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丸山車輌製単端式気動車の例(鹿島軌道ジ3)
日本車輌製造本店製単端式気動車の例(三重鉄道シハ31[1]

単端式気動車(たんたんしききどうしゃ)とは、気動車の一種で、運転台方向への運転を原則とする片運転台車である。そのため逆転機を搭載しない車両が多い。「軌道自動車」、「自動機客車」、あるいは「自働(動)客車」などと呼称された初期のガソリンカーは多くがこの形態である。

なお、「単端式」という名称は日本車輌製造造語[2]とも英語の「Single ended」の[3]ともいわれる。

目次

概要編集

T型フォードの大量生産の成功により自動車の一般普及が本格化した1910年代以降、機関を含む自動車の動力伝達機構を鉄道車両に応用する動きが欧米で急速に進んだ[4]

1920年代には日本にもこの動きが伝播し、自動車用などの小型内燃機関を搭載した小型気動車が、「町工場」規模の小メーカーによって製造されるようになった [5]

初期の内燃動車はいわば「線路を走る自動車」を念頭に開発されたこともあり、T型フォードやフォードソン・トラクター[6]といった輸入自動車・トラクターのエンジン・駆動系を流用し、鉄道用の車体に取り付けた、文字通り「軌道自動車」と呼ぶべき物が多かった。

当時日本においては自動車工業は未発達であり、エンジンや駆動系の変速・逆転機構など主要部品を自社で開発・供給できる専業メーカーも、日本国内には存在しなかった。 もとより、零細車両メーカー自体にも、走行機器類を全て内製するだけの技術的な蓄積がなかった。

このような事情から、日本における黎明期の原始的な気動車群は、一般に専用の逆転機を持たず、機関からクラッチ変速機を経て車軸へ動力を伝達する、自動車に準じた構成とされた。走行特性が前進時と後進時で異なるため、運転台も一方の車端部にのみ設置し、同じ一端寄りに機関を装架した[7]水冷エンジンの冷却系もそのまま流用されたため、車体前面にラジエータが設置された。このように、一方向への走行に特化し「一の車に運転台と機関を備える」気動車が「単端式気動車」である。

この種の気動車は逆転機を必要としないため動力伝達機構を単純化出来る一方、運用に当たって終端駅での方向転換が必要であり、折り返し各駅についてデルタ線ループ線、あるいは転車台といった転向設備が設置されていた。そのため、単端式気動車で新規開業する鉄軌道会社向けにメーカー各社は車両と共に転車台も販売した。もっとも、導入各社は蒸気動力で開業し、機関車を方向転換させる施設を備えていた事業者が大半であった[8]ため、この構造も当然の仕様として受け入れられていた。欧米においては、単端式気動車を背中合わせに連結して方向転換を避ける運転方法[9]も用いられた。

実用例編集

日本編集

1920年代中期以降、旅客輸送量の少ない地方鉄軌道において、製造コストが廉価で燃費も安い車両として導入が進んだ。

当時は乗り合いバスが鉄道の競合相手として台頭しつつあり、瀬戸内地方ではこの種の気動車の導入で先陣を切った井笠鉄道の成功[10]に影響されて、車掌省略運転[11]高頻度運転[12]による経費削減とサービス向上を目的に導入された例が多い。

車両の製造は、自動鉄道工業所(→日本鉄道事業)の「自動機客車」が先鞭を付けた後、より大型の丸山車輌製「自働(動)客車」が普及した。続いて大手車両メーカーの一角を形成する日本車輌製造が台頭する。日本車輌製造は1927年製造の井笠鉄道ジ1形を皮切りに21人から30人乗りの小型単端式気動車を量産、大手ならではの完成度の高い洗練された設計で先行メーカーを圧倒する車輛数を製造した。

