自主規制 > 表現の自主規制

表現の自主規制(ひょうげんのじしゅきせい)とは、表現の自由が「絶対的で無制限」なものではないという考え方より、表現者が自ら斟酌して自らの表現に制限を課すことをいう。単に「自主規制」と呼ばれ、これが日常慣例化するとタブーになることがある。

具体的に問題となるのは不特定多数の大衆を対象とした表現であることが多いため、一般的に、著者、出版社作曲家作詞家レコード会社放送局などが主体的に判断して言葉の置きかえや著作物の発表を取り止めるなどの行為を指すことが多い。

概要 編集

基本的人権である表現の自由は、経済的自由権などに比べて優位にあるものとされる[1]。これは、民主主義社会の成立には表現の自由の保証が不可欠であると考えられているからである[2]。ただし、表現の自由は絶対的で無制限なものではなく、表現行為によって人の名誉やプライバシーを侵害することは許されないものであり、他の人権と衝突する場合、一定の制限を受けざるを得ない[2]。この点から行われるものが表現の自主規制である。

基本的に「表現の自由」と「表現の責任」は一体のものであり、表現行為の責任は表現者に帰属する。従って、表現行為が他の人権を侵害するかどうかの斟酌によって行われるのが表現の自主規制で、その斟酌を行う主体は表現者である。表現の自主規制はマスコミなどに限らず、表現の自由が保証された民主主義社会においては、個人対個人のレベルより日常的に広く行われている。しかし一方で、具体的に表現のあるべき姿については多くの考え方が存在し、一義的に示すことは到底不可能である[3]

日本のマスコミの現状 編集

マスコミも利潤を追求する企業であり、読者・視聴者からの抗議などで商品である出版物などの売り上げが落ちる、あるいは「差別表現」が含まれた出版物の回収などで損害が出るといったことは、最も恐ろしい[4]ものである。

個々の表現者の責任不在 編集

欧米であれば文化的経緯によりマスコミの規制ではなく、著者など個々の表現者の責任における自律が一般的であるのに対し、日本の場合、個々の表現者の責任よりも、マスコミの直接責任が問われることが多いことから、マスコミが自主基準をもって規制を行うのが一般的である。これは戦後、民主化された日本において現実にマスコミに対する直接の法的な表現規制の動きが表面化したことが少なからずあったことによる[2]。日本のマスコミは、表現の自由が保証されている諸国の中で特異な存在ともなっている。これを好ましくないとする立場からは、マスコミの「事なかれ主義」と批判されることも少なくはないのであるが、特に1965年の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」において日本の最高裁判所は「利益衡量」基準(表現を認めた場合と規制した場合とのそれぞれの社会的利益を比較衡量して判断するもの)により判決を下し[5]、以降の裁判でも「利益衡量」基準が用い続けられており、従って日本のマスコミの場合、その表現が他の人権などと衝突して法廷闘争に至ると勝訴の見込みはまずないことから、表現者よりもマスコミによる規制のほうが定着している[6]

しかし近年のインターネットの普及により、誰でも自由に世界に広く情報発信できるようになったことなどから、日本の、個々の表現者の責任不在、すなわち「個人の言いたい放題」が、日本国内、国外のどちらからも問題視されるようになり、「日本人個人の人権意識」、すなわち本当の意味での戦後日本の表現の自由の大衆定着程度が問われるようになってきている。

2015年現在、例えば何かの少年事件が発生すると、従来の日本のマスコミでは「絶対の秘密」である少年(加害者)の個人名や住所などが、インターネット上でどんどん拡散、無論、日本でもこれは「何人であっても不法行為」であり、発信者は全員が全て処罰対象であるが、「また聞き」で急速に拡散してしまうことなどから、司法当局が発信者全員を検挙することはできず、結果、「ネット私刑(ネットリンチ)」などと呼ばれる深刻な事態を招くようにもなり、投稿サイトなどを中心として、従来のマスコミとほぼ同じ基準での厳しい「管理者による自主規制」がかけられ、管理者などによって問題があると判断された投稿文や画像などが一方的に削除されるようになっている。

