鬱陵島
鬱陵島(ウルルンとう、うつりょうとう、朝鮮語: 울릉도)は、大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する日本海に浮かぶ直径10km程度の火山島である。
鬱陵島 | |
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![]() 定期航空機から臨む鬱陵島。 島の南西方向より撮影。 | |
所在地 |
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所在海域 | 日本海 |
座標 | 北緯37度30分0秒 東経130度52分0秒 / 北緯37.50000度 東経130.86667度座標: 北緯37度30分0秒 東経130度52分0秒 / 北緯37.50000度 東経130.86667度 |
面積 | 72.82 km² |
最高標高 | 984 m |
最高峰 | 聖人峯 |
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鬱陵島 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 울릉도 |
漢字: | 鬱陵島 |
発音: | ウルルンド |
日本語読み: | うつりょうとう |
ローマ字転写: | Ulleung-do |
朝鮮半島から約130km沖合いに位置する。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、성인봉)で標高984m。平地はほとんどなく、道が悪いので車はほとんどが四輪駆動車である。住民は約1万人で、4割が漁業、2割が農業に従事している。江戸期の日本名は「竹島」または「磯竹島」、明治期1905年までは「松島」。近代になって西洋においては「Dagelet」などと呼ばれていた。最大の付属島は島の北東に位置する竹嶼(島根県に属する竹島とは異なる)、他に観光地となっている観音島などがある。また、島全体が豪雪地帯となっている。
- 人口:約1万160人(2007年)
歴史編集
三国史記によると、鬱陵島は于山国として独立していたが、512年に朝鮮本土の国(新羅)に服属させられ、11世紀初頭には女真の侵攻によって滅びたと考えられている。やがて女真が滅びると朝鮮の支配下になるが、この島は朝鮮本土より遠隔地の海上にあり監察使が頻繁に来ることができないため、兵役や税を逃れる者が本土より多数移住していた。朝鮮王朝時代の記録によれば、晴れた日には鬱陵島が望洋亭や召公臺など、朝鮮半島の東岸部から見えるとの記載がある。
倭寇対策としての「空島」政策編集
13世紀から16世紀にかけて朝鮮本土や中国を荒らしまわっていた「倭寇」と呼ばれる海賊が鬱陵島を拠点に朝鮮本土を襲ったり、鬱陵島の島民までもが倭寇を装って(仮倭という[1])半島本土を襲うことがあったため、1417年、李氏朝鮮の太宗はこの対策として、同島の居住者に本土への移住を命じた。いわゆる「空島政策」の発令で、1881年まで460年以上に渡って無人島となった。
米子商人の鬱陵島拝領編集
1618年(元和4年)5月16日、江戸幕府は鳥取藩主池田光政(松平新太郎)にあてて伯耆国米子(現、鳥取県 米子市)の商人、大谷・村川の両氏に対し、鬱陵島(当時、竹島)への渡海免許をあたえ、将軍家の家紋を打ち出した船印を立てることを許可した[2]。幕府はまた鬱陵島で林業や漁猟を行う許可も与えていた[3]。これは、両商人が鬱陵島の独占的経営を幕府公認でおこなっていたことを意味する[2]。
竹島一件編集
上述のように、隠岐の漁師などが空島であった鬱陵島へおもむいて海産物や竹などを採取し、これを独占的に米子商人が取引することは幕府によって認められていた。このとき朝鮮本土より密漁に来ていた朝鮮人を見つけ日本へ連行し、幕府が李氏朝鮮に対し抗議した。自国領とみなす朝鮮がこれに反発。日朝間で長期間論争が続いたが、1697年(元禄10年)1月、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉は、日本人の鬱陵島への出漁を禁じる措置をとり、その旨を李氏朝鮮に伝えた。こうして、日本の漁師たちが幕府の許可を得て鬱陵島に渡航することはなくなった。
春官志の記録編集
1745年(英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志』には、「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、古くは竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島などとも呼ばれ、竹を産していたことが分かる。
