別所温泉

Hot springs 001.svg別所温泉
Entrance to Bessho Onsen.JPG
別所温泉入口
温泉情報
所在地 長野県上田市大字別所温泉
交通 鉄道:北陸新幹線しなの鉄道線上田駅にて、上田電鉄別所線に乗り換え、終点別所温泉駅下車
泉質 硫黄泉
テンプレートを表示

別所温泉(べっしょおんせん)は、長野県上田市にある温泉。標高570mの高地にある信州最古の温泉で、日本武尊が7か所に温泉を開き「七苦離の温泉」と名付けたという伝説から「七久里の湯」とも呼ばれる[1][2]

目次

泉質編集

効能編集

  • 一般的適応症、慢性皮膚病、慢性婦人病、きりきず、糖尿病など。
※注 効能は万人に対してその効果を保証するものではない。

温泉街編集

共同浴場外湯)を中心に栄え、現在も3つの共同浴場「大湯」・「大師湯」・「石湯」が存在する。温泉街は大湯を中心とする「大湯地区」(別所温泉駅から徒歩7~8分程度)と北向観音周辺の「院内地区」(別所温泉駅から徒歩15分程度)に分かれているが、相互の距離は近く、10分足らずで行き来できる。大湯は木曾義仲、大師湯は円仁(慈覚大師)、石湯は真田幸村ゆかりの湯(後述)として知られている。江戸時代には更に大湯地区に「長命湯(玄斉湯)」、院内地区に「久我湯」が有ったが、1929年までに各温泉旅館が「長命湯(玄斉湯)」・「久我湯」から引湯し、全旅館が内湯を整備したため現存していない。また院内地区において上田市営の温泉施設(社会福祉施設・外湯)として1972年開業の「相染閣」が営業していたが、施設老朽化により「分去地区」の別所温泉駅近傍、市営駐車場跡地(旧上田市立別所小学校(1996年3月統合廃止)元校地)に移転、2008年、公共温泉施設「相染閣別所温泉あいそめの湯」として再開業した。また2004年7月には足湯「ななくり」、2012年2月には足湯「大湯薬師の湯」が設置されている。また温泉を利用した旧別所村住民用の洗い場(洗濯場)が13ヶ所ある。別所温泉には12の小字があり、そのすべてに洗い場が設けられている。

別所温泉を含む上田周辺は養蚕の活況で古くから賑わっていたため、明治時代には30を超える宿があった[3]。養蚕業の衰退とともに次第に数は減っていったが、2014年現在も約20軒の宿が営業する。伝統のある宿は、たいてい元蚕種屋で、湯治客に家の一部を間貸していたことから始まる[4]。周辺には山菜松茸を産する山林が多数あり、通年営業の料亭があるほか、秋には「松茸小屋」と呼ばれる松茸料理を提供する季節営業の専門店が山林内に設けられる。

地区編集

上田市大字別所温泉(小県郡旧別所村・小県郡旧塩田町大字別所)の下に4地区があり、4自治会を構成する。これとは別に小字が12ある。別所温泉の祭事「岳の幟」はこの4地区が一年交代で当番となり実施される。

  • 分去(わかされ) 別所温泉駅・あいそめの湯周辺。
  • 大湯(おおゆ)
  • 院内(いんない)
  • 上手(わぜ) 温泉街を流れる湯川の上流部周辺。この地区には洗い場があるのみで、温泉旅館・浴場はない。

別所温泉財産区編集

別所温泉の源泉、共同浴場「大湯」・「大師湯」・「石湯」、足湯「ななくり」・「大湯薬師の湯」及び13ヶ所の住民用洗い場(洗濯場)を所有・管理する特別地方公共団体として別所温泉財産区がある。別所温泉の所有者は別所温泉財産区であり、別所温泉の管理者は上田市長である。江戸時代、別所温泉の源泉は上田藩によって保有されていたが、1871年(明治4年)の廃藩置県の後、源泉は国有となった。1889年(明治22年)には小県郡別所村に温泉や共同浴場の維持・管理に当たる鉱泉組合が作られたが、大正時代初期まで別所村が国に源泉の借料を支払って温泉を運営していた。1916年(大正5年)、源泉が国から別所村に払い下げられ、以後源泉は別所村の村有となった。1956年(昭和31年)5月1日 、別所村と西塩田村東塩田村中塩田村が合併し塩田町が発足したが、同町設立に際し、源泉や共同浴場など温泉財産については塩田町に移管せず、引き続き旧別所村をもって所有者とする旨合意された。ここに地方自治法第三篇 第四章294条297条)の規定に基づき、特別地方公共団体として別所温泉財産区が設立された。1970年(昭和45年)4月1日に塩田町が上田市に編入された際にも引き続きこの合意が維持され、別所温泉財産区が存続し現在に至っている。

