陸軍軍医学校 (りくぐんぐんいがっこう) は、かつて現在の東京都新宿区戸山町に存在した旧大日本帝国陸軍医学科教育機関軍学校)。陸軍戸山学校が近接していた。なお、海軍には海軍軍医学校が設置されていた。

概要編集

跡地に建設された施設編集

中山出張所編集

第二次世界大戦中には、中山競馬場千葉県船橋市)が陸軍に接収され、敷地の一部が陸軍軍医学校中山出張所として血清ワクチンの製造工場などが置かれた。戦後は食糧難のため畑となり麦や野菜などが植えられていた。

沿革編集

 
衛生学教室(1929年)。戦後国立栄養研究所の庁舎となった。
  • 1886年明治19年)5月21日 - 陸軍軍医学舎概則制定(陸軍省令甲第21号)。陸軍省内に設置され、6月21日始業式を行う。
  • 1888年(明治21年)1月23日 - 麹町区富士見町4丁目25番地(現・東京逓信病院)へ移転。
  • 1888年(明治21年)12月27日 - 陸軍軍医学校条例制定(勅令第97号)。
  • 1913年(大正2年)2月 - 恩賜財団済生会麹町診療所開設(1915年10月に済生会病院麹町分院へ改称、現:牛込恩賜財団済生会病院)。
  • 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により本館建物が崩壊。ほかに毒ガスが漏出するなど被害甚大であったが、幸い死傷者はなかった。
  • 1929年(昭和4年)3月30日 - 牛込区戸山町41番地(現:新宿区戸山1丁目)へ移転[5]
  • 1944年(昭和19年)- 中山競馬場が陸軍に接収され閉鎖、敷地の一部が陸軍軍医学校中山出張所となる。
  • 1945年(昭和20年)5月25日 - 東京大空襲(山の手大空襲)により標本館と衛生学教室を除き全焼。
  • 1945年(昭和20年)11月26日 - 陸軍軍医学校令の廃止(陸軍省令第56号)。
  • 1946年(昭和21年)- 陸軍軍医学校中山出張所の血清製造工場が千葉県に貸与され「千葉県血清研究所」となるが、進駐軍の農場として接収され移転。
  • 1947年(昭和22年)- 中山競馬場の敷地が進駐軍から返還され、競馬場として営業再開。
 
陸軍軍医学校全景(1929年)

歴代校長編集

陸軍軍医学舎長編集

  • 緒方惟準 軍医監:1886年6月20日 - 1887年2月2日[6]
  • (兼)足立寛 一等軍医正:1887年2月2日 - 1887年5月17日
  • 石阪惟寛 軍医監:1887年5月18日 - 1888年11月30日
  • (兼)石黒忠悳 軍医監:1888年11月30日 - 12月28日

