古沢 憲司古澤 憲司、ふるさわ けんじ、1948年3月31日 - )は、愛媛県新居浜市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者

古沢 憲司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県新居浜市
生年月日 (1948-03-31) 1948年3月31日(72歳)
身長
体重
181 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1964年
初出場 1964年7月25日
最終出場 1984年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 広島東洋カープ (1993 - 1995)
  • 阪神タイガース (1996 - 2000)
  • 広東レパーズ (2004)
  • 広島東洋カープ (2013)

経歴編集

1964年新居浜東高校へ進学するが、阪神タイガースのスカウトが視察に来ていたことを知ると、自ら「学校はやめますから入れてください」と言った[1]。阪神のスカウトは「卒業してからにしなさい」と言ったが聞かず[1]、勉強嫌いで高校が嫌になって家出していたら、阪神の沢スカウトが「宿泊している旅館に来い」と言われて行ってキャッチボールし合格[2]。阪神側も他の球団に取られるよりは、となって1964年1月26日に契約金200万円での入団が決まる。同年途中に高校を中退して阪神へテスト入団すると、7月25日の対国鉄戦(甲子園)に16歳117日で初登板を果たし、戦後最年少の公式戦出場記録を打ち立てた。村山実若生智男太田紘一に次ぐ4番手でマウンドに上がり、三振を2つ奪うなど無安打に抑えた。初打席にも立ち、半沢士郎に三振を奪われている。チームは2年ぶり2度目のリーグ優勝を果たすが、南海との日本シリーズでは登板機会が無かった。2年目の1965年6月30日大洋戦(甲子園)では17歳で完封勝利を収め、プロ初勝利を挙げる。藤本定義監督は「まさか完封とはね。17歳と言えば10年しても、いまの村山より若い。先が長いだけに楽しみや」と笑顔で語っていた[1]。この頃にはゴルフ用語の「バーディ」があだ名となったが[2]、関係者は「それより高校中退をからかって、少し足りないの意味だったかな」と話していた[1]。古沢の性格をゴルフに例えて「『パー』より上(ポジティブ)」「『パー』より一つ足りない(ネガティブ)」と言われたが、阪神入団から数年間過ごしていた選手寮「虎風荘」で飼っていた、黒縁の犬の名前がバーディだったからとも言われる。その後の数年は伸び悩み、ウエスタン・リーグでは1967年に最高勝率を獲得したが、1969年1970年は一軍登板無しに終わった。1971年に自身初のシーズン2桁勝利となる12勝を挙げ、規定投球回にも到達して、防御率2.05はセ・リーグ3位であった。1972年には江夏豊を差し置いて開幕投手に抜擢されるも一軍では1勝にとどまり、ウエスタン・リーグで最優秀防御率を獲得。