上田電鉄別所線
別所線(べっしょせん)は、長野県上田市の上田駅から別所温泉駅までを結ぶ上田電鉄の鉄道路線である。かつて側面に丸窓を持つ「丸窓電車」が走っていたことで知られ、同電車の運用終了後も丸窓は当路線を象徴する意匠となっている。
別所線 | |
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![]() 上田電鉄1000系
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概要 | |
起終点 | 起点:上田駅 終点:別所温泉駅 |
駅数 | 15駅 |
運営 | |
開業 | 1921年6月17日 |
全通 | 1924年8月15日 |
所有者 | 上田電鉄 |
使用車両 | 車両の節を参照 |
路線諸元 | |
路線総延長 | 11.6 km (7.2 mi) |
軌間 | 1,067 mm (3 ft 6 in) |
電化 | 直流1,500 V 架空電車線方式 |
停車場・施設・接続路線 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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目次
概要編集
開業から上田丸子電鉄の成立まで編集
1920年に設立された上田温泉電軌により、翌1921年、別所温泉・田沢温泉・沓掛温泉への湯治客を輸送する軌道線として三好町(現在の城下) - 上田原 - 青木間の「青木線」と、上田原 - 別所(現在の別所温泉)間の「川西線」の2路線が開業した。1924年には国鉄上田駅に乗り入れ全通した。1938年に上田原 - 青木間が廃止となり、上田 - 上田原間も川西線に編入。1939年、地方鉄道法による鉄道となり、川西線を改め「別所線」と称するようになった。また同年社名を「上田電鉄」(初代)と改称、さらに1943年には丸子鉄道(1916年設立)と合併。上田丸子電鉄となり、上田市・小県郡地域に別所線のほか西丸子線・丸子線・真田傍陽線の計4路線48.0kmに及ぶ路線網を有するに至った。
経営難と欠損補助編集
これらの路線のうち、丸子線は生糸や軽工業製品、真田傍陽線は農産物を国鉄信越本線大屋駅・上田駅や上田市中心部に輸送する貨物主体の路線であったが、1960年代にはいずれも自動車による輸送に切り替えられるようになり、旅客収入のみでの経営は困難となっていた。また西丸子線は開業当初から経営難であったが、1963年、自然災害をきっかけとして廃止された。以後モータリゼーションの進展による貨物輸送の減少等により1969年には丸子線、1972年には真田傍陽線も相次いで廃止となった。別所線は旅客輸送主体の路線[1]であり、貨物輸送にはほとんど依存していなかったものの、自家用車の普及が進む状況においては丸子線・真田傍陽線同様に車社会化の影響は避けがたい状況となっていた。1973年には乗客減等を理由に上田交通(1969年に上田丸子電鉄から社名変更)より廃止の方針が示されるに至り、沿線住民による廃止反対・路線存続運動が起こったが、1974年以降地方鉄道軌道整備法(現・鉄道軌道整備法)に基づく国・長野県及び上田市からの軌道整備補助金(欠損補助金)が交付されることになったことからこの時は危機を免れ、上田交通唯一の鉄道路線として存続することになった。
業績回復と設備の改善編集
廃線は免れたものの引き続き利用客は低迷、1980年代に入ると乗客減少が顕著になり、運行本数の減便などを行うも、大幅な赤字を計上し続けた。国の欠損補助金支給基準を満たすことが困難な状況が続き、1992年末の国の地方私鉄に対する軌道整備補助事業見直しにより[2]、欠損補助金支給は打ち切りとなった。しかし1986年には架線電圧を1500Vに昇圧、東京急行電鉄から余剰車両を譲り受けて「丸窓電車」などの旧型車を全廃し車両保守にかかるコストを削減、上田市の支援による駅施設等設備の改善、ワンマン運転化等の経営努力を行ったことにより、1980年代末から1990年代には乗客増加に転じた。欠損補助打ち切り後の1993年には元東急7200系電車を投入し全車冷房化を果たした。北陸新幹線の先行開業も控えており更なる収支改善の可能性が見込まれたことから、増便や駅施設の改良等の設備投資を行うなどサービス向上に努め、1990年代半ばには1973年に上田交通が廃止の方針を示す以前の利用客数を回復、欠損補助金支給が必要とされる状況を脱し、補助金打ち切りの影響を最小限に食い止めている。1997年の北陸新幹線一部先行開業に伴う上田駅再整備により、翌1998年には起点の上田駅ホームの高架化[3]や、JR東日本・しなの鉄道線との共用改札を廃止し独立した改札口を設けるなど設備の更新も進展した。
新たな公的支援と上田電鉄の設立編集
