谷川岳

群馬・新潟の県境にある三国山脈の山
一ノ倉岳から転送)

谷川岳(たにがわだけ)は、群馬県利根郡みなかみ町新潟県南魚沼郡湯沢町の県境(上越国境)にある。山頂部は二峰に分かれた双耳峰で、それぞれトマの耳(標高1,963 m)、オキの耳(標高1,977 m)の名がある[1]日本百名山ぐんま百名山越後百山新潟100名山関東百名山甲信越百名山の一つ。

谷川岳
南東の天神尾根から
標高 1,977 m
所在地 日本の旗 日本
群馬県利根郡みなかみ町
新潟県南魚沼郡湯沢町
位置 北緯36度50分14秒 東経138度55分48秒 / 北緯36.83722度 東経138.93000度 / 36.83722; 138.93000座標: 北緯36度50分14秒 東経138度55分48秒 / 北緯36.83722度 東経138.93000度 / 36.83722; 138.93000
山系 三国山脈
谷川岳の位置(日本内)
谷川岳
谷川岳 (日本)
谷川岳の位置(群馬県内)
谷川岳
谷川岳 (群馬県)
谷川岳の位置(新潟県内)
谷川岳
谷川岳 (新潟県)
プロジェクト 山
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概要 編集

 
谷川岳の地形図(一部誤植あり)

群馬県の北方、新潟県の南方の上信越高原国立公園三国山脈にあり、広義の越後山脈に含むこともある。周辺の仙ノ倉山万太郎山一ノ倉岳茂倉岳などを総じて谷川連峰や、俗に国境稜線ともいう。広義には、これら周辺の山域の山も含めて「谷川岳」と一体視して呼ぶこともある。一帯がみなかみユネスコエコパークに含まれる。尾根を挟んで日本海側太平洋側に水系が分かれる中央分水嶺で、ぐんま県境稜線トレイルのコースの一部。

元来この山はトマ・オキの耳二つ(二つ耳)と呼ばれ、トマの耳には薬師瑠璃光如来を祀ったことから薬師岳、オキの耳には富士浅間神社(富士権現)の奥の院を祀ったことから谷川富士浅間岳の別称がある[2]。谷川岳の名は本来は谷川村(現在のみなかみ町谷川地区)を流れる谷川源流にある現在では俎嵓(まないたぐら)と呼ばれる山の呼び名であったが、明治時代に作られた陸地測量部の5万分の1地形図(および、それを引き継いだ国土地理院地図)が薬師岳に谷川岳の名を当て、木暮理太郎武田久吉らは正しい名称での呼称を呼び掛けたが、地形図の表記が定着し、トマ・オキの耳二つが谷川岳と呼ばれるようになった[2]。明治の地形図作成時にはトマの耳に三角点が置かれたが、現在は亡失し、盤石のみが残されている。谷川富士の名称は一ノ倉岳に付与され、両者が併記される形で戦後まで用いられたが、1961年(昭和36年)の版以降は一ノ倉岳の表記に統一された。最高点はオキの耳だが、上記の経緯より、トマの耳が主に本峰として扱われる。トマは「とば口」などと同じように入り口、手前の意、オキは「沖」などと同じように遠い方、奥の意[3]。新潟側では明治の頃までは単に「富士山」と呼んだ[4]

初級者から上級者向けまでの変化に富む登山コースを有し[5]上越線土合駅からのアクセスがよく取り付きまでに要する時間がさほど長くかからない位置にあり複数のルートが開拓されたため[1]、年間4万人を越える登山者が訪れる[5]。一方で危険個所の多さと急激な気候変化が影響し、遭難者の多い山としても知られる[5]

一ノ倉沢などの谷川岳の岩場は、その険しさから剱岳穂高岳とともに日本三大岩場の一つに数えられ、ロッククライミングの盛んな地となっている。山麓はスキーの好適地でもあり、谷川岳天神平スキー場ホワイトバレースキー場がある。

