中洲
中洲(なかす)は福岡市博多区の地名で、那珂川と博多川に挟まれた中州に位置する歓楽街。
概要編集
那珂川の流れに沿って北西から南東にかけて約1キロの細長い地形を呈する。北東から南西にかけての横幅は約200メートル。最寄り駅は福岡市地下鉄中洲川端駅。
北西から昭和通り・明治通り・国体道路(国道202号)が当該地域を貫き、それらに直角に交る中洲中央通りが歓楽街の中心。行政界として、昭和通りから北西が中洲中島町、昭和通りから南東が中洲(1-5丁目)で、中洲中島町を除いた地区が歓楽街に該当する。また那珂川の対岸は「西中洲」と呼ばれる。西中洲は「中洲の続き」という位置付けであるが、博多区ではなく中央区である。
九州最大の歓楽街で、「西日本一の歓楽街」ともされる[1]。また、東京の新宿・歌舞伎町、札幌・すすきのと並んで、日本を代表する三大歓楽街のひとつとされる[2]。
1991年に公開された映画『ゴジラvsキングギドラ』では周辺が舞台になり、大規模なロケーションが敢行された。
中洲と西中洲・天神を結ぶ「福博であい橋」からは、那珂川沿いのネオンサインの風景が見られる。
産業編集
中洲には全国の他の歓楽街と同じく、飲食店や、風営法対象業種であるクラブやキャバクラ(中洲では「ラウンジ」や「ニュークラブ」と言う)、セクシーパブ、バーなどが集積されている。
1996年、隣接する住吉地区にキャナルシティ博多が開業。1999年には隣接する下川端町に博多リバレインが開業。福岡玉屋は1999年に閉店したが2006年、跡地に複合商業施設gate'sが開業した。また隣接する川端通商店街にも多くの小売店や飲食店などが並ぶ。ホテルやカプセルホテル、インターネットカフェなどもある。
かつて中洲には映画館が集中していたが、現在は大洋映画劇場(中洲大洋)のみとなった。
- 最盛期(1960年代)の映画館
- 福岡大映劇場(福岡公楽映画劇場、福岡松竹ピカデリー1・2)、文化劇場(文化オークラ劇場、福岡オークラ劇場)、福岡宝塚会館(九州劇場→福岡日本劇場跡。福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡東宝シネマ・福岡東宝名画座)、有楽映画劇場、福岡日活劇場、大洋映画劇場、タマヤシネマ(福岡玉屋内)、博多日活劇場(福岡グランド劇場)、中洲映画劇場、福岡東宝劇場、福岡松竹映画劇場、福岡東映劇場、福岡東映パラス、多門日活(多聞座)、ハリウッド映画劇場、テアトル川丈、福岡SY松竹座
南端の南新地地区(中洲1丁目)はソープランドなど風俗店が集積し、いわゆるソープ街を形成する。那珂川沿いに整備された遊歩道には屋台が立ち並ぶ。
風適法上の扱い編集
風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)のもとで福岡県が制定した「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」(昭和59年12月28日 条例第30号)[3]において、中洲について以下のような指定がなされている。
行事編集
歴史編集
慶長年間、福岡藩初代藩主の黒田長政が、福岡(現在の中央区)と博多(現在の博多区)を結ぶために、中の島(中島町。現在の中洲中島町近辺)の東西に東中島橋と西中島橋(現在の昭和通り)をかけて整備された。当初は魚町流(福神流)に属し、町人町である博多の一部とされた。中島町から西中島橋を渡って福岡入りする箇所には城下町防御のため枡形門が置かれた。
博多湾に面する北西端には長崎警護の船を係留する御船入が設けられたが、砂が堆積し用をなさなくなり、寛政3年(1791年)には新御船入が現在の博多中学校の位置に新設。中の島の古御船入は1820年(文政3年)頃に埋められ(浜新地)、1834年(天保5年)の福岡藩藩政改革では発行した銀札を流通させるため中島町・浜新地一帯が繁華街として整備され、芝居・相撲・富籤がおこなわれた。同年秋には市川團十郎が『仮名手本忠臣蔵』を上演。また茶屋なども集まった。1847年(弘化4年)には黒田長溥により藩営精錬所が設けられる。
一方現在の中洲(当時は東中洲と呼ばれた)の大半は18世紀半ばまで畑であり、福岡市制が始まる1889年(明治22年)までは那珂郡春吉村の一部であった。
明治時代になり、中洲には福岡病院(九州大学病院の前身)や博多電灯本社、福岡電話局などが開設される。1874年(明治7年)には常設芝居小屋が設立され、明治30年代には次々と劇場が建てられた。さらに1913年(大正2年)からは映画館が続々と立てられ、繁華街として発展。1925年(大正14年)には玉屋デパートが開業。
1897年(明治30年)から券番(検番。芸妓と客を取り持つ事務所)が複数設立された。大正時代の初期から都市化が進み、昭和モダンの影響でカフェやバーも増えていった。中でも1934年(昭和9年)に開店した「ブラジレイロ」は文学サロンとなり、火野葦平、夢野久作、原田種夫らが足を運んだ。
1907年には与謝野鉄幹や北原白秋ら文学人5人が九州各地を旅行中、中洲の川丈旅館に宿泊。この時の紀行文は『五足の靴』として出版された。
1945年(昭和20年)の福岡大空襲では南新地の一部を除いた中洲全域が罹災。しかし同年末から映画館が復興。劇場も復活。映画館は1956年には17館も立ち並んだ。券番も復活。またスナックやキャバレーも激増。また南新地にはソープランドなどが増加した。
なお、1956年から1959年までの間、花の関ビル上階に久留米市にあったラジオ局の九州朝日放送(KBC)が移転。テレビ開局に伴い長浜に再移転するまでここで放送していた。
かつて中洲は「なかず」と濁音で呼ばれたとされる。清音の「なかす」が正式になった時期は不明だが、今でもこだわりをもって「なかず」と呼ぶ人もいる。
2020年(令和2年)6月、新型コロナウイルスの感染が全国的に拡大。中洲でもキャバクラの利用客や従業員から陽性患者が現れたため、福岡市はキャバクラやスナックなど約920店を対象として従業員らのPCR検査の受検を要請。最終的に受検者数は約400人にとどまったが、それでも前例のない大規模な対策となった[4]。
脚注編集
- ^ 中洲 西日本一の繁華街
- ^ 九州最大、西日本一の歓楽街を有する「中洲川端」エリア。飲食店出店のポイントは?
- ^ 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例 福岡県例規集、2011年1月1日現在、2014年9月23日閲覧。
- ^ “PCR検査を中洲の400人に 対象920店の従業員 市長「評価難しい」”. 西日本新聞 (2020年7月2日). 2020年7月3日閲覧。
関連項目編集
- 中洲産業大学 - タモリが初期の持ちネタとして用いた架空の大学
- 雑餉隈 - 第2の中洲と呼ばれている。
- 龍が如く5 夢、叶えし者 - 中洲をモデルにした永洲街が舞台となっている。