欧米では管理者はよほどのこと(明白かつ現在の危険)がない限り関与せず、被害者からの法的根拠を示した請求がされるまで削除しない、また発信者に直接、被害者から損害賠償請求などがされるのとは対照的であり、従来、限られたマスコミだけの問題であった、曖昧で難しい日本の「利益衡量」基準が、各個人の日常問題、すなわち従来問題である、あってはならないとされてきた「公権力による表現規制」よりもはるかに問題である「関係のない第三者私人による表現規制」ともなっている。

「事なかれ主義」に侵入する「世論誘導」の危険 編集

「事実」は必ずしも「真実」ではないこと、また媒体は全て有限であり、限られた紙面や時間などで「真実」を伝えることはできないことから、日本のマスコミの「事なかれ主義」は深刻な事態を招くことがある。「利益衡量」基準を恐れるあまり、無意識のうちに権力者・実力者の意見・発言などをそのまま「安全なもの」=「真実」としてしまう、すなわちいかに事実といえど、結果として誤ったもの、不正確なものとなるものに対するマスコミの客観的考察力や対応力を削ぎ、最悪は今日、「御用報道」あるいは「大本営発表」などと言われる事態を招くことである。事実、過去の事件事故で裏付け取材をすることなく、警察発表そのままに報道した結果、著しく人権を侵害する結果となった例は数知れない[7]。また最近の例では、東京電力福島第一原子力発電所事故によって生じた退避エリアへの住民の再居住について、政府関係者が10年あるいは20年先になると発言した事実を、特に民間放送各局こぞって「ストレートにそのまま」報道、ところがこれは最も肝心な科学的精査の結果に依らない「だろう発言」であったことが間もなくわかり、「本当にそうであるかどうかは現状、まだわからない。」と訂正する事態を招いた。いたずらに不安に陥れられ、混乱させられたのは数万人の被災者と関係者であり、それは結果的にマスコミ自身が最も嫌う「報導」=「世論誘導」[要出典]となった。

第三者の出版社、レコード会社、放送局の自主規制 編集

日本の放送局の規制例として、身体的障害を表現する用語を「放送禁止用語」などとして「○○が不自由な人」と言い換えるのが一般的だが、これを例えば、過去の文学作品にまであてはめて改変しようとする行為は、過ぎたもの(「言葉狩り」)として批判されることがある。今日では、このような文学作品には、末尾などに「差別用語とされる語も含むが、当時の状況を鑑みまた芸術作品であることに配慮して原文のままとした。」などと記されることも多い。

受け手の立場や考え方などにより、不適切とも適切ともなるひとつひとつの表現を直接の表現者ではない第三者が判断して規制することは非常に難しい。例えば漫画であるが、小学館で『週刊ポスト』編集長代理などを務めた堀田貢得は、「漫画は「ユーモア」と「毒」が作品の味付けに不可欠といわれているが、差別表現で問題を起こした作品の「ユーモア」や「毒」は許されないもので、発行部数の膨大さからいっても社会的影響は大きく、責任も大きいものである。」と指摘、「したがって、表現者には才能やセンスも重要だが、21世紀の表現者には人権感覚が強く求められる。」と主張している。しかしまた堀田は「人権感覚は運動団体の関係者ですら、差別のカテゴリーが異なると「自信がない」と述懐するほど難しい問題で、出版業界でも人権感覚を研鑽するために社内啓発に努力しているが、なかなか理解されないのだという。あえて言えば、実際に直面しないと理解できないのではないか。」と本音も述べている[8]

大相撲名古屋場所中継中止問題 編集

特筆すべきは、日本放送協会(NHK)による、2010年に明らかになった相撲界の野球賭博問題を受けた大相撲名古屋場所中継中止である。ラジオも含め、大相撲中継がないというのは稀な事態(テレビ中継では過去、例がない)であり、日本の放送業界全体がいわば「利益衡量」基準による「自主規制の決定過程」まで視聴者(国民)に示した。

すなわちNHKは直近の大相撲名古屋場所について、視聴者からの反対意見の多いことを主な理由に、名古屋場所が開催されるとしても中継放送の中止の検討を行っていることを公表した。これについて民間放送(民放)各社は、NHKが日本相撲協会に支払っている放送権料は視聴者の受信料であり、多くの反対意見に逆らって放送することは、すなわち視聴者の利益を損なうものになると解説した。