 
一ノ倉沢

1960年12月開業の谷川岳ロープウェイが東麓から山稜付近(天神尾根)までを繋いでおり、冬場はスキー客と登山客が同じゴンドラで天神平を目指すことも少なくない。山稜の天神平駅のそばにはレストハウスがあり、簡単な食事も提供されている。

群馬県みなかみ町谷川にある谷川富士浅間神社は、縁起によれば、天授6年(1380年)の鎮座で、主神は木花咲弥姫命。中宮の社殿は真田伊賀守によって沼田総鎮守として万治元年(1658年)あるいは寛文3年(1663年)に造営された。奥の院がオキノ耳の少し北にあり、山中の洞窟から発見された永禄8年(1565年)の銘がある懸け仏(御神体)の鏡が置かれていたが、文化財への指定にともない、水上歴史民俗資料館へと移されたのち、氏子総代によって保管されている。毎年4月29日が春祭りで、ここで踊られる奉納舞の太々神楽は真田信幸慶長6年(1601年)に永楽銭三百貫文を寄進した際に始まったという[6]。奥の院には安政7年(1860年)に作られた鉄板拭きの社があった[7]が、現在は石作りのものに変わった。

元々信仰の山として修験者(山伏)や、地元民らを中心に登られていたほか、東麓を流れる湯檜曽川に沿って古道があり、江戸時代口留番所によって通行が禁じられていたが、明治時代になって新道が開削され、国道に指定されたものの、新潟県側で土砂崩れや雪崩、路盤の崩落などが起きて2年ほどで通行不能となった(詳細は国道291号および清水峠を参照)。1876年(明治9年)には陸運会社沼田分社によって一ノ倉沢出合、武能沢出合、白樺尾根に休泊所が作られたが、後に廃止された[8]1932年(昭和7年)頃からは、鉄道省信濃川送電線路の建設があった[9]

近代における記録に残る登頂は明治時代の陸地測量部による測量隊の登頂の後、1920年大正9年)7月2日日本山岳会藤島敏男森喬の両名が土樽村の剣持政吉の案内で矢場尾根から茂倉岳・一ノ倉岳を経由して登頂し、天神尾根から谷川温泉に下ったのが最初とされ[10][11]、それにちなんで2011年より毎年7月2日が「谷川岳の日」と定められた[12](記念日制定について話し合いが持たれた2010年が藤島らの登頂より90周年だったことと、2011年が上越線開通80周年にあたること、また群馬デスティネーションキャンペーンの開催に合わせての制定)。群馬県側の山開きは1938年(昭和13年)7月1日に第1回の山開きが行われて以降[13]、毎年7月第一日曜日に行われ、「安全登山の日」として谷川岳ロープウェイの谷川岳ベースプラザもしくは谷川岳登山指導センターで安全祈願祭が行われるほか、記念日が制定された2011年からはJR東日本によって臨時夜行列車の「谷川岳山開き号」が運行され、ロープウェイも早朝営業を行うなど、いくつかのイベントが開催される。谷川岳の日と山開きの日の両者がある週を「谷川岳ウィーク」と呼称する。2016年(平成28年)に山の日が制定されて以降は、「山の日谷川岳号」が運行された。

