内藤大助

日本の元プロボクサー

内藤 大助(ないとう だいすけ、1974年8月30日 - )は、日本の元プロボクサー

内藤 大助
Daisuke Naitō, Nov. 2009.jpg
2009年11月、亀田興毅戦のリングにて
基本情報
本名 内藤 大助
通称 北の剛拳
最短男
国民の期待
リアルはじめの一歩
階級 フライ級
身長 163㎝
リーチ 175㎝
国籍 日本の旗 日本
誕生日 (1974-08-30) 1974年8月30日(46歳)
出身地 北海道虻田郡豊浦町
スタイル 右変則ファイター
プロボクシング戦績
総試合数 42
勝ち 36
KO勝ち 23
敗け 3
引き分け 3
テンプレートを表示
内藤大助
YouTube
チャンネル
活動期間 2020年6月13日 -
登録者数 約1070人
総再生回数 約25492回
チャンネル登録者数、総再生回数は2020年11月16日時点。
テンプレートを表示

WBC世界フライ級王者。第49代日本フライ級王者、第35代OPBF東洋太平洋フライ級王者。宮田ジムに所属していた。

引退後はタレントやボクシング解説者として活動している。

北海道虻田郡豊浦町出身。マネジメント先はトラロックエンターテインメント。血液型O型

来歴編集

プロデビューまで編集

母親は、大助を身ごもっている時に夫と離婚しており、アルバイトで大助と4歳上の長男を養い、後に小さな民宿を始めた。一家の生活は楽ではなかったものの、学校での大助少年はマラソン大会や運動会徒競走で必ず1位になるなど運動神経抜群で、クラスでは人気者だった。

中学では卓球部に所属していたが、中学2年になるといじめの標的にされた。生活が苦しかったため、兄のお下がりの制服やスキーウェアなどを着ていけば「ボンビー(貧乏)」というあだ名で馬鹿にされたり、給食のおかずや貴重品を取り上げられたり、教師に見つからないよう人目につかない場所で暴行も受けた。内藤は胃潰瘍を患うまでに追い詰められるも、教師からはいじめには気付いてもらえず、気の強い母親への相談も諦め、1人でいじめに耐える中学生活を送った[1][2]

進学先の北海道豊浦高等学校にいじめ加害者らが進学しなかったことから、ようやくいじめから解放され、新しい仲間との出会いを通じて本来の明るさを取り戻す。ハンドボール部に所属し、3年時には同校初の全道大会出場に貢献した。

卒業後には洞爺湖そばにあるホテル調理師として就職が内定していたが、春休みの研修で上司と口論になり内定を取り消され、就職に失敗した[3]

以降、定職に就かずだらだらと日々を過ごしていたが、母親に叱咤され上京した。母は予め、生別した実父が経営する工務店に「大助を働かせてやってほしい」と話をつけていた[4]。上京から1年後、書店で目にしたボクシング雑誌に刺激を受け、下宿先の近くにあった宮田ジムに入門する。内藤はボクシングを始めた動機について、「地元に帰省したらいじめっ子に会うんじゃないかって怖かった。でも、ジムに通えばケンカに強くなれる。強くなれなくても、『ジムに行っている』と言えば、いじめっ子をびびらせられるって思った」と振り返っている。しかし、格闘技が好きではなかった母から、「あんな野蛮なスポーツはダメだ」と叱られ、勘当を言い渡された[1][3]

プロデビュー後〜日本王座獲得編集

1996年10月11日にプロデビュー戦。1RKO勝ちで飾ると、1998年12月19日の全日本フライ級新人王決定戦で福山登(大阪帝拳)に1RKO勝ちし、9勝1引き分けの戦績で新人王を獲得した。

2001年7月16日、坂田健史協栄)の持つ日本フライ級王座に挑戦するも、引き分けで王座獲得はならなかった大串事件も参照)

2002年4月19日、タイポンサックレック・シンワンチャー(タイ)の持つWBC世界フライ級王座に挑戦し、世界フライ級タイトルマッチ史上最短記録となる1R34秒KO負けを喫した当該節参照)。しかし、復帰戦でKO勝ちし、その後も菊井徹平花形)を下すなど、順調に勝ち進んだ。

2004年6月6日、日本フライ級王者の中野博(畑中)に挑戦。内藤は中野から2度のダウンを奪うなど一方的に攻め続け、6Rに偶然のバッティングによる負傷判定勝ちを収め、日本王座を獲得した。10月11日には小嶋武幸(横浜さくら)を相手に初防衛戦を行い、日本タイトルマッチ史上最短となる1R24秒でKO勝ちを収めた。

