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玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1964年12月10日)は、日本の海軍軍人海兵52期。最終階級は海軍大佐

玉井 浅一
50
生誕 1902年12月25日
大日本帝国の旗 大日本帝国 愛媛県松山市
死没 1964年12月10日
日本の旗 日本 愛媛県松山市
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1902 - 1945
最終階級 大佐(日本海軍)
除隊後 日蓮宗瑞応寺
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経歴編集

1902年12月25日愛媛県で玉井熊太郎の息子として生まれる。松山中学卒業後、1921年海軍兵学校52期に入学、1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生。1925年(大正14年)12月、海軍少尉任官。1927年12月中尉。1929年(昭和4年)11月飛行学生第19期生卒業、大村航空隊付。

1930年11月空母「赤城」乗組。1930年12月海軍大尉。1931年10月空母「加賀」乗組。1932年11月横須賀航空隊付。1934年2月空母赤城分隊長。1934年11月館山航空隊分隊長。1935年4月佐伯航空隊分隊長。1936年11月鹿屋航空隊飛行隊長。1937年12月少佐。1938年3月霞ヶ浦航空隊飛行隊長。1938年12月筑波航空隊飛行隊長。1939年12月百里原航空隊飛行隊長。1940年5月第14航空隊飛行隊長。1940年11月第14航空隊飛行長。

1941年9月筑波航空隊飛行長。1941年12月太平洋戦争勃発。

1942年(昭和17年)4月、第六航空隊飛行長に就任。同年11月、海軍中佐に昇進。1943年(昭和18年)9月、第二〇四海軍航空隊飛行長。

1943年10月、第二六三海軍航空隊司令に着任。1944年3月パラオ空襲を受け、部下の甲飛10期生の一人が体当たりするので爆弾を縛ってくれとごねた際に、玉井は「必ず体当たりさせるからその時まで待て」と制止した[1]

1944年(昭和19年)7月、第一航空艦隊(一航艦)第二〇一海軍航空隊副長。1944年10月山本栄司令の負傷に伴い、201空司令代行。 部下だった井上武によれば、玉井は温厚で大声で叱るようなこともなく、諭すような人だったという[2]

部隊がダバオに移動した8月ごろ、玉井は「もう体当たりの突破口しかない。貴様ら甲飛十期生がそれをやるのだ」と語った[3]

1944年9月には、一航艦司令部のあるダバオ沿岸にアメリカ軍が上陸したという誤報を信じて、一航艦がダバオから退避した事件(「ダバオ誤報事件」)が発生した。一航艦司令部からは撤退命令が下されたが、一発の砲声も聞こえないことを不審に思った玉井は混乱する一航艦司令部の指示を待たず、自ら零式艦上戦闘機を操縦して、ダバオ上空を偵察飛行しアメリカ軍上陸が誤報であったことをつきとめ、猪口力平一航艦首席参謀らに報告するとともに[4]南西方面艦隊司令部にも「飛行偵察の結果、ダバオ湾内には敵の艦船を認めず、海岸地帯にも異常なし」と打電している[5]

この不祥事件については、後日その調査のために軍令部参謀の奥宮正武中佐らが査察にダバオを来訪している。奥宮によれば、一航艦司令部に事情聴取を行なったが、司令の寺岡謹平中将や猪口ら司令部幕僚らは、ばつが悪かったのか多くを語らなかったが、玉井からは、「一発の砲声も聞こえなかった。敵機の姿もなかった。そこで、不審に思って、残っていた零戦を操縦して、サランガニ湾の内外を見たが、敵影はなかった。その結果、誤報であることが判明した」と詳細な状況説明があり、奥宮は明快な説明という感想を抱いた。玉井はさらに「陸・海軍を合わせて、大ぜいの参謀がいるのだから、誰か高いところに上がって、状況を確かめればよかった。机の上の作戦とはそんなものだよ。」と直接確認もせずに混乱していた司令部に苦言を呈している[6]

