土橋正幸
土橋 正幸(どばし まさゆき、1935年12月5日 - 2013年8月24日)は、東京都台東区出身[1]のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
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基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 東京府東京市浅草区(現:東京都台東区) |
生年月日 | 1935年12月5日 |
没年月日 | 2013年8月24日(77歳没) |
身長 体重 |
178 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1955年 |
初出場 | 1956年6月6日 |
最終出場 | 1967年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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昭和30年代(1950年代後半~1960年代前半)に東映で主力投手として活躍。引退後は東映→日拓→日本ハム、ヤクルトでコーチ・監督を歴任した。
経歴編集
少年時代編集
浅草・雷門の生まれで、実家は鮮魚店だった[1]。戦時中は千葉の幕張に疎開していたが戦後、東京に戻った中学生の時に水泳部に所属する傍ら野球と出会い[1]、草野球チームの雷門サンダースに所属していた[1]。
都立日本橋高校を卒業後、家業の魚屋で働く傍ら浅草にあったストリップ劇場「フランス座」(現在は「浅草フランス座演芸場東洋館」に改称)が保有していた軟式野球チームに所属していた[2]。作家の井上ひさしともバッテリーを組んでいた。読売新聞が主催する23区の軟式野球大会に出場すると、フランス座は台東区の予選で優勝[1]。後楽園球場で行われた本選では、第一戦で前年度優勝チームの府中刑務所を破った[1]。
1954年秋に東映フライヤーズの入団テストを受ける友人に付いて行ったところ、土橋が合格し入団することになった。土橋は、家業の魚屋で使うような長靴でテストに臨んだが、普通は30球ほど投げるところを10球ほど投げたところでOKが出たという[3]。
プロ野球時代編集
契約金はなく、月給は5,000円だった。合宿所の1日の食費が200円で月6,000円引かれたため、1958年まで4年間実家から毎月1万円の援助を受けていた[4][5]。東映入団に対して母親は猛反対していたが、土橋は「3年間で駄目だったら帰ってくる」と約束。のち、入団3年目の1957年に初勝利を挙げ、ぎりぎりの所で約束を守っている[6]。
二軍時代の練習は、午前10時から練習を始めて約1時間の投球練習(約150球)、次にフリーバッティングの投手を務め、それから二軍戦に登板。さらに、土橋がモノになると見込んだ投手コーチの今西錬太郎によって、居残り特訓として約2時間の投球練習を課されるなど、1日の練習時間は7,8時間に及びほとんど投げてばかりいた。しかし、この過酷な練習のおかげで、一軍に昇格した頃には目を瞑っていても外角低め・内角低めに思うままに投げられるようになっていたという[7]。
入団3年目の1957年8月1日の近鉄戦に完封でプロ初勝利を飾ると[1]、終幕までに5勝を挙げて頭角を現す。翌1958年には21勝(16敗)防御率2.12(リーグ6位)と東映のエースとなる。同年5月31日の対西鉄戦では、1回2死で登場した四番・大下弘から三番・中西太まで9連続奪三振の日本タイ記録(当時[注 1])[9]、そして沢村栄治の15奪三振を上回る1試合16奪三振の日本記録(当時)を樹立した。1959年にはオールスター前までに早くも20勝に到達。後半戦はペースダウンするが、杉浦忠(38勝)、稲尾和久(30勝)に次ぐ、27勝を挙げ、防御率2.36(リーグ5位)を記録した。
1960年は、開幕前の調整がうまくいかなった影響で12勝23敗と大きく負け越したものの、東映で2桁勝ったのも200投球回以上投げたのも土橋だけだった[1]。土橋は球団から「12勝23敗だから年俸は10%ダウンだって言う。冗談じゃない。俺が一人で頑張ってんのに、何が10%だ!」[1]。それで契約しないでいると、当時巨人のコーチであった川上哲治と選手の藤田元司から「巨人に来ねぇか?」と誘われたという[1]。土橋によると「いろんな条件面も言ってくれてね。年俸は東映の倍だって言う。それは私だってプロだもの、心動きますよ。川上は今日はオヤジ(水原茂)は他の用事で来られないと言ってたけど、実はもうその時点で、監督が川上に替わるのは決まってたと思うな」と語っている[1]。年が明けて土橋が東映と契約しないでいたところ、同年から東映の監督に就任した水原が「巨人の話は断った。俺は東映で契約のお金まで口出せる立場になった。だから減俸しない」と言われ東映に残留することになった[1]。
