福田晴一
福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 1996年5月11日)は、日本の映画監督、脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15]。別名船橋 一(ふなばし はじめ)[4][8][9][11][12]。1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、内田吐夢に師事し、内田とともに興亜映画、松竹京都撮影所と移る[1][5]。第二次世界大戦に出征した時期を挟んで同撮影所で助監督を務め、1954年(昭和29年)に監督昇進、「伝七捕物帳シリーズ」「二等兵物語シリーズ」のほとんどの作品を手がける[1][5][9][10][12]。1962年(昭和37年)に退社後は、黎明期の成人映画を量産し、台湾映画・インドネシア映画も手がけた[1][5][8][9][12]。
ふくだ せいいち 福田 晴一 | |
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別名義 | 船橋 一 (ふなばし はじめ) |
生年月日 | 1916年8月16日 |
没年月日 | 1996年5月11日(79歳没) |
出生地 | 日本 東京府南足立郡千住町本町 |
死没地 | 日本 千葉県船橋市 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | 劇場用映画(時代劇映画、コメディ映画、成人映画)、ドキュメンタリー映画、テレビ映画 |
活動期間 | 1939年 - 1970年代 |
配偶者 | 有 |
事務所 |
日活多摩川撮影所 松竹京都撮影所 福田プロダクション |
主な作品 | |
「伝七捕物帳シリーズ」(1954年 - 1959年) 「二等兵物語シリーズ」(1955年 - 1961年) 『産婦人科日記より 悪徳医』(1966年) 『続悪徳医 女医篇』(1967年) |
人物・来歴
編集1916年(大正5年)8月16日、東京府南足立郡千住町本町(現在の東京都足立区千住)に生まれる[1][5][6][10][11][13]。同地は、明治時代に開業した北千住駅の西口駅前に位置し、福田の幼少時から青年期にかけて、周囲には複数の映画館が存在した[16][17]。幼少時から映画界に憧れ[1]、旧制・蔵前高等工業学校(現在の東京工業大学)建築科在学中、1935年(昭和10年)5月に日本で公開された『外人部隊』[18]の監督ジャック・フェデーに憧れ、映画界入りへの思いを抱いたという[5]。
1937年(昭和12年)3月、同校を卒業、1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所に入社する[1][5]。内田吐夢[19]、島耕二[20]らに助監督として師事していたが、1941年(昭和16年)に全勝キネマを松竹が買収して設立した興亜映画に内田が移籍、福田はそれとともに同社へ移籍する[1]。同年11月、興亜映画が興行会社に業態を変更したのにともない、内田とともに太秦の松竹京都撮影所に転籍している[1]。第二次世界大戦が始まり、翌1942年(昭和17年)1月10日には、日活等が戦時統合を行い大映を設立しているが、このころ福田は、内田のほか、田坂具隆[21]の作品等の助監督を務めていた[1]。戦局も押し迫った1944年(昭和19年)6月、満27歳の福田は召集を受けて海軍補充兵として入営、サイパン、グアム、トラック島といった南洋の激戦地を転戦した[1]。
1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦は終了したが、福田が復員後、職場に復帰したのは1946年(昭和21年)6月、満29歳のときであった[1]。その後、『長崎物語』(大曾根辰夫[22]、1947年12月18日公開)等の作品で助監督を務めた[1]。1950年(昭和25年)1月29日、結婚した[1]。チーフ助監督に昇進して記録に残っているのは、『あゝ青春』(監督佐分利信、1951年6月15日公開)、『稲妻草紙』(監督稲垣浩、1951年12月30日公開)、『丹下左膳』(監督松田定次、1952年8月14日公開)等である[8]。