佐山聡
佐山 聡(さやま さとる、1957年11月27日 - )は、日本の男性プロレスラー・格闘家。総合格闘技の元祖とされる競技・シューティング(現:修斗)の創始者。2012年現在、本人の設立である武道団体・掣圏真陰流興義館総監を務め、武道家、思想家としても活動している。血液型B型。山口県下関市長府出身[1]。初代タイガーマスクでもある[2]。
佐山 聡 | |
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プロフィール | |
リングネーム |
佐山 聡 タイガーマスク(初代) スーパータイガー(初代) ザ・タイガー(初代) タイガーキング ザ・マスク・オブ・タイガー サミー・リー サトル・サヤマ 佐山 サトル |
本名 | 佐山 聡 |
ニックネーム |
四次元殺法 伝説の虎 10年先を行く男 天才 |
身長 | 172cm |
体重 | 90kg(全盛時)- 115kg |
誕生日 | 1957年11月27日(64歳) |
出身地 | 山口県下関市 |
所属 |
新日本プロレス →UWF →U.F.O. →リアルジャパンプロレス |
スポーツ歴 |
レスリング キックボクシング 柔道 |
トレーナー |
アントニオ猪木 カール・ゴッチ 山本小鉄 藤原喜明 黒崎健時 ディアブロ・ベラスコ |
デビュー |
1976年5月28日 対魁勝司戦 |
YouTube | |
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チャンネル | |
活動期間 | 2020年12月23日 - |
登録者数 | 2930人 |
総再生回数 | 130,568 回 |
チャンネル登録者数、総再生回数は2021年3月31日時点。 |
来歴編集
新日本プロレス若手時代編集
豊浦小学校時代に沢村忠の影響で格闘技を志し、乃木道場(山口県下関市長府)で柔道を始める。その後レスリングにも手を広げる。山口県立水産高等学校に入学するが、1年で中退。広島電通大付属高校3年生時に三重国体に75KG級の広島代表で出場。3回戦で福岡県代表の三井選手(後に福岡大学主将)に判定負け。三井選手は準々決勝で兵庫県代表の矢野伸一郎選手(関西学院高等部。後に関西学院大学主将)に敗れた。1975年7月に新日本プロレスに入門。入門の前に一度新日本を訪れているが、その時は新間寿から、身長が170cmを超えて体重が70kgになったら連絡するように促され、実際に身長が172cm、体重が72kgになってから再訪、そこで後楽園ホールで行われた試合に連れて行ってもらった。新間が新日本の弟子を独断で採用したのは佐山の時が初めてであり、アントニオ猪木からは最初「あんなちっこいの」呼ばわりされたが、その練習熱心さから次第に猪木も佐山を認めるようになった[3]。1976年5月28日に魁勝司戦でデビュー。デビューしてからしばらくは連敗を重ねていたが、試合内容は良かったと言われている[3]。入門2年目からは猪木の付き人になった[3]。
1977年11月14日に行われた梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、全米プロ空手ミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下で対戦した。目白ジムで打撃トレーニングを積んで試合に挑んだ佐山だったが、リーチの差と寝技無しのルールに苦戦し、1Rこそ果敢にバックドロップや反り投げなどの投げ技を繰り出す[4]が(ただし反則)、コステロにアマレスの経験があり受け身がとれた事と、ボクシンググローブ着用のためロックが甘く技が決まらず、2R以降はパンチ・キック・膝蹴りと一方的に攻めまくられ、毎ラウンド「ダウンしては立ち上がる」の繰り返しとなった。プロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの、6R終了まで良いところなく屈辱的な判定負けを喫した。
リング下ではアントニオ猪木、ストロング小林、ウィレム・ルスカらが観戦し、セコンドでは山本小鉄が鼓舞激励するというプロレスの威信をかけた試合だった。なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた(そんなところからこの試合に抜擢された)[4]。
1978年にはEMLLを主催するサルバドール・ルテロの救援要請を受けたロスのプロモーター、マイク・ラベールから新日本プロレスに要請が届き、抜擢を受けキャリア2年でメキシコ・EMLLに派遣され、「サトル・サヤマ」のリングネームで活動。慣れない環境や食生活で、体重が20kg近く減るなどの苦労をしつつも、同団体ではNWA世界ミドル級王座を獲得し、一時期所属したUWAではグラン浜田とのタッグでも活躍した。フロリダのカール・ゴッチ道場を経由して1980年にはイギリスへ渡りブルース・リーの従弟こと「サミー・リー」のリングネームで東洋武術を彷彿とさせるスタイルのプロレスラーとして大活躍、立場は完全なベビーフェイスで決め技は日本とは違い風車式のバックブリーカーを多用した。後にイギリスへ渡った前田日明は、「サミー・リー」の弟というギミックで「クイックキック・リー」のリングネームで活躍したことからも明らかであるように、この「サミー・リー」の当地における人気は日本における「タイガーマスク」の人気に匹敵するものであった。
なお、漫画『プロレススーパースター列伝』にて描かれていた、メキシコ遠征時に名乗ったとされる、覆面レスラー「ティグレ・エン・マスカラド」や、目の回りに隈取りを施したペイントレスラー「ミスター・カンフー」はフィクションであり、実際はこれらのリングネームは使われておらず、一貫して素顔で試合を行っている。
タイガーマスク誕生前夜編集
新日本プロレスから「タイガーマスクの映画を撮るので、帰国して欲しい」という連絡を受ける。当時のイギリスでの佐山はサミー・リーとして大変な人気で[5]、マーク・ロコ(後のライバル、初代ブラック・タイガー)とのタイトルマッチを目前に控えていたこともあり帰国を断るが、「1試合だけでいいから、アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得され帰国[6]。
後の新間寿の証言によると、佐山は新間の説得を受けて帰国に踏み切ったがイギリスの税金の未払いがあったため、新間は元総理大臣であった福田赳夫に掛け合ってロンドンの日本大使館とイギリス政府と外交交渉の末帰国させたという[4]。
