末次信正

日本の軍人、政治家
漸減邀撃作戦から転送)

末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年明治13年)6月30日[注 1] - 1944年昭和19年)12月29日)は、日本海軍軍人政治家。最終階級は海軍大将従二位勲一等第1次近衛内閣内務大臣坊ノ岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。

末次すえつぐ 信正のぶまさ
連合艦隊司令長官・末次信正(1933年)
生誕 1880年6月30日
日本の旗 日本山口県
死没 (1944-12-29) 1944年12月29日(64歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1899年 - 1937年
最終階級 海軍大将
除隊後 内閣参議
第50代内務大臣
大政翼賛会中央協力会議議長
議定官[1]
墓所 多磨霊園
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生涯 編集

徳山藩士・末次操九郎の次男として山口県に生まれる。広島一中から海軍兵学校27期)に進み、114名中50番で卒業した。卒業席次は平凡であったが、日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。

1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。上官は黙殺したが、当時世界最高の海軍国であったイギリスが同様の思考で超弩級戦艦オライオン」を建造したことで、末次の見識が認められた[2][3]

1914年大正3年)に渡英。従軍武官として戦艦「アガメムノン」や巡洋戦艦「クイーン・メリー」に乗艦して第一次世界大戦の現場に臨み、ユトランド沖海戦についての報告書を作成している。

特に戦艦の変容と潜水艦の活用に関心を持ち、在英中に作成した「対米戦略論」では、潜水艇によるパナマ運河及びハワイの閉塞作戦に始まり、西太平洋での迎撃を想定した五段階の漸減戦略を構想している[3]

軍令部作戦課長・作戦部長 編集

1919年(大正8年)の軍令部第一課長(作戦課長)となる。

1922年(大正11年)のワシントン軍縮会議では次席随員を務める。条約案に反対し、首席随員である加藤寛治と共に全権・加藤友三郎に抵抗したが、条約は締結された。

12月1日、慣例では少将が補職される軍令部第一班長(作戦部長)に大佐で就任した[注 2]。 日本海軍の作戦指導書海戦要務令の作成に携わって対米作戦の改善を進め、対米作戦の完成者[5]との評価もある。 後に、軍縮条約の影響による索敵・漸減・決戦構想について根本的な疑問を示し、高木惣吉は末次の研究の深さに感銘を受けている[6]。また海軍艦艇は重武装のため友鶴事件を引き起こしているが、末次は事前にこの重武装を戒める警告を発していた[6]

潜水戦隊司令官 編集

 
初代艦隊用潜水艦「海大I型」

日本の潜水艦は佐久間勉の殉職などを生みながら、未だ草創期にあったが、末次は漸減戦略の要となる潜水艦の強化を図り、1923年(大正12年)には自ら第一潜水戦隊司令官となり輪型陣突破の猛訓練を実施した。

同時に潜水艦の性能向上に努め、艦隊運動に策応できる長距離航海可能かつ高速性を備えた艦隊用潜水艦が開発された[7]。演習で末次指揮下の潜水艦3隻が戦艦2隻を撃沈するなどの実績もあがり、六割海軍である日本海軍は米国艦隊との対決に成算を得ることができ[3]、末次の声価は高まった。

ロンドン海軍軍縮会議 編集

1929年(昭和4年)、軍令部次長に進んでいた末次はロンドン海軍軍縮会議を迎えることとなる。なお当時の対米作戦計画の概要は次のようになっていた[注 3]

対米作戦計画
当時わが海軍の対米作戦の要領は、開戦后速やかにガム島と比島を占領し、続いて石油その他の資源地域を確保し、一方米艦隊に対して、その渡洋来攻の途次を捕へ、主として潜水艦を使用してこれが漸減をはかり、わが近海にこれを邀へ、わが海軍力を結集して一挙に決戦を敢行してこれを撃滅するといふ方針であった。而して先ずこれが前提として、太平洋上広範囲に亘り、潜水艦及び小艦艇による索敵網を展開し、敵発見後は追尾触接を続ける必要があった。潜水艦に対する自主的要望量十万屯(ママ)としたのは、この計算から割り出したのであった。 — 草鹿龍之介著『一海軍士官の半生記』より引用

艦隊派の理論的背景 編集

末次らが「対英米7割論」を唱え、軍縮条約に三大原則を主張した点については理論的根拠があった。海上での戦闘行動が行われた場合、彼我の勢力比は静止状態の勢力の自乗(2乗)に正比例するというものである。

つまり、米国10対日本7の勢力比は、戦闘行動中は100対49(ほぼ2対1)となり、この比率であれば戦術的工夫で艦隊決戦の勝利を望み得る、というものである。これには7割未満の艦隊は敗北するという戦史上の裏づけもあった[9]

なお、7割論を戦史研究から導き出したのは秋山真之である[3]。この理論を基礎とした七割論は説得力があり、対米十割でも米国との戦争はできないと主張していた石橋湛山なども条件付ながら認めていた[10]

同じ理由により、もし同一条件で10隻対7隻が戦闘した場合の残存艦は7隻対0隻となる。 こうした数字の現実が、末次を対米戦術に腐心させ、月月火水木金金と謳われた猛訓練を生んでいるのである。一方海軍部内には同じ理由で対米戦、まして対英米戦は不可能と考える将官たちも少なからずいた。