助監督の身分のまま、1952年(昭和27年)に短篇映画を2本、1954年(昭和29年)2月17日には初めて監督した長篇劇映画『風来坊』が公開されており、同年9月には正式に監督に昇進し、同年12月8日に公開された『伝七捕物帳 黄金弁天』が公式な監督第一作である[1][9][10][12]。高田浩吉が主演した「伝七捕物帳シリーズ」は全12作のうち7作、翌1955年(昭和30年)から始まる伴淳三郎・花菱アチャコ主演の「二等兵物語シリーズ」は全10作のうち9作、それぞれ福田が監督した[1][9][10][12]。同年、師の内田吐夢が長いシベリア抑留から帰国、東映京都撮影所で『血槍富士』を監督することになり、13年ぶりに再会した[1]。このとき内田は福田に「演出の心がまえとは?」と問い、福田は「当分は、安くて早くておもしろい作品を」と答えたという[1]。1960年(昭和35年)10月12日に放映を開始したオムニバステレビ映画『十字路』全12話では、第1話と最終話のほか第5話も監督した[14]。劇場用映画38作を監督して、1962年(昭和37年)6月、満45歳のときに松竹を退社した[1]。
フリーランスになってからは、宝塚映画製作所が製作し、1965年(昭和40年)1月6日 - 同年3月31日に放映された連続テレビ映画『剣は知っていた』(原作柴田錬三郎、脚本藤本義一)を監督している[14]。1941年以来、出征中を挟んで24年間、仕事の中心地であった関西を離れて、同年中に関東に戻り、独立系成人映画の世界に踏み出す[1][3][8][9][10][11][12][13]。第一作は、元新東宝の小森白のKPC(のちの東京興映)、同じく寺坂徹の寺坂プロダクションが共同で製作し、新東宝関西支社の後身である新東宝映画が配給、翌1966年(昭和41年)1月に公開された牧和子(のちの松井康子)主演作、『爛熟』である[1][3][9][12][13]。協立映画が製作、日本シネマフィルム(日本シネマ)が配給して同年6月に公開された香取環の主演作『産婦人科日記より 悪徳医』はヒットし、シリーズ化した[1][3][9][12][13]。続篇として製作され、翌1967年(昭和42年)5月23日に公開された左京未知子主演作『続悪徳医 女医篇』[1][9][12][13]は、「マダム・オー」(Madame O)の題名で1970年(昭和45年)には米国で公開されている[13]。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、深田金之助、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)とともに、福田の名を挙げている[2]。福田は27作の成人映画を短期間に量産した[1][3][8][9][12][13]。
1969年(昭和44年)8月、台湾に渡り、國民教育電影が製作する映画『龍王子』を監督した[1][23]。同年11月に関東映配が配給して公開された『肉ずき』を最後にしばらく成人映画を離れ、1971年(昭和46年)5月に公開された青山美沙主演作『衝撃の性告白 交換の罠』[8]については、船橋 一の名でクレジットされた[8][9][12]。当時福田は、千葉県船橋市に住み、以降、同市内で暮らした[1][4][24]。以降、成人映画の世界を去り、同年10月、翌1972年(昭和47年)7月の二回、インドネシアに滞在、現地での映画製作に取り組んだ[1]。
フィルモグラフィ
編集特筆以外のクレジットはすべて「監督」である[1][3][4][8][9][10][11][12][13][14]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[8][15]。
助監督時代
編集- 『歴史 第一部 動乱戊辰』 : 監督内田吐夢、原作榊山潤、主演小杉勇、製作日活多摩川撮影所、配給日活、1940年5月15日公開 - 助監督
- 『歴史 第二部 焦土建設』『歴史 第三部 黎明日本』 : 監督内田吐夢、原作榊山潤、主演小杉勇、製作日活多摩川撮影所、配給日活、1940年5月30日公開 - 助監督
- 『山高帽子』 : 監督島耕二、原作河内仙介、主演杉狂児・伊沢蘭子、製作日活多摩川撮影所、配給日活、1941年1月14日公開 - 助監督
