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ミスターどん兵衛』(ミスターどんべい)は、1980年公開の日本映画。どん兵衛プロダクション製作、配給・東映

ミスターどん兵衛
監督 山城新伍
脚本 山城新伍
内藤誠
梶間俊一
出演者 山城新伍
川谷拓三
長谷直美
せんだみつお
中尾ミエ
結城しのぶ
梅宮辰夫
音楽 五木ひろし
撮影 中島芳男
編集 田中修
製作会社 どん兵衛プロダクション
配給 東映
公開 日本の旗 1980年4月5日
上映時間 95分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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概要編集

映画通(狂)を自認する山城新伍の第1回監督作品で[1]、山城が、企画、製作、監督、脚本(共同)、主演を兼ねる[2]

タイトルは、当時山城と川谷拓三コンビCMで人気を博した日清食品うどんカップ麺どん兵衛」から[3][4][5]

当時で映画歴21年の山城が、それまで見たこと、聞いたこと、感じたことを総特集する映画界の内幕もの[6]。映画のことしか頭にないB級映画監督サードの助監督を中心に、映画づくりの現場や映画人の職人気質的な滑稽さをシニカルに描く[7][8][9]時事ネタとして当時映画界の話題を独占した『影武者』のパロディ等を取り入れている。 五木ひろしが初めて映画音楽を担当した[3]

スタッフ編集

キャスト編集

製作編集

企画編集

映画の冒頭、梅宮辰夫扮するガラの悪い撮影所長が、スタッフを前に「おまえら、耳をかっぽじってよお聴けよ。わしが今から商業主義リアリズムいうもんを教えたる。わが大東映画が栄えたんは、その独創性においてではなく、実に古今の名作を盗みまくってきたからなんじゃ。わしは企画者や監督のオリジナリティなんてもんは絶対に信用せん! ええか、ここでヒットした作品を見てみい。『網走番外地』は『手錠のままの脱獄』、『不良番長』は『地獄の天使』とみんな盗んだもんやないか! ま、一生懸命盗んでも、おまえらの才能ではモトネタと似ても似つかんものになるから問題も起きん」と演説するが[1][10][11]、この撮影所長のモデルは岡田茂[5][12]。山城は「その頃の東映をパロディにしたくて『ミスターどん兵衛』を作った」[12]「当時はパクリばっかだったし、岡田さんが『こんなもん、何で原作使わないかんのか! パクれパクれ!』と言っていた」などと話している[12]。このネタができたのは、岡田は山城の恩師だったためで[13][14]、岡田は山城と花園ひろみ仲人だった[13][15]。また『キネマ旬報』1976年6月上旬号の高田純との対談で 山城「僕は日本の映画が実録路線全盛の時に、なぜ『イヴの総て』や『サンセット大通り』をやらなかったのか、不思議で仕方ないんです。臭いものにはフタじゃなくて、映画界の腐敗ぶり、あせりみたいなものを面白おかしく出せる材料は幾らでもある筈でしょう。『実録・東映株式会社』なんてやったら面白いですよ。悪いヤツいっぱいいるもの(笑) それは広島ヤクザなんかより、よっぽど人脈が入り乱れてますからね...」 高田「『仁義なき戦い・東撮対京撮』なんて、今やっても大傑作になるんじゃないですか。撮影所の中を舞台にした作品は、日本でも何本かあった気はしますけど、本格的な内幕ものは無かったですね」 山城「これは苦肉の策でね。外へ出るのが高くつくみたいなことで、新東宝の末期なんかに『撮影所殺人事件』なんてのが確かにありました」というやりとりがあり[16]、映画の構想はこの辺りからあり、エピソードの多くは1960年代~1970年代の東映と見られる[17][18]。監督第一作を撮るにあたり、最初はシリアスものを考えたが、パロディが出来る世の中になったと踏んでコメディに方向転換[10]、また青春ものとか自分の理想とする話とかはクサいと考え、あえて軽薄なコメディ、誰でも楽しめる娯楽映画を撮ることにした[19][20]。山城は「中身もないのに本屋のオッサン(角川春樹)が金かけて作ったりしてる。それならそれを逆手にとって、イージーにイージーに作ってやろうと思った」などと述べている[4]