なお日露戦争以降、米国側でも日本を仮想敵国とした戦争計画が策定されており、同様に「日本側にとって70%の優位性は攻撃の成功にあたり必須であるだろう」と考えている。

会議の経過 編集

海軍は、上記の作戦計画から次の三大原則をもって臨んだ。優先事項は順位の通りである[11]。なお、ここで言う補助艦とは「主力艦(主に戦艦)」と空母除いた艦艇である。

  1. 補助艦 対米比率7割
  2. 潜水艦 現有戦力維持(7万8千トン
  3. 大型巡洋艦 対米比率7割

1930年(昭和5年)3月14日、米国側は対米6割前後の腹案であったが、若槻禮次郎松平恒雄らの全権団による交渉の結果、

  1. 補助艦 対米比率6割9分7厘5毛[12]
  2. 潜水艦 日米同量 (5万8千トン)
  3. 大型巡洋艦 対米比率6割

で妥協案が出来上がった。

3月17日、海軍は軍縮条約に不満があるという海軍当局の声明が夕刊に掲載されたが、海軍省が関知しないものであり、加藤寛治も知らないものであった[13]。この声明により海軍部内に対立があることが表面化したが、声明をもらしたのは末次であった。政府は海軍側の意向を受けて軽巡洋艦及び駆逐艦を減らし、大型巡洋艦及び潜水艦の増加を求めるよう回訓した。

3月22日、全権団から会議決裂の覚悟がなければ、新提案は無益との回答が来る。

4月1日、首相・濱口雄幸は海軍首脳の岡田啓介、加藤寛治、山梨勝之進に了解を求める。海軍首脳は海軍の要望を受け入れることを条件に賛成し、同日午後の閣議で今後は航空兵力の増強に努める等の要望事項が了解され回訓発信となった。なお末次は海軍側の協議でこの回訓の発信に賛成している[14]。末次はこの数日後、航空兵力増強策で海軍の意向を取りまとめた山梨に対し、「良いものを出してくれてよかった。そのへんで納まるよ」と語っている[15]

4月2日、末次は黒潮会(海軍省記者クラブ)に不穏文書を発表しようとして海軍省に抑えられる。このことは表面化しなかったが、末次は海軍省事務取扱でもあった濱口総理に呼ばれ回訓に沿って努力するよう求められる。末次は了承し、3月17日の声明につき直立不動で次のように謝罪した。

先に不謹慎なる意見を発表したるは全く自分一己の所為にして、甚だ悪かりし、自分は謹慎すべきなれども目下事務多端なれば毎日出勤しおれり、なにとぞしかるべき御処分を乞う — 『岡田啓介回顧録』より引用

4月5日、貴族院議員との会合に出席した末次は秘密事項に触れ、それは文書となって一部に流出した。一連の行為は濱口の怒りを買い、政府内部で問題化した。海軍側では末次が公開の場で政治を語ったとして海軍省法務局で末次の処分が検討された。末次の行動は加藤寛治さえ持て余すものであった[14]

4月17日、末次は加藤寛治から戒告を受ける。なお4月から5月にかけて末次宛に機密費が集中して支出されており、政治家や右翼団体への工作費ではなかったかとの推測がある[3][注 4]

6月7日、昭和天皇に軍事の進講をした際、軍縮条約に強硬に反対する旨を述べた。これは既に軍縮条約締結に賛成した海軍省及び軍令部の方針に反するもので、天皇の不興を買った[16]

6月10日、末次、山梨勝之進はそれぞれ軍令部次長、海軍次官から更迭された。

2厘5毛の差 編集

ロンドン海軍軍縮条約による補助艦比率は、要求の対米7割(70%)に対して不足は僅か2厘5毛(0.25%)であった。このことはワシントン海軍軍縮条約に比べて、譲歩を勝ち取ったといえる。

にも関わらず、艦隊派が強硬に反対した理由としては、次のような点があった。

  1. ワシントン海軍軍縮条約の結果、戦艦等の主力艦が既に対米6割になっていた。
  2. 主力艦の代用となる大型巡洋艦が対米6割となった。
  3. 漸減作戦の鍵となる潜水艦の所要量に不足した。

末次が強硬にロンドン海軍軍縮条約に反対した最大の理由は、潜水艦量に制限を加えられたためと推測されている[5]。上述の通り対米作戦において潜水艦が担う索敵、漸減の役割は大きく、末次は自ら潜水艦部隊を作り上げてきた。末次にとって潜水艦は絶対量が必要であり、比率は無意味であったのである。

なお、第二次世界大戦では主力兵器となった航空機は、第一次世界大戦において兵器として活用が始まったばかりで技術的にも未発達であり、例えば零式艦上戦闘機が開発・配備されるのは十年以上後の1940年7月(昭和15年7月)のことだった。

当時の各国は海戦の勝敗を主力艦が握ると考えていた、いわゆる大艦巨砲主義の時代である。しかし当時の日本は、1905年ドレッドノート完成による既存艦艇の陳腐化とそれを補うための建艦競争の激化に加えて、1923年に発生した関東大震災からの復興対応1929年に起こった世界恐慌による経済的苦境にあり、更に日露戦争の戦費調達の為に発行した外債約1億3,000万ポンド(約13億円弱)の借り換え時期を控えていた[17]