こうして、タイガーマスクとしてリングに上がるが、渡されたマスクやコスチュームの出来の悪さに泣きそうになったと、後に回想している(これはデビュー戦の相手を務めたダイナマイト・キッドも同様のコメントを残している)。新間によると、マスクの発注を忘れてしまい、直前にスタッフが既製品を改造して短時間で作り上げたものであるという[7][8]。
タイガーマスク編集
海外修行から帰国後、梶原一騎原作の漫画『タイガーマスク』から現実のヒーローとして、新日本プロレスに彗星のごとく登場した。また、この時期テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、メディアミックス展開も行っている。初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、1981年4月23日、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦[9]。タイガーとキッドにとって、両者は互いに良きライバルと言え、今なお語られる数多くの激戦を繰り広げた。
デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった[5]。佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。
新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。そのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」「四次元殺法」と形容された。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していた。
1981年5月18日にはメキシコのアレナ・プエブラにて、ビル・ロビンソン&エル・ソリタリオとトリオを組み、カネック、ビジャノ3号、スコルピオと6人タッグマッチで対戦した[10]。ロビンソンはタイガーマスクについて「ベリーグッドだ。レスリングのできる者でなければ不可能なムーブができていた」などとコメントしている[10]。同年12月8日の蔵前国技館大会では、カネックとのシングルマッチも行われた[11]。
1982年1月1日、王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りWWFジュニアヘビー級王座を獲得[12]。5月25日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取[13]、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。この時期の代表的な好敵手としては、デビュー戦の相手でもあったキッドをはじめ、後にWWF世界ヘビー級王者となるブレット・ハート、英国でも抗争を繰り広げたブラック・タイガー、ビリー・ライレー・ジム出身のスティーブ・ライト、ローラン・ボックからも技巧派として高く評価されたピート・ロバーツ[14]、そして「虎ハンター」として名を馳せた小林邦昭などが挙げられる。また、アントニオ猪木や藤波辰巳と組んでの6人タッグマッチにも出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ワフー・マクダニエル、スーパースター・ビリー・グラハム、バッドニュース・アレン、ダスティ・ローデス、マスクド・スーパースター、ドン・ムラコ、グレッグ・バレンタイン、ボブ・オートン・ジュニアなどヘビー級の外国人選手とも対戦した[15]。
ジュニアヘビー級王者としてアメリカのWWFにも遠征し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいてキッドやカルロス・ホセ・エストラーダ、フィラデルフィアのスペクトラムにおいてエディ・ギルバートを相手に防衛戦を行ったこともある[16]。1982年11月から12月にかけてのWWFサーキットでは、12月4日にマサチューセッツ州スプリングフィールドにて、当時のWWFヘビー級王座のトップコンテンダーだったプレイボーイ・バディ・ローズを破り[17]、12月7日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、当時WWFを主戦場としていたミスター・サイトーことマサ斎藤からも勝利を収めている[16]。サーキット中は、斎藤のパートナーだったミスター・フジや若手時代のカート・ヘニングとも対戦した[16][17]。
人気絶頂の最中、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年5月に漫画『タイガーマスク』の原作者である梶原一騎が講談社編集者への暴行容疑で逮捕され、社会的影響度から改名問題が浮上する。8月4日、デビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦の試合前に改名を予告し、ファンに新リングネームを当てさせるクイズ企画も用意された。しかし、8月10日に新日本プロレスに対して契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言した。契約解除の通告書では、タイガー人気で得られた収益が猪木の個人事業「アントン・ハイセル」へ流用されていることを糾弾した(8月末に社内クーデター騒動が勃発し、猪木が社長を一時辞任)。佐山個人は結婚式を海外で極秘に挙げるようフロントから強要されたことに憤りを感じており[18]、タイガーブームの仕掛け人である新間寿と佐山の個人マネージャーだったショウジ・コンチャが対立していたという事情もあった[19]。
9月21日付の東京スポーツに素顔の写真が掲載され、タイガーマスクの正体が佐山であることが公開される[20]。テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はキッドをフェンスアウトさせての反則負けであり、シングルとタッグを含めて一度もフォール負けがない(メキシコではWWFジュニアヘビー級王座の防衛戦で、1982年12月12日にペロ・アグアヨから、1983年6月12日にフィッシュマンから、それぞれ1フォールを奪われたことがあるが、スコアの上では勝利を収めた[21])。
マスク剥ぎ編集
初代タイガーマスク時代、1982年10月26日の大阪府立体育館での対戦を初めとし、小林邦昭に何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。それまでの覆面レスラーにもマスク剥ぎがなかったわけではないが、基本的には覆面レスラーのマスクには手を掛けないのが暗黙の了解で、小林のように毎試合マスクに手をかける行為はそれまでなかったものであった。