そして鳥越俊太郎は、「反対意見」の信憑性について触れ、「声なき声、つまりこの場合の「賛成意見」は寄せられないものであるから、世論実態はどうなのかをよく調査・検討して放送中止の判断をすべきである。また賛成意見に応えるために、中止したとしても、勝敗結果などはダイジェストで放送すべきである。」と述べ、結果、NHKの決定もそうなったことである。現在進行中の案件に係る放送局の自主規制決定過程が、リアルタイムにここまで明らかにされたのは過去、およそ例がない。

歴史 編集

例えば欧米にはもともと卑猥・粗雑な言葉や表現の公共の場での使用はタブーとする文化的概念が古くからあるため、こういった言葉や表現の使用は、公共の場における使用のみならず、出版物などについても法的に制限されてきた経緯がある。上位となる文化的概念や直接的な法的規制が存在するため、例えば差別用語であれば、それぞれの差別用語の使用をいちいち自主規制で禁止するという考え方そのものが存在しない。すなわち表現行為の責任は全て表現者に帰属するという考え方が古くからあり、直接の表現者ではないマスコミなどが、その主観的な判断で表現者の表現行為を規制しようとすることは珍しい。欧米のみならず今日、多くの国々では「表現者の自由と責任」についての大衆の意識が高く、表現者に対して直接その責任を問う風潮が定着してきている。

一方、日本での表現の自主規制は、国語辞典『言海』の一項目「かははぎ」の修正にみられるように、水平社運動が盛んだった戦前から行われていたことが確認できる[9]

法規制に関わる自主規制 編集

わいせつ物へのモザイク処理 編集

日本ではわいせつ物頒布等の罪(刑法175条)により「わいせつ」な文章・図画(主に写真)・電磁的記録(主にビデオや画像データ)の頒布や陳列は(有償・無償を問わず)禁止されている。この「わいせつ」の概念は固定されておらず、チャタレー事件[10]四畳半襖の下張事件[11]といった過去の判例を元にその時代の社会通念に照らして(最終的には裁判所により)判断されるものとなっている。このため、アダルトビデオ成人向け漫画アダルトゲームといった成人向けのコンテンツは「わいせつ」と判断されないように倫理審査団体(日本コンテンツ審査センターコンピュータソフトウェア倫理機構など)がモザイク処理をかける「自主規制」を行っているが、当記事の他の「自主規制」と異なり、従わない場合は法令違反とされる可能性がある[12]

チャタレー事件の原因となった文学作品のチャタレイ夫人の恋人が後年になり完全版が発行されたり、わいせつ物として禁止されていたヘアヌードが解禁されるなど時代によって「わいせつ」の概念に変化はあるものの、過去から2020年現在に至るまで、無修正(もしくはそれに近い)の性器を表現する事は(学術・医学目的を除き)違法とされており[13]、修正が無い、あるいは不完全(薄い)といった理由で逮捕される事件は数多く発生している[14]。このため、他の「自主規制」とは性質が違う点に注意する必要がある。

なお、この規制は児童ポルノ禁止法青少年保護育成条例における表現規制と混同される場合があるが、直接的な関係はない[15]。現時点では規制されておらず、法規制の是非が議論されている準児童ポルノ(絵を児童ポルノと見なしたもの)などと異なり、刑法175条は既に運用されており、議論は有るにせよ2020年現在は過去複数の最高裁の判例により合憲とされている[16]。この刑法175条については、現状にそぐわない不合理な規制であるから廃止すべきといった批判もあり[17][18]参議院議員山田太郎が刑法175条の見直しを政策課題として掲げている[19]