七割論は艦隊派条約派を問わず支持するところであったが、日米の国力差を考慮すれば軍縮条約が必要であるとするのが、岡田啓介、山梨勝之進、堀悌吉ら条約派であり、加藤友三郎の次の言葉がその考えを象徴している。

国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。…仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に…結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。 — ワシントン会議において堀悌吉に口述

条約批准 編集

軍縮条約締結後も批准のためには帝国議会の承認、軍事参議院の同意、枢密院[注 5]への諮詢が必要であり、末次ら艦隊派は統帥権干犯を唱え反対を続けた。それまで憲法を研究したことのなかった海軍[18]にあって、末次らが統帥権を取り上げたのは、政権奪取を図る野党政友会の影響があったとされる。末次は同党幹事長で策士といわれた森恪とつながっていた[19]

加藤寛治は海軍部内で神聖視されていた東郷平八郎に働きかけ、東郷は軍縮条約反対に回り、また伏見宮博恭王も反対であった[注 6]

軍令部の反対にも関わらず政府が条約を結んだこと[注 7]、また、軍令部長である加藤の上奏の順序が政府の上奏の後回しになったことなどが統帥権干犯であるとして[注 8]、政府攻撃を行ったのが犬養毅鳩山一郎らの政党政治家であり、後に墓穴を掘ったと評されることとなる。

草刈英治の自決や、加藤寛治の帷幄上奏による軍令部長辞任、外相・幣原喜重郎の失言など事態は混迷し、一時は批准が難しい事態になったが、濱口総理の強硬姿勢と宮中関係、財界、言論界の支持があり[注 9]、1930年(昭和5年)10月2日にロンドン海軍軍縮条約は批准された。

軍縮会議の影響 編集

ロンドン海軍軍縮条約を巡る紛糾は海軍部内の分裂を招き、戦前の日本の針路に大きな影響を及ぼした。具体的には次のような影響が指摘されている。

こうしたことから、ロンドン海軍軍縮条約は太平洋戦争の要因にも数えられている。また副次的には財部彪が失脚し、海軍創設以来のの海軍がその実体を失うこととなった。

なお、五・一五事件を起こした海軍青年将校に末次の影響があったともいわれる。指導者であった藤井斉は、信頼する海軍軍人として末次を挙げ[22]、また実行者は理由に統帥権干犯を挙げている。米内光政は扇動したのは末次だと考えていた[23]。 また、末次は二・二六事件において、海軍兵力による反乱部隊鎮圧に賛成している[注 12]

第二艦隊司令長官 編集

1931年(昭和6年)9月に満州事変が生起した際、末次は第二艦隊司令長官に就任。続いて発生した第一次上海事変では戦闘区域に民家があったが、艦砲射撃を実施した[25][注 13]。 末次が事態を拡大することが危惧され[注 14]第三艦隊が編成され、野村吉三郎が司令長官に任命された[27]

連合艦隊司令長官 編集

1933年(昭和8年)11月15日、海軍兵科将校の最高の憧れであった連合艦隊司令長官に就任した[注 15]。 海軍青年将校はその就任を大歓迎したという[29]。また連合艦隊司令長官は国民の間に人気がある職位であったが、末次の人気は歴代長官中、東郷平八郎に次ぐものであった[3]。末次には犯し難い威厳があったとされ、長官としては夜戦を重視した猛訓練を施してその戦力を向上させ、小柳冨次はその程度を極度としている[2]

連合艦隊司令長官在職中、南雲忠一らが集めた軍縮条約から脱退を求める署名を海軍大臣・大角岑生に提出し、また伏見宮にも取り次いでいる。伏見宮は加藤寛治と末次に注意を与えた[30]。また軍事参議官として迎えた軍縮条約の延長問題に対しては、無条約無拘束を最上とし、次善の策として各国の最高軍備の限度を共通とすることを主張した[31]

最終的に日本は軍縮条約から脱退したが、米国で両洋艦隊法が成立したことによって日本は対米6割の維持もできなくなった。このことは太平洋戦争の開戦決定前に実務を担っていた海軍省、軍令部の中堅に影響を与えている[注 16]

内閣参議 編集

右翼的傾向があり、国家主義者でもあった末次は、連合艦隊司令長官の頃から政治的野心を持ち始めたといわれ、平沼騏一郎松岡洋右近衛文麿と交流を持ち次第に政治力を強めていった[3]

陸軍では当初、荒木貞夫真崎甚三郎皇道派とつながりがあったが、のちに林銑十郎と親密な関係にあった[32]。国家革新を必要とする考えを持っていた近衛が新党結成を目指した際、末次はその相談役となった。近衛新党結成運動はのち大政翼賛会に結実する。末次は大政翼賛会中央協力会議議長、東亜建設国民連盟会長[注 17]スメラ学塾長を務めた。

1937年昭和12年)2月の林内閣成立時、末次は林銑十郎から海軍大臣就任の要請を受け了承したが、海軍人事に影響力があった伏見宮博恭王の信頼を失っており[注 18]、海軍大臣・永野修身は海軍次官・山本五十六が推した米内光政を後任に選ぶ[34]

