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並河靖之 花鳥文花瓶
安藤重兵衛率いる安藤七宝による1910年頃の作品。

七宝焼/七宝焼き(しっぽうやき、英語: enamel)とは、金属工芸の一種で伝統工芸技法のひとつ。金属を素地にした焼物ともいえる。

目次

概要編集

青銅などの金属素地に、釉薬を800℃前後の高温[* 1]で焼成することによって、融けた釉薬によるガラス様あるいはエナメル様の美しい彩色を施す。

日本語の「七宝焼き」という言葉は、時代や地域によって異なっていたこの類を意味する呼称が変遷してきた延長上にある言葉と思われる[* 2]。その名称の由来には、宝石を材料にして作られるためという説と、安土桃山時代前後に法華経七宝ほどに美しい焼き物であるとしてつけられたという説[要出典]がある。英語圏では "enamel" と呼称され、有線七宝については「区切りをつける」という意味のフランス語由来の "cloisonné" が用いられている。鉄に釉薬を施したものを日本国内では主に琺瑯と呼び、中国語では琺瑯(拼音: láng; 日本語音写:ファーラァン)という。英語圏では、樹脂由来のエナメルと区別するため、"hot enamel" と区別されて呼ばれていることがある。補足として、樹脂由来のエナメルは "cold enamel" と呼ばれている。

紀元前古代エジプトを起源とされ、中近東[* 3][1][2]で技法が生まれ、シルクロードを通って中国に伝わり、さらに日本にも伝わったというのが通説である。日本においては明治時代の一時期に爆発的に技術が発展し、欧米に盛んに輸出された。特に京都並河靖之東京濤川惣助尾張の七宝師の作品が非常に高い評価を得て高額で取引されたが、社会情勢の変化により、急速にその技術は失われた。ブローチペンダントなどの比較的小さな装身具から巨大なまで、さまざまな作品が作られる。大きなものには専用のが必要になるが、小さなものなら家庭用の電気炉や、電子レンジを用いたマイクロウェーブキルンでも作成できるため、現在では趣味として楽しむ人も多い。七宝焼きの釉薬は二酸化珪素を主成分とする鉱物資源から作成されたフリットを砂状、粉末状にしたものを使用することが多い。砂状、微粉末にした釉薬は、と糊(フノリなど)を合わせて、または、ペースト状にしたものを使うことが多い。

七宝の用途編集

工芸品
香炉印籠
勲章
菊花章桐花章旭日章瑞宝章文化勲章宝冠章
アクセサリー
ブローチ、ペンダント、イヤリング、ネックレス、指輪、チョーカー、ループタイ、カフス、タイピン、帯留め、バッジ、、
室内装飾
家具、取手、燭台、額、釘隠し、、
壁面装飾
屋内/屋外壁材、タイル材、看板、表札、、
照明器具
シャンデリア、スタンド、屋外照明、ペンダント照明、、
その他
時計、宗教器具(骨壺ロザリオ)、玉座、自動車装飾(カーエンブレム)、電子機器装飾(エンブレム)、、

日本の七宝編集

黎明期編集

牽牛子塚古墳出土
七宝亀甲形座金具
展示品名は「七宝飾金具」。上の画像の1個と下の画像の1組(連なった4個で、うち1個は半損)。これらは全て国指定重要文化財「大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品」に含まれる[3]奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

日本へは中近東からシルクロードを経てもたらされたと考えられている[4]。現在のところ、日本最古の考古遺物として発見されている七宝焼は、奈良県高市郡明日香村にある7世紀後葉(古墳時代末期)の造営と推定される牽牛子塚古墳で1977年(昭和52年)に行われた網干善教らによる第2次発掘調査の際に、被葬者(※定説では斉明天皇)の夾紵棺(きょうちょかん)の中から発見された「七宝亀甲形座金具(しっぽう きっこうがたざ かなぐ)」2点(1個と1組)である[5](p1)(■右に画像あり)。ただし、牽牛子塚古墳より1世紀ほど古い藤ノ木古墳6世紀第4四半期の造営と推定される。奈良県生駒郡斑鳩町に所在)から副葬品の一つとして出土した金銅製鞍金具[6]を最古とする資料もある。[* 4][7]

