鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年1月3日 - 1973年11月1日)は、日本官僚政治家著述家衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣[5]

鶴見 祐輔
つるみ ゆうすけ
生年月日 (1885-01-03) 1885年1月3日
出生地 日本の旗 日本 神奈川県[1]
没年月日 (1973-11-01) 1973年11月1日(88歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都練馬区関町[2]
出身校 東京帝国大学法科大学政治学科[3](現東京大学法学部
所属政党 (明政会→)
立憲民政党→)
翼賛政治会→)
大日本政治会→)
日本進歩党→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 従三位
勲一等瑞宝章
配偶者 愛子(後藤新平の娘)
親族 加藤シヅエ(姪)[4]

内閣 第1次鳩山一郎内閣[5]
在任期間 1954年12月10日 - 1955年3月19日

選挙区 (岡山1区→)
岩手2区
当選回数 4
在任期間 1928年 - 1930年
1936年 - 1946年1月

選挙区 全国区
当選回数 1
在任期間 1953年 - 1959年
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来歴編集

生い立ち編集

1885年1月3日、群馬県多野郡新町で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲[6] と、母・琴子[7] の2男(10人きょうだいの4番目)として生まれる[8]。一家は1895年9月に東京・赤坂、1896年1月に父の郷里・岡山へ転居[9]。鶴見は1895年に新町立尋常小学校を卒業、新町立高等小学校に入学し、赤坂区立赤坂尋常高等小学校を経て、1898年に岡山市立岡山高等小学校を卒業した[10]

同年、旧制岡山県立岡山中学に入学[10]。中学時代にヘンリー・モートン・スタンリーの『アフリカ探検記』を読んで「日本を抜け出して、世界に出て行かなければだめだ」と決心し、英語の勉強に熱中[11]。1899年夏に一家が名古屋へ転居した後は級友池田長康宅に寄寓して岡山中学に通学、池田とは生涯の親友となった[12]

1900年4月に名古屋で母が病死[13]。中学時代の鶴見は野球に注力していて成績は芳しくなく、母が死に際して「お前はもっと学問のできる子であると思ったのに」と言ったことから、鶴見は母の墓前に首席卒業を誓ったとされる[14]。またこの頃、父の事業が行き詰まり、家計が次第に逼迫していったことから、きょうだいを養い家計を支えるために学課の試験勉強に励んだともいわれている[15]

1903年3月、岡山中学を首席で卒業し、同年夏に一家が転居していた小田原市へ移る[16]。同年9月、旧制一高法科甲類(英法)へ次席で入学し、南寮10番に入寮[17]。一高時代には英語教師だった夏目漱石の薫陶を受け、弁論部に所属して全寮茶話会で演説するなどし、撃剣部に所属して稽古掛を務めた[18]

1906年6月、一高英法科を首席で卒業し[19][20]、同年7月、東京帝国大学法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)に入学[19]。同年10月に父が小田原で死去し[21]、鶴見は長姉・敏子の嫁ぎ先だった廣田理太郎の支援を受け、東京麹町区にあった廣田の家に寄寓して学業を続けた[22]

東大在学中に、自身の一高卒業後に一高の校長に就任した新渡戸稲造に心酔し、師事[23]。新渡戸は内政については民主主義の提唱者だったが、植民政策の実務に携わったことから帝国主義的対外発展に同情的で、鶴見も帝国主義の方へひかれていったとされる[24]。学友の前田多門石川鉄雄藤井武田島道治青木得三笠間杲雄金井清矢野真岩永裕吉らと読書会を組織し、卒業まで毎月会合を開く[25]

鉄道官僚編集

1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を次席で卒業[26][27]。同年11月、高等文官試験に合格し[26]、新渡戸の紹介で内閣拓殖局に就職[28]。翌1911年8月に新渡戸と親交のある後藤新平が初代総裁を務めていた鉄道院へ転じる[29]。翌1912年11月に新渡戸の紹介により後藤の娘、愛子と結婚[30]