2000年代には少子化の影響により通学客を中心とした定期利用客の減少が進むとともに、長期の景気低迷により湯治客・観光客需要も伸び悩む状況となった。2000年には東京急行電鉄からのさらなる設備改修の提言を受け、国土交通省の地方鉄道安全新基準を満たすため上田交通が長野県と上田市に対し財政支援を求めるに至ったことにより再び存廃問題が浮上した。上田市と上田交通は上下分離方式の導入や第三セクター鉄道化も視野に入れつつ協議したものの、最終的には従来通り民営鉄道として存続させる方針が決まり、上田市は2003年6月から設備更新・修繕や基盤整備・安全対策に関する補助等の支援策の検討に入った。また同月住民団体「別所線の将来を考える会」が結成され、以後地元の存続運動が再び活発化した。上田市は翌2004年度から公的支援実施に踏み切り、補助金を拠出することを決定。また国・長野県からも同年度より財政支援が得られることになり、当面存続の見通しとなった。補助金の拠出が決まったことを受け、上田交通は2003年10月に当路線のダイヤを改正し増便を行った。運行本数を24往復から30往復とし、昼間時全線45分から60分毎であった運行間隔を30分から45分毎と短縮。また終電を23時台に繰り下げ、下之郷駅発着の便を増発、各便を新幹線の発着時刻に接続させるなど、利便性の向上に努めた。2004年11月、上田市は当面の安全対策のために補助率を引き上げ、2007年度までに2億6800万円を補助することを公表、同年12月には上田市議会定例会において上田市と上田交通が締結した「別所線の運行に関する協定」が承認された。「別所線の運行に関する協定」は3ヵ年ごとに契約更新され、2012年度までに国が2億5603万円、長野県が1億2118万5千円、上田市が9億8849万2千円を拠出している。住民による支援団体も相次いで結成され、沿線自治会・商工団体・別所温泉観光協会等により結成された「別所線電車存続期成同盟会」、上田交通労働組合ほか労働団体による「別所線の存続を求める市民の会」、芸術関係者と地域住民等による「ガンバレ別所線の会」、上田市役所職員有志による「上田市アイプロジェクト」、観光ガイドによるボランティア団体「別所線ガイドの会」などが活動を開始した。2005年2月にはこれらの支援団体を統括する「別所線再生支援協議会」が組織され、25団体が加盟。同協議会の代表には上田市長が就任し、自治体の支援体制の再構築も行われた。上田交通は新たな公的支援を受けるにあたり別所線の経営体制の見直しを行い、路線の経理・財務を透明化する必要から鉄道部門の分社化を決定。同年7月、新たに子会社「上田電鉄」を設立し、路線を譲渡した。上田市も同8月、別所線分社化後も支援を継続することを発表した。同年10月3日より上田電鉄の経営となっている。
上田電鉄設立後編集
上田電鉄設立後も予断を許さない経営状況が続いているが、2007年10月の「地域公共交通の活性化及び再生に関する法律」の施行を受け、上田市がさらに支援を進めているほか、各支援団体が広範な存続運動を展開。アニメーション・キャラクターを採用した広報活動や、別所温泉の共同浴場(外湯)入浴券付き往復乗車券、地元自治会向け回数券「マイレールチケット」の販売(地域住民以外でも購入できる)、駅の清掃ボランティアや花壇の整備、一部の駅へのパークアンドライドの導入やレンタサイクルの整備など増収と路線存続のための支援事業を行っている[4]。こうした「別所線再生支援協議会」を中心とする存続支援及び利用促進運動が「鉄道等の利用促進に努め利用者の増加に繋げるなど、公共交通機関の利用促進を通じた環境保全に関する活動に積極的に取り組んだ」事例として評価され、2008年12月、同協議会は『平成20年交通関係環境保全優良事業者等国土交通大臣表彰』を受賞した[5]。上田電鉄設立後もしばらく乗客減が続いたが、行政の支援や地域住民団体による存続運動などを通じた沿線地域との連携が奏功し[6]、2012年には乗客増に転じ、以降微増傾向を維持している。上田電鉄の経営努力と沿線各団体の支援運動が継続し、一定の効果があったこと、また支援活動自体が公共交通政策の展開の面から評価されたことを受け、2013年3月、国・長野県・上田市は2013年度以降も公的支援を行うことを決定した。2015年度までに上田市から約3億円、また国・長野県から計約1億5400万円の補助金が支給された。上田電鉄はこの資金を元手に引き続き別所線の設備更新・基盤整備・安全対策を進める。2013年4月5日・24日に中野駅 - 舞田駅間の遮断機・警報機のない踏切において電車とトラックの接触事故が2件発生した[7]ことを受け、2013年4月現在19箇所存在する遮断機・警報機のない踏切の改修・統廃合や車両通行止め等を行う。2014年9月には一部車両の更新を行った。2016年3月、上田市と上田電鉄の間で「別所線の運行に関する協定」が更新され、2018年度までに上田市から2億8032万4000円の公的支援が行われる見通しとなった[8]。国や長野県からの補助も継続して受けており、これら公的支援による補助金は引き続き安全対策費用や設備維持管理費、運行経費に当てられ、千曲川に架かる鉄橋の改修も行われる予定となっている。少子高齢化の影響から、上田電鉄移行後も通勤・通学利用の定期旅客については減少しているものの、近年は観光客を中心とした普通切符やフリー切符(一日乗車券)・回数券などの定期外利用が増えており、地域と連携し沿線の魅力発信・広報活動を続け観光需要の掘り起こしを行った効果が表れつつある。2015年には北陸新幹線の金沢駅延伸、善光寺御開帳による別所温泉北向観音への参拝客増加、2016年にはNHK大河ドラマ『真田丸』放送など好材料が相次ぎ、2016年度輸送人員は131万3333人に達した。2012年度から5年連続の増加となり、上田電鉄移行前の2001年度以来15年ぶりに130万人台の輸送人員回復となった[9][10][11]。
路線データ編集
沿線概況編集
