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杜 甫(と ほ、簡体字: 杜 甫; ピン音: Dù Fǔ; ウェード式: Tu⁴ Fu³712年先天元年) - 770年大暦5年))は、中国盛唐詩人子美少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。幼少の頃から詩文の才能があり、李白と並ぶ中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」[1]と呼ばれている。また晩唐期の詩人・杜牧の「小杜」に対し「老杜」「大杜」と呼ばれることもある。

杜甫
Du Fu.jpg
杜甫・『晩笑堂竹荘畫傳』より
プロフィール
出生: 712年先天元年)
死去: 770年大暦5年)
出身地: 河南府鞏県(現在の河南省鄭州市鞏義市
職業: 詩人文学家
各種表記
繁体字 姓:
名:
: 子美
: 少陵野老
拼音 姓: Dù
名: Fǔ
字: Zǐměi
号: Shàolíng Yělǎo
和名表記: と ほ
発音転記: ドゥー フー(トゥー フー)
ラテン字 Tu⁴ Fu³
英語名 Du Fu
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成都杜甫草堂
杜甫
杜甫の像

目次

略歴編集

  • 712年先天元年) : 河南府鞏県(現在の河南省鄭州市鞏義市)で生まれる。父は杜閑、母は崔氏。兄弟は四人。襄州襄陽県(現在の湖北省襄陽市襄州区)の人。本貫京兆郡杜陵県三国時代から西晋の武将であり、「破竹の勢い」で有名な杜預は先祖に当たる。祖父は「文章四友」[2]の一人で、初唐の宮廷詩人として有名な杜審言である。
  • 718年開元6年) : 初めて詩文を作成する。
  • 720年(開元8年) : 初めて大字を習う。
  • 725年(開元13年) : 故郷に隣接する洛陽文人の仲間入りを果たす。
  • 730年(開元18年) : 郇瑕(現在の山西省運城市臨猗県)に滞在する。
  • 731年 - 734年(開元19年 - 22年) : に滞在する。
  • 735年(開元23年) : 呉・越から洛陽に帰って来て、科挙進士を受験したが及第せず。
  • 736年 - 740年(開元24年 - 28年) : に滞在する。
  • 737年(開元29年) : 洛陽に帰り、陸渾荘を造りそこに滞在する。
  • 744年天宝3載) : 洛陽で李白と会う。秋には李白高適と共に梁宋(現在の河南省商丘市一帯)に遊ぶ。
  • 745年(天宝4載) : 斉に滞在する。そこで再び李白と会い、友好を結ぶがこれが最後の再会になった。
  • 747年(天宝6載) : 長安で一芸に通じる者のための試験が行われたが、落第。
  • 750年(天宝9載) : 長男の宗文が生まれる。
  • 751年(天宝10載) : 玄宗に「三大礼賦」を奉献する。
  • 753年(天宝12載) : 次男の宗武が生まれる。一説に翌年の秋。このころまでに娘は3人いたとされる。
  • 754年(天宝13載) : この頃、仕官のつてを求めて、高官たちにしばしば詩を献ずる。
  • 755年(天宝14載) : 河西の尉に任じられるが断り、右衛率府兵曹参軍に任ぜられる(実際に職に就くのは翌年春頃か。)
  • 756年至徳元載) : 安禄山の攻撃により長安が陥落する。霊武(現在の寧夏回族自治区銀川市霊武市)で粛宗が即位したとの情報を聞くと、長安脱出を試みるが、反乱軍に捕まり幽閉される。
  • 757年(至徳2載) : 脱出して、粛宗から左拾遺の位を授かる。
  • 758年乾元元年) : 房琯を弁護したことにより粛宗の怒りを買い、華州(現在の陝西省渭南市)の司功参軍に左遷される。
  • 759年(乾元2年) : 関中一帯が飢饉に見舞われたことにより、官を捨てて、秦州(現在の甘粛省天水市)に赴く。さらに同谷(現在の甘粛省隴南市成県)に移るが、ドングリ山芋などを食いつないで飢えを凌ぐ。蜀道の険を越えて成都に赴く。
  • 760年上元元年) : 成都で草堂(杜甫草堂)を建てる。[3]
  • 765年永泰元年) : 成都を去り長江を下る。
  • 770年大暦元年) : 襄陽を通り洛陽を経由して長安に戻ろうとしたが、湘江の舟の中で客死した。死因としては、頂き物の牛肉を食べ過ぎて亡くなったとする逸話が有名だが、この逸話は後世の創作であるとする意見も多く、正確な死因は不明である。[4]