2005年10月10日、WBC世界フライ級王者・ポンサクレックに再挑戦するも、7R負傷判定で敗れた当該節参照)

2006年6月27日、OPBF東洋太平洋フライ級王者の小松則幸エディタウンゼント)と、史上初の日本・東洋太平洋統一タイトルマッチを行い、小松を6RTKOで破り、日本・東洋太平洋王座の2冠となった。12月10日には東洋太平洋王座単独の防衛戦を行い、判定で初防衛している。

2007年、自身の負傷と、日本・東洋王座の防衛戦の兼用が困難になったことなどを理由に、両王座を返上した。

世界王座獲得編集

内藤は2007年1月から白井・具志堅スポーツジム野木丈司トレーナーに師事し、戦術とスタミナの強化に努めた[5]

ポンサクレックとの3度目の世界タイトル戦が決定したが、スポンサー集めが難航し、資金を用意できず開催が危ぶまれた。内藤は会見で、「ファイトマネーはゼロでいい。リングに上げて下さい」と懇願し[6]ディスカウントストア大手のドン・キホーテがスポンサーに就き[7]東京都独立UHF局であるTOKYO MXでの生中継が決定したことから、無事開催された[8]

7月18日、WBC世界フライ級王座3度目の挑戦で、ポンサクレックに12R判定勝ちし、32歳10か月にして悲願の世界チャンピオンとなった[9]#第3戦参照)

2007年10月11日、初防衛戦を行い、亀田三兄弟の次男・亀田大毅(当時:協栄)を相手に、ほぼフルマークの3-0の判定で勝利した当該節参照)。内藤はこの勝利をきっかけに国民的な人気者となり、以降の試合は全てTBSテレビが中継した。

2008年3月8日に両国国技館で、前王者であるポンサクレックと2度目の防衛戦、ポンサクレックとの4度目の対戦を行った。試合は12R判定でジャッジは内藤勝利1、ポンサクレック勝利1、ドロー1で引き分けとなったため、規定により2度目のタイトル防衛となった当該節参照)

2008年7月30日に国立代々木競技場第一体育館で、当時の日本王者・清水智信(金子)と3度目の防衛戦。9Rまで清水のアウトボクシングに苦戦しポイントリードを許したが、10Rにカウンターを起点にしたラッシュでダウンを奪う。立ち上った清水に更に畳み掛けて2度目のダウンを奪い、逆転KO勝ちで世界王座3度目のタイトル防衛となった。この日の興行ではダブルタイトルマッチとして、WBA同級王者・坂田健史の防衛戦も行われた。

2008年12月23日に両国国技館で、元東洋太平洋ライトフライ級王者・山口真吾(渡嘉敷)と対戦した。11Rに山口からダウンを奪うと、立ち上がってきたところに連打を叩き込み、レフェリーストップで、1分11秒TKO勝ちし、世界王座4度目の防衛を果たした。山口戦前には普段の生活を見直し「午前0時前には必ず寝る」、「8時間以上の睡眠」、「ネットやメールは必要最小限に控える」を実行。「休みの日に練習するのは、サボるのと一緒」とオーバーワークにも注意した[10]

2009年5月26日、WBC世界フライ級10位の熊朝忠中国)を相手に5度目の防衛戦。当初は中国・上海での対戦予定であったが、現地のイベント代行業者の不手際によって現地での開催を断念し、急遽東京のディファ有明で、前座試合無しのワンマッチ興行、チケットは当日券のみという異例の形で開催された。試合は終始苦戦を強いられ、5Rに偶然のバッティングで右瞼をカット、6Rにはダウン[注釈 1]、11Rには口内をカットして出血し、熊の猛攻に防戦一方となった場面もあったが、3-0の判定勝ちで5度目の王座防衛に成功した。

世界王座陥落〜現役引退編集

2008年11月に開催されたWBC総会で、1位のパノムルンレック・クラティンデーンジム以外に、同年5月に行われた挑戦者決定戦に勝利した2位フリオ・セサール・ミランダにも指名挑戦権を認めるとされていたが、ミランダの指名挑戦権は2009年4月に前王者であるポンサクレックと暫定王座決定戦で対戦することが決まった時点で失効し、この決定戦ではポンサクレックが暫定王座を獲得した。