  • 財産区設立年月日 1956年(昭和31年)5月1日
  • 財産区の区域 長野県上田市大字別所温泉(小県郡旧別所村)
  • 源泉所在地 長野県上田市大字別所温泉1698番地
  • 財産区事務所所在地 長野県上田市大字別所温泉1700番地の1
  • 財産区管理者 母袋創一(上田市長。2002年3月28日~2006年3月6日、2006年4月9日~)
  • 議会 別所温泉財産区議会(地方自治法第295条の規定による)
    • 定数10・任期4年(上田市別所温泉財産区議会設置条例の規定による)。
  • 諮問機関 別所温泉財産区運営審議会
    • 委員11人以内(上田市別所温泉財産区運営審議会条例の規定による)。

歴史と伝承編集

 
安楽寺八角三重塔

開湯時期は不明だが、古代から存在していたものと見られる。

伝説では景行天皇の時代、日本武尊の東征の折りに発見されたと言われ、「日本最古の温泉」・「信州最古の温泉」の一つに挙げられている。『日本書紀』には天武天皇が「束間温湯」に行幸し入湯しようとした際、皇族の三野王(美努王)に信濃の地形図を献上させ、軽部朝臣足瀬らに命じて行宮の造営を計画したとの記事があるが、この「束間温湯」が現在の別所温泉であるという説があり、北向観音山門前に「束間温湯」に関する解説板が立てられている(「束間温湯」については「束間」が「筑摩」に音通することから松本市美ヶ原温泉浅間温泉を指すものとする見解が通説となっているが、開湯時期がそれぞれ奈良時代平安時代後期と見られるため、天武天皇の時代には存在していなかった可能性がある。また神話に開湯の由来がある扉温泉のことと考える説もある)。平安時代清少納言が随筆『枕草子』(能因本)において「湯は七久里、有馬の湯(兵庫県)、玉造の湯(島根県)」(三名泉)と賞賛している「七久里(ななくり)温泉」が、この別所温泉のことを指すという説がある。

平安時代末期には木曾義仲が入湯したとの伝説がある。鎌倉時代には周辺の塩田平を本拠とした塩田北条氏建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺北向観音が創建された。また信濃御湯として、名取御湯三函御湯または犬養御湯とともに三御湯に数えられた。順徳天皇の著作『八雲御抄』には「七久里の湯は信濃の御湯と同じ」という記述もみえ、これについては別所温泉のことを示しているとする説が一般的である。戦国時代には上田城主・真田氏とその家臣団が入湯していたという記録がある。江戸時代には上田藩主と家臣団が入湯。藩主の休息・湯治用施設であった通称「温泉屋敷」と庭園などが「大湯」脇に一部現存しており、調査が行われている(現在、温泉屋敷跡地は同地に開業した旅館の所有となっており、非公開)。また「御湯坪」として記録されている藩主・家臣用浴室は現在の「大湯」である。近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、「信州の鎌倉」と例えるようになった。

作品との関わり編集

小説の舞台編集

近代以降、有島武郎川端康成ら多くの文人が訪れ、川端は『花のワルツ』(1936年刊行)を別所温泉の旅館で執筆している。1923年には北原白秋が逗留し百首以上の歌を詠み、後年北向観音に歌碑が建てられている。また旅行記や随筆の題材に取り上げたり、断片的に残る別所温泉にかかわる史実や伝承を作品に取り入れた文人も少なくない。吉川英治は『新平家物語』において義仲が愛妾の葵御前を連れて「大湯」に入湯する場面を描いている。史料上の根拠はないが、「大湯」は「葵の湯」と宣伝されるようになっており、「大湯」の傍らには吉川の文学碑も建てられている。また戦国武将真田昌幸真田信之真田幸村関連の作品を数多く執筆した池波正太郎は取材のためたびたび上田市や別所温泉を訪れ、代表作の一つとなった『真田太平記』においては「真田幸村が「石湯」に頻繁に入湯していた」という設定を導入している。ただ幸村と別所温泉のゆかりについての史料上の根拠は確認されていない。こちらも『新平家物語』同様小説の中のフィクションに留まっているものの、宣伝効果を生んでおり、「石湯」は「真田幸村公隠しの湯」と形容されるに至っている。現在「石湯」前に立つ石碑の文字も池波の筆によるものである。

  • 池波正太郎の長編小説「真田太平記」において、若き日の真田幸村が入浴に訪れるなど、重要な場面にしばしば登場する。
  • NHK大河ドラマ「風林火山」 第37回の風林火山紀行では「枕草子にも記された温泉」として紹介された。

ロケ地編集

ほか多数。

アクセス編集

※千曲バスは上田駅から立川駅京都大阪方面への高速バスも運行している。

脚注編集

関連項目編集

外部リンク編集