映画についての博識ぶりをかねてから雑誌、テレビなどで披露していた山城は[21]、当時の大作主義には批判的で[21]、「これまで誰も描かなかった映画界内幕もの。斜陽化した映画界の実情も描きたいし、テレビのように15秒、30秒のギャグをつめ込んだ1時間45分の作品にしたい」」と意欲を述べた[22]。2018年現在では「映画界内幕もの」「映画製作のバックステージを描いた映画」というと『蒲田行進曲』や『ザ・プレイヤー』『カメラを止めるな!』などが挙げられるが[23][24]、それらの公開前のため、日本映画では前例のあまりない種類の映画だったかもしれない。当時の映画誌では『アメリカの夜』を引き合いに出すものが多かった[1][25]。『アメリカの夜』の日本初公開時のタイトルは『映画に愛をこめて アメリカの夜』で、評論のタイトルに「〇〇から(に)愛をこめて」と書かれたものがあった[1]

共同脚本の内藤誠は「山城は『不良番長シリーズ』や『夜遊びの帝王シリーズ』とかで、『カントクはいつも、コンテ、コンテで気の毒なショウバイだな』と、私を憐れんでいたが、やがて自分も監督をしたいと言い出した」と述べている[26]

スポンサー編集

山城が1979年夏頃から映画製作を準備し[22]、当時まだ東映の所属だった[13]山城が、東映に企画を持ち込んだら「自分で勝手にお作り下さい」といわれた[27]。他の映画会社も製作費払底で無理だろうと、当時は他産業からの映画製作進出が活性化していたため[8]、「本屋(角川書店)、百貨店三越)、化粧品屋(資生堂)から外部導入して映画作りができるんなら、そば屋にもできないことはないだろう」と思い立ち[28]、CMをやっていた日清食品安藤百福社長にお願いに上がり[10]、「映画を作りたいんですが」と頼むと、安藤から「分かりました。お金を出しましょう。5億円くらいでいいですか?」と言われたため[1]、山城がビックリし、「いえ、そんなに要りません。そんなにあっても使い道が分かりませんから」と答え、「じゃあ3億円で」と言われビビり、「多すぎます」と返事し、結局8000万円で手を打ち、日清が製作費を全額出資した[1][3][28]。日清からは川谷を共演者にすることを条件に出された[21]。山城、川谷の共演なら、観客はカップうどんを連想し、映画自体が商品の宣伝になる[21]。山城と川谷のコンビCMで「どん兵衛」の売上げが倍増になったといわれ[3]きつねどん兵衛だけで年間売上げ200億円だったため[6]、大して金額ではなかった[6]

1979年4月に岡田東映社長が東映の新しい興行形態として東映シネマサーキット(TCC)の発足を発表し[29][30][31][32][33]、「長年のやくざ路線で、社内の企画は発想が古く、現代にマッチするプロデューサーやライターが不足している。アメリカでも若い名もない監督(ジョン・ランディスを指す[29])やプロデューサーがスターを使わないで映画を作り、ヒットさせている時代だから、門戸を開放して若手が出てこられるチャンスを与えようというわけだ。勿論若手だけでなく伊藤俊也に撮りたい映画があるなら、半分出資しておやんなさい、山城新伍がインスタント食品会社と一緒に金を出して監督作品を作るという話もあるからそれもよかろうし、京都の映画村も企画を持っているから、リスクを負担してやれということ。映画館主だって東映映画が当たらないと文句を言うなら企画して作ればいい。ATGは専門館が少ないから一億円の配収を上げるのは難しいが、ウチなら二億円以上も可能だ」と説明した[29][31]。TCCは、東映グループ作品、独立プロとの折半作品、独立プロへの全額出資作品の三種類を東映の配給チェーンに乗せるというプロジェクトで[29]、ATGは独立プロとの折半作品を基本としていたため[29]、TCCはATGの娯楽作品版ともいわれた[29][33]。この岡田の話から『ミスターどん兵衛』は1979年春には東映に企画が持ち込まれており、日清食品が製作費を全額出資しなくても東映が出資を予定し『下落合焼とりムービー』や『狂い咲きサンダーロード』などと同じように当初はTCCチェーンでの上映予定だったことが分かる。