これらに次いで、奈良時代のものとして正倉院宝物の「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいじゅうにりょうきょう)[8]が、平安時代のものとして平等院鳳凰堂の扉の七宝鐶(しっぽうかん)がある[* 5]。その後、室町時代になると多くの七宝焼に関する記録が残っており、安土桃山時代の頃に七宝焼が日本各地で作られるようになったと推定される[* 6][9]

近世七宝編集

上述のとおり、日本における七宝焼は古代から知られていたが、透明性の高い現代のもの(近代七宝)とは異なる泥七宝であった。それが近世に入って江戸時代前夜の時期になると、七宝師が歴史に名を残すようになり、また、七宝焼(ほとんどは泥七宝)は全国各地で見られるようになっていった。ただし、この頃は七宝焼という呼び名はまだ登場しておらず、「七寶瑠璃(しっぽうるり)」が七宝焼を意味する記録上の最初の言葉だったと考えられている[10]

豊臣政権下にあった安土桃山時代後期以降の頃に、伊予松本城あるいはその界隈(現在の愛媛県松山市の中核)の金工師嘉長が、豊臣秀吉あるいは小堀遠州に見出されて入洛したという。横井時冬の調べによれば、嘉長は鋳物釉薬着色する『七宝流しの法』を心得ており、京都の堀川油小路に住んでいたようである(詳しくは嘉長を参照)。その後、江戸時代初期にかけて、曼殊院大徳寺桂離宮[* 7]修学院離宮、などのの引手や釘隠が製作されていく。さらに、現在国宝となっている竜光院茶室や、西本願寺黒書院のような比較的内向きな空間に泥七宝の飾金具が使われており、特に遠州が手掛けた茶室や桂離宮の飾り金具は、嘉長やその一派の作と伝えられている(詳しくは京七宝を参照)[* 8]

天正19年には京都の金工・平田道仁(平田彦四郎道仁、平田家初代当主、1591 - 1646年)が世に出、徳川家の大御所家康の覚えめでたくして、慶長16年(1611年)に幕府御抱十人扶持となる[10]駿府江戸へと移り、大正時代まで11代続く平田七宝の祖となった[* 9]。道仁は、近代七宝に先駆けて透明性のある七宝焼の技術を持っており、その作品は「花雲文七宝鐔(はなぐももん しっぽうつば)」に代表される。道仁の技を継承する平田家の七宝師は幕府御用職人(幕府御抱職人[* 10])となり、江戸で平田七宝として刀剣などの装飾を行った。平田七宝は1895年(明治28年)に賞勲局の御用達職人として勲章の製作に従事した11代目当主・平田就之( - なりひさ。3代目と同名=2代目就久)[要出典]まで、一部の弟子を除き概ね一子相伝で続いた[* 11][10](詳しくは、平田道仁加賀七宝を参照)。

江戸時代初期には、初代道仁と同じ頃に九州にも同じ平田を名乗る金工がおり、七宝流鍔等を制作している。これは細川三斎に従い豊前(のちに肥後)に移った松本因幡守の子、平田彦三(寛永十二年)である。また、『米光文書』の中の平田系図の肩注に「白金細工鍔七宝流」という記載があることから、その子、少三郎も七宝焼に関わったようである[10](詳しくは平戸七宝を参照)。また、この頃に建設された東照宮の七宝金具について、駿府へ移った道仁の関与を指摘する説もあるが、その作風の違いなどから「東照宮御造営帳」に記されている鍛冶師、越前、三太夫、孫十郎の輩下の職人らが手掛けたとも考えられている。この「東照宮御造営帳」の中では、当該金具について「びいどろざ」と記している[10]

 
平塚茂兵衛の作(下部の黄金象の彩色を担当)

