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岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 1966年11月7日)は、日本のスポーツ指導者であり、日本で最初のアメリカンフットボール紹介者。福岡県糸島郡志摩村(現在の糸島市)出身。

人物編集

福岡師範学校(現・福岡教育大学)を卒業後、1913年、東京高等師範学校(現・筑波大学)体操専修科に入学。同時に柔道講道館にも入門。入学して間もなく、講道館の紅白試合で初段を相手に5人抜きを行い、二段を授与。翌年の紅白試合では7人抜きを行い、四段(当時、学生で講道館四段という高段者は岡部ただ一人)に昇進する。このころ、嘉納治五郎師範について各地を回り、模範実技を行う。比類なき猛者として武道を目指す少年達の憧れであったという。 柔道は元は福岡の双水執流隻流館出身。1912年(明治45年)2月16日千本取り。

1917年、東京高等師範学校卒業後、嘉納治五郎、内田信也の援助により、単身でアメリカ留学。 留学先のシカゴ大学エイモス・アロンゾ・スタッグ教授よりバスケットボール水泳陸上競技アメリカンフットボール、体育理論とコーチ理論を実地に学ぶ。アメリカンフットボールに関しては、実際に岡部は大学や近くのクラブチームでプレーを経験した(シカゴの地元新聞『シカゴ・トリビューン』に顔写真付きの記事がある)。後に自著「世界の運動界」(1925年出版)の中で、日本で最初と思われるアメリカンフットボール解説を書いている。

また、留学中、岡部はあらゆる競技に興味を示し、ボクシング・ジムやレスリングの道場に通い、サッカー野球テニススキージャンプ等片っ端から挑んだ。水泳では、若き日のジョニー・ワイズミュラー(後の金メダリストでターザン俳優としても有名)から、クロールを教わったという。 ペンシルベニア大学ではスポーツ生理学、ハーバード大学では女子体育の理論、体育史を学ぶ。米国で科学的なコーチ法を目にした岡部は、それまで精神主義一辺倒だった日本のスポーツの近代化に精力を傾けるようになる。

1920年(大正9年)に帰国後、内田信也に請われて旧制水戸高等学校のグラウンドを設計し、日本初の400mトラックを作る。 この年、米国プロレスラー サンテルから講道館への「プロレス柔道」の異種対抗試合の申し込みを巡り、黙許という形で受け入れようとする嘉納治五郎と意見が対立し、講道館を去る。(岡部は米国でのレスラーと対戦経験から、ルールが異なるものが対決してもスポーツとして意味がなく、また、興業的試合をすればプロ団体とみられ、世界のアマチュアスポーツ界での柔道の振興がかなわなくなりかねないと強く反対したが、嘉納は意見を変えなかった。しかし、岡部が去った後、講道館は幹部の多くが反対したこともあり、サンテルと館員の試合を正式に禁じた。)

1921年 4月、水戸高等学校講師となるが、半年後に突如 水戸高を辞め、満州(現在の中国東北部)に渡る。10月に南満州鉄道株式会社(満鉄)に体育主任として入社。 1922年(大正11年)満州体育協会を創設、理事長に就任。以後11年間在職する。

1925年(大正14年)マニラで行われた第七回極東選手権大会の陸上チーム総監督となる。1928年(昭和3年)大連運動場で日本とフランスの国際対抗陸上競技会(日本初の国際スポーツ大会で織田幹雄南部忠平らが参加)を提案し成功させ、1929年には張学良と協力して日独支対抗陸上競技会を行う。また、コーチとしては陸上の岡崎勝男(1924年パリオリンピック5000メートル競走で日本初の決勝進出、後に外務大臣)や南部忠平(1932年ロサンゼルスオリンピック三段跳金メダリスト)らを育て、当時のスポーツ界に大きく貢献した。

この頃の岡部について人見絹枝(陸上選手で日本人女性初のオリンピックメダリスト)は、自著「スパイクの跡」の中で、「岡部さんの顔は何回みてもこわい。でもあの顔で仲々情に脆く、熱すればすぐ涙を流される。そこに言い知れない親しみがある。あの岡部さんの顔をみると凡てのものを見通しているかと思われる位、断乎として人に譲らない所がある。自分の意見をどこまでも主張する人である。女子の斯道にもこんな大先輩があったらと羨ましく思われる。」と記している。

1931年(昭和6年)満州事変勃発の際、馮庸(ひょうよう:張学良の義兄弟)を逃亡させた疑いで、関東軍に睨まれ逮捕される。一時は処刑の危機に瀕したが、釈放される。 しかし、この事件がもとで満鉄を退職。スポーツ関係のすべての職も退く。

1945年(昭和20年)福岡に戻り、戦後は金栗四三らとマラソン界の再建に努力。「オリンピックマラソンに優勝する会」を発足させ、各地の有力選手を発掘すると共に、合宿による徹底指導を行った。日本人が初参加した1951年ボストンマラソンでは監督として田中茂樹選手を優勝させ、その後も西田勝雄広島庫夫山田敬蔵浜村秀雄貞永信義ら第一級選手を育成している。

1952年(昭和27年)福岡学芸大学(1966年に福岡教育大学に改称)専任講師に就任、拓殖大学教授を兼任する。以後、主に研究・執筆活動に入る。 著書に『スポーツと禅の話(あがる心理の究明と克服)』(1957年、不昧堂出版)、『コーチ50年』(1960年、大修館書店)がある。

1961年(昭和36年)、70歳で論文「年齢別にみた水泳のエネルギー代謝」により医学博士を授与される。(岡部は早くから水泳における記録と年齢の相関に注目しており、特に、女子は年齢が低いことが記録に有利に働くことを戦前から気づいていた。) また、この年1964年東京オリンピックの陸上競技強化本部の強化コーチを委嘱され、翌年にはアベベ・ビキラの出身地エチオピアの視察に出かけ、高地トレーニングの必要を提案する。

1962年にマラソンを中心に多年スポーツ界に尽くした功労で朝日賞を受賞。 受賞式では盟友である金栗四三が祝辞を述べている。

後に脳梗塞で倒れ、3年間の闘病の末に1966年11月7日、75歳で病没。

岡部はその活動の破天荒さ、革新性ゆえ「スポーツ界の奇才」「在野の巨人」「風雲児」などと称され、組織原理や精神主義に重きをおきがちな体育団体とぶつかることも多かったが、近年その業績が再評価されつつある。

現在の福岡市平和台陸上競技場は、1948年(昭和23年)の福岡国体(第3回国民体育大会)当時、国体事務局長であった岡部が、国体の主競技会場(福岡城址の一角にあった旧日本陸軍兵営跡地)に、「兵(つわもの)どもの夢の跡を平和の台(うてな)にする」として、英語で「Peace-Hill」(平和の丘)を意味する「平和台」と名付けたことが由来である。1992年平成4年)3月、競技場内に岡部の胸像が建立される。

参考文献編集

作成にあたって下記書籍を参照した。