それ以後、歴代タイガーマスクや、女子プロレスにおける派生キャラクター、タイガードリーム、タイガーエンジェル等の試合でも、マスク剥ぎが「お約束」として必ず入っている。後に佐山は小林と対談した際に、マスク剥ぎのことに触れて「先輩(小林)がのし上がるためならと、僕は我慢していたんですよ」と語っているが(両者は実際には仲が良かった)、実際それ以降の小林は『虎ハンター』として完全にブレイクする。
ザ・タイガー編集
人気絶頂期での引退発表を行った頃、自身のジム「タイガージム」を設立。ザ・タイガーとして、ほぼ同時期に新日本プロレスを退団した山崎一夫をインストラクター兼スパーリングパートナーに迎え、新格闘技と称して新しいスポーツを模索する中、1984年7月23日、24日にUWFの「無限大記念日」興行に約1年振りの現役復帰。高田伸彦と組んで、前田日明、藤原喜明とのタッグマッチを行った。
ザ・タイガーのマスクデザインは額の赤いマークが廃され、新格闘技ではアップライトスタイルからのキックが重要になってくるため、スポーツとして蹴られた相手を必要以上に傷つけない様、脛当て(レガース)が佐山により考案された。この時期にも、バラエティ番組では自らマスクを脱ぎにらめっこ勝負を行なったりしていた。
スーパータイガー編集
UWF正式入団時にスーパータイガーと改名(タイガージムが商標登録しているザ・タイガーの名称が使用できないため)。紫×銀のマスク+コスチュームに一新。藤原との試合でがぶられて(上からホールドされること。レスリングでよく使われる言葉)スタミナを失い、アームロックから逃れられずに腕を脱臼したことから、スーパー・タイガー名義のままで素顔にて試合をするようになる。自身のジムは一旦閉鎖し、「スーパータイガージム」として後に再スタートする。
リング上では前田、藤原、高田、木戸修、山崎らとの日本人対決を軸に壮絶な試合を行ない、「UWFはプロレスではなくシューティング」自分達を「シューター」と称した。公式ルールの制定にも着手するが、スポーツライクな、競技としてのシューティングを確立しようとする佐山と他の選手との間には徐々に溝ができていた。そして1985年9月2日。大阪府立臨海スポーツセンターで行われた試合で、特に不信を抱えていた前田からセメントを仕掛けられる。張り手や膝蹴りを多用し、グラウンドの佐山にローキックをする等、前田の尋常ならざるファイト、精神状態を懸念した佐山が、腹部に入った右膝を金的アピールしてレフェリーに試合を止めさせた(結果は18分57秒スーパー・タイガーの反則勝ち)。これがきっかけとなって、佐山は10月11日にUWF脱退を表明。看板選手を失った団体は活動休止に追い込まれ、佐山以外の選手は新日本プロレスと業務提携することになる。
前田との関係はまだ完全ではないもの、2006年に真樹日佐夫の仲介で行われた『週刊文春』での前田との対談で一定の修復はなされ、その後は電話で話すなど仲直りしている[22] [23]。
修斗設立編集
1985年12月、佐山はシーザー武志と共にシュートボクシングの大会に出席し、翌年からのアマチュア格闘技大会開催を予告。スーパータイガージムでの指導をベースとした競技としての格闘技「シューティング(現・修斗)」の普及活動に励み、協会設立やプロ化を実現。
オープンフィンガーグローブを考案したのも佐山である。 1996年には修斗の運営から身を引いた。
UWF離脱直後にはプロレス界の実情を暴露した『ケーフェイ』を出版し、プロレス活動から距離を置いた(ジャパン女子プロレスの興行で挨拶をしたことは何度かある)。その後は総合格闘技界とプロレス界では異なる立場を取りながらも、双方に関わる活動となる。
現役復帰編集
1994年5月1日、当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場、4年ぶりの試合となる獣神サンダー・ライガーとのエキシビションマッチに参加した。試合中、佐山は挑発的な笑顔を浮かべていた。これは試合がエキシビションのため「適当にやろう」と思ったかららしい。翌年、初代タイガーマスクに名を戻して本格的にプロレスに復帰し、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、東京プロレス、SAプロレス等に参戦した。1997年にはタイガーキングに改名し、新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦する。
1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加する。小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。余談だが、この時佐山は松葉杖をついてセコンドに就いているが、これは1週間前にアレクサンダー大塚戦で負傷したからである。その後、4月に猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱した。
その年の5月に掣圏真陰流設立、再びプロレスから離れる。もう復帰は無いと思われたが、2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名でまたも復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。
2008年3月13日にはリアルジャパンマットで、天龍源一郎との初対決がタッグマッチで実現。チョップと蹴りも打ち合う名勝負となる。
リアルジャパンプロレスでは他にも、鈴木みのる、飯伏幸太、高山善廣、大仁田厚とも対戦が実現。
また昭和プロレス興行にて藤原喜明が胃がん手術後の復帰戦の対戦相手になる。
藤原の復帰戦とは思えないほどの、壮絶な蹴りを見舞う試合になった。
12月には、これまで試合での接点が全くなかった(1988年4月2日、両国国技館で行われた「格闘技の祭典」で、当時シューティングのエキシビションを行った佐山を激励する形で一緒のリングに上がったことはあったが)二代目タイガーこと三沢光晴との初対決がやはりタッグマッチで行われた。
2010年10月20日、藤波辰爾、長州力と共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した[24]。