語学に長けていた鶴見は、1911年9月に新渡戸の秘書として初めて渡米[31]、その後も国際会議への出席や後藤・新渡戸らに随行しての海外視察などでたびたび外国へ出張し、その経験をもとに旅行記や随筆を出版した[32]

1916年12月から、麻布宮村町の自宅に帝大や一高の学生生徒を招き、月に1回、 河合栄治郎をはじめ官財界の様々な人物を講師とする「火曜会」(別名「ウィルソン倶楽部」)を開催、のちの新自由主義協会設立に発展した[33]

鉄道省運輸局総務課長[34] 等を経て、1924年2月に鉄道監察官を以って退官[35]

講演旅行編集

退官直後の1924年4月、犬養革新倶楽部青年層の支持を受けて衆議院議員選挙に岡山県第7区(真庭郡久米郡)から立候補するも、落選[36]

同年7月、親交のあったチャールズ・A・ビーアド英語版博士と前駐日大使モリス英語版の勧めを受けて排日移民法施行後の米国へ渡り、ウィリアムズタウン国政政治学協会をはじめ、200-300箇所の大学・諸団体で日本事情の英語講演を行う[37]。1925年12月に帰国するまでの1年余、日本事情を紹介するとともに、排日移民法を非難して歩いた[38][39]

米国滞在中の1925年7月にはホノルルで開かれた第1回太平洋会議に出席した[40]。以後、1936年に米国ヨセミテ国立公園アワニー・ホテルで開かれた第6回会議まで、戦前に行われた太平洋会議に鶴見は毎回出席している[41]

1926年、米国からの帰国後、後藤新平が前年から展開していた政治倫理化運動に参加し、帰国報告を兼ねて日本各地で遊説[42]。1927年5-6月には満洲、朝鮮、中国で講演旅行を行い[43]、同年7月ホノルルで開催された第2回太平洋会議に出席し日本代表として声明を発表[44]

退官後、鶴見は著述により生計を立てるようになり、1927年に軽井沢に建てた山荘で執筆活動に励んだ[45]。1927年には講談社からの依頼を受けて雑誌『婦人倶楽部』に小説『母』を連載した[46][47]

政界入り編集

1927年11月、再び米国への講演旅行に出発したが、1928年1月の解散総選挙を受けて旅行を中止して急遽帰国し、同年2月の第16回衆議院議員総選挙に岡山第1区から立候補して当選[48][49]。与党政友会と野党民政党の議席数が拮抗する中で、同年4月に新自由主義を標榜して小山邦太郎らと6人で新政党明政会を結成し、キャスティング・ボートを握った[50]。同年7月、新自由主義協会を設立し、同年から翌年にかけて国会閉会期間中に「新自由主義運動」を標榜して全国を遊説[51]。1928年夏に軽井沢の別荘で『英雄待望論』を執筆、発行部数は50万部を超えた[52]。同年9月渡米し、張作霖爆殺事件における日本の立場について講演旅行をして回り、同年12月に帰国[53]

明政会事件編集

1929年4月、後藤新平が死去[54]。翌1930年1月、もと明政会所属議員の藤原米造が死去し、故人の代理人が検事局に告発したことをきっかけに、鶴見が島徳蔵ら政友会の関係者から、1928年4月召集の第55臨時議会において民政党が提出した田中義一内閣不信任案に反対することを条件に金銭を受け取った疑惑が持ち上がった(明政会事件[55][56]。疑惑の中、同年2月に行われた第17回衆議院議員総選挙に岡山第1区から立候補するも、落選[57][58]。同年3月に弟の鶴見定雄が大阪刑務所に収監され、鶴見も大阪地裁検事局で取調べを受けた[59]。同年5月、鉄道省からの事務委託を受けて米国とカナダへ講演旅行に出発し、翌1931年9月までの約1年4ヶ月間、帰国せずに各地を講演して回る[60]。この頃一時期、不眠症、執筆不振となるが、旅行の後半には著述に没頭するようになった[61]

