アッツ島の戦い

アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年昭和18年)5月12日アメリカ軍アッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。

アッツ島の戦い
AttuJapaneseArtillery1.jpg
アッツ島を守る日本軍の高射砲
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1943年5月12日 - 5月29日
場所アッツ島アメリカ
結果:アメリカ軍の勝利
日本軍守備隊の玉砕
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
大日本帝国 山崎保代   アメリカ合衆国 トーマス・キンケイド
戦力
約2,650 約11,000
損害
戦死 2,638
生存 28
戦死 600
戦傷 1200
アリューシャン方面の戦い
青い矢印が米軍の進路、赤い矢印は29日の日本軍最後の反撃の進路

目次

背景編集

日本軍は1942年(昭和17年)6月に海軍のミッドウェー作戦陽動作戦としてアリューシャン列島アッツ島キスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称した。アッツ島には6月8日[1]第7師団の穂積部隊(北海支隊独立歩兵第三〇一大隊と配属部隊の独立工兵一個中隊)の約1,100名が衣笠丸で上陸し、キスカ島には海軍部隊が上陸した。ところが穂積部隊はアメリカ軍がキスカ島に上陸するという情報を受け、9月18日にキスカ島に転進した。しかしアッツ島を無人にするわけにもいかず、アメリカ軍の空襲に遭いながらも、占守島を守備していた米川中佐が率いる北千島第89要塞歩兵隊の2,650名が10月30日に進出してアッツ島守備隊となり、飛行場陣地の建設を開始した。だが地形や補給の関係から飛行場の建設は遅々として進まず、キスカ島・アッツ島とも飛行場の完成前に米軍の反攻に晒されることになった[2]

一年のほとんどが時化と言う気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。

1943年(昭和18年)になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、時折建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された[3]。大本営海軍部(軍令部)では一部で撤退意見があったものの、福留繁軍令部第一部長をはじめ大多数はアリューシャン列島の保持という方針を堅持した[4]。 同年2月に山崎保代大佐が北海守備第2地区隊長に任命され、アッツ島守備隊長としての着任、人員・武器弾薬・物資の増援が計画された。まず第一次増援輸送として、3月10日には君川丸、粟田丸がアッツ島に到着して輸送を成功させた。続いて第二次増援輸送として、3月27日に輸送船2隻(浅香丸、崎戸丸。山崎保代大佐同乗)と三興丸が日本海軍第五艦隊に護衛されてアッツ島に到着予定であった。しかしアッツ島沖海戦が生起し第五艦隊は撤退[5]し、この輸送は中止された[6]。山崎保代大佐も上陸できなかったため、4月18日に「伊31」潜水艦に便乗して着任した。

 
山崎保代大佐

アメリカ軍はアッツ島への上陸作戦を5月7日とした。この時期はアッツ島周辺では一年霧があるうちでももっとも霧の多い時期であった[7]。米軍の計画では3日で全島を制圧する予定であった。

軍令部第一課長山本親雄大佐は「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想している[8]

経過編集

1943年5月5日、ロックウェル少将が率いる、戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊が[7]アラスカのコールド湾を出港した。編成は以下の通り。

上陸部隊はA・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「ランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)」という。

上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した。主力は霧に紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸に上陸し、抵抗を受けることなく海岸に橋頭堡を築くことに成功した。

 
アッツ島に上陸したアメリカ軍

日本軍は上陸したアメリカ軍を程なく発見し、迎撃体制についた。また電文でアッツ島上陸を報告した。報告を受けた北海守備隊司令部は以下の電報を送った[9]

「全力を揮つて敵を撃摧げきさいすへし

隊長以下の健闘を切に祈念す 海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」

11日当時、輸送任務のために特設水上機母艦「君川丸」が軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「白雲」「若葉」の護衛のもとアッツ島へ向かっていたが米軍のアッツ島上陸の報告を聞き慌てて引き返した。

アメリカ軍は戦艦2隻でアッツ島を砲撃したが有効な損害を与えられなかった。 地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。 2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台(Hill X)にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。芝台を奪われた日本軍は西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。日本軍は高射砲を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。

一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという[10]。この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。

