村山実

日本の元プロ野球選手、野球指導者

村山 実(むらやま みのる、1936年12月10日 - 1998年8月22日)は、兵庫県尼崎市出身(神戸市北区生まれ)のプロ野球選手投手)・コーチ監督解説者

村山 実
Minoru Murayama 1959 Scan10001.JPG
1959年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 日本の旗 日本 兵庫県尼崎市
生年月日 (1936-12-10) 1936年12月10日
没年月日 (1998-08-22) 1998年8月22日(61歳没)
身長
体重
175 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月14日
最終出場 1972年10月7日(公式戦最後)
1973年3月21日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 阪神タイガース (1969 - 1972, 1988 - 1989)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1993年
選出方法 競技者表彰

闘志むき出しで全身を使った「ザトペック投法」で知られている[1][2]

史上9人目、戦後唯一のシーズン防御率0点台(0.98)を達成したほか、通算WHIPNPB記録(0.95)を持ち、通算防御率のセ・リーグ記録(2.09)、シーズンWHIPのセ・リーグ記録(0.748)も持つ大投手。歴代最多タイ記録となる史上3人目の沢村栄治賞3度受賞していることから、「二代目ミスタータイガース」とも呼ばれている。

経歴編集

タイガースと相思相愛編集

 
村山実の手形。1982年に尼崎中央・三和・出屋敷商店街の交差点路面に埋め込まれた。

神戸で生まれるが、父親の転勤によってすぐに尼崎に引っ越し、そこで育つ[3]。小学生の頃から野球を始め、憧れていた投手を志望するが、身長が低いためにやらせてもらえず内野手となる[4]。住友学園中学校に進学し、正式に野球部に入部するが、この時は二塁手であった。

住友工業高校[注釈 1]に進学し、ここでも野球部に入部する。入部した当初は野球部に監督は不在でOBが時々指導に来る程度であったが、国語の教諭の友人で自動車関連の会社員である藤田祐良が3年間の期限付きで監督に就任する[5]。藤田は監督就任後しばらくチームを見回した後、村山の地肩の強さと負けん気の強さを評価し、投手への転向を命じる[6]。2年次の1953年にある練習試合で打ち込まれ、その試合後に藤田から「お前の手のひらは大きい。つまり指が長い。だから、ボールを指にはさんで投げている練習をしてみろ」[7]と命じられる。これがフォークボールであった。同年からはエースとなり、秋季近畿大会県予選では準々決勝へ進むが、島田幸雄を擁する兵庫工業に敗退した。3年次の1954年の春季近畿大会では準決勝に進むが、片岡宏雄坂崎一彦らを擁する浪華商業に、同年夏も準々決勝で明石高校にそれぞれ敗れ、甲子園出場は果たせなかった。

村山は高校卒業後の進路に大学進学を希望し、野球部の同僚が立教大学のセレクションを受験することになり、村山も東京六大学でのプレーを夢見て立教進学を希望。同僚と一緒に大阪梅田にて立教OBの面接を受けることになったが、村山はその場で身長が低いことと体が華奢であることを理由にセレクションへの推薦を拒否された[8]

母親の「できるだけ、近くにいてほしい」との懇願と、関西大学の学生で応援団長であった次兄の勧めで、1955年関西大学商学部商学科へ進学した。同級生に海南高校出身で捕手上田利治がおり、上田とバッテリーを組むことになる。1年次の同年はグラウンドの草刈りと水撒きといった下積みに明け暮れたが、2年次の1956年に左右のエースであった法元英明中西勝己が退部してプロ入りしたため、村山はエースに抜擢される[9]関西六大学リーグでは春季で優勝し、神宮での第5回全日本大学野球選手権大会に出場し、西日本の大学では初の大会初優勝を達成した。村山は全試合に先発して完投し、日本大学との決勝戦でも島津四郎と投げ勝った。1球ごとに全力投球し、苦しそうな表情を浮かべながらも完投する投球する姿から、新聞では「ザトペック投法」との見出しをつけられた[10]