配給編集

1970年後半に日本でもヒットした『ケンタッキー・フライド・ムービー』『Mr.Boo!ミスター・ブー』を捩り、はじめは『ミスター・ムービー』というタイトルを考えていたが[1][34]、それなら宣伝にと居直り、タイトルを『ミスターどん兵衛』にした[1][21]。このタナボタぶりに日頃、資金調達に走りまわる他のプロデューサーたちを羨ましがらせた[22]。また当時大作一本立て時代が来て、東映は特に岡田社長が外部資本との提携と外注作品の導入を強く打ち出したため[35][36][37]、年間50本作っていたブロックブッキングが崩壊し、助監督が監督に昇進するチャンスがほとんどなくなっていた[4]。山城は「昨日まで一緒に麻雀していた助監督連中が口を聞かなくなった」と話している[4]。山城は「流行遅れにならないように、六ヶ月先のギャグを計算している。東映の配給をアテにしているが、完成したところで競売にかけて配給会社を決めてもいい」と鼻息荒かったが[8]、スポンサーがはっきり決まったことで東映が配給を引き受けた[28]。製作の公表は1979年8月末[22]。『下落合焼とりムービー』が1979年6月に公開され、興行成績は不明だが東映は「この企画が出た背景には『Mr.Boo!ミスター・ブー』の大ヒットもあり、今だと面白い喜劇ができるのではというヨミがあります。山城のプラスアルファーに期待しています」と話した[22]

脚本編集

脚本は山城の親友・内藤誠梶間俊一[26]。内藤は「ホンを書いてる途中に恩師・木村毅が亡くなったので梶間に手伝ってもらった」と話している[26]。脚本の途中まで木村が参加していたという意味なのかは分からない。アイデアは山城が出し、内藤が脚本にまとめ、のちに梶間が加わった[10]。ゲスト出演が多いため、内藤は現場で台詞を書くこともあった[10]

撮影編集

当初は1979年10月1日クランクイン映画の日のある同年12月公開を目指していたが変更[21][22]。 正式に映画の製作が決定したのは1979年10月末で[8]、東映の撮影所が空くのを待って撮影に入った。山城は東映の京都東京の両方の撮影所で活躍した人だが、川谷はほぼ京都[38]。しかし撮影は東映東京撮影所で行われた。当時、東映京都撮影所は、太秦映画村で大賑わいだったが、東京撮影所はかなり過疎っていた。「役者の生理というのはね、とにかく早く撮ってもらいたいんですよ」と役者の心情をよく知る山城は早撮りで、待ち時間ほぼなし[10]。朝9時撮影開始、お昼1時間休憩を挟み、午後4時撮影終了[10]。撮影日数17日で撮り上げた[4]。1980年4月頃の公開を目指した[8]

監督&キャスティング編集

山城新伍は「帝王シリーズ」などを観たテレビプロデューサーから、トルコ風呂(ソープランド)の突撃ルポなどの仕事を受けてテレビバラエティに進出し[14][39]、ここで見せた話芸に注目した『独占!男の時間』(東京12チャンネル(現・テレビ東京1975年1977年)のプロデューサーに同番組のMCに抜擢され[14]、博識と下ネタ混じりの歯切れのいい辛口トークで新しいMC像を作った俳優出身のMCのハシリであった[40][41]。1980年当時で7本のレギュラーを持つ売れっ子テレビタレントだった[4]。岡田茂は「山城は器用貧乏なところがあって、才能がありながら映画では芽が出なかった。その潜在的な才能が開花したんだろうな。あんなに機智に富んだ才能があるとは思わなかったよ」などと評した[14]。付き合いの広さは映画界随一と自認する山城だけに[22]、山城と付き合いのある人たちが集結した[2][8][42]長谷直美は山城がMCを務めていた『独占!男の時間』でアシスタントを務め[43]和田アキ子も山城がMCの『笑アップ歌謡大作戦』(テレビ朝日)でレギュラー出演していた[44]。この他、若山富三郎梶芽衣子西田敏行泉ピン子なども出演予定があり[22]、川谷と西田が助監督、白沢明役には『影武者』で弟の勝新太郎を降ろした若山をキャスティングし[22]、スター女優は梶を予定していた[22]。音楽には「ゴダイゴツイストばっかりが音楽じゃないのよ」と山城が五木ひろしに頼んだ[6]

