太宰府天満宮

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社。旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上[1]、年間にすると850万人以上[2]の参詣者がある。現在、京都北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。

太宰府天満宮
20100719 Dazaifu Tenmangu Shrine 3328.jpg
本殿(重要文化財)
所在地 福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
位置 北緯33度31分17.49秒
東経130度32分5.45秒
座標: 北緯33度31分17.49秒 東経130度32分5.45秒
主祭神 菅原道真公
社格 旧官幣中社
創建 延喜19年(919年)
本殿の様式 五間社流造檜皮葺
札所等 菅公聖蹟二十五拝
例祭 9月25日
主な神事 鷽替え・鬼すべ(1月7日)
地図
太宰府天満宮の位置(福岡県内)
太宰府天満宮
太宰府天満宮
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境内(2010年)
楼門
奥部の参道
表参道の突き当たりにある『御神牛』
太宰府天満宮の象徴『梅紋

地理院地図 Googleマップ 太宰府天満宮

目次

祭神編集

  • 菅原道真

学問の神として広く知られている。

歴史編集

右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国大宰府員外帥として左遷され、翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した。死後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)がを建立、天原山庿院安楽寺と号した。一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である[3]。それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳の若さで死去。狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去してしまった。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った[4]寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになった[5]

文明12年(1480年)に当地を訪れた連歌師宗祇が『筑紫道記』にこの安楽寺天満宮のことを記しているが、道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになった。

明治に入り、近代社格制度のもとで明治4年(1871年)に国幣小社に列格するとともに神社名を太宰府神社に変更した。これは北野天満宮が近代社格制度のもと「北野神社」に変更したのと同様に、「宮」号が基本的には皇族を祭神とする神社しか使用できなくなったからである。同14年(1881年)には官幣小社に昇格、次いで同28年(1895年)には官幣中社に昇格した。神社の国家管理を脱した戦後の昭和22年(1947年)に社号を太宰府天満宮に復した。

祭神の菅原道真が「学問の神様」であると同時に「文化の神様」としても信仰されていたため、それぞれの時代の人々による和歌連歌歌舞伎書画の奉納を通じて、文芸・芸能・芸術、いわゆるアートと関係が深まっていった[6]。特に奉納絵馬は九州でも指折りの質量となっており、それを掲げた絵馬堂はギャラリーとしての役割を果たしている。

参道を登りつめた先には延寿王院があり、ここは幕末維新の策源地といわれ、三条実美たち公卿5人が3年半余り滞在した所である。土佐脱藩の土方久元中岡慎太郎も滞在しており、薩摩西郷隆盛長州伊藤博文、肥前の江藤新平坂本龍馬なども来訪している。

太宰府天満宮・北野天満宮防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを大阪天満宮等とする説も存在する。

神事編集

社殿編集

本殿は五間社流造で屋根檜皮葺。正面に1間の唐破風造の向拝(こうはい)を設ける。また、左右側面には各1間でこれも唐破風造の車寄を付け、廻廊が前方の楼門まで廻らされている。本殿は明治40年(1907年)5月27日に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定され、昭和25年(1950年)文化財保護法施行に伴い重要文化財とされている。昭和41年(1966年)6月11日付で棟札9枚と板札2枚が重要文化財の附(つけたり)として指定されている。

太宰府天満宮を舞台にした作品編集

要整理

能楽編集

では一番目に演じられる初番目物(しょばんめもの)。粗筋は梅津の某(ワキ)が夢の告げで筑紫安楽寺(太宰府天満宮)に行くと、老人(前シテ)と若い男(ツレ)が咲き誇るの垣を囲っている。飛梅(後述)とその脇の古(老松)の謂われを尋ねると、2人はその謂われを語り、梅と松が唐の国でも尊ばれたことを述べて神々しい姿で去る。梅津の某が老松のかたわらに祗候していると、老松の神霊(後ジテ)が現れ、客人を慰めようと様々な舞楽を奏し神託を告げる。この後ジテは老人の面に白髪をたれた老神の姿で登場し、その舞いは荘厳な真ノ序ノ舞である。因みにツレの若い男は実は飛梅の精で、飛梅とは道真が京から左遷された時、京から飛んできたとされる梅である。徳川将軍家では「高砂」とともに筆頭祝言曲とされた。