2015年3月20日の後楽園ホール大会での曙戦後に心臓の痛みを訴えていたが、しばらく安静に努めていたものの改善しなかったため、5月22日に手術を行った。精密検査の際、医者から「いつ突然死してもおかしくない状態」と言われたほど深刻な状況だったが、4時間に及んだカテーテル手術は無事に成功[25]。最終的には原因不明の「狭心症」と診断された[26]が、先天的に血管が細く、小学校低学年の時に心臓を患って入院した経験があったという[25]。
2016年6月23日のリアルジャパンプロレス後楽園ホール大会にてミノワマンを相手に、新たに佐山自身が立ち上げた武道「須麻比(すまひ)」のデモンストレーションマッチとして復帰戦を行うが、瞬間の瞬発力は感じさせたものの、完調とは言える動きではなかったため、完全な形での復帰は明言しなかった。
2020年2月19日、新間寿はリアルジャパンプロレス会長として東京都内の会見で「パーキンソン病に近い状態」と佐山が歩行困難であることなどを説明した[27]。
7月11日より東京・神田明神資料館にて功績と思想、プロレスと神社の歴史を振り返る『初代タイガーマスクの武道精神と日本文化展』を開催[28]。
初代タイガーマスク基金の設立編集
「健全な子供たちが育つよりよき社会作り」を目指して2011年11月に設立され、理事長に就任。孤児やめぐまれない子供たちへの支援活動をはじめ、社会教育事業の推進や慈善イベントの開催などを行っている。2014年11月には一般財団法人化。
獲得王座編集
- NWA世界ミドル級王座…第41代(防衛10回)
- WWFジュニアヘビー級王座…第6代(防衛6回)、第8代(防衛16回)、第9代(防衛1回)
- NWA世界ジュニアヘビー級王座…第34代(防衛4回)、第35代(防衛2回)
- TWA認定世界タッグ王座…第3代(パートナーは安生洋二)
- 1981年度プロレス大賞 大衆賞
- 1982年度プロレス大賞 最優秀選手賞
- 1982年度プロレス大賞 技能賞
- 1984年度プロレス大賞 技能賞
得意技編集
格闘技的な蹴り技をプロレスに持ち込んだパイオニアであり、さらに見栄えを良くするため、プロレス流にアレンジもなされた。また、ルチャをベースに当時としては画期的な空中殺法に加え、ルチャ的なジャベ、現在では格闘技色の強い関節技、さらに投げ技、丸め込み技まで難なくこなし、ラフにも強い正に万能型の選手で、他団体を含む後のジュニア選手のファイトスタイルに大きな影響を与えた。
- 各種キック
- ローキック、ミドルキック、ハイキックの格闘技的な三種。
- 当時、プロレスのキックといえばトーキック、もしくは胸板へのフロントキックが主流で、連発で行うものは珍しかった。
- 今ではキックボクシング風のキックを使う選手は多いが、佐山は若手時代から多用(闘いは打撃から始まるという考え方)しており、キックボクシング風のキックをプロレスに取り入れた先駆者でもある。
- ドロップキック
- 両足踏み切り型で旋回式。
- 通常の選手は右回転か左回転のどちらか一方だが、佐山は左右どちらにも旋回できた。
- ローリング・ソバット
- 格闘技の蹴り技をプロレス流にアレンジした(プロレスでは)この技の元祖。
- 飛んで旋回する後ろ蹴りをプロレスでは同名の表現をするきっかけとなった(転じて、旋回しても飛ばないものはソバットと表現する)。
- サマーソルトキック
- サルト・モルタルをアレンジしたこの技の元祖。メキシコ修行(サトル・サヤマ)時代に開発し、使用。
- セカンドロープに片足を乗せるスタイルで、俗にタイガーマスク式と表現される。
- スクリュー・ハイキック
- 別名:回転延髄斬り。一回転して跳び上がりつつ放つハイキック。
- この技から水面蹴りで足を払うコンビネーションも時折、見せていた。
- バック宙キック
- 別名:回転地獄蹴り。後方転回しながら膝ないし、膝下を叩きつける蹴り技。
- ザ・マスク・オブ・タイガー時代にMOABとして復活させている。
- フライング・クロス・チョップ
- ミル・マスカラスが得意とした飛び上ってクロスさせた両腕を胸板に打ち込むチョップ。
- ただし、マスカラスは相手と距離が離れてる状態で飛ぶが、タイガーマスクは相手に当たる寸前に飛ぶ違いがある。
- 全盛期にはインパクトの瞬間に90度から180度回転する勢いを見せていた。
- ムーンサルト・ダブル・ニー・ドロップ
- 仰向けでダウンしている相手の頭側で背を向けて後方宙返りを行い、打ち込むニードロップ。
- 愛弟子である4代目タイガーマスクへ受け継がれた。
- ジャーマン・スープレックス(ホールド)
- 和名:原爆固め。デビュー戦のフィニッシュ技。反り投げるのではなく、持ち上げて後方に突き刺すようなフォームから高角度で決めた。
- タイガー・スープレックス(ホールド)
- 和名:猛虎原爆固め。代表的なフィニッシュ・ホールドの一つ。
- 自身の手をクラッチせずに相手の背中に添えるスタイルで、俗に佐山式と表現される。
- タイガー・ドライバー
- 別名:タイガー・ネックチャンスリー(ドロップ)。2代目タイガーマスク(三沢光晴)の同名技とは別技。
- 片足を振り子のように蹴り上げ、反動を利用してハーフハッチの要領でマットに相手の脳天を突き刺す。山崎一夫に受け継がれた。
- ツームストーン・パイルドライバー
- 和名:墓石式脳天杭打ち。ダイナマイト・キッドとの抗争で会得。主に飛び技への繋ぎ技として用いられた。
- ライバル関係にあったブラック・タイガーのものとは、胴をクラッチし反転させて仕掛ける違いがある。
- ケブラドーラ・コンヒーロ
- 和名:風車式背骨折り(風車式バックブリーカー)。国内でのパイオニアの一人。
- 獣神サンダー・ライガーを始め、多くのジュニア選手に受け継がれた。
- ダブルアーム・スープレックス
- 持ち上げて自身の身体を捻りつつ、相手に浴びせ倒すように叩きつける変形も使用。
- PS用ソフト闘魂烈伝3では、上記、変形のフォームを再現したダブルアーム・プランチャが収録されている。
- ブロック・バスター
- ボディスラムのクラッチで横抱き状態のまま反り投げ、ブリッジをきかせてフォールに固める。
- スティーブ・ライトに勝利を上げたさい、唯一フィニッシュとして用いている。
- タイガー・スピン
- ヘッドロックの体勢からクラッチを解き、360°回転を二回行った上で行うレッグスピン。
- そのままテコの応用で片脚を極めるレッグロックに派生する一連の流れ全体を指して同名で表現もされる。
- スピニング・レッグロック
- 両膝をつきつつ、高速で行う単発型のスピニング・トーホールド。
- 3代目タイガーマスク(金本浩二)に受け継がれた。
- チキンウィングフェイスロック
- たびたび、フィニッシュとしても用いられ、UWF時代にも使用された。
