アレイスター・クロウリー
アレイスター・クロウリー(アリステア・クローリイ[1]、Aleister Crowley、1875年10月12日 - 1947年12月1日)は、イギリスのオカルティスト、詩人、著述家、登山家[2]。魔術教団 O.T.O.(東方テンプル騎士団)等のオカルティズム団体の指導者[3]。著作の大半は、彼が呼ぶところの「Magick」(魔術)に関するもので、西洋魔術、西洋近代のオカルティズムから出発し、麻薬を使った魔術や性魔術の研究を行い、性魔術を通じてインドのタントラに接近していったとみなされている[4][5]。哲学、文化、政治についても執筆し、社会批評にも熱心だった[6]。妻ローズ・イーディス・ケリーを通じて啓示を得たとし、自身をモーセやムハンマドと肩を並べる預言者だと考え、自らが創設したセレマ宗教運動を推進した[7][6]。一時所属した黄金の夜明け団の知識や儀式を無許可で一般に公開してオカルト業界を騒がせた[8]。
アレイスター・クロウリー Aleister Crowley | |
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O.T.Oグランドマスター在任時(1919年) | |
誕生 |
Edward Alexander Crowley 1875年10月12日 イギリス、ウォリックシャー州レミントン・スパー |
死没 |
1947年12月1日(72歳没) イギリス、イーストサセックス州ヘイスティングス |
職業 | オカルティスト、詩人、著述家、登山家 |
国籍 | イギリス |
最終学歴 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ中退 |
代表作 |
『法の書』 トート・タロット |
配偶者 | ローズ・イーディス・ケリー、マリア・テレサ・ド・ミラマール |
影響を受けたもの
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悪魔を意味する黙示録の「獣 666」を名乗り、「偉大なる野獣」「現存する最も邪悪な男」として世に知られることを望み、派手な演出でマスコミに登場し、生涯そのイメージを演じ続けた[5][9][10]。バイセクシュアルであることを公にしており、波乱に満ちた人生、退廃的な生き方、繰り返される薬物の使用、性魔術、時には動物の生贄を伴う秘教的な儀式・精神修行の実践等により、世間で物議をかもした[2][11][6][10][3]。
生前の信奉者は少なかったが、死後はカウンターカルチャーで広く知られるようになり、カルト的な人気を博した[2]。
登山家としては、1902年にオスカー・エッケンシュタインとともにカラコルム山脈の最高峰K2に挑戦した最初の西洋人として、またカンチェンジュンガの挑戦を主導したことで知られる[6]。
経歴 編集
1875 - 1904年(少年 - 青年期) 編集
クロウリーは1875年10月12日に、イギリスのウォリックシャー州のロイヤル・レミントン・スパで、エドワード・アレクサンダー・クロウリーとして生まれた[6][2]。クロウリーの父は、ビール醸造業で財を成した裕福な家庭の後継ぎだったが、事業とは特に関わりなく紳士的に暮らしており、非国教徒のプロテスタントの宗派プリマス・ブレザレンのイクスクルーシブ・ブレザレンの伝道師だった[2]。クロウリーは父を尊敬し、それに倣おうとしたが、一方母親と過ごす時間はなく、彼女を軽蔑し、召使いのように扱っていたという[12]。また、彼が最初に「野獣」と呼んだのは、母親である[12]。
両親は敬虔なキリスト教原理主義者だったが、彼は子供の頃から教え込まれたあらゆる考え方に全面的に反抗した[10][6]。8歳で階級の慣習に従い、両親の宗派の寄宿学校に入り、敬虔に暮らした[12]。1887年に父が死去するとクロウリーは変化し、ブレザレンの神学を受け入れ続けながらも、完全に「サタンの側についた」という[6][12]。ここの学校を含め、通った学校ではいじめられ、身体的・精神的虐待を受けた[10]。喜びのない、抑圧された、歪な暮らしを通して、クロウリーは抑圧こそが悪の原因であり、悪魔は存在し得ないと考えるようになり、悪魔が敵であるという考えを疑った[10]。10代になる頃には、厳格なキリスト教徒としての教育に反抗し、キリスト教に嫌悪感を抱くようになった[6][2]。12歳の時から、それまで父なる神に向けていた情熱を悪魔の道に向け、探求を行ったという彼の主張は、都合のよい作り話だった可能性があるが、少年だった彼にとってキリストも同義だった父の死が転向の契機となったと思われ、聖書のイメージに満ちた少年時代、彼は早くからサタンを自分と同一視し、さらにサタンと性を結びつけていたようである[12]。
聖書の矛盾について家庭教師と議論し、オカルトに傾倒し、抑圧こそが悪の原因だと考え、喫煙、自慰行為の露出、動物虐待、学校給食への異物混入、売春婦とのセックスなどを行うようになった[6][2][10]。子どものころから残酷な面があり、母親から猫は9つの命を持つという俗説を聞いた彼は、その真偽を科学的に確かめるためと称し、猫にヒ素を飲ませ、ガスで窒息させ、ナイフで刺し、頭蓋骨を砕き、喉を切り裂き、バーナーで焼き、溺れさせ、最後には高い窓から落とすという動物虐待を行い殺害している[10][11][4]。
19歳になるまでに「アレイスター」を名乗るようになり、チェスと登山にも興味を持ち、チェスの腕前で評判になった[2]。1894年にスコットランド登山クラブに入会して積極的に活動し、1890年代を通じて湖水地方の登山家として活躍した[6]。
家族の反対を乗り越え、1895年にケンブリッジ大学に入学し、家庭の澱んだ宗教的雰囲気からの開放を感じ、セックス、喫煙、文学という禁止された楽しみに耽溺した[12]。他の同じ階級の若者たちと同様に、彼はケンブリッジの労働者階級の少女たちと交際し酔いしれたが、一見女性に対する態度はアンビバレントで、奥底に女性への恐怖、憤り、軽蔑の感情があり、後に女性のセクシュアリティを認め、男女ともに性的な放縦を支持するようになっても、それは続いた[12]。女性と情熱的な恋愛をする傾向があったが、自分の欲求が変化したり関心が薄れると、恋人の女性を捨ててしまい、このひたむきさと冷酷さは彼の性格の特徴だった[12]。彼の恋人には、アルコール中毒や精神異常に陥った者、自殺した者もいる[12]。