木暮理太郎は清水峠を越えた際に見た絶壁の光景を『素晴らしい赭色の岩崖』と記した[11]大島亮吉が前年の秋に武尊山の山頂から見た谷川岳の岩壁に心惹かれて、1927年(昭和2年)3月22日に大賀道昺と共に谷川温泉からスキーによる冬季登頂と、同年5月28日に芝倉沢(パートナーは斎藤長寿郎)、7月16日にマチガ沢(原文ではイヲノ沢、パートナーは大賀道昺と酒井英)の完登と、前後の日程で一ノ倉沢(原文ではマチガ沢)・幽ノ沢(原文では一ノ倉沢)の試登を行い、1929年(昭和4年)に「(谷川岳の岩壁は)總ては尚研究を要すべし、近くてよい山なり」[14]と述べたことや、大島の遭難死が大きく報道され、遺稿集などが広く称揚されたこともきっかけとなって山岳界にその名を知られるようになった[15]1931年昭和6年)9月1日に上越線の上越国境区間(清水トンネル)を含む全線が開通し、最寄りの土合駅土樽駅(開業当時はいずれも信号場)が開業するなどしたことでアクセスが飛躍的に改善し、首都圏からの夜行列車を利用した日帰りが可能な近さと、剱岳・穂高岳に勝るとも劣らぬ急峻な岩壁が多くの大学山岳部や社会人登山家から好まれるようになり、第二次世界大戦による中断を挟んでクライマーを中心とした昭和の登山ブーム1960年代まで続いた[16]。その後、1990年代頃から日本百名山を中心とする中高年の登山ブーム(平成の登山ブーム)が起こり、現在に至る。

地形・地質 編集

標高の低い部分は主として花崗岩類、標高の高い部分はもっぱら玄武岩蛇紋岩による。深部は石英閃緑岩からなる(谷川岳深成岩体)。また山域は氷河地形周氷河地形の特徴を呈しており、アバランチシュートモレーンも見られる[17]

気象の厳しさから標高1,500m付近が森林限界となり、その上からは笹原が広がり視界が開ける。このため、比較的低い標高(特に稜線付近)でも高山植物が観察できる。

一ノ倉岳 編集

一ノ倉岳は、谷川岳の北にある標高1,974メートルの山。オキの耳との中間部に「ノゾキ」がある。

一ノ倉尾根 編集

一ノ倉尾根は、一ノ倉岳から東に伸びる尾根。

幽ノ沢 編集

幽ノ沢は、湯檜曽川の支流で、一ノ倉尾根の北を流れる沢。

一ノ倉沢 編集

一ノ倉沢は、湯檜曽川の支流で、東尾根と一ノ倉尾根の間を流れる沢。

東尾根 編集

東尾根は、谷川岳(オキの耳)から北東に伸びる尾根。

マチガ沢 編集

マチガ沢は、湯檜曽川の支流で、東尾根と西黒尾根の間を流れる沢。

西黒尾根 編集

西黒尾根は、谷川岳(トマの耳)から東に伸びる尾根。

田尻尾根 編集

田尻尾根は、天神平から土合へ伸びる尾根。

天神平 編集

天神平は、谷川岳と高倉山の間にある高原。天神尾根ルートの起点。

高倉山 編集

高倉山は、谷川岳の南にある標高1,448メートルの山。

登山 編集

 
谷川岳天神平スキー場より雪の谷川岳を望む

1920年7月2日、日本山岳会藤島敏男森喬土樽村の剣持政吉が茂倉岳・一ノ倉岳を経由して登頂。

1928年3月22日、大島亮吉と大賀道昺が冬季登頂。

1928年5月28日、大島亮吉と斎藤長寿郎が芝倉沢完登。

1928年7月16日、大島亮吉と大賀道昺、酒井英がマチガ沢完登。

1929年大島亮吉が『登高会』第7年号に寄せた紀行文の中で「近くて良い山なり」と形容したことで広く知られるようになる。

1930年7月17日、小川登喜男が一ノ倉沢(奥壁第三ルンゼ)完登。

1931年7月、小川登喜男が幽ノ沢(左俣第二ルンゼ)完登。同、マチガ沢東南稜初登攀。

1931年9月1日、清水トンネルが開通し、上越線土合駅土樽駅が開業。

1932年7月、成蹊大学虹芝寮が建てられる。

1933年8月、東京登歩渓流会による集中登山。同会が発行した1936年の文献「谷川岳」で岩場の詳細な紹介が為された。

1939年9月26日、慶応義塾大学モルゲンロートコールの平田恭助が北アルプスのガイド浅川勇夫と共に一ノ倉沢滝沢スラブの無雪期初登攀に成功。

同年11月29日、鉄道省信濃川発電所の送電開始。

1941年8月、肩の小屋(初代)完成[8]