江戸時代中期に入ると、基準作となるような例は乏しくなるが、角屋の「緞子の間」、「青貝の間」などの装飾は今日も見ることができる。また、記録に残るものとしては、京都で高槻七宝が7代続き、同じく京都の吉田屋がその後明治まで金工(鋳物)の泥七宝を手掛けている[* 12][* 13][11]。この頃も京都の金工の一環では、上述の「七宝瑠璃」や、「七宝流し」、「ビードロ座」、「泥七宝」などの呼び名が使われていたが、錦雲軒の尾崎久兵衛や、六代錦光山宗兵衛(1822-1884)、といった伝統ある陶工をはじめ、様々な領域から業者が登場する中で、しだいに単に七宝、あるいは(七宝には様々な意味があるため)七宝焼という言葉が広まったと思われる[* 14]。また、加賀七宝近江七宝など京都・江戸以外でも独自の七宝焼が製作された。たとえば、加賀藩5代藩主・前田綱紀が、元禄15年(1702年)に将軍徳川綱吉を迎えるに当たり建立した御成御殿にて使用された釘隠し(七宝花籠釘隠など)や[10]文久3年(1863年)に13代藩主・前田斉泰が建てた成巽閣の謁見の間にも象嵌七宝の釘隠しがみられる[7]

江戸末期には、天保7年に、東京の平塚茂兵衛が世に出、明治10年(1877年)に第一回内国勧業博覧会にて龍紋賞牌を受賞している。平塚は、当時まだ珍しかった透明釉を用いたことから透明七宝工とも称された。伝承によれば、従来の七宝は、衝撃で、すぐに文様が剥離する欠点があったが、平塚は細い金銀の線を文様上にろう付けするなどの独自の工夫を重ね、その欠点を改良したとされている。その作は「七宝流し」だったとも「平戸七宝」だったとも伝えられている(詳しくは平戸七宝を参照)[12][13]

近代七宝編集

幕末前夜の天保年間(1830 - 1844年)の頃には、尾張藩士の梶常吉(1803-1883年)[* 15]が活躍し、七宝焼と呼ばれる。梶はオランダ船が運んできた皿がすべて七宝焼であったことに興味を持ち、これを買い上げて研究した。尾張七宝を創始、近代七宝の祖と称される[4][14]。その後、梶の弟子の塚本貝助(1828-1897年)や、無線七宝を考案して日本画の画面を七宝焼で再現した東京の濤川惣助(1847 - 1910年)、有線七宝で日本画の筆致を生かす繊細な七宝焼を製作した京都の並河靖之(1845 - 1927年)などが、ドイツ人学者ゴットフリード・ワグネル(1830 - 1892年)[* 16]が開発した透明釉薬の技術を取り入れ、七宝焼の技術は飛躍的に発展した[15]。そして、名古屋の安藤七宝の創始者である安藤重兵衛(1876 - 1953年)や京都の錦雲軒稲葉の創始者である初代稲葉七穂(1851 - 1931年)らによって盛況を呈した[16]

欧米で高い評価を受けた工芸品外貨獲得の重要品とみなした明治政府は職人を支援し、万国博覧会などを通じて欧米へ盛んに輸出し、ジャポニスムブームの一翼を担った。職人も競って技を磨いたことから日本の七宝技術は劇的進化を遂げ、短期間で世界の最高峰となり、1880年から1910年の明治日本の30年は七宝界の黄金期と呼ばれている[4][17]。その後、2度にわたる世界大戦の勃発ののち、需要が無くなり、この輸出産業は衰退していった[4]

それでも日本国内では、昭和期に入ってから企業記章を始めとする様々なバッジが七宝焼で盛んに作られた[18]。特に、東京の石井楳吉・惣之助の親子によってメタル(メダル)専用の七宝釉が開発されると、短時間の低温焼成で延展性および発色も優れるという量産に有利な特徴を有していたため、空前の勢いで普及し、東京・名古屋・大阪などを中心に七宝焼のバッジを製造販売する業者が増えていった[19]野球が国民的娯楽の中心であった時代、子供達の憧れの的であったプロ野球チームのグッズ(記章やバックル)の多くは七宝焼で作られていた[18]。学校の校章も多くは七宝焼で作られ、昭和40年代(1965-1974年間)の最盛期には東京では250人もの職人がいた[18]。その後、合成樹脂製品(cold enamel)が普及してくるとこれに取って代わられ、七宝焼のバッジやメダルは大幅に需要を失った[18]

