1978年の日本シリーズ
1978年の日本シリーズ(1978ねんのにほんシリーズ、1978ねんのにっぽんシリーズ)は、1978年(昭和53年)10月14日から10月22日まで行われたセ・リーグ優勝チームのヤクルトスワローズとパ・リーグ優勝チームの阪急ブレーブスによる29回目のプロ野球日本選手権シリーズである。
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ゲームデータ | |
日本一 ヤクルトスワローズ 初優勝 4勝3敗 | |
試合日程 | 1978年(昭和53年)10月14日 - 10月22日 |
最高殊勲選手 | 大杉勝男 |
敢闘賞選手 | 足立光宏 |
チームデータ | |
ヤクルトスワローズ(セ) | |
監督 | 広岡達朗 |
シーズン成績 | 68勝46敗16分(シーズン1位) |
阪急ブレーブス(パ) | |
監督 | 上田利治 |
シーズン成績 | 82勝39敗9分(前期/後期1位) |
« 1977 1979 » |
概要 編集
1978年の日本シリーズは、前年までシリーズ3連覇を成し遂げて黄金時代を迎えていた阪急と、広岡達朗監督の下で初出場を果たしたヤクルト[注釈 1]の顔合わせとなった。戦前の下馬評では阪急圧倒的有利とされていたが[1]、最終的にはヤクルトが4勝3敗で阪急を下し球団創設初の日本一に輝いた[2]。MVPはシリーズ7戦を通じて3割1分、4本塁打、10打点を挙げた大杉勝男が選ばれた[3]。
なお、ヤクルトは本拠地の明治神宮野球場が大学野球と開催日が重複していたため、日本シリーズのナイター開催またはその逆で大学野球のナイター開催を双方が提案したが折り合いが付かず、主管試合は全て後楽園球場での開催となった[4]。
試合結果 編集
日付 | 試合 | ビジター球団(先攻) | スコア | ホーム球団(後攻) | 開催球場 |
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10月14日(土) | 第1戦 | 阪急ブレーブス | 6 - 5 | ヤクルトスワローズ | 後楽園球場 |
10月15日(日) | 第2戦 | 阪急ブレーブス | 6 - 10 | ヤクルトスワローズ | |
10月16日(月) | 移動日 | ||||
10月17日(火) | 第3戦 | ヤクルトスワローズ | 0 - 5 | 阪急ブレーブス | 阪急西宮球場 |
10月18日(水) | 第4戦 | ヤクルトスワローズ | 6 - 5 | 阪急ブレーブス | |
10月19日(木) | 第5戦 | ヤクルトスワローズ | 7 - 3 | 阪急ブレーブス | |
10月20日(金) | 移動日 | ||||
10月21日(土) | 第6戦 | 阪急ブレーブス | 12 - 3 | ヤクルトスワローズ | 後楽園球場 |
10月22日(日) | 第7戦 | 阪急ブレーブス | 0 - 4 | ヤクルトスワローズ | |
優勝:ヤクルトスワローズ(初優勝) |
第1戦 編集
10月14日:後楽園球場(入場者:34,218人)
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阪急は2回表、山田の適時打で1点を先制。しかしヤクルトは3回裏、船田和英の犠飛で同点。5回表、阪急は高井保弘のソロ本塁打で勝ち越すが、すかさずその裏に船田のソロ本塁打でヤクルトが追いつく。さらに6回、ヤクルトはチャーリー・マニエルと大矢明彦の本塁打で2点を勝ち越し、7回にも杉浦亨の適時打で5-2とした。
阪急は、8回表、島谷金二の2点適時打のあと、代打の河村健一郎の2ラン本塁打で6-5と逆転。山田は10安打を打たれながらも踏ん張り、9回裏の二死満塁のピンチも杉浦に11球投じた末に二邪飛に打ち取った。投球数169球は延長戦を除きシリーズ最多記録(延長戦では1975年の第4戦で外木場義郎が13イニング、200球を記録)。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第2戦 編集
10月15日:後楽園球場(入場者:39,406人)