歌曲編集

  • 大和田建樹鉄道唱歌』第2集山陽九州篇
    • 41.まだ一日とおもいたる 旅路は早も二日市 下りて見てこん名にききし 宰府の宮の飛梅を
    • 42.千年(ちとせ)のむかし太宰府を おかれしあとは此処(このところ) 宮に祭れる菅公の 事績かたらんいざ来たれ
    • 43.醍醐の御代の其(その)はじめ 惜しくも人にそねまれて 身になき罪をおわせられ ついに左遷と定まりぬ
    • 44.天に泣けども天言わず 地に叫べども地もきかず 涙を呑みて辺土なる ここに月日をおくりけり
    • 45.身は沈めども忘れぬは 海より深き君の恩 かたみの御衣を朝毎(あさごと)に ささげてしぼる袂かな
    • 46.あわれ当時の御心を おもいまつればいかならん お前の池に鯉を呼ぶ おとめよ子等(こら)よ旅人よ
    • 47.一時栄し都府楼の あとをたずねて分け入れば 草葉をわたる春風に なびく菫(すみれ)の三つ五つ
    • 48.鐘の音きくと菅公の 詩に作られて観音寺 仏も知るや千代までも つきぬ恨みの世がたりは
鉄道唱歌第2集は全68番であるが、そのうち太宰府には8分の1弱に当たる8番を割り当てており、作者の建樹が道真と天満宮に強い関心を持っていたことを窺わせる。
さだは、自身の所有する詩島に太宰府天満宮の分霊を祀った「詩島天満宮」を建立している。

文化財編集

 
境内末社、志賀社(しがしゃ)
 
大楠(おおくす)

国宝編集

重要文化財編集

  • 本殿 桃山時代(附:棟札9枚、板札2枚)
  • 末社志賀社本殿 室町時代
  • 太刀 銘俊次 
  • 毛抜形太刀〈無銘/〉 
  • 梅月蒔絵文台
  • 太宰府天満宮文書 78巻、25冊、1幅 附:太宰府天満宮境内図1幅[7]
  • 蓮華唐花文塼

福岡県指定有形文化財編集

  • 石造鳥居 鎌倉時代
  • 石造燈籠 江戸時代
  • 鶴亀文懸鏡 桃山時代
  • 麒麟および鷽(うそ)像 江戸時代
  • 銅製神牛 江戸時代
  • 蒙古碇石 鎌倉時代

天然記念物編集

  • 大楠(おおくす) 樹高 33m、樹齢 300年以上
  • ヒロハチシャノキ


名物編集

本殿前の飛梅
表参道のみならず、境内の裏手にも点在する茶屋。

飛梅にまつわるものが多い。

大宰府へ赴くため都を発つ道真が庭先に立っている梅に対して「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と歌った。太宰府天満宮拝殿・右手前にその飛梅が立っている。

毎年梅の花が咲く頃には巫女が「梅の使節」として総理大臣官邸など各地を訪れて梅の盆栽を寄贈する。平成16年度(2004年度)の梅の使節が当時の総理大臣小泉純一郎に梅を寄贈したが、その際渡した品種が『おもいのまま』という梅だったため、当時構造改革などで政界を変革しようとする首相に、記者たちが挙って「政治もやはりおもいのままですか?」と質問した。

 
梅ヶ枝餅と抹茶

太宰府天満宮での御神酒梅酒である[8]。 また参道には梅ヶ枝餅と呼ばれる餡入りの焼き餅を販売している店が並んでおり、製作している風景も楽しめる。


茶屋編集

 
太宰府駅から続く表参道。土産や名物の梅ヶ枝餅の店が軒を連ねる。

表参道から境内の奥まで、いたるところに茶屋があり、その多くは品目のうちに梅ヶ枝餅を用意している。そうした茶屋のひとつ「お石茶屋」について、吉井勇は次のような歌を詠んだ。

太宰府の お石の茶屋に 餅くへば 旅の愁ひも いつか忘れむ

この「お石茶屋」については勇のほかにも、野口雨情犬養毅佐藤栄作などが揃って贔屓にしたという[9]

