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アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年昭和18年)5月12日アメリカ軍アッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である[1]

アッツ島の戦い
AttuJapaneseArtillery1.jpg
アッツ島を守る日本軍の高射砲
戦争太平洋戦争
年月日1943年5月12日 - 5月29日
場所アッツ島アメリカ
結果:アメリカ軍の勝利
日本軍守備隊の玉砕
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
大日本帝国 山崎保代   アメリカ合衆国 トーマス・キンケイド
戦力
約2,650 約11,000
損害
潜水艦1喪失
戦死 2,638
生存 28
戦死 600
戦傷 1200
アリューシャン方面の戦い

概要編集

アッツ島の戦いは、太平洋戦争におけるアリューシャン方面の戦いにともない1943年(昭和18年)5月中旬から下旬にかけてアッツ島でおこなわれた戦闘。アメリカ軍はアリューシャン列島の奪回を目指して、5月12日にアッツ島上陸を開始した[2][3]山崎保代陸軍大佐指揮下の日本陸軍がアッツ島(当時の日本側呼称は熱田島)を防衛していたが、兵力も防御施設も不十分であった[注 1]。 北方方面を担当する日本海軍第五艦隊もアメリカ艦隊に対し有効な反撃を行えず[5]、またアッツ島への補給や救援に失敗した[6]。島を包囲するアメリカ艦隊を攻撃した潜水艦1隻が撃沈された[7]連合艦隊は空母機動部隊[8]大和型戦艦を含む主力艦部隊[9]本州横須賀方面に集結させたが、反撃には出なかった[10][11]

大本営はアッツ島増援を検討したものの[12]、最終的には西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の確保を断念する[13][14]。5月20日、アッツ島の放棄と、キスカ島からの撤退を発令した[15][16]。アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日玉砕した[17]。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。

本記事では、アッツ島攻防戦に至る経緯、アッツ島地上戦闘の様相、日本軍が西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)放棄を決定するに至った経緯を記述する。

背景編集

連合軍が1942年(昭和17年)4月18日に敢行したB-25爆撃機による日本本土空襲[18]、日本軍に大きな衝撃を与えた[19]ドーリットル空襲[20][21]。 日本軍は同年5月下旬に実施されたミッドウェー作戦陽動作戦として、また北東方面からの連合軍空襲阻止を企図しアリューシャン群島西部要地の攻略または破壊を目的として、さらに米ソ連絡遮断を企図して[22]アリューシャン作戦を発動した[注 2]。 日本陸軍の北海支隊(支隊長穂積松年陸軍少佐、独立歩兵一大隊、独立工兵一中隊、高射砲中隊、補助部隊、約1,150名)はアリューシャン列島アッツ島[24]舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊キスカ島を攻略することになった[25]。アッツ島は「熱田島」、キスカ島は「鳴神島」と改称された[26]大本営陸海軍部、連合艦隊(司令長官山本五十六海軍大将)、第五艦隊(司令長官細萱戊子郎海軍中将)の防衛方針は統一されておらず、アッツ島玉砕の原因は攻略計画立案時から内包されていた[23]。たとえば大本営海軍部(軍令部)と連合艦隊は「キスカやアッツの守備は陸上兵力と水上機だけで良い」「飛行場を造るつもりはない」と考えていたが、第五艦隊や日本陸軍は「飛行場を建設して積極作戦に打って出たい」と考えていた[27]

この時期、アメリカ軍がアリューシャン方面に配備していた兵力は貧弱であった[28]。日本軍の暗号解読により攻勢を察知したアメリカ軍は、巡洋艦5隻・駆逐艦14隻・潜水艦6隻をアリューシャン方面に派遣した[29]。一方の日本軍は第五艦隊と第四航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母龍驤隼鷹)を基幹とする機動部隊と攻略部隊でアリューシャン方面に進撃する。6月7日、アッツ島攻略部隊(第一水雷戦隊〈阿武隈[30]若葉初霜初春〉、輸送船〈衣笠丸〉)は第7師団の穂積部隊(北海支隊独立歩兵第三〇一大隊と配属部隊の独立工兵一個中隊)の約1,100名を乗せてアッツ島に到達、同島に上陸して6月8日占領した[31][32]。キスカ島の守備は日本海軍の陸上部隊が、アッツ島の守備は北海支隊が行うことになった[32][33]。 6月23日、大本営は西部アリューシャン群島の長期確保を指示した[注 3]。 アメリカ軍はウムナック島の基地から大型爆撃機で空襲をおこない、また潜水艦を投入して日本軍に損害を与えた(7月5日の海戦など)[35][36]

8月8日、巡洋艦を基幹とするアメリカ艦隊はキスカ島に来襲し、艦砲射撃を敢行した[37]ガダルカナル島攻防戦の生起にともない大本営の関心はソロモン諸島に集中しており、大本営陸海軍部は特に検討することなく北海支隊のキスカ島移駐を命じた[注 4]。北海支隊はアッツ島を放棄するに際し、携行できない軍需品や施設を破壊した[39]。またアッツ島のアリュート族住民約40名を同行した[39]。 第五艦隊の協力下、穂積支隊はキスカ島への転進を完了した[38][40]。この時点で北海支隊は第五艦隊の指揮下に入った[38]。日本軍の防衛方針は、相変わらず統一されていなかった[41]

10月18日、日本軍はアメリカのラジオ放送からアムチトカ島が占領されたと判断し(実際は誤報であった)、急遽アッツ島の再占領を決定した[注 5]。 10月20日より、アッツ島の再占領がはじまる[注 6]。 24日、大陸命第七百八号と第七百九号により北海守備隊が新編され、第五艦隊司令長官の指揮下に入った[注 7]。北海守備隊司令官には峯木十一郎陸軍少将(陸士28期)が任命され、札幌の守備隊司令部に着任した[44]。 一方、占守島を守備していた米川浩陸軍中佐(陸士第31期)[45]が率いる北千島第89要塞歩兵隊の2,650名が、アッツ島に配備される。米川部隊は第五艦隊の軽巡洋艦や駆逐艦に分乗してアッツ島へ移動、10月29日に上陸した[46][43]。 11月1日、大本営は各方面に陸海軍中央協定を指示する[47]。第五艦隊司令長官が北海守備隊を指揮すること[48]。キスカ島とセミチ島に陸上航空基地を、キスカ島とアッツ島に水上航空基地を建設すること[48]。陸上航空基地の建設は陸軍の担任であること[48]。急速輸送は海軍艦艇が、その他は陸軍輸送船が担任し「右陸軍輸送船(軍需品ヲ含ム)ニハ護衛(間接護衛ヲ含ム)ヲ附スルヲ本則トス」[48]。以上のような項目が定められた。

