ウィリアム・バトラー・イェイツ

アイルランドの詩人、劇作家

ウィリアム・バトラー・イェイツWilliam Butler Yeats1865年6月13日 - 1939年1月28日)は、アイルランド詩人劇作家散文(prose)作家[1]、批評家・思想家[2]民俗学の方面でも優れた業績を残した[2]ケルト復興運動英語版の立役者の一人であり、幼少の頃から親しんだアイルランドの妖精譚などを題材とする抒情詩で注目されたのち、民族演劇運動を通じてアイルランド文芸復興英語版の担い手となった[3]現代詩の世界に新境地を切りひらき、20世紀の英語文学、現代詩において最も重要な詩人の一人とも評される[4][1]。生涯のほとんどをイギリスを拠点に活動した[5]

ウィリアム・バトラー・イェイツ
生誕 (1865-06-13) 1865年6月13日
イギリスの旗 イギリス
アイルランドダブリン県
死没 1939年1月28日(1939-01-28)(73歳)
フランスの旗 フランス共和国ロクブリュヌ=カップ=マルタン
国籍 アイルランドの旗 アイルランド
主な受賞歴 ノーベル文学賞(1923年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1923年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:芸術性が高く精妙な詩歌によって国民全体の精神を表現した貢献に対して

1922年から6年間、アイルランド上院議員も務めた[6]1923年にはノーベル文学賞を受賞[7]。英詩としては、現実と対峙し唯美主義を脱した後期の詩集『塔』(1928年)、『螺旋階段』(1933年)等が最も高く評価されており[8][9]、日本ではの影響を受けて執筆した戯曲『鷹の井戸』(1916年初演)や、初期の抒情詩「湖の島イニスフリー」などが広く知られている[4]

来歴 編集

幼年期から第一詩集まで 編集

 
1911年撮影

1865年6月13日、アイルランドのダブリン県イングランド植民者子孫の家に生まれた。6代前にイングランドのヨークシャー地方から移住した、いわゆるニュー・イングリッシュ࣮[注 1]で、曾祖父と祖父はアイルランドのイギリス国教会系のプロテスタントの教区牧師だった[10]。曾祖父の母はオールド・イングリッシュ[注 2]の名家でキルデア県の貴族バトラー家[注 3]の血を引いており、イェイツ家はバトラー家との婚姻関係を誇りに思い、イェイツのミドルネームはこれにちなんでいる[10][11]

イェイツの家はアングロサクソン・プロテスタントアングロ・アイリッシュ英語版で、ゲーリック・アイリッシュと言われる土着のケルト系ローマ・カトリックアイリッシュ・カトリック英語版)の人々からは区別される存在であり、「アングロ・アイリッシュのもつ孤独」は幼年時代のイェイツのジレンマの核となった[12][13][14]。イェイツは多数派のカトリックとは信仰を共有できず、プロテスタントに対しては物質的な成功への関心に反発を感じた[1]。幼少期は、プロテスタント・アセンダンシー英語版[注 4](アイルランド征服に従って移住したプロテスタントの子孫で、アイルランドにおける排他的・優越的な地主の支配者層英語版)と、カトリックの小作人、という支配者・被支配者の構造がはっきりとあった[13]。貴族の血を引くイェイツ家もキルデア県にわずかに土地を持ち不在地主英語版として地代を得ていた[13]

ジョン・バトラー・イェイツ英語版は法律を学んで弁護士資格を取り、法律家として将来を嘱望されていたが、結婚後に画家になる決意を固め、後に肖像画家になった[11]。母スーザン・イェイツ(旧姓ポレックスフェン)はアイルランド西部スライゴーの裕福な商人の家の娘で、この地方の民間伝承に深く親しんでいた[15]。陽気なイェイツ家の中では内向的な性格だった[15]。イェイツ家の祖先には、イギリスやイギリス人に反感を持ったり、アイルランドのカトリックに同情的な人もおり、父ジョンは政治に無関心な穏健な画家だったが、芸術家でないイギリス人には冷淡であり、母のポレックスフェン家の人々は王党派プロテスタントで、カトリックや愛国主義者を軽蔑していたが、にもかかわらずイギリス生まれの人々に反感を持っており、イェイツの周囲には反英的な空気が漂っていた[16]

また、イェイツ家は芸術一家で、妹のスーザン・メアリー・イェイツ (リリー) とエリザベス・イェイツ英語版(ロリー) は画家・工芸家・デザイナーになり、ジャック・バトラー・イェイツ英語版は父と同じ画家になった[15]

イェイツが2歳のとき一家はロンドンへ移った[17]。以後イェイツは幼少期をロンドンで過ごすが、一家はアイルランド港町スライゴの裕福な船主だった母方の祖父の家をたびたび訪れ、イェイツは学校の休みのほとんどを祖父母の元で過ごした[1]。ここでイェイツが触れたスライゴの美しい風景や、アイルランドの習俗や妖精伝説は、アイルランドへの愛着、アイルランド人としての自覚をはぐくみ、後の詩作の重要な着想源となった[18][16]。また、8、9歳の頃父にウォルター・スコットの『最後の吟遊詩人の歌英語版』や『アイヴァンホー』を読んでもらい大きな感銘を受け、『最後の吟遊詩人の歌』から、大きくなったら魔法使いになる夢を抱いたという[19]。 イェイツの幼年期から青年期は、プロテスタント・アセンダンシーが没落し、新勢力にとって替わる時期であり、イェイツが15歳の頃にイェイツ家の所有地の土地争議で地代収入が途絶えている[13]

1881年に一家はダブリン県へ戻る。イェイツは父親と同様に画家を志してメトロポリタン美術学校に入学し、ここで他の芸術家や詩人と出会った[1]。執筆を開始し、ダブリン大学の同人誌に「彫像の島」(The Island of Statues)と題する牧歌劇の習作を連載している[20]。父とその画家仲間はラファエル前派の中心人物たちと関わりがあり、イェイツは1980年代からラファエル前派と関わりがあった[21]。彼は父の強い影響下にあり、15、16歳の頃、父からウィリアム・ブレイクを教わっており、父のブレイク理解はラファエル前派的なものだった[22]。また、父にブレイクと共に「画家詩人」として勧められたロセッティに「他の絵がかすむほど」の強い影響を受ける[21]

科学の時代に反発を感じていたイェイツは、この頃美術学校の同級生ジョージ・ウィリアム・ラッセルから神秘思想や東洋の宗教について教わり、これに傾倒し、友人6人とオカルト研究会「ダブリン神秘哲学協会」を組織した[3][23][1]。この頃遠縁のローラ・アームストロングに恋しており、これが初恋だった[24]。彼女は烈しく野性的な少女だったようで、イェイツは彼女を主題にジョン・キーツ風の恋愛詩を書いている[24]

 
ジョン・オリアリー

1885年に、フェニアン運動と呼ばれたアイルランド独立運動を主導したアイルランド共和国同盟英語版のカリスマ的指導者ジョン・オリアリー英語版と出会い、これをきっかけに愛国主義者という自覚を持つようになった。フィニアン運動の参加者はほとんどカトリックだったが、トーマス・ディヴィス英語版による、出自に関わらずアイルランドを愛し国に仕える者はアイルランド人であり、虐げられたアイルランドの歴史を認識しアイルランドに住む多様な人々が互いに和解することでアイルランドが再び一つの国になるという考えに賛同していた[25]。オリアリーは、ディヴィスの詩に感銘を受けて愛国主義者となり、アイルランドの民族精神を表現できる文学者育成の必要を痛切に感じており、イェイツの才能と愛国心を見抜いてディヴィスら愛国者の詩を貸し与え、イェイツは作品のアイルランドへの思いに強く共感を覚え、自分が書くべきテーマを見出していった[25]。以前から興味があったアイルランドの歴史・伝説・民話を深く研究するようになり、これを題材とする物語を書き始めた[25][26]。こうした民族自治・オカルティズム・アイルランドの伝統への関心といった要素は、初期イェイツの創作に大きな影響を及ぼすことになる[27]

イェイツは2年で絵の才能に見切りをつけて、22歳のとき美術学校を退学、1887年に一家は再びロンドンに出た。イェイツはロンドンにうつってからラファエル前派の関係者と実際に交流するようになった[21]。ラファエル前派は活動の最後の段階であったが、1882年に運動の中心だったロセッティが死去し展覧会が開かれ再び注目が集まっており、イェイツはここで思索することを学んだと後に語っている[21]。ラファエル前派のウィリアム・モリスと交流して親しくなり、彼の家を度々訪れ、絵や織布(特にタペストリー)といった仕事に触れ、互いに作品に相通じるものを感じた[28]。(一方父の興味はラファエル前派から離れており、イェイツのラファエル前派への固執には、父へのささやかな反発という面があったという見解もある[29]。)

イェイツはロンドンで、アイルランド出身の新進気鋭の詩人で、イェイツと同じくオリアリーの影響下にあったキャサリン・タイナンと親しくなり、彼女にアイルランド的主題を取り上げるよう勧められ、アイルランド伝説「アシーン(オシアン)の放浪」の長編詩を基にした作品に取り組んだ[30][31]。イェイツはそれまで書き継いでいた作品を第一詩集『アシーンの放浪』(The Wanderings of Oisin and Other Poems, 1889年)[注 5]として刊行、その哀愁に満ちた優雅な表現と、当時ロンドンで馴染みの薄かったケルト神話によってロンドン文芸界の注目を集めた[3]。本作ではラファエル前派と同じく「日常から離れた夢の世界あるいは幻想(ヴィジョン)」の再現が目指され、ラファエル前派の特徴である装飾的な色が散りばめられ、パターンが反復され、ラファエル前派的な官能的で精神的な「得難いもの」の象徴としての女性が描かれ、初期のイェイツの絵画的特質が最もよく表れた作品となっており、ウィリアム・モリスから激賞を受けた[33][19]

