セルゲイ・ヴィッテ

セルゲイ・ユリエヴィチ・ヴィッテウィッテロシア語: Сергей Юльевич Витте, ラテン文字表記例:Sergei Yul'jevich Witte, 1849年6月29日 - 1915年3月13日)は、帝政ロシア末期の政治家。ロシア帝国大臣委員会議長、ロシア帝国運輸大臣、ロシア帝国大蔵大臣、ロシア帝国首相(大臣委員会議長)、伯爵。政府の要職を歴任し、日露戦争の講和交渉にはロシア側代表として当たり、日本側の外務大臣小村寿太郎と交渉を繰り広げた。

セルゲイ・ヴィッテ
Сергей Витте
Sergei Yulyevich Witte 1905.jpeg
セルゲイ・ヴィッテ(1905年)
生年月日 1849年6月29日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国(現ジョージア (国)の旗 ジョージアトビリシ
没年月日 (1915-03-13) 1915年3月13日(65歳没)
死没地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ペトログラード
出身校 オデッサ大学
称号 伯爵
サイン Signature of Sergei Witte.jpg

在任期間 1905年11月6日 - 1906年6月5日
皇帝 アレクサンドル3世
ニコライ2世

在任期間 1892年2月 - 1892年8月

在任期間 1892年8月30日 - 1903年8月16日
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生涯編集

 
妻のマチルダ・ウィッテ(1905年の写真)

1849年6月29日、ロシア帝国の領土でカフカス総督府英語版の置かれたグルジア(現、ジョージア)のチフリス(現、トビリシ)に生まれた。父祖はオランダからスウェーデン統治時代バルト海沿岸に移り住んできた移民であり、父はオランダ人技術者・官吏、母はロシア名門貴族の出身であった[1]1870年に新ロシア大学(現、オデッサ大学)の物理・数学科を卒業している[1]。なお、オカルティストとして知られるヘレナ・P・ブラヴァツキー(ブラヴァツキー夫人)は従姉で、ヴィッテの大学時代に交流があった。

ウィッテは1869年、ロシア西南鉄道という民間鉄道会社に入った[2]切符販売員からスタートして20年間鉄道管理にたずさわり、そのなかで経営者として頭角をあらわしてきた[1]。とりわけ、露土戦争(1877年-1878年)における兵員の輸送と1883年の著作『鉄道運賃の原理』は注目された[2]1889年、彼は「国民貯蓄とフリードリヒ・リスト」という論文を発表し、同年、大蔵省の鉄道事業局長にむかえられた[1]。彼を登用したのは皇帝アレクサンドル3世であった。ウィッテは、小規模な鉄道事業が州の直接管理下にあることから鉄道事業の国家独占を進めた。1892年、ウィッテは劇場で知り合ったマチルダ・イワノヴナ(イサコフナ)・リサネビッチに好意を寄せるようになり、ギャンブル狂いの夫と離婚して自分と結婚するよう求めた。マチルダは既婚者だったというばかりではなく改宗ユダヤ人でもあったので、2人の結婚は当時のロシア社会にあってはスキャンダルにほかならず、ウィッテは上流貴族との社交を犠牲にしなけければならなかったが、皇帝アレクサンドルは彼を守った。

ウィッテの経済政策編集

セルゲイ・ウィッテは、1892年には運輸相、同年から1903年まで大蔵大臣として、ロシアの工業化を推進した[1]。彼はドイツ歴史学派の経済学者フリードリヒ・リストの影響を受けて、国家市場に積極的に介入する経済政策を採用し、酒専売制導入による財政改革、保護関税政策の採用を進めた[1][3]。比較的停滞していた数年間ののち、ウィッテを中心に1893年に再開された鉄道建設が経済成長の牽引役となった[4]1895年から1899年の間に鉄道網は年平均3,000キロメートル以上、その後の5年間で年平均2,000キロメートルも敷設・延伸され、なかでも、シベリア鉄道の建設は重要であった[3][4]。鉄道建設は、鉄鉱石石炭木材その他の資源ならびに重機械工業製品の生産を促進し、この時期の石炭・石油の採掘量は3倍増、重工業製品生産も2.3倍増となって、ロシアにおける工業成長率は当時世界最高水準の年8.1パーセントにおよび、国民経済の各産業分野が発展した[1][4]。とりわけ、輸送部門や金属工業部門、石油部門の成長は顕著であり、ロシアの鉄鋼業1900年には世界第4位、石油生産は世界の半分を占めるに至った[1][3]