1931年10月、満洲事変の後に上海で開催された第4回太平洋会議に出席し、満洲事変における日本の行動を擁護[62]。同年11-12月、満洲視察[63]。1932年1月には、満洲の問題における日本の立場に関する講演旅行のため、再び渡米[64]。同年6月、欧州へ渡り、各国で日本事情について講演[65]。米国を経由して1933年1月に帰国した[66]

1933年1月に帰国してから約3年間、編集室を市政会館において後藤新平伝を執筆、並行して『プルターク英雄伝』を翻訳[67]。1933年10月に新渡戸稲造が死去し、一高などで追悼演説を行う[68]。1934年『プルターク英雄伝』発行[69]、1935年夏『後藤新平』全四巻脱稿[70]

明政会事件の報道の中では、鶴見が「弟に罪をなすりつけてアメリカへ逃げた」と報道した新聞もあり、鶴見の長男俊輔も鶴見が新自由主義協会の活動を放擲してアメリカへ逃げたと思っていた[71]。満洲事変以降、日本では政界に対する軍部の圧力が強まり、同協会を含め自由主義者や第三党の活動は影を潜めた[72]。新自由主義協会の機関誌「新自由主義」は1933年9月に発禁となった[73]

戦時下の政界復帰編集

1936年2月、立憲民政党に入党し、同党の公認候補として第19回衆議院議員総選挙に岩手第2区から立候補して当選[74]。同年4月、民政党青年部長[75]

1937年1月、永田秀次郎らと宇垣一成内閣成立に参画するも、陸軍の反対に遭い、失敗[76]。同年4月、衆院解散を受けて行われた衆院選では岩手第2区から立候補し、当選[77]。同年5月、民政党岩手県支部長[77]。同年12月、人民戦線派の一斉検挙で逮捕された姪の石本静枝の釈放に尽力[78]。同月、国民使節として渡米、中学を中退していた俊輔を同行させる[79]。1938年2月、訪問先のニューヨークから弟・定雄に、(日中戦争勃発、南京事件後)米国での反日感情が高まっていることに触れ、米国との開戦を避けるために、国際商業会議所議長ワトソンを介して中国との和平調停工作を行うよう指示[80]1938年5月に設立された太平洋協会[81] の常務理事に就任[82]。実質的に会を主宰した[83]。同年10月、河合教授事件で河合栄治郎の著書が発禁となり[84]、鶴見は係争中の河合を支援[85]

1940年1月に成立した米内内閣で内務政務次官に就任するも[86]、同年7月に同内閣は総辞職[87]。同月から8月にかけて各政党は解党し、大政翼賛会に合流した[88]。1942年4月の衆院選(いわゆる翼賛選挙)では岩手県第2区から立候補し、「ローズヴェルトの親友を葬れ」と攻撃されながらも、当選[89]。同月上旬には「対敵宣伝機関創設案」を起草し、陸海軍関係者、情報局陸軍関係者の賛同を得たが、情報局の反対に遭い、実現せず[90]。鶴見はこの間、太平洋協会の仕事に従事し、1941年12月から1943年12月にかけてラジオに出演し、米国の国情を説明するなどした[91]

1944年9月、 翼賛政治会(1945年3月以降は大日本政治会)の総務となる[92]。同年12月、九段の憲兵隊司令部で取り調べを受ける[93]。同月、小磯内閣で政府が設立した朝鮮及台湾在住同胞政治処遇調査会の衆議院代表委員[93]。1945年5月、熱海へ疎開[94]

戦後編集

日本進歩党結成と公職追放編集

1945年9月に大日本政治会は解散し、同会の旧民政党系と旧政友会中島派の議員が合流して同年11月に日本進歩党を結成[95]。鶴見は同党の幹事長に就任したが、1946年1月に大日本政治会で総務を務めていたことから公職追放となる[96][97]。この頃、敗戦により休眠状態となった太平洋協会の出版部を、俊輔や和子らが参加した雑誌『思想の科学』の出版のために提供[98]。1947年9月、熱海から世田谷区成城に移る[99]