- 『次郎物語』 : 監督島耕二、原作下村湖人、主演杉幸彦、製作日活多摩川撮影所、配給日活、1941年12月11日公開 - 助監督、86分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『興亜奉公日』 : 監督山口順弘、構成佃順、製作加治商会、配給日東商事、公開日不明(1940年前後) - 山口辰雄・島崎陽一とともに撮影・編集
- 『村の聲』 : 監督山口順弘、製作日本中央蠶絲會、公開日不明(1940年前後) - 佐田豊彦とともに演出助手、9分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『町は青空』 : 脚本佃順、主演押本映治、製作・配給加治商会、1940年公開 - 佐田豊彦・山口順弘とともに監督、41分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
松竹京都撮影所
編集特筆以外すべて製作は松竹京都撮影所、配給は松竹である[1][8][9][10][11][12][13][14]。
- 『母子草』 : 監督田坂具隆、原作小糸のぶ、主演風見章子、配給映画配給社(白系)、1942年6月4日公開 - 助監督
- 『鳥居強右衛門』 : 監督内田吐夢、原作吉川英治、主演小杉勇、配給映画配給社(紅系)、1942年10月1日公開 - 助監督
- 『海軍』 : 企画大本営海軍報道部、監督田坂具隆、原作岩田豊雄、主演山内明、配給映画配給社(紅白系)、1943年12月8日公開 - 助監督
- 『長崎物語』 : 製作小倉浩一郎、監督大曾根辰夫、脚本斎藤良輔・長瀬喜伴、主演水島道太郎、1947年12月18日公開 - 助監督
- 『あゝ青春』 : 製作杉山茂樹、監督佐分利信、脚本猪俣勝人、1951年6月15日公開 - チーフ助監督、109分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『稲妻草紙』 : 製作小倉浩一郎、監督稲垣浩、主演阪東妻三郎、1951年12月30日公開 - チーフ助監督、98分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『丹下左膳』 : 製作小倉浩一郎、監督松田定次、原作林不忘、脚本菊島隆三・成沢昌茂、主演阪東妻三郎、1952年8月14日公開 - チーフ助監督、92分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『都おどり』[12](『都をどり』[1]) : 考案谷崎潤一郎、主演祇園甲部歌舞会、1952年9月11日公開(短篇映画) - 構成(監督)
- 『和歌山県へ御招待』 : 1952年公開(短篇映画) - 構成(監督)
- 『風来坊』 : 原作山手樹一郎、主演若杉英二、1954年2月17日公開 - 監督デビュー作
- 『伝七捕物帳 人肌千両』 : 製作小倉浩一郎、監督松田定次、主演高田浩吉、1954年4月7日公開 - チーフ助監督
- 『伝七捕物帳 黄金弁天』 : 製作小倉浩一郎、原作野村胡堂、主演高田浩吉、1954年12月8日公開 - 公式監督第一作
- 『喧嘩奴』 : 製作小倉浩一郎、脚本安田重夫、主演高田浩吉、1955年2月22日公開
- 『伝七捕物帖 女郎蜘蛛』 : 製作小倉浩一郎、原作野村胡堂、主演高田浩吉、1955年4月19日公開
- 『お役者小僧 江戸千両幟』 : 製作市川哲夫・小倉浩一郎、原作子母沢寛、脚本安田重夫、主演高田浩吉、1955年8月10日公開
- 『二等兵物語 前篇女と兵隊 後篇蚤と兵隊』 : 製作杉山茂樹、原作梁取三義、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1955年11月15日公開
- 『大江戸出世双六』 : 製作岸本吟一、脚本若尾徳平・淀橋太郎、主演高田浩吉、1955年12月28日公開 - 監督、50分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『伝七捕物帖 花嫁小判』 : 製作杉山茂樹、脚本八尋不二、主演高田浩吉、1956年1月8日公開
