ロシア空挺軍
ロシア空挺軍(ロシアくうていぐん、ロシア語: Воздушно-десантные войска; 略称ВДВ、英語: Airborne troops of the Russian Federation)は、ロシア連邦軍の空挺軍。軍管区に所属しない独立兵科であり、ロシア連邦軍参謀本部を通じて大統領直轄で指揮を受ける迅速介入部隊、機動戦力の主力を構成する。
ロシア空挺軍 Воздушно-десантные войска | |
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![]() ロシア空挺軍の紋章 | |
創設 | 1930年8月2日 |
国籍 | ![]() → ![]() |
軍種 | 空挺軍 |
兵力 | 45,000人 |
上級部隊 | ![]() |
主な戦歴 | |
指揮 | |
現司令官 | ミハイル・テプリンスキー大将(解任情報あり[1]) |
識別 | |
ロシア空挺軍旗 | ![]() |
ソ連空挺軍旗 | ![]() |
2022年ロシアのウクライナ侵攻で損耗する前の総兵力は約4万5千人と見積もられていた[1][2]。5千人は2時間以内に出動できる態勢にあると推定されていた[3]。
ソビエト連邦軍の空挺部隊を継承し、軍服は、独ソ戦で奮戦したソ連海軍歩兵にあやかり、ブルー・ベレー帽と、青と白の横縞の水兵シャツを特徴とする。
歴史編集
創設期編集
空挺軍の歴史はソビエト連邦時代、ヴォロネジ近郊のモスクワ軍管区空軍演習において、12名から成る空挺部隊がパラシュートで降下した1930年8月2日にその起源を遡る。最初の空挺部隊となったのは、1931年にレニングラード軍管区で編成された164名から成る空中強襲支隊だった。
1932年、ソ連革命軍事会議決定に基づき、大規模な空挺部隊の創設が決定され、1933年3月までに、白ロシア、ウクライナ、モスクワ及び沿ヴォルガ軍管区に1個空中強襲支隊を編成することが計画された。
1941年夏までに、各1万人の5個空挺軍団の兵員充足が終了した。フィンランドに対する冬戦争(1939~1940年)時、第201、第204及び第214空挺旅団が地上部隊として実戦に投入された。
第二次世界大戦~冷戦期編集
独ソ戦開始とともに、5個空挺軍団全てはソ連西部の前線において戦闘に投入された。首都モスクワ郊外での逆襲中、ドイツ軍のヴャゼムスク-ルジェフ-ユフノフスク集団の包囲及び撃破における西部及びカリーニングラード戦線部隊への協力のために、1942年初め、第4空挺軍団の空挺降下を伴うヴャゼムスク空挺作戦が行われた。これは、独ソ戦中最大の空挺作戦だった。ドイツ軍後方には、計1万人の空挺兵が降下した。空挺軍団の部隊は、敵後方に突破したP.A.ベーロフの騎兵隊と協力して、1942年6月まで戦闘行動を行った。戦闘は、ほぼ6ヶ月間に亘った。
1942年夏、スターリングラード周辺の戦況が悪化したため、大規模な戦略予備が必要とされた。そのため、最高司令部大本営は、10個空挺軍団を狙撃師団(歩兵)に再編成し、それを都市防衛に振り向けた。
1945年8月のソ連対日参戦時、4,000人以上の空挺兵が、満州国のハルビン、吉林、旅順及び南樺太(南サハリン)の飛行場に着陸し、関東軍及び第5方面軍など日本陸軍守備隊の行動を麻痺させた。
第二次世界大戦後の東西冷戦では西側諸国との実戦は起きなかったが、アフガニスタン軍事介入では緒戦から投入された(嵐333号作戦)。
ロシア連邦軍への移行後編集
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ソビエト連邦の崩壊後、ソ連軍の主力はロシア連邦軍へ移行した。第11、第56、第83の3個空挺旅団はロシア連邦軍成立後の一時期、ロシア連邦陸軍の空中襲撃旅団に改編転属されていたが、2013年11月に再び空挺軍の隷下とされた[4]。2018年の編制は、降下・襲撃師団(空挺/ヘリボーン)x2個師団、空挺師団(パラシュート降下)x2個師団、降下・襲撃旅団 x4個旅団、特別任務旅団 x1個旅団とされる[2]。
ウクライナ侵攻編集
2022年ロシアのウクライナ侵攻では、首都キーウに近いアントノフ空港制圧に寄与したが、ロシア軍全体としてはキーウ攻略に失敗してアントノフ空港も奪回された。
その後は降下・着陸を伴わない精鋭歩兵部隊として投入され、ニュースサイト「ウクライナ・プラウダ」によると、2023年1月2日から東部のバフムートの戦いに参加した[1]。
組織編集
- 第7親衛空挺師団:ノヴォロシースク
- 第76親衛空挺師団:プスコフ
- 第98親衛空挺師団:イワノヴォ
- 第106親衛空挺師団:トゥーラ
- 第11独立親衛空中襲撃旅団 - 2022年2月24日2022年ロシアのウクライナ侵攻において第31独立親衛空挺旅団と共にキエフ郊外のホストメル・アントノフ空港を占領[5]