ウィッテはまた、外資導入のための幣制改革を1897年より開始し、金本位制を確立して紙幣の金への自由な交換を導入した[5]20世紀初頭の段階でロシア経済への外国投資は全投融資の4割に達し、ドイツフランスイギリス企業資本を投下していた[5]。ウィッテは新皇帝ニコライ2世1894年即位)に対し、国内資本が欠乏し、防衛準備の強化や鉄道発展に資金が必要な状況を訴え、国民の貯蓄をそこにまわす余裕はないので、フランス資本を中心とする外資の積極導入を図るべきであるという意見報告を行い、これを進めた[3][5]。ウィッテが主導した国家資本主義的な経済メカニズムのことを「ウィッテ体制」と呼ぶ[2]。一方、農業分野では改革が遅れたため、農民の全人口に占める農奴の割合は増加した。彼は農業問題特別審議会を設置し、自ら同審議会の責任者として土地改革案を作成した。これは、後にピョートル・ストルイピン時代の土地改革の基礎になったといわれている。

政治的には、外国からの投資をロシアに呼び込むために、新しい状況に現実的に応じ、ある程度の専制権力の抑制をも視野に置いていた。基本的にヴィッテ自身は、アレクサンドル3世・ニコライ2世両皇帝の傅育官であったコンスタンチン・ポベドノスツェフと同様に専制政治を志向していたが、保守主義者である一方、現実的・合理主義的なナショナリストでもあった[1]。即位当初はニコライ2世もウィッテら諸大臣の助言と忠告にしたがっていたが、あくまで王権神授説を奉ずるニコライ自身やその側近とは齟齬をきたすようになった[6]。東アジア情勢が混迷をきわめ、諸大臣の意見が分かれるようになると、皇帝ニコライは危険な意見を傾聴するようになったのである[6]

ウィッテは、ロシアの工業化は経済のみならず政治上の課題でもあるとみなしていた[7]。第1には、社会改革遂行のための資産を蓄え、農業の発展も可能にすること、第2には貴族たちを政治の場から徐々に締め出して資本家や実業家に交替させていくこと、そのためには工業化と金融改革が必須の条件になるのであり、後発資本制国家のロシアも「世界不易の法則」にしたがって英仏などのような資本主義へと移行していくべきであるという考え方に立っていた[7]。それに対し、みずから「ロシア原則の断固たる擁護者」として行動することを自認する内務大臣のヴャチェスラフ・プレーヴェは、ロシアにはロシア自体の個別の歴史とそれに由来する特別な体制があると主張し、未熟な若者や学生、あるいは革命家たちの圧力による急激な改革は許されるべきではないとしてウィッテと鋭く対立した[7]。そして、この対立は外交政策をめぐっても繰り返されたのである。

万国平和会議編集

 
ハーグで開かれた第1回万国平和会議

1899年デン・ハーグで開かれた万国平和会議(第1回)は、戦時国際法における諸問題を取り扱い、戦争放棄を確定し、また、軍備制限や紛争の平和的解決を論議の対象としたことによって、戦争と平和の問題を人びとに考えさせる契機となり、欧米の理想主義的な平和主義者を引きつけて、結果としては平和運動にひとつの方向性をあたえたといわれる[8]。この会議を主唱したのはニコライ2世であったが、実のところ、皇帝自身もミハイル・ムラヴィヨフ外相も決して平和主義者ではなく、理想主義とも無縁であった[8]。また、平和のために国際会議を開くという発想も彼らのものではなく、実はウィッテの発想によるものであった[8]。ウィッテは、後発資本主義国として国家財政の厳しいロシア帝国がヨーロッパ正面ばかりではなく、極東での軍備競争にも打ち克っていかなければならない情勢にあって、一定期間どの国も軍備増強に走らないような仕組みを考え、さらに、これによりロシアは相手国の理想主義者や平和主義者を味方にすることができると考えたのであった[8]

極東での紛争とウィッテ編集

1895年日清戦争講和のための下関条約が結ばれ、そこに遼東半島の日本への割譲が定められたことから、ウィッテはフランス・ドイツに呼びかけて三国干渉を主導した[6]。さらに1896年李鴻章との間に露清密約を結ばせて、清国に東清鉄道敷設権を認めさせた[6]。このとき、ウィッテは李鴻章を抱き込んで、日本を対手とする攻守の密約も結んでいる[9]。ウィッテはできるだけ軍事的手段を用いることなく、満洲へは経済的に進出しようとする考えであったが、これは決して他国を刺激しないという性質のものではなかった[6]1897年にドイツが清国に膠州湾の租借を要求するとムラヴィヨフはロシアの旅順占領を提案し、ウィッテはこれに反対したが、皇帝はムラヴィヨフ外相の意見を採用し、結局、清国に対しては1898年旅順・大連租借に関する露清条約を結ばせて、遼東半島を租借した[6]

