白川 和子(しらかわ かずこ、1947年9月30日 - )は、日本の女優

しらかわ かずこ
白川 和子
本名 小西 郁子
生年月日 (1947-09-30) 1947年9月30日(76歳)
出生地 日本の旗 長崎県佐世保市
職業 女優
ジャンル テレビドラマ映画
活動期間 1967年 - 1973年
1976年 - 現在
配偶者 小西俊夫
(1973年 - 1980年1985年 - )
著名な家族 寺岡呼人(甥)
主な作品
映画
団地妻』シリーズ
復讐するは我にあり
ワンダフルライフ
凶悪
テレビドラマ
青春家族
君といた夏
白線流し
白い影 -Love and Life in the White-
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長崎県佐世保市出身[1]神奈川県相模原市在住。ワハハ本舗所属。

JUN SKY WALKER(S)メンバーの寺岡呼人は甥。身長は、158cm

来歴 編集

実家は東京都町田市[1]。父親は国家公務員[1]1947年、父の転勤先の長崎県佐世保市で生まれる[1]。家族は他に母と妹と弟がいた[2]。中学のとき[1]、父の転勤で一家で帰京[1]東京都立目黒高等学校[1]入学後、演劇部に入り16歳の頃に初めてプロの舞台を観劇すると、出演していた女優の市原悦子に憧れ始める[3]。その後跡見学園女子大学に進学したが、厳格な父親に反撥していたため、このまま卒業して花嫁修業するのがイヤで、憧れの芸能界に入りたいという意識が強くなった[1]

大学在学中、劇団「赤と黒」へ入団する。初めてヌードになったのは1966年『週刊平凡』の姉妹紙『デラックス・パンチ』[1]。対談した三島由紀夫から「どんどん脱ぐべきだ」と言われたという[1]。これとは別にスカウトもされ、1967年には向井寛が監督した映画『女子寮』に出演した。クラスメートはびっくり仰天[1]。家では化粧をしたことがなく、ポルノ女優になった事は父には5年間ばれなかった[1]。以後、5年間で約230本のピンク映画に主演し[1]、大学は中退した[1]

1971年10月、経営難から「日活ロマンポルノ」にシフトした日活に専属女優として迎えられ[1]、その第1作目の主演女優として起用された。以後も「団地妻」シリーズへの主演で人気を獲得し、「ロマンポルノの女王」と称され、その後一部メディアでは「白川は日活ロマンポルノの象徴となった」とも言われている[4]

1973年、自身の体験に基づいた引退記念映画『実録 白川和子・裸の履歴書』(曽根中生監督、田中陽造脚色)が公開され、当時のロマンポルノオールキャスト作品として話題を呼んだ(1年3ヶ月の間に出た日活ロマンポルノは、合計20作品[4])。

1972年の正月興行の大阪での舞台あいさつで知り合った[5]17歳年上の日活関西支社の社員・小西俊夫と、翌1973年に結婚する(小西は先年に癌で妻を亡くし、14歳の娘と11歳の息子を育てていた)[1]。夫や連れ子と共に大阪千里ニュータウンに移住して専業主婦の生活に入り、その後一女(次女)も儲ける[1](この頃の生活について詳しくは後述)。

結婚から約2年後、テレビのワイドショーのコメンテーターの出演を依頼されたことがきっかけとなり、芸能界に復帰[5]1976年の一般作の映画『青春の殺人者』で本格的に女優復帰すると、1979年の『復讐するは我にあり』、1981年の『ええじゃないか』、1989年の『黒い雨』、2013年の『凶悪』など評価の高い作品に出演し、脇役ながら存在感を示す[4][6][注釈 1]

2009年、お笑い芸人のジジ・ぶぅとコンビ「50・60これからだ」を組んでM-1グランプリに出場し[7]、1回戦は突破したものの、2回戦であえなく敗退した。2015年WAHAHA本舗に参加する[8]

2018年には毎日映画コンクールで田中絹代賞を受賞[6][9]