百選編集

 
御本殿の近くでかけられる厄晴れひょうたん

雑事編集

参道の石鳥居
太鼓橋
絵馬

警察庁発表の初詣者数では、毎年上位10位内に入り[10]、初詣以外にも観梅の時季には観光客(参拝者)数が増加する。また学問の神とされることから受験時にも多くの参拝があり、九州への修学旅行の行程に組み込まれるほか、海外からの観光ツアーにも組み込まれてもいる。近年では韓国釜山博多港とを行き来する高速船「ビートル」や「コビー」の利用で、韓国からの旅行者が増加し続けている[11]

平成17年(2005年)に天満宮近隣に九州国立博物館が開館。相乗効果で参拝者数が増加している。この九州国立博物館(通称「九博」)は、昭和46年(1971年)に天満宮が寄贈した約5万の土地を敷地としている。

大相撲九州場所が行われる際には、元横綱・旭富士の伊勢ヶ濱部屋が境内に宿舎を構える。また傘下法人に幼稚園を運営する学校法人があり、卒園生でもある宮司の西高辻信良が園長を務め、伊勢ヶ濱部屋力士と園児の交流にも積極的に取り組む。

平成27年(2015年)には5人組の女性歌手である、ももいろクローバーZが本殿前に特設ステージを設けて歌唱奉納を行った[12]

交通編集

  • 正月三が日は初詣客で周辺道路は大変混雑する。九州自動車道太宰府インターチェンジを降りて太宰府方面へ向かうと国道3号に出るが、交通規制により、すぐ側道を経由後左折して「水城1丁目交差点」から福岡県道112号を進み、同「関屋交差点」を左折後は福岡県道76号を利用し天満宮に向かうこととなる。この際所要時間は通常15分前後が数時間となる。ちなみに、国道3号を直進しても「君畑交差点」までの各交差点においては、インターチェンジ方面からの左折及び進入が規制されている。また、三が日以外の日においても志望校合格祈願の受験生と合格者のお礼参りが集中する例年1月から3月にかけての土日祝日を中心に混雑する。元々天満宮周辺の駐車場が不足気味であること、九州国立博物館への来訪者が同館の開館後に加わったこともあり、渋滞が顕著となり今後解消に向かって解決策が講じられる見込みもないため、自家用車の利用は推奨できない。これらの時期においては、西鉄電車西鉄太宰府線を利用した方が無難である。

JR・私鉄編集

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周辺施設編集

境内編集

脚注編集

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  1. ^ 季節お役立ち情報局 太宰府天満宮の初詣2017。三が日の混雑は?屋台出店時間。
  2. ^ とれたてフジ 正しくお参り!バッチリ開運!やしろツアーズ3
  3. ^ 安楽寺については菅公薨去の後に開創された寺とも、それ以前からあった寺とも説かれ、また「庿」(广に苗の字・環境によっては表示されない)の字は、「廟」字が朝廷の「朝」の字を含むものであったために置き換えられた字であるという。
  4. ^ 岡田『神社』。
  5. ^ 太宰府天満宮、鬼すべ神事
  6. ^ 太宰府天満宮とアートの歴史”. 太宰府天満宮. 2015年11月3日閲覧。
  7. ^ 当初指定時(1982年)の員数は「75巻、25冊、1幅、26通」であったが、1986年に員数が変更され「78巻、25冊、1幅」となっている。(昭和57年6月5日文部省告示第98号および昭和61年6月6日文部省告示第90号
  8. ^ ニッカウヰスキー(旧協和発酵アサヒ協和酒類製造)門司工場製。梅の実は境内で収穫し御祓いを受けたものを使い、これを焼酎のラインで梅酒として製造する。
  9. ^ 西高辻信貞『太宰府天満宮』、学生社、昭和45年ISBN 4-06-201196-4。
  10. ^ 平成19年(2007)の正月三が日参拝者数は201万人であった。
  11. ^ このため、参道に並ぶ多くの店ではハングル文字を記した商品メニューを用意しており、韓国人を主対象とした免税店も参道に開店している。
  12. ^ 「水城・大野城築造 竈門神社創建1350年 九州国立博物館 開館10周年 日本遺産認定記念 ももクロ男祭り2015 in 太宰府」の様子”. 音楽ナタリー. 2015年11月3日閲覧。

参考文献編集

関連図書編集

  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、36-37頁
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、214-215頁
  • 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、262-263頁

関連項目編集

外部リンク編集