ヨーロッパ人による「発見」編集
1787年、フランスの探検家ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローが鬱陵島に到着して、これを「ダジュレー(Dagelet)島」と名付けた[4]。1789年にはイギリスの探検家ジェイムズ・コルネットも対馬海峡から日本海に入り、その後、北上して鬱陵島を「発見」したが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と命名した[4]。しかし、ラ・ペルーズとコルネットが測定した鬱陵島の経緯度には測量ミスにともなうズレがあったため、その後、ヨーロッパで作成された地図には、同じ鬱陵島がそれぞれ別の2島であるかのように記載されることとなった[4][注釈 1]。
1840年頃から、西洋や日本では島名の混乱により鬱陵島を「ダジュレー島/松島」と呼ぶようになった。(竹島外一島を参照)。
近代編集
李氏朝鮮は長期間鬱陵島に対し無人政策をとっていたため人は住んでいなかったが、1881年、朝鮮政府は日本政府に対し「鬱陵島渡海禁止」を要求した[5]。1882年国王高宗は鬱陵島検察使・李奎遠にこの島の調査を指示し空島政策を廃止、その後再び人が住み始めた。1883年、日本政府はこの要求を受け入れて日本人を強制帰国させた[5][注釈 2]。
1896年8月28日、帝政ロシアは朝鮮政府とのあいだに「露人ブリーネル茂山及鬱陵島山林伐採並植付に関する約定書」を結び、鬱陵島の森林伐採と植栽に関する特許をユーリ・イワノヴィチ・ブリーネルが設立した「朝鮮木商会社」に与えた[6]。
1904年2月、日露戦争が勃発し、同月、日韓間で日韓議定書が結ばれた。同年5月、韓国政府は韓露条約を破棄し、同時に豆満江・鴨緑江とともに鬱陵島の森林伐採権の破棄を声明した[7]。
1905年、日本海海戦が近海で行われて日露戦争で日本が勝利し、1910年 の日韓併合により日本領となる。
現在編集
1952年に発効したサンフランシスコ平和条約により、日本は済州島、巨文島とともに鬱陵島の領有を放棄した(なお、竹島の領有権についてはこの条約に直接明記されていない)。同条約で日本政府は朝鮮の独立を認めたため、以降、日本政府は鬱陵島は朝鮮に帰属するものとして扱った。
当初は鬱陵島民の生業は農業が主体であったが、現在は漁業の島になっている。また注目されていなかったことが却って自然保護に繋がりエコツーリズムも盛んとなっている。
交通編集
鬱陵島の気候編集
鬱陵島の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 14.9 (58.8) |
19.2 (66.6) |
21.8 (71.2) |
26.1 (79) |
29.4 (84.9) |
32.2 (90) |
34.6 (94.3) |
34.6 (94.3) |
32.4 (90.3) |
27.2 (81) |
23.2 (73.8) |
17.9 (64.2) |
34.6 (94.3) |
平均最高気温 °C (°F) | 4.3 (39.7) |
5.3 (41.5) |
9.1 (48.4) |
15.1 (59.2) |
19.3 (66.7) |
22.2 (72) |
25.2 (77.4) |
26.7 (80.1) |
23.1 (73.6) |
18.8 (65.8) |
13.1 (55.6) |
7.5 (45.5) |
15.8 (60.4) |
日平均気温 °C (°F) | 1.4 (34.5) |
2.2 (36) |
5.4 (41.7) |
11.1 (52) |
15.5 (59.9) |
18.8 (65.8) |
22.3 (72.1) |
23.6 (74.5) |
19.8 (67.6) |
15.3 (59.5) |
9.7 (49.5) |
4.4 (39.9) |
12.4 (54.3) |
平均最低気温 °C (°F) | −0.8 (30.6) |
−0.2 (31.6) |
2.5 (36.5) |
7.7 (45.9) |
12.1 (53.8) |
16.0 (60.8) |
20.0 (68) |
21.4 (70.5) |
17.4 (63.3) |
12.6 (54.7) |
7.1 (44.8) |
2.0 (35.6) |
9.8 (49.6) |
最低気温記録 °C (°F) | −11.6 (11.1) |
−13.6 (7.5) |
−9.9 (14.2) |
−2.7 (27.1) |
3.8 (38.8) |