1949年9月7日、上信越高原国立公園制定。

1955年9月4日、古川純一が小森康行と幽ノ沢中央壁(左フェイス)完登。

1958年6月21日(アタックは15-22日)、雲表倶楽部パーティの松本龍雄がコップ状岩壁完登。穿孔鑿と埋め込みボルト(ボルトは望月亮の手製による)を用いた人工登攀の本邦初の使用例。同日、東京緑山岳会パーティの山本勉が第2登。

同年、群馬県警察谷川岳警備隊発足[18]

1959年8月18日(アタックは15-18日)、東京雲稜会パーティの南博人と藤芳泰が一ノ倉沢衝立岩初完登。

1960年12月12日、谷川岳ロープウェイと谷川岳天神平スキー場が開業。

1965年12月19-20日、田部井淳子がパートナーの佐宗ルミエ(ペンネーム:早川鮎子)と共に一ノ倉沢中央稜の女性のみのパーティによる冬季初完登に成功。

1967年2月26日(アタックは25-27日)、東京緑山岳会森田勝が岩沢英太郎と共に冬の一ノ倉沢第3スラブ(通称:三スラ)初登頂。

同年、群馬県谷川岳遭難防止条例制定。

1974年3月4日、長谷川恒男が一ノ倉沢滝沢第2スラブを冬季単独初登頂。同日、高橋寛明・遠藤甲太パーティが第2登。

2007年3月25日、みなかみ町山岳資料館開設。

2021年6月19日、谷川岳インフォメーションセンター開設。

ルート(通常登山) 編集

  • 天神尾根ルート - 谷川岳ロープウェイの麓土合口駅から山頂天神平駅(標高1,319m)に上がったところが起点。天神平駅より天神峠ペアリフトに乗り、天神峠展望台(標高1,502m)から向かうルートもある。ロープウェイを利用しない場合や営業時間外の際は、その下の田尻尾根を歩く。
  • 西黒尾根ルート - 途中「ラクダのコル」で巌剛新道と合流する。日本三大急登の一つに数えられ、下山の難易度が高く初心者には不向きであるため、注意を促す看板が建てられている。
  • 巌剛新道ルート - 登山口はロープウェイ・土合口駅よりさらに国道291号を上がった地点、マチガ沢付近にある。
  • 谷川連峰縦走路(平標山 - 仙ノ倉山 - 万太郎山 - 谷川岳) - 主脈縦走とも言われる
  • 馬蹄形縦走路(谷川岳 - 一ノ倉岳 - 茂倉岳 - 七ツ小屋山 - 朝日岳 - 笠ヶ岳 - 白毛門)

ルート(ロッククライミング) 編集

  • 東尾根
  • 一ノ倉沢・一ノ沢左稜
  • 一ノ倉沢・一ノ沢
  • 一ノ倉沢・一、二ノ沢中間稜
  • 一ノ倉沢・二ノ沢
  • 一ノ倉沢・滝沢リッジ
  • 一ノ倉沢・滝沢本谷
  • 一ノ倉沢・滝沢マイナースラブ
  • 一ノ倉沢・滝沢第一スラブ
  • 一ノ倉沢・滝沢第二スラブ
  • 一ノ倉沢・滝沢第三スラブ
  • 一ノ倉沢・滝沢ルンゼ状スラブ
  • 一ノ倉沢・滝沢Aルンゼ
  • 一ノ倉沢・滝沢Bルンゼ
  • 一ノ倉沢・滝沢ドーム
  • 一ノ倉沢・マッターホルン状岩壁
  • 一ノ倉沢・2ルンゼ
  • 一ノ倉沢・中央奥壁
  • 一ノ倉沢・3ルンゼ
  • 一ノ倉沢・4ルンゼ
  • 一ノ倉沢・南稜
  • 一ノ倉沢・烏帽子沢奥壁
  • 一ノ倉沢・中央稜
  • 一ノ倉沢・衝立岩正面壁
  • 一ノ倉沢・コップ状岩壁
  • 一ノ倉尾根
  • 幽ノ沢中央壁
  • 幽ノ沢右俣リンネ
  • 幽ノ沢V字状岩壁
  • 幽ノ沢左俣中央ルンゼ
  • 石楠花尾根
  • 堅炭岩
  • 南面幕岩