同年6月、近衛文麿は初の組閣に際し、末次の内閣参議就任を要望する。この時、末次は「軍令部総長になれるなら、内閣参議は断る」と海軍省人事局長清水光美を通じて米内に伝言していたが[35]、現職の軍令部総長は皇族の伏見宮であり、伏見宮は末次に後を譲る気はなかった[36]。また海軍の政治に関わるのは海軍大臣のみとする伝統から[注 19]、10月15日に米内は末次を予備役に編入する。なお両人の個人的関係は険悪であった[注 20]。後に末次は米内内閣成立時に内閣参議を辞任している。

内務大臣 編集

 
内務大臣当時の末次

第1次近衛内閣では、内閣参議から内務大臣に就任した。秘書官は二・二六事件後に予備役に編入された山下知彦である。治安の最高責任者たる内務大臣に末次を据えることに反対の声もあったが、近衛には末次を支援する右翼団体国粋主義者を取り込み安定した政治基盤を築く意図があった。しかし近衛や木戸幸一には末次を制御することはできなかった。

その一例が、日中戦争終結を目指したトラウトマン工作の拒絶であり、蔣介石を対手とせずという近衛声明を出すよう主張した[25]。対米、対英、対ソ強硬論を唱え、また金融を国営化すべしとの論陣を張る[3]。こうした末次の態度は宮中、財界、一部軍部にも不評であった[3]。なお末次は日独伊三国軍事同盟に賛成であった。国内政策としては、内務省土木局に砂防専門部署を設け砂防事業の発展に貢献した[37]

内閣参議 編集

1939年(昭和14年)、第1次近衛内閣退陣後に首班となった平沼騏一郎は、末次と一心同体と見られていたが、平沼は末次を内相に留任させず内閣参議にとどめた。第3次近衛内閣で日米和戦の決定が迫られる中、近衛は日本の軍事能力への疑問から、末次に軍事的見通しを問いかけている。

末次は次のように回答した。

そんなことを一々考えて居たら何も出来はしません。日本が南方をしっかり確保すれば、半年や一年では大した国力の増大にはならないが漸次に自給自足の体制は強化されて行く、さすれば長期となればなる程日本の体制は強化される訳で何も憂うるには当たらぬ。 — 『日本海軍の終戦工作』より引用。元資料は高木惣吉作成『政治情報』昭和16年9月5日

この見通しは太平洋戦争の実相から程遠いものではあるが、当時の軍務局第一課長、作戦課長らが加わった海軍国防政策委員会・第一委員会の見通しと同様であった[38]

総理候補 編集

 
大政翼賛会中央協力会議議長当時。左2人目から橋本欣五郎、末次信正、有馬頼寧

1941年昭和16年)、第3次近衛内閣が退陣した際に全国治水砂防協会会長であった末次は総理候補との噂が流れた。事実、海軍省調査課長の高木惣吉や矢部貞治らが末次首班実現に動いていた[39][注 21]。 また陸軍省軍務局の予想していた首班筆頭候補も末次であった[40]

対米戦争となれば軍事的主役は海軍であり、内務大臣の閲歴を持つ海軍大将、枢軸派、そして日米開戦論者である末次が首班となることは蓋然性があった。しかし昭和天皇を始めとする宮中関係者は、末次と右翼団体とのつながりを危惧しており、末次への信任はなかった[41]重臣会議で末次を推すものもなく、内大臣・木戸幸一が推した東條英機が首班に指名された。末次は落胆したという[42]

東條内閣により「帝国国策遂行要領」の再検討が行われた後も国策に変更はなく、1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍は真珠湾攻撃を実施した。

軍令部総長候補 編集

山本五十六、古賀峯一、2人の連合艦隊司令長官が戦死・殉職する悪化した戦局のなか、末次は教育局長の高木惣吉に東條内閣の倒閣に協力することを約束し[43]嶋田繁太郎を問い詰め回答不能に追い込んでいる[44]。予備役となって7年あまり経っているこの時期にも、末次は戦局に対し優れた見識を見せていた[3]

戦争終結を意図していた岡田啓介は、海軍大臣兼軍令部総長・嶋田繁太郎を更迭することで東條内閣倒閣の契機を掴もうと図り、米内を海軍大臣に末次を軍令部総長として現役復帰させることを提案した。岡田にとっては、米内の海軍大臣就任が眼目であったが[14]、米内の円満な復帰のため末次の系統へも配慮したのである。また末次の手腕に期待する海軍部内の空気もあった。石川信吾高橋三吉のお膳立てもあり、両人の引き合わせが実現。末次、米内は協力を約束した。末次はサイパン島奪回に熱意を示していたという。

米内の現役復帰と海軍大臣就任が実現した後、米内は末次の軍令部総長就任に向けて意気込んだが[45]、伏見宮をはじめとする海軍首脳と陸軍の強い反対のため実現しなかった[46][注 22]。末次本人の急病もあったが、昭和天皇も反対であった[注 23]

