買の悲惨さを身をもって知っていたため、この仕事を通して、人身売買を徹底的に撤廃するための運動に尽くした[23]。女の体を無理やり売らせて利益を取ること、女性をみじめにさせることは中川にとって許しがたいことであった[22]

領域外の美幌町斜里町津別町にまで出向き、遊郭まがいの営業を行なう業者を廃業に追い込み、あるいは商売替えをさせた。「あいつにかかったら店を潰される」と業者たちに噂され、後をつけられることもあった[22]

弱い女性の味方との噂が広まり、こうした領域外の町の女性から助けを求める手紙が届くこともあった。業者のもとから逃亡したいが金がないという女性には金を与えた。その返済を求めることもしなかったため、常に生活は質素であった[22]赤線地帯(売春地域)に売られた女性、夫婦喧嘩で家を飛び出した女性を家に置くこともあり、いつまでも自宅で面倒を見た[24]

人権擁護委員だった関係で、網走刑務所の教誨堂での講演も多かった。内容はいつも実話であり、宗教などの高尚な話を聞き飽きた受刑者たちに好評を得た[22]。受刑者たちはしばしば中川を取り囲み、議員運動を激励した[12]。父親が網走刑務所の囚人のために周囲から虐められて辛い思いをしている子供を元気づけたこともあった[22]

1963年(昭和38年)まで人権擁護委員を務めた後、1971年(昭和46年)にはこの人権擁護活動により、勲五等宝冠章を受章し[25]、2度の法務大臣表彰を受けた[26]

向陽ケ丘病院の誘致

網走市立向陽ケ丘病院(後の北海道立向陽ケ丘病院)の誘致の際には、中川は当時の北海道知事である田中敏文のもとへ請願に訪れていた。その際にはまだ、ほかの市からの請願はなかった。しかし中川の請願を知るや、ほかの市も猛烈な誘致運動を始め、やがて中川より後に請願した市に許可が下りた。これに憤慨した中川は再び田中を訪ね、「私が一番先に願い出たのに、あっちの運動が激しいからそっちにするっていうのはどうしたか、女だからってバカにするのか[※ 2]」と泣きわめいた。これに田中は根負けし、1952年(昭和27年)の同病院設置に至った。これは上水道敷設に並ぶ中川の功績ともいわれている[12]

自民党道連婦人部長

1961年(昭和36年)、自由民主党北海道支部連合会(自民党道連)の婦人部長に指名された。尋常小学校しか出ていない中川は「自分の名前さえ満足に書けないので務まらない」と一度は断ったが、当時の自民党道連の幹事長である岩本政一は度胸を気に入り「字が書けないなら秘書をつける」といって婦人部長を任せた。これにより中川は1973年(昭和48年)までの12年間、常に秘書つきで婦人部長を務めた[27]

1971年(昭和46年)の北海道議会議員選で同党幹事長の武部勤が立候補する際、道連が入党に難色を示す中、中川が入党の助力をした[28]。また同年、堂垣内尚弘の北海道知事選出馬の応援を依頼された際は、網走出身である香千枝夫人の「香」を取って「かおり会」を結成し、北海道を2巡して会員を募ることで女性支持者を5万人にまで増やし、当選に大きく貢献した[27]。山形県出身の代議士の応援演説に駆けつけた際は、2000人収容可能な演説会場が超満員になり、入りきれなかった1000人以上の聴衆が会場の外まであふれるほどの人気ぶりであった[29]

在任中の内閣総理大臣である池田勇人佐藤栄作田中角栄らとも親交を深めた[28]。中でも特に、奉公しながら苦学した身である田中は、似た境遇の中川を気にかけ、可愛がったという[27]

引退

 
博物館網走監獄

1975年(昭和50年)、数えで75歳を迎えたことを機に市議会を引退。周囲からは引き止められたが、自身は「引き際が大事」と語った[13]

