テンポイント

日本の競走馬 (1973-1978)

テンポイント1973年4月19日 - 1978年3月5日)は、日本中央競馬会に登録されていた競走馬

テンポイント
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
白斑 流星鼻梁鼻白
左前肢半白
生誕 1973年4月19日
死没 1978年3月5日(6歳没・旧表記)
コントライト
ワカクモ
母の父 カバーラップ二世
生国 日本の旗 日本北海道早来町
生産者 吉田牧場
馬主 高田久成
調教師 小川佐助栗東
厩務員 山田幸守
装蹄師 福田忠寛
競走成績
タイトル 優駿賞年度代表馬(1977年)
優駿賞最優秀3歳牡馬(1975年)
優駿賞最優秀5歳以上牡馬(1977年)
優駿賞マスコミ賞(1978年)
JRA顕彰馬(1990年選出)
生涯成績 18戦11勝
獲得賞金 3億2841万5400円
勝ち鞍
八大競走 天皇賞(春) 1977年
八大競走 有馬記念 1977年
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1975年8月に競走馬として中央競馬でデビュー。西クラシック候補として注目を浴び、額の流星[† 1]と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた。現役時代は鹿戸明主戦騎手とし、1976年に出走したクラシックでは無冠に終わったが、翌1977年に天皇賞(春)有馬記念第22回有馬記念)に優勝。後者のレースではトウショウボーイと繰り広げたマッチレース[† 2]は競馬史に残る名勝負のひとつとされている[† 3]1978年には海外遠征を予定していたが、その壮行レースとして出走した日本経済新春杯(第25回日本経済新春杯[† 4]のレース中に骨折し、43日間におよぶ治療の末、死亡した。

1975年度優駿賞最優秀3歳牡馬、1977年度年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。1990年に中央競馬顕彰馬に選出。

※馬齢は旧表記[† 5]に統一する。

生涯

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誕生・デビュー前

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テンポイントは1973年4月、北海道早来町吉田牧場で生まれた。父のコントライトは吉田牧場が日本へ輸入された。シンジケートを組んだ種牡馬で、母のワカクモ桜花賞優勝馬であった。吉田牧場の吉田重雄は、この交配には「当時海のものとも山のものともわからないコントライトという種馬を、僕が中心になりシンジケートをつくって入れたんでこれを成功させなくちゃならない。そのためには、いい肌馬を当てて、いい子馬を生んでもらわなくては」という思惑があったと述べている[1]。吉田牧場の吉田晴雄によると、生まれたばかりのテンポイントはどっしりとして「文句なしの特級」といえる体つきをしていた[2]

吉田重雄によると、幼少期のテンポイントは生まれたときから素直で頭のいい馬だったといい「同期生は17、18頭いたけど、あの馬は特に利口な馬でしたね」[3]、「人間に合わせるというか、人に逆らってまで自我を張り通す馬ではなかった」[4]と振り返っている。一方で、常にワカクモに付いて回る甘え性でもあった[5][6]。幼少期のテンポイントには栄養補給のため牛乳脱脂粉乳)が与えられた[7]。テンポイントはこれを好んで飲み、後に1978年の闘病中には吉田牧場の勧めで毎日1リットル[7][8]牛乳が与えられた[6][9][10][† 6]。身体面では追い運動[† 7]をさせた時の走りが非常に速かった反面ひ弱さを抱え、発育が悪く運動量が控えられたことや[11]、前脚の膝の骨を痛めるなどあまり丈夫ではなかった[12][13]

テンポイントは吉田重雄が電話で購入を勧めた馬主の高田久成によって1500万円[14]で購入された[15][† 8]。また、栗東トレーニングセンター厩舎を構える調教師小川佐助が管理することとなった。小川は高田に購入される前に吉田牧場で見たテンポイントについて、身体全体がバネ仕掛けで動くような動きをしていたと述べている[16]

競走生活

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3歳時(1975年)

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テンポイントは1975年3月に小川厩舎に入厩した。8月17日函館競馬場で行われる新馬戦でデビューすることが決まると、鞍上は小川が騎乗を直接指名した鹿戸明が務めることとなった[17]。3日前に行われた調教で優れた動き[† 9]を見せたことが評価され、当日は50%近い単勝支持率[† 10]を集め、単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持された[20]。レースでは好スタートから序盤で先頭に立つとそのまま逃げ2着馬に10馬身の着差をつけてゴールし、優勝した。走破タイムは函館競馬場芝1000mのコースレコードを0.5秒更新するものであった[21]。ただし、鹿戸は調教での走りから「『これくらいは走る』と、決して驚きませんでした」と回顧している[22]。この時のレース内容からテンポイントは「クラシック候補」という評価を受けるようになった[23]

新馬戦の後、調教師の小川は年内の出走予定を2回と決めた。2戦目には当初10月の条件戦りんどう特別[† 11]が予定されたが、発熱したため11月の条件戦であるもみじ賞[† 12]に変更となった[23]。もみじ賞でテンポイントは2着馬に9馬身の着差をつけて優勝した[21]

続いて当時の関西の3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスに出走。テンポイントは単勝支持率が50%を超える1番人気に支持された。レースでは第3コーナーを過ぎたあたりからハミがかからず3番手から6番手まで後退し[† 13]、勝利が危ぶまれる場面もあった[† 14]が、第4コーナーで前方への進出を開始。直線の半ばで先頭に立つとそのまま他の馬を引き離し、2着馬に7馬身差を付けて優勝した[21]。走破タイムは同じ日に行われた古馬のオープン競走よりも速いものであった[25]。阪神3歳ステークスを優勝したことで、テンポイントは名実ともに関西のクラシック候補として認識されるようになった[† 15]

テンポイントは3戦3勝で1975年のシーズンを終え、この年の優駿賞最優秀3歳牡馬に選出された[26][27]。同賞の投票候補はテンポイントと朝日杯3歳ステークスを勝ったボールドシンボリの2頭に絞られ[26]、86名中テンポイントに65票、ボールドシンボリに18票と票数の4分の3を占めての選出だった[26]

4歳時(1976年)

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年が明けた1976年、調教師の小川は東京優駿(日本ダービー)に備え早めに東京競馬場のコースを経験させるためにテンポイントを東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走させ、その後中山競馬場に滞在して皐月賞に臨む計画を立てた[28]。テンポイントの管理や調教は主戦騎手鹿戸明厩務員の山田に任されることになった[29]。また、高田は東京4歳ステークスの直前に、5歳になったら海外遠征を行うことを決定し、これについて競馬関係者からもテンポイントの海外遠征を薦める声が多く出た[† 16][† 17]

1976年の初戦となった東京4歳ステークスでは直線の坂を登った地点で先頭に立ち優勝したが、それまでと異なり2着のクライムカイザーとは半馬身差の接戦となった。続く皐月賞トライアルスプリングステークスでも優勝したが2着馬とはクビ差の接戦であった[† 18]。これでテンポイントはクラシックの本命馬と目されるようになったが[21]、この結果を受けて関東の競馬関係者からは「テンポイントは怪物ではない」[† 19]という声が上がるようになり、スプリングステークスの1週間前に行われたれんげ賞ではトウショウボーイが2着に5馬身差をつけてデビューから3連勝を記録していたため[32]、「これならトウショウボーイのほうが強い」という声も多くなっていった[33][† 20][† 21]。鹿戸によるとスプリングステークスでのテンポイントは体重を十分に絞り切れておらず、鹿戸と山田は調教の様子を見に来た小川から「背肉がつきすぎでちょっと太いな」[36]と叱責を受けた[37]

関東では苦戦が続いたものの、5戦5勝という成績でクラシック初戦の皐月賞に臨むことになり、テンポイントとトウショウボーイが初めて顔を合わせるということで「TT決戦」として注目を集めた[38]。しかし、厩務員労働組合による春闘の影響でテンポイントの調整に狂いが生じた。この年の春闘はベースアップを巡り労働組合側と日本調教師会が激しく対立し、厩務員側のストライキによって皐月賞施行予定日の4月18日の競馬開催が中止となる可能性が出た。テンポイント陣営はストライキは行われないと予想しレース施行予定日の3日前に強い負荷をかける調教を行ったが、予想に反してストライキが行われ、皐月賞の施行は1週間後25日に順延された。その後組合と調教師会の団体交渉は長期化し、25日の開催も危ぶまれるようになった。陣営は今度は再度順延になると予想した上で24日に強い負荷をかける調教を行ったが、調教を行った数時間後にクラシックだけは開催することで合意が形成され、再び予想が裏目に出る結果となった。これらの調整の狂いによってテンポイントには疲労が蓄積し[39]、苛立ちを見せるようになった[40]。その結果レースでは1番人気に支持されたものの、トウショウボーイに5馬身差をつけられ2着に敗れた[† 22]