高架の上田駅を発車するとすぐに千曲川を渡り、全線が上田平を走る。全線単線。路線は千曲川を渡ってから旧川辺村を経て、塩田平の主要集落を連絡しながら別所温泉に至るように敷設されているため、上田盆地にS字を描くように進む。半径の小さい曲線が多く、何箇所かでは一気に90度ほど曲がる。城下駅から上田原駅までの間には複線分の鉄道用地があるが、これは旧青木線の線路敷の跡であり、この区間は変則複線であった。三好町駅から赤坂上駅の間で勾配を上ると塩田平の平坦面に入るが、車庫のある下之郷駅付近から標高570mの別所温泉に向かって登りがきつくなる。終点の別所温泉駅付近は標高554mであり、八木沢駅方より40‰の急勾配となっている。この勾配は750V時代の旧型車は時速20km程しかスピードが出せない難所であった。上田原駅で青木線、下之郷駅で西丸子線が分岐していたが、いずれも既に廃線となっている。
沿線は終点の別所温泉をはじめ、塩田平を中心に著名な神社、寺院、史跡等が点在する「信州の鎌倉」と呼ばれる観光スポットであり、別所線の利用促進につながる地域特性として期待されている。「別所線の将来を考える会」は2014年11月、沿線の名所を紹介する『別所線沿線名所旧跡見どころガイドブック』を発行。上田駅や観光案内所等にて無料配布し、支援活動の一環として観光スポットの紹介に努めている。
運行形態編集
古くは急行列車の設定があったほか、1990年から1994年まで快速列車が運転されていた(いずれも特別料金不要、追い抜きなし)。現在はすべて各駅停車である。1時間あたりおおむね1 - 2本の列車がある。上田駅 - 別所温泉駅間運転の列車のほか、上田駅 - 下之郷駅間と下之郷発別所温泉行きの区間列車が設定されている。
ワンマン運転方式は地方型方式を採用。一番前の扉のみ開閉し整理券を取る方式で、バスの運賃箱に近いものが車両の乗務員室入口に取り付けられている。定期券・回数券を持っている場合でも整理券を取らなければならない[12]。なお有人駅の上田駅・下之郷駅では終日全扉が開閉し、別所温泉駅では9:00から17:00の間全扉が開閉する。また無人駅の城下駅・三好町駅・赤坂上駅・上田原駅では平日6:30から8:30の間の上り電車のみ全扉が開閉する。
利用状況編集
輸送実績編集
別所線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
年度別輸送実績 | |||||||
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年 度 | 輸送実績(乗車人員):万人/年度 | 輸送密度 人/1日 |
貨物輸送量 万t/年度 |
特 記 事 項 | |||
通勤定期 | 通学定期 | 定 期 外 | 合 計 | ||||
1975年(昭和50年) | 37.9 | 64.5 | 66.5 | 168.9 | 2,199 | 0.002 | |
1976年(昭和51年) | 32.0 | 58.9 | 77.1 | 168.0 | 2,176 | 0.0 | |
1977年(昭和52年) | 33.1 | 61.7 | 88.0 | 183.0 | 2,330 | 0.0 | |
1978年(昭和53年) | 30.4 | 58.5 | 90.2 | 179.2 | 2,274 | 0.003 | |
1979年(昭和54年) | 31.3 | 54.4 | 93.3 | 179.1 | 2,276 | 0.003 | |
1980年(昭和55年) | 31.8 | 54.3 | 96.1 | 182.3 | 2,266 | 0.0 | |
1981年(昭和56年) | 31.4 | 57.3 | 93.6 | 182.4 | 2,256 | 0.0 | |
1982年(昭和57年) | 30.5 | 49.5 | 88.2 | 168.2 | 2,084 | 0.0 | |
1983年(昭和58年) | 27.5 | 46.4 | 85.2 | 159.0 | 1,965 | 0.0 | |
1984年(昭和59年) | 27.0 | 46.0 | 83.6 | 156.6 | 2,003 | 0.0 | 貨物営業廃止 |
1985年(昭和60年) | 25.5 | 47.7 | 83.6 | 156.8 | 2,001 | ||
1986年(昭和61年) | 23.5 | 46.0 | 85.5 | 155.0 | 1,995 | 架線電圧を1500Vに昇圧 | |
1987年(昭和62年) | 24.5 | 41.8 | 84.1 | 150.4 | 1,933 | ||
1988年(昭和63年) | 25.6 | 42.4 | 87.1 | 155.1 | 1,990 | ||
1989年(平成元年) | 26.0 | 42.4 | 88.0 | 156.4 | 1,981 | ||
1990年(平成2年) | 26.4 | 46.3 | 92.4 | 165.1 | 2,112 | ||
1991年(平成3年) | 26.1 | 50.3 | 98.8 | 175.2 | 2,240 | ||
1992年(平成4年) | 25.2 | 50.1 | 99.2 | 174.5 | 2,224 | ||
1993年(平成5年) | 25.9 | 48.2 | 100.5 | 174.6 | 2,193 | ||
1994年(平成6年) | 25.6 | 48.2 | 97.5 | 171.3 | 2,155 | ||
1995年(平成7年) | 24.2 | 48.2 | 98.8 | 171.2 | 2,132 | ||