すでにラテン語とギリシア語に精通していたが、倫理学の履修を放棄し、フランス文学と古典をかじりつつ、英文学の集中的な研究に時間を費やした[12]。また、リチャード・バートンの『千夜一夜物語』を初めて読み、貴重な初版を含む膨大な蔵書の収集を始めた[12]。講義にはほとんど出席せず、登山と詩作に熱中し、学位を取ることなく退学した[2][11]。父が残した数百万ドルもの莫大な遺産を相続したことで、贅沢に暮らし、世界を旅し、著作を出版する金銭的余裕を手に入れ、1898年に最初の詩集を出版し、その後も数多くの豪華な詩集を出版し、詩人として世に出ようと決心した[2][6][8]。
奇抜な服装で街を歩き、また一種の知的ゲームとして同性愛に興味を抱いた[8]。最終学年23歳のときに、オーブリー・ビアズリーの親友で才能ある女形の役者だったジェローム・ポリットと恋に落ちている[12]。クロウリーは詩集『風刺作家アブドラの香りの庭』で、ペルシャの神秘主義と同性愛賛美を融合させ、ポリットと自身を描いた[12]。クロウリーにとってポリットとの関係は強烈で、彼はクロウリーに、反権威主義、反道徳主義、悪魔主義、病的趣味など反既成を特徴とする世紀末ヨーロッパの芸術のデカダン運動を紹介し、クロウリーの言葉を借りれば彼を詩人にしたが、オカルトへの興味にはほぼ共感せず、登山への情熱も共有しなかった[12]。魔術と登山は、自然の力を支配したいという欲求に応えるという意味で、この二つには共通する面があった[12]。
クロウリーは登山家として成功し、スコットランド、アルプス、アメリカ、メキシコで登山をした[11]。1898年に、L・A・レグロスのイラストを添えた世界最古のボルダリングガイドのひとつを執筆した[6]。
20代半ばまでに、19世紀の他の多くの宗教懐疑主義者と同様に、キリスト教に対する不満はオカルトへの積極的な関心に変わりった[6]。ケンブリッジ大学在学中に、登山と並行して秘教的な主題について幅広く読書を始め、アーサー・エドワード・ウェイトの『Book of Black Magic and of Pacts』に書かれた「隠れた教会」への言及に触発され、情報を求めて作者に手紙を出し、最近イザベル・ド・スタイガーが翻訳したカール・フォン・エッカートハウゼンのオカルト古典『The Cloud upon the Sanctuary』を読むよう勧められた[12]。 1898年にハイキングと登山にこの本を持って出かけ、ここに描かれた宇宙の神秘を知る「神秘的な同胞団」とコミュニケーションを取り、啓示を得て、人生の完全な純粋さと自然の秘密の力の支配権を手に入れることを熱望するようになる[12]。1898年、彼は登山、詩作、魔術の知識の追求に熱中しており、大学を退学すると、ポリットを探求の邪魔になると考え、恋人関係を終わらせた[12]。この決断を生涯後悔することになる[12]。
1898年に登山家のオスカー・エッケンシュタインと出会い、彼から精神修養について多くを学び、2人は大規模な登山旅行で同道した[12]。ほぼ同時に、後の妻ローズの兄である画家のジェラルド・ケリーと出会っており、彼は魔術に興味があり、クロウリーと共に魔術の道を歩むことになった[12]。この頃までに、マグレガー・メイザースの『ヴェールを脱いだカバラ』を読み進め、自分のオカルト知識を誇示したいと思うようになっていた[12]。登山の休憩中に、分析化学者の黄金の夜明け団の団員ジュリアン・L・ベイカーと出会い、団員のジョージ・セシル・ジョーンズを紹介され、教団の首領のメイザースに紹介され、1898年11月に秘教主義教団黄金の夜明け団に入団した。クロウリーは、教団の団員のほとんどを「頭が混乱した中流階級の凡人達」と断じたにもかかわらず、自分が「聖杯の隠された教会」を発見し、そこに入ったのだと確信を抱いていた[12]。
ケルトを自称するマグレガー・メイザースが中心となって作り上げた組織で、カバラ、錬金術、占星術、タロット等から成る体系に基づいており、薔薇十字団をその神話と儀式のよりどころの一つとしている[13]。クロウリーはここで儀式魔術の訓練を受けた[6]。教団での研究を初歩的だと感じたが、粘り強く続け、1899年5月に昇格し、第二団への参加を期待するようになる[12]。メイザースに次ぐとみなされていた先輩団員アラン・ベネットに出会い、彼に悪の力に手を出していると非難されたことで、実際にアブラメリン魔術として知られる悪魔の体系を密かに研究していたクロウリーは、ベネットを認め、貧しい彼を快適な高級アパートに泊まるように誘い、ここから活発な魔術研究が始まった[12]。クロウリーはまだ若かったが、高度な魔術の実験を始め、アブラメリン流の方法で精霊を呼び起こし、ベネットから薬物の魔術への使用法を学んだ[12]。これらの活動に教団の上級メンバーは眉を顰め、派手な生活、悪魔の魔術、同性愛の噂が広まり、クロウリーの評判は不名誉なものとなっていった[12]。
詩人で団員のウィリアム・バトラー・イェイツ(のちノーベル文学賞受賞)は、クロウリーが狂人ではないにしても不道徳だと考え、一方クロウリーはイェイツが自分の文学的才能と魔術的才能を妬んでいると確信していた[12]。クロウリーはベネットの影響で、メイザースに師事するようになった[14]。1892年にメイザースがパリに移ると、彼とロンドンの団員の関係は悪化し、クロウリーは教団の権力争いに巻き込まれ、メイザースはロンドンの教団の支配権回復のためにクロウリーを送り込み、クロウリーは儀式的で魔術的な活動を行う「アデプト(成就者)の部屋」の支配権を握ろうとし、教団本部に侵入を試みた[15][12]。イェイツは彼に対抗するために教団運営に関わるようになり、侵入を警戒して建物に立てこもり、チャールズ・ラッセルに弁護を依頼し、クロウリーを告訴し勝訴[15]。メイザースはロンドンの教団から追放され、クロウリーは1900年に短期間で教団を追放された[15][16]。
追放後、メキシコ、サンフランシスコ、ハワイ、横浜、上海、スリランカと旅し、ここでベネットと再会し、ヨーガを学んだ[8]。また、仏教も学んだ[5]。
ネス湖の畔に邸宅ボレスキン・ハウスを購入すると、半ば隠棲した。ここで彼は悪魔崇拝の儀式を行い、薬物摂取、乱交、性魔術に没頭したといわれる[11]。
世界一周旅行もして見聞を広め、登山家のオスカー・エッケンシュタインと共にカラコルム山脈の最高峰K2登頂に挑戦したが、この登山は悪天候に見舞われ大惨事となり、クロウリーは重度の高山病にかかったが、奇跡的に全員が生還した[6]。