 
大西瀧治郎、玉井らと神風特攻隊・敷島・大和隊員との訣別の水盃。左から順に関行男ら特攻隊員。後姿の左が玉井、中央が大西。日映・稲垣浩邦カメラマンにより10月20日に撮影[7]

やがて、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍の大艦隊がフィリピンに進攻してきてレイテ島の戦いが始まった。連合艦隊捷一号作戦を発令し、残存戦力のすべてをつぎ込んで決戦をいどむこととした。そのような状況下で、1944年10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部に、一航艦長官に内定した大西瀧治郎中将が訪れて特攻隊編成に関する会議を開き、玉井も参加した。大西は「空母を一週間位使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した[8]。これに対して玉井は、山本司令が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は同意を得ていると伝え、同時に決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長の指宿正信大尉、横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと要望し、大西はそれを許可した[9]

神風特攻隊における指揮官の選定は、「海軍兵学校出身者を指揮官に」という猪口の意向を受けて、玉井は、再三再四にわたって熱心に戦局に対する所見を申し出て出撃を志願し「この先生なかなか話せる男」として強い印象を持っていた関行男大尉を提案した[10]。猪口は兵学校教官時代から関を知っており「関ならよかろう」と玉井に賛同し、猪口の賛同を得た玉井は、就寝中の関を起こしに従兵を関の私室に行かせた。やがてカーキ色の第三種軍装を身に着けた関が玉井の部屋を訪れたので、玉井は関に椅子をすゝめ、腰かけた関の肩を抱くようにして「今日大西長官が201空に来られ、捷一号作戦を成功させる為、空母の飛行甲板に体当たりをかけたいという意向を示された。そこで君にその特攻隊長をやってもらいたいんだがどうかね」と告げた[11]。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したとされているが[12]、玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたという[13]

特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛10期生を中心に33名を集めて特攻の志願を募り、最終的に24名の特攻隊を編成した[14]。玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願した立派な決意を示した顔は忘れられないと話している[15]。志願した山桜隊・高橋保男によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚。」という[16]。同じく志願者の井上武によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という[17]。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言するものもおり[18]、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた」と話している[19]佐伯美津男は「強制ではないと説明された。セブで100機近く零戦を失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった。」と話している[20]

玉井の部下だった甲飛10期生らは、神風特攻隊の創始者は大西ではなく玉井と考えている。その理由として、特攻隊の編成、人員配置、命名が19日夜半のわずかな時間で手際よく行われ、人員の組み合わせも親しいもの同士、長く同じ隊にいたものであり現場を熟知した内容だったこと[21]、また玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早くから体当たり攻撃を提唱して甲飛10期生にもう特攻しかない、必ず機会をやると話していたことを挙げている[22]

10月20日この最初の神風特攻隊が編成され出撃したが、敵艦隊を発見することができなかった。その後、4度目の出撃で関率いる敷島隊の6機は、サマール沖海戦を戦った直後のタフィ―3を発見し突入した[23]。内1機がアメリカの護衛空母セント・ローを撃沈、他にも大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機等が次々に突入し、護衛空母1隻大破、2隻中破、2隻に損傷を与えるという、出撃機数が少数であったのにも拘わらず大戦果を挙げた[24]。出撃した特攻機が14機に対し、特攻に成功したのが7機で有効率50%と高い有効率となった[25]

こののち、神風特攻隊は拡大していき、341空の小野正夫によれば、玉井は特攻隊員に対して「お前たちだけ殺すようなことはしない。必ず俺たちも後に続くから」と語っていたという。一方で201空の笠井智一によれば、玉井は自分の部下にはそういったことは言っていないという[26]。 同盟通信報道班員小野田政によれば、21日に未帰還となった久納好孚が新聞に書かれないことがかわいそうだから書いてくれと玉井から頼まれたという。玉井は人情家で、戦果がはっきりしないからという理由で久納が報道されないこと気にしていたという[27]