 
海軍大将 末次信正之墓
 
礼装した末次

1944年昭和19年12月29日薨去[48][注 24][注 25]。墓所は多磨霊園にある。

人物 編集

兵たちには猛訓練を強いる鬼と恐れられる一方、自ら潜水艦に乗り込んで陣頭に立つ有言実行の指揮官として将兵から強い信頼を受けていた。またいわゆる海軍機関科問題で兵科より軽視されていた機関科将兵の不満が鬱積し、ストライキや反抗の懸念が表れた際には、幕僚が説得に尻込みする中、自ら海軍機関学校を訪ね忍耐強く説得した。日本海軍が理想の指揮官像とした指揮官先頭を実践していたのである。その指揮ぶりは自信に溢れ部下を心服させるものであった。公務には厳しかったが、酒席では部下に胸襟を開いてみせた[2]。戦後、批判的な評価を受ける末次だが、批判側も末次が指揮官として優秀であることは認めるところである[51]

末次はワシントン海軍軍縮会議の際、米国の対応に日本は圧迫されたと考え[注 26]、米国に強い不信感を抱いていた。ロンドン海軍軍縮会議における行動もその不信感が根底となっている。

なお艦隊派は対米強硬派ではあるが、必ずしも対米戦争を望んでいた訳ではない。しかし末次はの確保が日本海軍の最大の任務であるとし、そのため米国を排除することが必要であるとして、公然と英米打倒論を唱えており、対米強硬派の雄なる存在であった[53]

評価 編集

軍令面での高い評価に対し、軍政面における評価は低い。

加藤寛治らとともに艦隊派の中心人物で軍縮条約に強硬に反対したが、海軍部内の統制を乱す行動があり、また統帥権干犯問題を惹起した1人であるとされる[注 27]

ロンドン海軍軍縮条約反対派の中心は軍令部長の加藤寛治であるとみられていたが、実際は末次が艦隊派の中心であるという見方もある[54]。岡田啓介は末次を警戒し、元老西園寺公望の秘書・原田熊雄は西園寺に対し、宮中関係者から不安視されていた真崎甚三郎になぞらえて報告している。また昭和天皇はこの時の末次の言動に不信感を抱いていた[55]。一方軍縮条約に不満を募らせる海軍軍人、国家革新を唱える陸海軍将校、右翼団体、右派政治家などからは支持を受けた。

影山好一郎(現軍事史学会副会長)は末次について、「その海軍に占める役割の理解なしには近現代史の実像を掌握することはできない」としている[37]

井上成美は末次について、「中佐ぐらいまでの人」としている[56]

親族 編集

末次の嗣子・信義[注 28]駆逐艦若葉」艦長としてキスカ島撤退作戦に参加した後、第二艦隊の水雷参謀に就任。大日本帝国海軍最後の艦隊戦(坊ノ岬沖海戦)に加わり戦死し、海軍中佐に進んだ[注 29]

遠縁に哲学者の小島威彦がおり、小島が1940年に創設したオカルト団体・スメラ学塾の塾頭についた[57]

著書 編集

  • 『非常時局と国防問題』朝日新聞社、1934年
  • 『軍縮決裂と我等の覚悟』楠公会総本部、1936年
  • 『国防の本義と軍縮問題』軍人会館事業部、1936年
  • 『長期戦と国民の覚悟』国民精神総動員中央聯盟、1938年
  • 『世界動乱の意義と皇国の使命』東亜建設国民聯盟事務局、1940年
  • 『世界戦と日本』平凡社、1940年
  • 『新体制と国防問題』大政翼賛会宣伝部、1940年
  • 『日本の国防的地位』東亜建設国民聯盟事務局、1940年
  • 『日本とナチス独逸』アルス、1940年
  • 『日米危機とその見透し』新経済情報社、1941年
  • 『大東亜戦の本質と戦局の前途』大日本翼賛壮年団本部、1942年