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1回表に阪急は福本豊の先頭打者本塁打で先制。しかしヤクルトは2回裏にマニエルの2試合連続となる2ラン本塁打で逆転。ヤクルトは3回裏に右中間方向に5安打を浴びせ4点を奪い今井雄をKO。4回に両軍1点ずつ追加のあと、6回裏にヤクルトは途中出場の角富士夫が三枝規悦からソロ本塁打、さらに大杉勝男の適時打で9-2と突き放す。一方阪急は7回表、今一つ調子に乗れない松岡に対しボビー・マルカーノが追撃の3ラン本塁打を放ち、松岡をKO。広岡監督は「あれだけ点をもらったのだから“任せておけ”というピッチングをしてほしい」とふがいないエースを嘆いた[5]。しかし8回裏に大杉のソロ本塁打で得点を2ケタとしたヤクルトは、2番手の井原慎一朗が9回表のピンチを1点に抑え逃げ切った。
翌日の移動日の練習で阪急の山口高志が腰痛を発症したとして戦線離脱[注釈 2]。佐藤義則も肘痛で欠いていた阪急の投手陣は一気に苦しくなる。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第3戦 編集
10月17日:阪急西宮球場(入場者:20,296人)
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1回裏に加藤秀司の二ゴロで阪急が先制、さらに3回にも加藤の中前打で1点追加。いずれも福本の盗塁が絡んでの得点だった。4回にも島谷の適時打で3-0とし、7回にも中沢の2点適時打で突き放した。ひざの故障でシーズン後半を棒に振った足立だったが、この試合は5回1死までパーフェクト、許した安打はわずか3本と完璧な出来。圧巻は9回表で、角、若松、大杉をいずれも投ゴロに打ち取り、前年のシリーズ第2戦に続いて2試合連続完封(日本シリーズタイ記録)。1976年の第7戦から続くシリーズ連続無失点記録を21イニングに伸ばした。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第4戦 編集
10月18日:阪急西宮球場(入場者:20,456人)
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試合は阪急が1回にマルカーノの適時打で1点、2回に中沢、今井雄、簑田浩二の適時打で4-0とし早々に安田をKO。さらに2番手井原からも5回に簑田の三塁打をきっかけに1点を追加。
ヤクルトは6回表、船田の遊撃ゴロを二塁走者永尾泰憲が頭脳的な走塁で大橋の失策を誘い無死満塁にしたのを足掛かりに、若松の適時打、大杉・マニエルの内野ゴロ、杉浦の適時打で1点差に詰め寄る。
9回表ヤクルトは、一死から水谷新太郎が安打で出塁。ヤクルトベンチは西井哲夫の代打に伊勢孝夫を送り、水谷に盗塁のサインを送った。スコアリングポジションにランナーを進めて伊勢の打棒に懸ける作戦をとった[7]
しかし水谷は盗塁死となり2死。しかし伊勢が内野安打で出塁。ここで上田監督が投手交代のためマウンドへ向かうが、今井雄は続投を志願する。上田はこれを受け入れ、続投を決断する[注釈 3]。続く打者はヒルトン。打席ではホームランを狙いストレートに球を絞っていた[7]。中沢はこれを見越して今井にカーブを投げさせるが[7]、ヒルトンが左翼ラッキーゾーンに飛び込む逆転2点本塁打を打ち、ヤクルトが6-5と逆転する。
ヤクルトは9回裏にエース松岡を投入し逃げ切りを図る。阪急は先頭の代打・河村健一郎が安打で出塁、次打者福本が一ゴロに倒れ、走者福本が一塁に残る。次の簑田の打席で福本が盗塁を試みるが、松岡がクイックモーションで投じ、これを受けた大矢が矢のような送球で福本の盗塁を刺してツーアウト[9]。そして最後の打者簑田を打ち取りゲームセット。5点差を逆転したヤクルトがシリーズの流れを一変させる大きな1勝を手にした。
このときリリーフ準備していた山田は今井雄の続投を「上田さんの失敗。これがシリーズ敗戦の伏線になった」と評し、上田自身も「このシリーズで最も悔やまれる試合。(リリーフ予定だった)山田ならあそこで絶対打たれなかった。9割の安定があるのになぜ一か八かに賭けたのか」と振り返っている[10]。
これまで上田は投手交代の時は、先に球審に交代を告げた後にマウンドに行くことにしていた。しかし、この時だけは先に今井のもとに寄り、先に気持ちを聞いたこと、他の選手達の「雄ちゃんでいきましょう」という声があったことで決断が緩んだことを悔やんでいた[11]。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第5戦 編集