周辺の山小屋 編集

  • 肩の小屋
  • 蓬ヒュッテ
  • 熊穴沢避難小屋
  • 一ノ倉岳避難小屋
  • 茂倉岳避難小屋
  • 清水峠避難小屋
  • オジカ避難小屋
  • 大障子避難小屋

ビュー・ポイント 編集

  • 上越線土合駅より北へ進む白毛門は谷川岳の撮影ポイントの一つ。
  • 国道291号線は一ノ倉沢まで続き、舗装が途切れ、清水峠点線国道になる。周辺、マチガ沢 - 一ノ倉沢 - 幽ノ沢 - 芝倉沢は紅葉の名所。峻厳な岩肌と木々とが相俟った渓谷美で知られる。

遭難 編集

 
遭難者慰霊碑

遭難事故の多くは一般登山道から離れた一ノ倉沢周辺で発生しているが、最も登りやすいとされる天神尾根ルートでも急激な気象の変化や、急斜面の続く箇所があり、森林限界以上でもあるなど、本格的な登山となるため、装備を整えてから挑むことが望ましい。

谷川岳の標高は2,000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しく、過去の遭難者の数は群を抜いて多い。概要で述べたように、首都圏からのアクセスの良さやアプローチの短さにより登山人口が多いこと、それに反して岩壁の登攀に求められる技術のグレードが高いことに加えて、上記の気象条件の特異性といった複合的な要因が遭難事件・事故の多さにつながっていると考えられる。ただし、遭難者の多くは一ノ倉沢などの岩壁からの登頂によるもので、一般的なルート(天神尾根)はほとんど危険な箇所もなく遭難者も少ないが、頂上直下の雪田に初夏まで残雪が残るほか、一部でロープを使う箇所があったり、滑りやすい蛇紋岩の足場などもあり、注意を要する。遭難の防止のために群馬県谷川岳遭難防止条例が制定されている。

死者数のギネス記録 編集

前述の通り、上越線が開通した1931年昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録[要出典]によると、2012年平成24年)までに805名の死者が出ている[19]。世界各国の8000メートル峰14座の死者を合計しても637名であり、この飛び抜けた数は日本のみならず「世界の山のワースト記録」としてギネス世界記録に記載されている[20][1]

こうしたところから、「魔の山[20][1]」「人喰い山」「死の山」[要出典]とも呼ばれる。

事例 編集

1935年(昭和10年)9月15日に幕岩を登攀していた東京登歩渓流とぼける会のメンバー3名のうち2名が墜落死、天候悪化の中、4日間かけて遺体を収容した。470メートル近い岩壁の頂上まであと15メートルまで登りながらの墜落死と東京登歩渓流会が亡くなった2名の遺体収容までの費用(当時の金額で802円86銭)を公表したことで、当時の山岳界に衝撃を与えた[21][22]。なお、社会人を中心とした山岳団体であった同会は東京に近い谷川岳での登攀活動が多かったことから遭難事故も多く、1936年4月6日には一の倉沢で1名[23]1940年5月12日には同じ一の倉沢で2名(うち1名は非会員)で死亡し、更に後者では6月15日には遺体搬出中に雪崩に巻き込まれた3名が死亡している[24]一ノ倉沢二重遭難事故)。