陸軍軍医学校長編集

  • (兼)石黒忠悳 軍医監:1888年12月28日 - 1890年10月7日
  • (兼・心得)足立寛 一等軍医正:1890年10月20日 - 1891年3月16日
  • (心得)足立寛 一等軍医正:1891年3月16日 - 1891年6月12日
  • 足立寛 軍医監:1891年6月12日 - 1892年3月14日
  • 田代基徳 軍医監:1892年3月14日 - 1893年7月6日
  • (心得)森林太郎 二等軍医正:1893年7月7日 -
  • 森林太郎 一等軍医正:1893年11月14日 -
  • (事務取扱)森林太郎 軍医監:1895年9月2日 - 1895年10月31日
  • 森林太郎 軍医監:1895年10月31日 - 1898年10月1日
  • (兼)森林太郎 一等軍医正:1898年10月1日 - 1899年6月8日
  • (兼)谷口謙 一等軍医正:1899年6月8日 - 1901年3月9日
  • (事務取扱)小池正直 軍医監:1901年3月9日 - 1903年6月25日
  • 西郷吉義 一等軍医正:1903年6月25日 -
  • (事務取扱)西郷吉義 軍医監:1905年12月28日 - 1906年5月7日
  • 柴田勝央 一等軍医正:1906年5月16日 - 1906年8月10日
  • (事務取扱)森林太郎 軍医監:1906年8月10日 -
  • 芳賀栄次郎 一等軍医正:1907年12月8日 - 1910年10月13日
  • 宇山道硯 一等軍医正:1910年10月13日 - 1911年1月27日[6]
  • 保利眞直 一等軍医正:1911年1月27日 - 1912年9月28日
  • 本堂恒次郎 一等軍医正:1912年9月28日 - 1913年7月21日
  • 中川十全 一等軍医正:1913年8月7日 - 1914年8月8日
  • 下瀬謙太郎 一等軍医正:1914年8月10日 - 1920年4月9日[6]
  • 岩田一 軍医監:1920年4月9日 - 1922年5月10日[6]
  • 山田弘倫 軍医総監:1922年5月10日 - 1923年3月17日[6]
  • 岩田一 軍医監:1923年3月17日 - 1925年5月1日[6]
  • 飯島茂 軍医総監:1925年5月1日 - 1926年3月2日[6]
  • 秋山錬造 軍医総監:1926年3月2日 - 1928年3月8日[6]
  • 合田平 軍医監:1928年3月8日 - 1928年12月21日[6]
  • 一木儀一 軍医監:1928年12月21日 - 1932年4月11日[6]
  • 小山憲佐 軍医監:1932年4月11日 - 1933年8月1日[6]
  • 小泉親彦 軍医監:1933年8月1日 - 1934年3月5日[7]
  • 出井淳三 軍医監:1934年3月5日 - 1936年8月1日[6]
  • 寺師義信 軍医監:1936年8月1日 - 1939年8月1日[6]
  • 桃井直幹 軍医少将:1939年8月1日 - 1943年3月1日[6]
  • 三木良英 予備役軍医中将:1943年3月1日 - 1944年12月13日[6]
  • 井深健次 軍医中将:1944年12月13日 - 1945年9月
  • (代)渡辺甲一 軍医中将:1945年10月8日 -

周辺編集

人骨騒動編集

1989年平成元年)7月、陸軍軍医学校跡地における厚生省国立予防衛生研究所 (現・国立感染症研究所) 建設工事の際、同地から約100体に上るモンゴロイド人骨が発掘された。人骨には銃による傷跡や切り傷のある遺体が複数あったため、「731部隊による細菌兵器開発のための生体実験の犠牲者ではないか」などの疑惑が出た[8]

このため1993年(平成5年)9月、発掘された人骨の調査・研究を行えるよう、新宿区に対し人骨の火葬・納骨の費用を支出しないよう求める住民訴訟が提訴された。

また1992年1994年には、日本弁護士連合会内閣総理大臣に対し人骨の調査を行うよう勧告するとともに、区に対し人骨を保管するよう勧告する人権救済申立を行った[9]

2000年(平成12年)12月、最高裁判決で原告側の住民敗訴が確定。厚生労働省はこれを受け、翌2001年(平成13年)6月に「大量人骨は、戦場に遺棄された戦死体からの研究用標本」と結論付け、新たに作る納骨堂に納める方針を固めた[要出典]

それから10年後の2011年(平成23年)2月、厚生労働省は初めて人骨の発掘作業を開始した。発掘対象地は旧厚生労働省宿舎跡地であり、1989年に人骨が発見された場所に近い。「人骨標本を隠すために厚生労働省宿舎に人が住んでいる」という証言があったため、宿舎の入居者が退去するのを待ち、建物を解体した[10]

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 厚生労働省戸山研究庁舎
  2. ^ 新宿区立障害者福祉センター 新宿区
  3. ^ 戸山サンライズ 全国障害者総合福祉センター
  4. ^ 全国障害者総合福祉センターの運営 公益財団法人 日本リハビリテーション協会
  5. ^ “陸軍軍醫學校移轉(陸軍省)”. 官報. (1929年4月2日). NDLJP:2957141/12 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、337頁。
  7. ^ 『官報』第2151号、昭和9年3月6日。
  8. ^ 戦跡を訪ねて2019 7. 陸軍軍医学校跡地 東京都新宿区 大量の人骨、真相不明 毎日新聞、2019年8月19日
  9. ^ 旧陸軍軍医学校跡地から発見された人骨の保管に関する人権救済申立事件(勧告・要望) 日本弁護士連合会
  10. ^ 松村裕子「旧宿舎跡地 厚労省が発掘調査 旧陸軍学校跡地で人骨」『東京新聞 TOKYO Web』中日新聞社、東京、2011年2月22日。2011年3月5日閲覧。オリジナルの2011-02-22時点におけるアーカイブ。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集