この方針により、西部アリューシャン列島の各島で飛行場の建設と陣地強化がはじまった[49]。鳴神地区隊(キスカ島)は北海守備隊司令官が担任し、熱田地区隊は北千島要塞歩兵隊長が担任する[50]。だが地形や補給の関係から飛行場の建設は遅々として進まず、キスカ島・アッツ島とも飛行場の完成前に米軍の反攻に晒されることになった[51]。また一年のほとんどが時化という気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。さらに絶え間ない空襲や艦砲射撃の恐怖、補給不足による栄養失調が重なった[52]

11月25日、アッツ第二次輸送作戦(阿武隈[53]、木曾[54]、若葉[55]国後[56]等が参加)が行われて成功したが、セミチ島攻略部隊は輸送船「ちえりぼん丸」がアッツ島で空襲をうけ擱座したため中止された[57]。各島への輸送と部隊配備は12月末までに終了する計画だったが、輸送船の被害や、水上戦闘機の進出が遅れたことが重なり、昭和18年3月末完了予定と延期された[58]。同時期の日本軍艦船は、連合軍による空襲の激化と潜水艦の蠢動によりアリューシャン列島から北千島への退避を余儀なくされており、補給輸送の断絶はアッツ島・キスカ島の命脈が絶たれることを意味した[59]

1943年(昭和18年)初頭になるとアメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、従来の航空機や潜水艦による封鎖や妨害の他に、水上艦艇による襲撃も行うようになった[59]。アメリカ艦隊は建設中の飛行場に艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された[60][61]。また輸送船にも被害が続出した[62]。1月6日、アッツ到着目前の「琴平丸」が空襲で沈没する[63]。同日、キスカ行の増援部隊を乗せた「もんとりーる丸」が空襲で沈没する[63]。1月24日、日本軍は米軍がアムチトカ島に進出したのを発見した[64]。2月になると、米軍はアムチトカ飛行場の使用を開始し、日本軍の水上戦闘機では対抗できなくなった[64]。アリューシャン方面の制空権は連合軍のものとなった[65]

大本営海軍部(軍令部)では一部で撤退意見があったものの、福留繁軍令部第一部長をはじめ大多数は「アリューシャン列島の保持」という方針を堅持した[66]。 同年2月5日、大本営は北部軍司令部を改変し、北方軍司令部(司令官樋口季一郎陸軍中将)を編成した[67][68]。この改変にともない、北海守備隊は第五艦隊司令長官の指揮下を離れ、北方軍の隷下に入った[69]。すなわち西部アリューシャンの防衛は北方軍と第五艦隊、千島方面の防衛は北方軍と大湊警備府の担当となった[70]。アッツ島に陸上航空基地を建設することが決まり、飛行場完成は3月末を目標とした[71]。飛行場や防御施設の整備は進んでいなかったが、現地を視察した日本陸軍上層部は海軍に「キスカやアッツ島の陸海軍は仲良く協調し、糧食も十分、飛行場整備も大いに進捗、さして心配はいらぬ」と説明しており、後日のアッツ島上陸の報をうけた宇垣纏連合艦隊参謀長は「彼等(日本陸軍)の楽観説には誠に恐れ入るものあり」と評している[72]

2月11日、大本営陸軍部は北海守備隊(司令官峯木十一郎陸軍少将、キスカ在)の編成を改正し、キスカ島を担当する第一地区隊(歩兵三コ大隊、地区隊長佐藤政治陸軍大佐)と、アッツ島を担当する第二地区隊(歩兵一コ大隊、地区隊長は米川浩中佐から山崎保代陸軍大佐に交代)を区分した[73][74]。同時に人員・武器弾薬・物資の増援が計画されたが、海防艦「八丈」に護衛されていたアッツ行輸送船「あかがね丸」がアメリカ艦隊により撃沈された[65][75]。日本軍は戦略の転換をせまられ、第五艦隊の護衛による集団輸送方式に転換した[76]。 3月10日、第五艦隊と第一次増援輸送船団(君川丸[77]粟田丸、崎戸丸)がアッツ島に到着して輸送に成功した[78]。これがアッツ島に対する最後の輸送船補給となった[79]

続いて第二次増援輸送として第五艦隊と輸送船3隻(アッツ行/山崎大佐以下第二地区隊本部、砲兵大隊および高射砲大隊本部、増援一個中隊、野戦病院の一部と軍需品。キスカ行/北海守備隊司令部、未進出部隊ほか[80]。輸送船/淺香丸、崎戸丸、三興丸)[81]は北千島を出撃した。しかし3月27日にアメリカ水上艦隊と遭遇してアッツ島沖海戦(連合軍呼称はコマンドルスキー諸島海戦)[82]が生起し第五艦隊旗艦「那智」が小破[83]、第五艦隊は撤退して輸送作戦は中止された[84][85]。山崎保代大佐も上陸できなかった[78]。これ以降、アッツ島に対する水上艦の輸送は悪天候や米軍機の妨害により実施できず、潜水艦による輸送に限定された[86][87]

この海戦の後、第五艦隊司令長官は細萱中将から河瀬四郎海軍中将に交替した[80]。山崎大佐は4月18日に「伊31」潜水艦に便乗してアッツ島に到着した[注 8]。4月下旬、アッツ島に幅約100×長さ約1000mの飛行場がほとんど完成し、視察に来た海軍将校は大本営に戦闘機約一個戦隊のアッツ進出を意見具申した[79]。大本営海軍部は戦闘機隊のアッツ進出に一旦同意したが間もなく取り消し、日本陸軍は憤慨して失望した[79]

 
山崎保代大佐

アメリカ軍のアッツ島攻略部隊の全指揮はトーマス・C・キンケード海軍少将がとり、ロックウェル海軍少将とブラウン陸軍少将の上陸部隊を指揮する[89]。当初はキスカ島に上陸予定だったが、アメリカ軍の兵力不足、各島防備状況等を考慮し、統合参謀本部は上陸目標のアッツ島変更を承認した[90]。アッツ島への上陸作戦は5月7日と定められた[89]。アッツ島周辺は一年霧に覆われているが、この時機は濃霧期の直前であった[89][91]。米軍の計画では3日で全島を制圧する予定であった[92]。アメリカ海軍省は西部アリューシャンの奪回と時機を公表して宣伝しており、報道を知った日本軍は警戒を強めていた[93][94]。アメリカ艦隊は4月27日にアッツ島を砲撃し、5月9日には潜水艦で北海道幌別村(室蘭北東16km)[95]に砲撃を加えるなど、活発に行動していた[96]