1900年、清国で義和団の乱(北清事変)が起こるとロシア帝国はそれを機に満洲に軍を派遣し、満洲要部を占領した。これは、日本をはじめとしてイギリスアメリカ合衆国などから強い非難を招き、日英両国はロシアへの対抗手段として1902年1月に日英同盟を結んだ。ロシアも清国との交渉によって同年4月に満洲還付条約を結んで3段階に分けてロシア軍を満洲から撤兵させることを約束したが、はたして第2次撤兵以降の約束は果たされず、そのため日本やイギリスとの関係はきわめて悪化した[10][11][12]。陸軍大臣のアレクセイ・クロパトキンはもともと、ロシアの勢力圏が保障されるまではロシア軍の満洲駐留を継続すべきであるという意見であり、その部分ではウィッテやウラジーミル・ラムスドルフ外相とは対立していた[13]。しかし、強硬派による満洲撤兵反対論はきわめて強固であり、ウィッテもラムスドルフも結局、北満洲の占領継続はやむをえないという見解に落ち着くほかなかった[13]。ウィッテ、ラムスドルフ、クロパトキンの3大臣は日本を刺激しなければ戦争は回避できるという考えでは一致していた[10]。このときウィッテが最優先と考えたのは、門戸開放を唱えてロシアの満洲占有を厳しく批判するアメリカが日英同盟の陣営に加わらないことであった[14]

日露戦争においては、ヴィッテはロシア国内には飢饉が広がっていることもあって開戦には反対した[10][15]。しかし、政敵であったプレーヴェ内相や強硬派のアレクサンドル・ベゾブラーゾフ元近衛士官らの策動によってこの主張は退けられた[10]。日本との戦争を避けるために慎重な極東政策を支持していたウィッテやラムスドルフらの発言権は弱まり、極東における軍備増強を唱えるベゾブラーゾフを中心とする「ベゾブラーゾフの徒党」が皇帝ニコライ2世の信任を得て勢力を拡大させた[10][12]1903年8月、皇帝ニコライ2世の専断により、ウィッテ蔵相・ラムスドルフ外相およびクロパトキン陸相の預かり知らぬところで旅順に極東総督府が設置され、ベゾブラーゾフ一派のエヴゲーニイ・アレクセーエフ関東州駐留軍司令官が極東総督ロシア語版に任じられ、同月、ウィッテは蔵相を解任された[12][10]。このときウィッテは大臣会議議長への転出が命じられたが、その役割は限定されたものであった[注釈 1]

ポーツマス条約の全権に編集

 
1905年、ポーツマスでの講和交渉に臨む日露代表団(テーブル奥の列中央がヴィッテ)

日露戦争で日本の優位が決定的になるとニコライ2世に再び登用され、1905年7月、講和のためアメリカのポーツマスにロシア側の首席全権としておもむき、交渉に当たることとなった[17]

候補としては駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフ英語版を首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた[18]。その後、駐イタリア大使のムラヴィヨフ前外相や駐日公使の経験をもつデンマーク駐在大使のアレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが選ばれた[18]。ポーツマス講和会議の次席全権を務めた駐米大使(日露開戦時の駐日公使)のロマン・ローゼンは、ニコライ2世から疎まれていたウィッテが首席全権と決まったとき、これを歓迎し、

彼ウィッテは、本国政府の思惑をはばかったり、迎合する根性から、ロシアの真の利益を犠牲にするような男ではない。彼は、現下ロシアで、意見をもつただ一人の人物である。

と述べたといわれている[19]。ウィッテは皇帝より、寸分の領土の割譲も一銭の賠償金の支払いも認めてはならないという訓令を受けていた[17]。交渉では、ウィッテはタフ・ネゴシエーターとして見事な外交手腕を発揮し、勝者のはずの日本が実は既に戦争の継続が不可能なほど疲弊していることを見抜いて日本側を翻弄し、損失を最小限に留めることに成功している[17]。ウィッテは、領土や賠償金は完敗した国が支払うべきものであり、ロシアは余力があるのだから支払う必要はないと小村寿太郎ら日本側の要求を突っぱねた[18][20]。ウィッテは、ロシア財政の立て直しを考えると、これ以上戦争を継続することは軍事的には可能であっても、財政上も、また、革命への熱気が冷めない国内情勢の面からも継戦困難とみて可能な限り有利な条件での合意を目指したが、一方でロシア国内では主戦論が再び持ち上がっていることにも留意しなければならなかった[20]。ウィッテは欧米金融資本の期待感とアメリカ合衆国の世論をうまく味方につけ、自国に有利な講和条件を獲得したのである[2]