  • 自動鉄道工業所→日本鉄道事業
    日本全国にガソリン機関車とガソリンカーによる「自動鉄道」の普及を図った矢沼商店自動鉄道部[13]を起源とするが、日本鉄道事業を社名とするまで短期間に幾度も社名変更をしている[14]
    矢沼商店時代に自動車改造の気動車を製作し鉄軌道事業者に宣伝したが採用は無く、代わって製造されたのが単端式としても日本の内燃動車としても営業運転第一号となった「自動機客車」シリーズである。その構造・形態は側梁を曲げて端梁とする森林鉄道の運材車のような形状の台枠の車端にエンジンを搭載し、キャブオーバー形に二重屋根の木製車体を装架したもので、後端に出入り口をオープンデッキ式に設置している。
    好間軌道に納入された第1号車は、歯車式変速機を用いた一般的な構造であるが、軸受にコロ軸受(ローラーベアリング)を使用し、チェーンによる2軸(全軸)駆動を採用している点は注目される。続いて量産された車輛では1軸駆動化、変速機を歯車式からフリクション式に変更するなど構造の簡略化が図られた一方、エアーブレーキ装備車も製造するなど、先進的な設計技術をもっていたメーカーである。また重量過大を嫌ってか、超小型車体に徹して一定の性能を確保するよう努めていた形跡が見られる。しかし、その後の技術的な進歩は無く、車両も第1号車と大同小異な物に止まり、以後の発展は無かった。搭載エンジンは不詳のものも多いが、判明している限りではブダが多く、当時自動車用に大量生産され、気動車にも多用されたフォードの使用例がないのは特異である。
  • 丸山車輌
    1926年の第一作の鹿島軌道納入車は日本鉄道事業の自動機客車と似た形状・大きさの車両であった。以後、鉄軌道事業者の需要に応じ車両の大型化を進め後期の車両では40人乗りの車両を製造している。台枠は鋼材に一部木材併用で、車体は木造・丸屋根式だったが、後に木造鋼板張りとなった。機関部はキャブオーバーか短いボンネットで半分程度車体外に突き出していた。
    1926年の1年間に10両を超える販売実績は当時の需要の大きさを示すものであり、後続他社がガソリンカー製造へ参入する呼び水となった。使用エンジンは20HP級のフォードTを小型車、やや強力な26HP級のフォードソン・トラクターを大型車にそれぞれに標準的に使用している。丸山車輛は主力商品の気動車の製造総数40数両の内、3/4の30両以上が単端式という単端式を一枚看板とする会社であった[15]。そのため単端式気動車の需要が減少すると経営が悪化、1930年には倒産し会社整理となった。
  • 日本車輌製造
    1927年2月に竣工した井笠鉄道納入の第一号車以来、半鋼製車体を採用している点が先行他社との相違点である。以後瀬戸内東海地方の762mm軌間の軽便鉄軌道に大量に同系車を納入、1067mm軌間の地方私鉄や914mm軌間の軌道(鞍手軌道)、更には朝鮮総督府鉄道局向け、とその販路は幅広く展開されており、製造総数は50両以上を数えた。
    762mm・914mm軌間の鉄軌道に納入した車輛は曲線を多用した当時の乗合自動車(=バス)によく似たデザインで「乗合自動車(バス)型」と呼ばれる[16]。一方1067mm軌間向けの車両は対照的に第一号車を拡大したような直線的な箱型車体を採用している。どちらもエンジン部分をボンネットに納めて車体外部に配置しているのが特徴。搭載エンジンはフォード(特にT)が圧倒的で、その他のものは末期製造車に搭載例が見られるのみである。
    なお、「軌道自動車」の名称は日本車輛製造が初期(1930年頃まで)に気動車全般に使用した商品名であり、単端式ばかりでなく両運転台式の気動車も「軌道自動車」と呼ばれていた。

その他にも梅鉢鉄工場がまとまった両数を製造している。松井車輌雨宮製作所汽車製造加藤車輛製作所の各社も製造実績がある。

また単端式は比較的容易に製造可能なことから、鉄道会社が自ら既存客車を気動車へ改造する際などに採用される例も見られた。中でも角田軌道朝倉軌道などでは当局に対して改造認可申請を出さないまま気動車化を実施し、特に後者は当局からの照会へもまともに回答しないまま最大10両もの客車改造単端式気動車を揃えた[17]。この朝倉軌道の10両という数字は、非公認ながら日本の私鉄における単端式気動車保有数の最多記録と見られている[18]

この種の気動車の特徴的な点として、日本車輌製造製の例[19]に見られるように非力な機関出力を有効活用するために、耐久性よりも軽量化を優先した車体構造のものが多かったことがあげられる。このような構造は、車輛寿命の面でマイナスにはなったが、鋼製車と木製車の車輛寿命の違い程顕著には現れていない[20]