次走は年初から目標としていた東京優駿となった。テンポイントは2番人気に支持されたものの、レースでは第3コーナーから思うように加速することができず、さらにレース中に落鉄していたことも響いて7着に敗れた[32]。レース後に左前脚の剥離骨折が判明し、治療のため休養に入った[38][44]。厩務員の山田によると、この時のテンポイントは競走生活においてもっとも体調が悪かったといい、レース前の追い切りでも精彩を欠いていたため[32]、勝つこと自体を「すっかり諦めて、かえって気楽でした」と回顧している[45]。なお、5月9日に主戦騎手の鹿戸明が京都競馬場でのレース中に落馬して骨盤を骨折、全治2か月と診断されて騎乗が不可能となったため[46]、東京優駿では武邦彦が騎乗した[32][47]。鹿戸がテンポイントに騎乗しなかったのはこのレースだけである[48]

骨折は程度は軽く7月頃には治り[49]、陣営はクラシック最終戦・菊花賞へ向けて調整を続けたが、復帰初戦には菊花賞トライアル神戸新聞杯京都新聞杯ではなく、その前週に開催の古馬との対決となる京都大賞典が選ばれた。テンポイントの調整は小川がレース前に「やっと出走にこぎつけた」とコメントしたように万全ではなく[50]、人気は6番人気と低かったが優勝馬と0.1秒差の3着に健闘した。菊花賞では単枠指定されたトウショウボーイとクライムカイザーに次ぐ3番人気に支持された[51]。このレースで鹿戸はトウショウボーイをマークする形でレースを進め、最後の直線でトウショウボーイを交わして先頭に立った[52]。トウショウボーイは競走前夜の雨により濡れた馬場に苦しんでいたことでそのまま先着したが[38]、テンポイントは外にふくらむ悪癖が出てしまい[21]、そこに内ラチ沿いを伸びてきた12番人気のグリーングラスに交わされ、2馬身半差の2着に終わった。当時グリーングラスの勝利はフロック視されており[53]、グリーングラスが勝利した瞬間の京都競馬場は「大レースが終わると必ず同時に湧き上がる喚声もなく、奇妙な静けさすら漂っていた」[54]が、のちに同馬はTTGの一角を形成する実力馬とみなされるようになった[55]

菊花賞の後、陣営は有馬記念への出走を決めた。レースでテンポイントは5、6番手を進んだが第3コーナーから第4コーナーにかけて馬群の中で前方へ進出するための進路を失い、一度加速を緩め外へ進路をとった後に再度加速したものの直線で先頭に立ったトウショウボーイとの差は詰まらず、1馬身半差の2着に敗れた[56]

この年は年度代表馬にトウショウボーイが選出されたが、テンポイントは一つのタイトルも取れないまま当年を終えた[57]

5歳時(1977年)

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菊花賞、有馬記念と続けて2着に敗れたテンポイントは一部から「悲運の貴公子」と呼ばれるようになった[58][59]。陣営は天皇賞(春)優勝を目標に据え、同レースの前に2回出走させる予定を立てた。

テンポイントは京都記念(春)を59kg、鳴尾記念を61kgの斤量を背負いながらもともに着差はクビ差ながら連勝し[60]、天皇賞(春)では1番人気に支持された。レースでは序盤は5、6番手でレースを進め、第4コーナーで先頭に立つとグリーングラス、ホクトボーイクラウンピラードらの猛追を退けてそのままゴールし、初の八大競走制覇を果たした[60]。前年の有馬記念のレース後、鹿戸は「なにかひとつ、テンポイントに大きなレースを勝たせてやりたかった。それが心残りだ。しかし、来年になれば、きっと……」とコメントしたが、この言葉は現実のものとなった[61][62]

天皇賞(春)優勝後、陣営は宝塚記念への出走を決めた。同レースには持病の深管骨瘤[† 23]で天皇賞(春)に出走しなかったトウショウボーイも出走を決めていた。トウショウボーイは前年の有馬記念以来5か月のブランクがあり調教の動きが思わしくなく、厩務員の長沼昭二が「気合いが全然足りない」とコメントしていた[63]ことから人気を落とし、テンポイントが1番人気に支持された[64]。しかしレースでは逃げたトウショウボーイを2番手から追走したものの最後まで交わすことができず、2着に敗れた。トウショウボーイがラスト1000メートルで記録した走破タイム57秒6は、当時の芝1000メートルの日本レコードよりも早かった[64]。トウショウボーイに騎乗した武邦彦は、「出走頭数が少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られたレースでは先に行った方が有利」という鉄則に従った騎乗をしたと[65]、鹿戸は「相手をトウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイに逃げきられてしまった」[65]、「ぼくのミスです」[61]とそれぞれこのレースを振り返っている。この敗戦により「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てないだろう」 という声が上がるようになった[66]

宝塚記念出走後、テンポイントはアメリカで行われるワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受けたが陣営はトウショウボーイを倒して日本一の競走馬になるべく[† 24]、招待を辞退して年末の有馬記念[† 25]を目標とした。小川と鹿戸は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行うようになった[69][70][71]。この期間は時に80kgを背負って調教を行っていたこともあり[72]、厩務員の山田によるとこれが功を奏し、9月に入ってテンポイントの馬体重は20kg以上増え、500kg近い筋骨隆々の馬体になった[70][72]。これによりトウショウボーイに劣る部分がなくなり、「これなら勝てる」という感触を得たと山田は振り返っている[73]。また、陣営はトウショウボーイに勝つために逃げる戦法でレースに臨むことを決定した[74]

夏期休養後の京都大賞典では63kg斤量を背負いながら2着に8馬身の差をつけて逃げきり勝ちを収めた[60]。馬主の高田は、後にこの京都大賞典での勝ちっぷりを見て以前からの夢だった海外遠征を実行するときが来たと判断したという[75]。続くオープン戦(東京芝1800メートル)も逃げ切って優勝した[74]

迎えた第22回有馬記念ではテンポイントとトウショウボーイの一騎打ちとみられ、テンポイントはファン投票において1位の支持を集め[62]、単勝オッズでも1番人気に支持された[74]。レース前、小川は鹿戸からどのように騎乗するか尋ねられると、「勝てるよ」と言い[62]、高田に対しても「私の競馬人生の中で、これほど充実した馬を見たのは初めてです。相手がどんな戦法を取ろうとも、今のこの馬なら100%負けることはありませんよ」と自信を持って語った[62]。レースではスタート直後からテンポイントとトウショウボーイが3番手につけたグリーングラス以下の後続を大きく引き離し、マッチレースのような展開でレースを進めた[76][† 26]。鹿戸は宝塚記念の敗北を踏まえて「少しでも前に行かなければ勝てない」という考えに至っていたが[78]、スタート直後に先頭に立ったトウショウボーイを交わそうとレースを進めるうちに引くに引けない展開にはまり込み、途中で鹿戸は「これで負けたら騎手をやめなけりゃいかんな」と覚悟を決めた[79][80][† 27][† 28][† 29]。抜きつ抜かれつの展開は最後の直線まで続き、激しい競り合いの末テンポイントが優勝。トウショウボーイと対戦したレースで初めて優勝を果たした。このレースは中央競馬史上最高の名勝負のひとつとされている[† 3][† 30]。レース前にはスピリットスワプス陣営が逃げ宣言をしていたもののテンポイントとトウショウボーイは一度も他馬に先頭を譲らなかった[74]。なお、3着にグリーングラスが入ったことについて鹿戸は「『ああ、怖いレースをしたんだな』と思った」と回顧し[79]、武邦彦は記者からこのことを聞かされると「3着?グリーングラス?来てたの。知らなかったよ」と答えた[87](レースに関する詳細については第22回有馬記念を参照)。

この年、テンポイントは1956年メイヂヒカリ以来史上2頭目の満票で年度代表馬に選出された[88][89][† 31]

6歳時(1978年)

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年が明け、テンポイント陣営は海外遠征を行うと発表[† 32]。2月に遠征における本拠地であるイギリスへ向けて出発することになった[90][91][92][† 33]

発表後、関西圏のファンから遠征の前にテンポイントの姿を見たいという要望が馬主の高田や調教師の小川に多数寄せられるようになった[93][94][95]。これを受けて小川は壮行レースとして1月22日の日本経済新春杯に出走させることを主張した。高田は重い斤量を課されることへの懸念から内心出走させたくなかったものの判断を小川に委ねた[95]。小川は67kg以上のハンデキャップを課された場合出走を取り消す予定であったが、発表された斤量は66.5kgであったため出走を決定した[74]。一方、馬主の高田、主戦騎手の鹿戸、吉田牧場の吉田重雄は66.5kgの斤量に懸念を抱いたが[96]、小川は高田に対して「たとえ70キロのハンデでも大丈夫です」と語った[97]