軍令部第一課長山本親雄大佐は「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想している[97]。4月11日に東京でおこなわれた中央関係者・北方軍・第五艦隊の懇談会で、北方軍は「米軍の反攻作戦は霧期前(4月~5月)におこなわれ、キスカ島への反攻は必至で間近い」と意見している[98]。第五艦隊は北方軍の主張するアッツ中心主義に同調したが、霧期前の強行輸送には同意しなかった[99]源田実大本営海軍部参謀は「海軍機の現地飛行場進出は7月中旬、それまでは水上戦闘機で対処。陸軍戦闘機の(アッツ、キスカ)進出は無理」と述べている[99]

経過編集

アッツ島地上戦編集

 
青い矢印が米軍の進路、赤い矢印は29日の日本軍最後の反撃の進路

1943年(昭和18年)5月4日、フランシス・W・ロックウェル少将が率いる戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、輸送船5隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊が[91]アラスカのコールド湾を出港した。編成は以下の通り。

上陸部隊はA・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「ランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)」という。

上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した[100]。主力は霧に紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸に上陸し、海岸に橋頭堡を築くことに成功した[2]

 
アッツ島に上陸したアメリカ軍

日本軍は上陸したアメリカ軍を程なく発見し、迎撃体制についた。海軍部隊の指揮は、5月10日に伊31潜水艦でアッツ島に到着した第五艦隊参謀江本弘少佐がとった[4]。守備隊は電文でアッツ島上陸を報告した。報告を受けた北海守備隊司令部は以下の電報を送った[101]

「全力を揮つて敵を撃摧げきさいすへし 隊長以下の健闘を切に祈念す 海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」

アメリカ軍は戦艦部隊でアッツ島の日本軍守備隊に対し艦砲射撃をおこなったが、有効な損害を与えられなかった[2]。 地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。 2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台(Hill X)にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。芝台を奪われた日本軍は西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。日本軍は高射砲を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。

一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという[102]。この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。

 
険しい地形がアメリカ軍を阻んだ

各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受けた。 16日、アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵をもってよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。

ブラウン少将は増援を要求したが16日に解任され、ユージーン・ランドラム少将が代わりの指揮を執った[103]

5月20日、大本営は北方軍に対しアッツ島への増援計画の中止を通告し、北方軍司令部は大きな衝撃を受けた[104]。5月21日、大本営陸軍部(参謀本部)の秦彦三郎参謀次長は自ら札幌の北方軍司令部を訪ね、北方軍司令官樋口季一郎陸軍中将にアッツ島増援中止に至った事情を説明した[105][106]。秦次長の帰京時の説明は以下のとおり[106]

“軍司令官以下克ク事情ヲ諒承シ「大命アリシ上ハ何モ申上グル事ナシ コノ上ハ大命ヲ遺憾ナク完遂スル以外ニナシ」 軍司令官モ「アッツ」ヲ攻略スルコトハ大ナル困難アリト考ヘテ居タ、ヨッテコノ大英断ヲトラレタ上ハ同感デアル 第七師団ニハ軍司令部ヨリモ少シク執着ガアル”

戦史叢書には樋口の回想が記載されている[107]

“参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く「北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい」と。 私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。”

21日、北方軍司令官は「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電した[108]。山崎隊長は「戦闘方針を持久より決戦に転換し、なし得る限りの損害を与える」「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電した[109][110]。 23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った[111]

「(前略)軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」

命令電の中で、はじめて玉砕の言葉が使われた[112]。これについては事実上の玉砕命令だとする指摘がある。これとは別に24日に昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉(御嘉賞)が電報で伝えられ、翌日山崎部隊長は感謝の返事を送っている。一方で昭和天皇は軍部の対応を批判していたという[113]

アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。各将兵の労をねぎらった後に最後の電報を東京大本営へ宛てて最後に打電した[114][115]

二十九日一四三五、海軍五一通信完了、一九三〇北海守備隊受領

「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(全線を通し残存兵力約150名)の為要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり

二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす

三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 攻撃隊の後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり

四 攻撃前進後無線電信機を破壊暗号書を焼却す

五 状況の細部は江本参謀及び沼田陸軍大尉をして報告せしむる為残存せしむ

(以下略)」
北二区電第九二号(一八四〇、海軍五一通より通報) 「五月二十九日決行する当地区隊夜襲の効果を成るへく速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」

当時のアッツ島の様子を伝える貴重な史料である辰口信夫曹長の日記もこの日が最後となっている。最後の突撃の直前、山崎部隊長はほとんどの書類を焼却したため、当時の様子を偲ばせる数少ない資料である[115]

“夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。

聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。

○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。

敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。”

第五艦隊の江本弘海軍少佐、海軍省嘱託秋山嘉吉、沼田宏之陸軍大尉は戦況報告のため最後の突撃から外され、アッツ湾東岬に移動して潜水艦による回収を待つことになった[116]船舶工兵一個分隊に護衛されていたとも伝えられる[117]。 一方、熱田島守備隊は無線機を破壊した[118]。日本軍残存部隊は夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。弾薬はすでに尽き、銃剣による突撃であった[119]。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破、戦闘司令所や野戦病院、舎営地を蹂躙しアメリカ軍曰く“生物はもちろん無生物までも破壊”した[120]。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている[121]。米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している[122][123]

「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された…」
 
日本軍は雀ヶ丘(Engineer Hill)で全滅した

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった[124]。5月21日時点では二割弱の兵力損失だったが、大本営より増援中止を伝達されてから八割強が斃れたことになる[125]。江本少佐と沼田大尉の収容にむかった伊号第二十四潜水艦は6月上旬に幾度かアッツ島へ突入したが、連絡に失敗した[126]。6月11日、伊24潜水艦は哨戒機とパトロール艇により撃沈された[127]。江本少佐一行はアッツ島東海岸突端の洞窟自決[117]、戦後になって日本側慰霊団により発見された[126]。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった[128]

大本営の対応編集

5月12日午前中、大本営海軍部では第一部(作戦)・第三部(情報)・特務班(通信諜報)関係者があつまり、太平洋方面の情況判断をおこなった[4]。大本営陸軍部では、北方軍作戦参謀安藤尚志陸軍大佐が、参謀次長秦彦三郎陸軍中将・作戦部長綾部橘樹陸軍少将・作戦課長服部卓四郎陸軍大佐達と共に、北部太平洋方面の情況と今後の作戦について検討していた[129]。同日午後、大本営陸海軍部はアメリカ軍アッツ島上陸の報告を受け、アッツ島確保の方針を打ち出した[89][130]。アッツ島への増援部隊は、第七師団(師団長鯉登行一陸軍中将)から抽出する予定であった[131][132]。 翌13日、陸海軍部はアッツ島に増援部隊をおくりこむことで一致していたが、連合艦隊は微妙な態度であった[133]。 5月14日、海軍部はアッツ島への緊急輸送につき「(一)落下傘部隊 (二)潜水艦輸送 (三)駆逐艦輸送」の具体的研究を進めた[134]。午後4時より行われた宮中大本営戦況交換会で、アッツ島守備隊は善戦しているが至急増援部隊をおくる必要があることを再確認した[135]大型運貨筒の準備もはじまった[135](水上機母艦日進により5月28日~29日アッツ島着予定)[136]。日本陸軍の一部では、落下傘部隊と潜水艦によるアムチトカ島奇襲「テ」号作戦の研究がすすめられた[137]。落下傘部隊だけによる奇襲は「ヒ」号作戦と呼称された[138]