年譜 編集

西暦 元号 日付 末次の動向 世界の出来事
1880年 明治13年 06月30日 誕生
1896年 明治29年 11月09日 海軍兵学校入校
1899年 明治32年 12月16日 海軍少尉候補生 北清事変発生
1900年 明治33年 08月10日 富士乗組
12月06日 松島乗組
1901年 明治34年 01月18日 海軍少尉済遠乗組
1902年 明治35年 10月06日 海軍中尉 シベリア鉄道完成
11月25日 竹敷要港部第3水雷艇隊附
1903年 明治36年 09月14日 第5艇隊附 ライト兄弟初飛行、アメリカパナマ運河地帯租借
09月26日 比叡分隊長心得
1904年 明治37年 01月14日 磐城分隊長心得 日露戦争開戦
07月13日 海軍大尉、磐城分隊長
1905年 明治38年 12月12日 高千穂砲術長 日本海海戦
1906年 明治39年 09月28日 海大乙種学生 南満州鉄道設立、弩級戦艦ドレッドノート進水
1907年 明治40年 04月23日 砲術学校高等科学生 サンフランシスコで排日暴動発生
09月28日 砲術学校教官兼分隊長
1908年 明治41年 04月20日 海大甲種学生 高平・ルート協定
1909年 明治42年 10月11日 海軍少佐 アメリカ真珠湾を海軍根拠地へ指定
12月01日 肥前砲術長
1910年 明治43年 12月01日 砲術学校教官 韓国併合超弩級戦艦オライオン進水
1911年 明治44年 09月21日 常磐砲術長 大逆事件、カリフォルニア排日問題発生
1912年 明治45年 04月20日 軍令部参謀 辛亥革命
06月05日 軍令部参謀兼海大教官
1913年 大正02年 陸海軍大臣を予備役に拡大
1914年 大正03年 06月03日 軍令部参謀兼海大教官兼教育本部 第一次世界大戦
09月01日 英国駐在
12月01日 海軍中佐
1916年 大正05年 05月23日 命帰朝 ユトランド沖海戦
09月01日 軍令部出仕
12月01日 海大教官
1917年 大正06年 12月01日 第一艦隊参謀 ロシア革命石井・ランシング協定
1918年 大正07年 09月01日 連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀 米騒動シベリア出兵
10月15日 第一艦隊参謀
12月01日 海軍大佐筑摩艦長
1919年 大正08年 08月05日 軍令部作戦課長兼海大教官 ヴェルサイユ条約調印
1921年 大正10年 09月27日 ワシントン会議次席随員 原敬暗殺、九カ国条約
1922年 大正11年 12月01日 軍令部作戦部長心得 アメリカ日本人帰化禁止宣告
1923年 大正12年 12月01日 海軍少将第一潜水戦隊司令官 関東大震災虎ノ門事件
1925年 大正14年 12月01日 軍令部出仕兼海大教官 治安維持法公布、五・三〇事件
1926年 大正15年 07月26日 教育局長 蔣介石北伐開始
1927年 昭和02年 12月01日 海軍中将 金融恐慌蔣介石南京政府樹立
1928年 昭和03年 12月10日 軍令部次長 済南事件張作霖爆殺事件
1929年 昭和04年 世界恐慌鈴木貫太郎侍従長に、加藤寛治軍令部長に
1930年 昭和05年 06月10日 軍令部出仕 ロンドン海軍軍縮条約批准、濱口雄幸首相狙撃される
12月01日 舞鶴要港部司令官
1931年 昭和06年 12月01日 第二艦隊司令長官 三月事件満州事変十月事件
1933年 昭和08年 11月15日 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官 国際連盟脱退
1934年 昭和09年 03月30日 海軍大将 ワシントン海軍軍縮条約廃棄通告
11月15日 横須賀鎮守府司令長官
1935年 昭和10年 12月02日 軍事参議官 天皇機関説問題、国体明徴声明、ドイツ再軍備宣言
1936年 昭和11年 ロンドン海軍軍縮条約脱退、二・二六事件軍部大臣現役武官制復活
1937年 昭和12年 10月15日 予備役編入、第一次近衛内閣内閣参議 盧溝橋事件日独伊防共協定
12月14日 第一次近衛内閣改造で内務大臣
1939年 昭和14年 01月05日 第一次近衛内閣総辞職 ノモンハン事件、アメリカ日米通商航海条約廃棄通告、第二次世界大戦勃発
01月20日 平沼内閣で内閣参議に、続く阿部内閣でも留任
1940年 昭和15年 01月23日 米内内閣発足とともに内閣参議を依願免官 大政翼賛会発足、日独伊三国軍事同盟北部仏印進駐
1941年 昭和16年 南部仏印進駐、対日石油全面禁輸、真珠湾攻撃
1944年 昭和19年 12月29日 死去 サイパン守備隊全滅、米内光政小磯内閣の海相に、及川古志郎軍令部総長に、井上成美海軍次官に