1943年(昭和18年)9月8日に一ノ倉沢で2人の登山者が絶壁の岩場で遭難死。しかし遭難場所が分からず行方不明として処理され、遺体はそのまま岩場に放置された。30年後の1973年(昭和48年)5月13日に、偶然この場所にたどり着いた登山者が白骨化した遺体を発見。ポケットに残されていた10銭硬貨や過去の記録から、1943年の遭難者と判明した。5月25日に山岳クラブと地元警察により、30年ぶりに下山して親族の元に帰った。

1960年(昭和35年)には、岩壁での遭難事故で宙吊りになった遺体に救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断、遺体を崖下へ落下させて収容した(谷川岳宙吊り遺体収容[1]

1967年、佐宗ルミエが一ノ倉沢五ルンゼ上部からαルンゼ側に滑落し遭難死。

石碑等 編集

谷川岳一ノ倉沢出合にある岩場には多くの慰霊碑が建立されている[1]

土合口駅近くの谷川岳霊園地には「山の鎮の像」が建立されている[1]

参考画像 編集

貫通する鉄道と道路 編集

谷川岳が舞台に登場する作品 編集

近隣の山 編集

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g 松倉一夫『ネイチャーハイク入門』JTBパブリッシング、146頁。 
  2. ^ a b 深田久弥『日本百名山』新潮社、1964年。 
  3. ^ 『日本の名山4 谷川岳』博品社、1997年9月15日、35頁。 
  4. ^ 新潟県管内地図”. ほんぽーと 新潟市中央図書館. 2024年5月5日閲覧。
  5. ^ a b c 谷川岳登山の留意点 - 群馬県、2017年4月閲覧
  6. ^ 現地の説明板より
  7. ^ 『町誌みなかみ』町誌みなかみ編纂委員会、1964年。 
  8. ^ a b 谷川岳に因む歴史情報”. 谷川岳エコツーリズム推進協議会. 2024年4月27日閲覧。
  9. ^ 船石吉平 (1940). “鐵道省信濃川送電線路建設工事に就いて”. 電氣學會雜誌 60巻622号. https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/60/622/60_622_176/_pdf. 
  10. ^ 羽根田治『山岳遭難の傷痕』山と渓谷社、2020年 P164.
  11. ^ a b 山岳 第十六年 第三号』日本山岳会、1921年https://jac.or.jp/sangakuhensyuu/1921optimisation_no3.pdf 
  12. ^ 7月2日は「谷川岳の日」”. みなかみ山岳ガイド協会. 2023年12月8日閲覧。
  13. ^ 谷川岳”. ヤマケイオンライン. 2024年5月5日閲覧。
  14. ^ 慶應義塾大学山岳部部誌『登高行』(1929年7月発行)より。
  15. ^ 羽根田治『山岳遭難の傷痕』山と渓谷社、2020年 P164-165.
  16. ^ 羽根田治『山岳遭難の傷痕』山と渓谷社、2020年 P165-167.
  17. ^ みなかみ町の自然と暮らし”. みなかみ町. 2023年12月8日閲覧。
  18. ^ 群馬県警察略年表”. 群馬県警察. 2024年5月5日閲覧。
  19. ^ 戦前、戦後に於ける谷川岳の遭難について - 草加山の会、2017年4月閲覧
  20. ^ a b 『クルマで行く山あるき 関東周辺 大人の遠足BOOK』JTBパブリッシング、2013年3月、93頁。ISBN 9784533090448 
  21. ^ 春日俊吉「光栄ある敗北(谷川岳幕岩)」『山の遭難譜』二見書房、1973年、P111-118.
  22. ^ 杉本光作『私の山 谷川岳』中央公論社(中公文庫)、1983年、pp.189-205.
  23. ^ 杉本光作『私の山 谷川岳』中央公論社(中公文庫)、1983年、pp.214-218.
  24. ^ 杉本光作『私の山 谷川岳』中央公論社(中公文庫)、1983年、pp.248-283.

関連項目 編集

外部リンク 編集