撮影編集

1979年10月24日、東映東京撮影所クランクイン[6]。撮影はほとんど同撮影所とその近辺の喫茶店などで行われた[10]。 その他、国会議事堂[45]。撮影日数17日[4]

宣伝編集

宣伝文句は「サッこの世のあらゆる権威をパロッちゃえ!ギャグっちゃえ!……抱腹絶倒大嘘篇、あァ、ポエムだなァ、メルヘンだなァ」[45]

興行編集

封切り直前の『週刊読売』に「4月5日から東映系上映作は地区別に『ミスターどん兵衛』『甦れ魔女』(主演:磯貝恵、監督:佐藤純彌)『仁義なき戦い・総集編』。この変則システム、大作前のだぶつき作品消去法と見たが...」などと書かれ[25]、『ロードショー』1980年5月号に「東映は『ミスターどん兵衛』。併映は『白馬童子 南蛮寺の決斗』。東映は『甦れ魔女』も公開」と書かれている[46]。『週刊現代』1984年4月10日には「東映関係者は『日清食品が製作費6000万円を融通した映画ですが、前売り券も二万枚しか引き受けてもらっていない。何十万枚の単位なら全館公開でやります』と暗に興行は期待できない口ぶり」と書かれている[47]

1980年の春の映画興行は、邦画・洋画各社とも『影武者』(東宝配給)をにらみ合わせて番組を編成していた[46]。『影武者』の封切りは、当初1980年4月12日と発表していたため[46][48]、東映も当初1980年4月5日の枠は、この年開催されたモスクワオリンピックに便乗した岡田茂社長総指揮によるソ連との合作『甦れ魔女』を予定し、併映作には松坂慶子ダイニチ映配時代の主演映画『夜の診察室』を大映配給からフィルムを借りてリバイバル公開を予定し、上映予告までしていた[49][50][51]。しかし松坂が当時松下電器提供のTBSの看板番組『江戸を斬る』でヒロインを務めていたため[50][52]、『江戸を斬る』を下請け製作していた東映京都撮影所に、「松坂のイメージダウンにつながるような行為をするなら『江戸を斬る』の発注を引き上げる」と広告代理店らがクレームを付け[50]、急遽『夜の診察室』の上映が中止された[52][50][51]。このため、劇中に『影武者』のパロディーがある『ミスターどん兵衛』がここに差し替えられた[52]

当時日本人はソ連が嫌いで[20]、1979年12月にソ連のアフガニスタン侵攻があって、翌1980年明けからアメリカを皮切りに各国のモスクワ五輪集団ボイコットが始まり、『甦れ魔女』の題材そのものがどんどん世間の関心を失う状態[53]。山城は配収の取り分はどうなるか東映に聞いたら、7:3といわれた[20]。山城は国民感情を逆なでするような『甦れ魔女』と併映になったら、客は入らないは、収入の大部分は東映に行くわで、お先真っ暗と考え、東映に二本立てで、もっとも比率が安くなる作品は何かと聞いたら、東映側が冗談で「そりゃあ、新伍ちゃんのデビュー作『白馬童子 南蛮寺の決斗』やな。あれなら9:1ぐらいになるやろ」と言われた[20]。山城は「そうして欲しい」と頼んだが、大半の劇場側からダメと言われた[20]。山城は『甦れ魔女』との併映を断固拒否[54]。東映に直営館を何館貸してくれるか聞いたら、20館と返事された[20]。仕方なく『甦れ魔女』と『ミスターどん兵衛』は、一つの会社が同日に、二本の新作を別々に公開する異例の試みを行った[20][48][54]。当時の東映の系列館は全国120館[47]。全国25[47]、或いは全国の15の劇場のみ『ミスターどん兵衛』『白馬童子 南蛮寺の決斗』の組み合わせで公開された[20]。大作でもない『甦れ魔女』『ミスターどん兵衛』が、それぞれ一本立て興行されるとは考えにくいため、『ミスターどん兵衛』『白馬童子 南蛮寺の決斗』以外の劇場は、『甦れ魔女』『ミスターどん兵衛』『仁義なき戦い・総集編』が、地区別にこの内の二本、或いは三本が組み合わされて公開したものと見られる。東京都内のメイン劇場は『甦れ魔女』を上映している[55]杉作J太郎植地毅著『仁義なき戦い 浪漫アルバム』82頁に「『総集編』は1980年4月5日に公開された」と書かれているが[56]、2013年に東映ビデオから発売された『仁義なき戦い Blu-ray BOX』のボーナスディスク『仁義なき戦い・総集編』のパッケージには1980年4月公開としか記載がないため[57]、『仁義なき戦い・総集編』は、同年4月に劇場によって異なる日に公開されたのかもしれない。