 
険しい地形がアメリカ軍を阻んだ

日本海軍はキスカ島から潜水艦伊34」「伊31」「伊35」を派遣した。「伊31」は米戦艦「ペンシルベニア」を雷撃したが命中せず、米駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈された。「伊34」も爆雷攻撃で損傷し、避退した[11]

また重巡洋艦「摩耶」と駆逐艦「白雲」もアッツ島の米軍攻撃のために12日に幌筵を出撃したが霧で視界が効かず引き返した。 日本海軍の航空部隊は占守島より出撃したが、悪天候のため攻撃に失敗した[12]

各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受けた。 16日、アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵をもってよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。

ブラウン少将は増援を要求したが16日に解任され、ユージーン・ランドラム少将が代わりの指揮を執った。

5月18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を決定した。当時の参謀次長秦彦三郎中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、若松只一第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している[13]。 翌19日、昭和天皇は第五艦隊の出撃を促し、連合艦隊の状況についても下問した[14]。 5月20日、昭和天皇は大本営に臨御した[15]。 21日、北方軍司令部の樋口季一郎中将に増援の派遣中止を通告した。 戦史叢書には樋口の回想が記載されている[16]

“参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く「北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい」と。

私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。”

日本海軍はアッツ島の米軍艦隊が正規空母4 - 5隻からなるものと過大評価し(実際には護衛空母一隻)、21日にアッツ島救援のために内地で修理や訓練を行っていた空母3隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)、重巡洋艦3隻(最上、熊野、鈴谷)、軽巡洋艦2隻(阿賀野、大淀)、駆逐艦複数隻(新月、浜風、嵐、雪風、秋雲、夕雲、風雲)等からなる艦隊が横須賀に集結した。北方で行動中と推定された米軍機動部隊に決戦を挑むための処置である[12]。 22日には連合艦隊司令長官古賀峯一大将及び海軍甲事件で死亡した山本五十六大将の遺骨を乗せた大和型戦艦「武蔵[17]と金剛型戦艦2隻(「金剛」「榛名」)、空母「飛鷹」、利根型重巡洋艦「利根」「筑摩」、駆逐艦5隻(第27駆逐隊〈時雨、有明〉、第24駆逐隊〈海風〉、第61駆逐隊〈初月、涼月〉)が東京湾に到着し、「武蔵」(連合艦隊旗艦)は木更津沖に投錨した[18]。駆逐艦2隻(夕雲、秋雲)は山本元帥の遺骨を東京へ送った[19]

23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った[20]

「(前略)軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」

これについては事実上の玉砕命令だとする指摘がある。これとは別に24日に昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉(御嘉賞)が電報で伝えられ、翌日山崎部隊長は感謝の返事を送っている。一方で昭和天皇は軍部の対応を批判していたという[21]

幌筵では20日までに第五艦隊の重巡洋艦「那智」「摩耶」を中心とする各艦艇と、陸軍の増援部隊を乗せた輸送船団が集結していた。第五艦隊によりアッツ方面の敵艦船攻撃と緊急輸送を実施予定であったが度々延期され、天皇は第五艦隊の出撃取止め理由を問いただしている[22]。 25日、第一水雷戦隊を中心とする艦隊が敵艦隊への攻撃及び緊急輸送のため、アッツ島へ向け幌筵を出撃した。編成は以下の通り。

第五艦隊は駆逐艦2隻(神風、沼風)をもって米艦隊の包囲網を突破、2隻は5月28日に同島へ到着し補給を行う予定であった[23][24]。27日、アッツ島沖で荒天に遭遇し、一時待機となった。

アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。各将兵の労をねぎらった後に最後の電報を東京大本営へ宛てて最後に打電した[25][26]

二十九日一四三五、海軍五一通信完了、一九三〇北海守備隊受領

「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(前線を通し残存兵力約150名)の為要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり

二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす

三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 攻撃隊の後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり(以下略)」

北二区電第九二号(一八四〇、海軍五一通より通報)

「五月二十九日決行する当地区隊夜襲の効果を成るへく速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」

当時のアッツ島の様子を伝える貴重な史料である辰口信夫曹長の日記もこの日が最後となっている。最後の突撃の直前、山崎部隊長はほとんどの書類を焼却したため、当時の様子を偲ばせる数少ない資料である[26]

“夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。

聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。

○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。

敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。”

生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は無線機を破壊すると夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破、戦闘司令所や野戦病院、舎営地を蹂躙しアメリカ軍曰く“生物はもちろん無生物までも破壊”した[27]。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している[28]

「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された…」
 
日本軍は雀ヶ丘(Engineer Hill)で全滅した

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。

28日夜、日本海軍の空母機動部隊は東京湾を出撃したが、守備隊が全滅したとの報と、事前に派遣した潜水艦が敵空母を発見できなかったため翌日に作戦は中止となり29日の夕方に東京湾に帰還した。同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も幌筵へ引き返した。

30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し[29]、初めて「玉砕」の表現を使った。それまでフロリダ諸島の戦いなどで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また山本五十六の戦死の発表の直後だったため、日本国民に大きな衝撃を与えた。

大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道した[30]が、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。

1943年9月29日、アッツ島守備隊将兵の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた。

分析編集

戦史叢書ではアッツ島の守備隊が全滅した理由として以下の理由を挙げている。

  • アッツ島の占領目的が陸海軍で一致していなかった。
  • 離島防御への認識が不十分で、「守備兵がおれば確保が可能である」という程度のものだった。
  • 航空機に関して、アリューシャン方面の分担が区分が明確でなかった。
  • 米軍の反攻に対する誤判断。
  • 米軍がアムチトカ島へ進攻し、飛行場を建設してアッツ、キスカ両島へ空襲を行うようになっても何の施策も行わず、無為に過ごした。

当時聨合艦隊の先任参謀であった黒島亀人大佐は「聨合艦隊司令部は一致して北方における積極作戦に反対であった。それは北方は地勢的、気象的に不利であり、当時は燃料が逼迫ひっぱくし軍令部からも注意があった等のためである」と回想している[31]

聨合艦隊参謀長の宇垣纏は5月13日の時点で日記に以下のように書いている[32]

思ふに如何に優勢なる敵が来襲したりとも断じて寄せつけぬ準備出来て然る可きなり。今更これを確保したりとするも敵はカムチャッカ方面に飛行場を急速に整備するは必定にして、反之当方は何等飛行場を有せざることとなるは明かなり。夫れ故にガ島(ガダルカナル島のこと)よりも戦況我に不利なり。斯の如き状況に於てアリューシャン方面を確保せんが為に兵力を続々と送り込めば、或は輸送船沈められ等してガ島の全く二の舞を演ずるやも測り知れず、然れば聨合艦隊としてはその将来をも保し難きものあり

アッツ島救援作戦の中止の理由としては、空母機動部隊の航空隊がい号作戦で消耗していたこと、占領した蘭印地域の油田の操業再開や輸送に手間取ったため内地の燃料備蓄に余裕が無かったことが戦史叢書には挙げられている。

特に輸送に関しては本来民需の維持に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を輸送するための輸送船を十分に確保できなかった。

この問題に関しては1942年末の時点でさらなる民間船舶の増徴及び南方戦線への投入を主張する陸軍参謀本部第1部長の田中新一少将が参謀本部第1部長室にて佐藤賢了軍務局長との乱闘事件を、翌日には首相官邸にて東條英機首相に対して罵倒事件(バカヤロー発言)を起こした結果辞任する事態になっていた。

1943年5月末には山本親雄軍令部第一課長が次のように説明している[33]

今内地に燃料は30万屯程度しか手持がない。然るに聨合艦隊が無為にしていても毎月四万屯宛油は減っていく。機動部隊が北方作戦に出動すれば一行動二十数万屯は要るものと思はねばならぬ。若し出動して敵艦隊を決定的に撃破することが出来ればよいが、そうでなければ9月頃迄聨合艦隊主力は動けない。

この事情により翔鶴、瑞鶴などの空母機動部隊は1943年前半はほとんど活動できなかった。

海軍の作戦指導に対して陸軍では釈然としないものがあったという証言があり、陸軍参謀総長杉山元及び参謀次長は「アッツ問題に関連して海軍が協力してくれなかったと言う風ことは一切言うな」と発言している[34]

影響編集

アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となったが、日本軍はキスカ島撤退作戦を実施し、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した[35]