改進党顧問編集

1950年10月に公職追放解除となり、旧政友と「水曜会」結成[100]。同年11月に太平洋文化協会設立[101]、翌1951年1月に幣原喜重郎ら36人と発起人に加わり国土防衛民主主義聯盟結成[102]、同年9月に旧民政党系の旧友会により結成された新政クラブに参画[103]

1952年2月、新政クラブほか4政治団体の有志による改進党結成にあたり、同党顧問に就任[104]。同年10月の衆院選に岩手県第2区から出馬するも、落選[105]。1953年2月、改進党の常任顧問に就任、同年4月の第3回参議院議員通常選挙全国区から立候補して当選[106]。同年7月、太平洋文化協会を太平洋協会に改称、会長に就任[106]。同年10月、改進党の「自衛軍基本法要綱案」起草委員[107]。1954年、参議院で各派共同提案により自衛隊の海外派兵禁止決議案を提出、原案通り可決成立[108]

日本民主党顧問編集

1954年11月、改進党の解党後、日本民主党 (総裁鳩山一郎)結党に参加し、同党顧問に就任[109]。同年12月に発足した 第1次鳩山一郎内閣厚生大臣に就任した[110]

自民党顧問、相談役編集

1955年11月に保守合同自由民主党が結党されると、同党顧問に就任[111]

1956年9月頃、参議院本会議で各派共同提案の「国際連合加入決議案」の代表として趣旨説明、起立多数で原案通り可決[112]。同年12月、参議院自民党から国連派遣政府代表顧問に推薦されるが、政局を理由に受諾せず[112]。1957年2月、自民党総務[113]。1958年3月、自民党相談役[114]

晩年編集

1959年6月、自民党非公認のまま参院選岩手地方区から立候補するも、落選[115]。同年11月、脳軟化症のため倒れ、1年間東京大学医学部附属病院に入院[116]。鶴見が倒れた後、政治活動のために多額の借金をしていたことが分かり[117]、娘の和子は借金返済のため成城の邸宅と軽井沢の別荘を売却し、1960年9月に練馬区関町に購入した住宅に転居[118]。退院後は、関町の自宅で療養生活を送る[119]。1964年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲三等からの昇叙)[120][121]

1973年10月末に容態が悪化し、11月1日、関町の自宅で死去[2]、88歳[4]。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、従四位から従三位に叙される[122][123]。同月6日に普連土学園講堂で告別礼拝式が行われ、遺骨は多磨霊園の墓地に納められた[124]

人物編集

政治家として編集

  • 石塚 (2010, p. 11)は、鶴見は集金能力のない清廉な政治家で、子分を養って派閥の長となる人ではなかった、と評している。
    • 鉄道省出身ではあったが、事務次官まで上り詰めたわけではなく、官僚組織をバックにすることはできなかった[125]
    • 戦後は長老として顧問や相談役に祭り上げられ、厚生大臣を3ヵ月間務めたほかは、実権のある閣僚や党役員には就けなかった[125]
  • 国際会議で難しい内容の議論でさえ通訳は無用とされた英語の達者な人物でありスケールの大きな率直な人柄は周囲の信頼を集めた。[要出典]

趣味編集

  • 鶴見はスポーツマンで、一高時代は剣道、生涯を通じてゴルフに親しんだ[83]

家族編集

著書編集

旅行記、随筆論文小説、伝記など日本語の著書42種(57冊)、英語の著書3種があり[5]、著書のうち代表的なものとして1928年に出版した『英雄待望論』が50万部、1929年に出版した小説『母』が24万部発行されているが[125]石塚 (2010, p. 13)は後世に残るものとして『後藤新平』と訳書『プルターク英雄伝』を挙げている。