詩の特徴編集

杜甫の詩の特徴として、社会の現状を直視したリアリズム的な視点が挙げられる。杜甫は当時の士大夫同様、仕官して理想の政治を行いたいという願望から、社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げ、同時代の親友である李白の詩とは対照的な詩風を生み出した。特に自らの困難を世の中全体の問題としてとらえ描き、後世「詩聖」[1]と称された。また「詩史(詩による歴史)」と呼ばれるその叙述姿勢は、後の白居易の諷喩(風諭)詩などに受け継がれてゆく。

安史の乱前後、社会秩序が崩壊していくさまを体験した頃の詩は、政治の腐敗や戦乱の様子、社会的状況を悲痛な調子で詳細に綴った内容のものが多い。それらの様々な出来事を普遍化、一般化することなく、徹底的に個別性を直視し、描写することを通して、ある種の普遍性、真実に迫ろうとするという。この頃の代表作として崩壊した長安の春の眺めを詠じた「春望」、社会の矛盾を鋭く指摘した「三吏三別」(「新安吏」「潼関吏」「石壕吏」「新婚別」「垂老別」「無家別」の六首)華州司功参軍を辞したのちに訪れた秦州での様子を細かに描写した「秦州雑詩二十首」がある。[5]

支援者にも恵まれ、穏やかな生活を過ごせた成都時代では、それまでの悲しみや絶望感に満ちた詩にかわって、自然に自然が人間に示す善意に眼ざめ、また、人間も善意に満ちた自然の一部であることを自覚し、自然に対する穏やかな思いを詠んだ詩が多く作られている。寺に遊んだ時の作「後遊」や杜甫の住む草堂近くの浣花渓が増水したことを子どもが杜甫に知らせに来るといったささやかな日常を描いた「江漲」、諸葛亮を讃えた「蜀相」などがこの頃の代表作である。[6]

成都を去って以後、夔州などで過ごした最晩年期の杜甫は、社会の動乱や病によって生じる自らの憂愁それ自体も、人間が生きている証であり、その生命力は詩を通して時代を超えて持続すると見なす境地に達した。夔州以降も詩作への意欲は衰えず、多方面にわたって、多くの詩を残している。詩にうたわれる悲哀も、それまでの自己の不遇あるいは国家や社会の矛盾から発せられた調子とは異なる、ある種の荘厳な趣を持つようになる。[7]この時期の代表作に、「秋興八首」「旅夜書懐」「登高」などがある。

また杜甫は『文選』[8]を非常に重んじた詩人としても知られる。次男・宗武の誕生日に贈った「宗武生日」に「熟読せよ文選の理に」との文言が見えるなど、この言葉からも『文選』を重視していたことはうかがわれる。杜甫は『文選』に見える語をそのまま用いるだけでなく、『文選』に着想を得て、新たな詩の表現を広げようと追及していた。詩の表現への執着は「江上値水如海勢聊短述」の「人と為り性癖にして佳句に耽ける、語人を脅かさずんば死すとも休まず」句が端的にそのことを示すだろう。[9]

詩人としての評価編集

杜甫の詩人としての評価は必ずしも没後短期間で確立したものでない。没後数十年の中唐期に、元稹[10]白居易韓愈[11]らによってその評価は高まったものの、北宋の初期でさえ、当時一世を風靡した西崑派(晩唐の李商隠を模倣する一派)の指導者・楊億は、杜甫のことを「村夫子」(田舎の百姓親父)と呼び嫌っていたという[12][13]。一方、南宋初期の詩人である呉可は『蔵海詩話』の中で「詩を学ぶに、当に杜(甫)を以て体と為すべし」と述べている。