- 『続二等兵物語 五里霧中の巻』 : 製作杉山茂樹、原作梁取三義、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1956年3月18日公開
- 『伝七捕物帖 女狐駕籠』 : 製作杉山茂樹、脚本安田重夫、主演高田浩吉、1956年6月1日公開
- 『続二等兵物語 南方孤島の巻』 : 製作杉山茂樹、原作梁取三義、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1956年7月13日公開
- 『花笠太鼓』 : 製作杉山茂樹、脚本安田重夫、主演高田浩吉、1956年8月14日公開
- 『りんどう鴉』 : 製作杉山茂樹、脚本安田重夫、主演高田浩吉、1957年1月15日公開
- 『伝七捕物帳 美女蝙蝠』 : 製作杉山茂樹、主演高田浩吉、1957年1月29日公開(映倫番号 10031)
- 『続二等兵物語 決戦体制の巻』 : 製作杉山茂樹、原作梁取三義、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1957年3月26日公開(映倫番号 10068)
- 『折鶴さんど笠』 : 製作杉山茂樹、主演高田浩吉、1957年5月7日公開(映倫番号 10154)
- 『赤城の血煙 国定忠治』 : 製作杉山茂樹、原作子母沢寛、主演高田浩吉、1957年7月1日公開(映倫番号 10196)
- 『伴淳・アチャコ・夢声の活弁物語』 : 製作杉山茂樹、原作長谷川幸延、脚本舟橋和郎、主演伴淳三郎・花菱アチャコ・徳川夢声、1957年8月25日公開(映倫番号 10162)
- 『伝七捕物帳 銀蛇呪文』 : 製作杉山茂樹、脚本安田重夫、主演高田浩吉、1957年9月22日公開(映倫番号 10329)
- 『伝七捕物帳 髑髏狂女』 : 製作杉山茂樹、主演高田浩吉、1958年1月9日公開(映倫番号 10433)
- 『江戸群盗伝』 : 製作杉山茂樹、原作柴田錬三郎、主演近衛十四郎、1958年4月1日公開(映倫番号 10512)
- 『二等兵物語 死んだら神様の巻』 : 製作杉山茂樹、原作梁取三義、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1958年4月20日公開(映倫番号 10601) - 監督、90分の16mmフィルム版上映用プリントをデジタルミームが所蔵[15]
- 『大岡政談 謎の逢びき』 : 製作杉山茂樹・小糸章、主演名和宏、1958年7月13日公開(映倫番号 10697)
- 『昨日は昨日今日は今日』 : 製作杉山茂樹、原作大林清、主演瑳峨三智子・朝丘雪路、1958年8月17日公開(映倫番号 10741)
- 『水戸黄門漫遊記』 : 製作杉山茂樹、主演伴淳三郎、1958年11月11日公開(映倫番号 10920)
- 『二等兵物語 あゝ戦友の巻』 : 製作杉山茂樹、原作梁取三義、脚本安田重夫、主演伴淳三郎、1958年12月28日公開(映倫番号 10984)
- 『かた破り道中記』 : 製作杉山茂樹・内藤陽介、主演伴淳三郎・森繁久彌、製作松竹京都撮影所・関西喜劇人協会、配給松竹、1959年3月17日公開(映倫番号 11119)
- 『二等兵物語 万事要領の巻』 : 製作杉山茂樹、原作梁取三義、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1959年4月19日公開(映倫番号 11182)
- 『水戸黄門漫遊記 御用御用物語』 : 製作杉山茂樹・坂井禅互、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1959年7月7日公開(映倫番号 11311)
- 『とどけ母の叫び』(『とゞけ母の叫び』) : 製作杉山茂樹、脚本依田義賢、主演山田五十鈴・田村高広、1959年9月6日公開(映倫番号 11362)
- 『新二等兵物語 吹けよ神風の巻』 : 製作杉山茂樹、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1959年10月9日公開(映倫番号 11421)
- 『忍術武者修行』 : 製作杉山茂樹、脚本安田重夫、主演三木のり平・花菱アチャコ、1960年1月21日公開(映倫番号 12121)