 
2009年11月、亀田興毅戦のリングに向かう内藤と宮田博行

WBCよりポンサクレックとの王座統一戦を行うことが義務付けられていたが、前述の熊戦の負傷の影響で延期が認められたことから、ポンサクレックは8月28日に母国で升田貴久三迫)を相手に初防衛戦を行い、6回TKO勝ちで防衛成功した。内藤も統一戦の前に防衛戦を1試合行うことを認められ、11月29日、兼ねてより因縁深かった元WBA世界ライトフライ級王者・亀田興毅と対戦。試合は2Rに興毅の左ストレートが内藤の鼻を捉え、このパンチ以降鼻からの断続的な出血を強いられ、アウトボクシングをする興毅を内藤が追い続ける展開となったが、興毅を捉えきれず0-3の判定で敗れて王座から陥落した。

家族からは引退を勧める声もあり、進退に注目が集まっていたが、亀田興毅戦からちょうど2か月後の2010年1月29日に宮田ジムで記者会見を行い、「打倒亀田」を掲げ現役続行を表明した[11]

 
2010年3月、亀田興毅との王座統一戦のために東京を訪れたポンサクレック・ウォンジョンカムと内藤

5月9日に後楽園ホールで「再起戦」として、リエンペット・ソー・ウィラポン(タイ)とノンタイトル10回戦を行い、5RKO勝ちした。以降1年以上試合を行わず、世界王者であるため、JBCの規定でライセンスが失効する37歳を過ぎても再交付の申請は可能だったが、手続きを行っていないことが明らかとなりライセンスを失った状態であった[12]

2011年11月12日放送の『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)にて現役引退を表明し、後日正式に引退会見を開いた。

12月31日に大阪府立体育会館で行われた井岡一翔のタイトルマッチの前座で引退セレモニーが行われ、2012年1月12日には、かつての勤務先でありスポンサーの長谷工コーポレーション主催による引退パーティーが開かれ、エキシビションを披露した[13]

引退後編集

2012年6月より『ダイヤモンドグローブ』(フジテレビNEXT)の解説者に就任することが発表された[14]。6月20日には、TBSが中継した井岡一翔と八重樫東WBC・WBAミニマム級王座統一戦に解説者として出演し、以降もTBSのボクシング中継で解説を務めている。フジテレビにもゲスト出演するほか、現役時代にもテレビ東京の中継にゲスト解説として出演したことがある。

また、フジテレビ系の昼ドラ『モメる門には福きたる』で、本格的に俳優デビューした[15]

2013年7月には、北海道札幌市白石区に内藤がプロデュースするラーメン店「麺屋べんべ」が開業している。

2019年2月、北海道の民放5局とNHK札幌放送局による共同キャンペーン『One Hokkaido Project』のキャンペーンソングに参加[16]

2019年10月11日、東京都内でバイクを運転中にトラックと接触し転倒して肋骨を折る重傷を負った[17]