単著編集

  • 『南洋遊記』大日本雄弁会講談社、1917年
  • 『欧米名士の印象』実業之日本社、1921年
  • 『鶴見祐輔氏大講演集』大日本雄弁会講談社、1924年
  • 『壇上・紙上・街上の人』大日本雄弁会講談社、1926年
  • 『現代日本論』大日本雄弁会講談社、1927年
  • 『中道を歩む心』講談社、1927年
  • 『英雄待望論』大日本雄弁会講談社、1928年
  • 『日本と世界』アルス、1929年
  • 『母』大日本雄弁会講談社、1929年(新装版『母』上下、角川文庫、1955年)
  • 『自由人の旅日記』日本評論社、1930年
  • 『ナポレオン』大日本雄弁会講談社、1931年(新装版『ナポレオン』潮文庫1969年
  • 『欧米大陸遊記』大日本雄弁会講談社、1933年
  • 『バイロン』英雄天才史伝、大日本雄弁会講談社、1935年(新装版『バイロン』潮文庫、1960年
  • 『読書三昧』大日本雄弁会講談社、1936年
  • 『ヂスレリー』英雄天才史伝、大日本雄弁会講談社、1936年(新装版『ディズレーリ』、潮文庫、1971年
  • 『新雄弁道』講談社、1941年
  • 『成城だより』全8巻、太平洋出版社、1950年
    • (復刻版『鶴見祐輔著作集』全8巻、学術出版会、2010年)
  • 『新英雄待望論』太平洋出版社、1951年
  • 『北米遊説記』鶴見祐輔、1956年
  • 『子』上下巻、角川書店、1957-58年
  • ウィンストン・チャーチル』講談社、1958年(新装版『ウィンストン・チャーチル』講談社現代新書、1965年)
  • 『若き日のともし灯』実業之日本社、1960年
  • 『後藤新平』全4巻、勁草書房、1965-67年
    • (新装版『正伝後藤新平・決定版』全8巻と別巻、藤原書店、2004-07年)
  • 『鶴見祐輔人物論選集』ダイヤモンド社、1968年

訳書編集

会見記編集

鶴見は各国の著名人にインタビューを行い、会見記を出版している[83]。会見した人物には、ウッドロウ・ウィルソンフランクリン・ルーズベルトダグラス・マッカーサーハーバート・ジョージ・ウェルズバーナード・ショウジークムント・フロイトヨーゼフ・ゲッベルス孫文蔣介石胡適らがいる[83]。特にウィルソンを崇拝し、厖大な資料を収集していたが、伝記は書かずにこの世を去った[83]。また特にチャールズ・A・ビーアド英語版と親交があった[83]