単端式気動車は、1920年代後期に日本で隆盛を極めた。そのため製造両数もこの時期のものが多いが、1930年代以降に逆転機をそなえた両運転台式気動車が普及した時期でも軽便鉄軌道向けに需要があった。戦前期の製造は南筑軌道の自社製車両2両[21]をもって終了した。メーカー製の車両では1935年3月に竣工した十勝鉄道キハ1(浅野物産納入・斎藤工業所製造)と同年2月竣工の安濃鉄道カ10(日本車輌製造本店製)が最終である。なお、1938年以降は燃料統制により気動車の製造自体が事実上禁止[22]されている。

この種の小型気動車は、購入した鉄道会社が小規模な零細企業であることが多く、戦前の段階でバスの普及などにより、路線そのものが廃線に追い込まれたケースが過半を占めた。また、戦中・戦後の混乱期にはエンジンを下ろして客車化される例が多くなり、その数は減少した。このため、第二次世界大戦まで動力車として残存した例は、以下の各社に限られる[23]


  • 鞆鉄道
    日本車輛製造製単端式気動車の量産第1号であったキハ1を使用していたが、戦後、前述の下津井鉄道が電化した際に、同社から不要となったカハ4を譲り受け、無許可で老朽化したキハ1と振り替え、三菱重工業三原製作所で機関換装を実施の上で使用したと見られている[24][25]1954年の路線廃止で廃車され、そのまま解体された。
  • 井笠鉄道
    戦前には上述のジ1形1・2を筆頭に下津井鉄道三蟠鉄道からの譲受車を含めのべ8両の日本車輌製造製「軌道自動車」を導入したが、ホジ7[26]・ホジ1・ホジ100形とより大型で強力な機関を搭載するディーゼルカーが導入された戦後は、その小型さゆえに機関を下ろして客車化される例が多く、気動車としては支線廃止前の1965年まで日車標準型のジ6・10の2両のみが残された。ただし、この2両は客貨車牽引を可能とすべく機関換装・台車強化・車体延伸とキャブオーバー化が行われ、原形を留めぬまでに改造されていた。
  • 西大寺鉄道(現、両備ホールディングス
    1962年の路線廃止までキハ1 - 5・8・10の7両を日常的に使用。キハ1 - 5はボギー客車の牽引を前提に後端に貫通路を設けた構造の梅鉢鉄工場製2軸車、キハ8・10の2両は、不調で客車化されていた梅鉢鉄工場製2軸ボギー車のキハ100を戦後になって自社工場で2分割改造した2軸車であった。路線廃止後キハ3が旧西大寺市駅構内に保存されていたが、後に解体された。
  • 三重交通
    日本車輌製造製の標準型「乗合自動車(バス)型」の前輪ボギー車であるナ111 - 114・121・122の6両を使用したが、1948年の全線電化完成で全車廃車となった。
  • 頸城鉄道(現、頸城自動車
    丸山車輌製木造車であるジ1・2の2両が機関換装・客用扉拡幅等の改造を行いつつ長く使用されたが、1956年(ジ2)[27]・1961年(ジ1)に相次いで廃車され淘汰された。
  • 九十九里鉄道
    1961年の路線廃止まで丸山車輌製の木造車キハ102・103・104の3両[28]を日常的に使用。フォードソン・トラクターの密閉型ハウジングに収められていた変速機部分を組み替えて減速比を変更した、丸山独特の駆動系を備えていたが、これは戦後の機関換装時に改修された。短命なものが多かった丸山車輌製単端式気動車では頸城のジ1と共に最後の現役車両であった。様々な事情から、1970年代まで東金駅構内で放置されていたが、最終的に同地の公園整備時にいずれも解体されて姿を消している。
  • 日本硫黄沼尻鉄道→磐梯急行電鉄
    雨宮製作所製のガソ101が在籍。元来は機関を車端部に搭載した両運転台式として製造された車両を、戦後自社工場で自動車用ガソリンエンジンへの機関換装と駆動装置の変更をおこなった際に片側の運転台と逆転機を撤去して、単端式へ改造したものである。これは沼尻鉄道が終点駅である沼尻にデルタ線を備え、起点である川桁と中間の主要駅である会津樋ノ口の2駅に転車台が完備され、方向転換について特に不便を感じなかった[29]という事情ゆえのものであった[30]。当初より予備車的な位置づけで、特に最終期には仙北鉄道より導入されたキハ2401・2402の2両の両運転台ボギー式気動車の運行開始により稼働の機会は激減していたが、一般的な意味での単端式気動車としては日本最後の現役車両として、1968年の会社倒産に伴う路線休止→翌年の全線廃止まで在籍した。
  • 十勝鉄道
    床下エンジン車ながら単端式の特異車キハ1が残存していたが、後に両運転台車に改造された。単端式から両運転台式への改造例は希少である。
  • 根室拓殖鉄道
    1959年の路線廃止までキハ1 - 3の3両を使用。キハ1(「ちどり」)は1931年日本車輌製造東京支店製(当初はジ3もしくはジ6)。キハ2(「かもめ」)とキ1→キハ3(「銀龍」)は1949年田井自動車工業製で、キハ3は前代未聞の貨物用代燃装置搭載気動車キ1として製造された。その後荷台部に木製の客室を追設して旅客用気動車化され、ギャロッピンググースに似た外観になった[31]ことから愛好者らに「和製グース」というあだ名で呼ばれた。3輛には形式名のほかに「ちどり」、「かもめ」、「銀龍」という固有名が付けられている。