5月16日から17日にかけての大本営陸海軍合同研究会は、徐々に悲観的な空気に包まれていった[139]。旧式戦艦(扶桑山城)と第五艦隊各艦および落下傘部隊でアムチトカ島を攻略する「テ」号作戦も検討されたが、もはや時機を逸しており成算も疑問視された[140]

5月18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を内定した[13][141]。当時の参謀次長秦彦三郎中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、若松只一第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している[142]

5月19日、昭和天皇は第五艦隊の出撃を促し、連合艦隊の状況についても下問した[143]。大本営は北海守備隊を如何にして撤退させるかの検討に入った[144]。キスカ島については潜水艦を主力とし駆逐艦と巡洋艦を併用する方向であったが、アッツ島に関しては「熱田湾ハ水深三米程ニテ潜水艦ハ入レナイ、「ボート」一隻モナシ、午前三時以後ハ絶エズ哨戒駆逐艦動キツツアリ(現地の日出0122、日没1652)。ココハ最後ハ玉砕ヤムナシト云フ案モアル。五月末集メ得ル潜水艦ハ全部デ十隻、海軍全部デ四〇席、ソノ三分之一ガ行動可能」であった[145]

5月20日、昭和天皇は大本営に臨御した[146]。大本営陸海軍部は、中央協定を結ぶ[147]。アッツ島守備部隊は機会を見て潜水艦により撤退、キスカ島守備部隊は潜水艦・駆逐艦・輸送船による逐次撤退と定められた[注 11]。大本営陸軍部は20日付大陸命第793号と大陸指第1517号等の発令をもって、中央協定を示達した[106]。大本営海軍部はアッツ島守備隊について、一部だけでも潜水艦で収容する方針を示した[注 12]

5月28日午前中、大本営陸海軍部は宮中で戦況交換をおこなう[150]。午後、大本営陸海軍部と連合艦隊参謀があつまり、戦局全般の研究会が開かれた[150]。 5月30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し[151]、初めて「玉砕」の表現を使った。それまでフロリダ諸島の戦いなどで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また山本五十六元帥戦死公表の直後だったため(5月21日午後3時、大本営発表)[152]、日本国民に大きな衝撃を与えた[153]

大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道した[154]が、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。この件に関し、北海守備隊の峯木司令官は東條英機陸軍大臣や富永恭次陸軍次官から「アッツの山崎大佐は何等救援の請求をしなかったが、司令官(峯木)が執拗に兵力増援をもとめたのはけしからん」として叱られたという[155]。またアッツ島海軍部隊を指揮していた第五艦隊参謀の江本弘少佐も、たびたびアッツ島への緊急輸送や増援の必要性を訴えている[15]

同年9月29日、アッツ島守備隊将兵約2600名の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた[156]

日本海軍の対応編集

アメリカ軍のアッツ島来攻時、日本海軍において北方方面を担任していたのは第五艦隊(司令長官河瀬四郎海軍中将)であり、第五艦隊司令長官は北方部隊指揮官を兼ねていた。当時の北方部隊の軍隊区分は、主隊(北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官直率:重巡摩耶、第二十一戦隊〈木曾、多摩〉)、支援部隊(妙高、羽黒)、水雷戦隊(第一水雷戦隊〈司令官森友一海軍少将:阿武隈、第6駆逐隊、第9駆逐隊、第21駆逐隊〉、長波、五月雨、響)、潜水部隊、航空部隊(第二十四航空戦隊司令官、第752航空隊、飛行艇隊)であった[157]。日本本土東方における邀撃作戦に関しては、第四空襲部隊指揮官(第二十四航空戦隊司令官山田道行少将)が聯合空襲部隊指揮官として、厚木海軍航空隊豊橋海軍航空隊を併せて指揮した[158][159]。なお米軍のアッツ島来襲後の5月18日をもって第十二航空艦隊(司令長官戸塚道太郎中将)が新編され、軍隊区分上は「第二基地航空隊」となった[160]

従来、第五艦隊は重巡洋艦「那智」を旗艦としていたが、同艦はアッツ島沖海戦で損傷し内地へ帰投[161]横須賀海軍工廠で損傷修理とレーダー装備工事をおこなっていた[162][163]。「那智」は5月11日に横須賀を出発し、北方へ向け移動中であった(5月15日、幌筵着)[164]。那智不在の間、第五艦隊旗艦は軽巡洋艦「多摩」や重巡洋艦「摩耶[165]が務めた。 また第五艦隊隷下の第一水雷戦隊旗艦は軽巡洋艦「阿武隈」であったが、アッツ島来攻時の同艦は舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなっていた[53][166]。「阿武隈」は急遽出渠し[167]、5月17日に舞鶴を出発、5月20日幌筵島片岡湾に到着した[168][53]。第五艦隊の主力艦として開戦時より北方で活動していた軽巡洋艦「多摩」も舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなっており、同艦も5月20日に舞鶴を出発、幌筵片岡湾着は22日であった[169]

日本海軍は北方部隊に複数の伊号潜水艦を配備して、哨戒や索敵任務のほかに、アッツ島やキスカ島への輸送に投入していた[注 14]

5月11日[171]水上機輸送任務のために特設水上機母艦「君川丸」が軽巡洋艦「木曾」[172][173]、駆逐艦「白雲」「若葉」の護衛のもとアッツ島へ向け幌筵を出撃した[174]。米軍のアッツ島上陸の報告を受けてアッツ行を中止、偵察を試みたが悪天候により水上機を発進できなかった[175][176]。各艦の幌筵帰投は5月15日であった[172]

5月12日のアッツ島上陸をうけて、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は重巡洋艦「摩耶」に将旗を掲げ[177]、アメリカ艦隊攻撃のため幌筵を出撃した[178][179]。だが霧で視界が効かず、アメリカ艦隊と交戦することなく引き返した(5月15日、幌筵帰投)[180]。並行して、北方部隊指揮官はアリューシャン方面で輸送任務についていた潜水艦をアッツ島に向かわせた[5]。また連合艦隊は複数の潜水艦を北方部隊に編入した[注 15]。 北方部隊のうち、キスカ輸送を終えた「伊31」と「伊34」は、キスカからアッツ島にむかった[181]。「伊35」は幌筵を出撃し、アッツ島にむかった[181]。 5月13日、「伊31」は米戦艦「ペンシルベニア」を雷撃したが命中せず[182](伊31は魚雷2本命中と報告)[183]、米駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈された[7]。「伊34」[184](資料によっては伊34のほかに伊35も損傷と記述する)[185]も爆雷攻撃で損傷し、避退した[182][186]