1996年(平成8年) | 26.2 | 48.8 | 102.2 | 177.2 | 2,117 | ||
1997年(平成9年) | 28.9 | 46.3 | 101.0 | 176.2 | 2,186 | 上田駅高架化 | |
1998年(平成10年) | 27.4 | 47.4 | 93.3 | 168.1 | 2,082 | ||
1999年(平成11年) | 24.8 | 45.4 | 81.7 | 151.9 | 1,894 | ||
2000年(平成12年) | 20.6 | 44.1 | 74.2 | 138.9 | 1,755 | ||
2001年(平成13年) | 19.5 | 42.8 | 71.7 | 134.0 | 1,707 | ||
2002年(平成14年) | 20.0 | 40.7 | 68.3 | 129.0 | 1,645 | ||
2003年(平成15年) | 19.4 | 37.9 | 69.9 | 127.2 | 1,630 | ||
2004年(平成16年) | 21.8 | 36.4 | 65.8 | 124.0 | 1,567 | ||
2005年(平成17年) | 22.4 | 36.1 | 64.3 | 122.8 | 1,560 | 上田交通から上田電鉄に移管 | |
2006年(平成18年) | 21.7 | 35.6 | 66.5 | 123.8 | 1,573 | ||
2007年(平成19年) | 64.2 | 124.9 | |||||
2008年(平成20年) | 67.4 | 125.4 | |||||
2009年(平成21年) | 22.6 | 32.9 | 65.8 | 121.3 | 1,591 | ||
2010年(平成22年) | 63.4 | 119.1 | |||||
2011年(平成23年) | 22.8 | 33.1 | 61.7 | 117.6 | |||
2012年(平成24年) | 21.4 | 35.9 | 60.6 | 117.9 | |||
2013年(平成25年) | 121.7 | ||||||
2014年(平成26年) | 122.6 | ||||||
2015年(平成27年) | 129.9 | ||||||
2016年(平成28年) | 68.6 | 131.3 |
鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋
収入実績編集
別所線の近年の収入実績を下表に記す。旅客運賃収入は1997年(平成9年)以降減少している。運輸雑収については年度による変動が大きい。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
年度別収入実績 | ||||||||
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年 度 | 旅客運賃収入:千円/年度 | 貨物運輸 収入 千円/年度 |
運輸雑収 千円/年度 |
総合計 千円/年度 |
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通勤定期 | 通学定期 | 定 期 外 | 手小荷物 | 合 計 | ||||
1975年(昭和50年) | 57,810 | ←←←← | 72,486 | 1,395 | 131,691 | 3 | 1,160 | 132,854 |
1976年(昭和51年) | 58,979 | ←←←← | 90,382 | 1,995 | 151,356 | 0 | 1,486 | 152,842 |
1977年(昭和52年) | 66,349 | ←←←← | 111,764 | 2,156 | 180,269 | 0 | 1,733 | 182,003 |
1978年(昭和53年) | 72,097 | ←←←← | 126,753 | 889 | 199,739 | 10 | 2,899 | 202,649 |
1979年(昭和54年) | 73,564 | ←←←← | 135,486 | 768 | 209,819 | 11 | 4,514 | 214,344 |
1980年(昭和55年) | 83,270 | ←←←← | 152,052 | 547 | 235,869 | 0 | 3,725 | 239,594 |
1981年(昭和56年) | 87,796 | ←←←← | 156,906 | 240 | 244,942 | 0 | 3,721 | 248,663 |
1982年(昭和57年) | 89,959 | ←←←← | 166,548 | 35 | 256,542 | 0 | 5,860 | 262,402 |
1983年(昭和58年) | 83,944 | ←←←← | 161,343 | 0 | 245,287 | 0 | 6,878 | 252,165 |
1984年(昭和59年) | 90,600 | ←←←← | 176,847 | 0 | 267,447 | 0 | 3,154 | 270,600 |
1985年(昭和60年) | 89,138 | ←←←← | 180,966 | 0 | 270,104 | 0 | 4,688 | 274,792 |
1986年(昭和61年) | 91,816 | ←←←← | 201,637 | 0 | 293,453 | 0 | 24,226 | 317,679 |