特攻は連合軍に大損害と衝撃を与えたが、連合軍の戦略に対しては多少の遅滞効果を生じさせたに止まり、レイテ島は連合軍の手に落ちた[28]。次いで1945年1月1日、マッカーサー自らが指揮する連合軍大艦隊が、ルソン島攻略のため出撃したが、その艦隊に対しても特攻機は出撃を繰り返し、1月4日、神風特攻旭日隊の彗星が護衛空母オマニー・ベイを撃沈した[29]。1月6日に連合軍艦隊はリンガエン湾に侵入したが、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍艦隊は多大な損害を被った[30]。マッカーサーが乗艦していた軽巡洋艦ボイシも特攻機に攻撃されたが損害はなかった[31]。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と特攻がルソン島の戦い帰趨きすうを左右するような威力を有していると懸念している[32]

玉井は1945年1月に201空司令に昇進し特攻の指揮を執っていたが、263空時代は若い搭乗員に声を荒げることもなく、誰一人として悪く言う者がなかった温厚な玉井も、部下が特攻でどんどんと戦死していく状況で態度が一転して厳しくなっていった。玉井の教え子であった甲飛10期生の磯川質男上飛曹は10月21日に神風特別攻撃隊「朝日隊」として出撃しながら不時着し、1か月後にマバラカットの201空基地に生還した。11月末に201空の一部の搭乗員が日本本土に引き上げることとなり磯川もそのなかの一人として輸送機に乗り込もうとしていたが、そこを玉井に呼び止められた。すでに海軍省が磯川の特攻戦死二階級特進を発表していたので玉井は「貴様は特攻で死んでもらわなければならない」と内地には帰らせず、特攻出撃させることを告げている。その後、磯川は何度か出撃しながら特攻で戦死することはなく、結局は内地に引き上げ、1945年5月末に大村湾上空でアメリカ軍夜間戦闘機との空戦で撃墜されて戦死した[33]。リンガエン湾に侵入してきた連合軍艦隊に特攻出撃した後藤兵曹が、敵艦に特攻せずに上空で爆弾を投下して帰還したときには、玉井は後藤が帰還するなり防空壕に連れ込み半日近く叱責したという、後藤はその夕方に再度出撃し戦死している[34]

第1航空艦隊は1月6日の出撃で稼働機をすべて出撃させた。司令の大西はその夜に玉井と中島を自分の私室に呼び、玉井に大西と共に陸戦隊として山中で連合軍を迎え撃ち、中島には特攻の戦訓を伝達するためにフィリピンを脱出することを命じた[35]。玉井は大西とともにフィリピンの山中で死ぬまで戦うことを決意したが、その直後に連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」となかなか同意しなかったが[36]、最後は大西が折れて台湾に撤退することとし、玉井も第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員とともに大西に同行することとなった[37]

台湾に転進しても第1航空艦隊は特攻を継続し、第1航空艦隊の残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成され、玉井も引き続き指揮を執った。1月21日に台湾に接近してきたアメリカ軍機動部隊に対し神風特別攻撃隊「新高隊」が出撃、少数であったが正規空母タイコンデロガに2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆し沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、ディクシー・キーファー英語版艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続け、沈没は免れた[38]