『ケルト妖精物語』(Fairy and Folk Tales of the Irish Peasantry, 1888年)[注 6]を刊行するなど、この時期のイェイツはアイルランドの歴史・伝統への深い関心に彩られている[36][34]

モードとの出会い 編集

 
イェイツにとって生涯の詩神となったモード・ゴン

1889年1月、『アシーンの放浪』出版の縁で、活動家モード・ゴン英語版(1866年 - 1953年)に出会う[5]。モードはイギリス軍人の娘でアングロ・アイリッシュであったが、アイルランド土地戦争英語版の影響を受けた悲惨な暮らしのアイルランド農民への思い入れが強く、過激なアイルランド独立闘争運動に参加していた[37]。イェイツは彼女の美貌と活発な気性に魅せられ、出会ってまもなく彼女に求婚する。当時フランス人記者・活動家の恋人がいたモードはこれを断るが、その後もイェイツの恋情は失われることがなかった。彼女との出会いの衝撃は、詩集『薔薇』(The Rose. 1893年)にも表れており、「薔薇」は「宇宙霊魂」にも等しい、病めるアイルランドを、そして恋人を、詩人を鼓舞する永遠の力を備えた存在として描かれている[38]。彼は50歳すぎまで独身を続け、幾度か彼女に求婚を繰り返しながら[39]、生涯を通してモードを詩想源とする作品を書き続けた[39]。彼はアイルランド独立運動に参加しており、部分的には信念のためだったが、主な理由はモード・ゴンへの愛だった[1][3][23]。英文学者の松島正一は、愛するモード・ゴンが実際的な活動家であったことから、イェイツはアイルランド文芸復興という実際的な問題に引き込まれたと述べている[40]

またモードと前後して奔放で闊達な女優フローレンス・ファー英語版と出会う[31]

1890年、耽美派詩人たちと語らってライマーズ・クラブ英語版を結成、酒場に集まって自作の朗読と批評を繰り返した[41]。この集まりには同世代のアーネスト・ダウソンアーサー・シモンズのほか、年長のオスカー・ワイルドも参加することがあった[41]。イェイツはこの集まりを通じてフランス象徴派詩人たちの活動に触れることになったほか、この酒場で浸った芸術至上主義こそ自分の詩作の原点だったと後に振り返っている[42]。この頃は世紀末デカダン派に属していたが、本質的に破滅型の詩人ではなかった[43]

イェイツは、色彩豊かで装飾的で平面的な初期の詩の風景の在り方に満足できないものを感じていた[44]。1890年代に入ると、晩年のブレイクの元に集った風景画家サミュエル・パーマー、版画家エドワード・カルヴァートによって、彼の詩の象徴主義の傾向は深まっていった[44]。彼らは簡素化された象徴的な風景を描いており、イェイツはこれを通して、色彩を抑えることで象徴的な芸術を作ることができると思いついたと言われ、色彩の象徴性への自覚を深めて色遣いが抑制され灰色が多用されるようになり、風景や花、女性の細部の描写を避けて象徴性が高められ、精力的なリズムから「想像力の具現であるあの揺れ動く、瞑想的な、有機的なリズムを求める」ようになっていった[45]

1890年に、アイルランドの自治権獲得運動の指導者チャールズ・スチュワート・パーネルが、人妻との恋愛が公になり、カトリックや非国教会系プロテスタントの反感を買い失脚、1891年に死去[46][1]。パーネルが失脚に追いやられたことが、イェイツのナショナリズムへの幻滅の始まりと考えられ、イェイツは政治活動の意義を失ったように感じた[46][1]。その空白を文学、芸術、詩、戯曲、伝説によって埋めようと、1892年にはアイルランド出身の詩人たちと「アイルランド文芸協会」(The Irish Literary Society of London)を設立、ダブリンにも文芸団体を発足させて民族文学の発掘と普及に力を入れ始めた[32][20][1]。アイルランド文芸復興は、カトリック勢力が台頭し、独立を目指す民族主義運動が広がる中、少数派となったアングロ・アイリッシュたちが、アイルランド人としてのアイデンティティ確立を模索する試みだった[11]。イェイツはケルトの民間伝承を採話し、批評等を加え、1893年に散文集『ケルトの薄明』(The Celtic Twilight)を出版[47][48]

同年、美貌と高い文学的素養を持つオリヴィア・シェイクスピア英語版に出会い[47]、1896年に既婚者であった彼女と恋愛関係になるが、モード・ゴンヘの思いを断ち切れず、関係は短期間で終わり、以降長く友人として交友した[49]

オカルティスムへの傾倒 編集

このころ創作面では、イェイツの作品のうち最も広く知られる詩の一つ「湖の島イニスフリー」(The Lake Isle Of Innisfree)を含む詩集『キャスリーン伯爵夫人および諸伝説と抒情詩』(The Countess Kathleen and Various Legends and Lyrics, 1892年)などを発表するほか、オカルティズムへの傾倒を深め、当時のロンドンで人気を集めていた「神智学協会」に1888年に入会して交霊実験に参加し、1890年に「黄金の夜明け教団」に入団し、カバラの教義等の神秘思想、占星術心霊学の研究に没頭、後ロンドン支部長になっている[47][17][50]ウィリアム・ブレイクから強い影響を受けており、この頃エドウィン・J・エリスと『ウィリアム・ブレイク著作集』(The Works of William Blake: Poetic, Symbolic and Critical, 1893年)を編纂、神秘家のスウェーデンボリヤコブ・ベーメ[注 7]を参考にブレイクを読み解き、それまで注目されていなかった「prophetic books」と呼ばれる一連の予言的な幻想詩(ウィリアム・ブレイクの予言書英語版)を積極的に評価し、本書はブレイク研究史上も重要なものとなった[52][23]。また、マラルメなどフランス象徴主義文学への関心を深め、パリでヴェルレーヌと出会っている[18]

 
グレゴリー夫人

1898年に、ゴールウェイ地方の富裕な地主(プロテスタント・アセンダンシー)の未亡人だったグレゴリー夫人(オーガスタ・グレゴリー)の知己を得る[3]。イェイツは民間の言い伝えの採集を通して、それが古代の祭祀やキリスト教による破壊を免れた異教の信仰に対する自身の思いと重なることに気づき、それを厳格で格調高い文体で表現すれば、本物の詩が生まれ、自身のアイデンティティに向かって進むことができると考えたが、その試みはうまくいっていなかった[1]。グレゴリー夫人はすでに昔話やアイルランド西部の言い伝えを集めており、彼女との出会いでイェイツの試みはようやく進展し始めた[1]。グレゴリー夫人はイェイツの詩才を高く評価し、以後生涯にわたってイェイツの重要な後援者、敬愛する親友となった[27][1]。1882年の初めての訪問以降、毎年夏季に彼女の邸宅(ビッグハウス英語版クール・パーク英語版に滞在して創作に専念し、規則正しいゆたかな生活と、いくつもの湖沼をかかえる広大な地所の景観は、イェイツの詩作の重要な主題となってゆく[36]。イェイツ以外にもここを訪問するアングロ・アイリッシュの文人や芸術家、政治家は多く、イェイツにとってはアイルランドの優れた文化を担い、受け継ぐ聖地であった[53]

この時期にイェイツは詩集を数冊出版し、特に最初の詩集『詩集』(Poems, 1895年)と『葦間(あしま)の風』(The Wind among the Reeds, 1899年)は、夢幻的な雰囲気とアイルランドの民話や伝説を用いた初期の詩の典型であり、妖精の「風」を通してアイルランドの革命が前景化されている[1][38]。『葦間の風』は、イェイツの文名を高めた妖精伝説の要素と、報われない恋の憂鬱や神秘主義が混然となった詩集で、初期代表作のひとつとみなされており、英文学者の高松雄一は、本作で「現実の社会に背を向け、神話と魔術と夢の領域に詩の主題を求める神秘主義的で芸術至上主義的な傾向」が一つの頂点に達したと評している[3][42][50]。また「黒豚渓谷」のような終末論的な詩も含まれ、モード・ゴンの革命思想の影響がうかがえる[38]。ほかに、薔薇十字団などの神秘主義を論じ薔薇が錬金術に連結された短編集『秘儀の薔薇』(The Secret Rose, 1897年)[38][23]や、批評集『善と悪の観念』(Ideas of Good and Evil, 1903年)などを相次いで発表している。

1894年にイェイツがノートでダイアナ・バーノンと呼んだ女性と家庭を持とうとしたが、モード・ゴンへの思いを断つことができず、失敗している[31]

1898年に、モード・ゴンから、実は2人の子どもを生んでいることを告げられ、「神秘の薔薇」としてのモードへの崇拝の幻想から覚め、彼の詩から象徴としての「薔薇」はなくなった[38]

1900年母スーザン死去[54]。この頃から優生学に関わるようになる[55]

アイルランド演劇運動 編集

 
アベイ座オープニング時のポスター(1904年)
 