表現の自主規制の例 編集

出版など 編集

『ちびくろさんぼ』問題
1988年ワシントン・ポストに掲載された日本の黒人のキャラクター人形に対する批判記事を発端として、市民団体「黒人差別をなくす会」が『ちびくろサンボ』の内容は黒人を貶めるものだと最も有名な翻訳版の発行元である岩波書店に抗議し、本書は全社自主規制で絶版になった。これを契機に黒人差別をなくそうとする世論が高まった。これを受けて、黒人差別に繋がるとして厚い唇で肌が黒いキャラクターが問題視された結果、カルピスの黒人マークが廃止され、ジャングル黒べえダッコちゃん人形などが販売中止になった。その後、一部行き過ぎの面があったとして批判もあり、ダッコちゃん人形の色を変更してのリニューアル、『ちびくろサンボ』の原書直訳版刊行や岩波版の復刻など見直しが進んだ。
『無人警察』問題
1993年、高等学校の国語文部省検定済教科書に掲載される予定であった筒井康隆の小説『無人警察』において「てんかんに関する描写、結論」が誤解・偏見を招くとして、日本てんかん協会から抗議を受け、出版元である角川書店がその収録を取り消した。
これに対して筒井は抗議、断筆を宣言した。(リンク参照、両者は痛み分けの形で譲歩・和解し、1996年に執筆再開)筒井は『噂の眞相』1993年9月号で「てんかんであったドストエフスキーは尊敬するが、彼の運転する自動車には乗りたくないし、運転してほしくなく、自分はブラックユーモアという文学的伝統を守ろうとしている作家の一人だ。」と反論している[20]
かな漢字変換ソフトウエアにおける漢字変換
MS-IMEATOKなど、一部のPCかな漢字変換ソフトウエアでは、差別用語とされている語句[注釈 1]などが、商品出荷時の辞書登録から除外されており、初期状態では変換できない。なお、同用語であってもmacOSに標準搭載されていることえりでは出荷時の状態で変換が可能であったりと、必ずしも共通した見識や条件で採用されているとは限らない。
紀伊國屋書店における一部漫画の撤去
1999年児童ポルノ禁止法が施行されたときに、紀伊國屋書店で18歳未満の性描写がある一部の漫画が撤去された。この出来事は過剰な自主規制の象徴的存在とされている。

映像作品 編集

アニメ化に伴う変更点 編集

原作漫画に存在した残虐や暴力・お色気描写を規制する動きが1990年代以降、急増した。

主な規制された作品

テレビドラマ及び映画 編集

アニメと同様に極端な描写は規制される。

音楽 編集

発売の禁止または歌詞の変更など 編集

歌詞に暴力的、差別的、卑猥な内容などがある場合、例えばCDの発売にあたっては、歌手がはっきり歌っていても、その歌詞カードに載せないことがある。これらはレコ倫またはレコード会社の判断による。

1997年11月21日に当時のCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)から発売された加藤登紀子のアルバム『TOKIKO CRY 〜美しい昔〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.2』に収録された「影のジプシー」作中の「ジプシー」という語に対し使用に抗議があり問題視され、「闇の中で」と改題された。これが契機になり、同社から発売された別の音源にも自主規制が及ぶことになり、1980年発売の山口百恵の『謝肉祭』には、歌詞にあった「ジプシー」という語ゆえに、1997年7月21日発売の「山口百恵ベスト・セレクションVol.2」を最後にしばらくCD収録が見送られた。1974年発売の吉田拓郎の『ペニーレインでバーボン』の歌詞にある「つんぼ桟敷」という語もまた問題とされ廃盤となった。「謝肉祭」に関しては、引退公演の模様を収めたDVDからもカットされたが(ライブCD、またライブビデオやLD発売時はカットされず収録)、2005年5月25日発売の「コンプリート百恵回帰」に「謝肉祭」を収録したことについての注釈を歌詞カードに載せ収録されたことを契機に、2006年1月18日に発売された山口の「モモエ・ライブ・プレムアム」ではCD・DVD共にカットされず収録された。『ペニーレイン~』は2006年の「つま恋」コンサートで吉田拓郎本人が「蚊帳の外で」と言い換えて歌い、2009年発売のBOXセット『Takuro Premium 1971 - 1975』では当該曲を削除することにより、吉田自身のこの曲に対する態度を表明している。その後、2022年12月21日に収録アルバム「今はまだ人生を語らず」の再発売時に無修正で収録された。

近年では、トッド・ラングレンのアルバム『nearly human』は日本盤でジャケットを作り変えられた(6本指の手形を5本指に変更)。2002年にはキングギドラの『UNSTOPPABLE』『F.F.B.』の歌詞に同性愛者エイズ患者に対する表現が問題となり、回収、発売が中止されたことがある。

放送の禁止 編集

発売禁止にならない楽曲であっても、猥褻、暴力表現が強いとされる曲は、放送局の判断により、その全てまたは一部が放送されないことがある。また「イムジン河」のように政治的要因から規制された例もある。