胡応麟の『詩藪』に「李絶杜律」とあるように絶句[14]を得意とした李白と対照的に、杜甫は律詩に優れているという評価が一般的である。[15][16]奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする。[17]

日本語訳注・評釈書編集

  • 鈴木虎雄『杜甫全詩集』(全4冊、日本図書センタ-、1978年。『杜少陵詩集』1928~31年刊の復刻版)
    〔仇兆鰲の配列順〕全詩に訳注が施された代表的な訳本の一冊。仇兆鰲の『杜詩詳注』に基本的には依拠しつつ、訳者自身の解釈も反映。
  • 鈴木虎雄/黒川洋一補訳注『杜詩』(全8巻、岩波文庫、復刊1989年、2005年ほか)
    元版は戦前刊の全訳・注解を改訂。清朝乾隆帝の勅撰詩集『唐宋詩醇』[18]中の杜甫詩に訳注を施したもの。
  • 黒川洋一『杜甫 中国詩人選集』(岩波書店(上下)、1957‐59年、新版(全1巻)、1983年)
  • 目加田誠『杜甫 漢詩大系9』(集英社、1965年、新装版『杜甫 漢詩選9』集英社、1996年)
  • 目加田誠『杜甫詩集』(集英社「中国詩人選3」1966年、新装版「中国名詩鑑賞4」小沢書店、1996年)
  • 吉川幸次郎世界古典文学全集28・29 杜甫』(筑摩書房、1967-1972年、復刊1982年、2004年ほか)
  • 吉川幸次郎『杜甫詩注』(全5冊、筑摩書房、1977-83年)。中途での逝去により5冊目で中断、下記は改訂版
  • 吉川幸次郎『杜甫詩注』(興膳宏編、第1期・全10巻、岩波書店、2012-2016年)
    弟子興膳宏らにより2012年より加筆修正が施され、遺稿を含め引き継ぎ第1期を出版。第2期・全10巻は時期未定
  • 小野忍小山正孝・佐藤保編訳注『杜甫詩選』(全3巻、講談社学術文庫、1978年)
  • 黒川洋一『杜甫 鑑賞中国の古典17』(角川書店、1987年)
  • 黒川洋一編訳『杜甫詩選』(岩波書店、1991年、ワイド版1994年)
  • 下定雅弘松原朗編訳『杜甫全詩訳注』(全4巻、講談社学術文庫 、2016年6月-10月)
    〔仇兆鰲の配列順〕最新の研究を反映しつつ、全詩に訳注を施した訳本。各巻巻末に杜甫に関する解説、年譜[4]、人物説明、杜甫関係地図、詩題索引[19]などが付された4巻組。鈴木虎雄『杜甫全詩集』が仇兆鰲『杜詩詳注』に依拠しつつも、時折鈴木氏独自の解釈をおこなうことに対して、本書は『杜詩詳注』の解釈に準拠する。また、解釈に諸説あるものはその旨を記載している。[20][21]
  • 川合康三新釈漢文大系 詩人篇 六・七 杜甫』(明治書院、2019年5月-)全12巻(後者は未刊)[22]

中国・台湾で発刊された注釈本・現代中国語による訳本編集

  • 仇兆鰲『杜詩詳註』(全5冊、中華書局、1979年第一版)
最も代表的とされる版本。杜甫の使用する詩語の由来を網羅的に調査している。ただし詩と関係のなさそうな用例が多々行っている点は注意が必要である。しかしながら仇兆鰲自身が、言葉の意味より言葉の由来、初出をあげることを重視したためである。[23][24]
  • 蕭滌非(主編)・張忠綱(全書終審統稿人)他『杜甫全集校注』(全12冊、人民文学出版社、2014年)〔楊倫の配列順〕
  • 韓成武・張志民主編『杜甫詩全訳』(河北人民出版社、1997年)〔仇兆鰲の配列順〕
  • 李濤松・李翼雲『全杜詩新釈』(全2冊、中国書店、2002年、北京)〔仇兆鰲の配列順〕
  • 張志烈主編『(今注本)杜詩全集』(全4冊、天地出版社、1999年)〔楊倫の配列順〕
  • 林継中輯校『杜詩趙次公先後解輯校』(全2冊、上海古籍出版社、1994年)
  • 王嗣奭『杜臆』(曹樹銘増校『杜臆増校』藝文印書館印行、1971年、台北)
  • 浦起竜『読杜心解』(全3冊、中華書局、1961年初版)
  • 楊倫『杜詩鏡銓』(上海古籍出版社、1988年)
  • 銭謙益『銭注杜詩』(全2冊、上海古籍出版社、1979年)
  • 林継中『新訳杜詩青華』(全2冊、三民書局、2015年、台湾)、詩句に注音符号が付されている。
  • 張忠綱編注『杜甫詩話六種校注』(斉魯書社、2002年)
杜甫の作品は収録されていないが、宋・蔡夢弼『杜工部草堂詩話』[25]など6種類の詩話を収録している。[19]

