三国峠 (群馬県・新潟県)

新潟県湯沢町と群馬県みなかみ町の境を越える峠

三国峠(みくにとうげ)は、日本新潟県南魚沼郡湯沢町群馬県利根郡みなかみ町の境を越える標高1,244m[1]

三国峠
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画面右が三国峠(苗場スキー場より)
所在地 新潟県南魚沼郡湯沢町群馬県利根郡みなかみ町
座標 北緯36度45分58秒 東経138度49分21秒 / 北緯36.76611度 東経138.82250度 / 36.76611; 138.82250座標: 北緯36度45分58秒 東経138度49分21秒 / 北緯36.76611度 東経138.82250度 / 36.76611; 138.82250
山系 三国山脈
通過路 Japanese National Route Sign 0017.svg国道17号三国トンネル
三国街道
三国峠 (群馬県・新潟県)の位置(群馬県内)
三国峠 (群馬県・新潟県)
三国峠(新潟県との境、群馬県地図)
三国峠 (群馬県・新潟県)の位置(新潟県内)
三国峠 (群馬県・新潟県)
三国峠 (群馬県・新潟県) (新潟県)
三国峠 (群馬県・新潟県)の位置(日本内)
三国峠 (群馬県・新潟県)
三国峠 (群馬県・新潟県) (日本)
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概要編集

日本海側太平洋側を隔てる中央分水嶺上(三国山脈)に位置しており、新潟県群馬県の県境(上越国境)であるだけでなく、文化・習俗・言語・風習・食文化から気象に至るまで様々な境界として機能している。

戦国時代の頃は峠を挟んで越後の上杉氏と関東の北条氏が睨み合った歴史を持つ。上杉謙信の関東遠征のための峠越えを特に「越山」と称し、直越(清水峠)、土樽越(蓬峠)と並んで軍事的な要衝として重要視された。

江戸時代には越後江戸を最短距離で結ぶ三国街道の一部として整備され、米や紬、縮(越後上布)といった越後の様々な産物や佐渡へ送られる罪人・無宿人(水替人足)などの輸送経路として、また越後諸藩の参勤交代の大名行列が通るなど賑わったが、冬期の積雪、雪崩、夏場の集中豪雨による土砂災害や山岳地帯特有の気象の急激な変化など難所であった。

明治時代になると信越線が新潟と東京を結ぶ主軸となったことや、清水峠の開削によって一時的に主要幹線から外れるなどしたことで交通量が激減、従来の宿場町は多くの住民が生業の変更を余儀なくされた。

昭和になり、国道17号三国トンネル)の開通により自動車での上越国境通過が可能になると、改めて関東と新潟を結ぶ物流大動脈となる。交通の便が良くなったことで近隣の山野が切り開かれ、大規模なスキー場ができるなど景色が一変した。

その後、関越自動車道の開通により交通量は再び減少した。ただし、燃料や一部の薬品などの危険物を搭載した車輌は関越トンネルの通行が禁止されているため、現在でもこの峠を経由している。

バブル景気スキーブーム)のころには、月夜野ICから苗場スキー場に向けてスキーヤーの車で大渋滞した。現在、三国トンネルの老朽化などに伴って新三国トンネルの建設が2022年春頃開通予定で進められている。

新人時代の田中角栄が選挙民向けに行った演説として、「三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。そうしますと、日本海の季節風は太平洋側に吹き抜けて越後に雪は降らなくなる。出てきた土砂は日本海に運んでいって埋め立てに使えば、佐渡とは陸続きになるのであります」というものがある[2]

地理的には峠の部分を指す呼び名だが、広義には関東平野の端部である月夜野から越後側の平野部の入り口である湯沢までの山間地全体を含んだ呼び名として使われることもある。

上信越高原国立公園、ぐんま県境稜線トレイル、中部北陸自然歩道「上州路三国峠のみち」、上信越自然歩道、三国路自然歩道、スノーカントリートレイルに指定されている。

戊辰戦争の際には、三国峠の戦いが起こった。

名前の由来編集

三国とは古来より越後国信濃国上野国の境と信じられていたことによる(実際の境は更に西の白砂山)。付近にある三国山や新潟側の麓の三国村は三国峠に近いためそう呼ばれるようになった。下の群馬県側・新潟県側の両方から登山道(一部は旧三国街道と同じ道筋)がある。

峠上にある三国権現(三坂神社・御坂神社・三阪神社・三社明神などとも呼ばれる)は、弥彦赤城諏訪の三明神を合祀したもの[3]

