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本来の表記は「西澤暲」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

西澤 暲(にしざわ あきら、1934年6月30日 - )は、兵庫県神戸市出身のフリーアナウンサー2018年7月の時点で、日本における現役最高齢のスポーツアナウンサーである。

人物・経歴編集

兵庫県立長田高等学校への在学中には、軟式野球部のキャプテンを務めるかたわら、文化祭で総合司会を務めた。卒業後に進学した関西学院大学では、学内の放送研究会(通称「KGB」、現在の総部放送局)に所属。学生タレントとして、ラジオで多数のCMや番組に出演した。大学時代の同期生に、藤岡琢也などがいる。

大学卒業後の1958年に、大阪放送(OBC、現在のラジオ大阪)へアナウンサー第1期生として採用。入社直後から、主にスポーツ中継を担当した。当時同局で放送していたプロ野球ナイトゲーム中継では、実況アナウンサーの隣に両チームのファンを座らせたうえで、アナウンサーが解説者の役割を兼ねながら実況していたという。また、同年7月まで阪神甲子園球場の本塁側グラウンド下に存在した「葦簀張りの放送席」で、最後に実況を経験している[1]

1961年にOBCから中部日本放送(CBC)へ移籍。OBC時代と同じく、プロ野球中継などのスポーツ番組で活躍した。1964年東京オリンピックで、民放ラジオ局アナウンサーの代表として、陸上競技ボート競技[2]などのラジオ中継で実況を担当。陸上競技の中継では、10時間連続で実況を務めた。

やがて、CBCを退社すると、フリーアナウンサーとして地元の関西地方を中心に活動。1970年から2001年までは、サンテレビのプロ野球中継『サンテレビボックス席』で、32年間にわたって阪神タイガースの公式戦を中心に500以上の試合の実況を担当した。また、テレビ和歌山が制作・放送する全国高等学校野球選手権和歌山大会中継では、同局の開局1年目(1974年)から実況陣に加わっている。

アメリカンフットボールの中継・関連番組にも、武田建(母校のチームである関西学院大学ファイターズの元監督)とのコンビを中心に、実況担当として長らく活躍している。かつては、サンテレビで「カレッジフットボールin USA」や関西の大学カレッジフットボウルの実況などを担当。1990年代からは、CS放送のGAORAにおいて、「キャスター」という肩書でNFL中継の実況を務めている。ちなみに、NFLのチームでは、アトランタ・ファルコンズの大ファンであることを公言。スポーツアナウンサーとして中継で実況した種目は、前述の種目にバレーボールなど35種目前後に達する。

大学およびアナウンサーとしての後輩に当たる戸倉信吉朝日放送でアナウンサー・テレビ制作部プロデューサー・デジタルメディア局長を歴任)の母方の叔父[2]。80代に入った2014年以降も、フリーランスのスポーツアナウンサーとして、前述のNFLや全国高等学校野球選手権和歌山大会・兵庫大会中継の実況を担当している。また、KGB懇親サロンの会長・サン放送アカデミーの講師・一般社団法人リコネクトテレビジョンの顧問[3]を務めるかたわら、「スポーツキャスター」という肩書で講演活動も展開。今後の目標として、自身2度目の東京オリンピックになる2020年夏季大会での実況を挙げている[4]

2014年2月には、「元『サンテレビボックス席』アナウンサー」という肩書で、講談社から自身初の著書「阪神戦、実況32年。」を刊行。江本孟紀の阪神退団・現役引退(1981年)のきっかけになったとされる「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言を本人から直接聞いていたことを明かした[5]ほか、『サンテレビボックス席』の担当時代に交流があった阪神OBの解説者・主力選手のエピソードや、実況アナウンサーとしての経験などを綴っている。

出演番組編集

以下はいずれも、サンテレビが制作するスポーツ中継番組。

実況を担当した阪神タイガースの主な試合編集

いずれも阪神甲子園球場で開催。実況を担当したプロ野球の試合自体は、OBC・CBCのアナウンサー時代を含めて、通算で1050試合以上に達する[6]