戯曲『キャスリーン伯爵夫人』に出演するフローレンス・ファー
 
ジョン・ミリントン・シング

パーネルが失脚したことで人々が政治に失望し、政治的空白が生じ、国民のアイデンティティ形成に文学が力を発揮することになり、イェイツがその中心となった[11][56]。彼はアイルランド人が独自の民族性を持ち続けるには、アイルランド人としての知的生活が不可欠だと考え重要視し、物質的生活よりも知的生活を、政治的変革よりも詩と伝統の認識を求めた(一方現実としては、ダブリンはヨーロッパでもっとも死亡率の高い、飢えた、住宅事情の悪い、賃金の低い都市の一つであり、アイルランド全域にわたって困窮はひどいものだった。)[57]。イェイツの演劇観は、アイルランド民族・文化の独自性と詩の伝統を蘇らせることを理想とするもので、商業化された派手な演劇を批判し、詩の世界を舞台の上に創造しようとした[56]。イェイツの演劇における興味の中心は「幻想(reverie)」と「想像力(imagination)」であり、「精巧に作られた詩、巧みに交錯する象徴、情調豊かに語られる科白、そうしたものから想像的に創造される夢想的な空間のなかで霊的に交わる演劇」を目指し、「直接見ることよりもことばを聞いて想像の世界で見る演劇こそ理想」であるとされた[56]。彼が理想とした演劇はヨーロッパの伝統からは異質の非ヨーロッパ的なものであり、アイルランド演劇運動は、イプセンに触発された19世紀末ヨーロッパ(イギリスを含む)の近代演劇運動とは別物に成長した[56]。この時期イェイツは演劇運動に打ち込み、生涯を通してみると相対的にこの時期の詩作は少なく、演劇との関わりで詩の風景は彫刻的なイメージになっていった[58][59]

1899年、イェイツ、グレゴリー夫人、エドワード・マーティン英語版は「アイルランド文芸劇場」(Irish Literary Theatre)をダブリンに設立、戯曲『キャスリーン伯爵夫人英語版』(The Countess Cathleen。モード・ゴンに捧げられたが、彼女は主演を断っている)が上演されたが、観客はアイルランド農民が「無知で迷信深い」と描かれる一方、アングロ・アイリッシュのプロテスタント・アセンダンシーが理想化され過ぎていると感じ、激しい野次と反発が起こった[60]。以降同劇場は、より愛国的性質の強いアイルランド語の演劇を上演するようになっていく[61]

アイルランド文芸劇場は2年で頓挫したが、イェイツは1902年に「アイルランド国民劇場協会」(Irish National Theatre Society)を設立し、イェイツとグレゴリー夫人が共作した一幕もの英語版で強い愛国メッセージを持つ『キャスリーン・ニ・フーリハン英語版』(Cathleen Ní Houlihan, フーリハンの娘キャスリーン)をモード・ゴンの主演で上演[54][62]。同協会はいわゆるアイルランド演劇運動の重要な推進役となった[62]。『キャスリーン・ニ・フーリハン』は、1978年のアイルランド反乱英語版をモデルにしたと思われ、自己犠牲を厭わない若者がアイルランドのための戦いに身を投じて命を落とし、彼の名は永遠に語り継がれるという英雄化のイメージが初めて描かれており、本作は急進的ナショナリズムのプロパガンダとして機能した[63][64]

 
アニー・ホー二マン

イェイツとイギリス人資産家・プロデューサーのアニー・ホー二マン英語版の2人が劇場設立を考案し、ホーニマンが古い劇場を買い取り、演劇カンパニーを率いるアイルランド人俳優ウィリアム・フェイ英語版フランク・フェイ英語版の兄弟とグレゴリー夫人を引き入れ、国民劇場として「アベイ座」(Abbey Theatre、アイルランド国立劇場)を設立した[65]。1904年に、イェイツの『キャサリーン・ニ・フーリハン』『バレの磯』、グレゴリー夫人の『噂の広まり』がこけら落としで上演された[65]。イェイツは女優のフローレンス・ファーと恋愛関係になり、彼女のために戯曲『心願の国英語版』(1894年)を書いた[31][54]。1910年まで劇場経営に参加し、アベイ座のために多くの戯曲を書き、彼の戯曲の大半がここで初演された[32][3][1]ジョン・ミリントン・シング等の劇作家を後押しし、シングの『谷間の影』(In the Shadow of the Glen, 1903年)や悲劇『海へ騎(の)りゆく人々』(Riders to the Sea, 1904年)などもここで初演され、彼はアベイ座の発展に大きく貢献した[65][32][3][1]。イェイツは晩年まで劇場の監督を務めた[1]

作風の変化 編集

この頃(1902年か1903年)イェイツは、ニーチェを熟読して反キリスト教倫理観を学び、ニーチェとブレイクに通底するものを感じ、深く影響を受ける[66][67][23]。ニーチェとの出会いで、彼は後期ヴィクトリア朝詩人から20世紀詩人になったともいわれる[67]

求婚拒絶の後も恋情を忘れられずにいたモード・ゴンが1903年に独立運動の闘士マクブライドと結婚しカトリックへ改宗、出産。1907年にジョン・オリアリーが死去し、イェイツは彼の死でアイルランドの本当のナショナリズムはなくなったと感じた[68]。また同時期に、小作農を優先する新しい土地法の施行でグレゴリー夫人が得ていた地代収入が激減し、イェイツが敬愛したクール・パークの維持が困難になり、イェイツは作品の中でそれを嘆いた[68]。イェイツたちの演劇は批難を受けたが、それは彼らがアングロ・アイリッシュであることも大きかった[5]。アベイ座では、1907年に痛烈な批判を盛り込んだシングの『西国の人気男』の筋書きに怒った観客が暴動を起こして警察沙汰になり(イェイツはこの時シングを擁護して評価を挙げている[58])、離婚手続きを行ったモード・ゴンを観客が罵倒する等の事件が立て続けに起こり、上演されたイェイツの作品も高尚すぎて理解できないと批判され、劇場経営に参加していた期間にカトリックの愛国者たちへのいら立ちを募らせていき、かつて親しく交流した愛国主義者たちに作中で容赦ない批判を行うようになっていった[68]

イェイツはこうした経験を通し、新たな詩作の境地を切りひらいていき、詩集『七つの森で』(In the Seven Woods, 1903年)と『緑の兜その他の詩』(The Green Helmet and Other Poems, 1910年)では、イェイツは初期の詩の特徴だったラファエル前派の色とリズムを徐々に捨て去り、ケルトや秘教的な雰囲気を取り除いていった[1]。『緑の兜その他の詩』収録の「仮面」(Mask)では、後期の重要な象徴となる仮面が初めて登場している[69]

1908年にフェイ兄弟がアベイ座を脱退、1909年にシングが死去、アベイ座の転換期となり、上演作品がそれまでの詩的演劇スタイルからモダン・リアリズムへと変化し、大勢の劇作家が名を連ねた[65]

 
ゴードン・クレイグ

彼の詩的芸術としての演劇は、1910年にイギリスの演出家ゴードン・クレイグの刺激を受けた[70]。クレイグは俳優を動く操り人形とみなし、仮面を被らせ俳優の演技的創造性を拒絶し、スクリーンを組み合わせて光と陰のコントラストで舞台背景を作った[70]。感銘を受けたイェイツは1911年に彼の作品をアベイ座で上演したが、俳優や関係者からはかなり不評であった[70]

イェイツの詩は1909年から1914年にかけて決定的な変化を遂た[1]。とりわけ詩集『責任』(Responsibility: Poems and a Play, 1914年)では、それまでのイェイツを決定づけていた茫漠とした郷愁と夢幻的な世界への哀惜、異界的な恍惚とした雰囲気は一掃され、詩の構成が引き締まり、硬質化し、イメージはより希薄になり、イェイツが現実とその不完全さに対峙する新たな方向性が示されている[1]。「ロマンティックなアイルランドは死んでしまった」という辛辣なフレーズをリフレインしてカトリック中産階級の物質主義を嘆き、ダブリン市民への辛辣な風刺や痛罵が繰り返されており、政治と社会へのするどい批評が前面に登場したと評される[20][71]。『責任』では、これまでの自己との決別が謳われ、神話を基にした自己の衣装を脱ぎ、「裸で歩く」ことが宣言されている[71]

1910年、イギリスから年150ポンドの年金を受給するようになる[72]。また、数年来イェイツと関係のあった未婚女性が、妊娠したと偽って結婚を求め、イェイツ家を巻きこんだ騒動となった[24]。1912年頃、頻繁に交霊会に参加していた[72]。1911年、友人オリヴィア・シェイクスピアの遠戚のジョージー・ハイド・リーズ英語版と出会う(後に結婚)[72]

能の影響を受けた演劇 編集

 
エズラ・パウンド

イェイツは、19世紀末頃から起こった自然主義写実主義という大きな流れが定着しつつあったヨーロッパの演劇に疑問を抱いており、作劇における新しい可能性を模索していた[73]