縁起によれば、延暦年間に坂上田村麻呂上野国の白根の賊を討つために万座に陣を設けた時、上記の三社を祀って祈願したのが発祥で、万座から四万に移り、後に現在の位置に移動してきた。「御坂」は律令国家時代の国府に至る道筋に見られる名前で、碓井貞光新田義貞の時代には四万から浅貝に抜ける道、いわゆる木の根宿通り(三坂峠)が主に使われていたが、歴史の項で述べるように上杉氏の時代以降は現在の峠道がメインルートとして使われるようになった。

なお「権現」という仏教風の名前は上杉謙信によって改められたとされる。

三国街道史跡編集

群馬県みなかみ町猿ヶ京温泉、吹路集落と旧・永井宿から峠を越えて三国トンネル新潟県湯沢町側までかつての三国街道の山道がほぼそのままの形で残されている(三国路自然歩道)。

  • 猿ヶ京関所跡 - 猿ヶ京関所資料館
  • 下馬のまがめ
  • 民宿通り - おがんしょ巡り
  • 申沢橋
  • 猿沢の下り - 若山牧水『みなかみ紀行』に登場する
  • 町野久吉の墓 - 旧トラックステーション近く
  • 永井宿本陣跡 - 永井宿郷土館
  • 自然歩道永井登り口(国道・旧道分岐地点)
  • 三国古戦場
  • 吉田善吉の墓
  • 大般若塚 - 昔この辺りに出没した妖怪を三国峠で命を落とした人々の霊の怪異と考え、それを鎮めるために建立された
  • 三坂茶屋跡
  • 晶子清水 - 与謝野晶子に由来
  • 長岡藩士の墓
  • 駒返し
  • くぐつが谷
  • 三国峠(三国権現) - 上越国境 - 谷川連峰縦走路
  • 権現様の清水
  • 自然歩道湯沢登り口(三国トンネル入り口)
アクセス

県境(三国トンネル)を通過する定期路線は2021年現在では存在しない。

歴史編集

  • 中世以前 三国権現の縁起に坂上田村麻呂が、法師温泉の開湯伝説に弘法大師(空海)の名が残る
  • 1486年文明18年)
    • 道興准后が三国峠を越える(『廻国雑記』)[4]
    • 尭恵法印が三国峠を越える(『北国紀行』・三国峠の文献における初出)
  • 1488年長享2年) - 万里集九が三国峠を越える(『梅花無尽蔵』)
  • 戦国時代 関東管領となった上杉謙信が、関東への足がかりとして整備。上杉氏の会津移封の後、堀直寄によって改良が進められる。
  • 江戸時代 佐渡島への主要道路として、江戸幕府が整備
  • 元文5年2月5日 - 越後長岡藩の藩士7名と人足4名が罪人の移送中、雪災にあい遭難。
  • 慶応4年閏4月24日 - 三国峠を防衛拠点とし、大般若塚に陣地を構えた幕府勢力(会津藩兵)と関東方面から攻めてきた東山道督府の新政府軍との間で戦闘が起きる(戊辰戦争三国峠の戦い
  • 1868年慶応4年)5月17日 - 口留番所が廃止される
  • 1869年明治2年)1月20日 - 関所が廃止される
  • 1876年(明治9年) - 東京から開港地新潟に至る道として一級国道認定
  • 1885年(明治18年) - 国道としての地位をこの年に開削された清水峠に譲り、県道となる。
  • 1893年(明治26年) - 信越本線が直江津まで開通。更に北越鉄道と接続するなど新潟〜東京間の主要な交通手段が鉄道に移ったことで三国峠の交通量は激減する。
  • 1920年大正9年)4月1日 - 並行する国道があるからという理由で、三国峠は県道からも降格。
  • 1921年(大正10年)4月1日 - 清水峠が実質的に通行不能であるため、三国峠が「沼田六日町線」として再び県道に指定。
  • 1934年昭和9年) - 国道9号認定。大陸(新潟港)への輸送路(日満ルート)として整備の検討が行われる。
  • 1937年(昭和12年) - 前橋市〜長岡市間の道路改良事業開始。空中測量と実地調査が行われる。
  • 1940年(昭和15年) - 三国国道改良計画起案。新治村吹路を起点とし、永井から法師に出て赤谷川支流西川の北側、唐沢山山腹、上越国境稜線鞍部にトンネル掘削、浅貝に至るもの(総延長16.2km)でほぼ現在の国道17号と同じ道筋。新治村湯宿に国道改良事務所が移転し、起工式が行われ、工事が始まるものの、第二次世界大戦の激化により2年で中断。
  • 1952年(昭和27年) - 国道9号が国道17号に指定。沼田市に三国国道工事事務所が設置され、道路建設が再開。設計時には日本ではじめてクロソイド曲線が用いられた。また後にクロソイド曲線記念碑が三国トンネル群馬県側坑口に近い三国除雪ステーションの隣(クロソイド記念広場)に作られた。この時には実際に採用された現在のルートの他に、法師の手前からムタコ沢沿いに沿って稲包山近傍をトンネルで抜ける別案も存在した。
  • 1955年(昭和30年)10月22日 - 三国トンネル導坑貫通
  • 1957年(昭和32年)12月 - 三国トンネル完成
  • 1959年(昭和34年)6月15日 - 新治村の新巻小学校で三国国道開通式が行われる。これにより峠部分の工事(三国国道改築工事・総延長13.1km)が完成し、自動車での交通が可能になる。総事業費12億7944万円。その後も引き続き1965年(昭和40年)頃までに二居トンネル、芝原トンネルなどの工事が進められる(二居道路三俣道路)。
    • 峠の新潟側は、群馬側と地形的に比較して好条件であり、良好な道路線形が取れること、また、新潟側としては関東地方に通ずる唯一の重視すべき道であったから、全通後もかなりのペースで道路改良(舗装工事や雪崩対策工事等)が進んだ。
  • 1984年10月 群馬県利根郡みなかみ町永井76-1(当時・新治村)に三国峠トラックステーション竣工[5]
  • 1985年 関越自動車道開通
  • 1990年前後 スキーブームの到来による混雑
  • 2012年9月 三国峠トラックステーションが諸般の事情により廃止[5]
  • 2022年春頃 新三国トンネルが開通予定