- 尻餅状態の相手へ仕掛けるタイプのものを使用。
- ラウンディング・ボディ・プレス
- 和名:月面水爆。別名:旋回式ボディプレス。代表的なフィニッシュ・ホールドの一つでこの技の元祖。
- 名称については様々な説、憶測が飛んでいるため詳しくは個別記事を参照。
- ムーンライト・コースター
- 上記、ラウンディング・ボディ・プレスと混同されるが、縦回転式であり別技。
- この縦回転式は武藤敬司が元祖を主張し、ムーンサルトプレスの名称が定着したが、実際にリングで初めに披露したのはジョージ高野である。
- タイガー・トルネード・プレス
- ハヤブサのフェニックス・スプラッシュに似た、振り返りざまの前方回転プレス。
- ひねりを加えながら斜めに回転する点がやや違う。実戦では未公開。
- スペース・フライング・タイガー・ドロップ
- 和名:宇宙飛行虎爆弾。ロンダートからノータッチでプランチャ・スイシーダを仕掛ける。
- 時折、リング内でも同技を見せていたが、フライング・ボディ・アタックの名称で実況された。
- この技が生まれるきっかけとなったのはジャッキー・チェンの映画[29]『ドラゴンロード』を見て思いついたため[30]。
- プランチャ・スイシーダ
- 全盛期には、走り込んでノータッチで見舞う跳躍力を見せた。
- 時折、場外の鉄柵を超える勢いを見せて、あわや反則負け(当時の新日本プロレスのルール)になりかけたことがある。
- フィンタ・デ・レギレテ
- 別名:タイガー・フェイントキック。飛ぶと見せかけてトップ・セカンドロープの間を回転してくぐり抜けるフェイント。
- ここからプランチャ・スイシーダに派生するか、回転時に場外の相手を蹴り飛ばすこともあった。
- タイガー・ステップ
- ルチャリブレのステップをベースとした、両腕を回しながらステップを刻みリングを旋回する佐山独特の構え。タイガーマスクになる以前、サミー・リー時代から使用している。
修斗編集
第1次UWF離脱後、シューティング(現:修斗)の創始者として日本の総合格闘技界をスタートさせた。当時、関節技などのサブミッションホールドはプロレスにおける裏技的なものであり、プロでも「技は教えてもらうものではなく盗むもの」という風潮があり、やられることによって逃げ方を覚え、後輩にかけて覚えるという感じで、技術体系が確立されていなかった。しかし、佐山はそのプロの技を一つ一つ言葉で説明して体で実践して生徒(素人)に教えた。これが現在の総合格闘技の源となっている。しかし、1996年にフロントとのトラブルのため離脱した。離脱の詳細は不明だが、①スポンサーである龍車グループが佐山の金銭感覚を疑ったこと、②バーリ・トゥード・ジャパン96で朝日昇やエンセン井上らが敗北し佐山の指導力が問われたこと、③佐山がプロレスのリングに上がったこと、が挙げられている[31]。
掣圏真陰流編集
掣圏真陰流とは、佐山が従来から提唱してきた、市街地型実戦格闘技という名目で1999年5月に創設された武道。旧名・掣圏道。2010年10月29日、新たな武道である『武道 掣圏』の旗揚げ興行が後楽園ホールで行われた。これはボクシングや総合格闘技などの格闘スポーツではなく、あくまで武道であるという定義を佐山はしている。試合は三本勝負となっており、試合時には袴とオープンフィンガーグローブを着用する。ロープのない八角形のリングで行われる。ルールはKO・一本による決着のほか、対戦相手の場外への押し出しと制圧(3秒以上の抑え込み)にポイントが与えられ、これを2ポイント先取することでも勝利となる[32]。入場時には日本刀を携えることが全選手の義務となっている。また、礼儀を重んじると言う佐山の思想から、ガッツポーズや相手を見下す行為は即失格とし、金髪や刺青を入れた選手は出場が認められない。「義」を構築し、礼儀作法を備えた人間を育て上げ、ひいては日本を復活させると言う目標を持つ佐山の世界観がふんだんに現れたものとなっている[33]。
佐山は、『武道 掣圏』について、「蓋を開けてみれば全てが分かった時に“ああ、これか”という態勢になるのは目に見えています。それは日本の国体を崩す不良の輩やマナーとはかけ離れたものを子供たちに見せてしまう輩を輩出する大会ではありません。(中略)これで日本が救われます」と語っており、この武道の究極的な目標は、堕落し、国体が崩れている(と佐山が考えている)現在の日本を救うこととしている[34]。
須麻比編集
須麻比(すまひ)とは、佐山が掣圏真陰流とは別に新たに創設した武道で、相撲の源流とされる野見宿禰と当麻蹴速の闘いが日本最古の武道かつ、あらゆる武道の原点であり、その武道こそが須麻比であり、それを現在に復活させたとしている。2016年6月23日のリアルジャパンプロレス後楽園ホール大会にてデモンストレーションマッチを行い、その後「須麻比」の復活を通して、日本精神文化の原点回帰を目的とする団体「日本須麻比協会」を設立。「日本須麻比協会」では、技を磨いて披露する「式部省」、真剣試合を行う「兵部省」、日本の文化・アイデンティティを学ぶ「学部省」の三部門から成り立つとしている。
思想活動編集
歴史や政治思想に精通し、「武士道追求」として独自に右翼活動を展開している。以前から「天覧試合をやりたい」(当時の「天覧試合をやりたい」という発言は、修斗を、プロ野球や大相撲のように天皇に見に来てもらえるような立派なプロ競技にしたいという純粋な気持ちであって、近年の右翼的な発言とは画する。)「試合前は靖国神社におられる英霊に敬礼」「今の日本人に切腹する精神はない。こんな国では戦争には勝てない」等々の言動を繰り返し、戦前の日本軍を悪く言われると烈火のごとく怒ることは有名。佐山が20年前から使用していた八角形のリング(オクタゴン)は、天皇の玉座をイメージしたものであるという。ナチスについても「警察力を強化して泥棒を減らしたり、良いこともたくさんした」等と評価しているため、部分的に肯定しているとも言われるが、佐山本人はこのことを否定している。
掣圏道設立後から佐山の思想活動が本格化し、2001年の第19回参議院議員通常選挙に比例代表区から自由連合公認で出馬。33,762票を獲得したが、落選した。その選挙演説の際「暴走族を撃ち殺せ!!」と発言し、市民の度肝を抜いた。この参院選ではかねてから親交の深かった杉山穎男(元『格闘技通信』編集長・『武道通信』編集長)も出馬するが、1,596票の得票に止まり落選している。
こうした右翼的言動から、親しい人間は畏敬の念をこめて、「極右・佐山皇帝」と呼ぶ。本人は「俺を街宣車で騒いでいるような連中と一緒にするな」と言って、右翼と呼ばれることを嫌がっているが、任侠系右翼団体である日本青年社との交流を公言している。