アメリカ軍アッツ島上陸の速報により、連合艦隊は内地回航中の戦艦「大和」と空母2隻および巡洋艦部隊[187]から4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)を抽出して北方部隊に増強し、第二十四航空戦隊と第801海軍航空隊(飛行艇6機)も北方部隊に増強した[188][189]。つづいて内地所在の機動部隊や艦艇を関東地方に移動させ、北方情勢に備えた[188]。連合艦隊は、アッツ島の米軍艦隊が正規空母4 - 5隻からなるものと評価した(実際には護衛空母一隻)[注 17]

内地で修理や訓練を行っていた第一航空戦隊(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)[190][191]、重巡洋艦3隻(最上、熊野、鈴谷)、軽巡洋艦2隻(阿賀野、大淀)、駆逐艦複数隻(新月、浜風、嵐、雪風、秋雲、夕雲、風雲)等からなる艦隊が横須賀に集結した[135]。北方で行動中と推定された米軍機動部隊に決戦を挑むための処置である[192]

5月17日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将及び海軍甲事件で死亡した山本五十六大将の遺骨を乗せた大和型戦艦「武蔵[152]と金剛型戦艦2隻(第三戦隊司令官栗田健男中将:金剛、榛名)、空母「飛鷹」(第二航空戦隊)、第八戦隊(利根筑摩)、駆逐艦5隻[注 18]はトラック泊地を出発、東京湾にむかった[193][194]

5月18日、大本営はアッツ島増援の中止を内定し、連合艦隊司令部は洋上でこの決定を知った[141]

5月22日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の艦隊は東京湾に到着し[193][195]、「武蔵」(連合艦隊旗艦)は木更津沖に投錨した[196]。駆逐艦2隻(夕雲、秋雲)は山本元帥の遺骨を東京へ送った[197]。また連合艦隊参謀長は宇垣纏中将から福留繁中将に交代した[193]。各艦隊司令部が集合して検討した結果、機動部隊の東洋湾出撃は29日を予定とし、北方全般の情勢をみて出撃するか否かの最終判断をくだすことになった[198]

幌筵では20日までに北方部隊(第五艦隊所属艦および臨時編入艦)[199]の各艦艇と、陸軍の増援部隊を乗せた輸送船団が集結していた[200][201]。北方部隊は水上艦船・航空部隊・潜水部隊でアッツ島方面敵艦隊に奇襲をしかけると共に、第1駆逐隊(沼風、神風)によるアッツ島緊急輸送を計画していた[106][注 20]。 この時点での北方部隊は、重巡洋艦4隻(那智、摩耶、妙高[202]、羽黒[203])、軽巡洋艦3隻(木曾、多摩、阿武隈)、駆逐艦(響、五月雨、長波、第9駆逐隊〈朝雲、白雲、薄雲〉、第21駆逐隊〈若葉、初春〉)[204][205]、水上機母艦「君川丸」、潜水艦部隊等によって編成されていた[206]

5月21日、大本営海軍部は大海指第247号により、アッツ島守備隊の収容に努力するよう第五艦隊に対し指示した[注 21]。だが第五艦隊の出撃は度々延期され[193]、天皇は第五艦隊の出撃取止め理由を問いただすことになった[207]

北方部隊に編入された第二十四航空戦隊の第一部隊(第752航空隊)陸上攻撃機21機は、5月13日幌筵島に進出を完了したが、連日の悪天候に悩まされた[208][209]。占守型海防艦(国後[210]石垣八丈)が陸攻隊の救難、気象観測、誘導のため配置された[211]。 5月23日、天候が回復する[212]。第752航空隊の陸攻19機(指揮官野中五郎大尉)はアッツ島方面に対するはじめての航空攻撃を敢行し[193]、駆逐艦1隻撃沈等の戦果を報告した[213](未帰還機1)[214][215]。翌24日、野中隊長指揮下の陸攻17機はアッツ島に到達したが、霧のため目標を視認できなかった[193]。邀撃してきたP-38双発戦闘機と交戦してP-38撃墜8(不確実2)を報じたが陸攻3機[213](ほかに着陸時大破1)をうしなった[216]。翌日の使用可能機数は、陸攻30と零戦12と報告している[214]。 25日以降ふたたび天候が悪化し[217]、その後は航空攻撃の機会を得られなかった[193][214]。キスカ島の海軍守備隊(第五十一根拠地隊、司令官秋山勝三海軍少将)は、アッツ島守備隊激励のため水上機を1回だけ派遣したという[218]

25日[219][220]、第一水雷戦隊を中心とする艦隊が敵艦隊への攻撃及び緊急輸送のため、アッツ島へ向け幌筵を出撃した[221][99]。編成は以下の通り。

第五艦隊は米艦隊の包囲網を突破、駆逐艦2隻(神風、沼風)は5月28日[222](陸軍部への通告では27日)にアッツ島へ到着し補給を行う予定であった[223][224][225]。27日、アッツ島沖で荒天に遭遇し、一時待機となった[150]

5月28日、第五艦隊参謀江本少佐(アッツ島)は「漸次急迫シツツアリ 本日ノ輸送ハ是非実行サレ度」と電報したが、第一水雷戦隊は既に作戦中止の意向であった[150]。旧式駆逐艦の上に大量の物件を搭載していた第1駆逐隊(神風、沼風)は悪天候の中で航行困難となり、命令により幌筵に帰投した[226]。 5月29日朝、連合艦隊は機動部隊の出撃を取りやめた[注 25] 同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も30日0230「行動ヲ中止シ幌筵ニ帰投ス」を発令し、引き返した[227]。連合艦隊は第五艦隊に「潜水艦ヲ以テ熱田島残留者(報告者ノミニテモ可)収容ノ手段ヲ講ゼラレタシ」と下令した[227]。この命令により伊号第24潜水艦がアッツ島に向かったが収容に失敗し、同艦は6月11日に撃沈された[127]。江本少佐以下4名もアッツ島で死亡した(前述)[228]

分析編集

戦史叢書ではアッツ島の守備隊が全滅した理由として以下の理由を挙げている。

  • アッツ島の占領目的が陸海軍で一致していなかった。
  • 離島防御への認識が不十分で、「守備兵がおれば確保が可能である」という程度のものだった。
  • 航空機に関して、アリューシャン方面の分担区分が明確でなかった。
  • 米軍の反攻に対する誤判断。
  • 米軍がアムチトカ島へ進攻し、飛行場を建設してアッツ、キスカ両島へ空襲を行うようになっても何の施策も行わず、無為に過ごした。