1909年に、のちに重要なモダニスト詩人とみなされることになるエズラ・パウンドと知り合い、1912-1914年にかけて共に過ごした[3][74]。パウンドはジェイコブ・エプスタイン英語版アンリ・ゴーディエ=ブルゼスカといったヴォーティシズム(渦巻派)の彫刻を紹介し、イェイツは彼らと関わるようになった[74]。また、パウンドはフェノロサによる能楽集の英訳編集に関わり、イェイツは1915年から1916年にパウンドとフェノロサの能の翻訳を読み、これを通じて日本のに深い関心を抱くこととなった[18][70]。亡霊と生身の人聞が対時するという謡曲プロットや多様さ、能楽の簡潔な舞台や様式の重視、亡霊のつける仮面(能面)、制約された動き、象徴的な台詞および舞踊といった要素が、イェイツの自然主義・写実主義への疑問、象徴主義に通じ、自らの理想の劇に生かせると感じ、またイェイツがオスカー・ワイルドから受け継いだ仮面の活用といった手法が応用できることも、彼が能楽に関心を抱いた背景にあると言われる[75][73]

能に霊感を受けて書かれた最初の戯曲が、一幕物『鷹の井戸』(At the Hawk's Well, 1916年初演, 1917年刊)[注 8]である。初演はロンドン富裕層の私邸で、選ばれたわずかな観客を前に行われた(このとき鷹を演じたのは、日本人舞踊家の伊藤道郎である)[76]。研究者の徳永哲は、この劇の「仮面の着用、象徴的身振り、リズミカルな操り人形的動作、そして舞踊」といった要素には、ゴードン・クレイグの影響も多くみられると指摘している[77]。イェイツは能の影響を受け、舞台から写実主義を排し、「『ことば』を聴き、想像力によって観る」演劇の創造へと大きく進んだ[77]

後期イェイツが繰り返し描いた「死者が見る夢の回帰」という思想のインスピレーションの源泉は、16世紀ルネサンス期の魔術師アグリッパと日本の能であった[78]。イェイツは「エマーのただ一度の嫉妬」(The Only Jealousy of Emer, 1919年刊)から「クーフリンの死」(The Death of Cuchulain, 1939年刊)まで、ほぼ同様の構成を踏襲した作品を発表しつづける[76]

イースター蜂起 編集

イェイツが『鷹の井戸』を上演してまもなく、ダブリンで「イースター蜂起」が起きる。これは1916年4月24日の復活祭に、武装した活動家や農民がダブリン市内の郵便局などを占拠、アイルランド共和国政府の樹立を宣言した事件である[79]。蜂起は1週間ほどでイギリス軍によって完全に鎮圧され、全軍が投降、逮捕され、軍事法廷での簡単な裁判の後、蜂起の指導者15人は次々銃殺された[79][80]。その中にはイェイツの知人や、モード・ゴンの夫でイェイツの友人でもあったマクブライドも含まれていた[81]

参加者は少なく最初の段階から失敗確実といっていいものであったが、イギリス・アイルランド文学研究者の道木一弘によると、イースター蜂起は最初から軍事的成功を度外視した「象徴的な蜂起」であった[80]。「自らの死をもって祖国独立の礎とする」という彼らのロマン主義的な民族主義は、首謀者の一人パトリック・ピアースの「血の犠牲」という言葉でよく知られているが、この言葉のイメージの源はイェイツの愛国的戯曲『キャスリーン・ニ・フーリハン』であるといわれ、イェイツは、この作品が文学青年たちを無謀なイースター蜂起に駆り立てる遠因になったのではと、自責の念に駆られることになる[80][82]。アベイ座はやっと経営が安定し始めたところだったが、1916年に主要メンバーが次々と脱退し、イースター蜂起で公共サービスが止まり公演ができなくなり大打撃を受け、月1回ほど行っていた新作発表ができなくなり、1918年まで混乱が続くことになる[65][83]

この事件後に深い衝撃をもとにに書かれた詩「1916年復活祭」(Easter, 1916)は、イェイツの代表作の一つとされている。制作日は1916年9月と記されており、私家版が25部作られたが、公表されたのは1920年だった[84]。この詩は、死んだ闘士達をアイルランドのために自己犠牲を厭わない人間として英雄化し、人々にこの蜂起を国民的神話として記憶させたと評価されている[12][85][64]。この詩は蜂起に完全に賛同し賛美しているわけではなく、狂信的な指導者たちの犠牲への戸惑いが見られる[71]

モード・ゴンはマクブライドと離婚寸前だったが[注 9]、イースター蜂起での死により彼女の中で彼は英雄として心に刻まれ、モード・ゴンは終生喪服で過ごしたという[86]

蜂起軍へのイギリスの冷酷な対応に、はじめは蜂起に冷淡だった世論も同情的になり、改めてアイルランドがイギリスの植民地であることを再認識することになり、イギリスへの協力を拒否する民族主義運動が復活、イースター蜂起は神話化し、共和国建設の原点として位置づけられていった[80]

結婚と自動筆記 編集

 
イェイツが求婚したイザルト・ゴン
 
ジョージー・ハイド・リーズ(左から2番目)とイェイツ(左から3番目)、1930年

イェイツは、いかなる行商人の血も混じっていない「先祖代々受け継がれてきた高貴で純粋な血筋」を自負しており、モード・ゴンへの不毛な恋心で血筋を絶えさせることを何よりも懸念し、これ以上結婚を先延ばしにできないと考えていた[87][88]。イェイツはイースター蜂起後の1916年7月に、モード・ゴンへ再度求婚し断られると、1917年に彼女の娘で年若いイザルト・ゴン英語版に求婚し、こちらも拒絶されている[24][89]1917年10月、52歳のイェイツは心霊研究仲間の、25歳(27歳年下)のジョージー・ハイド・リーズ英語版[注 10](1892年 - 1968年)と結婚した。

結婚直後にイェイツは体調不良、鬱状態に陥り、ジョージーは夫のイザルトへの愛着の大きさにショックを受け[91][注 11]、実践・思想共にオカルトに造詣が深かったジョージーは[注 12]、彼の関心を他の女から引き離そうと、霊媒のように自動筆記を行って見せ、イェイツはこの自動筆記セッションに魅了された[92][注 13]。後期のイェイツは自動筆記が提供した素材を基に詩を作り、独自の神秘的宇宙観・歴史循環論を構築する等、ジョージーの自動筆記は壮年以降の夫の活動を支えた[92][93]

 
サミュエル・パーマー作「The Lonely Tower」。ジョン・ミルトンの詩集(1889年)の挿絵で、後期イェイツの主要なシンボル[94]

前期はラファエル前派の影響下にあったが、後期印象派キュビズムが作品の比喩として用いられ始めた[95]。1917年に『クールの野生の白鳥』(The Wild Swans at Coole)を発表。本作から、過去を見ることから現実の凝視へと作風が変化し、人生後半での霊感の刷新と技巧の完成という英詩史上ほとんど並ぶもののない域に達し、以降それを保ち続けた[1][96]。英文学者の橋本雄一は、巻頭詩はイマジスト詩人のどの詩より優れたイマジズムの詩になっていると評している[96]。同年、グレゴリー夫人の邸宅の近所にあった15世紀ノルマン様式タワー・ハウス英語版(要塞兼住居の城)の廃墟を購入し、この建物トール・バリリー英語版、サミュエル・パーマーが木版画で描いた塔は、「叡智のイメージ」として彼の詩によく登場する主要なシンボルとなった[1][97][98]

1919年に長女アン英語版誕生[89]。夏はトール・バリリーに一家で滞在するようになった[89]。ジョージーはイェイツにダブリンのメリオン・スクエアの家を与え、イェイツの妹のエリザベス・イェイツ英語版がイェイツの支援を受けて設立した私家版出版社クアラ・プレス社英語版[注 14]の経営難の面倒を見てやり、のちにイェイツが不倫をすると、それを黙認した[90]

名声の高まり 編集

 
議員の任期開始時、ダブリン
 
ノーベル賞受賞時のイェイツ

アイルランドではイースター蜂起の鎮圧後、反イギリス感情がくすぶり、1919年1月にはシン・フェイン党がアイルランド議会の樹立を宣言、武力抗争が激しくなっていた[79]

1919年に、イースター蜂起を扱った戯曲「骨の夢」(The Dreaming of the Bones)を上演。能の形式が最もよく生かされた作品と評されている。フェノロサとパウンドの能の翻訳にあった世阿弥の複式夢幻能「錦木」が下敷きになっているといわれ、イースター蜂起に参加しイングランド軍から逃亡する若者と、イングランドのアイルランド征服のきっかけを作り、国を売ったと語り伝えられるアイルランドのレンスターダーマット・マクモロー英語版と、彼に攫われたブレフネ王オルークの妃ダヴォーギラ英語版という不義の恋人達の亡霊という愛国主義的な題材が用いられ、イースター蜂起へのイェイツの思いが、簡素で象徴的、独特の劇的手法を通して表現されている[77][73][注 15]。アベイ座はイースター蜂起以降、グレゴリー夫人の懸念もあり政治的に議論を呼びそうな芝居の上演を避ける傾向があり、「骨の夢」はここで久々に上演されたイェイツの戯曲であった[102]

1920年に、世界の黙示録的終末と反キリストの誕生を予告し戦後ヨーロッパを寓意的に描く詩「再臨」(The Second Coming)を発表[104]

1921年英愛条約が結ばれて北アイルランドはアイルランド自由国として念願の独立を果たすが、以後もこの条約に不満をもつ過激派と自由国政府とのあいだに内戦が続いた[79]。アイルランド自由国の政策は、田園賛美に拠って立つカトリック教国という閉鎖的、内向的なもので、アングロ・アイリッシュは周縁に追いやられ、イェイツが行動を共にした人々も亡くなり、孤立感が高まり、アイルランドにいながらも故国喪失の思いを味わった[105]