子供の教育における体罰の必要性を主張するシンポジウム(主催は加瀬英明)に、石原慎太郎や櫻井よしこ、高橋史朗、田久保忠衛などと共に参加したことがある[35]。
人物編集
- タイガーマスク時代は華麗な空中戦を披露し、格闘技でもその高い身体能力を生かした闘いは他を寄せ付けなかった。
- 「交感神経を刺激すると、人間は達観できる」という持論を持つ。催眠術を自由に操り、ダイエットも自由自在であると称しているが、自らのダイエットには幾度となく失敗している。ただこれは、俗流の「精神分析」なため、専門家から全く科学的根拠がなくイカサマだと酷評されている。
- かなりの甘党である。「羊羹をポッキーのように食べる」、「キックボクシングのスパーリング中、コーナーに小銭を置いておき、ラウンドが終わる度に自動販売機に向かう」、「山篭りで10kg減量したが、下山してしばらくすると元に戻ってしまった」、「小川直也と喫茶店に行き、甘いものばかり注文して1万円近く払った」等、甘い物に関するエピソードは多数存在する。このため、新日本から退いた後に体重が急増し、今日でもジュニアヘビー級の体重に戻らないままである。丸藤正道戦での記者会見で「95まで絞る」と言っていたが、結局絞りきれなかった。しかし、小林邦昭戦では相手から減量の注文があったようで、116kgあった体重を100kg前後まで減量させることに成功している。2012年8月28日に行った記者会見で、佐山は「今107kgだが97kgに減量する」と宣言した。しかし、佐山が会場で赤福餅を頬張っていたことが報道陣に目撃されており、そのことについて言及された佐山は「試合前には炭水化物が必要。試合への責任を持って食べる使命があった。4個しか食べていません。赤福餅はおいしい」と弁解した。丸藤からは「それを2個にしていけば、おのずと減量できる」とつっこみを入れられた[36]。
- 普段は物腰柔らかで非常に言葉遣いが優しく、笑顔を絶やさない人柄であるが、キレると鬼の如く豹変する。礼儀の知らない若者は勿論のこと、自分より体格が大きい黒人が相手であってもその姿勢を決して崩さない。その様な場合でも、佐山は天才的な喧嘩の腕でほとんど負けたことがなかったという[要出典]。
- 新日本時代、道場に時折現れる道場破りの相手をするのは主に佐山の担当であったが、そのことごとくを退けた。同様のリアルファイトでは「前田も強かったが、笑顔で人間の腕をへし折れるのは猪木以外では佐山だけだった」と山本小鉄は語っている。
- シューティング創設期、91年の夏合宿の様子がテレビ番組で放送されたことがある。プロレスを芝居と称して(後述)真剣勝負を謳っていた同団体のイメージに違わず、佐山が弟子を「本気で蹴っていない」という理由で竹刀で滅多打ちにし、流血する弟子が出るなど、峻厳な練習風景が撮られている[37]。途中、カメラマンが「こんなところを撮るな!!」と極めて強い口調で恫喝されており、真剣味のある映像となっていた。しかしその一方で、強く打たなくても大きな音が出るよう中結を外した竹刀を使う(これは折れやすかったため、後に木刀になった)、恫喝されたカメラの映像が派手な効果音と共に途切れる、随所に佐山の音声解説が入る、等々、若干ヤラセ色も感じられるものとなっている。これについて、後に佐山は「テレビ演出のためいつもより厳しく叱咤し折檻した」と語っている[要出典]。
- 格闘技界に幅広い人脈を持ち、特にキックボクシングの藤原敏男は新日本時代からの親友。藤原主宰興行藤原祭りではタッグマッチも行っている。
- 第1次UWF退団時、ターザン山本と共に著書『ケーフェイ』を出版、プロレスの試合において必殺技として使用されているウエスタン・ラリアット、延髄斬りといった技は、対戦相手の協力なくしては半永久的に成立しないことを暴露した。また、月刊誌『月刊フルコンタクトKARATE』やミニコミ誌『格闘技探検隊』のインタビューに答える形で、前田日明らが創設した第2次UWFについても既存のプロレスの範疇を越えるものではなく、本物の格闘技でありスポーツでもあるシューティングとは根本的に異なるものと明言した。これらが原因となり、一時期プロレス界とは絶縁状態にあった。また、修斗の主宰者時代、その試合場で新日本プロレスでの獣神サンダー・ライガー戦(実質的なプロレスマット復帰戦)を指し「新日本で試合を、いや、芝居をしてきました」と発言し、プロレスファンを怒らせたことがある(エキシビションマッチだったのだから、その通りという解釈もあり得る)。安生洋二とタッグを組んで奪取した、東京プロレスの「3億円ベルト」の行方に関しても、「知らぬフリ」を決め込むという金銭疑惑も浮上している。
- UWF特有のシューティングという格闘技スタイルが猪木の門下レスラーでカール・ゴッチに感化された佐山、藤原、前田の三名によって創始されたことは否定しようのない事実であるが、佐山がその技術的な中軸であった。
- 「大根役者だから」と本人はあまり語りたがらないが、何本か映画に出演している。真樹日佐夫原作の『六本木ソルジャー』では主演を務め、『真説・タイガーマスク』では船木誠勝と共演した。また、『ラストサムライ』のオーディションに合格していたが、「拘束時間が長いから」という理由で辞退している。
- 新日退団後、全日本からオファーを受けたが(馬場が提示した金額は1億とも2億とも言われている。この時代プロ野球でさえ1億円プレーヤーはまだ出ていなかった)、たとえ新日を辞めたとはいえ、猪木に恩を仇で返すことはできないという理由で、オファーを断った[要出典]。
- 2006年の週刊文春で行われた前田日明との対談によると、既婚者で息子がいるとのこと。
- 現役時代の身体能力に関しては、背筋力は296kg、100m走は11秒5、太ももの負荷測定は370Nm、反応力は0.3秒を記録した[38]。
- 全盛期は体重も軽くパワーもそれほど高くないタイプであったが、1975年12月の新日本の忘年会で腕相撲を行うと並み居る選手達に対して圧倒的な強さを見せつけた。ミスター高橋は、瞬発力や運動神経に優れ、腕相撲の「コツ」を掴んでいたことが佐山の腕相撲で強さを発揮した要因なのだろうと考察しており、さらに「最強かもしれない」と腕相撲の実力を評価した[39]。
- 朝日昇は「佐山さんが朝日昇という名前を付けたのに普段は『あさのぼり君』と呼ぶ。滅茶苦茶で酷い。真面目に生きた人は耐えられない。久々に会ったら『あさのぼり君、時代は催眠術だよ』と言われて、次元が違う。天才」と語っていた[40]