人物 編集

ピンク映画時代 編集

男性経験がない状態でピンク映画に出演し、処女喪失のシーンでは実際の表情を知らなかったため、撮影中にカメラに映らない状態で監督に太ももをつねられた時の顔とのこと[注釈 2]

白石によると当時のピンク映画は、旅館の一室を借りて人目を忍んでこそこそと撮影していたという[4]。また、撮影現場にはメイクさんや衣装さんもいなかったため、服を揃えるのもヘアメイクも自分でこなしていたという[3]

ロマンポルノ時代 編集

1971年ピンク映画で活躍していた白川は、オーディションにより日活ロマンポルノの主演女優に抜擢される。初めて日活撮影所に訪れた白川は、当時“東洋一”と言われた、街を丸ごとセットにしたような撮影所の大きさに驚かされたという[4]。日活ロマンポルノ第1作映画『団地妻 昼下りの情事』が封切られると連日立ち見が出るほど大ヒットし[注釈 3]、白川は瞬く間に人気女優となった。ほどなくして日活社内では「和子を出せばその作品は必ず売れる」とのジンクスが囁かれ、男性週刊誌やスポーツ紙は「突如として現れた日活の救世主」などと白川を書き立てた[4]

これにより、それまで父にひた隠しにしてきたポルノ出演が知られてしまった[注釈 4]。当時防衛庁勤務だった父から激怒されて女優を辞めるよう迫られたが、「私から芝居を取ったら何も残らない」と一歩も引かなかった。最後は話し合いにより、「父の名前と職業を公にしないこと」を条件に女優を続けることを許された[4]。その後詳細な時期は不明だが、2019年の時点で両親は既に他界している[3]

人気女優となった1971年当時大学は学生運動で殺伐とした時代だったが、白川は学園祭のゲストとして引っ張りだこになった。東北大学の学園祭ではトークなどをして楽しく過ごした後、司会者から「最後に会場の学生に向けて何か一言」と話を振られた。白川がシャレのつもりで「日活ロマンポルノを見て平和な社会を築こうよ」と言った所、学生たちに大ウケしたとのこと[3]

夫との出会いと新婚生活 編集

日活関西支社の小西俊夫とは1972年の正月興行で出会った後、お盆興行で再会したことで交際に発展。それ以降東京と大阪で長距離電話でやり取りを続け、同年10月に彼からプロポーズを受ける[5]。一般的に言えば職場結婚だが、当時の芸能界において女優と社員による恋愛は御法度だったため、女優引退を決意[4]

1973年2月14日に結婚し、夫婦と夫の連れ子(長女と長男)の4人で大阪の千里ニュータウンに移り住み、同年秋には次女も生まれて5人家族となる[5]。家賃は月一万円弱と安かったが、にっかつの遅配続きで夫の年収は200万円程度だったため、女優時代の年収が600万円だった白川が貯金を切り崩して子供たちを育てた[1]

団地に移り住んだその日から嫌がらせの電話が鳴り出した[注釈 5]。最初こそ驚いたものの負けず嫌いな白川が毅然とした態度[注釈 6]を取り続けると、次第に収まっていった[4]。また、最初は「ポルノ女優が住むと団地が汚れる」と署名運動まで起き[1]、子供たちもいじめられたが、白川の人付き合いの良さや[1]団地内の地域活動に積極的に参加するなどして解消した[5]

その後の生活 編集

小西との夫婦関係 編集

小西との離婚前の女優時代の貯金が底をついた頃、テレビ番組の出演依頼を受けたことで徐々に仕事が増えて女優復帰した。1980年に小西の浮気が原因で離婚した[1]後、白川も若菜嘉晴と激しい恋に落ちたが、独身と思い込んでいた若菜が既婚者と判明[1]。その後小西が東京支社に転勤になると町田の実家に帰っていた娘(次女)が父親に懐いてしまい、1985年に和解して同年3月3日に再婚した[1][10][3]

病気 編集

1980年代前半に子宮がんを患った[注釈 7]。51歳(1998年頃)で脳梗塞になり、顔の半分が痺れるなどの症状が起きた。翌1999年に慢性膵炎を患い治療したが、2019年時点においても食事制限は続いているという。さらに2000年には卵巣に腫瘍が見つかり、卵巣と卵管を摘出した。これらの病気は、治療により克服している[2]