1987年(昭和62年) | 36,593 | 53,281 | 198,494 | 0 | 288,368 | 0 | 4,307 | 292,675 |
1988年(昭和63年) | 38,298 | 55,561 | 205,319 | 0 | 299,178 | 0 | 3,776 | 302,954 |
1989年(平成元年) | 40,826 | 56,372 | 218,685 | 0 | 315,883 | 0 | 3,444 | 319,327 |
1990年(平成2年) | 44,066 | 65,874 | 236,710 | 0 | 346,650 | 0 | 2,481 | 349,131 |
1991年(平成3年) | 42,295 | 67,576 | 250,334 | 0 | 360,205 | 0 | 2,825 | 363,030 |
1992年(平成4年) | 40,135 | 67,874 | 245,917 | 0 | 353,926 | 0 | 3,154 | 357,080 |
1993年(平成5年) | 40,225 | 64,888 | 246,171 | 0 | 351,284 | 0 | 3,457 | 354,741 |
1994年(平成6年) | 41,938 | 67,770 | 248,319 | 0 | 358,027 | 0 | 3,191 | 361,218 |
1995年(平成7年) | 39,623 | 69,540 | 251,356 | 0 | 360,519 | 0 | 4,478 | 364,997 |
1996年(平成8年) | 41,085 | 69,655 | 256,542 | 0 | 367,282 | 0 | 6,719 | 374,001 |
1997年(平成9年) | 44,285 | 65,249 | 276,532 | 0 | 386,066 | 0 | 6,157 | 392,223 |
1998年(平成10年) | 41,315 | 66,950 | 252,805 | 0 | 361,070 | 0 | 4,462 | 365,532 |
1999年(平成11年) | 37,372 | 64,089 | 222,012 | 0 | 323,473 | 0 | 8,782 | 332,255 |
2000年(平成12年) | 30,792 | 62,944 | 203,808 | 0 | 297,544 | 0 | 8,210 | 305,754 |
2001年(平成13年) | 29,144 | 60,885 | 199,168 | 0 | 289,197 | 0 | 5,610 | 294,807 |
2002年(平成14年) | 29,367 | 56,711 | 191,850 | 0 | 277,928 | 0 | 5,138 | 283,066 |
2003年(平成15年) | 27,843 | 53,124 | 197,611 | 0 | 278,578 | 0 | 2,379 | 280,957 |
2004年(平成16年) | 31,322 | 50,969 | 182,492 | 0 | 264,785 | 0 | 7,630 | 272,415 |
2005年(平成17年) | 31,675 | 50,820 | 179,649 | 0 | 262,144 | 0 | 8,400 | 270,544 |
2006年(平成18年) | 30,534 | 50,413 | 184,866 | 0 | 265,813 | 0 | 10,009 | 275,822 |
2007年(平成19年) | 0 | 0 | ||||||
2008年(平成20年) | 0 | 0 | ||||||
2009年(平成21年) | 31,438 | 45,665 | 189,722 | 0 | 266,825 | 0 | 16,949 | 283,774 |
2010年(平成22年) | 0 | 0 | ||||||
2011年(平成23年) | 0 | 0 | 282,410 |
鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋
営業成績編集
別所線の近年の営業成績を下表に記す。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
年度別営業成績 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年 度 | 営業収益 千円/年度 |
営業経費:千円/年度 | 営業損益 千円/年度 |
営業 係数 |
||||||
人件費 | 修繕費 | 経 費 | 諸 税 | 減 価 償却費 |
一 般 管理費 |
合 計 | ||||
2006年(平成18年) | 275,822 | 134,708 | 31,179 | 45,201 | 16,756 | 37,384 | 40,337 | 305,565 | △29,743 | 110.8 |
2007年(平成19年) | ||||||||||
2008年(平成20年) |
鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋
車両編集