なお[誰によって?]こういった楽曲は「放送禁止歌」と呼ばれているが、森達也のTVドキュメンタリー「放送禁止歌」(1999年)により、戦後日本の放送において「放送禁止歌」なるものは存在せず、各放送局が「危うきに近寄らず」で規制しているだけのものであることが明らかにされた。

始まりは1959年日本民間放送連盟(民放連)が、「要注意歌謡曲指定制度」(正しくは「放送音楽などの取り扱い内規」)を定め、放送上問題となる楽曲を「要注意歌謡曲」として指定し、各放送局に通達したことによる。本来、この制度は拘束力のない単なる「目安・参考資料」であり、各局がそれぞれ判断して決めるというものであったが、多くの番組制作現場にはそのようなことは知らされておらず、番組制作担当者は「要注意歌謡曲」を事実上「放送禁止歌」として扱った。ちなみに、放送事業を規制する法令である電波法に抵触するとして実際に放送できなかったのは、邦楽ではピンク・レディーの「S・O・S」が挙げられる。

この制度は1983年に廃止されたが、かつて指定された曲の多くは放送されないままである。

最終的な要注意歌謡曲の消滅時期に関しては、経過措置の関係から特定が難しいが、民放連の公式見解である1987年とするのが一般的[要出典]である[21]。なお消滅を1988年とする資料もある[22]。)

特定の企業・団体名や商品名など 編集

上述の例は概ね、日本独特のものであるが、特定の企業・団体名や商品名などについての取り扱いの制限などは各国の法の下、世界的にマスコミで広く行われている規制の代表である。以下、放送を例にして述べる。

例えば日本の「公共放送」であるNHKでは、その番組基準第12項の規定により、事件・事故報道や、社会的に大きな影響がある話題の報道を除き、全ての番組で、特定の企業・団体名や商品名を出さないように極力配慮される。過去、楽曲についても規制されていて、音楽番組レッツゴーヤングでは、山口百恵の「プレイバックPart2」中の「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤なクルマ」に置きかえて歌わさせたり、NHK紅白歌合戦でも該当するものについては、同様の措置がとられていた。

この規制は、NHKが「公共放送」としていることから、特定の企業・団体・商品がその放送により有利なものとならないようにするための配慮により設けられているものであるが、これ以前の問題として、NHKといえども、日本の商標法などによる規制を受けるためでもある。

商標法は各国によって異なること、また商標法は各国内においてそれぞれ有効であることなどから、NHKとの共同制作番組の多いイギリスBBCは、娯楽番組も含めて、特定の企業・団体名や商標を特に隠したりはしない。一方、台湾では国営放送のみならず、放送においては通常、隠すのが一般的である。また米国では例えば日本で商標登録がなされていても米国で登録のなされていないものについて「TM」と表記することは違法となるため、この部分のみ隠すといったことがなされるが、責任の所在はあくまでも商標権者にあるので、商標権者の責任において規制されるのが一般的である。なお会社・団体名についても登録商標とすることができるため、今日、会社・団体名も商標登録されていることが多く、これらは商品名と同じ扱いとされる。

一方、「商業放送」である民間放送局ではその番組内でも特定の企業・団体名、商品名の使用がなされる。しかしその使用についてはあらかじめ商標権者の許可を受けて行なう、あるいはCM、すなわち他のスポンサーとの関係を図るなど、むしろその取り扱いは国営放送あるいは公共放送よりも複雑かつ慎重である。例えば日本では、ある自動車会社がその新型車に独自の新技術を投入し、売上をのばしているという話題を番組中で取り上げた場合、その番組に他の自動車会社がスポンサーとしてついている場合、そのCMについてはスポンサーと協議(具体的な放送内容をスポンサーに示して協議するのではなく、スポンサー契約時に特定の企業・団体を指定せず「番組中、同業他社の話題を取りあげ、その商品を取りあげた場合には~」といった取り決めがなされる。)の上で放送するといった細かな配慮がなされる。なおこのようなCMの自主規制は、スポンサーの広告効果を高めるための民間放送局の商取引(サービス)として積極的に行われる例でもある。なおCMには「不公正取引の防止」「消費者保護」「行政施策の必要性」などの観点からさまざまな規制が実施されている[23]