 
玉井が指揮した神風特別攻撃隊「大義隊」の零戦の突入で炎上するイギリス軍空母フォーミダブル

1945年2月に、フィリピンより脱出した搭乗員と大本営の命令により重爆撃機や輸送機を駆使してフィリピンから救出された搭乗員を基幹として台湾で編成された第二〇五海軍航空隊の司令に着任。その後、台湾の戦闘302飛行隊、戦闘315飛行隊、戦闘317飛行隊が編入され、航空機の定数は144機の相当な規模の航空隊となったが、実際は3月10日の時点で搭乗員112名、稼働機は20数機に過ぎなかった。それでも3月末になって連合軍が沖縄に侵攻し沖縄戦が開始されると、205空は神風特別攻撃隊「大義隊」を編成、玉井は前進飛行場のある石垣島に前進、副官の鈴木実少佐は宮古島に進出して特攻の指揮を執った。しかし機材の補給が少なかったことから大規模出撃はできず、多くは10機以下の小規模出撃に止まった。それでも、主に先島諸島周辺海域で台湾をけん制していたイギリス軍の機動部隊に激しい攻撃を加えて、空母インディファティガブルイラストリアスフォーミダブルインドミタブルヴィクトリアス と沖縄に進撃してきた5隻の正規空母すべてに損傷を与えて、多数の死傷者と艦載機の損失を被らせている。一方、205空大義隊は終戦までに32名の特攻戦死者を出している[39]

フィリピンに引き続き台湾でも司令として特攻の指揮を執ることになった玉井であるが、フィリピンのときとは打って変わって穏やかな人柄となった。特攻隊が出撃するたびに司令の玉井は訓示をしたが、勇ましい言葉はなく「出撃するときはサイダーは1本ずつだよ」などと静かな口調で話し、出撃する特攻隊員ひとりひとりに「しっかり頼むよ」と語りかけたが、気合の入った口調ではなく、まだ四十代の年齢であったがおとなしいお爺さんのような感じであったという[40]

205空は航空機を使い果たし、終戦前には台中市の新社基地で畑を耕して自活生活をはじめていたが、玉井は見晴らしのいい官舎脇の木陰で椅子に座りながら仏教の本を読んでいることが多かった。そんなある日、205空の林大尉が夜に玉井と話しをする機会があったが、玉井は、神風特攻隊を編成したときの苦悩を語り、また、特攻隊として送り出した隊員の名前を全員暗記しており、常に暗唱して心に留めていると話したという。玉井は人を寄せ付けず一人でいることが多かったが、それは玉井が苦悩を抱いているからだと林は部下の長田利平一飛曹に説明している[41]

1945年8月、終戦。9月、ポツダム進級により海軍大佐。1946年(昭和21年)1月、予備役編入。

玉井は故郷松山に復員したが、故郷の人たちの、多くの若者に死を命じながら自分だけは生還した玉井を見る目は厳しかったという。終戦後には、特攻に関係した将官・高級士官の自決が相次いだ、第五航空艦隊司令として沖縄戦の特攻を指揮した宇垣纒中将は、中津留達雄大尉以下11機の彗星を連れて終戦後に特攻に出撃し死亡[42]、神風特別攻撃隊を玉井らと創設した大西は遺書を残し割腹自決し、介錯と延命処置を拒み続けたまま8月16日日夕刻死去[43]。他にも、陸軍航空本部長寺本熊市中将が「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決、前第4航空軍参謀長で陸軍航空審査部総務部長隈部正美少将[44]航空総軍兵器本部の小林巌大佐、練習機『白菊』特攻隊指揮官、高知海軍航空隊司令加藤秀吉大佐[45]、飛行教官として多数の特攻隊員を訓練し、軍令部参謀として大西と一緒になって特攻主体の本土決戦を準備していた国定謙男少佐[46]など航空関係だけで58名が自決[47]、そして1948年には特攻兵器桜花神雷部隊司令岡村基春大佐も自殺しており[48]、前海軍次官で終戦時軍事審議官だった井上成美大将は、戦後に続いた将官・高級士官の自殺を「責任の地位にある者が自殺するのは、当人の自己の生涯は飾れ満足かも知れないが、これが自殺流行の風潮となり、誰も今後のことを顧みなくなるのは国家の大きな損失である」と憂いている[49]