1986年9月までの架線電圧が750Vであった時代は、自社発注のモハ5250形「丸窓電車」をはじめ、長野電鉄からの譲受車など雑多な経年車が多い状態だった。しかし電動車の制御方式の不統一など保守が困難な状態であったことから、同年10月の1500V化の際に東急5000系(初代)を2連5本譲り受け旧型車を全廃した。
しかしその5000系も、非冷房車であったことから、1993年5月28日からは冷房車である東急7200系を2連5本譲り受け、使用を開始した。これにより長野県の私鉄で初めて100%冷房化を達成した。2005年からはかつて走っていた丸窓電車を模して一部の窓をシールで丸くした「まるまどりーむ」号が運行されている。また同年より毎年ゴールデンウィーク期間中、下之郷駅にて「別所線丸窓まつり」と称する鉄道イベントを開催している。
なお、2006年に上田電鉄が発表した「鉄道安全報告書」によると、2008年度までに2両編成4本(8両)の車両の更新をすると発表され、同年3月に東急1000系電車2両編成2本が上田電鉄1000系電車として譲渡され、2009年7月に残る2本が譲渡された。2014年度にも車両が更新され、「まるまどりーむ」号(7200系) のうち7253編成(7253号車+7553号車)が2014年9月をもって運用を離脱し、代替として元東急1000系2両編成1本が譲渡され、6000系として2015年3月28日より営業運転を開始した。種車は同じ元東急1000系であるが、すべて東急時代から先頭車であった車両が譲渡された2008・2009年導入分の4本とは異なり、こちらは東急時代は中間車であった車両の先頭車化改造車のため6000系と別形式に区分された。なお6000系は車両愛称の一般公募が行われ、2015年6月13日に「さなだどりーむ号」に決定した[13]。
沿線イベント等に合わせて随時ヘッドマークを掲出している。
750V時代編集
特記無きものは1986年10月の昇圧時に廃車。
電車編集
- モハ4250形 - 4257 ※1983年廃車
- モハ5250形 - 5251-5253
- モハ5260形・クハ260形 (2代) - 5261・261
- モハ5270形 (2代) - 5271
- モハ5370形 - 5371・5372
- デハ3300形・クハ3660形・クハ3770形 - 3310・3661・3772 ※3661は1983年廃車
- クハ250形 - 252・253 ※253は1975年廃車
- クハ270形 - 271 (2代)・272・273 ※272は1975年、273は1984年廃車
- クハ290形 - 291・292
- サハ20形 - 24-26・28 ※24は1980年、25は1955年、26は1956年、28は1972年に廃車
- サハ40形 - 41・42 ※41は1984年、42は1968年に廃車
- サハ60形 - 61・62 ※61は1980年廃車
電気機関車編集
1500V昇圧後編集
歴史編集
- 1919年(大正8年)11月10日 上田温泉軌道に対し軌道特許状下付(小県郡城下村-同郡青木村間、同郡川辺村-同郡別所村間)[14]。
- 1920年(大正9年)11月19日 特許権を上田温泉電軌へ譲渡(許可)[15]。
- 1921年(大正10年)
- 1923年(大正12年) 下之郷 - 五加(現在の中塩田)間の産川駅、八木沢 - 別所間の天神前駅廃止。
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年)1月8日 上田 - 三好町間に諏訪形駅設置(廃止日不明)。
- 1927年(昭和2年)12月 青木線の三好町 - 上田原間が専用軌道化、変則複線化され三好町駅が城下駅に、三好町三丁目駅が三好町駅に改称。
- 1929年(昭和4年)3月3日 五加駅を中塩田駅に改称。
- 1930年(昭和5年)1月19日 信濃別所駅を別所温泉駅に改称。
- 1932年(昭和7年)9月21日 三好町 - 上田原間に赤坂上駅設置。
- 1934年(昭和9年)7月14日 中塩田 - 中野間に上本郷駅設置。
- 1938年(昭和13年)7月25日 青木線の上田原 - 青木間が廃止。三好町 - 上田原間は単線化[16]。上田 - 上田原間も川西線となる。
- 1939年(昭和14年)
- 1943年(昭和18年)10月21日 丸子鉄道と合併し、上田丸子電鉄となる。
- 1951年(昭和26年)4月 赤坂上駅の位置が変更される。
- 1953年(昭和28年)9月 架線電圧を600Vから750Vに昇圧。
- 1960年(昭和35年) 上本郷駅を塩田町駅に改称。
- 1966年(昭和41年)6月 4月1日の本州大学開学に伴い、下本郷駅がその最寄駅となったため本州大学前駅と改称。
- 1969年(昭和44年)5月31日 上田交通に社名変更。
- 1974年(昭和49年)5月1日 本州大学前駅、大学名が長野大学に変更されたため大学前駅と改称。
- 1984年(昭和59年)11月1日 貨物営業廃止。
- 1986年(昭和61年)10月1日 架線電圧を1500Vに昇圧。5000系・5200系電車営業運転開始。モハ5250形「丸窓電車」を始め、従来車全車が営業運転終了。
- 1993年(平成5年)5月28日 7200系電車営業運転開始。全車冷房化。
- 1998年(平成10年)3月29日 上田駅を高架化し、別所線専用の改札口を設ける[3]。
- 2005年(平成17年)