こうした輸出産業(尾張七宝に代表される立体)やメタル七宝(平面向け技術革新)とは別の流れとして、日本の七宝製作の大衆化を実現し多くの七宝作家を生み出した七宝焼ブームの実質的な先駆者として、近代工芸の革新を志した愛知の工芸家藤井達吉の存在が指摘されている[19]。藤井は、名古屋の七宝店に就職し、米国の「ルイス・クラーク100周年記念万国博覧会」で七宝焼作品を出陳した。その後、バーナード・リーチらとフュウザン会を創立。七宝焼だけでなく、和紙日本画陶芸金工竹工漆工刺繍染色和歌など工芸のあらゆる分野で活躍し、伝統に捕われない斬新なデザインでも注目された[20]

西洋の七宝編集

 
擬クーフィー様式を施したリモージュ琺瑯のチボリウム, 1200年頃

西洋の七宝は紀元前から存在することが知られており、シャンルヴェの技法はケルト人の遺品に見られる。七宝釉とよく似たガラスはB.C.1700 - 1800頃の古代メソポタミアやB.C.1500年頃の古代エジプト王朝の頃から作られており、帝政ローマ時代のローマン・グラス、ササーン朝ペルシャカットグラスビザンティン・グラスイスラーム・グラス、そして、ベネチアン・グラスボヘミアン・グラスなどと発展している。七宝も、その流れに沿って発展したと考えられ、東ローマ帝国で洗練されたクロワゾネの技法が登場し、12世紀から15世紀ごろまでにはフランスリモージュパリドイツケルンスイスジュネーブなどでロンドボスバスタイユグリザイユ細密描画といった様々な技法が見られるようになった。また、最高品質のシャンルヴェ製品がモサン地方英語版で生産された。また、ロシアロストフ・ヴェリーキー(Ростов Великий)のような産地ではフィニフティ(Финифть)が生産された。

中国の七宝編集

 
明朝の七宝

中国では七宝のことを琺瑯拼音: láng; 日本語音写:ファーラァン)と呼び、代(1271 - 1368年)の頃から盛んに製造されるようになり、中国渡来の品が日本にも入ってくるようになった。続く代の景泰年間 (1450 - 1457年間) に作られた掐糸琺瑯は特に評価が高く、現在でも中国の七宝を景泰藍と呼ぶ所以となっている。景泰藍は日本ではあまり例を見ない青銅を素地として用いていており、釉薬には日本の泥七宝に似た不透明な釉薬が用いられ、特に青()の色が好まれた。また、青銅に施釉した釉薬が崩れ落ちないように細かな植線が全体に張り巡らされた。

代の康煕帝雍正帝乾隆帝の三朝においては、特に画琺瑯が発展したが、康熙帝代にはヨーロッパの影響を強く受けた琺瑯器が製作されている。また、乾隆帝代には各種技法が融合され、中国と西洋の装飾文様を合わせた琺瑯器も製作されている。

日本の七宝の技法編集

日本における七宝の技法は、釉薬や器胎の種類など材料の違いと、線付けの有無など製作方法の違いによって大別できる[10]

象嵌七宝編集

胎を鋳造や彫るなどによって凹ませた部分に七宝を施す技法。凹面に直接釉薬を入れる方法と凹面と同じ形の胎に七宝を施しはめ込む方法などがある。江戸時代中期頃までの作品はこの手法を用いたものが多く見られる古来の技法。凹面の内部に有線を施すものもあるが、全く植線をせず金属の凹みに直接釉薬を入れたものに関しては西洋のシャンルヴェの技法に近い技法である。

 
菊紋楓枝文七宝瓶,安藤七宝川出柴太郎の有線七宝

有線七宝編集

リボン状の薄い金属線で模様をつける技法。薄い金属線で模様を描くため、緻密な図柄を表現できる反面、植線の手間のかかる手法である。日本では、古くは桂離宮松琴亭(1620 - 1625年に構築)の二の間戸袋の引手(銅製巻貝形を有線にして、不透明の白色や肌色釉を施したもの)に見られる技法である。有線七宝としては明治時代の並河靖之の作品の評価が高い。西洋のクロワゾネの技法の和訳と考えても差し支えないが、特に並河の作に見られる植線技術は西洋のクロワゾネと比べても卓越した技である。