1921年に長男マイケル英語版誕生、息子が生まれた頃にジョージーの自動筆記は終わった[90][89]。1922年、父ジョン死去[89]

動揺がつづく建国間もない故郷からの懇請を受け、すでにロンドンで確固たる文名を築いていたイェイツは1922年12月、アイルランド上院議員に任命される[106]。同年、トリニティ・カレッジから名誉博士の学位を授与される[107]

1924年、イェイツとグレゴリー夫人は、長年赤字経営が続いたアベイ座をアイルランド自由国政府に無償譲渡することを申し出る[65]。政府は受け入れなかったが、年間850ポンドの助成金を決定し、英語圏で初めて国の助成金を受ける劇場となる[65]。倒産は免れたが、厳しい経営が続いた[65]

1925年に鈴木大拙の『禅仏教論集』を読む[23]。3年にわたる自動筆記を7年かけて整理しまとめ、同年『幻想録』(A Vision、ヴィジョン)として出版[108][93][92]

1928年に議員を辞任した[12]

1923年にはノーベル文学賞を受賞する[6]。社会的な名声に包まれるなか書き継がれた詩集『塔』(The Tower, 1928年)は後期イェイツの頂点の一つ[106][50]、彼という芸術家の完成された到達点の一つであり、人生の経験が完璧な形で結実していると評されている[1]。タイトルは、彼が所有したタワー・ハウスにちなんでおり、「ビザンティウムへの船出」(Sailing to Byzantium)や「レダと白鳥」(Leda and the Swan)など数々の優れた作品が含まれている[85][1]

1929年に署名入りの薄い限定版詩集『螺旋階段』(The Winding Stair)を出版、1933年に、1929年版に収録された「螺旋階段」や有名な「ビザンティウム」(Byzantium)を含む詩集『螺旋階段』(The Winding Stair and Other Poems)を出版[109]。1933年の『螺旋階段』は64編の詩を収録し、イェイツの詩集で最も長い[109]。詩人として1930年前後が最盛期であると評価されており、第二次世界大戦(1939年開始)の予兆が高まるなか書かれ、唯美主義を脱し人間の現実を直視し、現代の矛盾・苦悩を象徴的手法を用いて描いた『塔』や『螺旋階段』(The Winding Stair)(1933年)で名声を高め、20世紀における最も注目すべき英詩集とみなされている[8][9]。『塔』『螺旋階段』に収録された詩は、イースター蜂起とアイルランド内戦、彼のタワー・ハウス、ビザンチン帝国とそのモザイクプラトンプロティノス斑岩、当時の心霊研究への関心が、主なテーマ・象徴として用いられている[1]

彼は50歳から亡くなる75歳の間に最高傑作を生みしたが、文学史上前例のないことだった[1]。英文学者の松島正一は、「彼の詩人としての生涯は自己を否定しながら新たな自己を作り上げていく過程」であったと述べている[84]。後期の作品は、長くひたむきな詩作への研鑽、詩、戯曲、散文という幅広い形式での挑戦、精神的な成熟と、徐々に深めていった独自の神話体系からなる個人的な知恵から生まれた[1]。英文学者の高松雄一は後期の作品について、「対英抗争、内乱、大戦、老年など、現実の混乱、恐怖、不毛に対する仮借ない認識と、これらを克服して超越的体験にあずかろうとする願望が恐ろしい緊張をつくりだしている。」と評している[50]

最晩年 編集

この頃からイェイツは肉体的な衰え、特に性的能力の衰えを感じるようになり、彼は詩作と性愛が直結していたため、創作意欲が減退し、芸術的な危機に直面した[110]。また1932年に生涯にわたる支援者だったグレゴリー夫人の死去という私生活の事件が重なり、2年ほど詩作ができないほどの落胆に陥る[111][112]

老いの悩みを打ち明けた友人から、医師で優生学の最も熱心な主唱者の一人ノーマン・ヘア英語版が回春手術(シュタイナッハ英語版手術)について書いた『回春』という本を紹介され、これに鼓舞され、1934年に彼の回春手術を受ける[112]。この手術は精管を縛り男性ホルモン分泌を増加させようというもので、身体的効果はなかったと考えられているが、イェイツには心理的効果が絶大で、別人のように元気になり、晩年の豊穣多産な創作活動のきっかけになった[113]。後期は現実に目を転じたが、晩年はさらに作風が変化し、自己の内面を赤裸々に表現した[43]。ノーマン・ヘアに術後の検査のためとして紹介された小説家・ジャーナリストのエセル・マニン英語版と性関係ふくめ親しく交際し、彼女はイェイツの良い聞き役となった[114][115]。また、詩人ドロシー・ウィスレーと師弟のような往復書簡を交わし、晩年まで交流を続けた[115]

1935年、インド人の友人でヒンドゥー教の修行者スワミ・プロヒット英語版と共に『ウパニシャッド』の翻訳に取り組む[23][112]。1936年に詩人でダンサーのマーゴット・ラドック英語版と知り合い、親しい関係になり、再び舞台に関わるようになった[115]。同年、優生学協会に入会[114]

晩年のイェイツは編纂にかかわった『オクスフォード近代詩集』(The Oxford Book of Modern Verse, 1936年)で戦争詩人として名高かったウィルフレッド・オーエンアイザック・ローゼンバーグ英語版らを黙殺して大いに物議をかもしたほか[3]、台頭するファシズムに関心を寄せ、民主主義嫌悪・戦争肯定論・ともとれるエッセイを残した[116]。1939年には、アイルランド人の人種の「退化」を懸念し、戯曲『煉獄』で優生学を取りあげており[55]、エッセイの中で人種の「汚染」「退化」を止めるためとして積極的な優生学断種に強く賛成している[117]

1937年に『幻想録』改訂版を出版[118]。1938年 詩集『新詩集』(New Poems)、『自叙伝』を出版[118]。8月にモード・ゴンと会い、これが最後となった[118]

11月に南フランスに保養に出かけ、1939年1月に長期滞在中のロクブリューヌで73歳で客死した[39][118]。同年『最後の詩と劇』(Last Poems and Two Plays)、エッセイ『汽罐の上で』出版[9][119]。戦後の1948年になって遺体が故郷のアイルランドに移され、生前のイェイツの希望通り、スライゴー州ドラムクリフ英語版の岩山ベン・ブルベン英語版の麓の墓地の、簡素な墓に埋葬された[17][118][120]

アイデンティティ 編集

プロテスタント・アセンダンシーへの帰属意識 編集

イェイツの少年期まで、イェイツ家は不在地主としてわずかに地代を得ており、彼は支配者階級であるプロテスタントに帰属意識があったと思われる[13]。イェイツはプロテスタント・アセンダンシーの最盛期だったイギリスのジョージ王朝時代を熱愛し、この時代にアイルランドの文芸復興、文化全般の復興モデルを見た[121]

旧弊な社会制度の下で育ち、グレゴリー夫人らプロテスタント・アセンダンシーの邸宅に出入りし彼らに憧れていたイェイツは、プロテスタント・アセンダンシーの「古き良き」上流社会が失われることを嘆き、心の葛藤を作品に表現し、彼らの思い出を晩年まで懐かしんだ[122][123]

イェイツはプロテスタント・アセンダンシーの終焉と世紀末ヨーロッパで広く見られた終末意識、世界崩壊の感覚を重ね合わせていたと思われ、彼の作品の中には終末意識が強く表れている[122]

アングロ・アイリッシュとして 編集

アングロ・アイリッシュであるイェイツは、アイルランドとイギリス(イングランド)両方の文化に属するがゆえに、どちらにもはっきり帰属していると言えない板挟みに苦しんだ[122]。祖国アイルランドをイギリスの長年の支配から解放したいと強く願うアイルランドのナショナリストであり、アイルランド共和国同盟英語版に属していたが、文人として長年ロンドンで活動し数多くのイギリス人の仲間を持っており、また行動より思索の人でもあり、モード・ゴンのように過激な独立運動に突き進むことはなかった[124]。イースター蜂起に対しても、詩の中で死んだ闘士達の行為を称えながらも、全面的に支持はしていない[124]

彼の作品はアイルランドの外から見れば非常にアイルランド的であるが、イェイツがアングロ・アイリッシュであることから、アイルランド人には、彼のアイルランド文芸復興の業績や、作品の中でアイルランドの風土、社会、政治、伝説等を取り上げていることを知っていても、彼の作品は必ずしもアイルランドの文化やアイルランド人の心情を代弁しているとは思えない部分があるという意見もある[125]。英文学者の結城英雄は、近年イェイツはアイルランドで、「郷愁を抱いた夢想家」として貶められる傾向があると述べている[126]。現代アイルランドのイェイツ批判の背景には、19世紀後半から顕在化した、プロテスタントとカトリック、アングロ・アイリッシュと土着のゲーリック・アイリッシュという対立図式がある[126]。結城英雄は、批判者のほとんどはカトリック側に属しており、「イェイツの文学的変貌に対する意図的な無視」や「彼の文学的功績に対するデフォルメ」もみられ、実情を無視した評価であると批判している[126]。イェイツへの賛美はむしろアイルランド以外の国でみられる[126]