スウェーデン、インド、ロシア、スリランカ、日本を旅した[6]。クロウリーは、既婚男性に恋し、両親に別の男性と結婚させられそうになっていた女性ローズ・イーディス・ケリーの窮状に怒り、彼女を意に沿わない結婚から救おうと、1904年に結婚[7]。偽装結婚のはずだったが、結局本当の結婚となり、ローズとエジプトのカイロにハネムーンに出かけた[7]。ローズ自身は特にオカルト的なものに興味はなかったといわれるが、クロウリーは彼女とギザの大ピラミッドの王の部屋で一夜を過ごし魔術儀式を行い、彼女はトランス状態になり、クロウリーは彼女を通して、12歳の時に自分の守護天使とみなしたアイワスと名乗る霊的存在からのコンタクトを受けたと主張している[7][6][2]。ローズは数日かけてアイワスのものとされるメッセージを口述し、新しい時代の始まりを告げ、教えを語り、クロウリーはこれをもとに散文詩『法の書』を書いた[2][7]。この詩の中で、彼の最も有名な教えである「汝の欲することを行え、それが法のすべてである」を定式化した[2]。フランスの作家フランソワ・ラブレーが300年以上前に『ガルガンチュワとパンタグリュエル』で述べたことで、新しいものではなかったが、クロウリーはこれをセレマと呼ぶ新しい宗教の礎とした[2]。
1904 - 1923年(壮年期) 編集
1904年5月にハネムーンを終えたクロウリーは、セレマを巡る論争からマグレガー・メイザースと対立して決別した。他の師の元で魔術を学び続けた[12]。同年夏の長女リリス(ヌイト・マ・アハトゥール・ヘカテ・サッポー・イゼベル・リリス[17])が誕生。
1905年、ヤルン氷河越えの南西壁を経由するルートで、ヒマラヤ山脈の8,000メートル峰であるカンチェンジュンガ登頂に挑戦したが、失敗した[6]。登山家としての後期の、登山中の彼のリーダーシップはチーム内に議論を引き起こし、登山をサポートする現地人のポーターに対しては冷酷だった[11]。カンチェンジュンガ登頂でのリーダーとしての振る舞いは傲慢で、仲間の反感を買い対立し、ポーターたちを何度も殴り、一行は途中で雪崩に巻き込まれた[6]。その後、彼をリーダーから解任しようとして失敗した仲間たちは(クロウリーは夜間の下山を勧めなかったが)夜間に下山し、雪崩に巻き込まれ、登山者1名とポーター3名が死亡した[6]。生存者の叫び声に他のメンバーは助けようと飛び出したが、クロウリーは無視してテントに留まり、翌日、遺体収容を手伝うことなく下山し、生存者と話すこともなく現場を通り過ぎ、ダージリンで遠征隊の残金を持ち逃げし、後日新聞社に「この種の事故は、私がまったく同情できないことの一つだ」と、事故にあった仲間たちに軽蔑を示す手紙を送った[6]。これがクロウリーが本格的に取り組んだ最後の登山であり、こうした行動により、登山界での彼の評判は一気に低下した[6]。
妻ローズと生まれたばかりの娘リリスを連れて中国を横断する過酷な旅に出て、リリスを腸チフスで亡くし、ローズは重度のアルコール中毒で死にかけていた[12]。1906年、若い頃集中的に行っていたアブラメリン魔術に戻り、薬物を用いた魔術実験を再開し、ジョージ・セシル・ジョーンズにマスター魔術師として認められた[12]。ここからクロウリーは自身の魔術結社のプランを練り始めた[12]。
1907年に次女ローラが誕生。1907年頃、クロウリーはラテン語で "銀の星 "を意味するイニシャルを用いた独自の教団「A∴A∴(アルゲンティウム・アストルム)」を設立した[2]。1909年からは、定期刊行物「The Equinox(春秋分点)」で自身の教えを広めた[2]。この活動の初期における彼の助手は、後に軍事戦略家・歴史家として知られるジョン・フレデリック・チャールズ・フラーである[2]。「The Equinox」はオカルトの技の真剣な議論に特化した野心的でよくできた定期刊行物だった[12]。クロウリーは仲違いしたメイザースへの復讐として、黄金の夜明け団の知識や儀式、秘密文書(メイザースによる大英図書館所蔵の17世紀の魔道書の翻訳)を勝手に出版し、メイザースはこれを阻止するためにロンドンで彼を訴えたが、1910年に敗訴した[18][19][8]。
自身を魔術師エリファス・レヴィの生まれ変わりと称してセレマの伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年にアルコール依存症に陥った妻ローズと離婚し、ローラの親権はローズが所有した。
この頃ケンブリッジで支持者を集めていたクロウリーは、ケンブリッジ大学の裕福な学生で、神秘的な詩集を出版していたヴィクター・ニューバーグの元を訪れた[12]。彼の家族は伝統的で組織化されたユダヤ教を拒否したユダヤ人で、自由思想と進歩的な価値観を信奉しており、親切な人たちだったが、幼少の頃から神秘を経験することのあったニューバーグとはほとんど共通点がなかった[12]。クロウリーはニューバーグにとって、裕福で洗練された趣味を持つ、霊的現実を理解していると語る博学な詩人という魅力的な存在で、同様にクロウリーは、ノイバーグに魔術に対する並外れた才能があると感じ、教団と自分自身のために彼を育て始めた[12]。ニューバーグはA∴A∴に入団し、クロウリーに神聖な服従の誓いを立て、クロウリーは1909年半ばに、ボレスキン・ハウスで10日間の隔離生活を行わせ、これは強い苦しみや不安、そして時折の恍惚とした喜びを伴うものだった[12]。ほとんど不可能なほど厳しい試練を与え続け、黄金の夜明け団ので何年もかかるような魔術修行を数日に圧縮して実施した[12]。クロウリーは彼を棘のあるハリエニシダのベッドで裸で眠らせ、イラクサの束で鞭打つといった身体的苦痛を与え(ニューバーグは修行の内容から、クロウリーをサディストの同性愛者だと考えていた)、ニューバーグのユダヤ人的特徴を繰り返し罵り続けるなど心理的な苦痛を与え、ニューバーグが思わず反論すると、畏れ情緒的に結びついている師に反抗し、服従の誓いを破ったことを反省し続けることになった[12]。ヨガと瞑想を長期間行わせ、変性意識状態を経験させ、アストラル界を鮮明に感じさせ、宇宙的な「マインド 」との強烈で歓喜に満ちた、同時に絶望的でもある同一化を経験させ、ニューバーグは嵐のような時を通し、自分の中にある種の「中心」を見出し、クロウリーから魔術的な成長を認められた[12]。