戦績編集

プロボクシング 戦績
42 試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
36 23 13 0 3 0
3 1 2 0
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1996年10月11日 勝利 1R 0:55 KO 西野龍三 (レパード玉熊)   日本 プロデビュー戦
2 1997年4月30日 勝利 2R 0:39 KO 押金励 (角海老宝石   日本 1997年東日本ジュニアフライ級新人王トーナメント予選
3 1997年6月17日 勝利 1R 0:42 KO 関裕介 (高崎)   日本
4 1997年8月1日 引分 4R 判定1-0 榎本信行 (三迫   日本
5 1998年4月23日 勝利 1R 1:45 KO 安斉治明 (F赤羽)   日本 1998年東日本フライ級新人王トーナメント予選
6 1998年6月30日 勝利 1R 1:24 TKO 佐藤崇 (MI花形   日本
7 1998年8月7日 勝利 1R 2:20 KO 伊藤克憲 (角海老宝石)   日本
8 1998年9月28日 勝利 4R 判定2-0 久保田隆治 (沖)   日本
9 1998年11月8日 勝利 6R 判定3-0 佐藤宏章 (F赤羽)   日本 1998年東日本フライ級新人王トーナメント決勝戦
10 1998年12月9日 勝利 1R 1:00 KO 福山登 (大阪帝拳   日本 1998年全日本フライ級新人王決定戦
11 1999年4月5日 勝利 2R 1:36 TKO ジュン・オルハリーサ   フィリピン
12 1999年6月14日 勝利 7R 0:25 TKO ジョビー・マンチャ   フィリピン
13 1999年9月13日 勝利 1R 1:28 KO 李明星   韓国
14 1999年12月15日 勝利 8R 判定3-0 田中潤 (ワタナベ   日本
15 2000年7月6日 勝利 6R 判定3-0 伊波秀吉 (具志川)   日本
16 2000年9月19日 勝利 3R 2:12 KO ヨドペット・チュワタナ   タイ
17 2000年10月28日 勝利 3R 1:11 TKO サックモンコン・シンマナサック   タイ
18 2000年12月5日 勝利 10R 判定 池田政光 (渡嘉敷)   日本
19 2001年2月13日 勝利 5R 2:37 TKO 殿台カローラ (殿台赤城)   フィリピン
20 2001年7月16日 引分 10R 判定1-0 坂田健史協栄   日本 日本フライ級タイトルマッチ
21 2001年10月18日 勝利 5R 2:16 TKO ウィン・ネイションマン   タイ
22 2002年4月19日 敗北 1R 0:34 KO ポンサクレック・ウォンジョンカム   タイ WBC世界フライ級タイトルマッチ
/世界フライ級タイトルマッチ史上最短KO記録
23 2002年9月19日 勝利 7R 1:53 TKO タオチャイ・ソーソーゴージム   タイ
24 2002年12月11日 勝利 10R 判定3-0 菊井徹平花形   日本
25 2003年2月26日 勝利 2R 0:34 TKO マノップ・シットゴーソン   タイ
26 2003年9月2日 勝利 5R 1:15 TKO ソントーン・チタラダ   タイ
27 2004年2月25日 勝利 2R 2:46 TKO 瓜生崇大 (輪島S)   日本
28 2004年6月6日 勝利 6R 2:33 負傷判定3-0 中野博 (畑中)   日本 日本フライ級タイトルマッチ
29 2004年10月11日 勝利 1R 0:24 TKO 小嶋武幸 (横浜さくら   日本 日本王座防衛1/日本タイトルマッチ史上最短KO記録
30 2005年4月11日 勝利 10R 判定3-0 榎本信行 (三迫)   日本 日本王座防衛2
31 2005年10月10日 敗北 7R 2:38 負傷判定0-3 ポンサクレック・ウォンジョンカム   タイ WBC世界フライ級タイトルマッチ
32 2006年2月13日 勝利 10R 判定2-1 中広大悟 (広島三栄)   日本 日本王座防衛3
33 2006年6月27日 勝利 6R 1:38 TKO 小松則幸エディタウンゼント   日本 日本・OPBF東洋太平洋フライ級王座統一戦
/日本王座防衛4
34 2006年12月10日 勝利 12R 判定3-0 吉山博司 (ヨシヤマ)   日本 OPBF防衛1
35 2007年7月18日 勝利 12R 判定3-0 ポンサクレック・ウォンジョンカム   タイ WBC世界フライ級タイトルマッチ
36 2007年10月11日 勝利 12R 判定3-0 亀田大毅 (協栄)   日本 WBC防衛1
37 2008年3月8日 引分 12R 判定1-1 ポンサクレック・ウォンジョンカム   タイ WBC防衛2
38 2008年7月30日 勝利 10R 0:57 KO 清水智信 (金子)   日本 WBC防衛3
39 2008年12月23日 勝利 11R 1:11 TKO 山口真吾 (渡嘉敷)   日本 WBC防衛4
40 2009年5月26日 勝利 12R 判定3-0 熊朝忠(ユウ・チョウチュウ)   中華人民共和国 WBC防衛5
41 2009年11月29日 敗北 12R 判定0-3 亀田興毅亀田   日本 WBC王座陥落
42 2010年5月9日 勝利 5R 2:12 KO リエンペット・ソー・ウィラポン   タイ
テンプレート

獲得タイトル・記録編集

  • 東日本フライ級新人王
  • 全日本フライ級新人王
  • 日本フライ級王座(防衛4=返上)
  • OPBF東洋太平洋フライ級王座(防衛1=返上、日本・東洋の現役2冠を達成)
  • WBC世界フライ級王座(防衛5=陥落)
受賞歴
各種記録
  • 世界フライ級タイトルマッチ史上最短KO記録(2002年4月19日、vs ポンサクレック・シンワンチャー、1R 0:34★)
  • 日本タイトルマッチ史上最短KO記録(2004年10月11日、vs 小嶋武幸、1R 0:24☆)[注釈 3]
  • 2008年 TBSテレビ年間視聴率トップ3[19](かっこ内は番組平均世帯視聴率)
    • 3月8日、ボクシングWBC世界フライ級タイトルマッチ・内藤大助×ポンサクレック(26.3)
    • 12月23日、ボクシングWBC世界フライ級タイトルマッチ・内藤大助×山口真吾(25.6)
    • 7月30日、ボクシング世界フライ級ダブルタイトルマッチ・内藤大助×清水智信 & 坂田健史×久高寛之(24.7)

プロボクサーとして編集

入場曲は、C-C-Bが1985年にリリースした『Romanticが止まらない[20]