思想信条 編集

ケルト的薄明の世界 編集

前期のイェイツは、アイルランドの神話や伝説の幻想的なイメージに美を見出していた[43]トマス・クロフトン・クローカーダグラス・ハイドらが収集・採話した68篇、詩13篇を編纂し、『ケルト妖精物語』(1888年)、『ケルト幻想物語』(Irish Fairy Tales, 1892年)にまとめた[48]。第一詩集『アシーンの放浪ほかの詩』(1889年)は、ケルト人の英雄アシーン(オシアン)を題材にした物語詩、ケルト的な非現実への憧れに満ちた幻想的な作品で、注目を集めた[127][50]詩劇『キャスリーン伯爵夫人』(1892年)も題材を伝説から取っており、夢幻的・ロマンチックで、神秘への志向を秘めている[8]。また、イェイツ自身、漁夫や農民といった素朴な人々から民間伝承を直接採話したと語っており、それは『ケルトの薄明』(The Celtic Twilight, 1893年)に収録され、彼自身の感想や見解が添えられている[48]。英文学者・翻訳者の井村君江は、『ケルトの薄明』はアイルランドの人々に郷土や自然への愛を目覚めさせ、ケルト民族としての意識を高め、やがてアイルランド文芸復興運動、アイルランドという国家への愛へと高まっていったと述べている[48]

ケルト神話は観念の世界であり、前期のイェイツは現実から遊離していたともいえる[43]。もし彼の活動が神話や民話をテーマとした40歳までだったら、おそらくその評価は、終わりゆくラファエル前派の伝統の中で、ケルト復興運動から再び美と詩情を汲みだしたマイナー詩人に留まっただろう[1]。英文学者の橋本雄一は、アイルランド独立運動やアイルランド文芸復興で実務的な現実に触れたこと、エズラ・パウンドと出会い、彼の「一新せよ(Make It New)」の精神に示唆を受けたこと、ウィンダム・ルイスの前衛的な小説や著作を盛んに読んだことなどが、現実に目を向ける要因となったのだろうと述べている[43]

オカルティズムへの関心・探求 編集

英文学者の橋本雄一は、ウィリアム・ブレイクから受けた強い影響が、生涯にわたる神秘主義の根源となったと述べている[12]

アイルランド文学研究者の松田誠思は、イェイツが神智学、ヘルメス哲学錬金術、魔術など、近代の哲学・科学に対し相補的な意味を持つ古代・中世の 〈知〉の探求方法の研究と実践に生涯情熱を傾けた理由として、彼は「ルネッサンス以後、特に17世紀以降ヨーロッパの近代哲学・科学の主流となった認識論パラダイム、すなわち認識の主体と認識の対象を厳密に区別することによって、〈知〉の客観性と確実性を保証しようとする立場にたいして、終始批判的」であり、「〈知〉の客観性と有用性を偏重する近代的認識論が、この世界における 〈個〉と外界の事物との有機的関係、さらには人間のみならずすべての事物の相互関係に含まれるユニークな価値の認識を妨げ、〈生〉の自己疎外を引き起こしていることを、詩人としての出発当初から一貫して批判していた。」と指摘し、「古代・中世人が自然と人間の関係について、また宇宙における人間の位置について蓄えてきた英知に学ぶ、いわば人間的知の再発見と深化の試みであった。」と述べている[128]

神秘的宇宙観・歴史循環論・優生学 編集

イェイツは自身の哲学を散文作品、『幻想録』(A Vision, 1925年、改訂版1937年)で説明している[1]。当時、神を失った社会の精神的無秩序状態と、第一次世界大戦(1914 - 1918)による文化・秩序の崩壊という現実があり、『幻想録』は、こうした秩序を失った世界の中で、「壮年のイェイツが自己の魂の知的完成を求めて苦闘した重要な記録」となっているが、その試みは困難なものであったことがうかがえる[129]。妻ジョージーとの自動筆記のセッションで彼女が書いたものがベースとなっており、これは3年、4,000ページに及び[92]、イェイツは7年かけて整理しまとめ、1925年に『幻想録』として出版した[108][93][92][注 16]

プラトンプロティノススウェーデンボリヴィコニーチェや、占星術、神智学、インド哲学ヒンドゥー教)、日本の、神秘的宇宙観、歴史観(歴史循環論)転生説等に対する信念を体系化・図式化した個性的な省察録で、彼の最盛期の象徴の体系が抽出されている[108][1][50]。これが詩人イェイツの前期のケルト神話と並ぶ後期の思想体系となっている[108]。人間の文明は約2000年周期で成長、完成、衰退を経過して輪廻し、この歴史の移り変わりは 人間の運命を支配する象徴的な絶対者ともいうべき The Great Wheel(大車輪)の運動の上にあるとする[58]。 The Great Wheel の運動は、月相に変化をもたらすとし、 The Great Wheel の上に位置する月相の変化に呼応して、人類の歴史は巡るとする[58]。イェイツは月相を28に区分し、第一相(新月)から第八相を成長期、第九相から第十五相(満月まで)を完成期、第十六相から第二十八相を衰退期に相当するものと想定し、キリスト教文化が栄華を極めたビザンチン文化およびルネサンス期が文明の完成期に当たり、現代(当時)20世紀は第二五相で次の第一相に向かう時期であり、次の2000年の文明期の黎明に近づいているとした[58]。第一相の暗黒の月(新月)は形而上の完全客観視を代表し、第十五相の月(満月)は完全主観を代表し、主観と客観の混合体である人間は、時代によって固有の性質を持つことになるという[58]。人間には Wiii[注 17]、Mask[注 18]、Creative mind[注 19]、Body of Fate[注 20]という4つの「機能体」があり、Will と Creative mind と Mask と Body of Fate は対立し、人の人格はこの機能体の組合わせによって決定されるという[130]。ある人の4つの機能体が28相から成る The Great Wheel のどこに位置するかによって、人格や天分を分析し解釈することができると考え、各相の典型的な知人や歴史上の人物を上げて例証し、彼が出会った人々を一つの体系のなかに位置づけた[131]。(1922年に出版した自叙伝『垂絹の揺ぎ』(The Trembling of the Veil)は、イェイツ自身より周囲の人々に多く触れており、『幻想録』の体系による人物評価、意味付けが生かされている[131]。)また、宇宙には Daimon と呼ばれる指導が君臨しているとし、イェイツはこれを人間の自我の究極の理想像と考え、人間の4つの機能は Daimon の4つの記憶から生じているとしている[130]。『幻想録』の思想体系は gyre(渦巻き、螺旋)のモチーフとして図像化されており、これは対立しつつも影響し合い、変化し続ける思想や歴史観を表している[132]。 gyre の元となるものは、プラトン、ダンテベーメ、ブレイクなどが挙げられ、英文学者の日下隆平は、イェイツが gyre を用いた契機を、「渦巻き」をエネルギーと創造のイメージでとらえたヴォーティシズム(渦巻派)とみなしている[133]

本書での想像力、歴史、オカルティズムの関係についての思索は分かりにくく、この占星術的世界観は個人の怪しげな霊的体験から導き出されたことから、彼自身以外にはほぼ説得力がなく、ほとんどの人には理解できないという辛辣な批評もあるが、後期イェイツ作品、イェイツの詩の変貌の理解に不可欠だと考えられている[1][130]。独自の循環史観、周期的な歴史観は、作品の中でイメージの反復と収束として表れている[1][134]。「ビザンティウムへの船出」の後半では芸術的創造を巡る哲学的な議論が展開されるが、「渦」または gyre がその中核となっている[132]

『幻想録』の中で、いかなる詩人も自ら創造の主になることはできず、霊感も幻想(ヴィジョン)も世界霊魂からくると考えた。世界霊魂は「個人や精霊に属するものではなくなったイメージの大きな貯蔵庫」とされ、イェイツの想像力の源、芸術の根源であり、彼の神であると考えられる[108][135]。彼はこの概念を、プラトンやカバラ思想を取り入れた17世紀イギリスのヘンリー・モアから学んだと言われる[135]

ジョージーの自動筆記は、instructors なる霊、精霊の秘教的な思想を伝達して書き留めものとされる[93]。 ジョージーはイェイツの死後、最初の自動筆記は偽りであったことを認めており、イェイツが落ち着いたら白状するつもりだったと語っている[91][136]。instructors との質疑応答という儀式が、最初以外はジョージーの演技なのか、作為性はどの程度なのかには議論があるが、自動筆記の内容はある程度彼女の意識的なコントロール下にあったと考えられている[91]。『幻想録』に含まれていない自動筆記セッションでは、instructors のアドバイスはジョージーに味方する個人的なものもある[92][注 21]。イェイツは instructors が提供した素材を基に詩を作る等、ジョージーの自動筆記はイェイツの後期の活動を支えたが、長年彼女が果たした役割に光が当たることはなかった[92][93]

晩年のイェイツは、当時の社会の物心両面にわたる混乱と末期的な有様に対して、ルネッサンス以後の近代の歴史の中に位置づけ、『幻想録』等で示した循環史観に基づき、文明の交替期、今の文明の終末期であるとみなした[134]。かなり主観性の強い認識であるが、イェイツ最晩年の詩作・劇作活動の要になっているだけでなく、現代社会における人間の堕落、生のエネルギーの衰退に対する危機意識、優生学に基づく荒療治(断種)への賛同という彼の主張とも密接に結びついている[134]。最晩年のエッセイを収録した『汽罐の上で』の中で、優生学協会員で心理学者のレイモンド・キャッテルの著作を典拠に、人種の「汚染」「退化」を止めるために積極的に断種手術を行うことを強く肯定している[117]