 
アリューシャン戦線のこのアッツ島の戦いにおいて、鹵獲した大型上陸用舟艇の大発動艇を使用するアメリカ軍

アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた(上述)。森山康平によれば、その際に次のようなエピソードがあったとされる。

昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令した。杉山はすかさず「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った。これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、という。こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電された[36]

しかし、5月30日の陸軍少将眞田穣一郎(当時参謀本部第一部長、のち陸軍省軍務局長)の日記には「陛下からはご下問も何もなし」と記録されている。眞田第一部長はこの上奏を起案した瀬島龍三の直属長官であり、瀬島は杉山参謀総長とともに車で宮中に赴いている。もし上記のような命令がされていたのであれば、かならず上司である眞田にも報告があったはずである。よって、上記の昭和天皇とのやり取りが創作ではないかという指摘もある。

また上記のエピソードの出典は瀬島龍三の回顧録である場合が多い。

さらにアッツ島での玉砕の報を聞いた時に東条英機首相・陸軍大臣は声をつまらせてむせび泣いた[37]

戦後編集

1950年にアメリカ軍によってアッツ島に以下の文面が書かれた記念碑が設置された[38]

「第二次世界大戦 1943年

日本の山崎陸軍大佐はこの地点の近くの戦闘によって戦死せられた。

山崎大佐はアッツ島における日本軍隊を指揮した。

場所 エンジニアヒル クレヴシー峠

第17海軍方面隊指揮官の命により建立した。1950年8月」

1987年には、日本政府によりアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」が雀ヶ丘(Engineer Hill)に建てられた。

 
北太平洋戦没者の碑

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ (昭和18年)五月一六日(日)雨、寒し 戦況。アッツ陸上、北海湾西浦方面の敵艦隊及敵火器により、相当苦戦。当方のS-34〔伊号第三四潜水艦〕は爆雷攻撃により損害、一時避退。
  2. ^ (昭和18年)五月一九日(水)半晴(略)午前、御召あり、御下問。アッツ島方面の天候、我(飛行機)の飛行しあるや否や。5Fは未だ幌筵にありや、出動せざるや。敵主力南下せる如しとせば、5Fは霧中奇襲しては如何。GFの増援部隊は、如何なる状態なりや。/一五三〇、両総長列立拝謁、明日午前、大本営臨御奏請。/戦況、アッツ島附近、S×3中、二隻は損傷及一隻は連絡なし。敵巡、夜はアッツ島附近に出没す。(以下略)
  3. ^ (昭和18年)五月二〇日(木)雨 当直
  4. ^ (昭和18年)五月二二日(土)晴(略)機動部隊及「武蔵」東京湾着
  5. ^ (昭和18年)五月二四日(月)曇、午後雨(略)5F、出撃取止めし理由、中村武官に御下問。天候、梅雨になりしやの御下問あり。低気圧は梅雨の如き配置なるも、北方の高気圧発達せず、まだ梅雨にならぬ由、上聞。
  6. ^ (昭和18年)五月二八日(金)小雨 戦況。○熱田島補給のd×2 今夕現地着の予定。(以下略)
  7. ^ (昭和18年)五月二九日(土)曇 一六三〇、軍令部総長拝謁。○アッツ島補給のd×2 其後の状況不明、天候不良にて難航?(以下略)
  8. ^ (昭和18年)五月三〇日(日)半晴 一〇〇〇、参謀総長拝謁。アッツ島守備隊、前夜夜襲、玉砕奏上。一四二〇/二九以来通信杜絶。約二千(海軍約百名、江本参謀〔を含む〕)。一七〇〇、発表さる。守備隊長、山崎陸軍大佐、沈勇壮烈、皇軍の真価発揮。(近頃、第一線の美談、多くは作戦の欠を補ひつゝある観あり)。