- 朝日昇、川口健二は「スーパータイガージムには生徒が沢山いたため佐山さんは会員の名前が覚えられず、風貌のイメージで仇名で呼んでいた。何とか苗字を覚えられても下の名前が覚えられない。佐山は大会開催時に伊藤という選手の下の名前が分からないため本人に知らせずに『伊藤四郎』にしてしまい、パンフレット載せてしまった。伊藤は試合場の控室でパンフレットを見てショックを受けたが他選手は大爆笑した」と明かしている[41]。
佐山の弟子編集
- プロレスラー
- スーパーライダー - 初代シューティングウェルター級チャンピオン。
- 北原光騎 - シューティング出身、スーパータイガージムのインストラクターも務めた。
- タイガーマスク(4代目) - シューティング出身、現新日本プロレス所属。
- 間下隼人 - 歴代の弟子の中でもかなりの強烈な趣味を持つ。リアルジャパンプロレスや武道 掣圏などに出場している。
- 斉藤彰文 - 間下同様にリアルジャパンプロレス、武道 掣圏に出場している。
その他にリアルジャパンプロレスで活動している、スーパータイガー(2代目)、タイガーシャークなど。
- 格闘家
- 渡部優一 - 懐刀の存在。修斗ウェルター級初代王者。
- 朝日昇 - 修斗時代の弟子。
- 中井祐樹 - ブラジリアン柔術パラエストラの最高指導者。修斗時代の佐山の指導を受けていた。
- 中村頼永 - 日本国内の截拳道の最高指導者。修斗時代の佐山の指導を受け、北原と共にインストラクターも務めた。USA修斗代表。
- 田中健一 - 修斗ライト級初代王者。スーパータイガージム田中塾塾長。格闘結社田中塾時代の弟子に、高谷裕之らがいる。
- 山田学、坂本一弘、川口健次、本間聡、エンセン井上他多数。
直系の弟子はその他にも多数。
入場テーマ曲編集
- 「バーニング・タイガー」(ブレイン・ウォッシュ・バンド) - タイガーマスクのデビュー戦で使用。ただし生演奏。
- 「タイガーマスク二世」(水木一郎、コロムビアゆりかご会)- 1981年夏頃までと1982年前半に使用。
- 「おまえは虎になれ」(村松とおる)- 1981年9月の田園コロシアム大会から年末まで使用。現在は弟子の4代目タイガーマスクが使用。
- 「燃えろ! 吠えろ! タイガーマスク」(古舘伊知郎)- 1982年後半から1983年の引退まで使用。
- 「バーニングタイガー」(佐山聡) - 本人歌唱(入場曲の予定も、実際は本人が恥ずかしがって使用されず)。
- 「アイ・オブ・ザ・タイガー」(サバイバー) - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時に使用。
- 「虎覇王(ヴィクトリーロード)」(ネバーランド) - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時のイメージ曲であり、入場時には使われていない。
- 「行け!タイガーマスク」(新田洋) - アニメ「タイガーマスク」のオープニング曲であり、現在の入場テーマ曲。
ディスコグラフィー編集
- ザ・タイガーマスク(1983年、ディスコメイトレコード、DSK-4004)
- 1993年8月21日にCDで再発(株式会社TEN、TEN-1001)
- ハングリーアングリータイガー/どぶねずみ(2005年4月27日、東芝EMI、TOCX-2415)
- 映画『真説・タイガーマスク』主題歌
著書編集
単著編集
- 『スーパー・タイガーシューティング―格闘技最強への道』(1984年11月、山手書房)
- 『佐山聡のシューティング入門』(1986年8月、講談社)ISBN 978-4062027113
- 『佐山聡のシューティング上級編―パンクラチオンへの道』(1989年12月、講談社)ISBN 978-4062032391
- 『ケーフェイ』(1995年7月、ナユタ出版会)ISBN 978-4795220720
- 『これがサンボだ!』(1998年3月、ベースボールマガジン社、監修:ビクトル古賀)ISBN 978-4583025643
- 『ザ・格闘家―最強を目指した戦士たちの素顔』(1999年8月、光文社)ISBN 978-4334972325
- 『佐山聡の掣圏道』(2000年12月1日、ぴいぷる社)ISBN 978-4893741448
- 『ブレイヴ・オン・ハート 真の勇者とは―キレたら負ける』(2001年2月、ビジネス社)ISBN 978-4828409092
- 『護身―最強のリアルテクニック』(2002年1月、日本文芸社)ISBN 978-4537201024
- 『佐山原理 新生武道真陰』(2010年10月、東邦出版)ISBN 978-4809408502
- 『「リアル不動心」メンタルトレーニング』(2014年12月23日、講談社)ISBN 978-4062728799
共著編集
- 新間寿、ミスター高橋、ターザン山本ほか『新日本プロレス10大事件の真相』(2015年4月17日、宝島社)ISBN 978-4800239884
関連書籍編集
- STライターズ『佐山サトル―プロレス・シューティング・バーリ・トゥード』(1996年10月、エスエル出版会)ISBN 978-4846301590
- 布施鋼治、若林太郎『佐山聡のバーリ・トゥード必勝法―“何でもあり”の闘い方』(1997年6月、学習研究社)ISBN 978-4054004023
- 『初代タイガーマスク Ultimate Guide』(2015年2月25日、ダイアプレス)ISBN 978-4862149893
- 『KAMINOGE vol.44 不死身の虎!佐山サトル』(2015年7月18日、東邦出版、編集:KAMINOGE編集部)ISBN 978-4809413339
- 『KAMINOGE vol.52』(2016年3月22日、東邦出版、編集:KAMINOGE編集部)ISBN 978-4809413933
- 『KAMINOGE vol.64』(2017年3月21日、東邦出版、編集:KAMINOGE編集部)ISBN 978-4809414800
- 『初代タイガーマスク(G SPIRITS ARCHIVES vol.1)』(2018年2月21日、辰巳出版)ISBN 978-4777820306
- 田崎健太『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』[42](2018年7月26日、集英社インターナショナル)ISBN 978-4797673562
脚注編集
- ^ [1]レジェンド・ザ・プロレスリング公式サイト
- ^ “知っていれば楽しさ倍増!日本のプロレスの歴史を簡単チェック”. 【SPAIA】スパイア (2016年12月16日). 2020年11月15日閲覧。