レースでは向こう正面半ばまで先頭を進み、そこからエリモジョージやビクトリアシチーに競りかけられた[† 34]ものの斤量を苦にしている様子はなく、鹿戸は「勝てる」と感じていた[99]。しかし、第4コーナーに差し掛かったところで左後肢を骨折し競走を中止した[100]。骨折の瞬間、鹿戸は「後ろから引っぱられて沈みこむよう」な感覚に襲われたという[101]。またビクトリアシチーに騎乗していた福永洋一は、「骨折したとき、ボキッという音を聞いた」という[102]。(レースの詳細については第25回日本経済新春杯を参照)

骨折の程度は折れた骨(第3中足骨)が皮膚から突き出す(開放骨折)という重度のもので、鮮血が噴出していた[102]。日本中央競馬会の獣医師は安楽死を勧めたが、高田が了承するのを1日保留している間に同会にはテンポイントの助命を嘆願する電話が数千件寄せられ、電話回線がパンクする寸前になった[103][104]。また高田と小川には「なんとかテンポイントを種牡馬にしたい」という願いがあり[105]、これを受けて同会は成功の確率を数%と認識しつつテンポイントの手術を行うことを決定した[103][106]

テンポイントの骨折は大きく報道され、一般紙でも1月23日付の朝日新聞朝刊が三面トップ6段抜きで扱った[† 35]。テンポイントの闘病中もスポーツ新聞では症状が詳細に報じられ、連日厩舎にはファンから千羽鶴人参などが届けられた[108]

手術と治療経過

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日本中央競馬会はテンポイントの手術と治療のために33名の獣医師からなる医師団を結成し、日経新春杯翌日の1月23日に手術を行った[105]。手術の内容はテンポイントに麻酔をかけて左後脚を切開し、特殊合金製のボルトを使って折れた骨を繋ぎ合わせた後でジュラルミン製のギプスで固定するという内容のもので[109][110]、2時間を要するものだった[102]。骨折から9日後には「ヒエーッ、ヒエーッ」と腹をよじるような奇声を発し[102]、翌日には褥瘡の兆候が出始め、熱も上り呼吸も乱れたが、テンポイントはこれに精神力で耐えた[102]。手術は一応成功したと思われ、2月12日に医師団は「もう命は大丈夫。生きる見通しが強くなった」と発言し[102][111][112]、一時期には体温も心拍数も安定していると報道された[113]。この時小川は「片脚はいくらかいびつになるだろうから競走馬としては無理だが、種牡馬への道は開けるかもしれませんね」と発言した[114]。しかし実際にはテンポイントが体重をかけた際にボルトが曲がり、折れた骨がずれたままギプスで固定されてしまっていた[110][112]

2月13日に患部が腐敗して骨が露出しているのが確認された。同月下旬には右後脚に蹄葉炎を発症して鼻血を出すようになり、さらに食欲も減退、全身はやせ衰えて目にも光がなくなり、症状は悪化の一途をたどった[102]3月2日には右後肢の蹄底部の角質が遊離し[102]、診療所の管理課長は「病状はかなり悪化している。2、3日のうちに結論が出るだろうが8分通り絶望」と発言した[115]3日には事実上治療が断念され、医師団はそれまで行われていた馬体を吊り上げて脚に体重がかからないようにする措置を中止し、テンポイントを横たわらせた[116]。4日には山田幸守をはじめとした6人の厩務員が徹夜で看病した[117]

3月5日、午前8時40分、テンポイントは蹄葉炎により死亡した[112][117][118]安楽死は最後まで行われず自然死であり、死因は「全身衰弱による心不全」と発表された[119]。当日は青草やリンゴを食べていたが、テンポイントは突然前脚と後ろ脚に痙攣を起こして寝藁の中に沈み込むように倒れて亡くなった[118]。骨折前に500kg近くあった馬体重は死亡時には400kg[120]とも380kg[121]とも350kg[122]とも300kgあるかないか[123]とも300kgを切る[124]とも推測されるまでに減少し、馬主の高田が大きな犬と思うほどに痩せ衰えた[125]。一緒に寝藁に横たわっていた厩務員の山田はテンポイントが前後の脚の痙攣を起こした際に「テンポイント!」と大声で叫び続けて体を叩いたが、テンポイントは全身を伸ばしながら体は冷たくなっていき、息を引き取った直後にはテンポイントの首に抱き着いて号泣した[117]。最期を看取った鹿戸は、テンポイントが死亡した瞬間無言でその場に座り込んだ[117]

テンポイントの死を受けて高田は、「助けてほしいという私のひとことが、かえってテンポイントを苦しめる結果になったように思えて辛い。覚悟していたが死を知らされて、大きなショックと申し訳なさで何と言っていいか」と語った[117]。また武田文吾は、「テンポイントを43日間も苦しめたのはかわいそうだったが、医学のためにも無駄ではなかった」と語った[117]

テンポイントの死はNHKが昼のニュース番組でトップニュースとして報道し、この日は日曜日だったため当日のフジテレビの競馬中継では阪神競馬場のスタジオ(関西テレビ)と結んで、杉本清志摩直人が画面に登場、テンポイントの死亡について語るコーナーを設けるなど、マスコミでも大きく報じられた[126]フランスAFP電も動物愛物語として、テンポイントの骨折から死までの経過を全世界に打電した[117]。横尾一彦によると、翌日のスポーツ各紙は「(馬名の由来となった)10ポイント活字とは比べ物にならぬ大きな文字で」テンポイントの死を悼んだ[117]

死後

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葬儀・埋葬

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3月7日、栗東トレーニングセンターでテンポイントの葬儀が営まれた[127]。調教師の小川は自らの手でテンポイントを火葬しようと考えたが、滋賀県条例で競走馬の死体を焼却することが禁止されていたため、テンポイントは冷凍されて北海道へ移送され、吉田牧場に土葬された[128]。吉田重雄の頼みで獣医師が装着されたままになっていた左後脚のギプスを外すと異臭が立ち込め、「飛節から下の部分がグニャグニャに腐っていた」という[129]

3月10日に吉田牧場でもテンポイントの葬儀が営まれ、競馬関係者やファンなど約400人が参列した[11]。2つの葬儀は競走馬として日本初、人間以外では1935年の忠犬ハチ公以来2例目のものとされる[130][131]。葬式の途中からは母のワカクモ、全弟の皇若(後のキングスポイントの幼名)も姿を見せ、2頭にも見送られた[117]。吉田牧場の敷地内には馬主の高田が建立したテンポイントの墓があり、多くのファンが献花に訪れている。その周りには父のコントライトや近親馬の墓がある[132]

テンポイントの死を扱った作品の発表

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競馬に造詣の深かった作家寺山修司は『さらば、テンポイント』という詩を記してその死を悼んだ。

テンポイントの死によって趣旨が変更されて発表された作品もある。テンポイントが日本経済新春杯に出走する2日前、詩人の志摩直人は自らの詩を添えたテンポイントの写真集を出版する企画を立てていた。テンポイントの死を受けて企画は追悼写真集に変更され、『テンポイント 栄光の記録』というタイトルで発売された。また、関西テレビはテンポイントの海外遠征が決定を受けて、遠征の様子を追いかけるドキュメンタリー番組の制作を決定していた。しかし日本経済新春杯の事故で番組の内容は闘病生活の様子を伝えるものに変更された。制作されたドキュメンタリー(『風花の中に散った流星 名馬テンポイント[133]』)[† 36]は1978年5月に放送され、後にビデオ化(『もし朝が来たら - テンポイント物語』)された[134][† 37]

死の影響

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テンポイントの骨折、闘病、死は日本の競馬界に多くの問題を提起した。具体的には安楽死の是非、厳冬期に競馬を施行することの是非、重い斤量を課すことの是非などである[138]。テンポイントを安楽死させなかったことは馬主の高田夫妻が「生あるものを安楽死させることは忍びない」と考えたからであった[139]が、「結果はテンポイントを苦しくさせただけではなかったか」という批判も起こった[126]。テンポイントの骨折事故を受けて、日本中央競馬会ではハンデキャップ競走等の負担重量について再検討がなされ、過度に重い斤量を課す風潮が改められた[140][127]

顕彰馬に選出

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テンポイントは1990年顕彰馬に選定された。顕彰馬選考委員会のメンバーの一人だった大川慶次郎によると、選出の理由は、数字には出てこない部分で日本の競馬に大きな貢献があったというものであるという[141]1984年に初めて顕彰馬が選定された際には種牡馬実績がなく、競走実績だけをみれば他にも選ばれる馬がいるという理由で選に漏れたが、発表後テンポイントが含まれていないことについて多くの抗議が寄せられた。顕彰馬選考委員会のメンバーの一人だった石川喬司によると、「なぜあの馬が入っていないんだ」という趣旨の抗議の中で最も多かったのはテンポイントについてのものであったという[142][† 38]