1909年後半、大学を卒業したニューバーグを連れて、アルジェの南西にある北アフリカの砂漠を旅し、そこで彼を相手に儀式魔術と同性愛のセックスを組み合わせた性魔術を行い、クロウリーが後に Magick と呼ぶ技法のはしりとなる一連の魔術の儀式を行った[12]。クロウリーの魔術は、マグレガー・メイザースが再構築した、エリザベス朝の占星術師ジョン・ディーと彼の透視者だったエドワード・ケリーが開発した複雑な魔術体系に拠っており、黄金の夜明け団で学んだことだった[12]。クロウリーは自分に合うように手順を変え、ニューバーグは儀式魔術の透視者・筆記者役だった[12]。クロウリーは、昼間は灼熱、夜は極寒の広大な砂漠を、コーランや魔術・宗教の呪文を唱えながら歩き続け、ブー・サアダの町の近くのダレ・アディン山で儀式を行った[12]。クロウリーは欲望と魔法の悪魔的な神として崇拝するパン神を、パン神のような装いのノイバーグに(おそらく祈祷で)呼び降ろした[12]。この魔術体験は性別の逆転を大きな特徴としており、儀式の内容を端的に説明すると、クロウリーはパン神に捧げられた同性愛の儀式で、ノイバーグに強姦された[12]。クロウリーは打ちのめされたが、儀式を通して「奈落の底を越えた」と感じ、性魔術が偉大な力を得るための比類のない手段であると信じるようになった[12]。黄金の夜明け団では、生きているこの世界、現実世界ではアデプト(成就者)レベルの認識には到達できないと教えていたが、クロウリーは独自の方法でこれを肯定したのである[12]。二人はさらに砂漠を進み、深淵の強力な悪魔コロンゾンを呼び出して対峙し、それを乗り越える儀式を行った[12]。コロンゾンはクロウリーがパリで知り合い愛した美しい女性の姿で、聖人と蛇を従えて顕れ、ノイバーグはコロンゾンと夢中になって議論し、悪魔は変身し、狂言と甘言と議論を繰り返し、クロウリーは静かに向き合いこれに打ち勝ったという[12]。
二人を知る人々は、ノイバーグは「この不思議な冒険で墓場まで治らない傷を負った」と言い、クロウリーは精神的に打ちのめされ、試練から立ち直ることはなかったと語っている[12]。二人はビスクラで療養した後アルジェに戻り、1909年12月にイギリスに出航した[12]。ノイバーグはパン神のイメージからいくつか優れた詩を書いたが、砂漠での経験は重荷となり、生涯恐怖に付きまとわれることになった[12]。
1910年か1912年に、優生学を説くドイツのオカルト団体で、テーオドール・ロイスが指導する「O.T.O.(東方テンプル騎士団)」に入り、できたばかりの団体内で大きな衝突のもとになり、頭角を現していった[3][17]。O.T.O.の中心思想はキリスト教グノーシス主義であり、インドのタントリズムと西洋秘密結社の伝統を用い、テンプル騎士団の精神的後継者であると主張していた[3]。O.T.O.の研究者ピーター=ローベルト・ケーニッヒによれば、この教団は社会のユートピア的再編を目指しており、O.T.O.が国家宗教になり、「聖職者医師」が大衆の性的な再教育を行い、私有財産は廃止され、強制労働と優生学が導入され、身体的に完璧な親だけが子供を持つことが許される、という社会のヴィジョンを持っていた[17]。
O.T.O.は、魔術実践に方向性や力を与えるためとしてセックスを用いる性魔術を重んじており、クロウリーはマジック(奇術)と区別するためとして「Magick」と綴る彼独自の魔術のブランドを発展させたが、それは性に焦点を当てたものだった[3]。クロウリーは同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握っており、O.T.O.はクロウリーの『法の書』を聖典として受け入れている[2]。以後彼はこの二つの団体を主宰した。それに伴い、その奔放な異端的活動が世間で物議を醸すようになった。
第一次世界大戦前に薬物規制が始まったが、クロウリーは薬物は自己認識と自己啓発への道だと考え、規制と反対の方向に向かった[10]。
1914年、O.T.O.の活動で渡米中に第一次世界大戦が始まり、約4年間のアメリカ滞在を余儀なくされた。ドイツはアメリカの参戦を防ごうと、アメリカでプロパガンダ出版物を出し、クロウリーはそのひとつである親ドイツの新聞『The Fatherland』にライターとして参加し、親ドイツ的なプロパガンダを作成した[2][10][10]。彼はキュナード・ラインの定期船ルシタニア号への攻撃を勧めさえし、実際にドイツ軍によって船は魚雷攻撃され、千人近いアメリカ人が死亡し、彼は「裏切者」として非難されたが、イギリス政府の命令に従ったのだと弁明している[10]。彼の主張通りなら、ルシタニア号沈没がアメリカ人を同盟側に引き入れたと見ることができるが、後にクロウリーがイギリス政府から給与を得ていたことが確認されている[10]。
帰国すると、1920年にシチリア島で家を改修し、セレマ修道院と名付け聖域とし、このコミューンで信奉者達と共に暮らした[7][2]。『ある麻薬常用者の日記』(1922年)を小説として出版したが、これは個人的な体験に基づくものだと言われる[2]。冒涜的な儀式に参加した若い信奉者が死亡したとされる事件をきっかけに、イギリスの大衆紙は、クロウリーを「世界一邪悪な男」と非難し、セックスとドラッグの乱交、邪悪な魔術、獣姦、残酷な生贄などに関する薄気味悪い記事を次々と掲載し、これらの告発はセンセーショナルなだけでなく真実も含まれていた[2][7]。1923年に、イタリア政府に国外退去を命じられた[2]。
1923 - 1947年(中高年 - 老年期) 編集
イタリアを追われた後、チュニジアに向かいヘロイン依存からの回復を試みたが、上手くいかなかった。1923年に死去したO.T.O.の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、翌年から団体を受け継ぎ、全派のトップとなる[8]。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが行われ、ほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ、主にO.T.O.の同志に招かれての活動を続けた。1928年に後の魔術研究家イスラエル・リガルディーを秘書として迎え入れている。
1929年にフランス治安当局から退去を命じられる。同年、イギリスで『Magick(魔術) 理論と実践』を出版[8]。クロウリーは、悪魔は至高の力を持っているが、彼の意志に屈服することで魔術的な力の源になるとし、悪魔崇拝の疑念を否定しているが、『Magick』には悪魔への呼びかけも記されている[10]。マリア・テレサ・ド・ミラマールと結婚したが、短期間で離婚した[8]。この頃から晩年にかけて、スキャンダラスな悪評も影響し、彼は社会から完全に忘れ去られていった[8]。