T・S・エリオットは、イェイツに詩人として最高の賛辞を贈っているが、その神秘思想は「個人的宗教」であると批判している[124]

政治 編集

イェイツはアイルランド自由国建国後、基本的に支持の立場だったが、新生アイルランドの政体はローマ・カトリック農民民主政体で、彼が望んでいたのはプロテスタント・アセンダンシーの貴族的共和制であり、民主制という多数者支配の政治制度への異議を繰り返した[12][134]。また、カトリック主導の政教不分離の政治運営と、それによって台頭した市民階級の世俗的な価値観を批判して、反時代的な姿勢を明確に示している[12][134]

影響 編集

英文学者の高松雄一は、イェイツの前期から後期への転身が、T・S・エリオット、W・H・オーデンといったモダニズム以後の詩人たちに与えた影響は大きいと指摘している[50]

英文学者の結城英雄は、イェイツと同じくアイルランド文芸復興の中で生まれたアイルランド人作家ジェイムズ・ジョイスと比較し、「ホメロスの『オデュッセイア』を枠組みとする『ユリシーズ』(1922)の神話的な手法は、アイルランド神話に拠って立つイェイツの手法の踏襲」であると指摘し、両者には重なるところが多いと述べている[126]

ポピュラー文化とイェイツ 編集

 
ジョン・シンガー・サージェントが描いたイェイツの肖像画(1908年)

イェイツ没後、その詩歌は英語で書かれた代表的な文学作品のひとつとみなされるようになった[3]英語圏では中等教育の段階から広く教材として用いられ、幾つかの作品はきわめてよく知られているため[106]、イェイツ作品に登場する詩句はさまざまな映画や音楽で引用され続けている。

  • 映画『ノーカントリー』(2007年)はコーマック・マッカーシーの原作とともに、題名を「ビザンティウムへの船出」冒頭の一節「老いた人々の住む土地はない」から取っている。
  • ロック・バンド ザ・スミスの楽曲『Cemetry Gates』の歌詞にイェーツの名が登場する。作詞したモリッシーはイェーツの文学に影響を受けている事を公言している。
  • コミック『スタートレック:無秩序(Mere Anarchy)シリーズ』(2009年)や作曲家モービー (Moby) の楽曲「ミーア・アナーキー」[137](2018年)は、イェイツの詩「再臨」(The Second Coming)[138]の一節「うわべだけの無秩序が世界にゆきわたり」(Mere Anarchy is loosed upon the world)を踏まえている。
  • コミック『バットマン:拡大する螺旋(The Widening Gyre)』(2009年)やロバート・B・パーカーの小説『拡大する螺旋』(The Widening Gyre, 1983年)は、同じく「再臨」の一節「(一羽の鷹が)しだいに大きく螺旋を描き」(Turning and turning in the widening gyre)より。
  • SF短編集『太陽の黄金の林檎』(The Golden Apples of the Sunレイ・ブラッドベリ、1953年)の題名は、イェイツの詩「さまようイーンガスの歌」(The Song of Wandering Aengus[139]の一節を取っている。
  • SF映画『A.I. 』(スティーヴン・スピルバーグ監督、2001年)では、人工知能が少年ロボットに向かって朗誦するイェイツの詩「さらわれた子ども」(The Stolen Child)が物語全体の重要な伏線となっている。
  • 映画『ウォール街』(オリバー・ストーン監督、1987年)で、伝説的な投資家ゴードン・ゲッコーが未熟な主人公に向かって「鷹が鷹匠の言うことを聞いたみたいだな」(So the falcon’s heard the falconer, huh?)とからかう場面は、「再臨」の一節「鷹は鷹匠のいいつけに耳を貸さない」(The falcon cannot hear the falconer)を踏まえている。
  • 短編映画『あるラブストーリー』(A Love Story[140](ジェシカ・ベラミー監督)は、イェイツがモード・ゴンに宛てて書いた恋愛詩「あなたが年をとって」(When You are Old)[141]を映画化したもの。
  • 映画『 メンフィス・ベル』で、爆撃機B-17F、愛称"メンフィス・ベル"の無線手ダニーが出撃前、イェイツの詩『An Irish Airman Foresees His Death』を自作と偽って朗読する

エピソード 編集

  • 復活英語版』(1931年)は「Satoに捧げる」とされるが、このSatoとはイェイツの熱心な信奉者である日本人佐藤醇造のことを指している。イェイツの講演に感じ入り、滞在先のホテルに半ば強引に押しかけた佐藤は、そこで設けてもらった会談において彼に備前長船元重の短刀を贈った[142]。イェイツは会談の2日後、エドマンド・デュラックに宛てた書簡において会談自体を「大変素晴らしいこと」としつつも、短刀については(当時独身だった)佐藤に子供が出来た時に彼に返却するつもりであるとした。一方で、この日本刀とその絹の覆いをイェイツ自身の人生の象徴とするとオリヴィア・シェイクスピアへの書簡で触れており、詩においても"Montashigi"の名で登場させている[143]
  • 1976年から発行されていたアイルランドの20ポンド紙幣に肖像が使用されていた[144]
  • イギリスのロックバンド、ザ・スミスの楽曲「Cemetery Gates」の歌詞にイェイツが言及されている。

主な作品 編集

イェイツは完成した作品にさらに手を加えることが多く、校訂の異同を示す「ヴァリオラム・テキスト」がジャンル別に出ている[2]

詩集 編集

『アシーンの放浪』The Wanderings of Oisin and Other Poems (1889年)

『キャスリーン伯爵夫人および諸伝説と抒情詩』The Countess Kathleen and Various Legends and Lyrics (1892年)

  • 「湖の島イニスフリー」The Lake Isle Of Innisfree
  • 「あなたが年老いるとき」When You are Old

『葦間(あしま)の風』 The Wind among the Reeds (1899年)

  • 「彼は天の布をもとめる」He Wishes for the Cloths of Heaven

『七つの森で』In the Seven Woods(1903年)

『緑の兜その他の詩』The Green Helmet and Other Poems(1910年)

『責任』Responsibility: Poems and a Play (1914年)

『クールの野生の白鳥』The Wild Swans at Coole(1917年, 1919年)

  • 「アイルランドの飛行士が死を予見する」An Irish Airman Foresees His Death

『マイケル・ロバーツと踊り子』Michael Robartes and the Dancer(1920年)

  • 「1916年復活祭」Easter, 1916
  • 「再臨」he Second Coming

『塔』The Tower (1928年)

  • 「ビザンティウムへの船出」Sailing to Byzantium
  • 「レダと白鳥」Leda and the Swan
  • 「一九一九年」Nineteen Hundred and Nineteen
  • 「内戦時代の省察」Meditations in Time of Civil War

『螺旋階段』The Winding Stair and Other Poems (1933年)

  • 「おそらくは音楽のための言葉」Words for Music Perhaps
  • 「自我と魂の対話」A Dialogue of Self and Soul

『最後の詩と劇』Last Poems & Plays (1940年)

  • 「サーカスの動物たちは逃げた」The Circus Animals' Desertion
  • 「ベン・バルベンの下で」Under Ben Bulben

短編集・評論など 編集

『ケルト妖精物語』Fairy and Folk Tales of the Irish Peasantry (アイルランド各地方の妖精譚と民話, 1888年)

『ケルト幻想物語』Irish Fairy Tales(アイルランド妖精物語, 1892年)

『ケルトの薄明』The Celtic Twilight(1893年)

『ウィリアム・ブレイクの作品』The Works of William Blake: Poetic, Symbolic and Critical(エドウィン・エリスとの共著, 1893年)

『秘儀の薔薇』The Secret Rose (1897年)

『善と悪の観念』Ideas of Good and Evil (1903年)

『幼年と少年時代の幻想』Reveries Over Childhood and Youth(1914年、幼年期と青年期の自叙伝)

『垂絹の揺ぎ』The Trembling of the Veil(1922年、演劇運動時代の群像劇的な自叙伝)

『幻想録』A Vision (1925年、改訂版1937年)

『自叙伝』The Autobiography of William Butler Yeats(1938年)

戯曲 編集

「キャスリーン伯爵夫人」The Countess Cathleen(1899年出版, 1911年初演)

「心願の国」The Land of Heart's Desire(1894年初演)

「キャスリーン・ニ・フーリハン」Cathleen ni Houlihan(1902年初演)

「鷹の井戸」At the Hawk's Well (1916年初演)

「骨の夢」(The Dreaming of the Bones)(1919年初演)

「エマーのただ一度の嫉妬」The Only Jealousy of Emer (1919年)

『窓ガラスに刻まれた言葉』The Words upon the Window-Pane(1934年)

「クーフリンの死」The Death of Cuchulain (1939年)