日本語での杜甫評伝・研究編集

杜甫に関する論考集成、著者の杜甫研究を概観できる。補篇は、第二十二・二十五・二十六巻
  • 目加田誠『杜甫物語 詩と生涯』(社会思想社、1969年)。のち「著作集7 杜甫の詩と生涯」龍渓書舎
  • 高木正一『杜甫』(中公新書、1969年)
  • 郭沫若/須田禎一訳『李白と杜甫』(講談社、1972年)
  • 黒川洋一『中国詩文選15 杜甫』(筑摩書房、1973年)
  • 馮至/橋川時雄訳『杜甫伝 詩と生涯』(筑摩書房<筑摩叢書>、1977年)
  • 黒川洋一『杜甫の研究』(創文社、1977年)
  • 鈴木修次『杜甫 人と思想57』(清水書院、1980年、新装版2014年)
  • 和田利男『杜甫 生涯と文学』(めるくまーる社、1981年)
  • 黒川洋一『杜詩とともに』(創文社、1982年)
  • 森野繁夫『中国の詩人7 杜甫』(集英社、1982年)
  • 劉開揚/橋本堯訳『杜甫』(中国古典入門叢書:日中出版、1984年)
  • 高島俊男『李白と杜甫』(講談社学術文庫、1997年)
  • 黒川洋一『杜甫 中国の古典<ビギナーズ・クラシックス>』(福島理子編、角川ソフィア文庫、2005年)
  • 古川末喜『杜甫農業詩研究 八世紀中国における農事と生活の歌』(知泉書館、2008年)[26]
2018年に西北大学出版社より、「日本学人唐代文史研究八人集」として中国語に翻訳されて出版されている。
  • 興膳宏『杜甫―憂愁の詩人を超えて』(岩波書店「書物誕生 あたらしい古典入門」、2009年)
中国詩歌史における杜甫の立ち位置、杜甫の近体詩古体詩についてみたのち、生涯にそって作品を読む。巻末には参考文献リスト、年譜が付される。
  • 宇野直人・聞き手江原正士[27]『杜甫-偉大なる憂鬱』(平凡社、2009年)
  • 後藤秋正『東西南北の人―杜甫の詩と詩語』(研文出版、2011年)
  • 後藤秋正『杜甫詩話 何れの日か是れ帰年ならん』(研文出版、2012年)
  • 川合康三『杜甫』(岩波新書、2012年)
  • 松原朗編『杜甫研究論集 生誕千三百年記念』(研文出版、2013年)[28]
  • 谷口真由美『杜甫の詩的葛藤と社会意識』(汲古書院、2013年)
  • 古川末喜『杜甫の詩と生活―現代訓読文で読む』(知泉書館、2014年)
筆者はこの著作の中で現代訓読文という試みを行っている。それは口語体による漢詩の訓読であり、注なしで漢詩を読むという方法である。例えば、「江漲」詩の「江漲柴門外」は一般的な訓読では「江は漲る 柴門の外」であるが、現代訓読文では「柴づくり わがやの門の 外には江の 漲りあふれ」となる。巻末には、杜甫関連地図や索引のほか、杜甫生活年表が付される。杜甫の生活に密着した年表であり、一般の年表とは一線を画すものである。[29]
  • 後藤秋正『花燃えんと欲す 続・杜甫詩話』(研文出版、2014年)
  • 後藤秋正『「春望」の系譜―続々・杜甫詩話』(研文出版、2017年)
  • 松原朗編『杜甫と玄宗皇帝の時代』(勉誠出版、2018年)
  • 長谷部剛『杜甫詩文集の形成に関する文献学的研究』(関西大学出版部、2019年)
  • 向島成美編『李白と杜甫の事典』(大修館書店、2019年10月予定)
  • 日本杜甫学会編『杜甫研究年報』(勉誠出版)
2018年に創刊号、2019年に第二号が出版された。杜甫研究論文のほか、日中韓、台湾、香港における研究概況、杜甫関連著作の解題などが掲載されている。[30]