栄典 編集

位階
勲章等

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 同年3月2日に米内光政(29期)、6月15日に永野修身(28期)が誕生。米内は中学卒業と同時に兵学校入校である。末次は19歳7月で兵学校を卒業している。同期生で20歳未満で卒業したのは10人に満たない。
  2. ^ なお、軍令部の中枢は軍令部長(のち総長)のほか次長、作戦部長、作戦課長であったが、この三職を歴任したのは海軍史上、末次信正と近藤信竹の2名のみである[4]
  3. ^ 昭和十一年の「邀撃作戦要綱」も同様である[8]
  4. ^ 元資料は機密費を取り扱う海軍省先任副官であった古賀峯一が作成した「軍令部機密費支払収支」。
  5. ^ 枢密院の実力者である伊東巳代治平沼騏一郎山川健次郎らは幣原外交への不満があり、軍縮条約に反対していた
  6. ^ のち伏見宮は賛成に回ったが、その説得にあたったのは鈴木貫太郎である。鈴木は加藤寛治の前任の軍令部長で、軍令部の反対に不満があった。[20]
  7. ^ それまで兵力量を定めるのは軍政事項とされ、ワシントン海軍軍縮条約では問題になっていない。末次ら艦隊派は不満を抱き、のちに「省部互渉規定」の改正により軍令部が主導することとなった[21]
  8. ^ 鈴木貫太郎が二・二六事件で襲撃される原因の一つとなった
  9. ^ 『大海軍を想う』「悲劇ロンドン会議」なお筆者の伊藤正徳は当時時事新報編集局長で、朝日新聞緒方竹虎らとキャッスル事件に巻き込まれている。この事件は、米国大使キャッスルが日本の言論界を買収し軍縮条約に賛成させたという中傷の類で、伊藤はその出所は軍令部某有力提督としている
  10. ^ 犯人の佐郷屋留雄は暗殺の理由に統帥権干犯を挙げている
  11. ^ 伏見宮軍令部長の呼称が軍令部総長となり、軍令部の権限が強化された。昭和天皇はこの改正を一度差し戻している
  12. ^ 二・二六事件では事件発生の朝、艦隊派の伏見宮、加藤寛治は真崎甚三郎と連絡を取り合い三人で宮中へ参内している。事件後加藤、真崎は憲兵隊の取調べを受けた。この件に末次の関与は認められていない。なお軍事参議官のうち山本英輔は反乱軍に同情的であったが、末次、中村良三小林躋造野村吉三郎已ムヲ得ザレバ海軍兵力ヲモ行使スベシの見解で一致している[24]
  13. ^ 逆に艦砲射撃に消極的であったのが堀悌吉である
  14. ^ 当初の末次は、大陸への陸軍兵力派遣に否定的であった[26]
  15. ^ 大角岑生海軍大臣が末次の連合艦隊司令長官への親補を内奏した際、昭和天皇は末次に懸念を示し、大角を叱責している[28]
  16. ^ 開戦直前は対米7割が実現していた
  17. ^ 中野正剛東方会橋本欣五郎の大日本青年党らの革新右翼の集合体
  18. ^ 伏見宮と末次の間がいつから円滑を欠いたかは不明だが、伏見宮の末次に対する不信は当時から部外にも知られていた。末次の政界への転身も両人の不仲が影響したといわれていた[33]
  19. ^ 海軍次官でも直接政治に関わることは許されなかった
  20. ^ 米内は宴席で末次の胸ぐらを掴み詰め寄ったことがあり、両人は口を利かない冷たい仲であった
  21. ^ この時伏見宮は「奴だけは許さぬ」と激昂している
  22. ^ 米内が井上成美を次官としたのは、この後である
  23. ^ 予備役から現役復帰するための規定はなく、米内の現役復帰は昭和天皇の特旨で実現した。一方末次に対して昭和天皇は「私は末次の総長に反対した」と述べている[47]
  24. ^ 末次は循環器系の病で死去したが、昭和天皇の信任がないことを知ったことが影響しているのではないかと推測する者もいる[49]
  25. ^ 末次の第二艦隊司令長官時代に先任参謀を務めた宇垣纏は、その死を惜しんでいる[50]
  26. ^ 随員であった堀悌吉は米国の対応は紳士的であったと末次と見解が分かれている[52]
  27. ^ 統帥権干犯は北一輝の造語であり、兵力量に関してはそれまで問題になることはなかった
  28. ^ 海兵58期。岳父は山内豊中海軍少将
  29. ^ 『歴代海軍大将全覧』では大佐となっている。

出典 編集

  1. ^ 『大衆人事録』「末次信正」
  2. ^ a b c 『回想の日本海軍』小柳富次「歴代聯合艦隊司令長官の横顔」
  3. ^ a b c d e f g h i j 『昭和史の軍人たち』「末次信正」
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』「海軍主要人事系譜」
  5. ^ a b 『歴代海軍大将全覧』「第六章 末次信正」
  6. ^ a b 『自伝的日本海軍始末記』
  7. ^ 『大海軍を想う』「潜水艦の消長」
  8. ^ 戦史叢書10 1967.
  9. ^ 『昭和海軍秘史』pp198-199
  10. ^ 『湛山回想』p219
  11. ^ 『歴史と名将』p.169
  12. ^ 上記の理論に当てはめると、日米の戦力差は10048.650625である
  13. ^ 『山本五十六再考』pp14-15
  14. ^ a b c 『岡田啓介回顧録』
  15. ^ 『日本海軍失敗の研究』pp.129-135
  16. ^ 『昭和天皇独白録』p32
  17. ^ 日露戦争前の1903年(明治36年)における一般会計歳入は2.6億円
  18. ^ 『海軍と日本』p74
  19. ^ 『海軍と日本』p76
  20. ^ 『山本五十六再考』第一部「鈴木侍従長の説得」
  21. ^ 『海軍と日本』pp83-84・『連合艦隊興亡記(上)』pp143-144
  22. ^ 『海軍の昭和史』p59
  23. ^ 『提督 米内光政の生涯』 (下)p58
  24. ^ 『父と私の二・二六事件』pp236-255
  25. ^ a b 『昭和海軍秘史』野村直邦「太平洋戦争前夜」
  26. ^ 『海軍の昭和史』p67
  27. ^ 『海軍と日本』p93
  28. ^ 『牧野伸顕日記』pp550-551)
  29. ^ 『海軍と日本』p127
  30. ^ 『牧野伸顕日記』pp580-581
  31. ^ 『加藤寛治日記』末次信正「軍縮対策私見」
  32. ^ 『昭和史発掘』(第5巻)pp.166-167,216
  33. ^ 『一軍人の生涯』p118)
  34. ^ 『山本五十六再考』pp194-197・『昭和史の軍人たち』p303
  35. ^ 『海軍の昭和史』p100
  36. ^ 『海軍の昭和史』pp18-19
  37. ^ a b 『近現代日本人物資史料情報辞典』p.223
  38. ^ 『四人の軍令部総長』「永野修身」
  39. ^ 『かくて、太平洋戦争は終わった』pp80-84
  40. ^ 『昭和史の軍人たち』p153。元資料は「政変に関する軍務課資料」
  41. ^ 『かくて、太平洋戦争は終わった』pp82-84・『日本海軍の終戦工作』pp97-98
  42. ^ 『海軍の昭和史』pp225-227
  43. ^ 『かくて、太平洋戦争は終わった』p110
  44. ^ 『新版 米内光政』p210・『かくて、太平洋戦争は終わった』p153
  45. ^ 『新版 米内光政』p222・『山本五十六再考』pp20-21・『一軍人の生涯』p37
  46. ^ 『戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊〈6〉―第三段作戦後期―』pp218-219
  47. ^ 『昭和天皇独白録』p115
  48. ^ a b c d e f g 故海軍大将末次信正位階追陞の件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090578900 
  49. ^ 『山本五十六再考』pp20-21
  50. ^ 戦藻録・昭和20年1月4日
  51. ^ 『日本海軍、錨揚げ!』「昭和海軍変身の時代背景」
  52. ^ 『海軍の逸材 堀悌吉』「対米七割をめぐって」元資料は堀が記述した「ワシントン会議秘実」
  53. ^ 『提督 新見政一』大井篤「ファシズム下の新見さんと私」
  54. ^ 『岡田啓介回顧録』・『西園寺公と政局』
  55. ^ 『牧野伸顕日記』p551
  56. ^ 『井上成美』資料pp282-283
  57. ^ 石井妙子「原節子の真実」(新潮社)P.134
  58. ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
  59. ^ 『官報』第5846号「叙任及辞令」1902年12月26日。
  60. ^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日
  61. ^ 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日
  62. ^ 『官報』第684号「叙任及辞令」1914年11月11日
  63. ^ 『官報』第3423号「叙任及辞令」1924年1月23日
  64. ^ 『官報』第358号「叙任及辞令」1928年3月10日
  65. ^ 『官報』第1496号「叙任及辞令」1931年12月23日
  66. ^ 『官報』第2164号「叙任及辞令」1934年3月22日
  67. ^ 『官報』第3073号「叙任及辞令」1937年4月2日
  68. ^ 『官報』第5391号「叙任及辞令」1945年1月8日
  69. ^ 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日。
  70. ^ 『官報』第8679号「叙任及辞令」1912年5月27日。
  71. ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
  72. ^ 『官報』第2978号「叙任及辞令」1922年7月6日。
  73. ^ 『官報』第2104号「叙任及辞令」1934年1月10日
  74. ^ 『官報』第5390号「叙任及辞令」1945年1月6日

