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概要編集

三越社長の岡田茂の企画で制作された。三越の資金10億円を映画製作費に使ったとされる。この破格の予算に物を言わせて、小林正樹、稲垣俊、村木忍、武満徹といったスタッフを集結させた。当初、主演は三越のCMに出演していた栗原小巻で企画されていたが[1]、スケジュールが合わず、五木寛之がテレビCMで目にとめた真野響子が起用された[2]。岡田は三越の専属配送業者である大和運輸(現ヤマトホールディングス)に映画前売券の購入を強要し[3]、公正取引委員会からの調査を受け[3]、大和運輸は三越と絶縁した。このような岡田による会社の私物化が社内で問題視され、後に岡田は解任された(三越事件)。そのため、この映画も三越の恥として公開後はお蔵入りとなり、ビデオソフト化はされていない。

以上の経緯のため、現在では幻の映画である半面、武満が担当した音楽が比較的よく知られており、稀に映画祭などで特別上映されると、かえって集客力のある奇妙な立ち位置の作品となった[注 1]

あらすじ編集

画商・影山(佐分利信)の愛玩品として弄ばれることに疲れきった桐生亜希(真野響子)が、京都祇園祭の宵山の雑踏の中で若い商社マン・岸田(北大路欣也)に出会い、ペルシャ絨毯の美を教えられる。やがて影山はガンに侵され、亜希にペルシャ絨毯とそれを生んだイランへの航空券を残して死ぬ。亜希は影山の遺志でイランに旅立つ。

スタッフ編集

キャスト編集

主題歌編集

「燃える秋」

  • 作詞:五木寛之、作曲:武満徹、唄:HI-FI-SET

熱帯夜 / 燃える秋 GLOWING AUTUMN として1978年にHI-FI-SETのシングルレコードが発売された。

武満としては完全にビジネスライクに徹した仕事だったようだが(五木に歌詞には英語を入れた方が売れると言われたらしい)、武満夫人によると生前の武満のレコードでもっとも印税収入が多かったとのこと。第2回日本アカデミー賞・最優秀音楽賞を受賞した。その授賞式でネガティブな思いの丈をぶちまけようとした際に、司会の宝田明に止められる、というハプニングがあった。 映画が後にお蔵入りとなったために映画そのものは知らない世代が増えていく中、後年の石川セリによるカヴァー2種をはじめ、武満の死後にはジャズバンドなど多くのアレンジもリリースされた。

製作編集

発表まで編集

1977年秋、三越が映画製作に乗り出すと報道され[4][5]。同社社長の岡田茂が、東映岡田茂同姓同名で、同じワンマン社長で仲がよく[4][5]岡田茉莉子三越劇場の公演はほとんど東映が企画を担当しており[5]、仕事上の付き合いもあることから[5]、東映が配給を引き受けると報道された[4]。この後、数え切れない映画外企業が映画製作に進出するが、三越は角川書店サンリオに次ぐ三番目の参入だった[5]

宣伝部出身の岡田三越社長の狙いは角川商法で、角川が映画を作って本業の本の売れ行きを伸ばすことに成功したことにあやかり、映画作りを宣伝の一環としてデパートの売れ行きに結び付けようとした[5]。岡田東映社長(以下、東映岡田)は映連会長としても「今や映画づくりは映画会社だけでやるものじゃない。優秀な外部頭脳と積極的に提携した映画作りの時代だ」などと異業種参入を歓迎する意向を打ち出していた[5][6]。三越の組織票を目論み製作費10億円を投入、企画・製作を東映が担当し、出資比率を折半か、三越側がやや比率を高くなるような形を取り、配給を東映が担当する予定であった[5]