  • 1973年8月30日:阪神タイガース対中日ドラゴンズ
  • 1973年10月22日:阪神タイガース対読売ジャイアンツ(巨人)
    • 両チームにとってセントラル・リーグ優勝の掛かった大一番だったが、巨人が9-0で大勝するとともにリーグ9連覇を達成。試合終了の直後から、怒り心頭に発した大勢の阪神ファンが、スタンドや三塁側の巨人ベンチ内で暴動を起こした(阪神タイガース#世紀の落球とV9も参照)。内野スタンドバックネット裏中段の放送席でも、サンテレビと同時に試合を中継していた読売テレビテレビカメラが、ファンに奪われたあげく破壊されるなどの被害が発生。しかし西澤は、「サンテレビは、俺らの味方や!手を出すな!」というファンの一声で、辛うじて放送席ごと難を逃れた。この一件は、「サンテレビが阪神ファンから絶大な信頼と愛情を寄せられているエピソード」として、現在まで語り継がれている。ただし西澤は、「(試合終了後にも)放送が続いていたため、何事か実況していたはずだが、何を喋っていたのかは記憶の中からすっぽりと抜け落ちている」という[7]
  • 1985年10月31日日本シリーズ第5戦(阪神タイガース対西武ライオンズ戦)
    • 独立UHF局による史上初の日本シリーズ中継。西澤が同シリーズの試合を実況したのは、この日だけである[8]。ただし、現在に至るまで、阪神のセントラル・リーグ優勝や日本シリーズ制覇の瞬間を実況したことはない[9]
  • 1992年9月11日日本プロ野球史上最長試合(阪神タイガース対ヤクルトスワローズ戦)
    • 試合時間が6時間26分に及んだ末に、延長15回で引き分け。西澤は、当日の午前9時から午後2時まで兵庫県芦屋市のスタジオでサンテレビのNFL関連番組を収録した後に、隣の西宮市にある甲子園球場へ移動。午後6時の試合開始から、放送終了の翌12日の午前0時35分まで、ウーロン茶を缶2本分飲んだだけで何も食べずに実況を続けた[10]。この中継は、平均視聴率28.0%、瞬間最高視聴率50.0%を記録した(当時視聴率調査を実施していたエーシーニールセン・関西地区調べ)。

著書編集

脚注編集

  1. ^ 『阪神戦・実況32年。』「はじめに」より。甲子園球場では、1958年夏の第40回全国高等学校野球選手権大会板東英二徳島商業高校のエースとして大会記録の1大会通算83奪三振を樹立した大会)を前に、プロ野球シーズン中の突貫工事によって現在の場所(バックネット裏の内野スタンド中段)に放送席を移した。
  2. ^ a b 戸倉の公式ブログ『メディアウォッチャーのぶlog』2012年10月22日付記事「'64 東京オリンピック民間放送代表アナウンサー西澤暲氏、いまも現役!!」
  3. ^ 一般社団法人リコネクトテレビジョン 団体概要
  4. ^ 前掲書「あとがき」
  5. ^ 前掲書第1章第1節「『ベンチがアホやから』発言の真実。江本孟紀を引退させたのは僕!?」(pp.10-14)
  6. ^ サン放送アカデミー 西澤暲講師”. 2014年3月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年3月1日閲覧。
  7. ^ 前掲書第2章第11節「73年最終戦、甲子園で阪神が敗れ暴動が発生。そのとき放送席は!?」(pp.113-117)。サンテレビ・読売テレビと同時に中継していた朝日放送の放送席も、サンテレビと同様の理由で被害を逃れた。
  8. ^ 前掲書あとがき
  9. ^ 阪神は、1955年の2リーグ分立から2013年までに、セントラル・リーグで5回優勝している。このうち、1962年1964年には、原則として阪神戦を自社制作で中継しないCBCに勤務。2003年2005年には、『サンテレビボックス席』の実況担当を既に勇退していた。1985年については、神宮球場でのヤクルト戦でリーグ優勝が決まった(関西地方では関西テレビが優勝決定の瞬間のみ中継)うえに、日本シリーズを制したのは西武球場での第6戦(いずれもサンテレビが放送権を保有せず)だった。
  10. ^ 前掲書第3章第9節「'92年、史上最長6時間26分の死闘。その時放送席は!? ベンチ裏は!?」(pp.155-159)

外部リンク編集