日露両国は結局、1905年8月、ロシアが樺太サハリン島)南部を日本に割譲することで合意した(ポーツマス条約[17][20]。合意成立後、会見に現れたウィッテは「勝った」と叫んだが、合意内容をウィッテから聞いたニコライ2世は、その日の日記に「終日頭がくらくらした」と書き記している[17][21]。ウィッテはポーツマスからの帰路、フランスに立ち寄って借款を取り決めるという離れ業を行った[2]。そのため彼は、ロシア第一革命と対日敗戦の苦境を金貨で救ったといわれる[2]。ウィッテは交渉の労により伯爵の称号を皇帝より授けられたが、人びとはウィッテに「半サハリン伯爵」という新しいあだ名をつけて呼んだ[22]。なお、講和会議が終わってサンクトペテルブルクに戻ったとき、ニコライ2世がドイツ帝国とのあいだでビョルケ密約英語版を結んでいたことを知ったウィッテは、ラムスドルフ外相と協力してドイツとの同盟が発効しないよう図った[注釈 2]

初代首相に編集

 
「血の日曜日事件」

ポーツマスより帰ったウィッテは、1905年1月の血の日曜日事件以降、5月の最初のソヴィエト成立、6月の戦艦ポチョムキンの反乱、6月以降各地で起こった農民騒擾やストライキ(10月にはゼネストに発展)など、革命に揺れる国内を収拾すべく行動した[24]。10月、時局打開の対応を上奏する機会を得たウィッテは、10月ゼネストなど現下の大混乱のもとでは、ひとつには改革を実行すること、さもなくば、軍人に独裁権をあたえて革命に徹底的な弾圧を加えること、どちらかしかないとニコライ2世に二者択一を迫った[24]。後者は実際にロシア国内の極右勢力が主張していた見解だったが、ウィッテ自身は前者を好しとしていた[24]。ウィッテがこうした思い切った行動に出たのは、複数の政府高官に同調者がいたためであり、なかにはウィッテに改革のための出馬を要請した人物もいたのであった[24]

ロシア帝室のニコライ・ニコラエヴィチ大公は軍事独裁の場合の唯一と言ってよい独裁者候補であったが、革命の動乱を軍事的に鎮圧するには兵力不足であると明言し、候補から降りてしまった[24]。そのため、皇帝ニコライ2世はウィッテの提唱する改革路線に従うほかなかった[24]。同月、ウィッテは十月詔書を起草し、そのなかで国会の開設、立憲君主制の導入、市民的自由などが宣言された[24][25]。詔書は皇帝の名で発せられ、人身の不可侵、良心・言論・集会・結社の自由を認め、予定されていたドゥーマ(議会)の選挙を多くの国民が参加できるよう改め、ドゥーマの性格もアレクサンドル・ブルイギンの案のような諮問機関ではなく立法機関(国会)とするなどの内容であった[17][24]

その結果、ロシアにはヨーロッパ内閣にあたる統合合議制政府(閣僚会議)が創設され、最初の議長にはウィッテが任命された[25]。これは、事実上の帝政ロシア初代首相であり、彼はその立場で自由主義的諸改革を推し進めたのである[2]。ウィッテはこうして、第一次ロシア革命の一応の収拾に成功した。しかし、危地を脱した専制政府では、内務省のピョートル・ドゥルノヴォドミトリー・トレポフ秘密警察を握る反動路線が勢力を盛り返し、あくまで専制政治の維持を目論むニコライ2世も彼を嫌った[2]。政府部内の右派からは左寄りとみられ、新設されたドゥーマ(国会)でも信任が得られず、1906年4月、ウィッテは第一国会召集の前に辞任を余儀なくされた[2][24]