土橋は水原について、「水原は血もない涙もない監督だった。でも、監督はそれぐらいじゃないとダメ、優勝できないね。私は結婚して、仲人、水原だったけど、シーズン中、水原と会話もなかったし、一度も褒められたことがない」と語っている[1]。「巨人であれだけ実績を残した人が、東映へ来てまた一からチームを把握していったのだからすごい」とも語っていた[10]。東映が「暴れん坊チーム」と呼ばれたことについては「だって山本に張本、白らがいただろう。見た目がそうだったんだよ」と笑い飛ばしていた[10]。
1961年には30勝(16敗)防御率1.90とキャリアハイの成績を残したが、同年に稲尾和久が42勝、防御率1.69を記録したため、土橋はいずれも2位に終わるなどタイトルに関しては不運だった。1962年は17勝14敗、防御率2.38(4位)と勝ち星は伸びなかったが東映のリーグ初優勝に貢献。一方で、3度のサヨナラ本塁打による敗戦を記録している[注 2][11]。阪神タイガースとの日本シリーズでは全7戦のうち6試合に登板し、2勝1敗と活躍する。土橋は史上唯一、種茂雅之とともにMVPに2人選ばれた。第1,2戦で連続先発し、いずれも打ち込まれるが第5戦で好リリーフを見せサヨナラ勝ち。甲子園球場での第7戦でもリリーフで登板、延長12回1死でマイク・ソロムコを三振、更にルーキーの藤井栄治を一塁ゴロに仕留め、土橋はこの試合の勝利投手及びシリーズ胴上げ投手となっている。
1963年と1964年は連続で20勝に到達し、7年連続2桁勝利を挙げた。しかし1965年は肩痛もあって4勝[12]に終わると、1966年は復活して6月26日に6勝目を挙げるも、7月14日の近鉄戦で激痛に見舞われ[12]、右わき腹の筋断裂で全治3カ月と診断され、以降シーズン終了まで登板なし[12]。1967年になると右手首痛や両足のアキレス腱痛もあって未勝利に終わり、同年限りで引退した[12]。通算162勝は球団最多記録。
現役引退後編集
引退後は、東映で二軍投手コーチ(1969年)、一軍投手コーチ(1970年 - 1971年)を務める。
東映コーチ時代には、高橋善正ら5人の選手が門限を破り土橋に説教されたことがあったが、その選手の一人である松本俊一が「僕らを殴ってください」と言い出す。これを聞いた高橋は「おいおい。やめろよ」と思ったが、土橋は無言で松本を殴り、松本は4メートルも吹っ飛んでその後1か月むち打ちに苦しむことになり、高橋と吉田誠も殴られた[13]。張本勲・大杉勝男ら当時の東映にいた武闘派の選手からも恐れられており、高橋は高校の後輩でもある江本孟紀に「土橋さんに5、6人ぶっ飛ばされている。5メートルぐらいぶっ飛んだ奴はいくらでもいる。」と忠告している[14]。一方で、江本は「最近はやたら科学的なトレーニングが取り入れられているが俺は土橋さんの鬼のような特訓[注 3]で成長させてもらったと思っている。それに土橋さんは怖い人だけではなく厳しさの中で愛情が感じられ、不思議と反発感情は生まれなかった。これぞ人徳だろう。今日の野球界に、土橋さんのような豪快と優しさを兼ね備えた人がいなくなったことを本当寂しく感じる。少なくとも投げられるピッチャー江本に育ってくれたのは東映であり、土橋さんだ」と評している[15]。
1972年から1973年までは東映→日拓の二軍監督を務めていたが、田宮謙次郎の監督退任を受けて1973年後期より日拓監督を務め、ヘッド兼打撃コーチには選手兼任で張本が就任した。後期の成績は3位であったが、球団が日本ハムへ身売りしたこともあり退任。なお、このことについて土橋は「日拓で後期から監督になった時は、やりたくなかったのに説得されてだった。なのに球団身売りでサヨナラだからやってられねえよ」と語っている[12]。
その後は、フジテレビ・ニッポン放送野球解説者を務め、この間の1981年オフには契約1年残して退団した山内一弘の後任監督としてロッテオリオンズから監督の要請を受けるが、断っている[16]。
1984年からヤクルトの一軍投手コーチに就任。4月27日に監督の武上四郎が成績不振で休養、4月28日から監督代行となったヘッドコーチの中西太も不振と健康問題で休養したため、5月22日からは土橋が監督代行として指揮を執った[17]。だが、この時点で9勝25敗3分で最下位と低迷していた。6月15日から代行から正式に監督に昇格すると、8月に15勝10敗するなど、後半戦は26勝23敗2分と巻き返し、最終成績は5位で3年連続最下位は免れた。しかし、翌1985年・1986年と2年連続の最下位に終わり、実績を残せないままヤクルトの監督を退任。この間の1985年には新人の広澤克実を我慢して正一塁手として起用し続け、主力打者に育てた[18]。広澤は後に「野村監督が強いヤクルトをつくっていった事は間違いない。ただ、忘れてはならないのは、その前に土橋監督がいて関根監督がいたということ」「今思えば土橋監督はいろいろと苦労されていたと思います。78年にリーグ優勝した時の戦力がベテランの時期にさしかかっていることでしたし、起用してもらっている僕もなかなか結果で応じることができていませんでしたね。」と語っている[19]。ヤクルトの選手兼打撃コーチだった若松勉が栗山英樹のスイッチヒッターへの転向を土橋に進言、「『お前にそう(スイッチに向いていると)見えるのならやってみろ』と了解し[10]、若松は「栗山はその後、センターに定着して生まれ変わった」と語っている[10]。