「春望」編集

[※ 1]

春望
原文
(拼音)
書き下し文
國破山河在
(guó pò shān hé zài)
国破れて山河在り 国家(唐の国都当時は長安)は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、[※ 2]
城春草木深
(chéng chūn cǎo mù shēn)
城春にして草木深し 長安城にも春が訪れ草木が生い茂っている。
感時花濺涙
(gǎn shí huā jiàn lèi)
時に感じては花にも涙を濺ぎ 時世(戦乱の時期)の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、[※ 3]
恨別鳥驚心
(hèn bié niǎo jīng xīn)
別れを恨んで鳥にも心を驚かす 家族との別れをうらめしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛ませる。
烽火連三月
(fēng huǒ lián sān yuè)
烽火 三月に連なり 三月[※ 4]になってものろし火(安禄山の乱による戦火)は消えることはなく、
家書抵萬金
(jiā shū dǐ wàn jīn)
家書 万金に抵る 家族からの手紙は万金にも値する。
白頭搔更短
(bái tóu sāo gèng duǎn)
白頭掻けば更に短く (心が痛んで)白い頭を掻けば掻くほど髪の毛が抜け落ち、
渾欲不勝簪
(hún yù bú shēng zān)
渾て簪に勝えざらんと欲す まったくかんざしを挿せそうにもないほどだ。
  1. ^ 本詩の解釈は、下定雅弘・松原朗『杜甫全詩訳注』第一巻(講談社学術文庫、2016年、443頁)に拠った。題意は、至徳二載(七五七)三月長安での作。当時杜甫は長安にて軟禁されていた。また、家族を鄜州に疎開させていた。情勢は日に日に悪化する一方で、そのとき春の眺めをみて詠じた作。詩型は五言律詩。韻字は下平一二侵「深・心・金・簪」本詩に関しては、後藤秋正「春望の系譜」(『「春望」の系譜 続々・杜甫詩話』所収、研文出版、2017年)、大橋賢一「中学校国語教科書における漢文教材としての「春望」について」(『中国文化』第63巻、2005年)、堀誠「 杜甫「春望」という古典教材 」(『早稲田大学大学院教職研究科紀要』第6巻、2014年)、丁秋娜「日本と中国における「漢文教育」の比較研究 : 杜甫の「春望」の場合 」(『早稲田大学教育学部学術研究 国語・国文学編』、2009年)など様々な論文がある。
  2. ^ 「国」と「山河」という語に関しては後藤秋正氏に「杜甫「春望」の「国」について」(『札幌国語研究』第14巻、2009年)と同じく後藤氏「杜甫の詩における「山河」と「山川」、「江山」」(『杜甫の春望の系譜 続々杜甫詩話』所収、研文出版、2017年)がある
  3. ^ 「花濺涙」は「花涙をこぼす」とも訳せるため、花が泣いていると擬人法と解釈する説もある。次句の「鳥驚心」も同様。吉川幸次郎『杜甫詩注』第三冊(筑摩書房、1979年、191頁)などが擬人法で解釈する代表的なものとして挙げられる。この聯に関しては、野口宗親「杜甫「春望」の濺涙について」(『熊本大学教育学部紀要』第43巻、1994年)、野口宗親「杜甫「春望」の驚心について」(『国語国文研究と教育』第32巻、1995年)、岡本洋之助「杜甫「春望」の「感時花濺淚、恨別鳥驚心」句の解釋 宋代の場合」(『中国言語文化研究』第12号、2012年)、後藤秋正「杜甫「春望」の頷聯について」(『中国文化』第73巻、2015年)など、手軽に見られる論文がある。
  4. ^ 三月にまで続くと解したが、他に三を概数として「何か月も続く」「今年の春3ヶ月間」「陰暦の三月まで」「去年の三月から今年の三月まで」とする解釈もある。松浦友久「烽火連三月―数詞の声調をめぐって」(『詩語の諸相-唐詩ノート-』所収、研文出版、1981年)に詳しい。