7.0 (44.6) |
12.5 (54.5) |
14.7 (58.5) |
8.9 (48) |
0.7 (33.3) |
−5.9 (21.4) |
−9.6 (14.7) |
−13.6 (7.5) |
降水量 mm (inch) | 116.2 (4.575) |
78.1 (3.075) |
72.2 (2.843) |
81.3 (3.201) |
105.1 (4.138) |
115.3 (4.539) |
170.2 (6.701) |
167.9 (6.61) |
170.7 (6.72) |
83.9 (3.303) |
105.5 (4.154) |
117.1 (4.61) |
1,383.4 (54.465) |
平均降水日数 (≥ 0.1 mm) | 18 | 14 | 11 | 8 | 8 | 9 | 12 | 11 | 9 | 9 | 12 | 16 | 137 |
% 湿度 | 70.1 | 69.6 | 69.8 | 69.2 | 72.1 | 80.4 | 85.9 | 85.0 | 80.3 | 72.5 | 68.6 | 68.5 | 74.3 |
平均月間日照時間 | 90.4 | 104.1 | 167.2 | 212.0 | 227.3 | 175.0 | 150.7 | 163.3 | 158.7 | 176.8 | 130.0 | 100.6 | 1,856.1 |
出典: 기상청. 평년값자료 30년 (1981−2010)、 최고기온기록、최저기온기록 |
噴火活動編集
今から約10,300年前に鬱陵島は大規模な噴火を起こしたことが明らかになっている[10]。このときの噴火の火山灰は鬱陵島から東南東方向に長軸を持ち、日本海や本州における広域テフラの一つ(鬱陵隠岐 (U-Oki))として年代測定の材料の一つとして使われている[11]。最新の噴火は約5,000年前で、この時にアルボン溶岩ドームを形成した[12]。
鬱陵空港建設計画編集
鬱陵島では、滑走路長1200メートルの空港を2025年に開港する予定で建設する計画が立てられている(鬱陵空港)。建設期間は5年、建設費は6400億ウォンとみている。
経緯編集
1970年に朴正煕大統領が最初に空港の妥当性の調査をしていた。
2010年12月20日、KDI(Korea Development Institute 韓国開発研究院)は鬱陵島の空港の経済性がないという結論を下した。鬱陵郡守はこれに対して異議を唱えた。
2011年1月5日、国土海洋部は、第4次空港開発中長期総合計画(2011年 - 2015年)を策定し、官報に告示。ここに鬱陵島空港の建設が含まれていた。ボンバルディア社製Q300モデルやATR社のATR42など、50人乗り旅客機が運航できるとみている。2030年になれば、年間100万人程度の航空需要で、経済性は十分だと予測した[13]。しかし、2016年には入札が撤回され見込みは立っていない[14]。
領有権争いのある竹島との関わり編集
鬱陵島から東南東へ約90kmのところには、日韓で領土問題となっている竹島(韓国名:独島)がある。現在、韓国がこの島を自国領であるとして、鬱陵郡に属する形で実効支配しているが、これに対して日本は「不法占拠」として抗議している。
竹島へは2005年3月28日より、鬱陵島の道洞港から大亜高速海運によって毎日観光船が運航され、日本人を含め外国人も乗船できる。竹島では、観光客は韓国が建設したコンクリート製の埠頭には上陸できるが、領土である岩には韓国人であっても足を踏み入れられない。
竹島への船の発着場でもある道洞の港や船には、独島が韓国領であることをアピールする巨大な看板などが並び、「独島」を冠した店名の食堂や土産物店などが林立している。道洞港から徒歩約15分の道洞薬水公園内には独島博物館があり、ここよりケーブルカーで登った展望台(標高317m)からは、晴天で空気が澄んでいれば、双眼鏡で竹島をかすかに望むことができる。この独島博物館は竹島の韓国領有をアピールするための博物館で、韓国の財閥 サムスングループの会長が国に寄付し、鬱陵郡が運営している。
竹島は鬱陵島の標高約200m以下では水平線の下に隠れるため海岸付近からは見ることはできないが、晴天で空気が澄んでいるときに高い山の中腹まで登れば、肉眼でもかすかに見ることができる(但し、肉眼で確認できるチャンスは年間に数日と言われている)。竹島(独島)を肉眼で見ることができるので「古来より朝鮮人が日本人より先に独島を発見していた」として、韓国側の竹島領有の根拠の一つとしている。
1964年には、江戸時代に発生した竹島一件の原因となった漁民安龍福を顕彰する「安龍福将軍忠魂碑」が鬱陵島に建立される[15](安龍福は将軍ではないが韓国では将軍と呼称されることが多い。また、現在の竹島を安龍福がはっきり認知していた証拠もない)。