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 石塚 2010, p. 17.
  2. ^ a b 石塚 2010, p. 270.
  3. ^ 石塚 2010, p. 30.
  4. ^ a b c d e f g 石塚 2010, p. 12.
  5. ^ a b c d 石塚 2010, p. 11.
  6. ^ 父の先祖は岡山県備中松山城の家老鶴見内蔵助石塚 2010, p. 17)。父・良憲は1889年、鶴見が4歳のときに新町町会議員に当選している(石塚 2010, p. 19)。
  7. ^ 大阪の商人の娘(石塚 2010, p. 17)。名前は「古都」とも(石塚 2010, p. 23)。
  8. ^ 石塚 2010, pp. 11, 17.
  9. ^ 石塚 2010, p. 20.
  10. ^ a b 石塚 2010, pp. 20–21.
  11. ^ 石塚 2010, pp. 21–22.
  12. ^ 石塚 2010, p. 22.
  13. ^ 石塚 2010, pp. 11, 23.
  14. ^ 石塚 2010, p. 23.
  15. ^ 石塚 2010, p. 24.
  16. ^ 石塚 2010, p. 26.
  17. ^ 石塚 2010, pp. 11, 26.
  18. ^ 石塚 2010, pp. 26–31.
  19. ^ a b 石塚 2010, pp. 11, 30.
  20. ^ 第一高等学校一覧 自明治39年至明治40年』第一高等学校、1907年、253頁。 
  21. ^ 石塚 2010, pp. 11, 12.
  22. ^ 石塚 2010, pp. 12, 31.
  23. ^ 石塚 2010, pp. 30–37.
  24. ^ 石塚 2010, p. 37.
  25. ^ 石塚 2010, p. 31.
  26. ^ a b 石塚 2010, pp. 11, 37.
  27. ^ 『官報』第8117号、明治43年7月13日、p.292
  28. ^ 石塚 2010, pp. 11, 38.
  29. ^ 石塚 2010, pp. 11, 39.
  30. ^ 石塚 (2010, p. 39,40,46)。この件で新渡戸は一高生から「一高生と政府高官の取り持ちをしている」と揶揄されるようになり、このことが新渡戸が一高の校長を辞任する原因となった(石塚 2010, p. 52)。
  31. ^ 石塚 (2010, pp. 39–43)。新渡戸は米国カーネギー平和財団英語版により第1回日米交換教授として招聘された(同)。
  32. ^ 石塚 2010, pp. 11, 12, 44–92.
  33. ^ 石塚 2010, pp. 60–61.
  34. ^ 石塚 (2010, p. 84)。1921年6月に昇進(同)。
  35. ^ 石塚 (2010, pp. 11, 92)。石塚 (2010, p. 99)は、鉄道院(省)で鶴見がどのような仕事をしていたか、どのような実績を挙げたかはほとんどわからない、としている。
  36. ^ 石塚 2010, pp. 11, 92–93.
  37. ^ 石塚 2010, p. 93-104.
  38. ^ 石塚 2010, p. 13,93-104.
  39. ^ 帰国直後の1925年12月に岡山選挙区(久米郡・真庭郡)の衆議院補欠選挙があり、出馬するも落選(石塚 2010, pp. 103–104, 110–111)。鶴見自身は運動に歩かなかったとされる(同)。
  40. ^ 石塚 2010, pp. 103, 193.
  41. ^ 石塚 2010, p. 193.
  42. ^ 石塚 2010, pp. 13, 105–111.
  43. ^ 石塚 2010, pp. 113–114.
  44. ^ 石塚 2010, pp. 114–116.
  45. ^ 石塚 2010, pp. 11, 107–108.
  46. ^ 石塚 2010, p. 119.
  47. ^ 『母』は単行本として出版され24万部発行された(石塚 2010, pp. 139, 155)。1929年に舞台化され(石塚 2010, p. 135)、1929年・1935年・1950年に映画化されている(石塚 2010, pp. 136, 144–145)。
  48. ^ 第16回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1928年、389頁。 
  49. ^ 石塚 2010, pp. 121–122.
  50. ^ 石塚 (2010, pp. 13, 123–124)。同年に大内暢三が加入し7名となった。
  51. ^ 石塚 (2010, pp. 13, 125–126)。新自由主義協会は、新渡戸を会長とし、事務所を内幸町の太平洋ビルに置いて、機関紙月刊「新自由主義」を発行した(同)。