- 『新二等兵物語 敵中横断の巻』 : 製作杉山茂樹、脚本安田重夫、主演伴淳三郎・花菱アチャコ、1960年4月1日公開(映倫番号 11715)
- 『流転』 : 製作吉村寛之、主演長岡秀幸・十朱幸代、1960年6月10日公開(映倫番号 11582)
- 『はったり二挺拳銃』 : 製作杉山茂樹、企画市川喜一、脚本小国英雄、主演伴淳三郎、1960年7月29日公開(映倫番号 12104)
- 『十字路』 : 製作松竹・フジテレビジョン、1960年10月12日 - 同年12月28日放映(オムニバステレビ映画)
- 『旗本愚連隊』 : 製作小倉浩一郎、原作村上元三、脚本伊藤大輔・山根優一郎、主演田村高廣・桑野みゆき、1960年12月27日公開(映倫番号 21132)
- 『第三捜査命令』 : 製作小糸章、原作樫原一郎、脚本高岩肇、主演田村高広、1961年3月15日公開(映倫番号 12193)
- 『喜劇 金の実る樹に恋が咲く』(『金の実る樹に恋が咲く』) : 製作吉村寛之、原作阿部知二、主演三上真一郎・伴淳三郎、1961年10月25日公開(映倫番号 12569)
フリーランス
編集- 『剣は知っていた』 : 企画村上光一、原作柴田錬三郎、脚本藤本義一、主演早川恭二、製作宝塚映画製作所・フジテレビジョン、1965年1月6日 - 同年3月31日放映(連続テレビ映画)
- 『爛熟』 : 製作寺坂徹、主演牧和子(松井康子)、製作KPC(東京興映)・寺坂プロダクション、配給新東宝映画、1966年1月公開(成人映画・映倫番号 14318)
- 『寝がえり』 : 脚本中井優、主演谷口朱里、製作真映プロダクション、配給日本シネマ、1966年5月3日公開(成人映画・映倫番号 14478)
- 『産婦人科日記より 悪徳医』(『悪徳医 産婦人科日記』) : 企画千葉実、製作池田一夫、脚本司知巳、主演香取環、製作協立映画、配給日本シネマフィルム、1966年6月公開(成人映画・映倫番号 14564)
- 『赤い情事』 : 製作鷲尾飛天丸、主演内田高子、製作・配給日本シネマ、1966年10月公開(成人映画・映倫番号 14664) - 監督、77分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『結婚詐欺』 : 主演美矢かほる、製作ICAプロダクション、配給東京興映、1966年12月公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『一〇〇万人の女性より あやまち』(『あやまち』) : 主演美矢かほる、製作寺坂プロダクション、配給新東宝映画、1967年3月公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『続悪徳医 女医篇』 : 企画千葉実、脚本司知巳、主演左京未知子、製作・配給日本シネマ、1967年5月23日公開(成人映画・映倫番号 14918) - 監督、72分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]、米国でDVD発売[13]
- 『蛇淫』 : 主演水城リカ、製作・配給東京興映、1967年7月11日公開(成人映画・映倫番号 14977) - 監督(小森白とも[9])
- 『女体蒸発』 : 主演泉ユリ、製作・配給日本シネマ、1967年7月18日公開(成人映画・映倫番号 14993)
- 『骨ぬき』 : 企画京城児、脚本伴照夫、主演美矢かほる、製作・配給六邦映画、1967年9月12日公開(成人映画・映倫番号 15056) - 監督、74分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]、米国でDVD発売[13][25]
- 『続・みだれ髪 肌色じかけ』 : 主演千月のり子、製作・配給六邦映画、1967年11月7日公開(成人映画・映倫番号 15134)