杜甫関連史跡編集

  • 成都杜甫草堂:杜甫は乾元二年(759年)9月に華州より成都に到った。そこで支援者の援助を受けつつ、桃の木や竹などを植えた草堂を建築した。杜甫はこの草堂にて多くの詩作を行った。杜甫が作った本来の草堂はもう失われているが、その後、再建されたものが現在、博物館となり観光地となっている。現存する建物の多くは明の弘治13年(1500年)と清の嘉慶16年(1811年)の二度の大改修時のものである。[3][31]
  • 杜公祠:陝西省西安市長安区少陵原畔に位置する。

杜甫と松尾芭蕉編集

 
成都杜甫草堂内部

日本文学への影響[32][33]漢詩以外のジャンルにもあり、松尾芭蕉はその影響を受けた人の一人と考えられる。芭蕉の「虚栗」の跋文に「李杜が心酒を嘗て」ということからも杜甫の愛読者であったことがうかがわれる。また、芭蕉の「憶老杜」と題する作に「髪風を吹いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ」は杜甫の「白帝城最高楼」の「藜を杖つき世を歎ずるは誰が子ぞ、泣血 空に迸りて 白頭を回らす」をふまえているされる。[34]臨終記録たる『花屋日記』[35]によると、芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったとされている、『奥の細道』の一節には、

さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。
  夏草や 兵どもが 夢のあと

と杜甫の「春望」を意識していることがうかがわれれる。黒川洋一は芭蕉は多くの句に杜甫の句を典故に用いたり、また、杜甫の句に暗示を受けて作った作があるとする。[36]吉川幸次郎は、芭蕉と杜甫には単に類似の語がみられることにとどまらず、芭蕉が杜甫から得たものは「自然を単なる美としてとらえず、世界の象徴、ことに自己の生の象徴として感じ得たこと」と述べ、芭蕉の句は「生活の現実に触れた句」「芭蕉の内部にあるものを投影しようとして、外なる自然をとらえ得たと感ずる句」の二類に帰すると指摘し、そしてそれらは杜甫の句づくりに通ずるところがあると述べる。[34]

パロディ編集

杜甫の画像は2012年から、中国語のサイトにおいてパロディの題材として広く用いられている。2012年3月21日、新浪微博(中国版ツィッターとも言えるもの)で杜甫の画像のパロディがアップされ、大きな話題になった。[37]

その後、このパロディは成都杜甫草堂博物館による自己宣伝ではないかと疑われたが、成都杜甫草堂博物館の副館長はそれを否定した。[38]