『影武者』の公開延期が1980年2月26日に正式発表され[48]、二週間ズレ込んだことで東宝も含め、各映画会社、全国の劇場は対応で大アラワになった[46][48]。東映は全くダブらなくなり一応は喜んだが、その影響もなく『甦れ魔女』は大コケ[53][58]。岡田社長は「苦労して製作したが誰も相手にしない。誰の興味も湧かさなかった」などと話した[53]。『ミスターどん兵衛』はそこそこヒットしたといわれる[54]。山城はテレビで「東映の三角マークは、 義理欠く、恥欠く、人情欠くの三欠くマーク」などと東映を散々コケにしていたため[13][54]、岡田社長の肝煎り企画が山城の映画に負けるという失態であった[54]。山城は採算はやっとペイできたと話している[20]。 

この年の東映上半期の目玉作品は『柳生一族の陰謀』から始まった大作時代劇路線の最終作『徳川一族の崩壊』。『甦れ魔女』の極端な不振を取り返すべく、『徳川一族の崩壊』を「NHK大河獅子の時代』を向こうにまわして幕末をスケールでっかく描いた」などと宣伝に注力し[58]ゴールデンウィークの大作映画として期待した。『影武者』の公開延期で『徳川一族の崩壊』公開が『影武者』のロングラン上映の五週目とかぶり、『影武者』で時代劇の面白さを堪能したファンが、他社の違う時代劇に目を向けるのではという予想もあったが[48]、こちらの興行成績も期待外れに終わり[58][59][60]、文字通り"崩壊"した[58]