サイドスローから変化球を低めに集める投球スタイル[3]1973年に再度規定投球回に到達し、1978年まで6年連続でマーク。1974年には自己最多の15勝を挙げ、リーグ最多の4完封を記録。6月1日広島戦(広島市民)で初セーブを挙げたほか、同年のオールスターゲームにも出場した。1976年には自身2度目の開幕投手を務め、9月には月間MVPを受賞。1977年には3年ぶり2度目のオールスター出場を果たし、7月24日の第2戦(西宮)では全セの先発を任され、巨人吉田孝司とバッテリーを組んだ。同年は2年連続2桁となる11勝を挙げたが、リーグ最多の3完封を記録する一方でリーグ最多の17敗に終わった。1976年から加入した江本孟紀と親しく交際し、江本は親しくなったきっかけを「(無愛想なタイプが多い野球選手の中で)唯一きちんと挨拶してくれたから」だといい[4]1978年から連載された漫画がんばれ!!タブチくん!!』では帽子で目隠れしたキャラとして描かれていた。同年オフに真弓明信竹之内雅史若菜嘉晴竹田和史との交換トレードで田淵幸一と共に西武ライオンズへ移籍すると、中継ぎに完全転向した1981年には4月24日阪急戦(西宮)で9回裏に加藤英司から1000奪三振を達成。1982年途中に高橋直樹との交換トレードで大原徹也とともに広島東洋カープへ移籍。同年7月8日の阪神戦(岡山)で6球目のモーションに入ろうとした所、突然球場が停電して試合が一時中断となり、この模様は当時サンテレビが中継していた。試合は広島打線がエース・小林繁を3回5失点と打ち崩し、5回を終わって0-5と一方的な展開になった。阪神も6回に時代打・永尾泰憲の2点タイムリー三塁打などで4点を返して1点差に詰め寄られるが、広島がその裏に2点を奪って4-7と再びリードを広げた。停電は7回に先頭の佐野仙好がフルカウントになり、古沢が6球目のモーションに入ろうとしたときに起きた。18分間も中断したが、試合再開後は佐野に2球連続ファウルで粘られて四球を選んで出塁させると、掛布雅之も中前安打で続く。1死後に藤田平が四球を選んで満塁とされると、次打者のグレッグ・ジョンストンにショート後方にポテンと落ちる2点タイムリー、若菜にも中前同点タイムリーを打たれる。代打の加藤博一にも四球を選ばれて再び満塁とし、真弓明信の遊ゴロ併殺崩れの間に勝ち越しを決められる。なおもキム・アレン、佐野の連続四球による押し出しで1点も加えられ降板。阪神が9-7で逆転勝利し、古沢は敗戦投手となった。阪神の安藤統男監督は「(7回は)ベンチでは『3点差でもイケる』と声が出ていた。でも、5点を取るとは……」と驚きを隠せない様子であったが、その後、停電の原因は、岡山市内電柱アオダイショウが登ったためと判明[5]1983年8月30日の阪神戦(甲子園)では6回裏2死に5番手でマウンドに上がり、500試合登板を達成するが、1死も取れず1安打3四死球2失点を喫して降板。1984年には4年ぶりのリーグ優勝に貢献するが、10月5日大洋戦(横浜)が最終登板となり、阪急との日本シリーズでは登板機会が無かった。1985年は一軍登板なしに終わり、同年限りで現役を引退。