三国峠を題材・舞台とする作品について編集

戦国時代、特に上杉謙信後北条氏上杉景勝御館の乱)等を描いた作品では多く登場する。

また堀部安兵衛を題材にした一部の作品で、仇討ちの場面の舞台として扱われることがある(小説『堀部安兵衛』、時代劇スペシャル『喧嘩安兵衛 決闘高田ノ馬場』など)。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズでは大滝の五郎蔵親分の初登場エピソードで言及されている(文庫版4巻・ドラマ第1シーズン21話「敵」)。越後と上州の境にある三国峠の谷底の「坊主の湯」が盗金の隠し場所の一つという設定。

佐伯泰英の『居眠り磐音』17巻「紅椿ノ谷」ではクライマックスの決闘シーンに登場する。

司馬遼太郎の小説『』の序盤で河井継之助が冬の越後から江戸に出るために雪の三国峠越えをする描写があるが、これは司馬の創作で史実ではない。なお、実際に河井が越えた碓氷峠も峠越えが困難である点で共通している。

三波春夫の歌曲『あゝ三国峠』では「三国峠は歴史の峠」と歌われている。

円山京子の『苗場音頭』で近傍の苗場スキー場などと共に歌の題材になっている。

尭恵は『北国紀行』に「諏訪の海に 幣(ぬさ)と散らさば三国山 よその紅葉も神や惜しまむ」と記した。

与謝野晶子1931年昭和6年)9月に法師温泉から駕籠に乗って三国峠を訪れ、「わがあるは 三国の峠 たちわたる 霧の下こそ 越路なりけり」と詠った。三国街道の途中にある水場が晶子清水と名付けられた。

その他編集

小林一茶の信州(あちゃ)と越後(そんま)の言葉の違いを詠んだ川柳「此処あちゃとそんまの国ざかひ」に上州(へい)を加えて「ここはへぇはちゃとそんまの国ざかい」とする言葉あそびがある。方言としては群馬県(べぇ)と新潟県(すけ)の境として「すけべえの泣き別れ」などとも言われる。

脚注編集

  1. ^ 地形図などにおける水準点の高さ。鞍部の標高は1,304m
  2. ^ 水木楊「田中角栄 - その巨善と巨悪」、文藝春秋、2001年
  3. ^ 藤倉朋良『図解にいいがた歴史散歩<南魚沼>』p16 新潟日報事業社出版部
  4. ^ 三国峠を直接記してはいないが、くつぬぎの里(湯沢町熊野堂に比定)、ふくろうの里(みなかみ町吹路に比定)が記述されている
  5. ^ a b 三国峠トラックステーションの閉鎖について”. 貨物自動車運送事業振興センター (2012年8月). 2017年9月30日閲覧。

参考文献編集

  • 太政官,『復古記』第11冊645p-661p(復古外期 東山道戦記 第15),1929年
  • 国土交通省関東地方整備局高崎河川国道事務所, 『高崎工事事務所70年史』,2004年

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