企画編集

東映岡田は「スーパーカーブームの次に反動でクラシックカーブームが来る」と確信し[7]、クラシックカーのコレクションを持つ安宅産業の子会社・安宅興産とこの年春に業務提携を結び[7]、安宅興産が所有するクラシックカーを利用した事業をやろうとしていた関係から[7]安宅産業崩壊の内幕ドラマ『安宅家の崩壊』を企画し[7]、岡田三越社長に打診したが「三越のイメージを損ねるものは困る」と反対された[5]。それなら谷崎潤一郎の『細雪』なら、三越のイメージに合うし、栗原小巻主演でも、両岡田が後援している「まり子の会」の岡田茉莉子でもいいと話し合いをしていたが[5]、1977年11月25日に記者会見が開かれ[8]、三越は東映ではなく東宝と提携して『燃える秋』を製作し、1978年秋に公開すると正式発表した[4][5]。岡田三越社長は「日本とイランの文化交流に役立ちたい。三越の企業宣伝映画にはしない」などと繰り返し説明したものの[5]、実際は三越が1978年秋に「絨毯展」を開催することに決まったため[1]ペルシャ絨毯を映画公開に合わせて輸入し、売出しを計る目的であった[3]。記者会見でも「ペルシャ絨毯を作るところなどは実に素晴らしく、これが映画で紹介されるのも面白い」などとホンネをこぼした[5]。『燃える秋』を三越が企画した経緯は、五木寛之の同名小説がペルシャ絨毯に心惹かれた女性を主人公とするものだからで[1][8]、五木が小説の取材でイランを訪れた際、テヘランのイラン三越が取材に協力していた[5][8]。岡田三越社長が藤本真澄が社長を務める東宝映画の社外重役で付き合いもあることから東宝との提携に至った[5]。この製作発表記者会見で製作費10億円を三越で東宝と折半負担し、監督・小林正樹、主演・栗原小巻を同時に発表した[5]。東宝としてはこれからの大作映画が製作費10億円、20億円という時代に入ることを予想し、三越のような大企業と組んで負担を出来るだけ軽くして儲けたいという思惑があった[8]

一枚タイトルで最初に出てくる企画者は岡田茂であるが、実質的な製作者は藤本真澄、佐藤正之安武龍の三人である[3]。製作中の1979年5月2日、本作のプロデューサー・藤本真澄が喉頭がんで亡くなった[9]。本作は大プロデューサー藤本の遺作でもあった。ただ藤本は製作中に手術や入院を繰り返して体調が思わしくなく、実際に仕切ったのは俳優座映画放送社長として映画やテレビ界に大きな影響力を持つ佐藤正之であった[3]。本作も1972年のテレビドラマから再編集されて1975年に映画として公開した『化石』と骨格は同じ演出チームによるもので[3]、三越の映画製作乗り出しを、新劇の大物プロデューサーがアレンジするという形の上に成り立っている[3]

演出編集

映画は8年ぶりの小林正樹は「お話があったときに原作を読んで『ボクのものじゃないから』とすぐお断りしたんですが、自由にやらせていただくということで始めたわけです。今まで手掛けたことのない素材だけに、こんなに一生懸命やった仕事は初めてでしょうね」などと述べている[10]

キャスティング編集

1977年の『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』の各映画賞の独占で、高倉健に、各社"高倉もの"という企画が目白押しになり[11]、『冬の華』、『野性の証明』、「妻たちの二・二六事件」(『動乱』)[11]、などとともに本作も高倉に出演オファーを出していた[11]

ロケを盛夏のイランでの撮影スケジュールを組んでいたが、1978年1月に監督、脚本家、プロデューサーでイランに20日間調査に行った際に、イランの熱さが予想以上で、また現地スタッフが真夏に働かないことが判明した[12][13]。このためイランロケを5、6月に前倒しするか、11月に遅らせるかの二者択一を迫られた[14]。最終的に小林が前者を選び[14]、これにより6月に東京宝塚劇場での舞台が入っていた主役予定の栗原小巻が出演不可能になり[14][15]、代わって真野響子が起用された[2][13][16]。栗原は前述の三越のCMに出演していた縁だけではなく、佐藤正之が社長を務める俳優座映画放送がマネージメントをしていたこともあった[3]。真野も劇団民藝に所属しており、佐藤は新劇界に大きな影響力を持っていたため問題はなかった[3]。最初は肌を見せない真野が初めてヌードになるのではと期待されたが[17]、真野のヌードは無かった[17]

脚本・撮影編集

1978年2月から脚本執筆[12]。4月16日~29日ロケハン[12]。小林が「がんじがらめの性愛からヒロインを解放してゆく要因の一つにイランの風土がある。これをどこまで描き切れるかが勝負の別れ目」というほど、イランロケは重要視された。1978年5月1日、作品の後半に当たるイランロケから撮影スタート[12][16][17]。当時のイランはイラン革命前の政情不安で、ロケ中もイラン各地で暴動が起きており何度が銃声を聞いた[14]。イラン政府文化省の協力で文化省の役人がスタッフとして同行、ロケ隊は無事だった[15][17]。イランはアメリカ帰りで合作映画を手掛けた人も多く、文化省の協力でアメリカ製の新鋭機材を借りられた[12]。現地人スタッフ12人を含む総勢40人余でロケ隊が編成された[15]