リーチは175cmで、フライ級では長い部類に入る。ハードパンチャーでもあり、生涯KO率は7割近くに達した。ボクシングスタイルは変則的と称され、常に上体を大きく動かしながらパンチを繰り出し、反動を活かして追撃や回避、あるいはその両方を素早く行う。また、コンビネーションのリズムの変化や豊富なフェイントなども、対戦相手を困惑させる要因となっている。

パーリングやウィービング、あるいはスリッピングなどのパンチから逃げずにかわし即反撃に繋げる技術に秀でており、試合では相手のパンチに即座に反応してパーリングしつつ、ほぼ同時に反撃のパンチを入れるシーンを見せ、2008年12月23日の山口真吾戦では11R1分11秒でTKO勝ちを収めるまでに839発を記録(日刊スポーツ調べ)するなど、手数の多さにも定評があった[10]

好敵手・ポンサクレック編集

タイが誇る名ボクサー、ポンサクレック・ウォンジョンカムとは、4度に亘り対戦した。

第1戦編集

2002年4月19日、無敗で世界初挑戦。敵地タイで、ポンサックレックの持つWBC世界フライ級王座に挑んだ(ポンサクレックは5度目の防衛戦)。

敵地ゆえに判定決着では負けると判断した内藤は、初回から積極的に仕掛けるが、開始20秒付近で内藤が右アッパーを出した矢先、ポンサクレックが左フックを被せた。結果、強烈なカウンターとなり内藤はリング上で大の字になりながら失神し、世界フライ級タイトルマッチ史上最短となる34秒でのKO負けとなった。

第2戦編集

2005年10月10日、ポンサクレックに再挑戦した。ポンサクレックは防衛を重ね、この試合が12度目の防衛戦だった。

1Rは内藤がポンサクレックに対して積極的に攻撃を仕掛けたが、2Rの偶然のバッティングで内藤が出血し、ポンサクレックの攻勢から、7Rに試合がストップ。負傷判定で内藤の世界再挑戦は失敗した。

第3戦編集

2007年7月18日、三たびポンサクレックに挑戦した。ポンサクレックの王座防衛回数は、ミゲル・カントメキシコ)の「14」を上回る、フライ級史上最多の「17」にまで伸びていた。

第1戦・第2戦の反省を踏まえ、内藤は序盤から距離をとり、長いリーチと変則的なアウトボクシングで右ストレートと左フックで有効打を重ねていった。ポンサクレックも要所でコンビネーションブローを決め、試合は判定に縺れ込んだ結果、3・3・2差の3-0判定で内藤の勝利となり、32歳10か月にして悲願の世界チャンピオンとなった。

判定結果を聞いた内藤は、自分の右の頬をつねったり顔を叩くなどして「夢ではない」ことを確かめる素振りを見せていた。2007年度の年間最高試合に選出された。

第4戦編集

亀田大毅との初防衛戦を制した内藤は、WBCの規定により、2008年3月8日に前王者ポンサクレックと2度目の防衛戦を行った。

序盤から中盤に掛けては中々パンチが当たらない展開だったが、中盤以降にお互いのパンチが当たり出し、お互い最終ラウンドまで足が止まらないタフでアグレッシブな試合となった。

判定は1-1の三者三様で引き分けとなり、内藤が2度目の防衛に成功した。

亀田家との因縁編集

長男・興毅への対戦要求編集

事の発端は2005年1月、そのビッグマウスと派手なパフォーマンスで当時のボクシング界の話題をさらっていた亀田興毅が、週刊誌のインタビューの中で内藤を「弱い」と評し、これを受けた内藤が興毅に対戦を呼び掛けたことに始まる。しかし亀田陣営は、「誰やそれ? 興味無いわ」「6回戦レベル」などと歯牙にも掛けない態度を貫いていた[21][22]。内藤も負けじと、自身と容姿が似ている波田陽区の持ちネタである「ギター侍」に扮し、「結局逃げられて…残念! 亀田君、たまには日本人とやろうよ…斬り!!」というキャッチコピーを載せたポスターを作製するなどして、亀田陣営を挑発した[注釈 4]

内藤はポンサクレックへの3度目の挑戦を前に「世界王者になれたら亀田を挑戦者に指名する」と宣言した。試合後内藤は、「これで立場が逆になった。チャンピオンになったのだから、どっしりと構えますよ。あっちが(戦いたいと)言ってくるまで待つ」とコメントし、これを受け興毅も「いつでもやってやる」と挑戦者に名乗りを上げたが、初防衛戦の相手は興毅ではなく次男の大毅(当時WBCフライ級14位)に決定した[23]

