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遠山 利景(とおやま としかげ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将明知城主。江戸幕府交代寄合旗本明知遠山氏の初代。

 
遠山利景
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 天文9年(1540年
死没 慶長19年5月20日1614年6月27日
別名 通称:勘右衛門、法名:自休
墓所 龍護寺恵那市明知町)
官位 従五位下民部少輔
幕府 江戸幕府
主君 織田信長徳川家康秀忠
氏族 遠山氏明知遠山氏
父母 父:遠山景行(一説には景玄[1])、母:三宅氏
兄弟 景玄友治利景、ほか
鈴木重直の娘
方景経景
女(中山照守室)、女(三田守綱室)
養子:一行 (景玄の子)

略歴編集

美濃国恵那郡明知に生まれる。父は遠山景行というが[2]、兄とされる景玄の子とも言う[1]。母は三河広瀬城主三宅高貞の娘[3]。室は三河足助城主の鈴木重直の娘で、その母は松平清康の養女(かつ妹)で家康の乳母である随念院(お久)。子に庶長子方景、次男として串原遠山氏から養子とした経景[4]がいたが、後述するように兄の遺児遠山一行養嗣子とした。

幼くして妙法山満昌寺[5]に入って僧となったが、元亀元年(1570年)12月28日の上村合戦武田軍の秋山虎繁に敗れた父景行は自刃し、兄の景玄も戦死。天正2年(1574年)の武田勝頼の家臣山県昌景の侵攻で明知城が落城した際に、もう一人の兄友治も討死にして累代が絶えたことから、家臣一同が相談して還俗させた[2]

通称を勘右衛門と称し、利景を名乗り、兄景玄の嫡男で遺児・一行を猶子として引き取る。 また一族の串原遠山氏串原城が武田氏の攻撃により落城した後、城主の子供の遠山経景を養子とし、共に各地で戦功を重ね、江戸幕府成立後に利景は交代寄合となった後、経景にその領地の中から吉良見村、猿爪村の五百石を分け与えた。その子孫は旗本明知遠山氏の家老として、経景の11代目の子孫の正景の代に「永田」と改姓し、代々幕末まで明知遠山氏を支えた。

同年の長篠の戦いの後、織田信忠岩村城を攻囲したが、その戦いにおいて利景は小里城を落とし、明知城を奪還した[2]

天正10年(1582年)の甲州征伐の際には、徳川家康の麾下に属して、一行と方景を伴って参加。そのまま河尻秀隆らと甲府の守りついていた所に、本能寺の変を知って帰還した[2]

この時、駿河国に赴き、江尻城にいた本多重次を訪ねて、今後は一族は徳川方に従うことを誓ったが、直後に羽柴秀吉より美濃金山城森長可に従い人質を出すように命ずる書状があり、一行の娘を金山城に人質として送った。しかし天正11年(1583年)、利景は密かに明知城を出て、三河足助城に移ると家康の麾下に入った。これを知った長可は激怒して質子の一行の娘を殺して屍を野原村の河原に晒した[2]。明知城は長可の手に落ちた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると、明知城は長可の家臣石黒藤蔵・関左門の2人が守っていたが、4月17日、利景は策を講じてこれを襲い、城を奪還すると共に首級15を挙げた。そのうち3つを小牧の家康本陣に送り、西尾吉次本多正信首実検をし、論功行賞で明知の所領安堵が認められた[2]。さらに加勢を受けて手薄な長可領を攻撃したが、長可の家臣各務元正の守る岩村城への攻撃は失敗し、逆に遠山半左衛門などが討ち取られたため、それ以上の侵攻は頓挫した。他方、真田昌幸を押し込めるための小諸城の守りに派遣された依田康国の配下には遠山一行もいた。

秀吉と織田信雄との和睦を機に終戦すると、秀吉の命令で明知城は戦死した長可の弟忠政の所領に加えられることになり、利景は再び追われて足助城の鈴木氏を頼った。天正16年(1588年)の冬、家康の使いとして信濃~甲斐~駿河を行き来していた一行は、信濃と甲斐の国境の平沢峠で大雪に遭って凍死。一行の一女は前述のように殺害されたため、明知遠山氏の嫡流である景玄系は断絶した。

天正18年(1590年)の小田原征伐に徳川軍の一員として従軍し、家康が関東転封されると、上総国で知行地をもらった[2]

慶長5年(1600年)、上杉景勝が命令に従わないとして家康が会津征伐を始めた際、徳川軍麾下として利景もこれに加わっていたが、石田三成が決起して関ヶ原の役が始まった。東美濃の諸大名は全て西軍に付いたため、家康は利景、遠山友政小里光親らを派遣して、故郷に戻り兵を挙げて城を奪うように命じた。利景は方景と帰郷すると、8月下旬、小里光親と共に明知城を包囲し、9月2日に守将は明知城を放棄して敗走したため追撃して首級13を挙げ、翌日小里光親小里城も落とした[2]。さらに共同で岩村城田丸直昌を包囲し、妻木頼忠が土岐砦と高山砦を陥した。15日に関ヶ原本戦が決着した後、田丸勢は投降し、友政が岩村城を接収し、夜が明けて諸将が撤収後は利景と家臣が岩村城を守備し、土岐砦は方景が守り、明知城には経景を入れて守せらせた。(東濃の戦い) その功で戦後に旧領回復を成し遂げて江戸幕府成立後の慶長8年(1603年)、美濃国恵那郡土岐郡において6,530石の知行地を朱印状で認められ交代寄合となり、伏見にて従五位下、民部少輔に任じられ、9月27日に家康が大坂城に入城した際には御奏者奉行を務めた[2]。遠山利景は飯高山満昌寺の焼け跡の荒廃を嘆いて明知遠山氏の菩提寺である龍護寺を開山した椽室和尚に再興を頼んだが再興を見ずして慶長19年(1614年)に死去、享年75。墓は自ら創建した臨済宗龍護寺。家督は方景が継いだ。

子孫編集

子孫は江戸末期まで、転封することなく旗本としてほぼ旧領(6500石)を維持。12代遠山景高は安芸守となりペリー来航時の浦賀奉行を務めた。曾孫からの分家筋からは“遠山の金さん”で知られる名奉行遠山景元が出ている。しかし双方とも養子を挟んでおり、血族ではない。

脚注編集

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  1. ^ a b 大日本人名辞書刊行会 1926, p.1805
  2. ^ a b c d e f g h i 堀田 1923, p.99
  3. ^ 村上道保氏蔵『明智年譜』
  4. ^ 後に紀州藩徳川頼宣の家臣。
  5. ^ 在美濃国山田村飯高(現岐阜県恵那市山岡町馬場山田)。

参考文献編集