戦後に単端式気動車を新規保有した地方私鉄には、上記の根室拓殖鉄道、西大寺鉄道の他、大水害の被害で窮地に追い込まれた山鹿温泉鉄道[32]がある。山鹿温泉鉄道の車輛は大阪市交通局払い下げのGMCウェポンキャリア(軍用トラック)流用バス2両を1955年に改造して製作したものである[33]

一方、1950年代中盤から1960年代にかけて、北海道開発局が道内に存在した簡易軌道向けに道内メーカーに製造させた「自走客車」では、担当者のメカニズムに対する不理解などから、単端式で製造されたものが計3両存在した[34]。これは1941年鶴居村営軌道雪裡・幌呂線用として就役した、ボンネットバスを改造した単端式気動車2両[35]1949年に道内で製造された根室拓殖鉄道の2両の気動車が担当者の念頭にあったためとされる。しかし取扱いが不便であるためか、以後16両が製造された自走客車はいずれも逆転機付きの両運転台車となり、後期には液体変速機の導入も行われている。結果的に1958年製の歌登村営軌道向け2軸自走客車[36]が日本で製造された最後の旅客用単端式気動車となった。

営業用以外の事例では、従業員輸送用として豊羽鉱山専用鉄道[37]と常磐炭砿(現・常磐興産)が戦後新規に単端式気動車を保有している。どちらも改造車であった。

営業用の単端式気動車は日本においては1960年代末までには姿を消したが、2008年現在JR北海道試験運転中デュアル・モード・ビークル(DMV)を、鉄道車両として見るならば、単端式気動車の一種ということになる。

また、保線用のモーターカーの中には単端式気動車のような運行形態をとるものもある。これらの方向転換には場所を選べないため、搭載したジャッキを支点に車体を転回させる方法が一般的である。

アメリカ大陸編集

アメリカ合衆国
 
ギャロッピンググース
いくつもの鉄道で単端式気動車の採用例があるが、ロッキー山中に路線網を展開していた3フィート(914mm)軌間リオ・グランデ・サザン鉄道 (RIO GRANDE SOURTHERN) が郵便・物資輸送・軌道保守などの事業用、および旅客用車両としてギャロッピンググースと呼ばれる自動車を線路の上に載せたようなレールトラック形や自動車と貨車を繋ぎあわせたような形の単端式気動車を1930年代に製造し、1951年の路線廃止まで使用した例が有名である。
エクアドル
「アウトフェロー」とよばれるバス改造の単端式気動車が現在も使用されている。