1987年から1991年までフジテレビ・ニッポン放送野球解説者を再度務める。1992年に古巣・日本ハムの監督に就くが、契約を1年残してこの年限りで解任された[20]。当時の球団常務取締役・大沢啓二によると、選手の代表、トレーナーやマネージャー、広報や通訳、いろんな裏方がみんな揃って「もう、ダメなんです。土橋監督と選手たちの関係は修復不可能なぐらいこじれちゃってるんです。」と言っており、これを聞いてやむなく土橋を解任したと著書に記している[20]。後任監督は難航し[注 4]大沢が自ら就任した。なお、日本ハム監督時代には退場させられたことがある(平和台野球場での試合。自軍攻撃時の一塁での判定を巡って塁審を両手で突いた)。当時の日本ハムの選手だった大島康徳は「土橋さんは、本当はいい人なんですが、その表現が下手というか、選手との距離があった監督さんでした。当時のおとなしい選手たちには合わなかった。打てなかったわけではないのにオールスターが終わったらいきなりスタメン外され、プロ野球選手ですから結果が出ないじゃあ使わないなら納得するしかありませんが、このとき以外でも納得できないことが多かったんでメンタル的にだいぶやられました。実際、僕だけじゃなく、若い連中からもかなり不満が出ていましたね。監督は選手に好かれればいいというわけではありませんが、監督の動向は、選手みんながよく見ています。球界の大先輩に失礼かもしれませんが、僕自身が監督になったときの反面教師にもなりました」と述べている[21]。西崎幸広は投手陣を代表して、先発投手は登板翌日をオフにしてほしいとお願いし、土橋は「7回2失点以内に抑えたら」という条件付きで一度は了解したが、西崎が8回2失点で抑えた試合のあとに確認しにいったら「何、言ってんだ!今日の試合は負けたじゃないか!」と怒られた。約束が違うとして、西崎は土橋と喧嘩のようになってしまったという[22]。
なお、ヤクルト・日本ハムを通じて監督時代は本拠地で対戦相手の胴上げを見せつけられる事が多かった(ヤクルト時代の1985年阪神・1986年広島、日本ハム時代は1992年西武)。テリー伊藤は自身の著書の中で「怒鳴れば格好がつく無法松な『顔面突撃』監督」と評している[23]。
その後は、フジテレビ・ニッポン放送野球解説者としてCSを中心に野球評論家活動を行い、フジテレビONEで放送中の『プロ野球ニュース』にも出演。一方で、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームス監督も務めたほか、1990年代前半から2012年まで沢村賞の選考委員、2007年からは選考委員長に就任している。
死去編集
2012年9月に筋萎縮性側索硬化症の診断を受け、自宅療養を続けていた最中の2013年8月24日に東京都内の病院にて死去した[24][25]。77歳没。
土橋の死後の8月27日に東京ヤクルトスワローズと北海道日本ハムファイターズでは試合前に黙祷を捧げ、選手一同が肩に喪章をつけてプレーをした。同日ヤクルト対中日ドラゴンズ戦が行われた神宮球場には半旗が掲げられた。[26][注 5]同日のフジテレビONEで放送された「プロ野球ニュース」においては、冒頭の内容を大幅に変更して土橋と親交が深かった解説者・選手・指導者(関根潤三、大矢明彦、平松政次、谷沢健一、司会・金村義明、遠藤玲子)を迎えて土橋の追悼コーナーが行われた。
選手としての特徴編集
軟式野球から硬式野球に転向した異色の経歴ながら、「江戸っ子投法」と呼ばれる余計な駆け引きをしない投球スタイルで、1960年代のパ・リーグを代表する投手として君臨した。
稲尾和久は「スピードは僕よりあった。細かくコントロールするのではなく甘めでも打つなら打ってみろとばかりにストライクを投げ込む。」と語っている[12]。データ上でも無四球試合46は歴代4位[1]、与四球率1.21は通算2000イニング以上投球者では歴代1位と、めったに四球を出さない投手だった[27]。
人物編集