次男・大毅との初防衛戦編集

マッチ契約前から当該興行は、亀田兄弟の所属する協栄ジムのプロモートが決定しており、協栄側は大毅に、世界王座獲得の日本人最年少記録を懸けさせたいと目論んでいたことから、内藤陣営に厳しい交渉期限を設けていた。そのため宮田ジムの宮田博行会長は、ポンサクレック陣営の持つオプションの買い取り交渉を1日で決めるために奔走した[24]

両者は舌戦を繰り広げ、亀田陣営が内藤をゴキブリ呼ばわりして挑発したが、内藤は「前に自分をゴキブリ呼ばわりしたけど、ゴキブリはしぶといよ。地球が滅亡しても生き残るんだからね。ゴキブリが1番強いことを証明しますよ」「亀田兄弟は何で日本人と戦わないのかと、みんなが思っている。ここで僕と戦わないと亀田の人気は下がるんじゃないの?」などと反撃し、大毅も「(取材記者から対策を聞かれ)ゴキブリに分析もクソもあるか。ゴキブリホイホイや」[25]「あいつ昔いじめられとったんやろ? 俺がリングでいじめたるよ。俺はいじめっ子や!」などと舌戦を繰り広げた。

試合は、序盤からガードを固めて突進する単調な試合運びだった大毅に対し、内藤がガードの上から有効打を浴びせるなど老獪な技術で最終ラウンドまで圧倒し、判定3-0で圧勝、初防衛となった。大毅は序盤からサミングローブローを出し、試合中のオープンスコアリングシステムで大毅不利が伝えられると、12Rではグローブの上からサミングを出し、更に内藤を抱えて投げ飛ばすなど様々な反則行為を行った。

これらを兄・興毅と父・史郎が指示していた事実も後に明らかになり、日本中からの批判に晒された。内藤は勝利者インタビューで「思った以上にやりにくかった。ただ、ポンサクレックより全然弱かったです」、「亀田に初黒星をつけて、国民の期待に少しは応えられたと思います」とコメントし、試合後の会見では「(腫れ上がった両眼周辺を指して)これは全部サミングです。試合中はずっと目ばかり狙ってきた」と怒りを露わにし、「ボクシングは喧嘩ではなくスポーツ。あっちが反省しないのなら、もう亀田兄弟とはやらない」と宣言した。

しかし、10月17日に亀田父子が会見で謝罪したのを受け、「ああいう態度の亀田父子を見るのは初めて。僕はもう終わったことだからと割り切っている。いがみ合って終わりになったので『お疲れさま』と讃え合いたい」と述べ、和解に前向きな姿勢を見せた。大毅は会見の翌日に内藤宅を訪問し直接謝罪し、史郎も電話にて謝罪をしたとのことで、内藤は「気持ちは伝わりました。この問題はこれで本当に終わりです」とコメントした[26]

興毅との対戦〜王座陥落へ編集

2008年7月30日に行われた3度目の防衛戦での内藤の勝利者インタビュー中に、突如亀田興毅がリングに上がり「次に試合をしよう」などとマイクパフォーマンスをした。興毅の行動に対し観客席からは歓声混じりの野次も飛び、試合を中継したTBSに視聴者からの抗議が寄せられたが、TBS側は「ハプニングで、設定ではない」としている[27]

2009年11月29日に興毅とWBCフライ級王座6度目の防衛戦を行った。序盤に興毅のカウンターで鼻を骨折し、その後アウトボクシングに徹した興毅の作戦が功を奏し、0-3の判定で敗れ王座防衛に失敗した。

敗戦後は引退も匂わせる発言もしていた内藤だったが、王座陥落から2か月後の2010年1月29日に宮田ジムで記者会見を行い、興毅との再戦を目指し現役続行を表明したものの、当の興毅は3階級制覇を目指していたこともあり、再戦には消極的であった[28]

興行権は内藤側が保持しており、興毅が初防衛戦となる指名試合を制した場合には再戦が可能だったものの[11]、興毅がポンサクレックに敗れ初防衛に失敗し、興毅が階級をバンタム級へ上げたことで対戦の可能性がほぼ無くなったことが、引退を決める要因の1つとなった[29]

人物編集

母親の教育方針は厳しく、「母親から一度も褒められたことがない」と話しており、当の母も「褒めて育てるのは趣味じゃない」とインタビューで答えている[30][4]。内藤は中学時代、いじめられていることを母に相談出来なかったが、母は「いじめられていたことを知っていれば黙っていなかった。ボクサーになった大助が祝勝会で話すのを聞くまで、まったく知らなかった。気づいてやれなかった自分の不甲斐なさに腹が立つ」と自責の念があるとしている[2]