大学選手権大会での活躍でプロ野球界から注目を集め、ほぼ全12球団から卒業後の入団を勧誘されたが、3年次の1957年に右に激痛が走って投球不能になってしまう[11]。関大OBで当時大阪タイガースの球団社長であった田中義一から厚生年金病院を紹介され、治療に通うことになる。右肩痛によってプロのスカウトは村山から手を引くが、タイガースの田中だけは「キミにタイガースに来てほしいからなんてケチな根性は持っとらんよ。安心していろ。キミが心配な一先輩なだけだ」[12]と村山に対し親身になって対応した。村山は感激し、もし右肩痛が治ればタイガースへ入団すると決意する。4年次の1958年に右肩の痛みは右脇の下にできていた軟骨であると判明し、除去手術によって治癒した[13]

村山に対しプロ球団の間で再び争奪戦が起き、巨人は契約金2000万円を提示したが、村山はその4分の1である500万円を提示した大阪タイガースへの入団を決定する。リハビリ中に親身になって応対してくれた田中への恩義と、右肩痛に見舞われた経験からプロでの長期間のプレーに自信が持てておらず、条件提示の中に「阪神電鉄からタイガースへの出向社員とする」との辞令に魅力を感じたためである[14]

ライバル・長嶋茂雄編集

1年目の1959年3月2日の巨人戦(オープン戦、甲子園)でプロ初登板・初先発を果たすが、この日は初代「ミスタータイガース」藤村富美男の引退試合当日で、当初は前日に村山のプロ初登板が予定されていたが雨天中止となり、翌日の引退試合と重なったものである。この日は月曜日であったが3万人の観衆を集め、村山は2回を投げて打者7人に対して被安打1で無失点に抑えた。開幕後は4月14日国鉄戦(甲子園)で公式戦初登板・初先発を果たし、先頭の町田行彦の頭部にいきなり死球を与えるが、金田正一と投げ合って6回まで無安打に抑え、2安打完封勝利という華々しいデビューとなった[注釈 2]。この試合を皮切りに先発ローテーションに加わり、最終的に18勝(10敗)防御率1.19の活躍で最優秀防御率タイトルを獲得。新人ながら沢村賞も受賞したが、新人王は同年に新人新記録となる31本塁打を放ち、本塁打王のタイトルを獲得した桑田武に譲った。新人で沢村賞を受賞しながら新人王に選ばれなかった投手は2020年現在も村山ただ一人である。

また、同年6月25日天覧試合(巨人戦、後楽園)では先発した小山正明を救援したが、長嶋茂雄に左翼ポール際のサヨナラ本塁打を浴びる。この判定は微妙であったため、村山は生涯「あれはファールだった」と述べている[15][16][17][注釈 3][注釈 4]。これによって「村山対長嶋」のライバル関係が出来上がり、村山は通算1500奪三振(1966年6月8日)、通算2000奪三振(1969年8月1日)をいずれも長嶋から狙って奪っている。長嶋へのこだわりは村山の私生活にも現れ、初めて購入した自宅の電話番号の下4桁が「3279」(さん・に・な・く、「(長嶋の背番号である)3に泣く」)と読める語呂合わせになっていることに気付いた村山が強く変更を望んだという[注釈 5]。当時は電話を家庭に引くだけでも大変であった時代のため、しばらくはこの番号を用いていたという。長嶋とは現役時代こそ口を利かなかったが、引退後は意気投合してお互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。

2年目の1960年は、開幕直後の4月急性胃腸炎で倒れるなど調子が上向かず、8勝15敗と低調な成績に終わった。同年5月21日の巨人戦(甲子園)では9回を無安打14奪三振に抑えて完投しながら、三宅秀史と自身の失策によって2失点を喫し、珍しい「ノーヒットアリラン」で敗れた。