1930年からドイツに活動の拠点を移し、O.T.O.の運営に力を注ぐようになった。セレマの伝道にも取り組み続けた。これらはほとんど収入にならず、クロウリーの財産は幾度も底を突いたが、その度に彼を信奉する新たなパトロンを見つけ、また、繰り返されるバッシングと剽窃を理由にした賠償請求訴訟を起こし、それも資金源にしている。彼は旅行と浪費で遺産を使い果たし[2]、1933年のナチス政権成立による社会統制の強化でO.T.O.の活動も困難になり、ドイツでの後事をカール・ゲルマーに託してイギリスに帰国した。
1935年に自己破産を申請し、以前のような団体主催活動は不可能になったが、精力的に執筆を行い、1938年から画家のフリーダ・ハリスと共同で新しいタロットカード、トート・タロットの制作に取り組んだ。すでに還暦を過ぎていた彼は、無一文になり、ロンドンを中心にした各地の弟子たちに生活の面倒を見てもらうようになった。1939年に第二次世界大戦が勃発し、翌年から始まったロンドン大空襲を避けて、デヴォン州トーキーに移住した。この大戦中にO.T.O.は壊滅状態になり、A∴A∴もクロウリーの身内サークル程度のものになっていた。1944年、トート・タロットが完成し、その解説書『トートの書』を出版し、これが最後の功績となった[2]。同時期に後の儀式魔術家ケネス・グラントを秘書にしている。この頃は慢性気管支炎の悪化による喘息症状に苦しめられていた。
晩年はヘロイン中毒や様々な身体の不具合に苦しみ[11]、終戦後、イーストサセックス州の沿海の静かな片田舎ヘイスティングスの下宿で、貧困と無名のうちに、1947年12月1日に慢性気管支炎のため死去した[2]。享年72歳。地域の人々は、彼が悪魔と手を組んだ男だという悪評を恐れ、本気で受け止めていたため、ヘイスティングス区議会はここでの彼の火葬を拒否した[10]。葬儀は、最後まで残った弟子達によって異教式に行われ、これは議論を呼びスキャンダルとなった[8]。
遺体は火葬され、遺灰は彼の信奉者で後継者のカール・ゲルマーのニュージャージー州の庭に埋葬された[11]。スコットランド国立図書館にはクロウリーの原稿が所蔵されている[11]。
批評 編集
彼の魔術儀式は特定の文脈で行われたもので、心理学化された魔術であり、アイデンティティの探求と関係している[12]。研究者のアレクシス・オーウェンは、クロウリーの人生は、善人が悪人になり、女も男も裏切り、無垢な者を堕落させ、堕天使で自称反キリストというヴィクトリア朝のメロドラマのようだが、見方を変えれば、彼は特権階級に生まれながら、慣習を軽蔑し、真理の探求という不可能な試みを諦めず自滅した才能ある男で、悲劇的英雄と見ることもできると述べ、彼がどのように見られようとも、その魔術的探求は、世紀末の心理学化された魔術の可能性を深く示唆し、その危険性を物語っていると指摘している[12]。少なくとも彼の魔術的実践は、黄金の夜明け団が掲げた高い志が、神智学協会のヘレナ・P・ブラヴァツキーのようなオカルティストたちを激怒させたように、いわゆる黒魔術に容易に変容しうることを象徴している[12]。クロウリーに起こったことは、規律を欠いた心理学化された魔術が準備不足の者の手に渡れば、自己崩壊につながりかねない、ということを示しているとも言える[12]。オーウェンは、彼が砂漠で行った性魔術は、クロウリーがそれまでの常識や魔術を手放し、良きにつけ悪しきにつけ、安全策も保証もない人生と魔術のやり方を選んだことを示しているとしている[12]。
オーウェンは、砂漠での性魔術は、二人の男の人生を破壊したと言えるかもしれないが、体験として崇高で恐ろしいものであり、その効果は深遠であり、高度な魔術的実践と個人の自我との関わりについて示している、と評している[12]。これは、彼の他の多くの魔術作品同様に、単に利己的なものではなく、エキゾチックで無法なセックスへの耽溺というわけではなく、見当違いであったにせよ、何世紀も前の魔術体系にアクセスし、探求しようとする真剣な試みの結果であり、魔術的知識の追求に強く力を注いだことの表れであったと述べている[12]。
クロウリーは『法の書』を得た1904年に、旧い時代が終わりを告げ、「新時代」(ニューエイジ、アイオーン)が始まったと主張した[5]。旧い時代とは従来のキリスト教のような既存宗教の時代で、人間が神に従うだけの奴隷の宗教の時代であり、新時代とは、人間自身が自己の内なる神性、つまり「真の意志」を見出し、神と合体できるようになる時代であるとし、人には皆神性があり、それは修行によって自覚でき、神と人の対話が可能になるとし、麻薬を用いた魔術や性魔術を研究した[5]。古い時代を壊し、新しい時代を打ち立てることが人間の使命であると主張した[5]。
『法の書』の第1章は、夜の星空の女神ヌイトからの人類へのメッセージで、エジプト神話の女神イシスが想起される内容となっている[5]。もっとも古い人類の社会は女神の時代であったとされている[5]。第2章は、神性を代表する昼の太陽神ハディトの説話で、エジプト神話のオシリスと関連づけられており、男神の時代となっている[5]。個々人の中にある神性が語られる[5]。第3章はヌイトとハディトとの合一から生まれる 「新時代の主」(アイオーンの主)ホルスを説いたものである[5]。 『法の書』では、夜の星の女神と昼の太陽の男神という陰と陽の世界が繰り返し語られ、ヌイトとハディトという陰陽和合で新しい生命、新時代が生まれるという理解となっている[20]。新時代を実現させるホルスの力は、神性という内的エネルギーを実現させる 「新時代」(アイオーン)であり、世界征服を内容としている[5]。
同時代の他の文化運動にも見られるように、1880年代から1920年代にかけては、人類が超人へと移行する輝かしい新時代の幕開けへの期待があり、黄金の夜明け団は自分たちがこの進化の助産師であると信じており、クロウリーの言葉を借りれば、黄金の夜明け団の団員達は、自分たちは「(人類の超人化という)未知の土地への橋を架ける技術者」だと自負していた。研究者のジュールス・エヴァンスは、黄金の夜明け団の使命の中心は、信奉者たちが性魔術を使って人類という種のために上級の魂を子孫に注ぎ込むことであり、クロウリーはローズとの間に性魔術で超人の化身を生むことを試み、リリスが誕生したと述べている[17]。