- 1月27日 地域活性化事業「別所線丸窓特別電車再現」実施。7200系をベースに「丸窓電車」をイメージしたラッピングを施した編成(7253編成)が運行開始。4月に「まるまどりーむ号」と命名。当事業に長野県東御市の株式会社ミマキエンジニアリングが特別協賛(まるまどりーむ号Mimaki)。
- 10月3日 上田交通から上田電鉄に移管。上田電鉄発足に合わせ7255編成も「まるまどりーむ号」仕様に改装。「まるまどりーむ号」が2編成となる。
- 12月2日 別所線存続支援アニメーション・キャラクター「北条まどか」発表。
- 2008年(平成20年)
- 2010年(平成22年)7月30日 映画「サマーウォーズ」の主題歌で山下達郎の楽曲「僕らの夏の夢」が上田駅の発車メロディとして採用され、同日から使用が開始される。
- 2014年(平成26年)9月27日 「まるまどりーむ号」のうち、7253編成「まるまどりーむ号Mimaki」が運用離脱[17][18]、廃車。
- 2015年(平成27年)
- 2016年(平成28年)
駅一覧編集
- 全駅長野県上田市に所在。
- 線路(全線単線) … ◇:列車交換可、|:列車交換不可
- 下之郷駅が上田駅以外の全駅の管理駅となっている。
- 上田駅と下之郷駅は終日駅員配置駅。別所温泉駅は簡易委託駅(別所温泉観光協会に窓口業務を委託)。他は無人駅。
駅番号 | 駅名 | 駅間キロ | 営業キロ | 接続路線 | 線路 |
---|---|---|---|---|---|
BE01 | 上田駅 | - | 0.0 | 東日本旅客鉄道:北陸新幹線(長野経由) しなの鉄道:しなの鉄道線 |
| |
BE02 | 城下駅 | 0.8 | 0.8 | ◇ | |
BE03 | 三好町駅 | 0.7 | 1.5 | | | |
BE04 | 赤坂上駅 | 0.7 | 2.2 | | | |
BE05 | 上田原駅 | 0.7 | 2.9 | ◇ | |
BE06 | 寺下駅 | 0.9 | 3.8 | | | |
BE07 | 神畑駅 | 0.7 | 4.5 | | | |
BE08 | 大学前駅 | 0.7 | 5.2 | | | |
BE09 | 下之郷駅 | 0.9 | 6.1 | ◇ | |
BE10 | 中塩田駅 | 1.3 | 7.4 | | | |
BE11 | 塩田町駅 | 0.6 | 8.0 | | | |
BE12 | 中野駅 | 0.5 | 8.5 | | | |
BE13 | 舞田駅 | 0.9 | 9.4 | | | |
BE14 | 八木沢駅 | 0.7 | 10.1 | | | |
BE15 | 別所温泉駅 | 1.5 | 11.6 | | |
運賃編集
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ) - 2014年4月1日改定[25]
距離 | 運賃(円) |
---|---|
- 3km | 170 |
- 4km | 220 |
- 5km | 270 |
- 6km | 330 |
- 7km | 370 |
- 8km | 410 |
- 9km | 450 |
- 10km | 490 |
- 11km | 540 |
- 12km | 590 |
別所線が登場する作品編集
- 映画
- その他
-
- 鉄道むすめ - 作中で同線が舞台になっている。
- マルシンハンバーグのCM - 1980年代、マルシンフーズのマルシンハンバーグのCMロケーション撮影に当路線が使われた。まだ雪残る早春の田舎の小さな駅(ロケ地は舞田駅)。転校する小学生がクラスメートらの見送りを受け、電車(丸窓電車)に乗車、クラスメートは電車発車後もホームを走って電車を追いかけ別れを惜しむ、車中の小学生がふと外を見ると、駅からあっという間に移動したらしいクラスメートたちが田んぼの中に立っている木に皆で登り、大きく手や腕を振りながらなおも別れを惜しむ、最後は夕暮れの鉄橋(千曲川橋梁)を行く単行電車を背景に同社商品「マルシンハンバーグ」3種とシンボルマークが映し出されるという内容であった。昭和50年代から昭和60年代の当路線と印象的な夫神岳などの山なみや沿線風景が映し出され、当時広く知られたCMの一つであった。なおCM冒頭テロップでは「長野県 別所線」とのみ表示され「上田交通」の社名(当時)の紹介はなかった。丸窓電車も丸窓そのものが映し出される場面はなく、また小学生は遠方へ転校するように見られたものの舞田駅から乗り込んだ電車は下り(別所温泉方面)、千曲川橋梁を行く電車も下り(上田駅から城下駅へ向かう電車)であった。
脚注編集
- ^ かつては別所線においてもわずかながら貨物輸送が行われており、1980年頃までは塩田平の各地域で生産された農作物などを上田駅まで輸送していた。また戦前、小県郡川辺村倉升(現・上田市上田原字倉升)の倉升山には金城炭鉱と称する炭鉱があり、亜炭を産出。山から上田原駅までトラックで降ろし、上田原駅構内にて貨車に積み込んで上田駅まで運んでいた。上田駅から国鉄の貨物列車で東京や横浜まで送られていた。1949年、金城炭鉱は閉山、亜炭の輸送はなくなった。