しかし玉井は終戦直後に自決したかつての上官大西の遺書のなかの「軽挙は利敵行為」「自重忍苦するの誠」「日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を盡せ」という言葉に大きな影響を受け、生き残った者としての務めを果たそうと模索していた[50]。玉井の実家は1945年7月26日の松山大空襲で焼失し、妻とふたりの娘は焼け跡のバラックに居住していたが、そこに玉井は突然帰ってきた。ふたりの娘が物心ついたときには玉井は戦地にいることが多く娘にほとんど父に対する思い出がなかったことや、玉井も娘に積極的に語り掛けることもなく娘が玉井になつくことはなかった。また高齢で公職追放もあって就職もままならず、松やにを採取して塗装屋に販売するなどの家業で日銭を細々と稼いでいたが、生活苦で娘の心も荒んで、娘からはろくに働いていないように見えた玉井に激しく反発し、玉井が娘に手を上げることも少なくなかった。生活費の不足分は家のものを質屋に持ち込んでどうにか補っていたが、玉井が大事にしていた海軍の礼装だけは、軍人のものが何の値打ちもなくなったご時世のため、質屋から「こんなもの誰が買うか」と断られ、この礼装はそのまま玉井の遺品となって娘の手元に残ることとなった[51]

そんな生活を12年も続けたのち、1958年に玉井は、ある人から戦場で殺した部下の霊を弔わなければ、あなたは一生何をしても浮かばれないと言われ、久万の山寺の小坊主から修行して[52]1958年(昭和33年)愛媛県松山市にある日蓮宗瑞応寺の住職(法名・日覚)となり、自らが特攻命令を下した部下の冥福を祈る日々を送った。毎朝5時から、寺の境内で自らの身体を痛めつけるような水垢離の修行を、氷が張る真冬も1日も休むことなく続け、家族が心配して止めても決して聞かなかったという。その後に自らの命令で死んでいった特攻隊員たちの名前を読み上げ、その霊を慰めた[53]。しかし、出家後の玉井に会いに行った甲飛10期生の一人である高橋保男はそんな玉井を「仏門に入るなんて卑怯」と批判している[54]

1964年(昭和39年)12月10日、日々行なっていた水垢離の後、心臓発作を発症し死去。玉井の長女の敏恵は「ただただ観音経をあげることで(特攻隊員の)供養をさせてもらったということですね。それだけしか罪滅ぼしができなかったでしょうからね」「特攻を命じなければいけない立場に置かれたから仕方なかったとはいえ、生きているべきではなかったんだけどなとは思いますけどね。でも、まぁ仏門に入れたというだけで、ちょっとでも救われたかなという気はしますね」と厳しい言葉を亡父に投げかけている。生活苦で玉井と娘との関係は悪く、あまり話すこともなかったが、玉井は亡くなる3か月前に、敏恵を1964年東京オリンピック聖火ランナーが松山市内を通るのでそれを見に行こうと誘っている。敏恵は父親からどこかに出かけようと誘われたことは今までなかったので、戸惑いながら小さい我が子(玉井からは孫)を連れて玉井と松山中心街に出かけた。そのときも玉井と敏恵の間に会話はほとんどなかったが、敏恵には玉井の表情がいつもより明るく見え、それが玉井との一番の思い出となった[55]