関連項目編集

脚注編集

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  1. ^ 森信勝『静岡県鉄道興亡史』 (静岡新聞社、1997年)p.224や岡本憲之『全国軽便鉄道 失われたナローゲージ物語300選』(JTB、1999年)p.103には西遠鉄道車両とあるが、湯口徹『内燃動車発達史 上巻』(ネコ・パブリッシング、2004年)p.150によれば三重鉄道シハ31の写真とある。また『日車式瓦斯倫機動車 昭和六年』(日本車輌製造株式会社、1931年)掲載の「日車式瓦斯倫機動車供給一覧表」(pp.1 - 4)において日本車輌製造から「西遠鉄道」への供給実績は掲載されておらず(ただし同社が運行を委託していた遠州電気鉄道向け2フィート6インチ軌間・前輪ボギー式単端式気動車8両の納入実績は存在する)、更に当該車両の前部台車の軸受が日車製軌道自動車では例外的な平軸受であること、形式番号として「シハ31」が読み取れること、社紋の形状が三重軌道のそれに酷似することなどから、これは三重軌道シハ31のメーカー写真である可能性が高い。
  2. ^ 岡本憲之『全国軽便鉄道 失われたナローゲージ物語300選』 JTB、1999年、p.86
  3. ^ 湯口徹 『内燃動車発達史  下巻』 ネコ・パブリッシング、2005年、p.203
  4. ^ アメリカ合衆国では1910年代の後半には早くも、いくつかのメーカーにより内燃動車が量産され、大きいものでは100人乗りの車輛も登場している。またアメリカやイギリスなどでは内燃動力化を可能な限り廉価かつ簡単に実現する手段として、フォードソン・トラクターのパワートレインを機関車台枠に搭載する、あるいはトラクターのタイヤ車輪に交換する、といった手法による「機関車」が製造販売されていた。
  5. ^ 1921年開業の好間軌道で、1920年10月自動鉄道工業所製車両が使用されたのを嚆矢とする。
  6. ^ 『自動車ハンドブツク. 1934年版 乗用自動車之部』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  7. ^ 車端の機関部はボンネットに収められ車体の前方に突き出すか、キャブオーバー形に車体下に収められた。全長が同じならキャブオーバー形の方がボンネット形よりも客室内スペースが広く取れるが、エンジンの高さによってはエンジンカバーというデッドスペースが室内に生ずる。
  8. ^ このため、逆に発注する気動車の軸距を、既設転車台の寸法に合わせて指定するケースも何社かで見られた。
  9. ^ 進行方向側の車両が後続車両を牽引する形態となる。目的は異なるが日本でも九十九里鉄道が設備や装備の問題から、ラッシュ時に似た方法で列車運行をしていた記録がある。
  10. ^ 当時の井笠鉄道本社には日本全国の地方私鉄からの見学者が押し寄せ、対応に追われた同社は謄写版印刷でこの画期的な「軌道自動車」の使用実績を記したパンフレットを作成、見学者に配布するほどであった。
  11. ^ ワンマン運転の原型であるが、その導入は車両のサイズが小さすぎて(定員18人)、車掌の乗務による定員減が無視できなかったことによる部分も大きかった。
  12. ^ 例えば井笠鉄道では、本線である井原 - 笠岡間で開業時には1日9往復の旅客列車が運行されていたが、単端式気動車の全盛期である1936年頃には早朝午前4時30分笠岡発の始発便から午後10時16分井原着の最終便まで1日20往復の定期列車が運行されており、支線である北川 - 矢掛間井原 - 高屋間についてもほぼ同程度の本数の列車が本線と連絡あるいは直通で運行されるなど、気動車導入とこれに伴う運行頻度増大による利便性向上の効果は絶大であった。この高頻度運転は井笠鉄道の競争力を高め、ついには、気動車導入のきっかけとなった井原 - 笠岡間を併走するバス事業者が同社への合併を申し出るほどの成功を収めた。
  13. ^ 『官報』1919年11月22日(国立国会図書館デジタル化資料)矢沼商店の広告
  14. ^ 矢沼商店(自動鉄道部)→1919年 自動鉄道工業所→(自動鉄道工業株式会社設立事務所)→1920年 鉄道自動車工業→1921年 日本鉄道事業
  15. ^ これは同社の機械技術力がさほど高くなかったためで、少数にとどまった両運転台車のほとんども「双頭車」(1両の車両に単端式の駆動メカニズムを背中合わせに前後に取り付けたような形態で、2台あるエンジンの進行方向側のエンジンで走行する単端式の亜流車)とその改良型であり、逆転機を持つ一般的な両運転台車は3両しか製造されなかった。
  16. ^ 似ているとはいえ、バスからの改造車や当時のバスと同一仕様車ではなく、設計は鉄道車両用の日本車輌製造独自のものである。