当時の網走市内には4軒の保育園があったが、17時までに子供を引き取る規則であった。早退を強いられていた仕事を持つ女性たちから相談を受けたことにより、女性の地位向上のため、1981年(昭和56年)、社会福祉法人網走愛育会を作って自ら理事長を務め、潮見保育園を開設した[14][16]

1988年(昭和63年)、博物館網走監獄を運営する財団法人網走監獄保存財団の理事長就任を依頼された。前任の佐藤久網走新聞社社長)は中川の友人でもあった[30]。また、旭川市釧路市への道路を造って網走の基礎を築いたのは網走刑務所の囚人であり、彼らの力なくしては網走はただの漁村の過ぎなかったと考えたこともあり、2代目理事長に就任した[16]。当時、運営財団には9億円の負債が残っていた。中川はその立て直しのため、旅行ツアーに博物館見学を盛り込ませようと旅行会社を駆け回り、博物館の入館者を倍以上に増やした[31]。開館10周年を迎える1993年平成5年)には総入場者は300万人を超え、同年の入場者数は60万人に届くまでになった[30]

1992年(平成4年)、網走市から名誉市民の称号を受けた。網走市名誉市民の称号は32年ぶりであり[32]、女性では中川が初である[33]。ほかに藍綬褒章紺綬褒章も受章した[12]

晩年

晩年には、夫と死別した女性が安心して生活できる場所として、医療と福祉の複合施設を構想[2][14]1997年(平成9年)、中川イセの名をとって介護老人保健施設「いせの里」として開設した。中川自身も1962年(昭和37年)に夫と死別しており[26]、晩年は冬季のみこの施設で過ごした[28]

故郷である天童市にも毎年のように帰郷した。母校の荒谷尋常小学校を前身とする山形県天童市荒谷小学校には、備品や楽器、900冊以上の図書などを寄付した。同小学校にはこの図書類が「中川文庫」の名で保管されている[34]1998年(平成10年)の天童市市制施行40周年記念式では、この寄付に対して特別功労表彰を受けた[35][36]。同1998年、網走市長選挙で大場脩が初当選した際は、中川は100歳近い身でありながら先頭に立って選挙運動を応援した[28]

2000年(平成12年)に網走監獄保存財団の理事長職を退任、その後は名誉会長に就任した[37]

2002年(平成14年)、天童市の旧東村山郡役所資料館で開催された「天童が生んだ女性展」で中川が紹介された。網走の大場脩市長がこれに招待されたことをきっかけに、網走市と天童市の交流が開始され、2004年(平成16年)、両市の観光物産交流都市協が締結された[38]

同2004年より病気療養に入った[39]。同年末に脳出血で重篤に陥り、一時は葬儀の日程まで決まったものの、回復して周囲を驚かせた[40]。しかし約2年の闘病の末、網走市制施行60周年を迎えた2007年(平成19年)元旦深夜、老衰により死去。没年齢105歳[28]

同2007年1月20日に網走市内で市民葬が行われ、前述の武部勤、新党大地代表の鈴木宗男、当時の天童市長の遠藤登らが列席した[38][41]。天童市出身ではあるが、自分を育ててくれた網走の地に骨を埋めたいと生前に語っており、遺志に基いて墓所は網走市内にある[42]。同2007年、30年以上勤めた人権擁護活動に対し、従五位の特旨叙位が贈られた[43]

天童市の市制施行50周年にあたる翌2008年(平成20年)、天童市荒谷小学校に、中川の功労を称えるための顕彰碑が建立された[34]

人物

尋常小学校では一番の成績をおさめ、総代として修了証書を貰う権利を得たが、極貧生活で羽織袴を持っていなかったために権利を失い、裕福な生徒が代表となった。これは後々まで悔しい思いとなり、苦境の中で自分の道を切り開く原動力となった[8][34]。また、遊女時代に仲間の遊女たちから悲惨な身の上話を多数耳にしており、これも市議会議員となった後、女性、弱者、貧しい者たちの地位を向上させようとする中川の精神的な支柱となっていた[7]