競走成績

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年月日 競馬場 競走名


人気 着順 距離 タイム 騎手 着差 勝ち馬 / (2着馬)
1975 8. 17 函館 3歳新馬 9 8 8 1人 1着 芝1000m(良) R 58.8 鹿戸明 -1.6 (グランドヤマトシ)
11. 9 京都 もみじ賞 14 6 10 1人 1着 芝1400m(稍) 1.25.4 鹿戸明 -1.5 (タカミオーラ)
12. 7 阪神 阪神3歳ステークス 11 6 6 1人 1着 芝1600m(不) 1.37.1 鹿戸明 -1.1 (ゴールデンタテヤマ)
1976 2. 15 東京 東京4歳ステークス 6 2 2 1人 1着 芝1800m(良) 1.49.6 鹿戸明 -0.1 クライムカイザー
3. 28 中山 スプリングステークス 6 1 1 1人 1着 芝1800m(稍) 1.52.4 鹿戸明 -0.1 (メジロサガミ)
4. 25 東京 皐月賞 15 7 12 1人 2着 芝2000m(良) 2.02.4 鹿戸明 0.8 トウショウボーイ
5. 30 東京 東京優駿 27 2 5 2人 7着 芝2400m(良) 2.29.6 武邦彦 2.0 クライムカイザー
10. 17 京都 京都大賞典 14 5 7 6人 3着 芝2400m(良) 2.27.4 鹿戸明 0.1 パッシングベンチャ
11. 14 京都 菊花賞 21 6 13 3人 2着 芝3000m(重) 3.10.3 鹿戸明 0.4 グリーングラス
12. 19 中山 有馬記念 14 7 12 3人 2着 芝2500m(良) 2.34.2 鹿戸明 0.2 トウショウボーイ
1977 2. 13 京都 京都記念(春) 13 2 2 1人 1着 芝2400m(重) 2.27.2 鹿戸明 -0.1 (ホシバージ)
3. 27 阪神 鳴尾記念 9 3 3 1人 1着 芝2400m(重) 2.32.6 鹿戸明 -0.1 (ケイシュウフオード)
4. 29 京都 天皇賞(春) 14 6 10 1人 1着 芝3200m(稍) 3.21.7 鹿戸明 -0.1 クラウンピラード
6. 5 阪神 宝塚記念 6 3 3 1人 2着 芝2200m(良) 2.13.1 鹿戸明 0.1 トウショウボーイ
10. 16 京都 京都大賞典 9 1 1 1人 1着 芝2400m(良) 2.27.9 鹿戸明 -1.3 (サイコームサシ)
11. 12 東京 オープン 5 1 1 1人 1着 芝1800m(良) 1.47.5 鹿戸明 -0.3 ロングホーク
12. 18 中山 有馬記念 8 3 3 1人 1着 芝2500m(良) 2.35.4 鹿戸明 -0.1 (トウショウボーイ)
1978 1. 22 京都 日本経済新春杯 9 1 1 1人 中止 芝2400m(良) - 鹿戸明 - ジンクエイト
  • 出典:冨田昭『テンポイント秘話』、「テンポイント全成績」(204頁)、「テンポイント関連レース全成績」(206-225頁)
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
  • 着差は「秒」表記。
  • 太字の競走は八大競走

特徴・評価

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身体面に関する特徴・評価

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テンポイントは額から真っ直ぐに伸びた流星[† 1]と美しい栗毛の馬体を持つことで知られる。テンポイントの栗毛は日光を浴びると特に美しさを増し、「日の光に煌めいて黄金色に見える」といわれた[144][145][† 39][† 40]。競馬関係者の中にもテンポイントの馬体の美しさを評価する声は多い[† 41][† 42][† 43][† 44][† 45][† 46][† 47]。厩務員の山田はテンポイントの流星が常に見えるように決してメンコを装着させなかった[156]

体力面では若い頃は華奢で脆弱な面があり[† 48][† 49]、デビュー前はしばしば腹痛や発熱を発症し、デビュー後もレースに出走すると1週間ほど食欲が落ちてなかなか疲労が取れなかった[158][159]。しかしデビュー後徐々に逞しさを増し、デビュー戦で456kgだった馬体重は第22回有馬記念出走時には498kgに増加した[† 50][† 51][† 52][† 53][† 54][† 55][† 56]

テンポイントの一番の長所について、吉田牧場の吉田晴雄は心肺機能の高さであるとしている[† 57]。主戦騎手の鹿戸は背中が柔らかかったことと皮膚が非常に薄かったことを挙げており[164]、また体重以上に大きく見せる走り方をする馬だったと述べている[22]

知能・精神面に関する特徴・評価

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吉田牧場の関係者と調教師の小川、厩務員の山田は、テンポイントの利口さを指摘している[† 58][† 59][166]。気性面では普段は大人しい気性をしており[167]、パドックでも落ち着いていたが[168][† 60]、レースになると強い闘争心を発揮した[† 61]。鹿戸によると高田、小川、山田が青草を持って行ったときは本当に大人しかったというものの、自分が行くと「ガーッと噛んできよった」といい、調教においても自分がスタンドから降りてくる姿を見ると「サーッと向こうへ逃げちゃったもんね」と述べている[170]。また日経新春杯で骨折しながらも4コーナーを過ぎて直線にかかるまで止まらなかったことについて、テンポイントは後ろからくる馬に抜かれると走らずにいられなかったという激しい闘争心を持っていたからだと述べている[75]ターザン山本によると、テンポイントの気性について新聞に「暴君のような激しい馬だった」と書かれてあったことがあるという[170]

鹿戸によると、テンポイントはレース終盤に苦しくなるとよれてまっすぐに走れなくなる癖があった[22]。これはテンポイントが脚に慢性的な骨膜炎を抱えていたことが原因だった[171]

レースぶりに関する特徴・評価

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テンポイントはスタートが得意で、一度も出遅れたことがなかった。鹿戸によるとテンポイントは反射神経が抜群に良く、たとえ発馬機内で横を向いていてもゲートが開くとすぐに反応してスタートすることができたという[172]。新馬戦でテンポイントの隣のゲートに入ったグレートリボに騎乗していた清水英次は「スタートしてからあっという間に、僕の前からいなくなってしまった」と述べている[173]。一方で前述のようにレース中第3コーナーから第4コーナーにかけて後退する癖があったが、厩務員の山田によるとこれはテンポイントの走る時の完歩が大きかった[† 62]ため、レース終盤にペースが速くなると追走しにくくなるからだと述べている[174][175]。鹿戸はテンポイントの乗り味について、「あらゆる意味でクセのない乗りやすい馬だった。スタート、道中の折り合い、しまいもいいし、気の悪さを出したり馬ゴミを嫌ったりするようなこともない。物凄く素直な馬だった」と述べている[75]。馬主の高田は京都大賞典での勝ちっぷりを見て海外遠征を行うことを決めた理由として、63kgの斤量を背負いながらも完歩数が変わらなかったことを挙げている[75][† 63]

主戦騎手の鹿戸明とトウショウボーイの管理調教師の保田隆芳はともに、テンポイントの競走馬としての最大の特徴はレースで見せる勝負強さ、闘争心にあったと指摘している[† 64][† 65]。武邦彦はテンポイントの長所として粘り強さを挙げ、「"しんどいなあ、苦しいなあ"というところから、猛烈に来るんですよ。粘り強さは天下一品、しつこい馬でした。爆発力はトウショウボーイ、粘っこさはテンポイントといったところでしょうか」と述べている[176]

人気

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テンポイントの人気は高く、天皇賞(春)を優勝し初めて八大競走に勝った時には観客席から手拍子と口笛が鳴った。これはそれまでの中央競馬にはなかった現象であった[171][177][178]朝日新聞のコラム『天声人語』は、「馬の名で浮かぶ時代がある」とした上で、「高度成長が終わる70年代」を象徴する競走馬として、第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコーとともにテンポイントを挙げている[179]

鹿戸によるとお守りだけで大きなダンボール3箱分届いたといい、手紙についても小学校や中学校のクラス単位やクラブ単位からも多く届き、他にも「いつまでも勝てない女子ソフトボール部です」といって一人ずつコメントが入ったカセットテープが届いたという[180]。前述のように第22回有馬記念優勝後や日本経済新春杯で骨折した際にはそれぞれ関西のレースでテンポイントの姿を見たいという要望と助命嘆願が関係者のもとに数多く寄せられた[† 66]。闘病中のテンポイントに届けられた千羽鶴は5万羽にのぼった[182]。馬主の高田によると、病床にいる子供たちからも手紙が届き、「闘病生活のテンポイントの話を聞くと、この馬がこれだけ頑張っているのなら、私もここで頑張らなければという勇気が湧いてくる。だから、なんとしても、この馬を生かしてほしい」という痛切な訴えがあったという[14]

レースにおける人気をみると、テンポイントは出走した18レースのうち14レースで単勝式馬券の1番人気に支持された。1977年の天皇賞(春)では単枠指定制度の適用を受けている。