最近では、NHKでもドラマのシーンでコカコーラを飲むシーンがあったり、ラジオ放送で、放送中であるUHF系列のアニメのアニメソングをアニメタイトル紹介有りで放送することもあるようになっている。(前者はだんだん後者は今日は一日○○三昧)一方、経営難に陥っている民間放送局では商標権者の許可がとれない[注釈 2]ために、商標を隠して放送することも増えている。

なお、具体的にどのような自主規制やタブーが存在するのかは、報道におけるタブーに、より詳細な内容が記載されているので参照されたい。

その他 編集

「上映禁止」「放送禁止」などの言葉には猥褻、暴力性が強いというイメージがあるため、逆に作品の宣伝などに利用されることもある。

具体例としては山平和彦の「放送禁止歌」、ザ・タイマーズの「放送禁止ソング」など、サブカルチャーや反体制的な集団・文化等で風刺やギャグとしても用いられる。アニメ「大魔法峠」のキャラクターソングにも「ぷにえの放送禁止ソング」というタイトルのものがあり、こちらも猥雑さや暴力性を含む。

関連項目 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 例:きちがい支那
  2. ^ 商標利用料の支払いができないなどの理由がある。

出典 編集

  1. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p3-4)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  2. ^ a b c 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p5)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  3. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p5-6)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  4. ^ 堀田貢得著 『実例・差別表現』 大村書店、2003年7月、p29-33。
  5. ^ 博多駅テレビフィルム提出命令事件・最高裁判決
  6. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p117他)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  7. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p113-125)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  8. ^ 堀田貢得著 『実例・差別表現』 大村書店、2003年7月、p34-35。
  9. ^ 山田忠雄『近代国語辞書の歩み』 三省堂、1981年
  10. ^ 刑集11巻3号997頁”. www.courts.go.jp. 最高裁判所. 2021年6月22日閲覧。
  11. ^ 刑集第34巻6号433頁”. www.courts.go.jp. 最高裁判所. 2021年6月22日閲覧。
  12. ^ 同人誌作成上の注意点|株式会社 栄光|栄光情報最前線”. sasshi.eikou.com. 2021年7月2日閲覧。
  13. ^ 違法情報の解説 - 運用ガイドライン - IHC”. インターネット・ホットラインセンター. 2021年6月22日閲覧。
  14. ^ 無修正のアダルトゲームがわいせつ物であるとして関係者が逮捕された1991年の沙織事件、モザイクの薄い成年向け漫画がわいせつ物であるとして関係者が逮捕された2002年の松文館裁判及び2013年のコアマガジンなど
  15. ^ 【注意喚起】コミックマーケットにおける頒布物の表現について”. www.comiket.co.jp. 2021年7月2日閲覧。
  16. ^ わいせつ表現をめぐる憲法解釈”. Takehiro OHYA Online. 大屋雄裕. 2021年7月2日閲覧。
  17. ^ 志田陽子 (2020年7月17日). “ろくでなし子裁判・最高裁判決は何を裁いたのか ――刑事罰は真に必要なことに絞るべき”. Yahoo!ニュース. 2022年1月3日閲覧。
  18. ^ 小宮自由 (2016年5月19日). “わいせつ物頒布罪は廃止すべきである”. アゴラ. 2022年1月3日閲覧。
  19. ^ 特集「山田太郎の5つのプロジェクト始動」”. 参議院議員 山田太郎 オフィシャル Web サイト. 2022年1月3日閲覧。
  20. ^ 堀田貢得著 『実例・差別表現』 大村書店、2003年7月、p99-100。
  21. ^ 社団法人日本民間放送連盟 「日本民間放送連盟 放送基準」
  22. ^ 森達也著 『放送禁止歌』 光文社、2003年、p65-73
  23. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p300-321)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 

参考文献 編集

  • 森達也・森巣博著 『ご臨終メディア-質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 集英社、2005年。ISBN 978-4087203141
  • 堀田貢得『実例・差別表現…糾弾理由から後始末まで、情報発信者のためのケーススタディ』(初版)大村書店(原著2003年7月7日)。ISBN 4756330215 

外部リンク 編集