クロウリーは西洋魔術を標榜する黄金の夜明け団から出発し、性魔術を通じてインドのタントラに接近していったとみなされている[4]。性魔術そのものは世界各地にある豊穣儀礼に起源があり、特に特別視されるようなものではないが、当時の近代ヨーロッパ世界では、進化論によって神による天地創造説がナンセンスと化し、父権的な禁欲論理が揺らいでおり、キリスト教規範の緩みの中で注目を集めた[4]。クロウリーの性魔術は、それまでキリスト教規範に圧迫されてきた異教や異端の思想の見直しの流れで生まれたものある[4]。インド・イラン学研究者の岡田明憲は、「この意味でクロウリーの性魔術は、正しく中世に禁じられたサバトの復興であった。そして中世のサバトは、事実というより半ば妄想であった様に、クロウリーのそれも、ヨーロッパにおける近代人の病理を色濃く反映したものなのである。それ故に、クロウリーの性魔術とタントラは似て非なるものである。」と指摘している[4]。岡田明憲は、一見残虐なヒンドゥー教徒の動物犠牲も、近代人とは異質の人々の敬虔な行為で、クロウリーの動物虐待に示されるような残虐性とは別物であり、また、彼の性魔術は形式上もタントラとは区別されると述べている[4]。例えば、クロウリーがテンプル騎士団に由来するとして同性愛を積極的に評価したが(実際はO.T.O.の伝統)、タントラでは男女の結びつきでなくては意味をもたない[4]。また自慰行為を奨励したが、これもタントラにはほぼ見られない[4]。岡田明憲によると、クロウリーの性魔術とタントラは本質的に無関係であり、クロウリーによる両者の強い結びつきの主張は、彼の誤解によるものである[4]。
セレマの教えは、表面的には欲望と放縦を正当化するものに見えるが、クロウリーにとっては、抑圧からの自己の解放、自己受容は、自己実現と悟りにつながるもので、このような自己への信頼は、後のカール・ロジャースの来談者中心療法に通じているとも評される[7]。
一方、そのエリート主義、優生学的オカルティズムが持つナルシシズム、他者への残酷さを指摘する声もある。クロウリーはニーチェを熱愛し、彼を預言者の一人とみなし、セレマの信奉者たちにニーチェを読むよう命じた[17]。クロウリーはニーチェのように、「汝の欲することを行え、それが法のすべてである」と宣言しているが、ジュールス・エヴァンスは、彼が信じた「好きに生きる権利を持つ優れた存在」は一部のエリートであり、一方、残りの人類は奴隷であり、超人たちの意志に奉仕するために存在すると説明している[17]。
クロウリーはニーチェに倣ってキリスト教的慈愛を強く否定し、「親切心や良心や利他主義は、人類の進歩にとって実に欠点である。」とし、次のように書いている[17]。
我々は、追放者や不適格者とは何の関係もない。彼らは何も感じないのだから。憐れみは王の悪徳である:惨めな者、弱い者を踏みつけにせよ:これが強者の掟である:これが我々の掟であり、世界の喜びである。[17]
これに対してクロウリーは次のように解説し、弱者の淘汰の正当性を主張している[17]。
岡田明憲は、クロウリーもまた、近代ヨーロッパ文化を否定し、その超克を目指した神秘主義者の一人であるが、彼の性魔術は近代ヨーロッパ文化の産物である「自己意識」によるものであり、ヨーロッパ近代文化を脱し得ていないと評している[4]。
評価 編集
クロウリーが作り上げた魔術の世界では、その名は賞賛され、畏敬の念さえ抱かれており、彼の魔術教団の分派や魔術の実践者たちは、西洋世界の至るところに存在している[12]。一方、黄金の夜明け団に在籍した初期の頃から今日まで、クロウリーは魔術師から、邪悪な天才、魔術的詐欺師まで、あらゆる非難を受けてきた[12]。
同時代の人々は、裁判の報道や一般紙のいかがわしい記事を通じて彼の悪い噂を知り、非難した[12]。
没後の世評・影響 編集
ヘイスティングの人々は今でも、クロウリーに関連する場所には、彼の邪悪さ、悪のオーラが潜んでおり、彼がこの町を憎み呪った、ヘイスティングのビーチで取れた小石をポケットに入れておくと呪いから逃れられると信じている[10]。
クロウリーは、意識状態の変化を起こさせるためにタントラも取り入れて性的呪法を作り、これによりペイガニズムの重要な先駆者とみなされた[21]。
現代でも儀式魔術については、セックスと麻薬を中心に据えた秘儀の系統の力が強く、クロウリーの影響が特に強いアメリカ西海岸(カリフォルニア)では、1970年以後性魔術を売りものにする反体制的なアンダーグラウンド集団が多数作られた[22]。1969年に女優のシャロン・テートらを殺害したチャールズ・マンソンによるヒッピーのコミューン「ファミリー」がその極端な例として知られる[22]。
セレマは、アメリカの作家L・ロン・ハバードが新興宗教のサイエントロジーを構築する際のインスピレーションになったことが明らかになっている[11]。
死去した時のクロウリーは無名だったが、死後に大衆文化の中で注目を集め、カルト的な人気を博す人物となった[2]。その破天荒さは、1960年代から70年代にかけてのポップ・カウンターカルチャーで人気を集め、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967年)のアルバムジャケットには彼の顔が描かれている[11]。 デヴィッド・ボウイの快楽主義に大きな影響を与え、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジは、1970年にボレスキン・ハウスを購入している[11]。アングラ映画監督のケネス・アンガーは若い頃からクロウリーに傾倒し、短編映画『ルシファー・ライジング』は彼に捧げられた[23]。
オジー・オズボーンのアルバム『ブリザード・オブ・オズ』に収録されている「ミスター・クロウリー -死の番人-」は、クロウリーをモチーフとしている[24]。
1971年に発表されたデヴィッド・ボウイの「流砂」(Quicksand)では、クロウリーや、ナチスのヒトラーの側近ハインリヒ・ヒムラーといった名前や神秘主義関連の単語が連呼されている[25]。松岡正剛はヒムラーはクロウリー主義者だったと述べており、この曲は「神秘主義、魔術的なものを呼び込み、反キリスト的でありながら最後には神による救済を望まずにはいられない、キリスト教圏に育った者の葛藤が歌われている。」と評している[25]。
著書 編集
日本語訳されたもののみ記載。
- 『法の書』 Sor. Raven訳(O.T.O. Japan公式日本語訳、詳細は法の書の項を参照)