 
双鳩図盆,濤川の無線七宝

無線七宝編集

七宝釉の間に金属線の仕切りをつけない技法。無線七宝という言葉には大きく分けて2つの意味合いがある。本格的な無線七宝は濤川惣助が考案したものである。無線七宝と言えば、よくこの「濤川惣助の作における無線七宝」を意味し、釉より低い高さの植線を行う『忍び針』、あるいは、焼く前に植線を抜き取る『抜き針』といった特殊な植線技法(有線七宝の一種と呼んでも差し支えない)なども駆使して、植線を見せない画を作り上げる技法の総称である。一方で、西洋のシャンルヴェやペイントエナメルのように、単に植線の無い七宝という意味では日本でも江戸時代にも見られ[* 17]、近年のフリット法(フリット釉を並べて焼き付けたもの)なども無線七宝の一種といえる。

描画七宝編集

西洋のペイントエナメルにあたる技法。定義上は無線七宝にも分類できるが、絵画のように七宝釉で絵を描くようなものは描画七宝と呼ばれ、特に絵柄の細かい高度なものは細密描画などとも呼ばれている。

金属胎七宝編集

鉄、銅、銀、金などの金属を胎(土台となる素地のこと)として用いる通常の技法。

 
竹内忠兵衛の磁胎七宝

ガラス胎七宝編集

ガラスを胎として用いる技法。金属胎を基本とする七宝の定義から外れた技法。大正時代名古屋恒川愛三郎(1879 - 1946年)によって発明されたが、当時はわずかな試作品が作られただけであった。

陶磁胎七宝編集

陶磁器の表面に有線七宝あるいは無線七宝を併用して釉薬を施したもの。明治時代前期に盛んであったが、製作後、時を経るに従って表面に亀裂を生じる品があったり、銅胎七宝の発展に伴い、次第に行われなくなった。磁胎七宝は、名古屋の吉田直重によって発明されたといわれており、同じく名古屋の竹内忠兵衛らが手掛けている。陶胎七宝は、六代錦光山宗兵衛、十四代安田源七、北村長兵衛といった、京都の京焼清水焼の陶芸家らが手がけた。

 
濤川の銀製透胎七宝,1900年,ウォルターズ美術館

透胎七宝編集

胎の一部を切り透かしにして透明釉を施す、あるいは、銅胎の一部を切り透かしにして透明釉を施し、他の銅素地の部分には通常の七宝を施す技法。下地に彫金などを施すと、透けて、図案が浮き彫りされる。西洋のプリカジュールの技法の和名と考えて差し支えない。明治時代末期以降にはアールヌーヴォーなどの影響を受け、ルネ・ラリックに代表される宝飾作家が当該技法を用いた宝飾品を製作した。日本の七宝家らも、この潮流に乗って透胎七宝や後述の省胎七宝を手がけており、ウォルターズ美術館には、濤川惣助の作といわれる銀製の透胎七宝が所蔵されている。

 
安藤七宝店加藤耕三による省胎七宝

省胎七宝編集

銅胎に銀線で模様をつけて七宝釉を焼き付けた後、素地を酸で腐食させて表面の七宝部分だけを残す技法。フランスで12世紀から13世紀にかけてよく使われた技法である。日本では明治時代後期にフランス製品を手本に名古屋の安藤重兵衛川出柴太郎英語版の協力のもとに完成させたという。日本では胎(素地)を溶かす技法を特に省胎七宝と呼び、透胎七宝と区別するが、このような技法の区別はヨーロッパやロシアではあまり見られない。

 
泥七宝(鋳造器に七宝を入れたもの)1868-1912頃

泥七宝編集

泥七宝独特の釉薬(多くは不透明の釉薬)を用いて焼いた古来の技法。透明な釉薬は西洋では東ローマ時代から見られるが、東洋では不透明な釉薬を用いたものが多い。一般的には、ゴットフリード・ワグネルによって透明釉薬が発達する以前の、それらの七宝器や釉薬を総じて「泥七宝(どろしっぽう)」と呼ぶ。なお、日本では古くから平田道仁に始まる平田七宝のように透明感のある作も存在したため、それらを区別して単に泥七宝と呼ぶにふさわしい濁りのある釉薬を用いた作を「泥七宝」と呼ぶ場合もある。また、初期の尾張七宝の釉薬や作を泥七宝と呼ぶ場合や、京都では鋳造器に七宝を入れたものを泥七宝と呼んでおり[21]、その定義は定まっていない。