10月19日:阪急西宮球場(入場者:18,298人)
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阪急の先発は中4日の山田。ヤクルトの先発は松岡という大方の予想を覆す梶間健一[12]。山田は立ち上がりから不安定な立ち上がりで、ヤクルト打線に初回から捕まり、大杉の2点適時打で先制を許す。一方の阪急は3回までヤクルトの先発梶間にノーヒットに抑えられていたが、4回にようやく梶間を攻略し、2死満塁から2番手井原のワイルドピッチで1点を返す。6回表にヤクルトが、7回裏に阪急がそれぞれ1点を加点。8回表にヤクルトが若松の右越え本塁打で突き放すと阪急もその裏、連日のリリーフとなる松岡からマルカーノが左越え本塁打を放ち4-3。しかし9回表、ヤクルトは松岡の内野安打から作った2死1、2塁で大杉が3ランホームランを放って7-3とした。山口が使えず、山田を最後まで投げさせた阪急とは対照的に、連日の松岡のリリーフが功を奏したヤクルトが先に王手をかけた。
ヤクルトベンチはこの試合をはじめから継投で乗り切る計算だった[12]。前日の試合終了後、この日の先発候補を4人立ててその中からこの日の試合前に小林国男と梶間の2人に絞り梶間の先発を決断した[12]。ヤクルトベンチとしては梶間は阪急の打順が一巡するまで持てばいいと計算していたが、その梶間は4回1死までノーヒットという予想外の好投をし、ヤクルトのその後の継投を楽にした。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第6戦 編集
10月21日:後楽園球場(入場者:44,956人)
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第6戦の先発はヤクルトが鈴木康二朗、阪急の先発は白石静生[13]。鈴木康は3回に四球で崩れ、2死満塁から島谷、ウイリアムスの連続適時打を浴び、更に中沢に3ランを打たれこの回6失点。さらに5回には3番手の西井哲夫が島谷、ウイリアムス、福本に計3発を浴び勝負は一方的に。広岡監督は第7戦に備え投手を温存するため西井を最後まで投げさせた[14]。一方ヤクルト打線は白石の前に3点を返すのが精一杯。結局白石が完投勝利。阪急は第2戦を除く5試合で完投を記録した。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第7戦 編集
10月22日:後楽園球場(入場者:36,359人)
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ヤクルトは3度の登板がいずれも勝利に結びついている松岡、一方の阪急は第3戦完封の足立。足立は3日前にひざにたまっている水を抜いてこの試合に臨んだ。
ヤクルトは5回裏、ヒルトンの適時内野安打でヤクルトが先制、足立のシリーズ連続無失点記録は25イニングでストップした。
そして6回裏、1死から大杉が足立の投じた内角シュートをすくい上げ左翼ポール際へ大飛球を放つ。レフトの線審の富澤宏哉は「ポールの上を通過した」として本塁打と判定。これに対し、上田監督は左翼ポール下の富澤の元まで行き、「ポールの外だからファウル」と猛抗議(厳密にはポールの一番近くで守っていた左翼手・簑田浩二が最初にファウルと判断し、抗議した)[15]。さらに全選手をベンチへ引き上げさせた。審判団と梶本隆夫投手コーチ含む阪急首脳陣、守備範囲であった蓑田と福本豊や島谷金二ら阪急の野手達も交えて協議を続けるが結論に達しなかった[16]。富澤に激高して詰め寄った上田監督はらちが明かないと思い、山本球審を両手で突き飛ばすように押すと、静止を振り切りナインにベンチに引き上げるように指示した[16]。いったん上田は譲歩し、判定に従い試合を再開する条件として富澤線審の交代を主張。これはルール上認められない[注釈 4]ため拒否されると、再び態度を硬化。見かねた金子鋭コミッショナーがグラウンドへ来て、「あんた(上田監督)はどうしてもつっぱるのか!?コミッショナーが頭を下げて(頼んで)もダメか!」と口走る一幕もあった。阪急の球団代表が説得し、ようやく抗議を取り下げた[15]。中断時間は1時間19分(14時54分から16時13分)となり、シリーズ史上最長となった。