投票における評価

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競馬ファンからは、1980年に日本中央競馬会がカレンダーを製作するにあたり実施した“アイドルホース”の投票で第1位に選ばれた[183]。また、2000年に実施された「20世紀の名馬大投票」では第14位、2010年に実施された「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」では第13位[184]、2015年・2024年にそれぞれ実施された「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」では、2015年は第14位[155]、2024年は第22位[185]に選出されている。2015年の「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」にランクインした各馬のベストレースの投票においては、テンポイントは第22回有馬記念が投票率83.6%で第1位、以下1977年の天皇賞(春)が11.8%、1975年の阪神三歳ステークスが2.4%という結果となっている[186]

競馬関係者からは、雑誌『Sports Graphic Number』(1999年10月号)が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」で第7位に[151](第1位はシンザン[187])、競馬関係者に著名人を含めたアンケートでは雑誌『優駿(増刊号TURF)』が1991年に行ったアンケート[† 67]の「最強馬部門」で第8位[3](第1位はシンボリルドルフ[188]、「思い出の馬部門」で第1位に選出されている[189]。2004年に「優駿」が行った特集「THE GREATEST 記憶に残る名馬たち」の第1弾「年代別代表馬BEST10」において、テンポイントは1970年代部門の第1位に選ばれている[154]

競走馬名および愛称・呼称

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馬名の由来は、当時新聞の本文活字が8ポイントであったことから、10ポイントの活字で報道されるような馬になって欲しいという願いを込めてと名付けられたものである[39][190][191][192]。当初はボクシングのテンカウントが由来だと誤解されていた[193][194][195]

テンポイントは前述の額の流星と美しい栗毛の馬体から「流星の貴公子」の愛称で呼ばれた[† 68]。また祖母のクモワカ馬伝染性貧血と診断され殺処分されかけたことから「亡霊の孫」と呼ばれることもあった[196]

エピソード

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トウショウボーイとの対戦

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テンポイントはトウショウボーイと6回にわたって対戦し、両馬は競馬ファンおよび競馬関係者によって互いの好敵手であると見なされた[† 69]。テンポイントの関係者はトウショウボーイのデビュー戦を見てすでにその能力の高さを認識していた[† 70][† 71]。テンポイントはトウショウボーイとの対戦成績が悪く(通算6回の対戦で2勝4敗)、最後の対戦となった第22回有馬記念までトウショウボーイが出走したレースで1着になったことがなかった[† 72]。小川と主戦騎手の鹿戸はトウショウボーイを負かすことを強く意識し[† 73][† 74]、前述のように第18回宝塚記念で敗れた後は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行い[69][70][71]、テンポイントを筋骨隆々の馬体に仕上げた[70]。一方、トウショウボーイの管理調教師であった保田隆芳も、引退が決まったトウショウボーイにテンポイントを負かして花道を飾らせたいと第22回有馬記念出走を決定した[208]。保田は、菊花賞でテンポイントに風格が備わったのを感じて以来テンポイントに対し「敵はこれだな」という「本当のライバル意識」を持つようになり、2回目の有馬記念では相手にテンポイントしか浮かばなくなっていたと振り返っている[209]

騎手の起用について2頭の陣営は対照的であった。トウショウボーイ陣営が4歳時に東京優駿・札幌記念と連敗した後、それまで同馬に騎乗していた池上昌弘を降板させてトップジョッキーの福永洋一や武邦彦を起用したのに対し、テンポイント陣営はテンポイントが敗戦を繰り返した時期にも鹿戸明を降板させることはなく、鹿戸は骨折で騎乗できなかった東京優駿以外のすべてのレースで騎乗した[210]。鹿戸はテンポイントの主戦騎手を勤めたおかげで名前が売れてジョッキーとして一人前になったとし、「僕をずっと乗せてくれた小川先生と高田オーナーには頭が上がりませんね」と述べている[164]

トウショウボーイは第22回有馬記念を最後に競走馬を引退して種牡馬となり、史上3頭目のクラシック三冠馬ミスターシービーをはじめとする重賞勝利産駒を多数輩出し、1992年にテンポイントと同じ蹄葉炎により死亡した[74][211]

小川による坂路コース建設の訴え

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小川は1976年にテンポイントを関東に遠征させた際、日本中央競馬会に獣医から「関東のコースにはゴール前に坂がある。関西にはない坂[† 75]を走って馬が腰を悪くすることがあるから気をつけるように」と忠告を受けた。実際にテンポイントは東京4歳ステークスで腰を痛めた。小川は東京優駿で7着に敗れた後、新聞記者を集めて「関西馬が関東馬に負ける[† 76]のは競馬場にも栗東トレーニングセンターにも坂がないからだ[† 77] 」、「栗東トレセンの調教コースに坂を作らなければ関東馬にかなわない[212]」とコメントし、栗東トレーニングセンターに上り勾配をつけるよう働きかけてくれと涙ながらに訴えた[213][214][215]。この発言を受けて同年秋に栗東トレーニングセンター内の調教コースの一つ(Eコース)に勾配がつけられた[214][216]ほか、坂路コースを建設する気運が高まり、1985年に完成した。1990年代になると中央競馬では1970年代とは逆に「西高東低」の構図が定着し、その原因のひとつに美浦トレーニングセンターに坂路コースがないことが挙げられるようになった[215]。このことについて競馬評論家大川慶次郎は、「関西の時代を作る源となったのは、小川調教師とテンポイントだった」と評した[215]

杉本清による実況

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関西テレビアナウンサー(当時)で競馬実況を主に担当していた杉本清は、阪神3歳ステークスにおいて「見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!」という実況を行った[11][217][218][219]。テンポイントへの個人的な肩入れを実況するスタイル(自らの主観を実況に反映させていたことは杉本自身も認めている)は競馬ファンに強い印象を残した[220][221][† 78][† 79]。テンポイントが杉本に与えた影響は大きく、杉本自身「テンポイントがいたから今の杉本清がある」と述べている[230]。杉本によると、阪神3歳ステークスで残した実況が1975年に『さらばハイセイコー』をリリースしたポリドール・レコードの同曲担当スタッフから注目され、杉本を歌手としてテンポイントの音楽レコード制作を企画した[231]。しかし杉本の歌唱力が低かったために歌い手は新人歌手の菖蒲正則に変更された[† 80]。このレコードは 1976年に『君よ走れ-テンポイント賛歌-』というタイトルで発売された[232][† 81]

テンポイント生涯最後のレースとなった1978年の日経新春杯で関西テレビの実況を担当していたのも杉本だった。レース前には「あたかもテンポイントの門出を祝うかのように、粉雪が舞っている京都競馬場です」と実況し[236]、異変の直後は「ああっと、テンポイントちょっとおかしいぞ、あっとテンポイントおかしい、おかしいおかしい!」「これはどうしたことか、これはどうしたことか、故障か、故障か!テンポイントは競走を中止した感じ、これはえらいこと、これはえらいことになりました」とその衝撃の大きさを伝え[237]、鹿戸が下馬した後には「なんとしても無事でと、なんとしても無事でと願っていた、願っていたお客さんの気持ち、もう‥通じません」「なんともこれはまた、テンポイント故障だ。なんとも言葉がありません…」と無念に満ちた言葉を残した[† 82]。杉本はテンポイントの骨折後に厩務員の山田幸守が馬場を必死に駆けていく姿を見て言葉が続かなくなってしまったと述べている[236]

血統

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血統背景

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父のコントライト、母のワカクモについてはそれぞれの項目を参照。ファミリーライン下総御料牧場の基礎輸入牝馬の一頭である星若 (Ima Baby) を起点とする由緒あるもので、3代母・月丘(エレギヤラトマス)は帝室御賞典など13勝を挙げた。テンポイントは「スピードを母方から、スタミナは父方から受け継いだ」とされている[239]

祖母・クモワカと母ワカクモは共に競走馬として11勝を挙げた。テンポイントの勝利数も11であった事実から、11勝はクモワカの一族にまつわる特異な数字として語られることがある[240]。全弟のキングスポイントはテンポイントと同じく小川佐助厩舎に入厩し、厩務員も同じく山田幸守が担当したが、中山大障害(春)のレース中に故障し、さらにそこからテンポイントの死因となった蹄葉炎を発症したことで亡くなった[241]

血統表

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テンポイント血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ネヴァーセイダイ系ナスルーラ系
[§ 2]

*コントライト
Contrite
1968 鹿毛
父の父
Never Say Die
1951 栗毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Singing Grass War Admiral
Borealle
父の母
Penitence
1961 黒鹿毛
Petition Fair Trial
Art Paper
Bootless The Cobbler
Careless Nora