脚注編集

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  1. ^ a b 後藤秋正「杜甫はいつから「詩聖」になったか」(『札幌国語研究』第22巻、2017年)
  2. ^ 唐代の杜審言、李嶠、崔融、蘇味道のこと。「文章四友」という言葉は唐書の杜審言伝に見える。
  3. ^ a b 杜甫の成都草堂に関しては古川末喜『杜甫農業詩研究 八世紀中国における農事と生活の歌』(知泉書館、2008年)の第Ⅱ部第一章「浣花草堂の外的環境・地理的景観」や松原朗「杜甫と裴冕 : 成都草堂の造営をめぐる覚書」(『専修人文論集』第91巻、2012年)、同じく松原朗「杜甫の百花潭莊 : 浣花草堂のもう一つの顏」(『中國詩文論叢』第32巻、2013年)など研究がある。
  4. ^ a b 杜甫の生涯に関しては、下定雅弘松原朗編『杜甫全詩訳注』第4冊の巻末に付された古川末喜氏の杜甫年譜が詳しい。古川氏作成の年表は『佐賀大学文化教育学部研究論文集』(2015年)に収録された「杜甫年表(稿):教学のための」も閲覧できる。また、小川環樹編『唐代の詩人-その伝記』(大修館書店、1975年、229頁、当該箇所は黒川洋一担当)には『新唐書』巻201「杜甫伝」の訓読、現代語訳、注、参考文献が記載されており、歴史書における杜甫の評価、生涯等を知ることができる。なお、周祖譔主編『中国文学家大辞典 唐五代巻』(中華書局、1992年、中文書)は歴史書に記載がないような詩人についてまで幅広く記載がある。
  5. ^ 植木久行『唐詩物語―名詩誕生の虚と実と』(大修館書店、2002年、73-99頁)
  6. ^ 黒川洋一『杜甫』鑑賞中国の古典第17巻(角川書店、1987年、14頁)
  7. ^ 吉川幸次郎「杜甫について」(『吉川幸次郎全集第十二巻』、筑摩書房、1968年)
  8. ^ 「六朝梁の昭明太子によって編纂された『文選』は、唐から近代に至るまで 中国文学の規範の一つとされてきた。『文選』の文学観は、昭明太子が序に言う 「事出於沈思、義帰乎翰藻」(事は沈思に出で、義は翰藻に帰す)に集約されて いるが、唐以後の文学に対して、『文選』の及ぼした影響として看過できないのは、 その作品内容に関わる「沈思」よりも、むしろ言語表現の美をいう「翰藻」の方で あろう。文学言語の創作という面で『文選』の与えた影響はきわめて大きいと 思われるのである。」広島大学中国文学研究室HPより
  9. ^ 大橋賢一「杜甫と『文選』」(松原朗編『杜甫と玄宗皇帝の時代』勉誠出版、2018年、202-214頁)
  10. ^ 元稹は「唐故工部員外郎杜君暮係銘」序で「詩人以来(『詩経』の詩人)、未だ子美(杜甫の字)の如き者有らず」と絶賛した。また、『雲仙雑記』巻七に中唐の張籍が杜甫の詩集を焼いて、灰にし、蜂蜜と混ぜて飲み「吾が肝腸をして此れより改易せしめよ」といった逸話も残っている。
  11. ^ 韓愈は「調張籍」にて「李杜文章在り、光燄万丈長し」と杜甫を評価する。
  12. ^ 劉攽『中山詩話』に「楊大年、不喜杜工部詩、謂為村夫子。楊大年、杜工部の詩を喜ばず、謂て村夫子と為す。」とある。これを吉川幸次郎『宋詩概説』(新版・岩波文庫、2006年、92頁)は踏まえているのだろう。
  13. ^ 北宋における杜甫詩の受容に関しては湯浅陽子「北宋中期における杜詩の受容について」(『三重大学人文学部文化学科研究紀要』第二十七巻、2010年)がある。
  14. ^ 下定雅弘氏が運営する中国文学の回廊というHPに下定の講義用資料「絶句の美学」が掲載されている。
  15. ^ 例えば、明代の趙宦光らによる『万首唐人絶句』を紐解いてみると李白の絶句は100首余りが収録されるのに対し、杜甫は50首程度である。
  16. ^ 杜甫の律詩への評価は一貫して高く、江戸時代儒者の津坂東陽は、杜甫の律詩に注解を施した『杜律詳解』といった書物も残している。『杜律詳解』は近年二宮俊博氏が訳注製作を行っている。津坂東陽『杜律詳解』訳注(一)から(十五)まである。