中断のあいだ待機させられていた足立は、ひざに水がたまり投げられる状態ではなくなったため降板。新人の左腕松本正志が救援登板するものの、マニエルが松本からソロ本塁打を放ち3-0。阪急は7回から山田が登板。しかし8回裏二死からが大杉の2打席連続となる、今度は左中間スタンドに飛び込む本塁打を打ち4-0とする。中断中もキャッチボールで肩を暖めていた松岡は戦意喪失の阪急打線を7安打に抑え完封。最終打者の井上修が遊ゴロに打ち取られた瞬間、ヤクルトの球団創立29年目で球団初の日本一が決定した(試合再開から54分後の17時07分に終了)。
決定の瞬間と同時にスワローズファンがグラウンドに多数乱入して大混乱となるなか、広岡監督以下一部選手にも胴上げが行われた。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
表彰選手 編集
- 最優秀選手賞:大杉勝男(ヤクルト)
- 敢闘賞:足立光宏(阪急)
- 打撃賞:島谷金二(阪急)
- 最優秀投手賞:松岡弘(ヤクルト)
- 技能賞:デーブ・ヒルトン(ヤクルト)
- 優秀選手賞:若松勉(ヤクルト)
テレビ・ラジオ中継 編集
テレビ中継 編集
このシリーズからテレビ中継はセンターカメラ方式になった。
- 第1戦:10月14日
- 第2戦:10月15日
- 第3戦:10月17日
- 第4戦:10月18日
- 第5戦:10月19日
- 関西テレビ≪FNN系列≫ 実況:塩田利幸 解説:岡本伊三美、荒川博 ゲスト解説:古葉竹識
- 第6戦:10月21日
- 第7戦:10月22日
- フジテレビ≪FNN系列≫
- 実況:山田祐嗣 解説:岡本伊三美、豊田泰光 ゲスト解説:鈴木啓示
- リポーター:盛山毅(ヤクルトサイド)
- フジテレビ≪FNN系列≫
- 第7戦の視聴率は日本シリーズ史上最高の平均45.6%、最高61.5%(関東地区)だった。
フジテレビが系列局からのネット[注釈 5]ではなく、完全自社制作として初めて放映権を獲得したシリーズであった。
第2戦はヤクルト主催・主管試合の放映権を持っていない[注釈 6]日本テレビが権利を獲得した。これはヤクルト主管試合が従来の本拠地の神宮が大学野球の関係で開催できず、また当日フジテレビはワールドシリーズ「ヤンキース×ドジャース」第4戦中継を11:15 - 13:30で編成した事[17] によるもので、後楽園開催になったことによる見返りで主催・主管球団の放映権を持っていない放送局が中継する異例のケースとなった。
その一方で、フジテレビとともにヤクルト主催・主管試合の放映権を持っていたテレビ朝日が権利を獲得できなかった。また、TBSテレビも1975年を最後にヤクルト主催・主管試合の放送から撤退し、阪急主催・主管試合(1974年までの朝日放送・1975年からの毎日放送)もフジテレビ・関西テレビが放送できないときに散発的に放送した程度のため権利を獲得できなかった。
ラジオ中継 編集
- 第1戦:10月14日
- 第2戦:10月15日
- 第3戦:10月17日
- 第4戦:10月18日
- 第5戦:10月19日
- 第6戦:10月21日
- NHKラジオ第1 解説:鶴岡一人、藤田元司
- TBSラジオ(JRN) 解説:牧野茂 ゲスト解説:野村克也
- 文化放送・ラジオ大阪 解説:別所毅彦、荒川博
- ニッポン放送(NRN) 実況:深澤弘 解説:関根潤三 ゲスト解説:村田兆治(ロッテ)
- ラジオ関西ほか(ラジオ関東(現・ラジオ日本)制作) 解説:青田昇、有本義明
- 第7戦:10月22日
- NHKラジオ第1 実況:島村俊治 解説:加藤進、川上哲治
- TBSラジオ(JRN) 実況:渡辺謙太郎 解説:牧野茂 ゲスト解説:野村克也
- 文化放送・ラジオ大阪 実況:中田秀作 解説:別所毅彦、辻佳紀
- ニッポン放送(NRN) 実況:枇杷阪明 解説:土橋正幸、近藤和彦
- ラジオ関西ほか(ラジオ関東(現・ラジオ日本)制作) 解説:青田昇、有本義明
脚注 編集
注釈 編集
- ^ 前身の国鉄・産経時代は優勝がなかった
- ^ 実際には山口はシリーズ前に腰を痛めており、ブルペンでのキャッチボールも故障を隠す目的だったことがのちに明かされている[6]。