また、独島博物館の入口近くには「対馬島本是我國之地(対馬は我が国の地)」と刻まれた石碑が立てられるなど、韓国人観光客が多く訪れる道洞港周辺は韓国人の一大愛国教育基地という様相を呈している。
2011年8月1日、自民党の国会議員である新藤義孝、稲田朋美、佐藤正久が鬱陵島の独島博物館などを視察するため韓国に向かったが、金浦空港で入国拒否され日本に引き返した[16]。その前日の7月31日には、3人と合流する予定だった下條正男拓殖大教授も仁川空港で入国拒否された[17]。
脚注編集
注釈編集
- ^ 長崎のオランダ商館医であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1840年、ヨーロッパにおいて『日本図』を刊行したが、彼は前もって隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(現在の鬱陵島)、「松島」(現在の竹島)の2島があることを知っていた。その一方、ヨーロッパの地図からは、西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称の島が並んでいる知見を得たため、彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」、「ダジュレー島」が「マツシマ」として記載し、それにより、従来「竹島」又は「磯竹島」と呼称されてきた鬱陵島が「松島」とも呼ばれる混乱が生じた[4]。
- ^ 1900年、大韓帝国は高宗の勅令をもって鬱陵島を江原道鬱島郡に昇格させ、鬱陵島の領土画定を宣言した[5]。日本政府もこれを認めた。
出典編集
- ^ 下條正男 『竹島は日韓どちらのものか』 文藝春秋〈文春新書〉、2004年
- ^ a b 竹島問題一次資料保管庫「大谷・村川家への渡海免許」
- ^ 島根県:竹島資料室
- ^ a b c d 外務省「竹島問題の概要」
- ^ a b c 『日本人が知っておくべき竹島・尖閣の真相』(2012)pp.39-48
- ^ 東亜関係特種条約彙纂 P.781 東亜同文会 1904年5月22日
- ^ 施政二十五年史 年表P.1 朝鮮総督府 1935年9月27日
- ^ 独島‐鬱陵島を結ぶ航空便就航へ
- ^ 鬱陵島に空の道、水陸両用機が年内にも就航見通し
- ^ Nakagawa, et al. (2012). “SG06, a fully continuous and varved sediment core from Lake Suigetsu, Japan: stratigraphy and potential for improving the radiocarbon calibration model and understanding of late Quaternary climate changes”. Quaternary Science Reviews 36: 164-176. doi:10.1016/j.quascirev.2010.12.013 2018年3月3日閲覧。.
- ^ 日本海とその周辺に分布する鬱陵島起源の完新世テフラ 第四紀研究 Vol.52 (2013) No.5 p.225-236
- ^ G. B. Kim, et al. (2014). “Post 19 ka B.P. eruptive history of Ulleung Island, Korea, inferred from an intra-caldera pyroclastic sequence”. Bulletin of Volcanology 76: 802. doi:10.1007/s00445-014-0802-1 2018年3月3日閲覧。.
- ^ 鬱陵島に小型空港推進...の50人乗り以下の規模の運航 imaeil.com 韓国毎日新聞 2011-01-06(朝鮮語)
- ^ 鬱陵空港建設延期 大邱日報 2016-05-20 (朝鮮語)
- ^ 下條正男 『竹島は日韓どちらのものか』 文藝春秋〈文春新書〉、2004年,21頁
- ^ 韓国、自民3議員の入国拒否 ロイター 2011年8月1日
- ^ 自民議員の入国拒否へ=竹島研究の拓大教授も―韓国 朝日新聞 2011年8月1日
関連項目編集
参考文献編集
- 『百科事典マイペディア~「鬱陵島」項目』日立システム(2007)
外部リンク編集
- 神秘の鬱陵島へようこそ! (鬱陵郡公式サイト)
- 独島博物館
- Ulreung - Global Volcanism Program