当時、聨合艦隊は4月18日の海軍甲事件山本五十六聯合艦隊司令長官や参謀複数が戦死、宇垣纏聯合艦隊参謀長も重傷を負い、新司令長官古賀峯一海軍大将は着任したばかりで指揮系統が混乱していた[229]黒島亀人大佐(当時、聯合艦隊先任参謀)は「聨合艦隊司令部は一致して北方における積極作戦に反対であった。それは北方は地勢的、気象的に不利であり、当時は燃料が逼迫ひっぱくし軍令部からも注意があった等のためである」と回想している[230][231]

聨合艦隊参謀長の宇垣纏は5月13日の時点で日記に以下のように書いている[232]

思ふに如何に優勢なる敵が来襲したりとも断じて寄せつけぬ準備出来て然る可きなり。今更これを確保したりとするも敵はカムチャッカ方面に飛行場を急速に整備するは必定にして、反之当方は何等飛行場を有せざることとなるは明かなり。夫れ故にガ島(ガダルカナル島のこと)よりも戦況我に不利なり。斯の如き状況に於てアリューシャン方面を確保せんが為に兵力を続々と送り込めば、或は輸送船沈められ等してガ島の全く二の舞を演ずるやも測り知れず、然れば聨合艦隊としてはその将来をも保し難きものあり

アッツ島救援作戦の中止の理由としては、空母機動部隊の航空隊がい号作戦で消耗していたこと、占領した蘭印地域の油田の操業再開や輸送に手間取ったため内地の燃料備蓄に余裕が無かったことが戦史叢書には挙げられている。また日本軍機動部隊が出動しても機動部隊同士の艦隊決戦生起の公算が少ないと判断されたこと、北方の天候と母艦搭乗員の練度不足、米軍基地航空圏下での作戦になりレーダーの性能差もあって海上決戦に不利であることも要素であった[231]

特に輸送に関しては本来民需の維持に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を輸送するための輸送船を十分に確保できなかった。この問題に関しては1942年末の時点でさらなる民間船舶の増徴及び南方戦線への投入を主張する陸軍参謀本部第1部長の田中新一少将が参謀本部第1部長室にて佐藤賢了軍務局長との乱闘事件を、翌日には首相官邸にて東條英機首相に対して罵倒事件(バカヤロー発言)を起こした結果辞任する事態になっていた。

1943年(昭和18年)5月28日の大本営陸海軍部合同研究会で、山本親雄軍令部第一課長が次のように説明している[233][150]

今内地には燃料は30万屯程度しか手持がない。然るに聨合艦隊が無為にしていても毎月四万屯宛油は減っていく。機動部隊が北方作戦に出動すれば一行動二十数万屯は要るものと思はねばならぬ。若し出動して敵艦隊を決定的に撃破することが出来ればよいが、そうでなければ9月頃迄聨合艦隊主力は動けない。

この事情により日本海軍の空母機動部隊(一航戦〈翔鶴、瑞鶴、瑞鳳〉、二航戦〈隼鷹、飛鷹、龍鳳〉)は1943年中盤までほとんど活動できなかった。

海軍の作戦指導に対して陸軍では釈然としないものがあった。アッツ島上陸直前の5月8日、連合艦隊旗艦「武蔵」で大本営海軍部(伊藤整一軍令部次長、山本親雄第一課長)を交えておこなわれた作戦研究で、連合艦隊は「艦隊決戦のためなら離島守備隊もあえて捨て石にする」と決定し、前線部隊も「至極当然のこと」と受け止めていた[234]。大本営陸軍部も同意見であったが「果たして連合艦隊は出撃するのか、出撃しても成算はあるのか」と疑っていたという[235]。アッツ島戦後、陸軍参謀総長杉山元及び参謀次長は「アッツ問題に関連して海軍が協力してくれなかったと言う風ことは一切言うな」と発言している[236]

影響編集

 
アリューシャン戦線のこのアッツ島の戦いにおいて、鹵獲した大型上陸用舟艇の大発動艇を使用するアメリカ軍

アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となったが、日本軍は前述のように5月20日附でキスカ島からの撤退を決定していた[148]。海軍では第一水雷戦隊司令官森友一少将が急病で倒れたため、木村昌福少将が第一水雷戦隊司令官となっていた[237]。潜水艦による第一次撤収作戦と水雷戦隊による第二次撤収作戦が実施され、キスカ島の将兵は脱出・撤退に成功した[238]。日本軍キスカ撤収直後、連合国軍はコテージ作戦を発動して8月15日にキスカ島上陸作戦を敢行したが、空振りに終わった[239]

アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた(上述)。森山康平によれば、その際に次のようなエピソードがあったとされる。

昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令した。杉山はすかさず「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った。これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、という。こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電された[240]

しかし、5月30日の陸軍少将眞田穣一郎(当時参謀本部第一部長、のち陸軍省軍務局長)の日記には「陛下からはご下問も何もなし」と記録されている。眞田第一部長はこの上奏を起案した瀬島龍三の直属長官であり、瀬島は杉山参謀総長とともに車で宮中に赴いている。もし上記のような命令がされていたのであれば、かならず上司である眞田にも報告があったはずである。よって、上記の昭和天皇とのやり取りが創作ではないかという指摘もある。

また上記のエピソードの出典は瀬島龍三の回顧録である場合が多い。

さらにアッツ島での玉砕の報を聞いた時に東条英機首相・陸軍大臣は声をつまらせてむせび泣いた[241]。 昭和天皇の陸海軍に対する評価は以下のとおり[242]

陸海軍ハ真ニ肚ヲ打チ明ケテ協同作戦ヲヤツテ居ルノカ、一方ガ元気ヨク要求シ、他方ガ成算モ無イノニ無責任ニ引キ受ケルト言フコトハナイカ、話合ヒノ出来タコトハ必ズ実行セヨ。見透シノツケ方ニ無理ガアツタ様ダ。今度ノ如キ戦況ノ出現ハ前カラ見透シガツイテ居タ筈、然ルニ十二日ノ上陸以来一週間カカッテ対応策ノ小田原評定ヲヤリ、ソノ結果トハ。

戦後編集

1950年(昭和25年)8月にアメリカ軍によってアッツ島に以下の文面が書かれた記念碑が設置された[243][244]

「第二次世界大戦 1943年

日本の山崎陸軍大佐はこの地点の近くの戦闘によって戦死せられた。

山崎大佐はアッツ島における日本軍隊を指揮した。

場所 エンジニアヒル クレヴシー峠

第17海軍方面隊指揮官の命により建立した。1950年8月」

1953年(昭和28年)7上旬から約三週間にわたり、日本の慰霊団[245](団長は不破博元陸軍大佐、首席団員は相良辰雄元海軍大尉)が巡視船だいおうに乗船してアッツ島を訪問し、遺骨収集をおこなった[246]。遺骨収集には在島アメリカ海兵隊が協力した[247]。日本軍守備隊の遺体は帆布製の遺体収容袋におさめられ、数か所に分散して埋葬されていた[248]。海軍参謀の江本中佐の遺体も洞窟内で発見された[117]。 日本側慰霊団は、アメリカが建てた記念碑の近くに石碑を建立した[244]