内藤の収入が不安定だったにもかかわらず、夫人との結婚を許してくれた義理の両親を敬愛しており、テレビ朝日系列の人気番組『大改造!!劇的ビフォーアフター』を通じて店舗兼自宅のリフォームをプレゼントしている[31]。これが契機となり、「有名人の実家リフォーム相談スペシャル」がシリーズ化された。

2007年末、トレーニングの一環として大相撲宮城野部屋を訪れ、同部屋所属の第69代横綱白鵬と稽古を行った。翌年2月には、白鵬が宮田ジムを訪れ、内藤とサンドバッグ叩きやミット打ちなどを練習し、親交を深めている[32][33]。これが縁で、『関口宏の東京フレンドパークII』(TBS)で白鵬と共演している。

出演・作品編集

テレビ編集

単発出演の番組は除く。

ラジオ編集

  • 内藤大助ラジオパンチドランカー(TBSラジオ
    • Kakiiin内(2007年12月5日 - 2008年3月28日・同年10月1日 - 2009年3月18日、毎週水曜日) - 10月1日放送分より『グリグリ』から移動
    • グリグリ 〜goody goody〜内(2008年4月21日 - 2008年9月1日、毎週月曜日)

CM編集

CD編集

MV編集

  • 私たちの道 - One Hokkaido Project[36]

著書編集

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ ダウンを喫したのは対ポンサクレック戦の初戦KO負け以来、生涯で2度目。
  2. ^ 日本人ボクサーとしては辰吉丈一郎以来の快挙。
  3. ^ 全階級を通じての最短記録。
  4. ^ 2005年4月11日開催・日本フライ級タイトルマッチの対榎本信行戦のポスター。
  5. ^ レスキューフォース応援団長も務めた。
  6. ^ iTunes Storeなどでのオーディオブック(朗読)版のダウンロード販売もあり。