戦時中に「鬼畜米英のアメリカ兵が日本人女性たちを強姦しに来る」とデマが流れた際には、網走でも女性たちが大混乱に陥った。それに対し中川は「私が裸で馬に乗って海岸を駆けて兵たちをおびき寄せるので、その隙に逃げるように」と言って彼女らを鎮め、実際に日本刀を手にして馬で海岸を駆けた。網走の女性たちの中には、中川を元遊女、女馬喰と見下す者も多かったが、この一件で女性たちはすっかり彼女に心酔し、市議会議員となった後も絶大な人気を寄せた。この逸話はフランスの国民的ヒロインであるジャンヌ・ダルクにもたとえられ、後々まで語り継がれた[44][45]

学歴は尋常小学校4年のみで、高等小学校へは進学していないが、生家を出た後に小学校教師の家で奉公しており、この教師に勉強を教わっていた[26]。自民党道連婦人部長に就任して秘書がついた際、秘書は中川が文盲のために自分が必要だと思っていたところ、実際は英語以外は難なくこなしていたので驚いたという。ただし字が下手だったため、書類は秘書がこなしていた[46]

性格は豪放磊落[40]、間違ったことを嫌うが、それでいて「どんなことにも理由があるから」といって、相手を許し寛容に対処した[2]。辛酸をなめて逆境と戦い続けただけに、弱者へは常に温かく接した[47]。講演や網走監獄保存財団で長く関った網走刑務所の囚人たちについては「ほんとうに悪い奴は塀の外にいる。塀の中にいる人たちで、真のワルと思ったのに会ったことがない[※ 3]」「心をこめて話すと、一生懸命に聴いてくれる。聴くだけの心を持っているということだ[※ 3]」と語った。

気さくで面倒見の良い性格から、網走市では「中川のばっちゃん」と呼ばれて親しまれた[39]。趣味道楽は持たず、強いて言えば人の世話が趣味であった[26]

90歳を過ぎても毎朝4時起床、1時間の乾布摩擦、ラジオ体操という日課を欠かさず、老いても元気と評判であった[30][31]。晩年を過ごした保健施設「いせの里」では、長寿にあやかろうとする多くの老人たちに囲まれた[47]

なお「イセ」の名は、書きやすさや読みやすさから通称となったもので[48]、結婚時に戸籍を見て、初めて自分の本名を知ったという[49]

武術

興業女相撲で知られる天童市出身だけあり、幼少時より相撲が得意で、何人もの男の子を負かした。後には柔道3段、合気道3段、棒術初段、空手名誉3段の腕前となり、武術家としても知られるようになった[12]

柔道は遊女時代、話題作りのために道場に通って身につけたものである。仲間の遊女に乱暴を働く客を柔道技で懲らしめたこともあり、遊女人気に一役買った[50]。樺太滞在時も「襲いかかる飯場の荒くれ者を一本背負いで投げ飛ばした」「夫を襲う者たちを柔道技で蹴散らした」「夫が喧嘩に負けて帰宅して来ると、相手のもとへ乗り込み、背負い投げで仕返しをした[51]」「夫が約20人の男たちと喧嘩になった際、夫を助けに駆けつけると、刃向う者は誰もいなかった[12]」などの数々の武勇伝を残した[26]

合気道は、終戦直後に荒れ放題の子供たちの品行を正すため、武術家の武田時宗に依頼して道場を始め、自らも門下生となって習得したものである[11]。60歳を過ぎても余暇には道場で教え、毎年の大会では演武を披露していた[26]

後々まで凄腕の武術家として名を馳せ、90歳を過ぎた頃でも「1対1なら男でもぶっ飛ばせる」と豪語していた[48]。網走市内には「中川記念武道館」として名前が残されている[52]