イランは5月でも気温は38℃超。また昼夜の激しい温度差にも悩まされた。ロケ隊は、本来飛行機で移動するテヘランエスファハーンシーラーズをロケバスで辿り、時には後戻りして撮影を繰り返した[17]。イランは光が強すぎ撮影できる時間も限られ難しい撮影だったという[14]。監督の小林はこのコースをシナハン、ロケハン、本編撮影、実景撮影と計4回通った[17]。テヘラン市内やクムカシャーン砂漠地帯ペルセポリス他、5月27日までイランロケ[12]。全旅程1000キロを走破し、日本から持ち込んだ25000フィートのフィルムを全部使いきった[15]

1978年7月、祇園祭で賑わう京都ロケを挟み[15]、6月20日~8月27日、作品の前半に当たるスタジオセットと実景ロケ[12][14][17]。9月28日雨の実写を1日だけ撮影し撮影完全終了[12]編集にもたっぷり時間をかけた[15]

製作費編集

5億円[1]。東宝3億、三越が2億円を出資[1]。当時の三越の宣伝費は年間100億円[1]。イメージアップが売上げ増に結び付くかが注目された[1]。10億円近い製作費とする文献もある[15]

評価編集

  • 本作が公開された1978年は『アニー・ホール』や『ミスター・グッドバーを探して』、『ジュリア』『結婚しない女』など、アメリカの女性映画が多数日本でも公開され話題を呼んだ[15][18][19]。真野響子もカメラの岡崎宏三に「『ジュリア』のように撮ってくれ」と注文したという[16]。女性ジャーナリストからは、これらの映画を引き合いに出し好評価する論調もあった。
  • 南俊子は「今年は俄然、"女性映画"の、いえ"ヒロイン映画"復活の年。『燃える秋』も、当節はやりの女の自立だ。正真正銘"結婚しない女"若い女の話である。反政府暴動が荒れ狂う現代イランとは、無縁に、いわば象徴的なまでの、現代の若き女性像とその心象風景とを美しく凝視する小林正樹監督と岡崎宏三のカメラも見事にこれを高級"女性映画"に仕立てている」などと評価した[18]
  • 山口昌子は、本作の真野響子を「日本映画に初めて登場した"現代女性"」と評し、「わが日本映画を見終わった後の、あのやるせなさ。カタルシスどころか、たいていの場合は欲求不満に陥ってしまう。日本映画に登場する女性たちに、いったい命はあるのだろか。知力も判断力も経済力もないのに、なぜか設定上は"いい女"だったりする。『燃える秋』はその点、従来の日本映画とは異なる。"新しい女性像を探る邦画初の本格女性映画"なる宣伝惹句もあながちウソではない。彼女は東京で一人で独立して暮らしている。それは金持ちの愛人でいようが、26歳の、いってみれば普通のOLである女の子が住むにふさわしい質素な部屋である。ここには、従来の日本映画に登場する家族と結びついた"若い娘"ではなく、一人の個としての人間が描かれている。外国映画にはとっくの昔から登場しているこういう現代女性が、なぜか日本映画には、一度も登場したことがなかった気がする。一人で暮らしている女性なんていうのは、しょせん脇役であってヒロイン足りえなかったわけだ。今、女性観客が求めているのは、カッコいいなあと憧れるのは、夢の王子様と出会って結婚する愛らしい女性ではない。しかし、この映画の成功しえた大きな要素は真野響子の存在である。たぶん彼女自身の個性、従来の日本の女優サンにない知性と行動力が、亜希を共感の呼べるヒロインに仕立てたのだろう。もし他の女優サンが演じていたら、これほど生き生きとした女性が描けたかどうか。後半のアンアンノンノ調の観光映画的な風景の中においても、それはそれで生き生きしている。実は外国の風景と不自然でなく溶け込める女優サンも実は珍しい」などと評した[18]。 
  • 映画専門誌の男性重鎮映画批評家は、このような女性の自立のような論調を別の見方で酷評している。白井佳夫は「『燃える秋』は、1970年代終わりの日本映画の現状というものを、いわば一種シンボリックに示す作品として興味深い一作である。この映画は、あらゆる意味で日本映画の実情を具体的にフィルムの出来上がりで証言しているような気がする。本作は角川春樹事務所の『犬神家の一族』に始まる、映画外企業の映画製作進出の流れの中から生まれた作品であるが、日本の映画会社は、企画に臆病になり、スケールの大きな異色企画の作品は、このような形でしか実現出来なくなっているのである。真野響子演じる桐生亜希というヒロインは、日本映画としては久々とでもいいたいような魅力的な映像造型で、美しく画面の上に描かれている。