ワカクモ
1963 鹿毛
*カバーラップ二世
Cover Up II
1952 黒鹿毛
Cover Up Alibhai
Bel Amour
Betty Martin Hollyrood
Rhoda F.
母の母
丘高
1948 鹿毛
*セフト
Theft
Tetratema
Voleuse
月丘 Sir Gallahad
*星若
5代内の近親交配 なし [§ 3]
出典
  1. ^ 血統情報:5代血統表|テンポイント|JBISサーチ2020年1月3日閲覧。
  2. ^ テンポイントの血統表|競走馬データ - netkeiba.com2020年1月3日閲覧。
  3. ^ 血統情報:5代血統表|テンポイント|JBISサーチ2020年1月3日閲覧。


近親

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関連作品

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  • 書籍
  • 映像
    • 『不滅の名馬テンポイント』(VHSビデオ ポニーキャニオン、1983年)ASIN B00005IKPM
    • 『もし朝が来たら - テンポイント物語』(VHSビデオ ソニー・ミュージックエンタテインメント、1991年)ASIN B00005GAE7
    • 『トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラス』(VHSビデオ ソニー・ミュージックエンタテインメント、1992年)ASIN B00005GAEF
    • 『悲運の貴公子テンポイント』(VHSビデオ ポニーキャニオン、1992年)ASIN B00005FULL
  • 音楽
    • 菖蒲正則、杉本清『君よ走れ -テンポイント讃歌-/テンポイント物語』(LPレコード)(作詞:村井愛人、作曲:筒井理、編曲:京健輔、歌:菖蒲芳則(君よ走れ -テンポイント讃歌-)/詩:志摩直人、朗読:杉本清(テンポイント物語)) ポリドール・レコード、1976年
    • 伊勢功一『泣くなテンポイント/走れテンポイント』(LPレコード) キングレコード、1978年
    • デューク・エイセス『あゝテンポイント』(LPレコード)東芝EMI、1978年