評価

中川が市議会議員を務めていた時代に網走市長を務めていた安藤哲郎は、中川を以下のように評した。

どん底から這いあがり、逆境を克服し、その強靭な精神力での“天下御免”の活躍は、庶民の味方として、また女性の味方としても、こんなに頼もしい人はおりません。温情あふれる女性活動家として、網走をこよなく愛し、市政の発展に尽くしたバッチャンは、多くの市民に慕われております。 — 小檜山 1992, p. 60より引用
七十年前に郷里山形から遠い網走の苦界に身をしずめ、その泥沼から自力で這い上がった中川さん。弱い者、虐げられる者のために体を張った男も及ばぬ活躍ぶりは、眼を見張るものがあります。彼女こそは、日本中に声を大にして誇り得る、すばらしい女性だと信じます。 — 山谷 1986, カバーより引用

元網走市議会議長の田村直美は中川の議員活動について「男勝りの気っぷで、時の首相や幹事長にズケズケものを言った。陳情ごとなどで歴代の市長をずいぶん助けました。代議士にも勝る市議会議員でした[※ 4]」と語った[12]。網走監獄保存財団の理事長に推進された理由は、群を抜く政治家としての手腕を買われてと見る向きもある[12]

北海道を代表する女傑ともいわれ[26]、元北海道知事の横路孝弘は、中川を「北海道を開拓した北の女性の代表」と評した[12]。雑誌『北海道味と旅』の編集長を務めた網走出身の山本祥子は中川を世に紹介し続け、「覚者としての人の味が、一種迫力となって伝わってくる[※ 5]」と語った。小説家の司馬遼太郎は紀行集『街道をゆく』において、中川の風貌を「自分が何者で、何をすべきかを知っている顔」と評した[53]

網走市民にとっては偉人というより「頼りになる隣人」であり、「ばっちゃんを知らない人は網走市民ではない」とまでいわれた[48]。没後には「ばっちゃんは、ただ居るだけで何かを教えてくださる方だった[※ 6]「ばっちゃんの存在が道しるべ[※ 6]」「型破りの凄い人で、並みの人と器が違いすぎる女性(ひと)だった[※ 6]」ともいわれた。大場脩は市民葬で告別の辞を「地域を越えて活躍された。誠実で人情あふれる姿は市民の心に残るでしょう[※ 7]」と読んでおり、後年には「大きな声で、自信をもって話す人だった[※ 8]」 「話がうまかった。その場にふさわしい話のできる人[※ 8]」 「礼儀を重んじた[※ 8]」 「弱い人の味方だけれども、弱い人は嫌いだった[※ 8]」 「生きる哲学をもっていた[※ 8]」 などと語った。

メディア

ノンフィクション作家の大宅壮一は、中川と親しかった小説家の中山正男から中川を紹介され、『週刊朝日』誌上の徳川夢声との対談の中で中川について語った。これによって中川の名は、全国的に広まることとなった[54]

また中山の義妹である小説家の金子きみは、中川の半生記『雪と風と青い天』を著した。これが後にテレビドラマ化され、1968年(昭和43年)にTBSテレビで『流氷の女』のタイトルで全国放映され、中川の名はさらに広まった。中川自身もその後にNHKの『こんにちは奥さん』など、何度もテレビに出演し、反響を呼んだ[54]

網走市の作詞家である纓片實(おがた みのる)は、このドラマに感銘を受け、歌を作詞。北海道名寄市出身の歌手である加山ひろしの曲『流氷の女』として同1968年にリリースされた。中川は生まれて初めて曲を貰ったことに感激し、その後も纓片と交流を続けた[55]

1987年(昭和62年)には、北海道放送のラジオ教養番組『涙 流す間もなし 〜流氷の町に生きる女〜』で、中川の七転八倒の人生遍歴が紹介され、同年の日本民間放送連盟賞の教養部門で最優秀番組に選ばれた[56][57]

没後の2015年(平成27年)には、天童市在住の女優である夢実子(ゆみこ)主演による朗読劇『激動の一世紀を生きた人生 零(ゼロ)に立つ 中川イセ物語』が網走市で上演され、満席の客席から喝采を浴びた[58]。同2015年12月には第2回公演として、中川の故郷である天童市で上演された[59]