フォークの完成編集

3年目の1961年には復調し、フォークボールも「思うところに投げられるように」なるなど精度が向上して[18]、24勝(13敗)防御率2.26(リーグ6位)を挙げる。1962年に前年途中から指揮を執っていた藤本定義が正式に監督に就任すると、村山・小山の両者に一定の間隔を空けて登板させるローテーションを組む。同年は長嶋が不調で打率が3割を切るなど巨人が早々に優勝争いから脱落し、終盤の優勝争いは大洋との一騎打ちとなる。村山自身も疲労から打たれることもあったが、25勝(14敗)防御率1.20とエースの名に恥じぬ活躍を見せ、最優秀防御率を獲得したほか、ベストナイン、自身唯一となるシーズンMVPも受賞した。このシーズンについて村山は「ストライクゾーンからボールになるフォークが完成した年」と振り返っている[18]東映との日本シリーズでは第2戦で8回一死まで一人の走者も出さず、あわや完全試合の快投[注釈 6]、シリーズタイ記録となる6試合に登板して2勝(2敗)を挙げるなど大車輪の活躍をするが、第7戦で西園寺昭夫に決勝本塁打を浴びて敗退した。

同年はデトロイト・タイガースが来日した日米野球でも活躍し、11月17日の後楽園では野村克也南海)とバッテリーを組み、8回2死までノーヒットノーランに抑える快投を披露。終盤に2安打を喫して快挙は逃したが、無四球9奪三振の完封勝利を収めた。日米野球で日本人投手が完封勝利を収めたのは史上初の快挙で、試合後にデトロイト・タイガースのボブ・シェフィング監督が村山と握手し、興奮気味に「来年はうちに来ないか?君と契約したい」とまくし立てた。英語が分からない村山は「サンキュー、サー」としか答えられず、後から何と言われたか通訳に教えられ、苦笑したという。

1963年は前年の代償から右手血行障害痛を患って前半戦を棒に振るなどあり、11勝に終わる。8月11日の巨人戦では7回に救援登板した際、自信を持って投げた球を「ボール」と判定されたことに対して激怒し、「どこ見てるんや!ワシは一球一球、命かけて投げてるんや!」と激しく抗議した[19]。これが暴言と判断されて退場処分を受けたが、当時は最初の打者である池沢義行[注釈 7]と対戦中で、「1人の打者との対戦が終わるまで投手は交代できない」という野球規則の例外記録となった。

1964年には小山正明山内一弘とのいわゆる「世紀のトレード」で東京オリオンズへ移籍したために村山への負担が増えると思われたが、杉下茂一軍ヘッド兼投手コーチによって徹底的に鍛え上げられたジーン・バッキーが29勝を挙げる活躍を見せて小山の穴を完全に埋め、負担が減った村山も復活を見せて22勝を挙げ、2度目のリーグ優勝に貢献する。しかし、南海との日本シリーズでは村山は3連敗を喫し、チームも3勝4敗で再び日本一を逃した。

相次ぐ負傷~選手兼任監督就任編集

1965年の春季キャンプでフリー打撃に登板した際に、手首辻佳紀の打球が直撃して骨折し、同年5月まで登板できない状態が続いた。同17日の巨人戦(甲子園)で復帰すると、同年からオーバースロースリークォーターサイドスローの「三段投法」を駆使して打者を翻弄し続け、25勝(13敗)防御率1.96(リーグ2位)で最多勝と最多奪三振を記録したほか、ベストナインと沢村賞も受賞した。1966年にも24勝(9敗)防御率1.55(リーグ2位)を挙げて2年連続の沢村賞・ベストナイン・最多勝を獲得するが、3度目の沢村賞受賞は史上3人目の快挙であった。

1967年頃より、長年の疲労の蓄積や過酷なトレーニングなどから右手指の血行障害に悩まされ、以降20勝を挙げることはできず、入れ替わるように頭角を現した江夏豊にエースの座を譲る。1969年には一軍投手コーチ兼任となるが、その途中で投手専任に戻る。この年は12勝14敗ながら防御率2.01で3度目の防御率2位となった。