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 馬の顔面にある細長い白斑。
  2. ^ 2頭にグリーングラスを加えたTTG三つ巴の戦いとして取り上げられることもある。
  3. ^ a b 競馬雑誌『優駿(増刊号TURF)』が1991年に行った「思い出のレース」を問うアンケート、2003年に行った特集「永遠に語り継がれる『伝説の名レース・名勝負』」ではそれぞれ第1位に選ばれた[84][85]
  4. ^ 現・日経新春杯(重賞競走→GII)
  5. ^ 現表記プラス1歳。馬齢表記は2001年に改められた。(詳細は馬齢を参照のこと)
  6. ^ 吉田重雄によると、療養中のテンポイントが牛乳を飲むことを知った小川は「馬が牛乳飲むんですか」と言って驚いていたという[7]
  7. ^ 馬に騎乗した人が仔馬を追いたてることでさせる運動。
  8. ^ 高田はこの時の心境について、「超良血というか、優駿を分けてもらえるなんて、期待もしていなかったから驚きました」と回顧している[14]
  9. ^ その日の一番時計(最も速い走破タイム)を記録し、しかも調教相手の馬(同じ年のすでに新馬戦を優勝した馬で[18]、厩務員の山田幸守は調教をする前に相手の厩務員から「ついてこれるはずがない」と言われていた)を10馬身引き離した[18][19]
  10. ^ 全単勝馬券の発売額に占めるその馬の単勝馬券の発売額の割合。
  11. ^ 現・りんどう賞(特別競走)
  12. ^ 現・もみじステークス(特別競走)
  13. ^ この傾向はその後のレースでもみられた。詳しくは#レースぶりに関する特徴・評価を参照。
  14. ^ 馬主の高田によると、一緒に観戦していた吉田重雄が「だめだ」と呻くのを聞き、自身も勝利をあきらめたという[24]
  15. ^ 阪神3歳ステークスのレース後、シンザンの管理調教師であった武田文吾は「健闘を祈ります。関西馬のためにも」と馬主の高田を激励した[25]
  16. ^ 武田文吾は「テンポイントは十年に一頭出るか出ないかの名馬だ。過去に何頭も日本の馬が欧米に遠征して苦杯をなめたが、テンポイントなら、いい競馬をしてくれる。日本の競馬人、ファンの夢をかなえてやったらどうか…」と述べている[30]
  17. ^ タニノムーティエの調教師の島崎宏は、「テンポイントはタニノムーティエ以上だ。トンボ帰り遠征をやめて、海外でじっくりと環境になじませてレースに出れば、きっと今までの日本の馬のような負け方はしない。ダービーが終わったら、すぐに遠征させるといいですよ。一年ぐらい行ってくるつもりで…」と述べている[30]
  18. ^ フジテレビの競馬中継では「テンポイント、苦しい、苦しい、苦しい!」と実況された。
  19. ^ スプリングステークスの2着馬メジロサガミに騎乗した横山富雄のレース後のコメント[31]
  20. ^ 調教師の尾形藤吉は、トウショウボーイの2戦目のレースとなったつくし賞のレース後に、「えらい馬が出てきた。ひょっとすると西のテンポイント以上の馬かもしれない」と述べている[34]
  21. ^ トウショウボーイの調教師の保田隆芳は、3戦目のれんげ賞のレース後に「テンポイントには今の時点ではかなわないかもしれないが、絶対負かせない相手ではないと思う」と述べている[35]
  22. ^ なお、このときトウショウボーイは順延される前は強い調教を行わず、順延後再度の順延がなされるか見通しがつかない時期に強い調教を行った。そのため、トウショウボーイ陣営はストライキが妥結するかどうかの情報を把握していたともいわれる[41][42]。馬主の高田久成によるとトウショウボーイの実質的なオーナーであった藤田正明は、馬主会の役員としてこのストライキの団体交渉に臨んでいた[43]
  23. ^ 深管(管骨(脚の膝から下にある骨)の裏側)に瘤状の隆起ができる疾病。
  24. ^ これには調教師の小川の意向が強く作用した。馬主の高田や吉田牧場の吉田重雄はあえてトウショウボーイと戦う必要はないと感じていた[67][68]
  25. ^ テンポイントは当時天皇賞(春・秋とも)に存在した「勝ち抜け制度」のため、天皇賞(秋)には出走できず、また当時は八大競走と同格のジャパンカップも未創設で、後に大レースの大幅増加を伴ったグレード制も未導入のため、年内にトウショウボーイと対戦することが可能な八大競走は有馬記念に限られていた。
  26. ^ 鹿戸はレース前のパドックで気になっていたプレストウコウの鞍上の郷原洋行のところへ向かい、「プレストウコウ怖いなあ」と言ったら、郷原は「いかに僕のが強いといってもまだ4歳、テンポイントとトウショウボーイにまともに走られたらかなわんよ。だから僕の馬には用事ないぞ」と言われ、これで敵はトウショウボーイ1頭に絞れたと回顧している[77]
  27. ^ それでも鹿戸は、1周目の直線でトウショウボーイの内にテンポイントを誘導できたことで「活路が見出せた」と振り返っており、鹿戸によると、トウショウボーイに騎乗していた武邦彦は自身の騎乗馬の内側に入ろうとする馬の進路を締める戦法を得意としていたが、このレースでは締め方が完全ではなかった[81]
  28. ^ レースの数年後、鹿戸は武邦彦から「あんとき、明ちゃんじゃなかったら、俺、締めてただろうね」と言われたという。作家の木村幸治は武邦彦のこの発言の真意について、「勝ちを譲ったという意味ではない。……実力のままの勝負をし、テンポイントと鹿戸明をフェアに負かしたかったのである」と解釈している[81]。武邦彦はこのレースを、「トウショウボーイは、完璧なスタートをきって、終始自分のペースで行き、直線でも十分脚はありました」とした上で、「テンポイントはそのトウショウボーイに併せてきて、それで抜き去ったんだから、本当に強かったんだと思いますよ。……僕も、トウショウボーイの力をすべて出しきったと信じているんで、このレースは負けても、なんの悔いもなかった」と振り返っている[82]
  29. ^ ライターの阿部珠樹は、向こう正面に入っても競り合いを続ける2頭を見て「共倒れになるかもしれない」と感じたという[83]
  30. ^ 渡辺敬一郎はこのレースを、「昭和52年。……極端なことを言えば、2頭の競走生命のすべてが暮れの有馬記念に収斂されていったと言っても過言ではない」と評している[86]
  31. ^ テンポイント以降では1985年シンボリルドルフ2000年テイエムオペラオー、2018年にアーモンドアイが満票で年度代表馬に選出されている。
  32. ^ 目標としてイギリスキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスフランス凱旋門賞、アメリカのワシントンD.C.インターナショナルなどが挙げられた[75]
  33. ^ 高田は後にこのローテーションについて、「あの頃の私は、種馬にするという楽しみ方も知らなかったですからねえ。イギリス、フランス、アメリカへと、まあ水戸黄門漫遊記みたいな夢を抱いていたんです」と回顧している[91]
  34. ^ 特にビクトリアシチーの競りかけは執拗で、吉田牧場の吉田晴雄は同馬に騎乗した福永洋一を「海外遠征を前にした壮行レースだっただけに、なぜ、もっと気持ちのいいレースをさせてあげなかったのか」と批判した[98]
  35. ^ 競馬通の記者遠山彰と池北義夫が中心となってトップ記事にした[107]
  36. ^ 構成は作家の寺山修司、番組監修は詩人の志摩直人がそれぞれ担当し、緒形拳がナレーションを務めた。
  37. ^ 1977年の有馬記念における杉本の実況は競馬ファンによく知られているが、これはこのドキュメンタリー番組用に収録されたものであり、テレビ中継ではフジテレビのアナウンサー(盛山毅)が実況を担当していた[135]。杉本はこの有馬記念での実況において、後に宝塚記念での自身の実況における代名詞となった「あなたの、そして私の夢が走っています」というフレーズをこのレースで初めて用いたと述べている[136][137]が、実際には前年の宝塚記念(優勝馬フジノパーシア)で既にこのフレーズを用いて実況を行っている。
  38. ^ トウショウボーイは、父内国産馬初の三冠馬ミスターシービーを送り出した種牡馬実績が決め手となり、顕彰馬選定初年度に選定となっている[143]
  39. ^ 馬主の高田は、東京4歳ステークスのパドックにおいて陽の光がテンポイントの馬体にあたって黄金色に輝き、それを見たある写真家があまりの美しさに見惚れてシャッターを切るのを忘れてしまったという逸話を明かしている[146]
  40. ^ 杉本清はテンポイントの海外遠征のプランに備えてドキュメンタリーを製作しようという企画によって行うことになった第22回有馬記念での実況において[147]、「栗毛が、栗毛が冬の陽射しに光っています」というフレーズを残している[148]
  41. ^ 調教師の小川は「美しい尾花栗毛と額の流星が印象的なサラブレッドであり、気品という言葉はテンポイントのためにある言葉だと思った。」と回顧している[149]
  42. ^ 主戦騎手の鹿戸は「サラブレッドは、人間がつくったもっとも美しい芸術、といわれるけど、テンポイントはそれをそのまま形にしたような、サラブレッドだった」と述べている[150]
  43. ^ テンポイントが出走した競走で騎乗したことのある郷原洋行は「鳥肌が立つような気品があった」と述べている[151]
  44. ^ 競馬評論家の石川ワタルは「テンポイントほど強くて美しい馬は、これまで見たことがない。テンポイントの美しさには、しかも神が嫉妬するほどの気品があった」と評している[152]
  45. ^ 詩人の志摩直人は「テンポイントはサラブレッドの使者だった」と述べ[14]、テンポイントの海外遠征が発表されたときには、「これだけ美しい馬が日本にもいる、ということを世界に見せてあげたい」と発言した[153]
  46. ^ 小説家の古井由吉は、「貴女にとってこれまででいちばん美しい男性は誰かとたずねられて、テンポイント、とつい答えた人もいる」と述べている[154]
  47. ^ ライターの阿部珠樹は、4歳時の秋にテンポイントをはじめてみた際に「赤さ」に驚いたといい、「言うまでもなく栗毛だが、秋の府中の陽射しの中で、真っ赤に燃え上がっているように見えた。あんな鮮やかな栗毛、その後、ずいぶん多くの栗毛を見てきたが、一度も出会ったことがない」と述べている[155]
  48. ^ 調教師の小川は「3歳から4歳の頃はどちらかといえば華奢な身体付きで、女性的なところもあった」と述べている[149]
  49. ^ 馬主の高田は小川厩舎に入厩した当初のテンポイントとの初対面での印象について、「まだ、身体が細くて、女馬みたいな感じだった」と述べている[157]
  50. ^ トウショウボーイの主戦騎手でテンポイントに騎乗した経験もある武邦彦は「4歳春から5歳秋にかけて、これほど成長した馬は見たことがない」と評した[160]
  51. ^ 河内洋は「早熟に見えて、実は古馬になっても、成長し続けていたのは名馬の証明」と評した[151]
  52. ^ 寺山修司はこれについて、「ひ弱なイメージから次第に訓練を積んでいったスポーツマンのような肉体へと変貌をとげていった」と評している[161]。なお、寺山は第24回有馬記念の前にテンポイントとトウショウボーイの比較を行い、「肉体美」の面ではテンポイントを『ボクサー的肉体美』、トウショウボーイを『レスラー的肉体美』と両馬を言い表している[142][162]
  53. ^ 作家の古井由吉は「それまでは紅顔の美少年の面影を残していたのが、今や押しも押されもせぬ美丈夫である。胸前や後肢の豊かさ、その溢れる精気、見ていると同性ながら恥しくなるほどのものだった」と回顧している[154]
  54. ^ 横尾一彦は、「5歳秋になってのテンポイントはまさに芸術品の強さだった。いい意味で姿形がこれほど変わっていった馬は珍しい」と評している[88]
  55. ^ 阿部珠樹は「最初の登場の時は青白い細面の少年だった。それがつぎの年にはたくましい胸板の青年になっていた」とし、「その成長の物語も語り伝えたいものだ」と述べている[155]
  56. ^ 馬主の高田は、1986年に杉本清からシンボリルドルフと対決していたらどうだったかと問われた際に「4歳の時ならあきらかに負けましたという感じですが、5歳になって500kgに達してからなら、シンボリルドルフといい勝負だと思いますよ」と述べている[14]
  57. ^ 一般的な競走馬の一分間の心拍数は27だが、テンポイントは18だった[163]
  58. ^ デビュー前のテンポイントについて、吉田牧場の関係者は前述のように人に逆らわない利口さをもっていたとしている。さらに追い運動の時には人に追い立てられない限り馬群の後を走り力を温存する賢さも持ち合わせていたとしている[145][163]
  59. ^ 闘病中のテンポイントは体を動かさずにじっとしており、チェーンソーでギプスを切断する際にもまったく動じなかった。厩務員の山田はこの時の様子を「今、自分が何をしてもらっているのかを知っているかのよう」で、獣医師も「この馬は凄い」と感心するほどだったと述べている[9][165]
  60. ^ 野平祐二は東京4歳ステークスでのテンポイントのパドックでの姿を見て、「いやあ、驚いた。まるで栗東の地元にいるときのように悠然と歩いている」と述べている[169]
  61. ^ 鹿戸は「調教でも他の騎手が乗ると、ものすごくおとなしいが、私が乗ると、闘争心がムキ出しになる。レースとそうでないときの区別がわかる馬だった」と述べている[75]
  62. ^ 一般的な競走馬が200m走るのに30完歩以上かかるのに対し、テンポイントは25完歩で走ることができた[75]
  63. ^ 後に「ふつうの馬は1ハロン27から32。トウショウボーイでも26か27完歩だったと思う。海外の馬場は日本よりも柔らかい。そこを完歩数の多いハイピッチ走法では心臓や肺に負担がかかりすぎて不利だ。しかし、25完歩で1ハロンを走るテンポイントなら勝負になるのではないかと思ったんです」と述べている[75]
  64. ^ 鹿戸は「絶対に相手には負けないぞという気迫がもの凄かった」と評している[78]
  65. ^ 保田はテンポイントの勝負強さ、闘争心が非常に優れていたと述べ、トウショウボーイが負けるくらいのものをもっていたと評している[63]
  66. ^ 渡辺敬一郎はこれについて、「こういうファンの熱烈な歓迎は、関西という風土がはぐくむ、独特の気質といっていいかもしれない。それはプロ野球阪神タイガースにたいする応援と、同次元のものだろう」と評している[181]
  67. ^ 対象はJRA賞の投票委員、引退した中央競馬の調教師、競走馬生産者、JRA職員OB、競馬ファンの著名人。
  68. ^ はじめにこの愛称を用いたのは志摩直人と杉本清だったといわれる[153]
  69. ^ TTGの中でもとりわけトウショウボーイとテンポイントのライバル関係をTTと呼ぶ[38][197]
  70. ^ 厩務員の山田幸守は東京4歳ステークスに出走するために東京競馬場へ移送されたテンポイントに同行していたことからトウショウボーイのデビュー戦を東京競馬場で見ていたが、華奢なテンポイントに比べて幅のある馬体を見て危機感を覚えた[198]
  71. ^ 山田と同じく遠征に同行し、トウショウボーイのデビュー戦でタイエンジェルに騎乗していた鹿戸明はトウショウボーイの馬体や走りを見て「この馬はただものではない」と感じ[47][199]、「これがテンポイントの最大の敵になるんじゃないか」と予感したという[200]。トウショウボーイの2戦目のつくし賞は親しかった日刊スポーツの記者に報告を頼み、その記者からは「鹿戸さん、この馬はテンポイントの敵になる馬ですよ」と伝えられたという[201]
  72. ^ 1976年の菊花賞ではトウショウボーイに先着したもののグリーングラスの2着に敗れた。
  73. ^ 調教師の小川は第18回宝塚記念で敗れた際には「打倒トウショウボーイを果たすまでは夜も眠れない」というコメントを残した[202]
  74. ^ 第22回有馬記念のレースを前に保田隆芳は「テンポイントが出るなら出よう。決着をつけよう」と述べ[72]、主戦騎手の鹿戸明は「ここで負けたらテンポイントは永遠にトウショウボーイの下馬になってしまう」と敵愾心を露わにした[203][204][205]。鹿戸は後に「トウショウボーイが引退する前に一回負かしとかんかったら、互角と認められない」[206]、「競り合って、たとえ両方ともが馬群に沈んでも、絶対に負けたくなかった」[207]という思いがあったと回顧している。レース後には「今は宿願を果たしてよかったという気持ちです」とコメントした[88]
  75. ^ 当時、阪神競馬場の直線コースには坂がなかった。
  76. ^ 当時のクラシックは関東馬が優勢で「東高西低」といわれた。
  77. ^ 当時トウショウボーイを初めとする関東馬は、直線に坂のある東京競馬場・中山競馬場で調教されていた。
  78. ^ 同様の例として3着のテンポイントに焦点を当て、「今日はこれで十分だ」と実況した1976年の京都大賞典[219][222][223]、ゴール前で「それいけテンポイント、ムチなどいらぬ、押せ!」と実況した1976年の菊花賞[217][219][224]、「テンポイント、天皇賞に王手」と実況した1977年の鳴尾記念[225]、「これが夢にまで見た栄光のゴールだ」と実況した1977年の天皇賞(春)[226][227]などがある[228]
  79. ^ ただしこのような実況は批判もあり、杉本曰く京都大賞典の実況は関西テレビのディレクターから注意されただけでなく[14][219]、一部の熱心な馬券ファンから「連にも絡んでいないのに十分とは、馬券を買ったファンを無視している」と言われ[223]、菊花賞での実況は同業者から「テンポイントが勝っていれば名実況になったかもしれないが、負けてしまっては失敗の実況」と批判され、グリーングラスのファンが作る会報誌でも槍玉に挙げられたという[229]。しかし、京都大賞典での実況は吉田晴雄の夫人から「数あるあなたの実況で、このレースが一番好きです。思わず涙がこぼれました」と言われたことで、"忘れられないレースになった"と振り返っている[223]
  80. ^ 杉本はB面『テンポイント物語』のナレーションをすることになった。
  81. ^ なお、このレコードが完成した頃にテンポイントが4歳初戦の東京4歳ステークスを迎え、負けてしまっては困るとポリドールのスタッフが応援に出向き、パドックの柵に応援の横断幕を拡げた。これが競馬における横断幕の初の事例である[231][233]。第22回有馬記念のパドックでは「有馬を制して世界へ羽ばたけ」、「有馬の歴史に流星の伝説を刻め、われらが使者テンポイント」、「夢よ今一度、行けテンポイント」と書かれた横断幕が張られ[234]、松永郁子は、パドックに横断幕を張り出す習慣を作ったのはテンポイントであると述べている[235]
  82. ^ 杉本は「正直いってテンポイントをこのレースに使う意味がよくわかりませんでした」と述べ、レースの当日には馬主の高田に対してなぜ出走させたのかと聞きにいったほどだったと回顧している[237][238]

