高倉照幸

高倉 照幸(たかくら てるゆき、1934年12月8日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手外野手)。

高倉 照幸
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県熊本市
生年月日 (1934-12-08) 1934年12月8日(82歳)
身長
体重
172 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1953年
初出場 1953年3月24日
最終出場 1970年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

目次

経歴編集

熊本商業高校では2年生の時、中堅手として1951年春の選抜に出場。1回戦で浜田高を降すが、準々決勝(2回戦)では、この大会に準優勝した鳴尾高中田昌宏投手に抑えられ敗退。しかしこの大会唯一の本塁打を放ち注目される[1]。3年時はエースとして活躍するが甲子園には届かなかった。高校同期に坂本盛明がいる。卒業時に巨人阪神西鉄ライオンズの勧誘を受けるが、1953年に地元の西鉄に入団する[2]

入団後に野手転向。翌1954年には胸部疾患で欠場した塚本悦郎に替わって、強肩俊足を活かしてレギュラー中堅手となり、1957年からは一番打者に定着する。豊田泰光中西太大下弘関口清治らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年にリーグ優勝、稲尾和久が入団した1956年からは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原脩監督の下で築き上げた。1959年には初めて三割打者(.304。リーグ5位)となりベストナイン外野手に選出される。その後、1964年まで主に一番打者を務め、1963年には当時の日本プロ野球タイ記録である6本の先頭打者本塁打を放つなど、チームトップの27本塁打を放ち、1964年には打率.317(リーグ3位)を記録し二度目のベストナインに選ばれている。1965年オールスターゲーム第2戦では、決勝点となる二塁打を含む2安打を放ちMVPを獲得した。西鉄時代の後半には、中西の故障や豊田の移籍もあり打線の中軸を任されることも多くなった。中西が監督になるとキャプテンに任命され、チーム内外からキャップとのニックネームで親しまれた[3]

1967年には赤字に苦しむ球団の経費節減策の一環として、読売ジャイアンツからの譲渡要請に応じ、宮寺勝利(プラス金銭)との交換トレードで移籍する[4]。移籍一年目はONに続く五番・左翼手を任され、ONにもひけを足らない勝負強いバッティングで4割に迫る高打率をキープ。ファンからは西部からの用心棒と呼ばれて頼もしがられ、オールスターゲームもファン投票で選出された(故障のため辞退)。シーズン半ばで右関節炎でリタイヤし73試合の出場に終わるが、打率.274、15本塁打を記録、特に前半戦での活躍は目覚ましく、巨人の独走優勝に大きく貢献した[5]。また、日本シリーズでも日本一を決めた第6戦で2点本塁打を放ち技能賞を獲得した。

この年10月10日の対広島戦(後楽園)で高倉は通算1500本安打を達成。さらにこの試合において巨人は2回から7回にかけて高倉と堀内恒夫[6]瀧安治末次利光と合わせて日本プロ野球記録となる6イニング連続本塁打を記録しているが、新記録は7回に高倉が打ったこの日2本目の本塁打によって達成されている[7][8]

しかし1968年には強肩好打の高田繁が入団して左翼手に起用されて新人王を獲得。高倉は故障もあって出場機会が減少して、打率.212、2本塁打と不本意な成績に終わる。オフには球団からコーチ補佐兼スカウトのポストを提示されたとされるが、高倉は従わず自由契約となる。翌1969年に西鉄時代の同僚であった豊田泰光がコーチをしていたアトムズに移籍。外野の控えや代打として、1970年には打率.312を記録するが、頭部への死球後遺症や、監督に中西太を招聘するために高倉を戦力外にするとの球団方針もあり、現役を引退した。[9]

1971年にはTBSで、1979年から数年間はRKB毎日放送野球解説者を務めた。また1970年代後半には、西日本スポーツ野球評論家も務めている[10]。また、1977年からは福岡市中洲で高級スナックの「キャップ」を経営した[11]

1988年からは少年野球チームの福岡南リトルシニアの監督に就任、現在は会長・総監督を務めている[12]

選手としての特徴編集

先頭打者本塁打が非常に多く、また一番打者にかかわらず初球を打ってよく安打を放ったことから[13]切り込み隊長と呼ばれた。通算先頭打者本塁打は18本。1954年に当時毎日オリオンズエースであった荒巻淳を打ち崩したことをきっかけに左投げ投手を得意とし、左殺しとも呼ばれた[13]