出典編集

  1. ^ 城英一郎日記頁「(昭和17年)六月八日(月)曇」
  2. ^ 大本営海軍部 1982, pp. 133-135「ついに玉砕したアッツ守備隊」
  3. ^ 大本営海軍部 1982, pp. 126-129「アリューシャンに暗雲」
  4. ^ 大本営海軍部 1982, pp. 128-129.
  5. ^ 城英一郎日記頁「(昭和18年)三月二七日(土)曇」
  6. ^ 大本営海軍部 1982, pp. 129-132「アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す」
  7. ^ a b 戦史叢書21 1968, p. 306.
  8. ^ 戦史叢書21 1968, p. 268.
  9. ^ 戦史叢書21 1968, p. 333.
  10. ^ 西島照男 1991, p. 40.
  11. ^ 城英一郎日記274頁[注釈 1]
  12. ^ a b 大本営海軍部 1982, p. 134.
  13. ^ 戦史叢書21 1968, p. 395.
  14. ^ 城英一郎日記275頁[注釈 2]
  15. ^ 城英一郎日記275-276頁[注釈 3]
  16. ^ 戦史叢書21 1968, p. 412.
  17. ^ 城英一郎日記277頁[注釈 4]
  18. ^ 武藏上 2009, pp. 142-143.
  19. ^ 武藏上 2009, p. 144.
  20. ^ 戦史叢書21 1968, p. 421.
  21. ^ 戦史叢書21 1968, p.427 尾形侍従武官日記「現地守備隊長、北方軍司令官共ニ最後ヲ完シ玉砕スヘキ悲壮ナル訓辞ヲ下シアリ 中央統帥ノ欠陥ヲ第一線将兵ノ敢闘ヲ以テ補ヒ第一線ノ犠牲ニ於テ統帥ヲ律シアル実情トナリアリ 甚タ遺憾ナリ」.
  22. ^ 城英一郎日記277-278頁[注釈 5]
  23. ^ 城英一郎日記279頁[注釈 6]
  24. ^ 城英一郎日記279頁[注釈 7]
  25. ^ 戦史叢書21 1968, p. 440.
  26. ^ a b 戦史叢書21 1968, p. 441.
  27. ^ 戦史叢書21 1968, p. 452.
  28. ^ 戦史叢書21 1968, p. 454.
  29. ^ 城英一郎日記279頁[注釈 8]
  30. ^ 山崎部隊長への感状”. 戦争証言アーカイブス. 日本放送協会. 2017年1月15日閲覧。
  31. ^ 戦史叢書21 1968, p. 338.
  32. ^ 戦史叢書21 1968, p. 348.
  33. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 552-553.
  34. ^ 戦史叢書29 1969, p. 553.
  35. ^ 大本営海軍部 1982, p. 135.
  36. ^ 玉砕の戦場 2004, pp. [要ページ番号].
  37. ^ 幾山河―瀬島龍三回想録 1996/7
  38. ^ 戦史叢書21 1968, p. 455.

参考文献編集

  • 牛島秀彦 『アッツ島玉砕戦 われ凍土の下に埋もれ』 光人社〈光人社NF文庫〉、1999年ISBN 4769822472
  • 木俣滋郎 『日本空母戦史』 図書出版社、1977年
  • 城英一郎著 『侍従武官 城英一郎日記』 野村実・編、山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。
  • 手塚正己 『軍艦武藏 上巻』 新潮文庫、2009年8月。ISBN 978410127714。
  • 西島照男 『アッツ島玉砕 十九日間の戦闘記録』 北海道新聞社1991年ISBN 4893636162
  • 『北東方面陸軍作戦』1 (アッツの玉砕)、防衛庁防衛研修所 編、朝雲新聞社戦史叢書21〉、1968年
  • 『北東方面海軍作戦』 防衛庁防衛研修所 編、朝雲新聞社〈戦史叢書29〉、1969年
  • 太平洋戦争研究会 編、森山康平 『図説・玉砕の戦場 太平洋戦争の戦場』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2004年ISBN 4309760457
  • 山本親雄 「第4章 攻勢防御ならず」『大本営海軍部』 朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1982年12月。ISBN 4-257-17021-2

関連項目編集

  • 辰口信夫 - 日本軍の軍医であり戦闘を記録した日記が残されている。
  • 藤田嗣治 - 日本軍の要請により、戦争画『アッツ島玉砕』を描いた。絵の前には賽銭箱が設えられ、賽銭が入るたび藤田はかしこまり頭を下げたという(野見山暁治 「戦争画とその後」『四百字のデッサン』 河出書房新社、1978年)
  • 太宰治 - アッツ島で戦死した知人をしのんだ作品『散華』を発表した。