主な日本語訳書 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 16世紀にヘンリー8世が正式にアイルランド国王とされた以降の移住者。
  2. ^ 16世紀にヘンリー8世が正式にアイルランド国王とされた以前の移住者。
  3. ^ バトラー家はオールド・イングリッシュで最もイングランド的で、バトラーという性は、先祖がイングランドのプランタジネット朝の王子の執事だったことにちなむ[10]
  4. ^ 別名アングロアイリッシュ・アセンダンシー。
  5. ^ アシーンはアイルランド伝説に登場する英雄の一人で、妖精に導かれて歓楽の国・恐怖の島・忘却の島などさまざまな土地をめぐったのちに故郷へ戻るが、そのときすでに300年の月日が経っていたことを知る。アシーンが妖精の戒めを破って大地に触れると、彼はただちに白髪の老人に姿を変える。イェイツの詩は、この物語を老いたアシーンがアイルランドで布教していた後の守護聖人パトリックに物語る構成を取っており、アシーンの放浪に託し不老の理想郷への憧れが歌われている[32][19]
  6. ^ 日下隆平の論文では、邦題表記は『アイルランド農民の妖精物語と民話集』[34]、井村の表記は『アイルランド各地方の妖精譚と民話』[35]
  7. ^ イェイツとエリスは、ドイツ神智学協会を設立したオリエンタリストのフランツ・ハルトマン英語版と、ドイツ観念論の研究者ハンス・ラッセン・マーテンセン英語版のベーメ解説書を参考にした[51]
  8. ^ 『鷹の井戸』では、不死の泉の水を追い求める主人公クーフリンが、泉を守る神秘的な娘(鷹の化身)にまどわされてついに望みを果たすことができないまま死地におもむく[76]
  9. ^ モード・ゴンとマクブライドは二人とも気が強く、性格が合わず、彼は家庭での不品行もあったとされ、別居し、息子の親権争いとなり、離婚手続きを進めていた[86]
  10. ^ イェイツは妻のジョージーという名前を嫌がり、妻を「ジョージ」と呼んだ。もっともらしい理由としては、妻を詠んだ詩の中で「ジョージ」で韻を踏むためかもしれない[90]
  11. ^ イェイツはイザルトに自分がいかに不幸かを訴える手紙を書き、ジョージーは彼女の返信から夫が出した手紙のことを知った[91]
  12. ^ ジョージーは1912年から交霊会に参加し、一時神智学協会の分派人智学協会に参加、神秘学や哲学の書を読み、西洋占星術に熟達していた[92]
  13. ^ ジョージーはイェイツの死後、彼の栄誉を保持するために尽力し、伝記の執筆を積極的にサポートしており、従来のイェイツの伝記では、彼はジョージーと結婚してとても幸せになり、数日後に妻の自動筆記が始まったとされていた[91][92]
  14. ^ クアラ・プレス社はケルト復興運動で重要な役目を果たしており、イェイツをはじめ文芸復興運動に参画した作家の初版本のほとんどがここで発行された[90][99]
  15. ^ 『錦木』では僧の仏事のおかげで報われぬ恋が終わり男は成仏するが、「骨の夢」で亡霊たちは、同胞たるアイルランド人が二人を赦せば口づけを交わすことができると告げるが、若者は頑なに拒否し、霊的な変容が何も起きないまま夜が明け、幕が下りる[100]。これはイギリスに対し惑わされず断固拒否すべしというアイルランドの取るべき姿勢を描いたとも見えるが、同胞を憎み赦しを頑なに拒否する若者の狭量さ、硬直した思想が炙り出され、ナショナリストにありがちな、行き過ぎた熱意による視野の狭さ、独善性を描いているともいえる[101][102]。英文学者の岩田美喜は、イェイツの革命思想は「〈思想的硬直に抗うこと〉と〈悔恨(remorse)を超克すること〉」であったと評している[103]。硬直した考えに囚われ悪夢の繰り返しから抜け出せないという「死者が見る夢の回帰」の芝居は、観客がそうした硬直性を批判的に鑑賞することを期待しているという見方もある[78]
  16. ^ 『幻想録』のタイトルページにはイェイツの名前だけが載っており、少なくとも 7 つの版でジョージーが共著者としてクレジットされたことはない[92]
  17. ^ 意志[58]
  18. ^ Wiii の対象物、人間がなりたいと希望するそのもの、社会的自我[58]
  19. ^ Will の働きかける知力[58]
  20. ^ Creative mind の対象となる環境。人間の肉体など外界の環境に支配されるもの[58]
  21. ^ instructors は、イェイツをゴン母娘への執着から引き離すように促し、より健康的な食生活を提案したり、子どもができるようジョージーの排卵日をほのめかしたり、セックスのアドバイスをしたりした[92]

出典 編集

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参考文献 編集

関連文献 編集

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  • Donoghue, Denis. Yeats, Fontana/Collins, 1971.
  • Ellmann, Richard. Eminent Domain: Yeats among. Wilde, Joyce, Pound, Eliot, and Auden, 1970
    • リチャード・エルマン『イェイツをめぐる作家たち ワイルド、ジョイス、パウンド、エリオット、オーデン』 小田井勝彦・グレース宮田訳、彩流社、2017年
  • Ellmann, Richard. The Identity of Yeats, 2nd ed., 1964.
  • Hogan, Robert, and Richard Burnham. The Art of the Amateur: 1916–1920, Ireland: Dolmen, 1984.
  • Holdeman, David, and Ben Levitas, eds. W. B. Yeats in Context. Cambridge, UK: Cambridge University Press, 2010.
  • Hone, Joseph. W. B. Yeats, 1865–1939. Harmondsworth, UK: Macmillan, 1971.
  • Howes, Marjorie, and John Kelly, eds. The Cambridge Companion to W. B. Yeats. Cambridge, UK: Cambridge University Press, 2006.
  • Jeffares, A. Norman, A New Commentary on the Poems of W.B. Yeats, 1983.
  • Jeffares, A.Norman and A.S. Knowland, A Commentary on the Collected Plays of W.B. Yeats, 1975.
  • Jeffares, A. Norman, ed., W.B. Yeats: The Critical Heritage, 1977.
  • Kelly, John S. A W. B. Yeats Chronology. Basingstoke, UK, and New York: Palgrave, 2003.
  • Kermode, Frank. Romantic Image, 2nd ed., Routledge, 2012.
  • Howes, Marjorie. Yeats’s Nations: Gender, Class, and Irishness, 1996.
  • McCormack, W. J. Blood Kindred: W. B. Yeats, the Life, the Death, the Politics. London: Pimlico, 2005.
  • McCready, Sam. A William Butler Yeats Encyclopedia, Greenwood Press, 1997.
  • Noguchi, Yone. Mr. Yeats and the No. the Japan Times, November 3, 1907.
  • O’Donnell, William. A Guide to the Prose Fiction of W. B. Yeats. Ann Arbor, MI: UMI Research, 1983.
  • Orr, Leonard ed., Yeats and Postmodernism, 1991.
  • Parkinson, Thomas. W. B. Yeats Self -Criticism: A Study of His Early Verse, University of California Press, 1951.
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  • Peterson, Richard F. William Butler Yeats, 1982.
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  • Taylor, Richard. A Reader’s Guide to the Plays of W. B. Yeats. London: Macmillan, 1984.
  • Unterecker, John. A Reader’s Guide to William Butler Yeats. Syracuse, NY: Syracuse University Press, 1996.
  • Wilson, F.A.C. W.B. Yeats and Tradition, Victor Gollancz, 1958.
  • Wilson, F.A.C. Yeats’s Iconography, Methuen, 1960.

邦文(抜粋) 編集

  • 池田寛子『イェイツとアイリッシュ・フォークロアの世界 : 物語と歴史の交わるところ』彩流社、2011年
  • 出淵博『イェイツとの対話(出淵博著作集:1)』みすず書房、2000年
  • 伊藤宏見『イェイツ詩研究『クール湖上の白鳥』その他』北星堂書店、2004年
  • 伊藤宏見『存在の統一 : イェイツの思想と詩の研究』文化書房博文社、2007年
  • 岩田美喜『ライオンとハムレット : W・B・イェイツ演劇作品の研究』松柏社、2002年
  • 大野光子『イェイツとアングロ・アイリッシュ文学の伝統 : 植民地/帝国のジェンダー意識考察』京都修学社、1999年
  • 大森恵子『愛と叡智 : イェイツの世界』思潮社、2004年
  • 木原謙一『イェイツと仮面 : 死のパラドックス』彩流社、2001年
  • 木原誠『イェイツと夢 : 死のパラドックス』彩流社、2001年
  • 木村正俊編『文学都市ダブリン : ゆかりの文学者たち = City of literature Dublin』春風社、2017年
  • 日下隆平『イェイツとその周辺』大学教育出版、1999年
  • リチャード・M・ケイン 『イェイツとジョイスの時代のダブリン』 小田井勝彦訳、小鳥遊書房、2020年
  • 杉山寿美子『祖国と詩 : W・B・イェイツ : 1865-1939』国書刊行会、2019年
  • 鈴木弘『図説 イェイツ詩辞典』本の友社、1994年
  • 武子和幸『イェイツの影の下で』国文社、1998年
  • 野口米次郎「英文學の新潮流 ウ井ルアム、バトラー、イーツ」『英米の十三年』春陽堂、1905年 所収
  • 野口米次郎「エーツ」『欧州文壇印象記』白日社出版部、1916年 所収
  • 野口米次郎「エーツと能」『敵を愛せ』玄文社出版部、1922年 所収
  • 野口米次郎「イエーツと能」、「外國に於ける能の研究」『能樂の鑑賞』第一書房、1925年 所収
  • 野口米次郎「イエーツ」、「愛蘭文学の回顧」『愛蘭情調』第一書房、1926年 所収
  • 野口米次郎「青年彫刻家の戦死」『海外の交友』第一書房、1926年 所収
  • 野中涼編『イェイツの詩を読む』思潮社、2000年
  • 萩原眞一『イェイツ : 自己生成する詩人』慶應義塾大学出版会、2010年
  • 前波清一『イェイツとアイルランド演劇』風間書房、1997年

関連項目 編集

外部リンク 編集

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