  52. ^ 石塚 2010, pp. 125, 126, 129, 155.
  53. ^ 石塚 2010, pp. 125, 128–129, 130.
  54. ^ 石塚 2010, p. 134-135,137.
  55. ^ 石塚 2010, pp. 125, 139, 146–148.
  56. ^ 岸田 1931, p. 41-48.
  57. ^ 第17回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1930年、423頁。 
  58. ^ 石塚 2010, pp. 139, 146–148.
  59. ^ 石塚 (2010, p. 140)。弟・定雄は翌1931年6月に大阪地裁で有罪となったが、1932年5月に大阪控訴院で無罪判決を受けた(石塚 2010, pp. 140, 151, 157)。
  60. ^ 石塚 2010, pp. 140–143, 149–152.
  61. ^ 石塚 2010, pp. 141, 144, 158.
  62. ^ 石塚 (2010, p. 154)。席上、新渡戸稲造は、日本を侵略国と批難した中国代表陳立延を批判する演説をした(同)
  63. ^ 石塚 2010, pp. 152–153.
  64. ^ 石塚 (2010, pp. 158, 160)。同年2月の衆院選には出馬しなかった(石塚 2010, p. 169)。
  65. ^ 石塚 2010, pp. 158, 164–168.
  66. ^ 石塚 2010, pp. 168, 171.
  67. ^ 石塚 2010, p. 177,181.
  68. ^ 石塚 2010, p. 179,180.
  69. ^ 石塚 2010, pp. 183–184, 191.
  70. ^ 石塚 (2010, p. 190)。編纂室での校閲を経て、1937年3月に第1巻が刊行された(石塚 2010, pp. 190–191)。
  71. ^ 石塚 (2010, pp. 176–177)。この頃、俊輔は、仲間と万引きを繰り返し、小学校をサボり、女性と交際するなど、不良化した(石塚 2010, pp. 181–182)
  72. ^ 石塚 2010, pp. 160, 169–170, 177.
  73. ^ 石塚 2010, pp. 179, 187.
  74. ^ 石塚 2010, p. 192.
  75. ^ 石塚 2010, p. 196.
  76. ^ 石塚, p. 196.
  77. ^ a b 石塚 2010, p. 197.
  78. ^ 石塚 2010, p. 199.
  79. ^ 石塚 (2010, p. 199)。俊輔は翌1938年3月までワシントン斎藤博大使に預けられ、いったん帰国した後、同年9月にマサチューセッツ州コンコードミドルセックス校英語版(予備校)へ入学した(石塚 2010, pp. 199, 200, 201–202)。
  80. ^ 石塚 2010, pp. 203–204, 205.
  81. ^ 会長は欠員、副会長に永田秀次郎松岡洋右石塚 2010, pp. 200–201)。
  82. ^ 石塚 2010, pp. 14, 200.
  83. ^ a b c d e f 石塚 2010, p. 14.
  84. ^ 石塚 (2010, p. 202)。河合は1939年2月に起訴され、同年7月に東京地裁で公判が開かれ、翌1940年10月に東京地裁で無罪判決を受けた(石塚 2010, pp. 206, 208, 211, 212)。検事局は控訴し、1941年3月に東京控訴院で公判が開始され、同年10月に有罪判決(石塚 2010, pp. 212, 213)。河合は上告し、1942年5月に大審院での審理が開始され、1943年6月に大審院は河合の上告を棄却し、有罪が確定した(石塚 2010, pp. 213, 216, 218)。
  85. ^ 石塚 2010, p. 206.
  86. ^ 石塚 2010, pp. 11, 210.
  87. ^ 石塚 2010, p. 210.
  88. ^ 石塚 2010, p. 211.
  89. ^ 石塚 2010, p. 215.
  90. ^ 石塚 2010, pp. 215–216.
  91. ^ 石塚 (2010, p. 211,214,220,235-236)。戦後の1950年3月にNHK会長が提出した「鶴見祐輔氏の戦前及び戦時中の放送」と題した文書では、戦時中の放送の中でも「毫も侵略的挑発的の言葉は見られなかった」としているが(石塚 2010, pp. 235–236)、「戦時中に反米的な言葉をもって放送した」(石塚 2010, p. 220)との他評もある。
  92. ^ 石塚 2010, p. 221.