  17. ^ 同社は最終的に5年がかりで、それも最終的には並行省線開業に伴う補償金請求の必要性故に、監督官庁たる鉄道省から設計認可を得たが、それすら公式には8両分しか得ておらず、しかも申請図面と窓の数が違う程度の相違はざらで、木造のまま流線形としてしまった車両もあるなど、申請書類と現車の間には著しい乖離が見られた。
  18. ^ 湯口徹「朝倉軌道気動車探求記-ある軌道の1930年代(前編)」、『鉄道ピクトリアル』1997年9月号(通巻642号)、電気車研究会、pp.66-72
  19. ^ 日本車輌製造製単端式気動車の第1作である井笠鉄道ジ1形では、軽量化を徹底するため形鋼プレス成形部品を多用したほか、重いガラスの使用を避けてを薄手のセルロイド製とすることさえ試みられている。ただし、このセルロイド窓は可燃性で経年劣化で白濁する問題もあり、以降の本格生産型は通常のガラス窓になった。
  20. ^ 中でも木造車体で台枠の一部にも木材を使用した丸山車輌製車両は短命で、購入後数年で車両の大掛かりな修繕を行なった例が少なくなかった。なかには車体を別のメーカーで作り直すことを強いられた事業者もある。なお、日本車輌製造製単端式気動車で車両として最も長命であったのは、下津井鉄道1928年に導入したカハ1・3を1950年電化時に自社下津井工場でボンネットを撤去の上で背中合わせに接合して電車用2軸ボギー式制御車に大改造したクハ9で、これは1972年茶屋町 - 児島間部分廃止時まで使用された。
  21. ^ 書類上の竣工は1938年だが実際には1936年頃からの使用と推定されている。
  22. ^ 但し実際には以降も1941年まで16輌の気動車が製造されている。
  23. ^ ただし、国鉄赤穂線開業を睨んで設備投資ができなかった西大寺、他に動力車がなかった九十九里と根室拓殖のものを別にすれば、これらは既に各社の主力車の座から離れていた。
  24. ^ 旧下津井カハ4は三菱重工業三原製作所の構内に置かれていた姿を同社が同時期に制作した英文カタログに掲載の写真で確認されている。
  25. ^ 湯口徹「内燃動車発達史・日本の蒸気動車追記」、『NEKO MOOK 1257 トワイライトゾーン・マニュアル16』、ネコ・パブリッシング、2009年、pp.213-215
  26. ^ 戦前に梅鉢鉄工場で製造された両運転台付2軸ボギー式ガソリンカーの改造車。戦時中に一旦客車化されていたが、戦後宇都宮車両で台車を新製し、ディーゼルエンジンを装架してディーゼルカー化された。
  27. ^ 車輌解体は1959年頃。
  28. ^ 新造時は101 - 104の4両であったが、途中で車庫火災により101が廃車され、その代替用として雨宮製作所で半鋼製の201がやはり単端式として製造されたが、これはエンジンが異なっていて部品貯蔵や保守等に不便であったためか、戦後1950年代にエンジンを降ろして客車代用となった。なお製造当初の図面では形式称号が「キハ」ではなく、会社名と製造メーカーによる「クマ」「クア」(クジュウクリ-マルヤマ・アメミヤの略)であった模様であるが、詳細は不明である。
  29. ^ 同鉄道では蒸気機関車時代からその休止に至るまで、機関車の向きを常に正位に転向して使用していた。
  30. ^ 両運転台車が単端式に改造されるのは特異な例で、戦後沼尻鉄道を訪れてこの車両の存在を知った鉄道ファンが、改造後も残されていた後部の運転台跡のスペースや、やはり後部妻面に取り付けられていた前照灯を実見していたにもかかわらず、「当初から単端式であったもの」と誤解し趣味誌に報告する事例が少なからず見られた。
  31. ^ 湯口徹『戦後生まれの私鉄機械式気動車 上』 ネコ・パブリッシング、2006年、p.6
  32. ^ 同社は戦前にも丸山製単端式気動車を2両保有していた。
  33. ^ 形式はキハ101・102とした。転車台やデルタ線を用意できない山鹿温泉鉄道の経済状況から、この2両は車体中央にジャッキを搭載し、これを支点に車体後部左右二箇所に用意された昇降式補助輪を各方向転換駅に作られた半周分の補助輪走行用の「転向路」に接地させて三点支持で車体を転向するという、現在の保線モーターカー伊予鉄道坊っちゃん列車に似た転向機構を備えていた。
  34. ^ 1956年に歌登村営軌道に導入された運輸工業製試作車1両および鶴居村営軌道へ導入された泰和車輛工業製試作車1両、1958年に歌登村営軌道が実験的に導入した運輸工業製2軸自走客車の合計3両が単端式として新造された。つまり、簡易軌道においては改造・新造合わせて6両の単端式気動車が使用されたことになる。
  35. ^ 1950年にさらに1両が改造されて合計3両となった
  36. ^ 定員8名の超小型車で、適当なエンジンがなく排気量わずか860ccに過ぎない日産・ダットサンのエンジンを搭載したため甚だしい出力不足となるなど、不具合が多くほとんど使用されずに終わったという。
  37. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)