- 第31独立親衛空挺旅団:ウリヤノフスク
- 第56独立親衛空挺旅団
- 第83独立親衛空挺旅団
- 第45独立親衛特殊任務旅団:クビンカ ※スペツナズ(特殊部隊)
- 第1182親衛砲兵連隊:ナロ=フォミンスク
- 第38独立通信連隊:メドヴェージ・オジョーラ
- 第107独立高射ミサイル大隊:ドンスコイ
- 第322独立工兵大隊:トゥーラ
- 第731独立通信大隊:トゥーラ
- 第43独立修理・復旧大隊:トゥーラ
- 第242空挺軍教育センター:オムスク
- 第266独立輸送飛行隊
- 第58独立ヘリ飛行隊:リャザン
- リャザン空挺軍大学:リャザン
装備編集
- 個人携行ミサイル・擲弾発射器
- RPG-7
- RPG-22
- RPG-26
- RPG-28
- SPG-9
- 9M14(AT-3 サガー)
- 9M113
- 9M133コルネット
- 9K32 Strela-2(SA-7 グレイル)
- 装甲車両
- 火砲
出典:[6]
歴代司令官編集
氏名 | 階級 | 在任期間 | 出身校 | 前職 |
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ワシーリー・グラズノフ | 中将 | 1941.9-1943.6 | ロシア帝国軍の下士官 | 第3空挺軍団長 |
アレクサンドル・カピトーヒン | 少将 | 1943.6-1944.8 | 親衛空挺師団長 | |
イワン・ザテヴァーヒン | 中将 | 1944.8-1946.1 | 独立親衛空挺軍司令官 | |
ワシーリー・グラゴレフ | 大将 | 1946.1-1947.10 | バキン指揮課程 | 第9親衛軍司令官 |
アレクサンドル・カザンキン | 中将 | 1947.10-1948.12 | 赤色指揮官課程 | 入院 |
セルゲイ・ルジェーンコ | 航空元帥 | 1948.12-1950.1 | カチン軍事飛行士学校 | 第16航空軍司令官 |
アレクサンドル・カザンキン | 中将 | 1950.1-1950.3 | 赤色指揮官課程 | |
アレクサンドル・ゴルバトフ | 上級大将 | 1950.3-1954 | 騎兵指揮課程 | 軍司令官 |
ワシーリー・マルゲロフ | 1954-1959.3 | 統合白ロシア軍事学校 | ||
イワン・トゥタリノフ | 大将 | 1959.3-1961.7 | ||
ワシーリー・マルゲロフ | 上級大将 | 1961.7-1979.1 | 統合白ロシア軍事学校 | |
ドミトリー・スホルコフ | 1978.12-1987.7 | レニングラード軍事工兵学校 | 中央軍集団司令官 | |
ニコライ・カリーニン | 大将 | 1987.8-1989.1 | レニングラード・スヴォーロフ士官学校 | シベリア軍管区司令官 |
ウラジスラフ・アチャロフ | 1989.1-1990.12 | カザン戦車赤旗学校 | レニングラード軍管区参謀長 | |
パーヴェル・グラチョフ | 上級大将 | 1991.1-1996.8 | リャザン高等空挺指揮学校 | 空挺軍副司令官 |
エフゲニー・ポドコルジン | 大将 | 1991.8-1996.12 | アルマ・アタ空挺軍学校 | 空挺軍参謀長 |
ゲオルギー・シュパク | 1996.12-2003.9 | リャザン高等空挺指揮学校 | 沿ヴォルガ軍管区参謀長 | |
アレクサンドル・コルマコフ | 2003.9-2006.12 | 極東軍管区副司令官 | ||
ワレリー・エフトゥホヴィッチ | 中将 | 2007.1-2009.5 | 空挺軍参謀長兼副司令官 | |
ウラジーミル・シャマーノフ | 2009.5-2016.10 | ロシア連邦軍戦闘訓練・部隊勤務総局長 | ||
アンドレイ・セルジュコフ | 大将 | 2016.10-2022.6 | 第12予備軍司令官 | |
ミハイル・テプリンスキー | 2022.6- |
脚注編集
参考文献編集
- デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 『ソ連地上軍 兵器と戦術のすべて (元題:WEAPONS AND TACTICS OF THE SOVIET ARMY)』原書房、1987年。ISBN 4-562-01841-0。
関連項目編集
- 降下猟兵 - ナチス・ドイツの空挺兵で、第二次世界大戦中盤以降は精鋭歩兵として戦った。
- ウクライナ空中機動軍 - ソ連崩壊時にウクライナ領内に駐屯していた空挺軍部隊を基幹として編成された。
外部リンク編集
- ロシア連邦国防省公式サイト(ロシア語、英語)
- 第76親衛空挺師団公式サイト(ロシア語)
- 第100親衛空挺師団博物館(ロシア語、解散)
- 空挺軍博物館「空の親衛隊」(ロシア語)
- ロシア空挺軍非公式サイト(ロシア語)