晩年編集

 
セルゲイ・ヴィッテの墓(アレクサンドル・ネフスキー大修道院内)。八端十字架が使われている

首相辞任後のウィッテは政界を引退したが、1907年1月、彼の家に爆弾が据え付けられていたのが発見された。

晩年は回想録を執筆した。回想録は彼の死後、1921年にヨーロッパで出版されたが、ロシア激動の時代の史料として重要である。

1914年第一次世界大戦が勃発すると、ウィッテやグリゴリー・ラスプーチンはロシアがこれに巻き込まれることに反対し、ロシアが関与した場合はヨーロッパは大きな災難に直面することを皇帝に進言したが、ニコライ2世はこれを無視した。ロシアの軍事行動には、フランス駐露大使のモーリス・パレオローグ英語版はロシアのセルゲイ・サゾーノフ外相に抗議している。

セルゲイ・ウィッテは、大戦中の1915年3月13日脳腫瘍により露都ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)の自宅で死去した。ウィッテには子どもがいなかった。葬儀はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院で執り行われ、墓所も同修道院内にある。

著書編集

  • 『ウイッテ伯回想記 日露戦争と露西亜革命 上』『同 中』『同 下』 大竹博吉監修 1930年
  • 『ウイッテ伯回想記 日露戦争と露西亜革命』原書房 1972年(OD版2004年)

その他、経済や鉄道に関する著作・論文がある。

日本の探偵作家である平林初之輔は、『ウイッテ伯回想記』を「個々の事件だけでも、たっぷり大抵の探偵小説位の面白さはある」と評している[26]。このなかには、クロパトキン陸軍大臣が、北清事変の報を聞くや膝をたたいて喜んだというエピソードも収載されている[27]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ ベゾブラーゾフは、1903年6月に設立された鴨緑江木材会社の責任者であり、鴨緑江流域に利害関係をもっていた。ウィッテの失脚は、以後のロシアの極東進出が軍事力になるものであろうことを示していた[16]
  2. ^ この件については、皇帝がウィッテとラムスドルフの議論をもし聞かなかったとしたら、「ヨーロッパ史全体そして世界史全体が異なったものになったかもしれない」という見方がある[23]

出典編集

参考文献編集

  • 飯塚一幸『日本近代の歴史3 日清・日露戦争と帝国日本』吉川弘文館、2016年12月。ISBN 978-4-642-06814-7
  • 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9
  • 隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論社中公文庫〉、1974年8月。ISBN 4-12-200131-5
  • 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社光文社新書〉、2014年7月。ISBN 978-4-334-03811-3
  • 中山治一『世界の歴史21 帝国主義の開幕』河出書房新社、1990年3月。ISBN 978-4-00-431044-0
  • 原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』岩波書店岩波新書〉、2007年2月。ISBN 978-4-00-431044-0
  • 半藤一利「小村寿太郎-積極的な大陸外交の推進者-」『日本のリーダー4 日本外交の旗手』ティビーエス・ブリタニカ、1983年6月。ASIN B000J79BP4
  • 『ロシア史』和田春樹(編)、山川出版社〈新版世界各国史22〉、2002年8月。ISBN 978-4-634-41520-1
    • 和田春樹「第6章 ロシア帝国の発展」『ロシア史』和田(編)、山川出版社〈新版世界各国史〉、2002年。
    • 和田春樹「第7章 ロシア帝国の動揺」『ロシア史』和田(編)、山川出版社〈新版世界各国史〉、2002年。
  • 『世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)』田中陽児倉持俊一・和田春樹(編)、山川出版社、1994年10月。ISBN 4-06-207533-4
    • 和田春樹「第7章 近代ロシアの国家と社会」『世界歴史大系 ロシア史2』田中・倉持・和田(編)、山川出版社、1994年。
    • 和田春樹「第8章 日露戦争」『世界歴史大系 ロシア史2』田中・倉持・和田(編)、山川出版社、1994年。
    • 高田和夫「第9章 1905年革命」『世界歴史大系 ロシア史2』田中・倉持・和田(編)、山川出版社、1994年。
  • A.ダニロフ、L.コスリナ、M.ブラント『ロシアの歴史(下)19世紀後半から現代まで』吉田衆一(監修)、明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、2011年7月。ISBN 4-06-207533-4

外部リンク編集

先代:
イワン・ヴィシネグラツキー
ロシア帝国大蔵大臣(財務大臣)
1892年8月30日-1903年8月16日
次代:
エドワルド・プレスケ
先代:
アドルフ・ギッベネット
ロシア帝国運輸大臣
1892年2月-1892年8月
次代:
アポロン・クリボシェイン
先代:
イワン・ドゥルノヴォ
ロシア帝国大臣委員会議長
1903年-1905年
次代:
廃止
先代:
新設
ロシア帝国首相
1905年11月6日-1906年5月5日
次代:
イワン・ゴレムイキン