脚注編集

  1. ^ 御田重宝『特攻』講談社19-20頁
  2. ^ 御田重宝『特攻』講談社16頁
  3. ^ 御田重宝『特攻』講談社19-20頁
  4. ^ 猪口 & 中島 1951, 電子版, 位置No.330
  5. ^ 奥宮正武 1996, 電子版, 位置No.859
  6. ^ 奥宮正武 1996, 電子版, 位置No.912
  7. ^ 金子敏夫 『神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実』 光人社NF文庫、2005年。P54 - 55
  8. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111
  9. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111、森史朗『特攻とは何か』文春新書75-82頁
  10. ^ 猪口 & 中島 1951, 電子版, 位置No.768
  11. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.85
  12. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p113
  13. ^ 文芸春秋編『完本太平洋戦争下』124頁
  14. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁
  15. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p112
  16. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書105-107頁
  17. ^ 御田重宝『特攻』講談社15-16頁
  18. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁
  19. ^ 渡辺大助『特攻絶望の海に出撃せよ』新人物往来社36頁
  20. ^ 『零戦、かく戦えり!』零戦搭乗員会編 文芸春秋307-308頁
  21. ^ 御田重宝『特攻』講談社23頁
  22. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書84-85頁
  23. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.338
  24. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.390
  25. ^ 生出寿 2017, p. 82
  26. ^ 生出寿 2017, p. 100
  27. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年62頁
  28. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 170
  29. ^ ウォーナー 1982a, p. 301
  30. ^ ウォーナー 1982a, p. 308
  31. ^ マッカーサー 2014, p. 314
  32. ^ ペレット 2016, p. 852
  33. ^ 生出寿 2017, p. 101
  34. ^ 神立 & 大島 2015, p. 348
  35. ^ 猪口 & 中島 1951, 電子版, 位置No.2265
  36. ^ 生出寿 2017, p. 187
  37. ^ 猪口 & 中島 1967, pp. 166-168
  38. ^ ウォーナー 1982a, p. 338
  39. ^ 伊沢 1975, p. 166
  40. ^ 神立 & 大島 2015, p. 348
  41. ^ 神立 & 大島 2015, p. 346
  42. ^ 豊田穣 1979, 電子版, 位置No.2923
  43. ^ ウォーナー 1982b, p. 271
  44. ^ 新人物往来社 1995, p. 202
  45. ^ 島原落穂 1990, p. 122
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  50. ^ 神立 & 大島 2015, p. 345
  51. ^ 神立 & 大島 2015, p. 345
  52. ^ 生出寿 2017, p. 100
  53. ^ 神立 & 大島 2015, p. 349
  54. ^ 生出寿 2017, p. 100
  55. ^ 神立 & 大島 2015, p. 350

参考文献編集

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 御田重宝『特攻』講談社
  • 森史朗『特攻とは何か』文春新書
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  • 奥宮正武『日本海軍が敗れた日〈下〉―レイテ沖海戦とその後』PHP研究所、1996年。ISBN 978-4569569581
  • 冨永謙吾、安延多計夫『神風特攻隊 壮烈な体あたり作戦』秋田書店、1972年。ASIN B000JBQ7K2
  • 伊沢保穂、航空情報編集部『日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝』酣燈社、1975年。ASIN B000J9F9F8
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  • デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』上、時事通信社、1982a。ASIN B000J7NKMO
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  • 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡』米国戦略爆撃調査団 編纂、大谷内和夫(訳)、光人社、1996年。ISBN 4769807686
  • 生出寿『特攻長官 大西瀧治郎―負けて目ざめる道』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2017年。ISBN 978-4769830320
  • 豊田穣『海軍特別攻撃隊 特攻戦記』集英社〈集英社文庫〉、1980年。ASIN B00LG93LIM
  • 豊田穣『出撃』集英社〈集英社文庫〉、1979年。ASIN B00LG93LA0
  • 豊田穣『撃墜』集英社〈集英社文庫〉、1979年。ASIN B00LG93L6O
  • 草柳大蔵『特攻の思想―大西瀧治郎伝』グラフ社、2006年。ISBN 978-4766209532
  • 新人物往来社編『ドキュメント 日本帝国最期の日』新人物往来社、1995年。ISBN 978-4404022318
  • 阿川弘之『井上成美』新潮社、1992年。ISBN 978-4101110141
  • 木俣滋郎『桜花特攻隊 知られざる人間爆弾の悲劇』光人社〈光人社NF文庫〉、2001年。ISBN 4769823169
  • 島原落穂『海に消えた56人―海軍特攻隊・徳島白菊隊』童心社、1990年。ISBN 4494018147