評価編集

  • 山城新伍は「出来ばえについては、賛否両論だったけど『アイツごときでも映画が作れるのか』という同業者のやっかみの声を耳にしたときは、快感が走ったね(笑)。映画とは本来、ヒマつぶしに見るものなんでねえ。湯水のごとく大金を使ったり、しかめ面して作るもんじゃない」[14]、「南俊子さんだけは『スピルバーグの映画より面白い』とか書いてくれたけど、他の評論家は『南俊子は甘すぎる』とか彼女を批判してた(笑)」などと話している[19]
  • 桂千穂は「『ミスターどん兵衛』を評論家としてではなく実作者の立場で見ると、興味が尽きない。巻頭の"日本の映画人は独創性はなく模倣性しかない。盗作に徹してヒット映画を造れ"という、大東映画撮影所長・梅宮辰夫の演説からして身につまされる。私自身、モトネタなしには何ひとつ浮かばない脚本家なので、この台詞はまったく痛烈である。梅宮所長のアッピールに応じて、吸血鬼もの焼きなおし企画を提出した万年御用カントクと万年映画青年である助監督が、三流の旅館に籠る描写など、映画に関わることしか生活がない中年男たちの〈生活〉がよく描かれ、行き届いたリアリティがある。助監督が雨で撮影が中止されたと決めこみ、朝寝していたら相憎の上天気でスタジオに急ぐが誤って特急電車に乗り、撮影所のある駅を通過してしまう話は、私も東映東京撮影所へ行った時、急行電車に乗って大泉学園駅を乗り越して慌てたことがあり微笑ましいシークエンス。ロケのさなかに飛んできたヘリコプターを、突如カメラマンに撮らせるシーンもN監督の珍談を知るものには何ともおかしい。中尾ミエ扮するボーイッシュなスクリプターも有りがちで、パロディコメディと銘打たれているが全体に色濃く惨んでいるムードは、娯楽映画作りに献身してきた映画人の、芸術派巨匠に対するどうしようもない鬱屈と自嘲である。ある好人物の中堅演出家から、ジャーナリズムの脚光を浴びる芸術監督への怨念に充ちた述懐を聞かされ、ジーンとなった経験を持つ私など、笑えるどころではなかった。その点からいえば、〈巨匠白沢明監督〉や〈映画評論家お松とパー子〉へのアテコスリも、非常に納得がいく。ただ、諷刺にまで高まらず、文字通りアテコスリに終わっているのが惜しい。山城新伍演出は近頃流行の画家や、小説家や、映画評論家出身監督などとは段違いの技術をもつ。けれども、山村聰佐分利信氏らの昔から現在の左幸子監督に至るまで、ベテラン俳優出身の演出家は、元来、手固いシャシンを作るもので、驚くには当たらない」などと評している[18]
  • 松田政男は「素直にいって、これは〈残念な失敗作〉だ。『シナリオ』1980年4月号における南俊子オバサマや小藤田千栄子オネエサマのようには心やさしくない私としては、以下、いささか歯にキヌ着せず、かく結論する所以をば申し述べておきたいと思う。失敗の原因は、一にかかって〈東映〉ならぬ〈大東映画〉の助監督を中心とする絵に描いたような映画青年たちが綴る人間模様と、『影武者』というよりも映画状況そのものへのパロディ仕立てとが最後まで噛み合っていないところにある。〈東映〉が実は〈東盗映〉の謂いにほかならないと喝破する撮影所長の大演説に始まって、想像以上に荒れ果てる東撮内部をドキュメンタルに活写して行く滑り出しがまことに快調なだけに、まさしく残念無念と言うほかない。逆にいえば、可視的ならざる映画状況もまた、例えば東映東京ならぬ東映京都の異才・深尾道典が事業部に、同じく関本郁夫が企画部に配転されたままという事情が端的に示すように荒廃の極に達していることをこそ、以下、徹底的に剔抉すべきであったのに、なぜか『吸血鬼』の盗作へとストーリーそのものが横滑りして行ってしまう。いま、東映でーいや、東映のみならずメジャー各社において、たとえB級プログラム・ピクチャアにせよ自らの企画を実現させることは、それこそスポンサー付きででもない限り、ほとんど至難に等しい。現に吸血鬼映画でいうならば、手塚治虫原作による『ドン・ドラキュラ』が、桂千穂脚本=大林宣彦監督という絶妙のコンビにもかかわらず、一年近くも棚上げされているのではないか。つまり、今や『影武者』ならぬ『禿武者』に対置されるべきは、B級映画の心意気どころか、そこ心意気さえままならぬ〈壮大なゼロ〉でしかない。残念なことに『ミスターどん兵衛』には、いささか心奢れる余裕があり過ぎるのである。こう見定めてしまうと『禿武者』の巨匠・白沢明にせっかく由利徹を配役したにもかかわらず、悪ふざけに徹し切れぬ及び腰としか思えないし、逆におすぎとピーコに対する度を過ぎた悪意はその反動とさえ断じてしまう。わが映画状況を心底憂えている点にかけては、おすぎとピーコと山城新伍との間にそれほど径庭があろうべくもなく、総じて私たちに必要なのは、損な役回りを承知で大熱演した結城しのぶのように、無私の献身をもって旨とする映画への初心ではないのかと何度でも思い返させてやまないあたりに〈残念な失敗作〉と結論せざるを得ない所以があるのである」などと論じている[17]