1968年(昭和43年)7月29日、札幌護国神社において「アッツ島玉砕雄魂之碑」の除幕式と慰霊祭がおこなわれた[249]。除幕式には、防衛庁長官や北海道知事をはじめ、桶口(元北方軍司令官)や山崎隊長長男など関係者多数が参列した[250]。 1987年には、日本政府によりアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」が雀ヶ丘(Engineer Hill)に建てられた。

 
北太平洋戦没者の碑

2019年5月29日札幌市でアッツ島戦没者慰霊祭が行われ、「戦没者慰霊の会」が設立された[251]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ アッツ島守備隊[4]。(一)陸軍部隊(北方軍北海守備隊第二地区隊)第二地区隊長山崎保代陸軍大佐 兵力:歩兵一コ大隊半、山砲一コ中隊(6門)、高射砲8門(12門とも)、計2500名、弾薬08会戦分、糧食は半定量として七月中旬まで。(二)海軍部隊 第五十一根拠地隊派遣隊(基地通信隊および電波探信儀設定班)計約100名。第五艦隊参謀(航海)江本弘海軍少佐。
  2. ^ 1942年(昭和17年)5月5日、大本営指示:アリューシャン作戦 「アリューシャン」群島西部要地ヲ攻略又ハ破壊シ同方面ヨリスル敵ノ機動並ニ航空進攻作戦ヲ困難ナラシム[23]
  3. ^ 1942年(昭和17年)6月23日、大海指第百六号:一 大海指第九十四号別冊第二「アリューシャン」群島作戦ニ関スル陸海軍中央協定中「アダック」ノ攻略確保ヲ取止メ「キスカ」及「アッツ」ハ確保スルコトニ改ム 聯合艦隊司令長官ハ所要ノ兵力ヲ以テ「キスカ」ヲ確保スルト共ニ陸軍ノ「アッツ」守備ニ協力スベシ/二 六月二十五日午前〇時ヲ以テ第五艦隊司令長官ノ陸軍北海支隊ニ対スル作戦ニ関スル指揮ヲ解ク [34]
  4. ^ ○大陸命第六七五号(昭和17年8月25日、抜粋)[38]北海支隊長ハ「アッツ」島ヲ撤シ「キスカ」島ニ到リ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ルヘシ 指揮転移ノ時機ハ「アッツ島」出発ノ時トス/同日の大海指第百二十四号:一 第五艦隊司令長官ハ北海支隊「アッツ」島出発後作戦ニ関シ同隊ヲ指揮スベシ/二 第五艦隊司令長官ハ北海支隊ヲ以テ「キスカ」島ノ防衛ヲ強北スベシ 
  5. ^ 十月十八日敵ハ「アムスチッカ」島ヲ占領セルモノノ如シ 之ニ基キ差当リ「アッツ」占領ノ為北千島要塞守備隊ノ一大隊(二中隊欠)ヲ海軍艦艇ニ依リ派遣スル如ク処置ス 敵ノ「アムスチッカ」島占領ノ報ニ対シ山本中佐個人ノ意見 「アムスチッカ」ガ奪回出来ナケレバ根本的ニ此ノ方面ノコトヲ考ヘ直ス必要アルベシ。[42]
  6. ^ ○大陸命第七百六号(昭和17年10月20日付)一 北部軍司令官ハ左記部隊ヲ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レ速ニ「アッツ」島附近ノ要地ヲ占領確保セシムヘシ 北千島要塞歩兵隊主力/二 指揮転移ハ前項部隊ノ北千島出港ノ時トス/○大海指第百四十八号(昭和17年10月22日付)一 北千島ノ一要塞歩兵隊主力北千島出港以後作戦ニ関シ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ラシム/二 第五艦隊司令長官ハ右陸軍部隊ヲ「アッツ」島ニ進駐セシメ同島附近ノ防備ヲ強化シ之ヲ確保スベシ。[43]
  7. ^ ○大海指第百五十三号(昭和17年10月27日付)一 十月二十四日北海守備隊ヲ編成セラレ作戦ニ関シ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ラシメラル 指揮編入ノ時機ハ北海守備隊司令官内地出発ノ時機トス/二 第五艦隊司令長官ハ右北海守備隊ヲ以テ西部「アリューシャン」列島ノ要地ヲ占領確保スベシ。[43]
  8. ^ 伊31号潜水艦の行動[88]。4月15日幌筵出発、18日アッツ島に到着して山崎大佐上陸、同日発、21日幌筵帰投。
  9. ^ (昭和18年)五月一九日(水)半晴(略)午前、御召あり、御下問。アッツ島方面の天候、我(飛行機)の飛行しあるや否や。5Fは未だ幌筵にありや、出動せざるや。敵主力南下せる如しとせば、5Fは霧中奇襲しては如何。GFの増援部隊は、如何なる状態なりや。/一五三〇、両総長列立拝謁、明日午前、大本営臨御奏請。/戦況、アッツ島附近、S×3中、二隻は損傷及一隻は連絡なし。敵巡、夜はアッツ島附近に出没す。(以下略)
  10. ^ (昭和18年)五月二〇日(木)雨 当直
  11. ^ 5月21日、陸海軍中央協定(大海指第246号)「熱田島守備部隊ハ好機潜水艦ニ依リ収容スルニ努ム」「鳴神島守備部隊ハ成ルベク速ニ主トシテ潜水艦ニ依リ逐次撤収スルニ努ム 尚海霧ノ状況、敵情等ヲ見極メタル上状況ニ依リ輸送船、駆逐艦ヲ併用スルコトアリ」[148]
  12. ^ ○熱田島守備隊収容ニ関スル陸海軍部覚 昭和十八年五月二十日 大本營陸軍部 大本營海軍部 情勢ニ応ズル北太平洋方面作戦陸海軍中央協定中二ノ(三)項ハ左ノ義ト了解ス 熱田島守備隊ハ最後ノ時機ニ於テ其ノ一部ニテモ潜水艦ニ依リ収容スルニ務ムルモノトス。[149]
  13. ^ (昭和18年)五月三〇日(日)半晴 一〇〇〇、参謀総長拝謁。アッツ島守備隊、前夜夜襲、玉砕奏上。一四二〇/二九以来通信杜絶。約二千(海軍約百名、江本参謀〔を含む〕)。一七〇〇、発表さる。守備隊長、山崎陸軍大佐、沈勇壮烈、皇軍の真価発揮。(近頃、第一線の美談、多くは作戦の欠を補ひつゝある観あり)。
  14. ^ 米軍のアッツ島進攻時、北方部隊に配備されていた潜水艦一覧[170]伊34伊35伊31伊168(5月7日先遣部隊に復帰して北方部隊潜水部隊からのぞかれる)、伊169(4月22日先遣部隊に復帰)、伊171(4月22日先遣部隊に復帰)、伊7