一人のスター女優の若々しい美しさというものをこれだけ入念に、スクリーンにクローズアップして見せた映画というのも近頃珍しい。これは、女優を美しく撮ることにかけては、つとに名高かった松竹大船撮影所出身の小林正樹監督の演出技術と、名キャメラマン・岡崎宏三の映像造型技術によるものであるが、作品を見ていくにつれて、いささか奇妙なことに気が付く。『燃える秋』のテーマに関わる重要な場面である幾つかのセックスシーンで真野はヌード吹き替えを使っているのである。カラー映画の画面のリアリズムは、今やいかに技巧を弄して巧妙にフィルムを繋いで見せても、このようなトリックの不自然さをたちまち暴露してしまう。それにしても、他の画面に写る彼女の肢体のみずみずしさとは全く裏腹なイメージの代役ヌードの疲れた肉体をもって、のうのうと作品の主題に関わる重要なシーンを切り抜けてしまった真野響子の女優としてのプライドは一体どうなっているのだろうと思う。あざといエロティシズム表現だけが売り物の映画ならいざしらず、このような大作映画で必然性を持つテーマに関わる重要なシーンで、セックスシーンをリアルに演じる意欲がないなら、ヒロインを引き受けるべきではなかったし、プロデューサーも監督も、そのような姿勢のスター女優に、この映画のヒロイン役を委ねるべきではなかったのではないだろうか。またしても行き当たるのは1970年代終わりの日本映画は、今やこんなスター女優のエゴイズムも屈服させられぬ程の非力なものになってしまったのかという思いである」などと評している[3]
  • 佐藤忠男は「『燃える秋』は近頃珍しい女性映画の大作である。三越のイメージを宣伝するための映画としてこの原作を取り上げたのは順当なところであろう。但し、出版社角川書店の映画作りが会社の宣伝だけでなくそれ自体としても商業的に成功したからといって『燃える秋』も上手くゆくかどうかは分からない。というのは、今や劇場用の日本映画はことごとく男性映画であって、女性映画が興行的に成功する可能性はごく少ないからである。外国映画の一部ロードショー館では女性映画で良い成績をあげているところもあるが、日本映画の専門館はエロか暴力かお子さま向けか、というイメージが浸透しすぎて、女性向けの贅沢な感触の映画を作ったところで、目当てとする女性層が館へのなじみを失ってしまっていてさっぱり来ないのである。そのため、日本の映画会社は、独自には女性映画を作ろうとはほとんどしない。ただ、時々、外部の有力な勢力との共同の仕事になると忘れていた女性映画作りに乗り出す。しかしそうした他力本願な姿勢からは、なかなか、今日の新しい女性映画の在り方を摑む生新な企画は生まれてこないであろう。一旦、日本映画専門館から離れて行った女性観客層を呼び戻すというのは容易ではない。『燃える秋』はいかにも女性向きの女性映画である。グラフィックデザイナーという、今若い女性たちに一番人気のある職業の女性がヒロインで、これが美人で男たちに愛される。しかも初めはずっと年上のドン・ファン的な男にセックスの手ほどきをたっぷり受けた上で、そういう不健全な関係を清算するために、自分に惚れてくる若くて溌溂とした商社マンに乗り換える。電話一本で彼は土砂降りの雨の夜を名古屋から東京まで車で駆け付け、彼女が棺桶に片足突っ込んだ老ドン・ファンから体を散々しゃぶりつくされた相当なスレッ枯らしであると打ち明けても、いささか白けることもなく、彼女を恭々しく求めてくる。そのうち老ドン・ファンからのプレゼントで情景のイラン旅行をしてペルシャ絨毯の美しさを満喫し、おまけに追ってきた商社マンが第三世界を文化的に搾取する帝国主義の手先であると知ると、これを敢然と振り捨て正義感を満喫する。とにかくこのヒロインは何一つ努力することなく、老練なドン・ファンからのセックス訓練、若い恋人からの情熱恋愛、観光旅行、正義の味方である歓びなどを次々と手に入れる。しかしこれはちょっとばかり虫が良すぎではあるまいか。人は何か歓びを手に入れるためにはそれ相応の努力をしなければならない。この映画のヒロインが手に入れた歓びは、美人の特権として労せずして得られたものばかりである。こういう虫の良さが新しい女性映画なのだろうか?テレビのホームドラマNHK朝の女性向けテレビ小説でだってヒロインたちは美人の特権などということに安住せず、みんな努力してやっと細やかな幸福を手に入れているのである。絵空事と言われるテレビだってその程度には現実に迫っている。日本の女性映画は、久しく作られないでいるうちにテレビより遅れた非現実的なものになってしまったと思う」などと評した[20]