出典

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  • 江面弘也「不滅のライバル物語 トウショウボーイvsテンポイント "天馬"と"貴公子"の名勝負」『優駿』2015年1月号、中央競馬ピーアール・センター、2014年、60-67頁。 
  • 江面弘也「未来に語り継ぎたい名馬物語(14) 数々の名勝負を残した流星の貴公子 テンポイントの運命」『優駿』2016年6月号、中央競馬ピーアール・センター、2016年、80-85頁。 
  • 大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』ゼスト、1997年。ISBN 4916090527 
  • 木村幸治『名馬牧場物語』洋泉社、1998年。ISBN 4896913191 
  • 木村幸治『馬は知っていたか スペシャルウィーク、エルコンドル…手綱に込められた「奇跡」の秘密』祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2000年。ISBN 4396312199 
  • 兼目和明・大岡賢一郎『奇跡の名馬』パレード、2010年。ISBN 4939061310 
  • 山河拓也「名馬物語11 テンポイント」『サラブレ』1998年2月号、エンターブレイン、1998年、139-145頁。 
  • 志摩直人『テンポイント 栄光の記録』駸々堂、1978年。 
  • 杉本清『あなたのそして私の夢が走っています』双葉社、1992年。ISBN 4575281883 
  • 杉本清『三冠へ向かって視界よし 杉本清・競馬名実況100選』日本文芸社、1995年。ISBN 4537024836 
  • 瀬戸慎一郎『悲劇のサラブレッド』講談社、1993年。ISBN 4062062577 
  • 瀬戸慎一郎「頑ななまでに勝負に生きたサラブレッドの奇跡」『競馬最強の法則』1997年2月号、KKベストセラーズ、1997年。 
  • 寺山修司・志摩直人ほか『「優駿」観戦記で甦る 菊花賞十番勝負』小学館小学館文庫〉、1998年。ISBN 4094024824 
  • 寺山修司・遠藤周作ほか『「優駿」観戦記で甦る 有馬記念十番勝負』小学館〈小学館文庫〉、1998年。ISBN 4094024832 
  • 遠山彰『日本ダービー物語』丸善〈丸善ライブラリー097〉、1993年。ISBN 4621050974 
  • 冨田昭『テンポイント秘話』報知新聞社、1978年。 
  • 中川秀一『激動の昭和名馬列伝』KADOKAWA〈サラブレBOOK〉、2020年。ISBN 4047361437 
  • 平岡泰博『流星の貴公子テンポイントの生涯』集英社集英社新書〉、2005年。ISBN 4087202933 
  • 藤野広一郎『闘魂』コスモヒルズ、1994年。ISBN 4877038183 
  • 松永郁子『名馬は劇的に生きる』講談社、2000年。ISBN 4062102803 
  • 山田雅人『証言集テンポイントの思い出』アスペクト、1998年。ISBN 475720017X 
  • 横尾一彦「サラブレッド・ヒーロー列伝1 永遠の貴公子 テンポイント」『優駿』1986年3月号、中央競馬ピーアール・センター、1986年、18-23頁。 
  • 吉永みち子『旅路の果ての名馬たち』大和出版、1994年。ISBN 4804760296 
  • 渡辺敬一郎『最強の名馬たち 「競馬名勝負」真実の証言』講談社、1999年。ISBN 4062097125 
  • アスペクト編集部 編『サラブレッド101頭の死に方』アスペクト、1996年。ISBN 4893665952 
  • 光栄出版部 編『夢はターフを駆けめぐる―涙と笑いの競馬バラエティー』光栄、1993年。ISBN 4877190414 
  • 光栄出版部 編『夢はターフを駆けめぐる〈6〉悲しみの名馬たち』光栄、1994年。ISBN 4877191720 
  • 流星社編集部 編『サラブレッド99頭の死に方』流星社、2000年。ISBN 4947770007 
  • 渡辺敬一郎 編『星になった名馬たち』オークラ出版〈OAK MOOK 37 ウルトラブック 12〉、2000年。ISBN 4872785185 
  • 『忘れられない名馬100 関係者の証言で綴る、強烈な印象を残してターフを去った100頭の名馬』学研〈Gakken Mook〉、1996年。ISBN 4056013926 
  • 『競馬ライバル読本 名勝負を生んだ"黄金対決"の数々』宝島社別冊宝島 競馬読本シリーズ 311〉、1997年。ISBN 4796693114 
  • 『英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20 忘れえぬ名馬たち 夢とロマンを乗せ風になった駿馬の記憶』徳間書店〈Town Mook〉、2002年。ISBN 4197101678 
  • 『20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡』文藝春秋〈Sports Graphic Number PLUS〉、1999年。ISBN 4160081088 
  • 『優駿』1978年4月号、中央競馬ピーアール・センター、1978年。 
  • 『優駿』1980年12月号、中央競馬ピーアール・センター、1980年。 
  • 『優駿』2000年3月号、中央競馬ピーアール・センター、2000年。 
  • 『優駿』2003年3月号、中央競馬ピーアール・センター、2003年。 
  • 『優駿』2004年3月号、中央競馬ピーアール・センター、2004年。 
  • 『優駿』2010年8月号、中央競馬ピーアール・センター、2010年。 
  • 『優駿』2015年3月号、中央競馬ピーアール・センター、2015年。 
  • 『優駿』2015年12月号、中央競馬ピーアール・センター、2015年。 
  • 『優駿』2024年9月号、中央競馬ピーアール・センター、2024年。 
  • 『創刊50周年記念 優駿増刊号 TURF』、日本中央競馬会、1991年。 

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