  15. ^ 5月12日、伊9伊21伊24を北方部隊に編入。連合艦隊電令作第563号により、第12潜水隊(伊169、伊171、伊175)と伊36を北方部隊に編入。[181]
  16. ^ (昭和18年)五月一六日(日)雨、寒し 戦況。アッツ陸上、北海湾西浦方面の敵艦隊及敵火器により、相当苦戦。当方のS-34〔伊号第三四潜水艦〕は爆雷攻撃により損害、一時避退。
  17. ^ ○連合艦隊機密第122325番電 敵情判断 一 北方方面(イ)敵ハ先ヅ熱田島ヲ攻略鳴神ノ輸送船隊補給ヲ断チ之ガ攻略ヲ企図スベシ/(ロ)敵ノ有力ナル機動部隊(空母三隻乃至四隻、主力艦二隻、巡洋艦数隻、駆逐艦十数隻)ハ「ミッドウェー」北方海面ニ在リテ「アリューシャン」攻略作戦ヲ支援スルト共ニ本土ノ奇襲ヲ策シ当分ノ間同方面ヲ行動スベシ(第一水雷戦隊や第二水雷戦隊の受信では スルト共ニ我艦隊ノ奇襲ヲ策シ )/(ハ)敵潜水艦ハ本州東方海面及千島列島方面ヲ哨戒中ナリ(以下略)[72]
  18. ^ 第四水雷戦隊麾下の第27駆逐隊(時雨、有明)、第二水雷戦隊・第24駆逐隊(海風)、第十戦隊・第61駆逐隊(初月、涼月)
  19. ^ (昭和18年)五月二二日(土)晴(略)機動部隊及「武蔵」東京湾着
  20. ^ #S18.05経過概要(2)p.8(昭和18年5月21日記事)〔 HPB幌筵出撃熱田島周辺ノ敵艦奇襲並ニdニ依ル緊急補給実施 主隊 支援隊 掃蕩隊ハX日(二十一日ノ予定)幌筵出撃 X十二日0000A点(167°E 153°6N)ニテ洋上待機 Y日(X十二日ノ見込ナルモ霧ノ状況ニ依リ順延)日没後一時間後北海湾ニ達スル如ク行動ス 輸送隊ハ主隊ニ随伴特令ニ依リ熱田湾口ニ突入急速揚陸離脱 君川丸ハY日以後(飛行機)発進熱田又ハ鳴神ニ空輸ス|北方 HPB|水上部隊ハ成ルベク速ニ(飛行機)及(潜水艦)ニ策応霧ヲ利用熱田島方面艦隊ヲ奇襲撃滅シ此ノ間1sdニ依リ緊急輸送ヲ行フ 主隊 那智摩耶木曽 支援隊 5S五月雨長波 掃蕩隊 阿武隈若葉初霜 輸送隊 1dg(神風、沼風) 水上機部隊 君川丸(観測機8) 〕
  21. ^ ○大海指第二四七号 昭和十八年五月二十一日 軍令部総長 永野修身 古賀聯合艦隊司令長官 河瀬第五艦隊司令長官}ニ指示 大海指第二四六号別冊「情勢ニ応ズル北太平洋方面作戦陸海軍中央協定」中二ノ(三)項ノ作戦ハ左ニ依リ実施スベシ  熱田島守備隊ハ最後ノ時機ニ於テ其ノ一部ニテモ潜水艦ニ依リ収容スルニ務ムルモノトス。[149]
  22. ^ (昭和18年)五月二四日(月)曇、午後雨(略)5F、出撃取止めし理由、中村武官に御下問。天候、梅雨になりしやの御下問あり。低気圧は梅雨の如き配置なるも、北方の高気圧発達せず、まだ梅雨にならぬ由、上聞。
  23. ^ (昭和18年)五月二八日(金)小雨 戦況。○熱田島補給のd×2 今夕現地着の予定。(以下略)
  24. ^ (昭和18年)五月二九日(土)曇 一六三〇、軍令部総長拝謁。○アッツ島補給のd×2 其後の状況不明、天候不良にて難航?(以下略)
  25. ^ ○聯合艦隊電令作第五八〇号(機密第290926番電、昭和18年5月29日午前9時26分発)一 機動部隊ノ北太平洋作戦参加ヲ取止ム 同隊ハ約一ヶ月ノ予定ヲ以テ急速戦力ヲ練成スベシ/二 北方部隊及第二基地航空部隊(註、第十二航空艦隊)ハ現作戦ヲ実施シツツ陸軍ト共同機宜「ケ」号作戦ヲ開始スベシ/三 第十九潜水隊(伊号第一五六、伊号第一五七潜水艦)、伊号第一五五潜水艦ヲ北方部隊指揮官ノ作戦指揮下ニ入ル 北方部隊指揮官ハ右兵力ヲシテ約二十日間作戦行動後呉ニ帰投セシムベシ/四 六月五日附呂号第一〇四、呂号第一〇五潜水艦ヲ、六月十日附 第十駆逐隊ヲ各北方部隊ニ編入ス/五 六月十日附 第三戦隊、第七戦隊、第二航空戦隊(欠隼鷹)、第二十七駆逐隊、第十六駆逐隊(雪風)、谷風、濱風、日章丸ヲ前進部隊ニ編入。[10]

出典編集

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参考文献編集

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  • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年1月(原著1973年)。ISBN 4-7698-2033-X
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    • (329-337頁)安藤尚志(当時、北方軍参謀)「アッツの赤い雪 ― アリューシャン作戦始末記 ― 」/(328-349頁)阿川弘之千早正隆半藤一利「「キスカ撤退」に見る指揮官の条件」
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  • 太平洋戦争研究会 編、森山康平『図説・玉砕の戦場 太平洋戦争の戦場』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2004年。ISBN 4309760457
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    • 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(3)』。Ref.C08030019200。
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(4)』。Ref.C08030019300。

関連項目編集

  • 辰口信夫 - 日本軍の軍医であり、戦闘を記録した日記が残されている。
  • 藤田嗣治 - 日本軍の要請により、戦争画『アッツ島玉砕』を描いた。絵の前には賽銭箱が設えられ、賽銭が入るたび藤田はかしこまり頭を下げたという(野見山暁治 「戦争画とその後」『四百字のデッサン』 河出書房新社、1978年)
  • 太宰治 - アッツ島で戦死した知人をしのんだ作品『散華』を発表した。

外部リンク編集