  • 白井佳夫は「『ミスターどん兵衛』の出来映えを、歯に衣を着せずに正直にいうならば、ひとりよがりの笑えない、図式的なモジリが、あまり品よくなく次から次へとつながっていくばかりの、貧しい日本的な、パロディーにならないパロデイー映画になってしまっている。これでは『金田一耕助の冒険』『夢一族 ザ・らいばる』『ピーマン80』のような、CMディレクターテレビ畑のディレクターさんたちが映画畑に進出して作った映画以前の映画ともいうべきおふざけギャグ映画をとても笑えない。映画通の映画出身タレントを自負する山城新伍たるもの、もっていかんとなす?である。これではタレント・山城新伍のファン大会ででも座興として上映するおふざけお遊び映画というべきフィルムであって、とても商業映画館で上映するプロが作った商品映画にはなっていない。映画界の斜陽化を笑い飛ばすしてしまうようなアナーキーな笑いも、皮肉りも、シッタゲキレイも、ひそやかな映画愛も私にはまったく感じられなかった。若山富三郎が『山城新伍は役者をめざしてタレントになっちゃった』といみじくもいったように、彼はいまや外部の世界のご趣味のお遊びのできる、偉い芸能スターのひとりになってしまったのであろうか?」などと評している[11]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h 南俊子「『ミスターどん兵衛』の完成 白馬童子から愛をこめて」『シナリオ』1980年4月号、日本シナリオ作家協会、 8-10頁。
  2. ^ a b 「日本映画指定席『ミスターどん兵衛』」『近代映画』1980年5月号、近代映画社、 191頁。
  3. ^ a b c d 「洋画ファンのための邦画コーナー SPOT ヒットCMコンビ(山城・川谷)のコメディー」『SCREEN』1980年2月号、近代映画社、 263頁。
  4. ^ a b c d e f g 「イーデスハンソン対談(308) 〈ゲスト 山城新伍〉 『禿武者』の白沢監督も登場する大パロディ 『ミスターどん兵衛』で一人五役の大活躍 黒沢監督はプロじゃない」『週刊文春』1980年3月27日号、文藝春秋、 60 - 64頁。
  5. ^ a b 吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、17頁。ISBN 4-7577-0488-7
  6. ^ a b c d e 堀田喬「雑談えいが情報 新作映画ニュース」『映画情報』、国際情報社、1980年1月号、 72頁。
  7. ^ 「日本映画紹介 『ミスターどん兵衛』」『キネマ旬報』1980年5月上旬号、キネマ旬報社、 183頁。
  8. ^ a b c d e f “山城新伍が映画を製作 映画づくりの内幕コミカルに その名も『ミスターどんべえ』”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1979年11月1日) 
  9. ^ ミスターどん兵衛”. 日本映画製作者連盟. 2018年10月22日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h 小藤田千栄子「世紀の快作 『ミスターどん兵衛』のすべて」『シナリオ』1980年4月号、日本シナリオ作家協会、 11-19頁。
  11. ^ a b 白井佳夫「〔邦画スタート 今週の焦点〕 万能タレント山城新伍が映画製作に挑戦! その結果は…… てんやわんやのパロディー映画のむずかしさ」『週刊平凡』1980年4月10日号、平凡出版、 134-135頁。
  12. ^ a b c 浅草キッド『濃厚民族』スコラマガジン、2003年、66頁。ISBN 4-902307-01-4
  13. ^ a b c d 山城新伍『現代・河原乞食考 ~役者の世界って何やねん?』解放出版社、1997年、74-75頁。ISBN 4-7592-5120-0
  14. ^ a b c d e 「連載にんげんファイル'84 山城新伍 『京都の映画館を遊び場にした町医者の伜は年収九千万円、白馬童子から自称・軽薄中年へ。趣味はラグビー観戦、トルコ風呂はもう飽きた』」『週刊現代』1984年1月7/14日号、講談社、 88–92頁。
  15. ^ “山城新伍が結婚式”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 14. (1966年2月24日) 
  16. ^ 高田純《対談》山城新伍 『白馬童子の映画論/山城新伍大いに映画を語る』」『キネマ旬報』1976年6月上旬号、キネマ旬報社、 116頁。
  17. ^ a b 松田政男「日本映画批評 『ミスターどん兵衛』」『キネマ旬報』1980年5月上旬号、キネマ旬報社、 156 - 157頁。
  18. ^ a b 桂千穂「邦画傑作拾遺集(11)」『シナリオ』1980年4月号、日本シナリオ作家協会、 78-80頁。
  19. ^ a b 吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、37頁。ISBN 4-7577-0488-7
  20. ^ a b c d e f g h i 山城新伍『一言いうたろか~新伍の日本映画大改造~』広済堂出版、1993年、42-44頁。ISBN 4-331-50421-2
  21. ^ a b c d e f 河原一邦「邦画マンスリー」『ロードショー』1979年10月号、集英社、 236頁。
  22. ^ a b c d e f g h i j 「"怪作"山城新伍、1人4役のギャグ映画すべり出す! インスタントにあらず、拓ボン、梶芽衣子らも応援」『週刊明星』1979年9月9日号、集英社、 46頁。
  23. ^ INTRO | 上田慎一郎監督インタビュー:映画『カメラを止めるな!』について【5/5】
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  60. ^ 『シネアルバム 日本映画1981 '80年公開映画全集』佐藤忠男山根貞男責任編集、芳賀書店、1981年、190頁。

外部リンク編集