  93. ^ a b 石塚 2010, p. 222.
  94. ^ 石塚 (2010, p. 224)。麻布区桜田町にあった自邸は満洲国大使館として貸し出され、終戦後は進駐軍に接収され憲兵司令官公館として使用された(石塚 2010, pp. 184–185, 188–189, 224)
  95. ^ 石塚 (2010, pp. 224–225)。戦前の自由主義者の中でも、軍部から活動を封じられていた鳩山一郎らは自由党を結成したが、翼賛政治会に属して戦争遂行に協力した議員の多くは自由党には参加せず、進歩党に拠った(石塚 2010, p. 225)。
  96. ^ 石塚 2010, pp. 12, 223, 226–227.
  97. ^ 総理庁官房監査課 編 『公職追放に関する覚書該当者名簿日比谷政経会、1949年、688頁。 
  98. ^ 石塚 2010, pp. 227–228.
  99. ^ 石塚 2010, p. 230.
  100. ^ 石塚 2010, pp. 236–237.
  101. ^ 鶴見は1951年2月に同協会会長に就任、有力企業による維持会員制の組織とした(石塚 2010, p. 237)。
  102. ^ 石塚 2010, p. 237.
  103. ^ 石塚 2010, p. 238.
  104. ^ 石塚 2010, p. 239.
  105. ^ 石塚 2010, p. 240.
  106. ^ a b 石塚 2010, p. 242.
  107. ^ 石塚 2010, p. 243.
  108. ^ 石塚 (2010, pp. 13, 243)。1992年のカンボジアへの海外派兵の際にはこの決議の存在は無視された由(石塚 2010, pp. 243)
  109. ^ 石塚 2010, p. 244.
  110. ^ 石塚 (2010, p. 244)。1955年2月の内閣改造にあたって辞職(石塚 2010, p. 246)。
  111. ^ 石塚 2010, p. 246.
  112. ^ a b 石塚 2010, p. 249.
  113. ^ 石塚 (2010, p. 250)。同年中に辞任(石塚 2010, p. 252)。
  114. ^ 石塚 2010, p. 253.
  115. ^ 石塚 2010, pp. 256, 257–259.
  116. ^ 石塚 2010, p. 256.
  117. ^ 石塚 2010, pp. 256, 262–263.
  118. ^ 石塚 2010, pp. 256, 263.
  119. ^ 石塚 (2010, p. 256)。回復後は、身体の自由はなく発語能力も失われたが、意識ははっきりしており、テレビでの相撲観戦が趣味だった(石塚 2010, pp. 207, 259–260)
  120. ^ 藤樫準二『日本の勲章 国の表彰制度』p.74 第一法規出版、1965年
  121. ^ 『官報』第11211号19頁 昭和39年4月30日号
  122. ^ 『官報』第14062号10頁 昭和48年11月9日号
  123. ^ 石塚 2010, p. 271.
  124. ^ 石塚 (2010, p. 271)。鶴見家では1956年に港区北青山3丁目の善光寺に墓地を購入していたが、同年、死去した愛子がキリスト教徒だったことから同寺から埋葬を断わられたため、和子が多磨霊園に墓地を購入し、愛子の遺骨を埋葬していた(石塚 2010, pp. 256–257)。
  125. ^ a b c 石塚 2010, p. 13.
  126. ^ a b c d e 小谷野 2007, pp. 177, 179.
  127. ^ 小谷野 2007, pp. 177–178.
  128. ^ 小谷野 2007, p. 179.
  129. ^ 小谷野 (2007, p. 179)は、廣田が鶴見の従兄弟にあたる、としている。

参考文献編集

  • 石塚, 義夫 『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、2010年。ISBN 9784876019120 
  • 小谷野, 敦 『日本の有名一族‐近代エスタブリッシュメントの系図集』幻冬舎幻冬舎新書〉、2007年9月30日。ISBN 978-4-3449-8055-6 
  • 岸田, 菊伴 著、現代パンフレット通信社 編 『京電疑獄と島徳事件』1931年4月30日。NDLJP:1274699  

関連書籍編集

  • 上品, 和馬 『広報外交の先駆者 鶴見祐輔 1885-1973』藤原書店、2011年。ISBN 978-4894348035 
  • 北岡, 寿逸 著、北岡寿逸 編 『友情の人‐鶴見祐輔先生』私家版、1975年。 

外部リンク編集

公職
先代
草葉隆圓
  厚生大臣
第26代:1954年 - 1955年
次代
川崎秀二
党職
先代
結成
  日本進歩党幹事長 次代
犬養健