ヤクルト監督時代には、土橋のその江戸っ子風の頑固親父的な雰囲気がその当時の下町的な球団イメージと合っていたためか、チーム成績は芳しくなかったにもかかわらず人気があった。フジテレビの「珍プレー好プレー」でも別に土橋本人は特別に何かをしているわけではないのに「俺が土橋だ」的なコーナーがあった[28]。
江戸っ子の土橋は、「ひ」を「し」と発音する。「プロ野球ニュース」の解説をしていた時、土橋は広島(カープ)を「しろしま」と発音した[28]。それをアナウンサーに指摘されると怒ってしまい、土橋は以後「カープ」としか呼ばなくなった。
フジテレビの「プロ野球ニュース」解説者の谷沢健一とは、犬猿の仲とされた[28]。「プロ野球ニュース」の軟式野球の試合で、アキレス腱を切った土橋に対して、谷沢が「酔って階段から落ちて切った」とおちょくったのがその始まりである[28]。その後、番組中でも色々あり[28]、2006年シーズンオフの企画では、トーク内で土橋に茶々を入れた谷沢に対し、本番中にもかかわらず土橋が激昂した[28]。一方で、2008年にも共演している。その後も、2011年12月24日放送の「プロ野球ニュース 2011 総まとめスペシャル」には、隣席で出演し、谷沢が「土橋さんに突っこめるのは僕だけ。」との趣旨の発言をしていたことから、仲直りしていたと見られる。2012年のオールスター時の「プロ野球ニュース」では、土橋が「谷沢さんとも勝負したかったね。」と語っている。
「プロ野球ニュース」で自身の現役時代を振り返った中に、オールスターまでに20勝を挙げたシーズンがありながら、西宮球場でロベルト・バルボンの放った打球を処理した際に負傷したエピソードを明かしている。
フジテレビ系「殿様のフェロモン」にゲスト出演した際に、土橋がナインティナインをだますという内容で進行し、特に理由も無くナインティナインの岡村隆史の顔面にパイをぶつけた[注 6]。だまされた側の岡村は「土橋!」と数回呼び捨てにしたが、土橋は加害者にもかかわらずこれに腹を立て、収録後のエレベーター内で「お疲れさまでした」と挨拶した岡村に怒りを露にし(岡村曰く「てめえ、このやろう。誰に土橋って言ってんだよ!」と凄い剣幕で怒鳴ってきたという)、放送終了後に番組スタッフが土橋とその関係者に謝罪するまでに発展した。これに関して、野球に疎い岡村は、当初「ナインティナインのオールナイトニッポン」で「呼び捨てしたのは、お笑いだから」「土橋は野球がうまかったのか?」と相方の矢部浩之に同調を促していた。しかし、2009年の書籍『ナインティナインのオールナイトニッ本 Vol.1』の付属CDでナインティナインはこの当時を回想し、岡村は「あれは完全に、私が言っている事が間違っている」とこの一件について反省し、謝罪している[29]。
大の麻雀好きでもあり、西崎幸広は「日ハムの監督時代、遠征で試合後ホテルに戻ると土橋がすぐに雀荘に向かってしまうため、コーチ陣が後を追いかけ、結局雀荘で試合後のミーティングを行うのが常だった」と証言している[30]。1996年に、フジテレビ「THEわれめDEポン」を題材としたゲーム「芸能人対局THEわれめDEポン」が発売された際には、対局相手の一人としてゲーム内に登場した。
詳細情報編集
年度別投手成績編集
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1956 | 東映 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 29 | 6.1 | 9 | 1 | 2 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 8 | 8 | 10.29 | 1.74 |
1957 | 26 | 6 | 3 | 1 | 0 | 5 | 2 | -- | -- | .714 | 386 | 97.1 | 79 | 2 | 21 | 0 | 4 | 74 | 1 | 0 | 31 | 27 | 2.48 | 1.03 | |
1958 | 54 | 28 | 18 | 6 | 4 | 21 | 16 | -- | -- | .568 | 1202 | 309.2 | 239 | 18 | 53 | 6 | 6 | 222 | 3 | 0 | 97 | 73 | 2.12 | 0.94 | |
1959 | 63 | 34 | 21 | 1 | 10 | 27 | 16 | -- | -- | .628 | 1336 | 339.0 | 293 | 23 | 43 | 6 | 4 | 217 | 2 | 0 | 101 | 89 | 2.36 | 0.99 | |
1960 | 44 | 32 | 17 | 1 | 6 | 12 | 23 | -- | -- | .343 | 1076 | 263.1 | 258 | 19 | 39 | 4 | 7 | 193 | 1 | 0 | 113 | 92 | 3.14 | 1.13 | |