脚注

注釈
  1. ^ STVラジオ編 2003, p. 267より引用。
  2. ^ 小檜山 1992, p. 59より引用。
  3. ^ a b 山崎 1997, p. 51より引用。
  4. ^ 小檜山 1992, p. 60より引用。
  5. ^ 小檜山 1992, p. 61より引用。
  6. ^ a b c 今田 2015, p. 9より引用。
  7. ^ 川浪 2007, p. 33より引用。
  8. ^ a b c d e 今田 2015, p. 16より引用。
出典
  1. ^ a b c 山谷 1986, pp. 28–45
  2. ^ a b c 高橋 2007, p. 7
  3. ^ “句読点 北国のすごいばっちゃん 中川イセ(網走監獄保存財団理事長)”. 中日新聞 夕刊 (中日新聞社): p. 1. (1997年4月2日) 
  4. ^ 山谷 1986, pp. 77–86.
  5. ^ 山谷 1986, pp. 197–203.
  6. ^ 山谷 1986, pp. 106–117.
  7. ^ a b c d e f g h STVラジオ編 2003, pp. 257–268
  8. ^ a b 村島 2007, pp. 124–128
  9. ^ 山谷 1986, pp. 181–187.
  10. ^ 山谷 1986, pp. 240–244.
  11. ^ a b 石原 1993c, p. 2
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m 小檜山 1992, pp. 57–61
  13. ^ a b c d e f 石原 1993d, p. 2
  14. ^ a b c 石原 2007, p. 4
  15. ^ 天童市
  16. ^ a b c 石原 1993h, p. 2
  17. ^ 山谷 1986, pp. 93–94.
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  19. ^ a b c d e 石原 1993e, p. 2
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  22. ^ a b c d e f 石原 1993f, p. 2
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参考文献

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  • 石原宏治 (1993年10月23日). “私のなかの歴史 網走監獄保存財団理事長 中川イセさん 11 波乱万丈に生きて 終戦…網走市議選に立候補”. 北海道新聞 夕刊 
  • 石原宏治 (1993年10月25日). “私のなかの歴史 網走監獄保存財団理事長 中川イセさん 12 波乱万丈に生きて 市議に当選、水道の敷設に奔走”. 北海道新聞] 夕刊 
  • 石原宏治 (1993年10月26日). “私のなかの歴史 網走監獄保存財団理事長 中川イセさん 13 波乱万丈に生きて 日本鋼管にホラ吹き、水道完成”. 北海道新聞 夕刊 
  • 石原宏治 (1993年10月27日). “私のなかの歴史 網走監獄保存財団理事長 中川イセさん 14 波乱万丈に生きて 人身売買禁止へ徹底的に闘う”. 北海道新聞 夕刊 
  • 石原宏治 (1993年10月28日). “私のなかの歴史 網走監獄保存財団理事長 中川イセさん 15 波乱万丈に生きて 自民道連婦人部長引き受ける”. 北海道新聞 夕刊 
  • 石原宏治 (1993年10月29日). “私のなかの歴史 網走監獄保存財団理事長 中川イセさん 16 波乱万丈に生きて 網走のマチづくり見届けたい”. 北海道新聞 夕刊 
  • 石原宏治 (2007年1月27日). “哀惜 中川イセさん(網走市名誉市民、網走監獄保存財団名誉会長)1月1日死去 105歳 豪快「ばっちゃん」人生”. 北海道新聞 夕刊 
  • 川浪伸介 (2007年1月21日). “網走 ばっちゃん安らかに 中川イセさん市民葬に800人”. 北海道新聞 北B版朝刊 
  • 高橋まゆみ (2007年1月19日). “天童市出身の網走名誉市民・中川イセさん追悼 波乱の道、開き歩む”. 山形新聞 夕刊 (山形新聞社) 
  • 千龍正夫他 (2007年1月3日). “中川イセさん死去 逆境克服 網走に貢献 女性の地位向上にも尽力”. 北海道新聞 北B朝刊 
  • 渡辺隆一 (1992年10月22日). “生きる 中川イセさん(網走市の名誉市民)逆境克服の格闘人生”. 北海道新聞 夕刊 

外部リンク