出典編集

  1. ^ a b “いじめと君 - 《いじめられている君へ》内藤大助さん”. 朝日新聞. (2012年7月13日). http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207130504.html 2013年8月19日閲覧。 
  2. ^ a b “プロボクサー・内藤大助のおかあ 道子さん:2「いじめを見返したいという意地」”. 朝日新聞 (asahi.com). (2010年12月14日). http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY201012130137.html 2013年8月19日閲覧。 
  3. ^ a b “プロボクサー・内藤大助のおかあ 道子さん:3「夢中になる気持ちわかった」”. 朝日新聞 (asahi.com). (2010年12月21日). http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY201012200164.html 2013年8月19日閲覧。 
  4. ^ a b 8時のGOOD STORY「内藤大助チャンピオンを支えた母の愛」”. 上柳昌彦のお早うGoodDay!(ニッポン放送) (2007年10月19日). 2013年8月25日閲覧。
  5. ^ 田口潤 (2008年1月19日). “内藤マシントレ解禁! 肉体改造スピード増”. 日刊スポーツ. http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20080119-309045.html 2012年9月18日閲覧。 
  6. ^ —内藤語録”. 日刊スポーツ. 2011年3月9日閲覧。
  7. ^ ドンキホーテ 応援' ファンの皆さまへ (PDF)”. ドン・キホーテ. 2011年3月9日閲覧。
  8. ^ —WBC世界フライ級タイトルマッチ— ポンサクレック vs 内藤大助”. TOKYO MX. 2011年3月9日閲覧。
  9. ^ “内藤奇跡!王座奪取”. 日刊スポーツ. (2007年7月18日). オリジナルの2007年9月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070916085117/http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20070718-229142.html 2011年2月13日閲覧。 
  10. ^ a b 2008年12月24日付日刊スポーツ紙面
  11. ^ a b “内藤大助 現役続行を表明「もう一度やって負けたら…」”. スポーツニッポン. (2010年1月29日). オリジナルの2010年2月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100201055346/http://www.sponichi.co.jp/battle/flash/KFullFlash20100129061.html 2011年2月28日閲覧。 
  12. ^ 落合一郎 (2011年8月30日). “プロボクシング元世界王者・内藤大助が“定年退職”も…”. リアルライブ. 2012年9月17日閲覧。
  13. ^ “内藤氏引退パーティーに「古巣」600人”. 日刊スポーツ. (2012年1月12日). http://nikkansports.co.jp/battle/news/f-bt-tp0-20120112-888686.html 
  14. ^ “千原ジュニア、ボクシング番組で初MC”. デイリースポーツ. (2012年5月29日). http://www.daily.co.jp/gossip/article/2012/05/29/0005092675.shtml 
  15. ^ 内藤大助、昼ドラ初出演で土下座披露「今度はラブシーンをやりたい!」”. ORICON STYLE (2013年2月23日). 2013年8月19日閲覧。
  16. ^ a b 北海道の歌、参加歌手|One Hokkaido project”. one-hokkaido.jp. 2020年7月11日閲覧。
  17. ^ “元ボクサー・内藤大助さん、トラックと接触 肋骨折る重傷”. TBS NEWS (TBSテレビ). (2019年10月11日). https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3801243.html 2019年10月12日閲覧。 
  18. ^ “長谷川が2年連続MVP 最高試合は西岡×ゴンサレス戦”. ボクシングニュース「Box-on!」. (2010年1月6日). https://boxingnewsboxon.blogspot.com/2010/01/blog-post_06.html 2011年2月28日閲覧。 
  19. ^ 2008年 年間高世帯視聴率番組30(関東地区)”. ビデオリサーチ. 2011年2月13日閲覧。
  20. ^ C-C-B、18年ぶりの再結成「内藤選手のおかげです」”. ORICON STYLE (2008年4月28日). 2013年8月19日閲覧。
  21. ^ “因縁勃発!(05年1月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road01.html 2011年2月28日閲覧。 
  22. ^ “内藤陣営が挑発も亀田家「6回戦レベル」と逆襲(05年10月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road03.html 2011年2月28日閲覧。 
  23. ^ “内藤が王座奪取!反撃開始(07年7月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road04.html 2011年2月28日閲覧。 
  24. ^ “「大毅vs内藤」へ宮田ジム会長が悲壮決意”. 日刊スポーツ. (2007年8月11日). オリジナルの2007年10月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071014002836/http://www.nikkansports.com/battle/kameda/p-bt-tp1-20070811-239959.html 2012年9月17日閲覧。 
  25. ^ “新キーワード「ゴキブリ」(07年7〜8月)”. 日刊スポーツ. オリジナルの2008年1月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080111145051/http://hokkaido.nikkansports.com:80/news/naito/road/road05.html 2011年2月28日閲覧。 
  26. ^ “大毅との試合後も因縁が続き…最終章へ(07年10月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road08.html 2011年2月28日閲覧。 
  27. ^ “亀田興毅登場に視聴者抗議 内藤世界戦中継のTBSに”. 47NEWS. (2008年7月30日). http://www.47news.jp/CN/200807/CN2008073001000925.html 2011年2月28日閲覧。 
  28. ^ “興毅、内藤との再戦に否定的「興味ない」”. デイリースポーツ. (2010年1月29日). オリジナルの2010年2月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100205223658/http://www.daily.co.jp/ring/kameda/2010/01/30/0002676849.shtml 2011年2月28日閲覧。 
  29. ^ “内藤大助氏 5度防衛は“宿敵”亀田兄弟のおかげ”. スポーツニッポン. http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2011/11/14/kiji/K20111114002026490.html 2012年6月28日閲覧。 
  30. ^ “プロボクサー・内藤大助のおかあ 道子さん:4「ほめそやすのは趣味じゃない」”. 朝日新聞 (asahi.com). (2010年12月28日). http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY201012270174.html 2013年8月25日閲覧。 
  31. ^ カニ歩きで入る家”. 大改造!!劇的ビフォーアフター SEASONII(朝日放送) (2009年10月11日). 2013年8月25日閲覧。
  32. ^ “横綱白鵬がボクシング内藤と異種合同練習”. 日刊スポーツ (nikkansports.com). (2008年2月15日). http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20080215-321874.html 2013年8月19日閲覧。 
  33. ^ “白鵬 内藤をミット打ちで“強打””. スポーツニッポン (Sponichi Annex). (2008年2月16日). http://www.sponichi.co.jp/sports/special/2008sumouharu/KFullNormal20080216037.html 2013年8月19日閲覧。 
  34. ^ 内藤大助に気づいた?「長谷工コーポレーション」CMが話題!”. サンスポ・コム. 2017年5月10日閲覧。
  35. ^ 内藤大助さん「住優師」に復活!“古巣”長谷工グループ新CM出演”. サンスポ・コム. 2017年5月10日閲覧。
  36. ^ YouTube”. www.youtube.com. 2020年7月11日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集

前王者
中野博
第49代日本フライ級王者

2004年6月6日 - 2007年4月25日(返上)

空位
次タイトル獲得者
吉田拳畤
前王者
小松則幸
第35代OPBF東洋太平洋フライ級王者

2006年6月27日 - 2007年1月20日(返上)

空位
次タイトル獲得者
ジョジョ・バルドン
前王者
ポンサクレック・ウォンジョンカム
WBC世界フライ級王者

2007年7月18日 - 2009年11月29日

次王者
亀田興毅