- ^ 1992年(平成4年)度(1993年3月26日)時点で当該年度分の欠損補助を受給していた鉄道事業者は津軽鉄道、弘南鉄道、栗原電鉄、上田交通、上毛電気鉄道、銚子電気鉄道、加越能鉄道、野上電気鉄道、一畑電気鉄道、土佐電気鉄道の10社。うち栗原電鉄・野上電気鉄道に対しては1992年9月、運輸省より同年度を以て支給を打ち切ることが通達され、続いて上毛電気鉄道と上田交通についても同様に打ち切りが決まった。これを受けて野上電気鉄道は事業の継続が不可能となり、1994年4月1日に全線廃止、会社解散となった。栗原電鉄は1993年に地元自治体が出資した第三セクター鉄道くりはら田園鉄道に移行、非電化路線に変更して存続を図ったものの経営状態は悪化の一途を辿り、2007年4月1日に全線廃止、会社解散となった。上毛電気鉄道は1995年にバス事業から撤退・事業譲渡し、鉄道事業は地元自治体からの支援を受け存続している。また1992年(平成4年)度時点で10社中最高額の1億8千万円に上る欠損補助を受給していた一畑電気鉄道については、今後経営改善の見通しが立たなければ補助の打ち切りもあり得るとの通告が行われている。弘南鉄道については、欠損分の65%以上を弘南鉄道黒石線が占めており、同線の赤字が弘南鉄道に欠損補助金支給が必要とされる状況を生ぜしめていたため、同線の存廃問題となった。沿線自治体が「存続は困難」との見通しを示し、廃止の方向で検討することを了承したため、1992年度を以て欠損補助金支給を返上している。1993年度以降は津軽鉄道、銚子電気鉄道、加越能鉄道、一畑電気鉄道、土佐電気鉄道の5社が引き続き受給していたが、欠損補助制度は1997年交付分をもって廃止された。その後加越能鉄道は鉄軌道事業からの撤退・路線廃止の意向を示したため、路線存続を希望した地元自治体が2001年、第三セクター鉄道万葉線を設立し、翌年鉄軌道事業を継承した。銚子電気鉄道は2006年に経営危機に陥り、その後の経営陣の混乱や自然災害の影響なども重なり、2013年には自主再建を断念。以後地元自治体からの支援を受けている。土佐電気鉄道は第三セクター化とバス事業者との事業統合が行われ、2014年に第三セクター鉄道とさでん交通に移行している。一畑電気鉄道は上田交通同様鉄道部門を分社化し、2006年より鉄道事業は一畑電車株式会社による経営となっている。津軽鉄道については欠損補助制度廃止後も鉄道事業の経営体制の変更はないが、2007年に子会社のタクシー事業を他社と事業統合・譲渡し、事業を縮小した。
- ^ a b 『鉄道ジャーナル』第32巻第7号、鉄道ジャーナル社、1998年7月、 106頁。
- ^ 公共交通の利用促進に向けた地域のサポート事例集(pdfファイル) 2010年3月 国土交通省北陸信越運輸局
- ^ 『乗って残そう!別所線』~別所線再生支援の取り組み~(pdfファイル)2008年12月 上田市都市建設部地域交通政策課
- ^ 長野電鉄屋代線、きょう90年の歴史に幕 補助金頼み限界「存続を求め沿線住民が別所線利用を促進するなどの運動が功を奏し「ここ数年は減少に歯止めがかかっている」(上田電鉄運輸部長)」とある。2012年3月31日 日本経済新聞
- ^ 踏切事故防止ご協力のお願い2013年4月26日 上田電鉄
- ^ 上田市の別所線公的支援の最終的な実績額は以下の通り。2004年度から2006年度までが2億9408万3000円。2007年度から2009年度までが3億1703万1000円。2010年度から2012年度までが3億7728万8000円。2013年度から2015年度までが2億8653万7000円。2004年度から2015年度までの総額は12億7493万9000円となっている。
- ^ 別所線の輸送人員、15年ぶり130万人台回復 16年度2017年4月27日 信濃毎日新聞
- ^ 別所線 15年ぶり130万人超2017年5月10日 読売新聞長野版
- ^ 別所線130万人を記念 鉄道模型が10年ぶり「出発」 上田2017年5月10日 信濃毎日新聞
- ^ ワンマン電車のご案内 - 上田電鉄
- ^ a b 上田電鉄6000系愛称決定について - 上田電鉄
- ^ 「軌道特許状下付」『官報』1919年11月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「特許権譲渡」『官報』1920年11月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1963年9月号(通巻149号)小林宇一郎 私鉄車両めぐり59 上田丸子電鉄[前]
- ^ さようなら別所線7253編成 上田電鉄が23・27日に引退イベント2014年9月4日 信濃毎日新聞「信毎ニュース」
- ^ 長野/別所線、7253編成がラストラン2014年9月28日 朝日新聞(長野版)
- ^ 信繁ラッピング、上田電鉄・別所線で出発式典信濃毎日新聞 2016年2月22日
- ^ 長野)「真田丸」ラッピング電車運行 上田電鉄別所線朝日新聞 2016年2月22日
- ^ 別所線ラッピング電車 運用予定表のお知らせ上田電鉄 お知らせ 2016年2月18日
- ^ 大河ドラマ「真田丸」ラッピング電車出発式典上田電鉄 お知らせ 2016年2月22日
- ^ 上田電鉄お知らせ-駅番号表示(駅ナンバリング)を導入します
- ^ “上田電鉄別所線に「駅ナンバリング」 外国人客らに分かりやすく”. 信濃毎日新聞. (2016年4月7日)
- ^ 鉄道旅客運賃の認可について (PDF) - 上田電鉄、2014年3月11日(2014年4月6日閲覧)
参考文献編集
- 今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 6号 北信越』新潮社、2008年 - 駅の改廃について