1961 | 63 | 37 | 25 | 9 | 10 | 30 | 16 | -- | -- | .652 | 1538 | 393.0 | 313 | 23 | 45 | 5 | 6 | 298 | 2 | 0 | 111 | 83 | 1.90 | 0.91 | |
1962 | 48 | 30 | 14 | 4 | 7 | 17 | 14 | -- | -- | .548 | 1084 | 272.0 | 256 | 12 | 24 | 3 | 2 | 140 | 0 | 0 | 89 | 72 | 2.38 | 1.03 | |
1963 | 53 | 32 | 15 | 1 | 5 | 20 | 16 | -- | -- | .556 | 1210 | 301.0 | 279 | 31 | 36 | 2 | 13 | 169 | 1 | 0 | 128 | 102 | 3.05 | 1.05 | |
1964 | 48 | 35 | 12 | 3 | 0 | 20 | 15 | -- | -- | .571 | 1102 | 270.1 | 250 | 20 | 46 | 1 | 8 | 132 | 1 | 1 | 113 | 99 | 3.30 | 1.09 | |
1965 | 24 | 17 | 3 | 0 | 0 | 4 | 10 | -- | -- | .286 | 551 | 129.0 | 148 | 9 | 20 | 3 | 2 | 67 | 1 | 0 | 68 | 59 | 4.12 | 1.30 | |
1966 | 19 | 15 | 6 | 2 | 4 | 6 | 6 | -- | -- | .500 | 472 | 122.1 | 97 | 11 | 9 | 0 | 1 | 43 | 0 | 0 | 33 | 31 | 2.29 | 0.87 | |
1967 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 62 | 15.0 | 16 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 9 | 9 | 5.40 | 1.13 | |
通算:12年 | 455 | 268 | 134 | 28 | 46 | 162 | 135 | -- | -- | .545 | 10048 | 2518.1 | 2237 | 172 | 339 | 30 | 54 | 1562 | 12 | 1 | 901 | 744 | 2.66 | 1.02 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績編集
年 度 |
球 団 |
順 位 |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
引 分 |
勝 率 |
ゲ | ム 差 |
本 塁 打 |
打 率 |
防 御 率 |
年 齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1973年 | 日拓 | 5位 | 130 | 55 | 69 | 6 | .444 | 5位・3位 | 133 | .254 | 3.97 | 38歳 |
1984年 | ヤクルト | 5位 | 130 | 51 | 71 | 8 | .418 | 25 | 101 | .264 | 4.76 | 49歳 |
1985年 | 6位 | 130 | 46 | 74 | 10 | .383 | 26.5 | 143 | .264 | 4.75 | 50歳 | |
1986年 | 6位 | 130 | 49 | 77 | 4 | .389 | 27.5 | 119 | .252 | 4.27 | 51歳 | |
1992年 | 日本ハム | 5位 | 130 | 54 | 73 | 3 | .425 | 26 | 99 | .259 | 4.20 | 57歳 |
通算:5年 | 549 | 221 | 303 | 25 | .422 | Bクラス3回 |
- ※1 1973年から1996年までは130試合制
- ※2 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は前期順位・後期順位の順に表示
- ※3 1973年、田宮謙次郎監督の退任に伴い、後期開幕(7月27日)から監督に就任(65試合30勝32敗3分)
- ※4 1984年、武上四郎監督休養後の中西太監督代行が休養した5月22日から監督代行。6月15日監督に就任(94試合42勝47敗5分)
- ※5 通算成績は、実際に指揮した試合
表彰編集
記録編集
- 9連続奪三振(1958年5月31日) ※NPB歴代2位タイ記録