箔七宝編集

銀箔金箔などの金属箔を使用した技法。銀箔や金箔の輝きを利用した技法である。表面に焼き付ける技法も含まれるが、主には、金属箔の上に釉薬を焼成した技法を指す。主素地(胎)と箔の間には一層の釉薬が焼き付けてあり、糊の役目も果たす。銀箔や金箔に描画的な表現を施さずそのまま焼き付け、その上に色釉薬で彩色することや、無色透明の釉薬を焼成し、その上に色釉薬などで描画や彩色を施す手法がある。銀箔を使用した技法を日本国内では「銀張七宝/銀貼七宝」と呼ぶことが多い。また、銀箔に凹凸をつけてから焼き付ける技法を「銀張有線」と呼ぶことがある。銀張有線は、有線七宝様の表現を銀箔に凹凸をつけることで可能にした技法として考案された。有線七宝と象嵌七宝を組み合わせたような技法ともいえる。考案された当初は有線七宝様の作品を量産することも可能であったために多用された一面があるが、現在となってはこの銀張有線技法も手間がかかることや、焼き付け時の温度に注意が必要なため、工房や作家も少なく伝統的技法のひとつである。

ジグソー七宝(糸鋸七宝)編集

金属胎七宝のひとつとも見られるが、七宝の大作などを制作するために、基板となる金属板を糸鋸で数十から数百のパーツに切断し、裏表に七宝釉を焼成した後、表面の図案に合わせ、元の形に貼り合わせる技法。

西洋のエナメルの技法編集

以下では、主にヨーロッパのアンティーク・ジュエリーに見られるエナメルの技法について述べる。

ペイントエナメル (painted enamel)編集

 
ロンドボス・
エナメル

あらかじめ単色で焼き付けたエナメルを下地とし、その上に、筆を使ってさらにエナメル画を描き、焼き付ける技法。人物や植物を描いたミニアチュールが例として挙げられる。特に絵柄の細かい高度なものは細密描画などとも呼ばれている。

ロンドボス (ronde bosse)編集

金などの立体像の表面全体に、エナメルを施す技法。ルネサンス期のジュエリーなどに多く例を見ることができる。

バスタイユ (basse taille)編集

 
バスタイユ
(ファベルジェ)

エナメルの半透性を生かし、土台の金属に刻まれた彫刻模様(ギヨシェ)を見せる技法。金属に施された彫刻が主眼となるので、使用されるエナメルは単色。ピーター・カール・ファベルジェの作品に、この技法を使用したものが多い。

シャンルヴェ (champlevé)編集

土台の金属を彫りこんで、できたくぼみをエナメルで埋めて装飾する技法。初期の頃は、輪郭線の部分をライン状に彫りこんでいた。技術の発達につれて、逆に、面になる部分を彫りこんでエナメルで装飾し、彫り残した金属部分を輪郭線とするようになった。

クロワゾネ (cloisonné)編集

 
クロワゾネ・
エナメル

土台となる金属の上に、さらに金属線を貼り付けて輪郭線を描き、できた枠内をエナメルで埋めて装飾する技法。シャンルヴェよりさらに細かい表現が可能になる。日本の有線七宝はここに属する。

プリカジュール (plique à jour)編集

薄い金属箔の上に、クロワゾネとほぼ同じ工程でエナメルを焼き付け、その後に薬品処理によって箔を取り除く技法。透胎七宝、または、省胎七宝とも呼ばれる。金属枠のみによって支えられたエナメルは光を透過するので、ステンドグラスのような効果を得られる。アールヌーボー期のジュエリーに好んで使用された。美しいが非常に繊細で、衝撃に弱い。1997年の映画『タイタニック』に登場したヒロインの蝶のには、この技法が使用されていると思われる。