- 『後家ごろし』 : 主演松井康子、製作・配給東京興映、1967年公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『整形処女』 : 主演小柴とも子、製作東芸プロダクション、1967年公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『四畳半裏ばなし』 : 主演清水世津、製作・配給六邦映画、1967年製作・公開(成人映画・映倫番号 不明) - 監督、73分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『白い快感』 : 企画・製作菜穂俊一、脚本鳴滝三郎、主演乱孝寿、製作・配給ワールド映画、1968年6月公開(成人映画・映倫番号 15382)
- 『妖婦の生態』 : 主演清水世津、製作・配給大東映画、1968年公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『すすり泣き 非行性犯罪』 : 製作独立映画、1968年公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『もち肌くずれ』 : 主演清水世津、製作・配給六邦映画、1968年公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『悪徳女校医』[8](『悪徳女高医』[12]) : 製作馬場内弘、脚本池田正一、主演辰巳典子、製作・配給日本シネマ、1968年公開(成人映画・映倫番号 不明) - 監督[8](佐々木元とも[12])、74分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『銭と肌 巷説三億円強奪事件』(『銭と肌』) : 製作協立映画、配給新東宝興業、1969年3月公開(成人映画・映倫番号 15801)
- 『乳房開眼』 : 主演乱孝寿、製作福田プロダクション、配給関東映配、1969年5月公開(成人映画・映倫番号 15891)
- 『女体情話』 : 主演浜裕子、製作福田プロダクション、配給明光セレクト、1969年6月公開(成人映画・映倫番号 15931)
- 『妾と妻』 : 主演清水世津、製作福田プロダクション、配給関東映配、1969年7月2日審査・公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『裸身盗人』 : 製作福田プロダクション、配給関東映配、1969年8月20日審査・9月公開(成人映画・映倫番号 16036)
- 『おんな情欲絵巻 必殺女斬り』(『おれん情欲絵巻 必殺女斬り』『必殺女斬り』) : 製作馬場内弘、脚本池田正一、主演小城かほり、製作・配給日本シネマ、1969年9月30日審査・9月公開(成人映画・映倫番号 16079) - 監督、65分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『肉ずき』 : 主演麻起れい子、製作福田プロダクション、配給関東映配、1969年11月1日審査・公開(成人映画・映倫番号 不明)
- 『龍王子』#1-4 : 製作國民教育電影、1969年公開(台湾)
- 『飛剣』 : 製作國民教育電影、1969年公開(台湾)
- 『衝撃の性告白 交換の罠』[8](『交換の罠』) : 主演青山美沙、製作福田プロダクション、配給日本シネマ、1971年5月11日審査・5月公開(成人映画・映倫番号 16771) - 監督・「船橋一」名義、64分の上映用プリントをNFCが所蔵[8]
- 『愛の入場券』 : 1971年公開
- 『再見我的愛』 : 製作英和インターナショナル、1972年公開(インドネシア)
ビブリオグラフィ
編集国立国会図書館蔵書等による福田の記事・エッセイ等の一覧[7]。
- 「二等兵物語」福田晴一 : 『週刊娯楽よみうり』第1巻第3号所収、読売新聞社、1955年11月発行、p.53-54.
- 新作グラフィック「続二等兵物語」福田晴一 : 『キネマ旬報』第150号通巻965号所収、キネマ旬報社、1956年7月発行、p.27.
- 「続二等兵物語」梁取三義・福田晴一 : 『週刊娯楽よみうり』第2巻第30号所収、読売新聞社、1956年7月発行、p.57.
- 「スタジオ拝見 三十六人の乗客ほか」東京映画杉江敏男・松竹福田晴一 / 祓川親茂 : 『週刊娯楽よみうり』第3巻第11号所収、読売新聞社、1957年3月発行、p.72-73.
- 「新作グラビア 活弁物語」福田晴一 : 『キネマ旬報』第184号通巻999号所収、キネマ旬報社、1957年8月発行、p.35.