  17. ^ 高島俊男『李白と杜甫』(新版・講談社学術文庫、1997年、348-49頁)では、「絶句四首 其三(両箇黄鸝)」詩を取り上げて、杜甫の絶句を「独立した対句として見るならば、これはまことにりっぱなもので、文句のつけようはない、ただ、そのみごとな対句を二つ並べて、はい、これで絶句でございます、と言われては少々納得しかねる」と評している。その一方で松浦友久編『校注 唐詩解釈辞典』(「絶句四首 其三」備考「杜甫の絶句」、377頁より、執筆担当は宇野直人)は「彼の絶句が、絶句の通念と異なっているとしても、そこに律詩の名手としての彼の個性がまぎれもなく刻印されているという意味では、それらの作品もやはりかけがえのない価値を有すると言ってもよいだろう」と評価する。なお、杜甫の対句については高木正一「杜詩の対句についての一考察」(『中国文学報』第一冊、1954年)などの論文がある。
  18. ^ 全47巻。乾隆帝による勅撰詩集。乾隆15年(1750年)の成立。李白、杜甫、韓愈白居易蘇軾陸游の六人の詩を選び、詩ごと、詩人ごとに評を付す。評は当時の評価基準を示すものとして注目される。日本では李白、杜甫の部分だけ江戸時代に翻刻された。近藤春雄『中国学芸大事典』(大修館書店、1992年、600頁)等を参照した。
  19. ^ a b 重松詠子氏作成の杜甫詩題索引--訳解・校注等14種文献中における--にて、詩題索引を行うことができる。『杜甫全詩訳注』を含まない索引は古川末喜氏、重松詠子氏作成の「杜甫詩題索引:訳解・校注等13種文献中における」(『佐賀大学文化教育学部研究論文集』第20巻、2016年)も利用できる。
  20. ^ 東京大学齋藤希史氏による書評もある。(産経新聞、2016年11月27日)URLはこちら
  21. ^ 編者の松原朗氏が『杜甫全詩訳注』の刊行に際して、本書の社会的意義等について述べている記事もある。URLはこちら
  22. ^ 明治書院、新釈漢文大系詩人編の特設サイト
  23. ^ 古川末喜『杜甫農業詩研究 八世紀中国における農事と生活の歌』(知泉書館、2008年、Ⅴ頁)
  24. ^ 中国哲学書電子化計画からも『杜詩詳注』は閲覧できる。URLはこちら
  25. ^ 『杜公部草堂詩話』をはじめとして、詩話、詞話のテキストは搜韻にて、公開されている。URLはこちら
  26. ^ 本書の元となった博士論文は、神戸大学機関リポジトリから閲覧できる。URLはこちら
  27. ^ NHKラジオ「古典講読 漢詩」での再編本
  28. ^ 遠藤星希氏に書評がある。遠藤星希「[書評]中國詩文研究會 松原朗編『生誕千三百年記念 杜甫 硏究論集』」(『中国文学報』、2014年)
  29. ^ 森岡ゆかり氏のHPにも紹介がある。URLはこちら
  30. ^ 日本杜甫学会のHP上に、『杜甫研究年報』の目次が公開されている。URLはこちら
  31. ^ 中国の名所旧跡に関しては葛暁音『中国名勝与歴史文化』(北京大学出版社、2001年)が詳しい。杜甫草堂に関しては387から389頁に記載される。成都杜甫草堂博物館のURLはこちら(日本語版有) LINEトラベルの記事はこちら
  32. ^ 松尾芭蕉以外の日本文学(正岡子規与謝蕪村等)への影響については、黒川洋一『杜甫 ビギナーズ・クラシックス』(角川ソフィア文庫、2012年)でも紹介している。
  33. ^ 歌人の太田青丘『芭蕉と杜甫』にも詳しい(教養選書・法政大学出版局、のち「著作選集 第2巻」おうふう)
  34. ^ a b 吉川幸次郎「芭蕉と杜甫」(『吉川幸次郎全集』第十二巻、筑摩書房、1970年、710頁より)
  35. ^ 校訂本は文暁『花屋日記 芭蕉臨終記』(小宮豊隆校訂、岩波文庫、新装復刊2017年)
  36. ^ 黒川洋一『杜甫 下 中国詩人選集 10』(岩波書店、1959年、10頁)、上巻(岩波書店、1957年)では、芭蕉に影響を与えた句をその都度指摘している。
  37. ^ “杜甫很忙”系人为策划 遭公关团队与新浪微博“认领””. TechWeb.com.cn (2012年3月31日). 2012年3月31日閲覧。
  38. ^ 网上杜甫很忙 网下草堂很冤”. 成都日报 (2012年3月30日). 2012年3月31日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集