中国の琺瑯の技法編集

中国の琺瑯の技法は3つの技法に大別できる。

内填琺瑯編集

内填琺瑯(ないてん ほうろう)は、シャンルヴェ、あるいは、象嵌七宝に相当する技法である。

掐糸琺瑯編集

掐糸琺瑯(こうし ほうろう)は、クロワゾネ、あるいは、有線七宝に相当する技法である。

画琺瑯編集

画琺瑯(が ほうろう)は、ペイントエナメル(描画七宝)に相当する技法である。

七宝にまつわる施設編集

七宝コレクション編集

日本の七宝の頂点とされる明治時代の作品は輸出用に作られたため、名品のコレクションはほとんど海外にある。


七宝ギャラリー編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 焼成温度は、窯元やメーカーによって釉薬の成分が異なるため様々である。その上で目安を示すと、国内においてはメタル釉などと呼ばれる平面向けの釉薬の中では700℃ぐらいの比較的低温のものも見られるが、立体釉などと呼ばれる立体向けの釉薬の中では900℃近くの比較的高温のものが見られる。
  2. ^ もともとの本ページの母体は「七宝焼き」のタイトルで西洋のエナメル技術に関して記述したものであった。この事実は、「七宝焼き」という言葉が海外の品も含めて、この類のものの事実上の総称となっている可能性を示唆している。なお、文献などでは総称として「七宝」という言葉が見られるが、Wikipedia上では仏教用語としての「七宝」ページが既に存在しており、必ずしも「七宝」=「七宝焼き」とはなっていない。
  3. ^ 2006年6月と2007年2月に行われた早稲田大学理工学術院の宇田応之名誉教授らによるツタンカーメンの黄金のマスク (cf. ) の科学調査(複合X線分析装置による調査)によれば、の部分の灰緑色の物質は長石珪酸ナトリウムを主成分とする人工ガラスであり、七宝の釉薬に似た材料が用いられていたことが証明されている。──雑誌『金属』Vol.77 No.9〜12、アグネ技術センター。
  4. ^ この見解の相違は、七宝焼を意味する言葉が存在したかどうかも明らかではない時代において、表面的な観察上は熱を加えたガラス面に金物の小飾りを押し当てて固着したようにも見える品を七宝焼の類に含めるのかどうかという定義の違いや、その前提となる製造方法がはっきりとは解明されていない事、さらにはガラス質部分が金具の主要な要素であるかどうかといった事などによる。
  5. ^ 鳳凰堂の扉止め金具は、鳳凰堂の扉のある左右側面各1間、正面三間の下框に各2個ずつ、計10個が現存しており、その青緑色の物質がガラス質(七宝釉)であるかは、科学的な分析が必要である
  6. ^ 近世七宝で製作年を確認できている作例は、二条城二の丸御殿黒書院帳台構(ちょうだいがまえ)寛永3年〈1626年〉)など、江戸時代初期までしか遡れていない。──麓和善『錺 − 建築装飾にみる金工技法4 金工芸術の精華』
  7. ^ 嘉長が引手を製作したと伝えられる松琴亭は1620年(元和6年)に造営着手したと考えられているが、これを含む茶屋・書院・庭園などの造営は、八条宮家初代当主智仁親王(1579-1629年)によって基礎が築かれ、第2代・智忠親王(1619-1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。
  8. ^ 横井時冬「工芸鏡」, 鈴木規夫「日本の美術3 七宝」凸版印刷株式会社, 鈴木規夫 榊原悟「日本の七宝」
  9. ^ 平田道仁が朝鮮人から中国式七宝技術を学んだとするのが通説であるが、それ以前にも、豊臣秀吉天正15年(1587年)に築造した聚楽第に使用された釘隠と伝えられる違例(夕顔文釘隠など)や、南蛮貿易で成功した菜屋助左衛門(別称ルソン助左衛門)のの豪邸を日本の金工師が七宝焼で飾る技量を持っていた記録が残っているなど、日本で最初に七宝焼が作られた時期については定かでない(栗原信充『金工概略』、森秀人『七宝文化史』近藤出版社)
  10. ^ 御職人(おしょくにん。藩御抱の職人)とは異なる。明治時代以降の御用達職人とも異なる。
  11. ^ 平田七宝はここで断絶したが、平田家はそれ以降も続いている。「平田家が終わった」「平田の家系は11代続いた」などとする資料もあるが、これらは言葉足らずで、言わんとしているところは「“七宝焼の平田家”は(桃山時代から大正時代まで)11代続いて終わった」ということである。
  12. ^ 京都では釉薬の意味ではなく、鋳造器に七宝を入れたものを泥七宝と呼ぶ場合がある。
  13. ^ 明治時代には、京都の三条大橋から三条白川橋一帯には20軒を超える七宝焼業者が軒を連ねていた。(京七宝 並河靖之作品集 淡交社)
  14. ^ 明治27年に発行された、横井時冬著『工芸鏡』の中でも鋳物工や七宝工の技として「七宝流し」という言葉が使われている。
  15. ^ 1832年に七宝小盆を完成させた。
  16. ^ 慶応4年/明治元年4月 (旧暦)|4月(1868年5月)に長崎に招聘され、その後、佐賀藩に雇われて1870年4月より有田町で窯業の技術指導にあたった。そして、同1870年11月に大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として東京に移り、1878年からの3年間は、京都府に雇われ、京都舎密局で化学工芸の指導や医学校(現・京都府立医科大学)での理化学の講義を行った。
  17. ^ 五三桐形引手には象嵌七宝、有線七宝、無線七宝の三種の技法が見られる。──『日本の美術3』No.322 七宝、至文堂、1993年。