3人の子供たち 編集

昔から子供好きだったこともあり、小西との結婚後はそれまで映画に捧げていた情熱を子育てに向けた。25歳で結婚した白川と小西の連れ子の長女とは11歳しか離れておらず、反抗期の真っ只中だったこともあり衝突することもよくあった。その後夫の浮気が発覚した頃、高校生となっていた小西の連れ子の長男は不良になり一時は暴走族にも入ったという[5]

子育ては苦労も多かったが厳しくも愛情を持って子供たちに接したことで、その後3人とも親孝行な性格に育った。長男の高校卒業を機に1980年に7年間の夫婦生活を終え、離婚後は東京で次女と2人で暮らし始めた[注釈 8]。ただし離れて暮らすことになった長女・長男とは、その後も電話や手紙を通じて連絡を取り合ったという[3]

2019年時点において長男は有名ホテルの副総料理長となり、長女と次女はそれぞれ看護師として働いているという。ある時子どもたちから『一度も腹違いだと思ったことはないよ』と言われた白川は、後年「この言葉は私にとっての“勲章”です」と回想している[3]

出演 編集

テレビ 編集

連続ドラマ 編集

2時間ドラマ 編集

第34作寝台特急あさかぜ殺人事件

バラエティ 編集

ドキュメンタリー 編集

ラジオ 編集

映画 編集

2020年代 編集

2010年代 編集

2000年代 編集

1990年代 編集

1980年代 編集

1970年代 編集

1960年代 編集

  • おいろけ天使(1969年)
  • 野郎と情婦(1969年)
  • Oをつき上げろ(1969年)
  • 色欲三重奏 だまされた女狐(1969年)
  • ピカピカハレンチ(1969年)
  • 女のしずく(1969年)
  • 引裂かれた女高生(1969年)
  • 女肉 狂い責め(1969年)
  • 肌のもつれ(1969年)
  • 人妻千一夜(1969年)
  • 盛り妻(1969年)
  • 女性自身(1969年)
  • だまされた女狐(1969年)
  • 毒ある経験(1969年)
  • 痴漢の限界-ユキエ(1969年)
  • 女体の渇き(1968年)
  • 日本(秘)風俗史 乳房(1968年)
  • 女と男の味くらべ-秋子(1968年)
  • 引裂かれた処女(1968年)
  • 色くるい-由利子(1968年)
  • セックスドライブ-女子大生真理(1968年)
  • 日本性犯罪史 白昼の暴行鬼(1968年)
  • 穴じかけ(1968年)
  • 女子学生残酷白書 真赤なうぶげ(1968年)
  • 妖しい性の女(1968年)
  • うぶ殺し(1968年)
  • (秘)女狩り(1967年)
  • 女子寮(1967年)

ネット配信 編集

舞台 編集

音楽 編集

シングル 編集

発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
キングレコード
1975年11月 EP BS-1982 A おぼろ橋 杉紀彦 曽根幸明
B 雪心中(ゆきのさだめ)

書籍 編集

  • いのち輝いて(1987年、潮出版社
  • くもりのち晴れ ときどき大雨注意報(1989年、潮出版社)
  • わたしの家族革命(1999年、潮出版社)

