樋口季一郎
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[2]。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。
![]() 北部軍司令官時代の樋口(昭和18年頃) | |
生誕 |
1888年8月20日![]() |
死没 | 1970年10月11日(82歳没) |
所属組織 |
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軍歴 | 1906年 - 1945年 |
最終階級 |
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勲章 |
第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認め[3]、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦い、キスカ島撤退作戦、ソ連対日参戦に対する抗戦(樺太の戦い、占守島の戦いなど)を行った[3]。
経歴編集
生い立ち編集
1888年、淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町字戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(9人とも言われている)の長男として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。
1901年、三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。1902年、大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。
軍歴編集
1909年、陸軍士官学校(第21期)に進む一方で東京外語学校でロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校(第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満洲、ロシア(ソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。
1925年、公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭(後年の首相)に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。
オトポール事件編集
1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[4]。(この頃は、まだナチもユダヤ人絶滅を具体的な施策として考えていたわけではなく、単に欧州からのユダヤ人追放を意図していただけで、また、日本側にはユダヤ資本とユダヤ人を満洲国に導入できないかという河豚計画があった。)
そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満洲国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。
極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満洲鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[5]。
その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満洲里経由で満洲へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている[6]。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている[6]。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている[7]。そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという[8]。1941年に書かれたユダヤ民族基金(KKL-JNF)本部に現存する6冊目の「栄誉の書」には「樋口将軍-東京、在ハルビン極東国家ユダヤ総領事-エイブラハム・カウフマンの銘入り」とその功績が記されている[9]。
「ヒグチ・ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるとされていた[注 1][注 2]。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」とされている[11]。 2万人のユダヤ系難民が救われたとも伝えられていた中で、白石仁章はあまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視している[12]。 松浦寛はこの2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものとしている[13]。 早坂隆は、樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘している[14]。早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している[15]。 松浦寛は当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計[16]を追認している[13][13]。満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという[17]。
樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している[18]。
この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた[19]。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[19]。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[20]。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした[21]。東条の判断と、その決定を植田司令官も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[22]、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[23]。