強肩で同期入団の豊田からは「バカ肩」と評価されている。

人物編集

当時の西鉄選手に愛好者が多かった、俗に言う『飲む、打つ、買う』のいずれにも興味を示さず、機械いじりを趣味とした。部屋にカメラを大量に並べ、写真を撮るより、分解して再び組み立てることに熱中した。のちに機械いじりが高じて、人並み外れた熱烈なカーマニアとなり、フォルクスワーゲンシボレービュイックベンツと、昭和30年代としては異例とも言える1台数百万円する高級な輸入外国車ばかりを何台も買い漁った[3]。やはり運転ではなくエンジンルームの整備を好み、パーツの交換費などで年俸を食いつぶすほどであった。高倉の選手としての全盛時代を考えても、当時としては破格の金銭を車のために注ぎこんでいたと思われる。

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1953 西鉄 18 17 16 1 3 0 0 0 3 0 0 0 0 -- 1 -- 0 2 0 .188 .235 .188 .423
1954 90 271 255 28 65 15 4 3 97 16 5 6 7 0 7 -- 2 50 3 .255 .280 .380 .661
1955 136 459 427 59 118 18 1 17 189 71 33 9 0 1 27 0 4 57 7 .276 .325 .443 .767
1956 148 471 433 60 112 15 5 9 164 58 35 9 4 1 31 1 2 55 4 .259 .310 .379 .689
1957 120 449 412 76 115 25 3 11 179 39 17 6 7 3 27 0 0 53 3 .279 .321 .434 .756
1958 112 345 308 45 85 16 1 5 118 30 15 5 6 0 24 0 7 66 3 .276 .342 .383 .725
1959 121 474 434 60 132 16 6 5 175 34 17 5 9 3 27 1 1 62 3 .304 .344 .403 .747
1960 80 251 239 23 55 13 1 3 79 24 3 5 3 1 7 0 1 33 7 .230 .254 .331 .585
1961 121 522 485 76 146 23 5 15 224 37 18 9 4 0 29 2 4 65 12 .301 .346 .462 .807
1962 134 545 504 59 148 27 2 12 215 51 10 9 7 3 29 2 2 70 7 .294 .333 .427 .759
1963 143 611 560 80 142 19 3 27 248 62 12 8 7 1 37 2 6 62 12 .254 .306 .443 .749
1964 116 479 436 76 138 21 2 16 211 61 2 4 2 1 37 2 3 45 8 .317 .373 .484 .857
1965 74 304 286 32 76 17 0 9 120 31 1 4 2 0 15 0 1 42 3 .266 .305 .420 .724
1966 121 428 398 43 111 20 3 11 170 36 7 2 1 2 24 3 3 36 7 .279 .323 .427 .750
1967 巨人 73 249 226 30 62 8 2 15 119 44 1 0 1 4 17 0 0 34 11 .274 .320 .527 .846
1968 56 130 113 12 24 7 0 2 37 9 0 1 0 0 16 1 1 25 2 .212 .315 .327 .643
1969 アトムズ
ヤクルト
62 173 161 13 36 6 0 7 63 20 0 1 0 2 9 0 1 34 4 .224 .266 .391 .657
1970 68 165 138 9 43 5 0 1 51 17 2 0 2 4 19 2 2 17 1 .312 .393 .370 .762
通算:18年 1793 6343 5831 782 1611 271 38 168 2462 640 178 83 62 26 383 16 40 808 97 .276 .324 .422 .746
  • アトムズは、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更

表彰編集

記録編集

背番号編集

  • 31 (1953年)
  • 25 (1954年 - 1966年、1969年 - 1970年)
  • 10 (1967年 - 1968年)

脚注編集

  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』154頁
  3. ^ a b 『巨人軍 陰のベストナイン』152頁
  4. ^ 【12月4日】1970年(昭45)“切り込み隊長”高倉照幸引退 尾を引いた福岡時代のこと”. 2012年5月20日閲覧。
  5. ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』151頁
  6. ^ この日、投手初の3打席連続本塁打を記録し、9回2死からの打球を高倉が好守しノーヒットノーランを達成
  7. ^ 【10月10日】1967年(昭42) どっちがオマケ?前代未聞、堀内恒夫のワンマンショースポーツニッポン公式サイト2009年10月
  8. ^ 宇佐美徹也『日本プロ野球記録大鑑』講談社、435頁
  9. ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』162頁
  10. ^ 西日本スポーツ・1978年5月9日、第1面。『甦れ! 俺の西鉄ライオンズ』について同紙評論家として「…懐かしいな」コメントしている。
  11. ^ 『背番号の消えた人生』126頁
  12. ^ 福岡南リトルシニア”. 2012年5月20日閲覧。
  13. ^ a b 『背番号の消えた人生』121頁

参考文献編集

関連項目編集