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 学生時代からの憧れだった市原悦子とは、『青春の殺人者』、『黒い雨』で共演を果たした。
  2. ^ 他にもラブシーンの芝居のコツをつかむため、友だちと一緒に鶯谷(台東区)にあった連れ込み旅館(今で言うラブホテルのような場所)に行って、壁に耳を当てて盗み聞きをしたこともあるという[3]
  3. ^ わずか750万円の制作費で1億円もの興行収入(当時の金額)を叩き出したとされる。同作の成功を受けて『団地妻』は、その後全20作品にも及ぶ人気シリーズとなった。
  4. ^ また、同じく白川のポルノ出演により妹の婚約も破談になったという[6]
  5. ^ 電話の内容は白川に対し一方的に「恥知らず」「売春女」などと罵って切るというものだった[5]
  6. ^ 電話越しに「はい、ご苦労さん」と軽くあしらったり時には語気を強めて「アホ!」と言い返したという[5]
  7. ^ 体調に異変を感じたのに病院に行こうとしない白川に対し、長女は「二度と親を亡くすのは絶対に嫌やからね。お願いだから病院に行って」と言われ。子宮がんと診断されると入院費と手術費で結構なお金が必要になったが、長女が金を工面してくれたという[2]
  8. ^ この頃白川は、当時7歳だった次女に、長女・長男が異母兄弟であることを打ち明けている。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 北村章二「連載ドキュメント・シリーズ妻たちの闘い 小西俊夫氏( 元にっかつ関西支社営業部次長)夫人白川和子さん(38歳) 『子宮がんで心細かった…。そのとき頭に浮かんだのがかつての夫でした』」『週刊平凡』1986年6月6日号、平凡出版、35-39頁。 
  2. ^ a b c テレ朝POST » 日活ロマンポルノの女王・白川和子、性愛シーンのコツつかめず“旅館”で盗み聞き
  3. ^ a b c d e f g h テレ朝POST » 元ロマンポルノ女優、M-1挑戦!脳梗塞・子宮がんを乗り越えた白川和子が掴んだ「幸せ」
  4. ^ a b c d e f g h i 週刊ポスト20211203後編・白川和子
  5. ^ a b c d e f g h テレ朝POST » 「元ロマンポルノ女優が住めば団地が汚れる」白川和子、引退後のきつい風当たり
  6. ^ a b c 白川和子に田中絹代賞 市原悦子さんに憧れて女優の道、両親に感謝”. スポニチ Sponichi Annex (2019年1月23日). 2021年12月5日閲覧。
  7. ^ 『別冊 喰始のショービジネスの作り方』(2009年4月20日分参照) より。
  8. ^ WAHAHA本舗:白川和子 プロフィール
  9. ^ 毎日映画コンクール 白川和子さん 田中絹代賞の喜び語る”. 毎日新聞のウェブサイト・毎日動画の授賞式のスピーチ映像 (2019年2月20日). 2021年12月5日閲覧。
  10. ^ 爆報! THE フライデー』2014年5月2日 放映 TBS
  11. ^ プレミアムドラマ「我らがパラダイス」制作開始のお知らせ”. NHKドラマ. 日本放送協会 (2022年9月27日). 2022年9月27日閲覧。
  12. ^ 岸井ゆきの、松山ケンイチのドラマ「お別れホスピタル」新キャストが明らかに療養病棟が舞台の「お別れホスピタル」ドラマ化、岸井ゆきの・松山ケンイチが出演”. 映画ナタリー. ナターシャ (2024年1月15日). 2024年1月15日閲覧。
  13. ^ 伊東四朗主演『老害の人』老人と若年層の本音がぶつかった先に吹く風を描く「私、ピッタリの年齢になりました」5・5スタート”. TV LIFE web. ワンパブリッシング (2024年3月14日). 2024年3月14日閲覧。
  14. ^ 安田顕がスーパーの万年主任として七転八倒、つぶやきシロー小説が映画化”. 映画ナタリー (2021年7月23日). 2021年7月23日閲覧。
  15. ^ 『恋のいばら』パンフレット/ 編集・発行:株式会社キネマ旬報社
  16. ^ “柄本佑、白川和子、安達祐実、内野聖陽主演×塩田明彦監督『春画先生』出演決定”. リアルサウンド映画部 (blueprint). (2023年6月19日). https://realsound.jp/movie/2023/06/post-1353314.html 2023年6月19日閲覧。 
  17. ^ “竹野内豊が突かれ、山田孝之は粗暴に…W主演作「唄う六人の女」予告解禁”. 映画ナタリー (ナターシャ). (2023年8月16日). https://natalie.mu/eiga/news/536904 2023年8月16日閲覧。 

外部リンク 編集