孫の樋口隆一(明治学院大学名誉教授)は2018年6月15日にイスラエルのテルアビブにある「ユダヤ民族基金」本部において「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマンの息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」事により「ゴールデンブック」証書を授与されている[5][9][24]。
ちなみに、樋口に関してよく言及される「ゴールデンブック」とは、パレスチナで土地購入、植林、イスラエル国家の境界線の設定などを主な業務とする組織「ユダヤ民族基金」が管理する貢献者や献金者の名簿である[25][26][27]。
太平洋戦争編集
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦翌年の1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。日本軍が重要視していなかったアメリカ領のアリューシャン方面の戦いも、1943年に入るとアメリカ軍が反攻に転じ、激しい争いが行われた。
1943年5月に樋口の指揮下にあった陸軍部隊のうち、アラスカ準州のアッツ島守備隊は玉砕したものの、キスカ島撤退は成功した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した[28]。
帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視していた[29]。撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという[28]。
同年10月2日には、札幌三越で開催された「忠烈山崎部隊景仰展」会場を訪問し、藤田嗣治の戦争画『アッツ島玉砕』に見入った[30]。1944年3月10日に、北海道に拠点を置く第五方面軍司令官を務め、南樺太や千島列島を担当地域に置いた。また1945年2月1日には兼北部軍管区司令官に就任した。
対ソ連占守島・樺太防衛戦と戦後編集
日本の降伏直前の1945年8月10日、ソ連対日参戦が発生。8月16日大本営はやむをえない自衛戦闘を除き戦闘行動を停止するよう全軍に命じたが、北方の第5方面軍を指揮していた樋口季一郎中将は以降も南樺太(おそらく占守島等の千島列島も)におけるソ連軍への抗戦を命じ、戦闘を続けさせた。樋口は、ソ連の北海道等の日本本土占領を懸念、それによる赤化を恐れたという。
スターリンは、極東国際軍事裁判に際し当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。これについてノンフィクション作家の早坂隆は、樋口の経歴がウラジオストック特務機関員、ハルビン特務機関長、さらに第5方面軍司令官であったことから、ソ連によって『敵の大物』であり、とくに特務機関長であったことが大きいとしている[31]。彼自身、対ソ連の特務機関長であったことから、札幌方面軍総司令官として北海道にとどまらざるを得ない状況では、個人的にもソ連の北海道占領を怖れる十分な理由があったことになる。
世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まったともいわれる。日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した[32][33][注 3]。冷戦が始まる中で米軍がロシア通として知られた樋口の情報網を利用したかったからとも、ユダヤ人らの運動の結果とも言われる。
晩年編集
1946年に北海道小樽市外朝里にソ連の動きもあり隠遁。さらに1947年に宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。その後も役職につかず事実上隠遁生活を送り続けた。樋口隆一によると、過去は語らず、アッツ島の絵の前で毎朝、戦死者の冥福を祈っていた[3]。
1970年に東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。
死後編集
樋口季一郎の孫で音楽学者の樋口隆一明治学院大学名誉教授が祖父に関する調査を行っており、日本で講演などを行ったり2018年にイスラエルを訪問したりしている[34]。隆一は24歳まで季一郎と同居していた[35]。同じく孫の篠田江里子(札幌市議会議員)は静かにロシア語の本を読んでいたと回想している[3]。
人物編集
- 橋本欣五郎と共に桜会の中心的人物であったが、意見の相違から喧嘩別れした。また、二・二六事件を起こした青年将校らとも懇意で、武力に訴えて行動を起こすことを諌めていたと言う。さらに、相沢事件が起きたとき、樋口は、永田鉄山を惨殺した相沢三郎の直接の上官であった。血盟団事件では大蔵栄一から血盟団員の古内栄司を匿うよう依頼を受け了承している。
- 石原莞爾と阿南惟幾とは友人だった。また、ミハエル・コーガンとも親交があった。
- 安江仙弘らと共に河豚計画を進めるが、シベリア出兵に参加した軍関係者の多くがユダヤ陰謀論に傾くなか、彼は「『排ユダヤ主義』否定だけで十分であろう」という立場であった。彼は、酒井勝軍の日ユ同祖論を一笑に付する一方で、極めて反ユダヤ的な偽書『シオン賢者の議定書』を当初から眉唾物としており、ユダヤ主義とマルキシズムを同一視できないとしている。樋口は、当時の軍人たちが陥った陰謀論、あるいは過度のユダヤ贔屓から離れ、極めて冷静な判断をしている。
年譜編集
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- 明治21年 (1888年) 淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)
- 明治34年 (1901年) 三原高等小学校2年終了後、篠山の私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。
- 明治35年(1902年)9月 - 大阪陸軍地方幼年学校に入校。
- 明治42年(1909年)5月 - 陸軍士官学校卒業(21期)。
- 大正2年(1913年)2月 - 陸軍歩兵中尉に進級。
- 大正7年(1918年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。
- 大正8年(1919年)7月 - 陸軍歩兵大尉に進級、参謀本部附勤務。
- 大正9年(1920年) - ハバロフスク特務機関長として孤立(無責任な上層部への義憤)。
- 大正11年(1922年)4月 - 参謀本部部員。
- 大正12年(1923年)12月 - 朝鮮軍参謀。
- 大正13年(1924年)8月20日 - 陸軍歩兵少佐に進級[36]。
- 大正14年(1925年)5月 - ポーランド公使館附武官。ウクライナほかを視察。
- 昭和3年(1928年)2月 - 中華民国山東省青島に駐留。歩兵第45連隊附。
- 昭和4年(1929年)8月 - 技術本部附(陸軍省新聞班員)。
- 昭和5年(1930年)8月1日 - 東京警備参謀。
- 昭和8年(1933年)
- 昭和10年(1935年)8月1日 - ハルビン第3師団参謀長。
- 昭和12年(1937年)3月1日 - 参謀本部附(ナチス・ドイツの首都ベルリンへの出張)。
- 昭和13年(1938年)