- 56イニング連続無四球(1961年7月29日 - 8月23日)
- 51.2イニング連続無四球(1959年6月28日 - 7月16日)
- 通算与四球率 1.21(投球回2518.1/与四球339) ※2000投球回以上
- 日本シリーズ1シリーズ6登板(1962年) ※シリーズタイ記録
- オールスターゲーム出場:7回(1958年 - 1964年)
背番号編集
- 51 (1955年)
- 48 (1956年 - 1957年)
- 21 (1958年 - 1967年)
- 61 (1969年 - 1970年)
- 73 (1971年 - 1973年)
- 74 (1984年 - 1985年)
- 81 (1986年)
- 72 (1992年)
関連情報編集
出演番組編集
- プロ野球ニュース(フジテレビ・ニッポン放送解説者時代から出演 CS版の「番組専属」扱い)
- 野球道(フジテレビ系列) - かつてフジテレビ解説者として出演していた中継の現行統一タイトル
- ニッポン放送ショウアップナイター
- 月曜ドラマランド「野球狂の詩」(1985年1月7日、特別出演)
- とんねるずのみなさんのおかげです - おかげです定時制高校野球部(生徒「ハイタツ」役)、涙目怪人選手権(審査員)
脚注編集
注釈編集
- ^ 前年に記録した梶本隆夫とタイ記録。2022年4月10日に佐々木朗希が更新するまで、60年以上もの間、日本記録であった[8]。
- ^ 前年までの日本プロ野球記録は2度であったが、この年近鉄バファローのルーキー・徳久利明が土橋の成績を上回る5度も記録している。
- ^ 毎日の練習メニューが江本曰く半端なものではなく、うさぎ跳び100回、レフトとライトのボール間を全力で10本ダッシュ、腹筋と背筋を500回ずつでここまでがウォーミングアップでフリーバッティングに登板し約40分間。試合ではベンチ入りした。
- ^ 大沢は、王貞治や上田利治を候補に考えていたが王は自身の活動スケジュール(主に世界少年野球推進財団の関連)の都合で辞退し、上田は好意的だった大社義規オーナー(日本ハムの前身は、上田の出身地だった徳島県で起業した。)以外の球団上層部から「関西出身の上田では人気が出ない」と了解を得られなかったという。その後上田は他の幹部を押し切る形で、大社自らの要請により、大沢の後任として監督を務めた。
- ^ 8月26日は試合がなかったため
- ^ 土橋がパイを投げる直前に岡村を抱えて落としたと言われるが、これは別人である。
出典編集
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『野球小僧 6月号 2012』白夜書房、白夜書房、2012年、P186-P195
- ^ 草野球出身土橋正幸、シーズン30勝!これで優勝だ!?
- ^ 週刊ベースボール 2020年6月8日号 連載『張本勲の喝!!』50-51頁
- ^ プロの給料5000円、軟式野球5試合やれば5000円、60年前のプロ野球の待遇はひどすぎた。合宿のご飯もおかわりダメ
- ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』159頁
- ^ ベースボールマガジン別冊夏祭号 1954-1972東映フライヤーズ暴れん坊伝説 ベースボール・マガジン社.2020年.p16-17
- ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』160頁
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- ^ 知恵の森文庫「お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝」テリー伊藤、光文社、2004年11月、ISBN 9784334783259。
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- ^ “元東映投手、土橋正幸さん死去 ヤクルト、日ハムで監督”. MSN産経ニュース. (2013年8月26日). オリジナルの2013年8月30日時点におけるアーカイブ。 2022年11月8日閲覧。
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- ^ 『ナインティナインのオールナイトニッ本』(vol.1) ISBN 978-4847041945
- ^ 第三話 西崎幸広25歳。俺の評価が低すぎる事件の真相 - デーブ大久保チャンネル・2022年5月10日
参考文献編集
- 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1986年
関連項目編集
外部リンク編集
- 個人年度別成績 土橋正幸 - NPB.jp 日本野球機構