参考文献 編集

戦史叢書
関係者
  • 石橋湛山『湛山回想』岩波文庫、1998年。ISBN 4-00-331682-7 
  • 井上成美『井上成美』井上成美伝記刊行会、1987年。 
  • 宇垣纏『戦藻録』原書房、1977年。 
  • 岡田啓介『岡田啓介回顧録』中公文庫、1987年。ISBN 4-12-201414-X 
  • 加藤寛治『加藤寛治日記』みすず書房
  • 草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』光和堂、1973年。 
  • 幣原喜重郎『外交五十年』中公文庫、1987年。ISBN 4-12-201391-7 
  • 昭和天皇昭和天皇独白録』文春文庫、1995年。ISBN 4-16-719803-7 
  • 高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、1971年。 
  • 豊田副武『最後の帝国海軍』世界の日本社、1950年。 
  • 新見政一『提督新見政一 自伝と追想』原書房、1995年。ISBN 4-562-02696-0 
  • 原田熊雄『西園寺公と政局』岩波書店
  • 百武源吾『異色の提督 百武源吾』異色の提督百武源吾刊行会、1979年。 
  • 牧野伸顕『牧野伸顕日記』中央公論社
  • 山梨勝之進『歴史と名将』毎日新聞社、1981年。 
  • 若槻禮次郎『明治・大正・昭和政界秘史 古風庵回顧録』講談社学術文庫、2002年。ISBN 4-06-158619-X 
学者
海軍関係者
ジャーナリスト
  • 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。 
  • 緒方竹虎回想の米内光政 一軍人の生涯』文藝春秋新社、1955年。 
  • 杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋、1982年。 
対談集
作家
辞典類
  1. 「兵学校生徒(第27期)卒業試験成績表及証書授与式施行親王臨場賜品の件」(ref:C06091199800)
  2. 「内務省、社会局、警視庁、地方高等官一覧表(昭和13年1月16日現在)」(ref:A05020327900)
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 伊藤隆季武嘉也『近現代日本人物史料情報辞典』吉川弘文館、2004年。ISBN 4-642-01341-5 
  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)、1939年
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版 東京大学出版会
  • 半藤一利秦郁彦横山恵一戸高一成『歴代海軍大将全覧』中公新書ラクレ、2005年。ISBN 978-4-12-150177-6 
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版
  • 『日本人名辞典 第1巻 東京篇』日本図書センター
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房

外部リンク 編集

軍職
先代
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教育局長
第4代:1926年7月26日 - 1928年12月10日
次代
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先代
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第9代:1930年12月1日 - 1931年12月1日
次代
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第二艦隊司令長官
第24代:1931年12月1日 - 1933年11月15日
次代
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先代
小林躋造
連合艦隊司令長官
第21代:1933年11月15日 - 1934年11月15日
次代
高橋三吉
先代
永野修身
横須賀鎮守府司令長官
第32代:1934年11月15日 - 1935年12月2日
次代
米内光政
公職
先代
馬場鍈一
内務大臣
第57代:1937年12月14日 - 1939年1月5日
次代
木戸幸一