石田和雄
石田 和雄(いしだ かずお、1947年3月29日- )は、将棋棋士、九段。2012年、引退。棋士番号は97。愛知県岡崎市明大寺町生まれ。岡崎市立竜海中学校卒業[1]。板谷四郎九段門下。竜王戦1組通算1期、名人戦A級通算4期。
石田和雄 九段 | |
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名前 | 石田和雄 |
生年月日 | 1947年3月29日(76歳) |
プロ入り年月日 | 1967年4月1日(20歳) |
引退年月日 | 2012年5月9日(65歳) |
棋士番号 | 97 |
出身地 | 愛知県岡崎市 |
所属 |
関西[-1973] →関東[1974-] |
師匠 | 板谷四郎九段 |
弟子 | 勝又清和、佐々木勇気、門倉啓太、高見泰地、渡辺大夢、加藤結李愛、鎌田美礼 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 石田和雄 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 4回 |
通算成績 | 680勝731敗(.482) |
竜王戦最高クラス | 1組(1期) |
順位戦最高クラス | A級(4期) |
2017年07月16日現在 |
棋歴編集
岡崎市の石材店で、五人兄弟の末子として生まれる[2]。父の岡崎淳一郎は、二宮尊徳像を多数作り、最盛期には1日8体を作っていたという[3]。
中学1年生から将棋に熱中[4]。板谷四郎に師事して、1962年に関東奨励会に入会し[5]、6級で指し始め、僅か5か月で3級、2年で初段。そこから20勝1敗で三段に昇段。三段リーグから、東西の人数の調整のため、関西に移り、関西三段リーグを4期で抜けてプロデビュー(同期の関東三段リーグの優勝は勝浦修であり、本来なら東西決戦の勝者が四段となる仕組みだったが、勝浦が二回目のリーグ優勝であったため、東西決戦を免除され、勝浦・石田ともに四段昇進となった[6])。
関西本部所属の棋士となる。「岡崎の天才児」と呼ばれた[7]。
1967年のプロ入り後も勢いは止まらず、1年目から順位戦で2年連続昇級し、B級2組へスピード出世。しかし、このクラスに7年停滞するスランプ状態を経験、その間に同年齢で石田がライバル視していた中原誠は名人を獲得する[8]。
1972年度、第3回新人王戦で、桐山清澄との決勝三番勝負を2-1で制し、棋戦初優勝。同棋戦では、4年後にも優勝(決勝で森安秀光を2-0で破る)。
1973年度(第23期)と1977年度(第28期)の王将戦でリーグ入り。しかし、残留はできなかった。当時の王将リーグは今より定員が1人多い8人によるリーグ戦だったが、定員の半数にあたる成績下位の4人が陥落となる難関であった。
1974年、心機一転を目指し、岡崎の実家を出て、東京に転居し、所属も東京に移る[9]。
1976年、順位戦でB級1組に昇級。1979年、順位戦A級へ昇級し、3期在籍する。石田が昇級した頃のA級には師匠の次男・板谷進がいたが、2年間で石田の2勝0敗であった。
1986年、東京を離れ、妻の実家があった千葉県柏市に転居する[10]。
第3期(1990年度)竜王戦の竜王ランキング戦3組で優勝。第2代竜王・羽生善治への挑戦権を争う本戦トーナメントでは、中原誠らを破り挑戦者決定三番勝負に進出するが、谷川浩司に0-2で敗れる。第1局は谷川の得意戦法である角換わりを堂々と受けて立っての敗戦であった(第2局は矢倉)。この頃は、順位戦でも好調で、1991年4月にA級に復帰する。しかし、1期で降級した。
翌年の竜王戦(第4期、1991年度)では、2組で準優勝し、本戦トーナメントに2期連続出場(初戦で敗退)。
46歳の時、加瀬純一七段の父親が経営していた「柏将棋センター」をうけついだ[11]。ここから、多くの若手有望棋士が生まれることになる。
棋風編集
人物編集
- 名古屋を本拠地とした板谷一門の一人。1984年、愛知県・三州岡崎葵市民の顕彰を受ける。
- 「石田流」を開発した「石田検校」とは無関係である。居飛車党なので石田流を指すこともない(将棋戦法の名前と同じ姓の棋士には他に矢倉規広がいる)。
- 1997年から1999年まで、日本将棋連盟理事。
- 普及面でも活動。千葉県柏市の柏将棋センターの師範を務めている。
- 内藤國雄門下として、2013年10月に棋士となった三枚堂達也は、幼少期に内藤の紹介で上述柏将棋センターに通い詰め、1歳年下の佐々木勇気としのぎを削った[14]。このような経緯もあり、石田は内藤門下の三枚堂に対しても、他の弟子と同様の待遇をもって接している。
- ポーカーフェイスが多いとされる将棋棋士では珍しく、対局中や対局後、愚痴や嘆きの言葉をよく発する。勝ったときにも素直に喜び、竜王戦の準々決勝で中原誠に勝ったときには大喜びで「私のような者が(タイトル戦の海外対局が行われる)ハンブルクまで行っていいんですかねえ」と口走って中原をますます落ち込ませた[15]。