引退後はテレビ東京テレビ大阪スポーツTODAYプロ野球速報」解説者(1986年 - 1992年)を経て、1993年に広島に一軍投手コーチとして復帰。チーム防御率がリーグ最下位でチームも19年ぶりの最下位に終わり、1994年から1995年まで二軍投手コーチ兼三軍育成担当を務めて退任。1996年から2000年まで古巣・阪神二軍投手コーチを務め[6]井川慶藤川球児らに基礎を教えた[2]2001年からはカープアカデミー臨時コーチに就任し、2004年には出向という形で中国野球リーグ広東レパーズ投手コーチを務めた。2012年10月22日に広島と一軍投手コーチとして契約を結び[7]、正式に就任[8]2013年オフに退任し、2014年より再びカープアカデミーの担当コーチに復帰した[9]。1年の大半をドミニカ野球指導者として過ごしており、日本の家族と過ごせるのは年に2ヶ月程であった[10]。現在はアカデミーコーチを引退しており、カープ二軍の臨時コーチを務めている。

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1964 阪神 8 1 0 0 0 0 0 -- -- --- 59 17.0 7 0 4 0 1 9 1 0 1 1 0.53 0.65
1965 31 2 1 1 0 1 1 -- -- .500 276 67.0 48 3 42 0 2 38 1 0 31 27 3.63 1.34
1966 11 2 0 0 0 0 0 -- -- --- 107 24.1 27 2 12 0 1 16 0 0 15 14 5.18 1.60
1967 21 3 0 0 0 2 1 -- -- .667 197 44.2 41 6 24 0 2 36 1 0 24 24 4.84 1.46
1968 7 0 0 0 0 0 0 -- -- --- 51 11.0 14 2 7 0 0 11 0 0 6 6 4.91 1.91
1971 36 19 8 3 2 12 9 -- -- .571 687 171.1 149 16 41 4 7 77 2 0 54 39 2.05 1.11
1972 16 8 0 0 0 1 6 -- -- .143 196 45.0 53 7 16 3 0 24 3 0 30 26 5.20 1.53
1973 43 9 2 1 0 9 9 -- -- .500 530 132.1 107 15 40 3 4 71 1 0 55 50 3.40 1.11
1974 37 28 12 4 1 15 10 1 -- .600 938 220.1 230 19 67 5 8 122 3 0 90 79 3.23 1.35
1975 36 27 8 2 2 9 10 2 -- .474 815 195.0 197 17 51 5 6 101 2 0 81 78 3.60 1.27
1976 41 31 6 2 2 10 8 1 -- .556 900 220.1 204 25 39 6 8 135 2 0 90 82 3.35 1.10
1977 36 33 9 3 1 11 17 1 -- .393 908 213.2 205 34 67 3 5 119 1 2 102 95 4.00 1.27
1978 34 22 5 1 2 4 16 2 -- .200 687 158.2 170 33 46 2 3 90 2 1 102 88 4.99 1.36
1979 西武 29 16 3 0 1 4 14 5 -- .222 474 105.1 112 16 43 0 2 66 1 0 75 66 5.64 1.47
1980 34 4 0 0 0 3 6 5 -- .333 362 80.0 82 10 45 1 4 78 7 0 55 51 5.74 1.59
1981 32 0 0 0 0 1 4 6 -- .200 182 44.1 34 0 19 1 1 42 2 1 14 10 2.03 1.20
1982 広島 29 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 203 47.0 37 6 24 1 3 61 1 0 21 17 3.26 1.30
1983 32 1 0 0 0 1 2 2 -- .333 213 50.0 37 4 30 1 2 44 1 0 23 23 4.14 1.34
1984 30 0 0 0 0 3 1 0 -- .750 204 49.0 35 3 26 1 0 41 0 0 14 8 1.47 1.24
通算:19年 543 206 54 17 11 87 115 25 -- .431 7989 1896.1 1789 218 643 36 59 1181 31 4 883 784 3.72 1.28
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰編集

記録編集

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号編集

  • 70 (1964年)
  • 43 (1965年)
  • 25 (1966年 - 1970年)
  • 51 (1971年 - 1978年、1981年 - 1982年途中)
  • 23 (1979年 - 1980年)
  • 16 (1982年途中 - 1985年)
  • 71 (1993年 - 1995年)
  • 85 (1996年 - 2000年)
  • 78 (2013年)

出典編集

  1. ^ a b c d バーディー・古沢憲司、17歳でプロ初勝利/週べ1965年7月19日号
  2. ^ a b c 【帰ってきた!ダンカンが訪ねる 昭和の侍】 古沢憲司さん 家出中に阪神スカウトとのキャッチボールで幸せつかむ
  3. ^ 埼玉西武ライオンズ黄金投手陣の軌跡、2013年、ベースボール・マガジン社、P45
  4. ^ 江本孟紀著「おれ、紆余曲球」(ベストセラーズ刊、1985年6月)
  5. ^ 停電が呼んだ阪神の大反撃、「名無し選手」に敗れた中日…ハプニングが生んだ珍事件【久保田龍雄】
  6. ^ 投手コーチに古沢氏、00年以来日本球界復帰へ…広島”. スポーツ報知. 2012年10月19日閲覧。
  7. ^ 【広島】古沢氏13年ぶり投手Cで日本復帰 日刊スポーツ、2012年10月22日
  8. ^ 新井宏昌コーチ就任記者会見”. 2012年10月23日閲覧。
  9. ^ 古沢投手コーチ退任 来季はドミニカへ”. デイリースポーツ. 2013年10月30日閲覧。
  10. ^ 古沢憲司さん 家出中に阪神スカウトとのキャッチボールで幸せつかむ

関連項目編集

外部リンク編集