エピソード編集

  • 小林正樹監督は、本作完成後の11月から1ヵ月半をかけ、1979年1月2日東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放送される開局15年記念事業『人間の條件』全3作一挙放送をテレビの枠に合うようにフィルムを切ったり、繋いだりする作業に追われていた[14]。小林は既に62歳で体力気力がある時間も限られ、この合間に行われた『キネマ旬報』の『燃える秋』についてのインタビューでも、映画化を願ってやまない『敦煌』を「早く撮りたい」と長く熱弁したという[14]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 近年では2011年に銀座シネパトスで開催された小林の回顧展の一環で真野列席の元上映された
  2. ^ 三田と岡田は町井久之を通じて接点があり、その関係で出演したとみられる。

出典編集

  1. ^ a b c d e f g 「邦画マンスリー 邦画界トピックス」『ロードショー』1978年2月号、集英社、 189頁。
  2. ^ a b 日本映画レトロスベクティブPart22 「小林正樹の足跡」、2011年
  3. ^ a b c d e f g h i j 白井佳夫「『燃える秋』がうつし出す一九七九年の日本映画」『』1979年2月号、創出版、 258–261。
  4. ^ a b c d 「邦画マンスリー 洋画に大攻勢をかけた秋の大作戦線と、転換期を迎えた邦画界」『ロードショー』1977年12月号、集英社、 189頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「トピックス 三越映画進出の賑やかな周辺 ー社長同士が仲のいい東映とドッキングかー」『実業界』1977年11月15日号、株式会社実業界、 19頁。
  6. ^ 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、109頁。ISBN 978-4-636-88519-4
  7. ^ a b c d 「NEWSofNEWS果たして『クラシックカーが身を助く』か 安宅興産がコレクション生かす新事業を東映と…」『週刊読売』1977年6月11日号、読売新聞社、 20頁。
  8. ^ a b c d 「トピックス 映画に燃える三越"岡田商法 東宝と10億円を折半出資して共同製作する思惑」『実業界』1977年11月15日号、株式会社実業界、 15頁。
  9. ^ 「日本の映画界が生んだ名プロデューサー 藤本真澄さんが一生独身をとおして急逝」『週刊平凡』1978年5月17号、平凡社、 162-164頁。
  10. ^ 「追悼 映画監督 小林正樹 〈小林正樹 フィルモグラフィーと自作を語る〉」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1996年12月下旬号、 122頁。
  11. ^ a b c 「POST 日本映画 日本映画界は"健さん"ブーム大過熱」『週刊明星』1978年3月26号、集英社、 47頁。
  12. ^ a b c d e f g h 「撮影報告『燃える秋』」『映画撮影』1978年11月号 NO.66、日本映画撮影監督協会、 9頁。
  13. ^ a b 「邦画マンスリー 邦画界トピックス」『ロードショー』1978年5月号、集英社、 251頁。
  14. ^ a b c d e f g h 八森稔「『燃える秋』特集1 小林正樹監督インタビュー」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1978年12月下旬号、 78–80。
  15. ^ a b c d e f g h 「〈バラエティ〉特選 スーパームービー速報 クランクアップした 燃える秋」『バラエティ』1978年12月号、角川書店、 48 - 50頁。
  16. ^ a b c 福岡翼「『燃える秋』特集2 真野響子インタビュー」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1978年12月下旬号、 78–80。
  17. ^ a b c d e f g 「イランに似合う真野響子 『燃える秋』イラン・ロケから」『映画情報』1978年8月号、国際情報社、 ページ表記のない書籍。
  18. ^ a b c 山口昌子「『燃える秋』特集4」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1978年12月下旬号、 84–85。
  19. ^ 南俊子「『燃える秋』特集3」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1978年12月下旬号、 86–87。
  20. ^ 佐藤忠男「連載日本映画月評 稲垣俊脚本 小林正樹監督作品 『燃える秋』」『シナリオ』、日本シナリオ作家協会、1979年2月号、 8-9頁。

関連項目編集

外部リンク編集