- 1998年第11期竜王戦2組ランキング戦・対加藤一二三戦で、自玉に掛かっていた王手をうっかり放置したまま加藤の玉に王手を掛け「王手放置」の反則負けをしている。
- 趣味は家庭菜園[16]。
- 中日ドラゴンズのファンである[17]。
- 石丸謙二郎(俳優)は自身のブログで、お気に入りの将棋棋士として石田の名を挙げ、その特徴を細かに解説している[18]。
弟子編集
棋士となった弟子編集
名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
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勝又清和 | 1995年4月1日 | 七段 |
佐々木勇気 | 2010年10月1日 | 八段、A級在籍1期、棋戦優勝1回 |
門倉啓太 | 2011年4月1日 | 五段、棋戦優勝1回 |
高見泰地 | 2011年10月1日 | 七段、叡王1期 |
渡辺大夢 | 2012年10月1日 | 六段 |
(2023年3月9日現在)
女流棋士となった弟子編集
名前 | 女流2級昇級日 | 段位、主な活躍 |
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加藤結李愛 | 2018年7月7日 | 女流初段、棋戦優勝1回 |
鎌田美礼 | 2022年5月2日 | 女流2級 |
(2023年1月3日現在)
昇段履歴編集
昇段規定は、将棋の段級を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。
主な成績編集
通算成績編集
- 1411対局 680勝 731敗 勝率0.4819
棋戦優勝編集
- 優勝合計 4回
在籍クラス編集
- 竜王戦 自己最高 1組(1期)… 第5期
- 順位戦 自己最高 A級(4期)… 第38 - 40期、第50期
- 2006年4月にフリークラス宣言。
受賞編集
- 将棋大賞
- 第3回(1975年度) 連勝賞(13連勝)
- 第6回(1978年度) 敢闘賞
- 第40回(2012年度) 東京将棋記者会賞[19]
- その他受賞
- 愛知県・三州岡崎葵市民の顕彰 1984年
- 現役勤続25年表彰 1991年
- 将棋栄誉賞(通算600勝) 1999年6月
主な著書編集
- 詰将棋ドーンと200題 5・7・9手(1985年8月、大泉書店、ISBN 4-278-08161-8)
- なぜ疑問手か? イモ筋をプロ筋に!!(1980年6月、創元社、ISBN 4-422-75052-6)
- 三間飛車(2002年2月、木本書店、ISBN 4-905689-70-8)
- 棋士という生き方 イースト・プレス 2018年5月
脚注編集
- ^ 『東海愛知新聞』1979年4月6日。
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.17
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.15
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.20
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.41
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.58
- ^ 「将棋世界」2000年1月号付録
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.58
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.97
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.132
- ^ 『棋士という生き方』(イースト・プレス)P.239
- ^ “石田和雄九段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月25日閲覧。
- ^ 戻るに戻れぬ対局室 - 将棋ペンクラブログ・2013年10月29日
- ^ 佐々木勇気七段と高見泰地七段へ 2年連続ダブル昇級の弟弟子に送るエール - 勝又清和(文春オンライン 2021年4月9日)
- ^ 河口俊彦「人生の棋譜この一局」新潮文庫
- ^ 第2回柏将棋フェスティバル
- ^ 「将棋世界」1990年10月号
- ^ 石丸謙二郎 Off Time (2008-07-14 06:15)
- ^ “第40回将棋大賞が決まる!|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月25日閲覧。