- ^ 後年、今井はこれを「(情とは)ちょっと違うと思うね」と否定しており、上田はシーズン中審判にすぐ交代を告げていたがこの試合では「山田が準備できているぞ。どうする?」と今井に尋ねてきたとの事で、そのうえで今井は「ウエさんが来たときは交代を覚悟したし、それならそれで良かった。何が何でも俺に最後まで投げさせてくれ、なんて思っていなかったよ。ただ、あの状況でウエさんから『どうする?』と聞かれ、疲れていなかったので『まだ行けます』と答えただけ」と話している[8]。
- ^ 公認野球規則9.02(d)の規定により、病気や負傷などのやむを得ない場合を除き審判員を変更することは認められない。
- ^ 阪急出場時は関西テレビから、中日出場時は東海テレビからのネットで放送。また1963年の西鉄対巨人戦は九州朝日放送(当時は現在のFNSとANN相当であるフジテレビ・NETテレビ系列のクロスネット加盟だった)からのネットを受けてフジテレビ系で放送された。またこの当時、地方開催時は後年と異なりキー局が制作の主導権を握っていなかった。
- ^ 元々、日テレは後楽園スタジアムと包括的な優先放映権契約が少なくとも1960年代まであり、ヤクルトの前身の国鉄スワローズ時代は巨人主管試合と並行して随時国鉄主管(この場合は巨人との直接対決も含む)の試合も数多く放送された。その国鉄球団にフジサンケイグループが経営参加して本拠地を神宮に移転して以降、縮小ののち撤退したが、2000年代以降にはビジター側の系列局(対阪神戦の読売テレビ、対中日戦の中京テレビ、対広島戦の広島テレビが該当)が個別に権利を獲得して放送した例がある。なお、広島テレビはフジテレビ系とのクロスネット時代にフジテレビ制作のヤクルト主催試合も放送していた。
出典 編集
- ^ ヤクルト初の日本一、勇者のサブマリンの告白 - 『週刊ベースボール』2018年10月号
- ^ 毎日新聞1978年10月23日1面「ヤクルト初優勝 日本シリーズ大荒れ最終戦 阪急V4阻む」毎日新聞縮刷版1978年10月p663
- ^ 日刊スポーツ1978年10月23日3面「MVPだ大杉連発4号 新記録10打点 晴れ姿の主砲」
- ^ 「17日開幕もナイター提案もダメ 神宮シリーズついに断念 ヤクルト」『サンケイスポーツ』産業経済新聞社、1978年9月22日、2面。2023年9月2日閲覧。
- ^ 文春Numberビデオ「熱闘!日本シリーズ 1978年 ヤクルトvs阪急」
- ^ 鎮勝也『君は山口高志を見たか 伝説の剛速球投手』講談社、2014年、205-206頁。ISBN 978-4-06-219260-6。
- ^ a b c 読売新聞1978年10月19日17面「SBO ネバーギブアップ!大明神 これぞ二枚腰」読売新聞縮刷版1978年10月p667
- ^ ベースボールマガジン別冊紅葉号 1974-1978,1981-1990 阪急・オリックスブレーブス 上田野球の神髄 ベースボール・マガジン社.2021年.P38-39
- ^ 毎日新聞1978年10月19日19面「『夫婦協力』に6年前を見た」毎日新聞縮刷版1978年10月p551
- ^ 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社
- ^ 週刊ベースボール別冊 よみがえる1970年代のプロ野球 [Part.5] 1978年編 ヤクルト29年目の初優勝 ベースボール・マガジン社.2022年.P17
- ^ a b c 毎日新聞1978年10月20日19面「ふだん着野球 計算通り四投手」毎日新聞縮刷版1978年10月p585
- ^ 毎日新聞1978年10月22日19面「『まさか完投とは』 ベテラン白石、執念実る」毎日新聞縮刷版年10月p653
- ^ 毎日新聞1978年10月22日19面「得意の継投裏目 ヤクルト 西井、連続パンチ浴びる」毎日新聞縮刷版1978年10月p653
- ^ a b 読売新聞1978年10月23日17面「本塁打判定で中断 ファン無死の1時間19分」読売新聞縮刷版1978年10月p823
- ^ a b スポーツニッポン2022年10月21日【日本シリーズ戦記 1978年「ヤクルト―阪急」】大杉のポール際…前代未聞空白の79分間
- ^ 『下野新聞 縮刷版』下野新聞社、1978年10月15日付テレビ欄。