- 「白い粉の恐怖は描けないのか 『第三捜査命令』の場合」福田晴一 : 『映画芸術』第13巻第11号通巻218号所収、映画芸術社、1965年11月発行、p.67.
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad キネ旬[1976], p.338-339.
- ^ a b 田中[1976], p.85-86.
- ^ a b c d e f 年鑑[1967], p.330-333.
- ^ a b c d 年鑑[1973], p.137-139, 170, 373.
- ^ a b c d e f g h 渡辺支配人のおしゃべりシネマ館「福田晴一監督の二等兵物語」、渡辺俊雄、日本放送協会、2012年7月23日付、2014年8月28日閲覧。
- ^ a b 福田晴一、jlogos.com, エア、2014年8月28日閲覧。
- ^ a b 国立国会図書館サーチ検索結果、国立国会図書館、2014年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 福田晴一・船橋一、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 福田晴一・船橋一、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 福田晴一、KINENOTE, 2014年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g 福田晴一・船橋一、allcinema, 2014年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 福田晴一・船橋一、日本映画データベース、2014年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 福田晴一、インターネット・ムービー・データベース 、2014年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e 福田晴一、テレビドラマデータベース、2014年8月28日閲覧。
- ^ a b c 福田晴一、デジタル・ミーム、2014年8月28日閲覧。
- ^ 総覧[1930], p.557.
- ^ 年鑑[1942], p.10-32.
- ^ 外人部隊 - allcinema, 2014年8月28日閲覧。
- ^ 内田吐夢 - 日本映画データベース、2014年8月28日閲覧。
- ^ 島耕二 - 日本映画データベース、2014年8月28日閲覧。
- ^ 田坂具隆 - 日本映画データベース、2014年8月28日閲覧。
- ^ 大曾根辰夫 - 日本映画データベース、2014年8月28日閲覧。
- ^ 黃[2008], p.240.
- ^ 年鑑[1993], p.372.
- ^ Mutilation, letterboxd.com , 2014年8月28日閲覧。
参考文献
編集- 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 1967』、時事通信社、1967年発行
- 『映画年鑑 1970』、時事通信社、1970年発行
- 『日本映画作品全集』、『キネマ旬報』増刊第619号、キネマ旬報社、1973年11月20日発行
- 『日本映画発達史 V 映像時代の到来』、田中純一郎、中公文庫、中央公論社、1976年7月10日 ISBN 4122003520
- 『日本映画監督全集』、『キネマ旬報』増刊第698号、キネマ旬報社、1976年12月24日発行
- 『映画年鑑 1993』、時事映画通信社、1993年発行
- 『日本電影在臺灣』、黃仁、秀威資訊、2008年12月1日 ISBN 9789862211205
関連項目
編集外部リンク
編集画像外部リンク | |
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伝七捕物帳 銀蛇呪文 1957年9月22日公開 (松竹京都撮影所・松竹) | |
産婦人科日記より 悪徳医 1966年6月公開 (協立映画・日本シネマ) | |
結婚詐欺 1966年12月公開 (ICAプロダクション・東京興映) | |
一〇〇万人の女性より あやまち 1967年3月公開 (寺坂プロダクション・新東宝映画) | |
四畳半裏ばなし 1967年公開 (六邦映画) | |
白い快感 1968年6月公開 (ワールド映画) |
- 福田晴一 - Webcat Plus
- Seiichi Fukuda - IMDb
- 福田晴一 - KINENOTE
- 福田晴一 - allcinema
- 船橋一 - allcinema
- 福田晴一 - 日本映画データベース
- 船橋一 - 日本映画データベース
- 福田晴一、船橋一 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- 福田晴一 - 文化庁日本映画情報システム
- 船橋一 - 文化庁日本映画情報システム
- 福田晴一 - テレビドラマデータベース
- 福田晴一 - デジタル・ミーム
- 福田晴一 - jlogos.com (エア)