- 『法の書』 島弘之・植松靖夫訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02438-1
- 『法の書 増補新訳』 植松靖夫訳、国書刊行会、2022年、ISBN 978-4-336-07319-8。普及版・愛蔵版が刊
- 『世界魔法大全 英国篇2 魔術 - 理論と実践(上)』 島弘之他訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02590-6
- 『世界魔法大全 英国篇2 魔術 - 理論と実践(下)』 島弘之他訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02594-4
- (合本新装版)『魔術 - 理論と実践』 島弘之・植松靖夫・江口之隆訳、国書刊行会、1997年、ISBN 978-4-336-04043-5
- 『アレイスター・クロウリー著作集1 神秘主義と魔術』 島弘之訳、国書刊行会、1986年、ISBN 978-4-336-02615-6
- 『アレイスター・クロウリー著作集2 トートの書』 榊原宗秀訳、1991年、ISBN 978-4-336-03095-5
- (新装版)『トートの書』 榊原宗秀訳、2004年、ISBN 978-4-336-04647-5
- 『アレイスター・クロウリー著作集3 麻薬常用者の日記』 植松靖夫訳、国書刊行会、1987年、ISBN 978-4-336-02616-3
- (改訳新装版)『麻薬常用者の日記』 国書刊行会(全3巻)、2017年
- 『アレイスター・クロウリー著作集4 霊視と幻聴』 飯野友幸訳、国書刊行会、1988年、ISBN 978-4-336-02617-0
- 『アレイスター・クロウリー著作集5 777の書』 江口之隆訳、国書刊行会、1992年、ISBN 978-4-336-03096-2
- (新装版)『777の書』 江口之隆訳、国書刊行会、2013年、ISBN 978-4-336-05781-5
- 『ムーンチャイルド』 江口之隆訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1990年、ISBN 978-4-488-55201-5
- 『黒魔術の娘』 江口之隆訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1991年、ISBN 978-4-488-55202-2
- 『アレイスター・クロウリーの魔術日記』 スティーヴン・スキナー編、江口之隆訳、「著作集 別巻2」国書刊行会、1998年、ISBN 978-4-336-03097-9
伝記研究 編集
- フランシス・キング『アレイスター・クロウリーの魔術世界』 山岸映自訳、「著作集 別巻1」国書刊行会、1987年
- ケネス・グラント『アレイスター・クロウリーと甦る秘神』 植松靖夫訳、「著作集 別巻3」国書刊行会、1987年
- トビアス・チャートン による伝記(イギリス)
- 『Aleister Crowley - The Biography: Spiritual Revolutionary, Romantic Explorer, Occult Master and Spy』(アレイスター・クロウリー ― 伝記:スピリチュアルな革命家、ロマンティックな探検家、オカルト・マスター、そしてスパイ)2011年、Watkins Publishing
- 『Aleister Crowley: The Beast in Berlin: Art, Sex, and Magick in the Weimar Republic』(アレイスター・クロウリー ― ベルリンの獣:ワイマール共和国の芸術、性、魔術』2014年、Inner Traditions
- 『Aleister Crowley in America: Art, Espionage, and Sex Magick in the New World』(アメリカのアレイスター・クロウリー:新世界における芸術、スパイ活動、性魔術)2017年、Inner Traditions
- 『Aleister Crowley in India: The Secret Influence of Eastern Mysticism on Magic and the Occult』(アレイスター・クロウリーのインド:東洋神秘主義が魔術とオカルトに与えた秘密の影響)2019年、Inner Traditions
- 『Aleister Crowley in England: The Return of the Great Beast Hardcover』(アレイスター・クロウリーのイングランド:大いなる獣の帰還)2022年、Inner Traditions
- 『Aleister Crowley in Paris: Sex, Art, and Magick in the City of Light』(アレイスター・クロウリーのパリ:光の都の性、芸術、魔術)2022年、Inner Traditions
登場作品 編集
小説
- トマス・ウィーラー『神秘結社アルカーヌム』
- ランダル・コリンズ『シャーロック・ホームズ対オカルト怪人』
- サマセット・モーム『魔術師』 - 魔術師オリヴァー・ハドゥーはクロウリーがモデル。
- コリン・ウィルソン『ジェラード・ソーム氏の性の日記』- 自称魔術師カラドック・カニンガムはクロウリーがモデル。
- 鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』 - 学園都市統括理事長。元世界最高最強の魔術師にして現世界最高の科学者。アレイスター本人が現代まで生き延びたという設定であり、作品の根幹を担うキーキャラクターである。
漫画
- 氷室奈美『タロットウォーズ』 - 死後のクロウリーが幽体(アストラル体)で登場。
- CLAMP『カードキャプターさくら』 - 精霊を封印するクロウカードの制作者クロウ・リードの名前のモデル。
- 外薗昌也『犬神』 - 作中に登場する「23細胞」命名の由来となる「生命の樹宇宙論」の提唱者。
- ダグラス・ラシュコフ(Douglas Rushkoff) 作、マイケル・エイボン・オエミング(Michael Avon Oeming) 絵『Aleister & Adolf』(アレイスターとアドルフ)2016年、Dark Horse Originals - クロウリーが枢軸国と戦うために象徴を用いた強力かつ危険な新兵器を開発するが、その新しい戦争の形は世界をハルマゲドンに陥れかねないものだった。