- 昭和14年(1939年)
- 昭和17年(1942年)8月1日 - 札幌北部軍司令官[1]。
- 昭和18年 (1943年) - 北方軍司令官として太平洋戦争のアリューシャン方面の戦いを指揮(アッツ島玉砕、キスカ島撤退作戦)。
- 昭和19年(1944年)3月10日 - 第五方面軍司令官。
- 昭和20年(1945年)2月1日 - 兼北部軍管区司令官。
- 昭和21年(1946年) - 北海道小樽市外朝里に隠遁。
- 昭和22年(1947年) - 宮崎県小林市(その後、都城市)に転居。
- 昭和45年(1970年) - 東京都文京区白山に転居し、老衰のため死去。82歳没。墓所は妙大寺(神奈川県大磯町)。
栄典編集
- 位階
- 1910年(明治43年)2月21日 - 正八位[37]
- 1913年(大正2年)4月21日 - 従七位[38]
- 1918年(大正7年)5月20日 - 正七位[39]
- 1923年(大正12年)7月31日 - 従六位[40]
- 1928年(昭和3年)9月1日 - 正六位[41]
- 1937年(昭和12年)9月1日 - 正五位[42]
- 1939年(昭和14年)12月28日 - 従四位
- 1942年(昭和17年)1月15日 - 正四位
- 1945年(昭和20年)2月1日 - 従三位
- 勲章等
顕彰編集
平成21年(2009年)12月8日、樋口が岐阜県大垣市に約30年間本籍を置いていたことを知った駐日イスラエル大使から大垣市に対し2本のオリーブの苗木が贈呈され植樹式が執り行われる。また、樋口はユダヤ民族に貢献した人物を記したイスラエルの「ゴールデンブック」にも記載されている[44]。
2020年9月、北海道石狩市・五の沢地区に記念館が開設された[45]。古民家を改築したホテルを経営する江崎幹夫が知人から樋口のことを教えられて敷地内の石蔵を記念館として提供することを決め、孫・樋口隆一に相談して了承を得た[3]。
文献編集
著作編集
- 「東京の防空に就て」『東京の防空 附・各都市防空法』帝国国防協会出版部、1932年5月、1-46頁。 NCID BA45754132。全国書誌番号:47011032。
- 『アッツ キスカ 軍司令官の回想』芙蓉書房、1971年10月。 NCID BN14143511。全国書誌番号:73005961。
- 『陸軍中将 樋口季一郎回想録』(新版)芙蓉書房出版、1999年4月。ISBN 9784829502266。 NCID BA42001488。全国書誌番号:99095343。
- 樋口自身の直筆原稿との照合の結果、書き換えられている部分があると指摘されており、参照には注意が必要[47]。
- 『陸軍中将 樋口季一郎回想録』(復刻新版)啓文社書房、2022年9月。ISBN 9784899920809。全国書誌番号:23730569。直筆原稿をもとにした新版
- 『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』樋口隆一編著、勉誠出版、2020年3月。ISBN 9784585222736。 NCID BB30211298。全国書誌番号:23393203。
伝記編集
- 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社、1973年4月。
- 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』(新装版)光人社、1988年5月。ISBN 9784769800347。
- 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年1月。ISBN 9784769820338。
- 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社名作戦記 11〉、2003年8月。ISBN 9784769811114。
- 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』(新装版)光人社〈光人社NF文庫 さN-33〉、2010年3月。ISBN 9784769820338。
- 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍樋口季一郎』文藝春秋〈文春新書 758〉、2010年6月。ISBN 9784166607587。
- 木内是壽『ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝』アジア文化社文芸思潮出版部、2014年6月。ISBN 9784902985665。
- 将口泰浩『アッツ島とキスカ島の戦い 人道の将、樋口季一郎と木村昌福』海竜社、2017年6月。ISBN 9784759315493。
- 改題 『人道の将、樋口季一郎と木村昌福 アッツ島とキスカ島の戦い』潮書房光人新社〈光人社NF文庫 し1270〉、2022年7月。ISBN 9784769832706。
- 岡部伸『至誠の日本インテリジェンス 世界が称賛した帝国陸軍の奇跡』ワニブックス、2022年3月。ISBN 9784847071522。
関連項目編集
脚注編集
注釈編集
- ^ 祖父である季一郎より当時の話を直接聞いていた孫の樋口隆一(音楽学者、明治学院大学名誉教授)は、正確な数字は「不詳」との立場であるが、「2万人」という難民の数は極東ユダヤ人協会のアブラハム・カウフマン会長か現場の河村愛三少佐(当時)からの報告によるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年のドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち荒唐無稽ではありません」[10]と述べている。
- ^ 他にも伝記小説、相良俊輔『流氷の海』でも「2万人説」を唱えている。
- ^ 樋口が終戦前後まで指揮をとっていた部隊内では、捕虜の虐待や戦争犯罪とみなされる事件は一件も起きていない。
出典編集
- ^ a b c 『官報』1942年8月3日 叙任及辞令「昭和十七年八月一日 陸軍中将 正四位 勲一等 樋口季一郎 補北部軍司令官」
- ^ “ユダヤ難民救った樋口中将 北海道に銅像建立へ実行委設立”. 産経ニュース (2021年12月11日). 2021年12月11日閲覧。
- ^ a b c d e 外岡秀俊【道しるべ】足元に埋もれた歴史に光『朝日新聞』朝刊2021年5月27日(新・木曜「カルチャー・考える」)2021年6月9日閲覧
- ^ “ユダヤ難民救う 樋口/ "もう一人の杉原千畝" ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上)”. 丹波新聞 (2018年10月29日). 2019年4月2日閲覧。
- ^ a b [1] 満洲でもユダヤ難民救出=「ヒグチ・ルート」孫が講演-イスラエル[リンク切れ]
- ^ a b 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、136-137頁。
- ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、136頁。
- ^ 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』(大正出版、2000年)213頁。
- ^ a b Grandson of Japanese General who Saved Jews Visits KKL-JNF Books of Honor Wednesday, June 13, 2018KKL-JNF
- ^ 「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 … 祖父の思い出」『歴史街道』2012年4月号
- ^ 貴族院第74回予算委員会(1939年)の2月23日の質疑では、有田八郎外務大臣が「何日頃のことかは不明だが、シベリア経由で満洲に入ったユダヤ人は80人強、100名には届いていないと記憶している」旨の答弁を行なっている(速記録のp.8最上段中ほど)
- ^ 『歴史読本』平成25年8月号 白石仁章「樋口季一郎とユダヤ人脈
- ^ a b c 松浦寛『日本人の〈ユダヤ人観〉変遷史』2016年、72-73頁。
- ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、138-140頁。
- ^ 『正論』2016年3月号「忘れられた将軍・樋口季一郎と中国の対日歴史謀略」
- ^ JTB『観光文化』別冊特集「ユダヤ難民に"自由への道"をひらいた人々」
- ^ 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』大正出版、2000年、218頁。
- ^ 樋口季一郎 - NPO法人 国際留学生協会 / 向学新聞 より。
- ^ a b 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、147頁。
- ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、147-148頁。
- ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、14 8頁。
- ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、149頁。
- ^ 樋口季一郎物語~中編~[リンク切れ]
- ^ “4370人のユダヤ難民救済で語り継がれる樋口季一郎陸軍中将”. NEWSポストセブン. 週刊ポスト (2019年8月10日). 2019年4月2日閲覧。
- ^ 『歴史街道』2012年(平成24年)4月号、PHP研究所、38頁
- ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、155-161頁。
- ^ Golden Book KKL-JNF
- ^ a b 藤井 2019, pp. 226–236, 第六章 - 陸海軍の確執がもたらした壮大なる破綻 - アッツとキスカの明暗
- ^ 秦 2005, p. 737, 第5部 陸海軍用語の解説-さ-三八式歩兵銃(陸軍)
- ^ 【五感紀行】藤田嗣治「アッツ島玉砕」『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2021年5月30日2面に写真で収録された同紙1943年10月3日夕刊記事「名畵に偲ぶ玉碎」による。
- ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文藝春秋〈文春新書〉、2010年6月18日、242頁。
- ^ “「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男”. 読売新聞. (2019年1月27日). p. 3
- ^ “初の「玉砕戦」司令官/ "もう一人の杉原千畝" 初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは”. 丹波新聞. 丹波新聞 (2018年10月30日). 2019年4月2日閲覧。
- ^ Grandson of Japanese General who Saved Jews Visits KKL-JNF Books of Honor
- ^ 戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎 HiramekiTV
- ^ a b c 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和7年9月1日調73ページに記載。
- ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
- ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
- ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
- ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
- ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
- ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
- ^ 『官報』1940年1月24日 敍任及辭令
- ^ “もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将”. nippon.com. 2021年10月11日閲覧。
- ^ 「もう一人の杉原」樋口季一郎中将の記念館開館 北海道・石狩 産経ニュース(2020年9月15日)2021年1月14日閲覧
- ^ “信念貫きユダヤ人救う 鎌倉で陸軍中将の顕彰碑が完成”. 神奈川新聞. 2023年5月29日閲覧。
- ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、138-140頁。ほか
参考文献編集
関連項目編集
- 河豚計画
- 杉原千畝 - 同様にユダヤ人を助けた日本の外交官。
- 王替夫 - 同様にユダヤ人を助けた満洲国の外交官
- 何鳳山 - 同様にユダヤ人を助けた中華民国の外交官。彼も「中国のシンドラー」と呼ばれる。
- アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス - 同様にユダヤ人を助けたポルトガルの外交官。
- セラハティン・ウルクメン - 同様にユダヤ人を助けたトルコの外交官。
- オスカー・シンドラー
- 特務機関
- 安江仙弘
- キスカ島撤退作戦
- 占守島の戦い
- ベニート・ムッソリーニ#人種思想 - イタリアの独裁者。ナチス・ドイツと同盟していたが、ドイツの傀儡政権化するまでは親ユダヤだった。
- ラウル・ワレンバーグ
- 第二次世界大戦
- 第二次世界大戦に関連する人物の一覧