- ^ a b c 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p62
- ^ a b c 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p63
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.40』P16(2016年、辰巳出版、ISBN 4777817075)
- ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.64 p100-101
- ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.64 p104
- ^ NHKドキュメンタリー「アナザーストーリーズ 運命の分岐点『タイガーマスク伝説~覆面に秘めた葛藤~』」. 2016年10月5日(水)放送。
- ^ 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p68
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.26』P77(2012年、辰巳出版、ISBN 4777811166)
- ^ “NJPW 2nd Madison Square Garden Tag League - Tag 19”. Cagematch.net. 2017年11月23日閲覧。
- ^ “WWFジュニアヘビー級選手権”. Wrestling-Titles.com. 2011年10月2日閲覧。
- ^ “NWA世界ジュニアヘビー級選手権”. Wrestling-Titles.com. 2011年10月2日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.23』P72(2012年、辰巳出版、ISBN 4777810054)
- ^ “The NJPW matches fought by First Tiger Mask in 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年9月11日閲覧。
- ^ a b c “The WWE matches fought by First Tiger Mask in 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年9月11日閲覧。
- ^ a b “WWE Yearly Results 1982”. The History of WWE. 2013年1月5日閲覧。
- ^ 塩沢幸登『U.W.F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、河出書房出版、2008年、50-51・69頁
- ^ 塩沢幸登『U.W.F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、64頁
- ^ 塩沢幸登『U.W.F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、80頁
- ^ 『Gスピリッツ Vol.15』P49(2010年、辰巳出版、ISBN 477780772X)
- ^ カクトウログ(2006年4月16日))
- ^ カクトウログ(2012年4月20日))
- ^ “藤波と長州13年5カ月ぶり一騎打ち”. デイリースポーツ. (2010年10月21日) 2011年1月20日閲覧。
- ^ a b 手術の初代タイガー “遺言”伝えてた デイリースポーツ 2015年6月5日
- ^ 初代タイガーは「狭心症」で復帰は未定 スポーツナビ 2015年5月28日
- ^ 初代タイガー佐山、病気は「パーキンソン病に近い」 日刊スポーツ 2020年2月19日17時55分(2020年3月2日閲覧)
- ^ “文化事業 初代タイガーマスクの武道精神と日本文化展”. www.kandamyoujin.or.jp. 神田明神. 2020年8月2日閲覧。
- ^ ケロ日記・スパルタンX
- ^ 闘魂Vスペシャル vol.36の「金本浩二VS高岩竜一」戦の田中ケロの解説より。
- ^ 柳澤健『1984年のUWF』、文芸春秋、2017年、pp.395-396
- ^ “初代タイガー創始「武道 掣圏」がベールを脱ぐ、新武道が誕生”. スポーツナビ. (2010年10月29日) 2011年1月20日閲覧。
- ^ “【掣圏真陰流】10・29佐山サトルが新武道を設立、後楽園ホールで旗揚げ大会”. 格闘技ウェブマガジンGBR. (2010年5月7日) 2010年5月8日閲覧。
- ^ “【掣圏真陰流】10・29佐山サトルの弟子、間下隼人と齋藤彰文の出場が決定”. 格闘技ウェブマガジンGBR. (2010年10月8日) 2010年10月10日閲覧。
- ^ “「教育における体罰を考える」シンポジウム”. 維新政党・新風公式サイト 2010年5月13日閲覧。
- ^ 初代タイガー減量宣言も「赤福うまい」 (デイリースポーツ 2012年8月29日) http://www.daily.co.jp/ring/2012/08/29/0005337419.shtml 2012年9月5日閲覧。
- ^ 格闘技界の伝説!佐山聡先生の「地獄の合宿」を当時の参加者・小楠健志さんと振り返る! マッハチャンネル 2019年1月19日公開
- ^ 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p64
- ^ ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.116-117
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=0YAPbyyqy80&t=202s
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=Rpb9hMPf2T0
- ^ “総合格闘技を創った男・佐山サトルの「真説」――果たされなかったアントニオ猪木との約束とは? - スポーツ - ニュース” (日本語). 週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]. (2018年8月16日) 2018年9月10日閲覧。
関連項目編集
- タイガーマスク
- ケーフェイ
- プロレスの星 アステカイザー - 若手時代に数回モブ役で出演
- 1984年のUWF