出典編集

  1. ^ 山下 大輔, 石崎 温史, 宇田 応之、「ポータブルX線回折・蛍光X線分析装置の開発と考古学への応用」 『分析化学』 2009年 58巻 5号 p.347-355,doi:10.2116/bunsekikagaku.58.347、日本分析化学会
  2. ^ ツタンカーメン王の黄金のマスクの測定”. 公式ウェブサイト. 理研計器株式会社. 2019年4月8日閲覧。
  3. ^ 大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品 - 文化遺産オンライン(文化庁
  4. ^ a b c d e f NHKBSプレミアム「極上美の饗宴」シリーズ世界が驚嘆したニッポン(2)「色彩の攻防七宝・飛躍の30年」2011年 11月 1日放送
  5. ^ 植田兼司、福庭万里子 (2009年3月31日). “牽牛子塚古墳の夾紵棺片―植田兼司氏採集遺物― (PDF)”. 関西大学学術リポジトリ(公式ウェブサイト). 関西大学. 2019年4月8日閲覧。
  6. ^ 藤ノ木古墳 金銅製鞍金具(前輪) - 文化遺産オンライン(文化庁
  7. ^ a b 至文堂『日本の美術3 No.322 七宝』1993年。
  8. ^ 口絵1 黄金瑠璃鈿背十二稜鏡 (PDF)”. 正倉院(公式ウェブサイト). 宮内庁. 2019年4月8日閲覧。■画像あり。
  9. ^ 麓 和善 (2009年9月24日). “4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照 - 『錺 -建築装飾にみる金工技法』 (PDF)”. Index of /02/kazari. 麓和善. 2019年4月8日閲覧。■画像あり。
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  11. ^ 雑誌『なごみ』1998年6月。
  12. ^ 『Arts of East and West from World Expositions, 1855-1900:Paris, Vienna and Chicago, 世紀の祭典 万国博覧会の美術』
  13. ^ 平塚茂兵衛 鳳凰文七宝香炉 (文化遺産オンライン)
  14. ^ 梶常吉”. 小学館『デジタル大辞泉』、ほか. コトバンク. 2019年4月8日閲覧。
  15. ^ 『世界大百科事典』12初版、平凡社。
  16. ^ 稲葉七穂『並河靖之氏に就て』
  17. ^ Japanese CloisonnéVictoria and Albert Museum
  18. ^ a b c d Eテレイッピン』「鮮やか!色あせない輝き ~東京 七宝~」2017年9月3日放送回。
  19. ^ a b 森秀人『七宝文化史』近藤出版社
  20. ^ 山田光春『藤井達吉の生涯』風媒社 1974年
  21. ^ 雑誌『なごみ』1998年6月。
  22. ^ 「驚きの明治工藝」展公式サイト

関連項目編集

外部リンク編集