ゲーム
- 『遊☆戯☆王オフィシャルカードゲーム』 - アレイスターをモデルにしたモンスター《召喚師アレイスター》や《魔導原典クロウリー》が存在する。
- 『真・女神転生II』 - 魔界ネツァクのボスとして登場。
音楽
- 「Mr. Crowley」 - オジー・オズボーンの楽曲。アルバム『ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説』に収録。
脚注 編集
- ^ 青木日出夫 (1997). 悪魔がつくった世界史. 河出書房新社. pp.88-
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa “Aleister Crowley”. Britannica. 2024年4月5日閲覧。
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v “Aleister Crowley, The Wickedest Climber Ever?”. CLIMBING. 2024年4月5日閲覧。
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- ^ 占い用語集『アレイスター・クロウリー』 - コトバンク
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- ^ Drury, Nevill (2011). Stealing Fire from Heaven: The Rise of Modern Western Magic. Oxford University Press. p.83.
- ^ a b c 杉山 2019, pp. 161–163.
- ^ Gillbert 2009, pp. 448–449.
- ^ a b c d e f g h i j Jules Evans (2021年12月11日). “Occult eugenics and the Hermetic Order of the Golden Dawn(オカルト優生学と黄金の夜明け団)”. medium. 2024年6月1日閲覧。
- ^ “MATHERS, SAMUEL LIDDELL MACGREGOR”. OCCULT WORLD. 2024年5月15日閲覧。
- ^ Owen Davies (2023年10月31日). “The Hermetic Order of the Golden Dawn and the Origins of Wicca”. Yale University Press. 2024年5月16日閲覧。
- ^ 本山 2006, pp. 14–15.
- ^ Puttick 2009, pp. 282–283.
- ^ a b 改訂新版 世界大百科事典『魔術』 - コトバンク
- ^ “スコセッシ、リンチ、レフンらも影響を受けた、唯一無二のアングラ監督ケネス・アンガーを知ってる?”. MOVIE WALKER PRESS. 2024年4月6日閲覧。
- ^ 浜野 2012.
- ^ a b “アンリ・セルーヤ 『神秘主義』”. 松岡正剛の千夜千冊. 2024年6月1日閲覧。
参考文献 編集
- 岡田明憲「神秘思想とヨーロッパ」『別冊環』第5巻、藤原書店、2002年、140-147頁。
- Alex Owen (2004). “Chapter Six Aleister Crowley in the Desert”. The Place of Enchantment: British Occultism and the Culture of the Modern. Univ of Chicago Pr
- 本山美彦「ネオコンの源流 -「ニューエイジャー」とピラミッド」『經濟論叢』第177巻、京都大學經濟學會、2006年3月、193-212頁、CRID 1390009224840474624。
- Elizabeth Puttick 執筆「タントラ的霊性」『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』クリストファー・パートリッジ 編、井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳、悠書館、2009年。
- Robert A. Gillbert執筆「黄金の夜明け団」『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』クリストファー・パートリッジ 編、井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳、悠書館、2009年。
- Sean O'Callaghan 執筆「東方テンプル騎士団」『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』クリストファー・パートリッジ 編、井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳、悠書館、2009年。
- 浜野志保「書評 Alison Butler, Victorian Occultism and the Making of Modern Magic : Invoking Tradition」『ヴィクトリア朝文化研究』第10巻、日本ヴィクトリア朝文化研究学会、2012年11月、59-63頁、CRID 1520853832761817728。
- 杉山寿美子『祖国と詩 W・B・イェイツ』国書刊行会、2019年。
関連項目 編集
外部リンク 編集
- Aleister Crowleyの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Aleister Crowleyに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- アレイスター・クロウリーの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
- アレイスター・クロウリー伝(anima mystica)
- The Skeptic's Dictionary 日本語版 アレイスター・クロウリーの項