1970年には選手兼任監督に就任し、キャンプ初日には全員に5ヶ条の「選手心得」を告げた[20]。そこには「ボウリング玉突き禁止」「時間厳守」などがあり、後に「虎風荘通達」として「金銭貸借の禁止」「掃除当番制」などを命じた[20]。選手からは子供扱いに反発されたが、球界が暴力団関係者との交際や八百長の「黒い霧事件」に包まれていた事情があった[20]6月には江夏が竹中組組長から腕時計を貰ったと報じられ、問題となった[20]。村山は連盟の厳罰を避けようと先手を打ち、江夏を13日間謹慎させた[20]。復帰後初先発となった7月4日の中日戦(甲子園)では試合開始時に村山は登板する江夏に付き添い、マウンド上で頭を下げた[20]8月26日広島戦(甲子園)では田淵幸一が頭部死球を受けて死線をさまよい、江夏は心臓疾患ニトログリセリンが手放せなくなった[20]。村山自身は以前とは打って変わって回転の異なるフォークボールを多投する技巧派投手として活躍し、同年7月7日に通算200勝を達成する。投手としては14勝(3敗)を挙げ、最優秀防御率(0.98)と最高勝率(.824)を獲得、監督としては勝率.611で首位・巨人と2ゲーム差の2位に入り、川上哲治監督をして「天晴れ」と言わしめた。この年に記録した防御率0.98は、規定投球回数以上での戦後唯一の防御率0点台である。

2年目の1971年の開幕前、村山は持病の血行障害の定期検査を受けた神戸の田所病院で結核が判明した[20]。新聞発表は「胆嚢」とごまかして登板を控えたが、シーズンでは5位に沈み、村山の登板は19試合(先発10試合)と減って批判の的となった[20]。村山が投手の際にベンチを任せられる人材を求めるが、「OBに限る」とオーナーの野田誠三から命じられたため[20]、村山は球団社長の戸沢一隆と話し合い、ヘッドコーチに元監督の金田正泰を招いた[20]

現役引退~背番号11へのこだわり編集

1972年は開幕から2勝6敗で迎えた4月21日の広島戦(甲子園)の試合前、村山は戸沢・金田・西山和良コーチを集め「投手に専念したい」と決意を伝えた[20]。指揮は金田が代行することになるが、1週間眠れずに考えた投手陣立て直し策であった[20]スポーツニッポンの記者であった荒井忠は同年オフの総括原稿で、すでにキャンプ中から村山・金田の仲は別離へと向かっており、この指揮権返上で「波乱間違いなし」と踏んでいた[20]5月11日の5割復帰で金田は戸沢に「指揮権を戻したい」と申し出たがチーム好調を理由に現状継続となり、以後も幾度か指揮権返還が検討されるも戸沢は却下し、金田は「監督代行」と呼ばれるようになった[20]。本社専務の田中隆造が遠征先宿舎まで金田を呼び出す電話をかけてきており、指揮の継続を球団に押しつけていた[20]。この年4勝に留まっていた村山は、マジック1の巨人を迎えた10月7日の甲子園に「最後の花道」として自ら先発するが、ONにアベック弾を浴び、巨人のV8が決まった[20]。戸沢は10月24日に病に伏せていた野田の自宅を訪ね、金田昇格の了承を得た[20]。監督辞任の村山は11月2日に現役引退を発表し、背番号11は永久欠番となった[20]

1973年3月21日に行われた巨人戦(オープン戦、甲子園)で引退試合が行われ、7回に登板してから高田繁末次利光王貞治からフォークボールで三振を奪い、有終の美を飾る[21][22][注釈 8]。村山がプロ初登板を果たしたのが前述のように藤村の引退試合であったが、奇しくも村山自身の引退試合も同じオープン戦での巨人戦ということとなった。なお、ライバル関係であった長嶋は、3日前の試合で受けた死球と扁桃腺のために出場せず、東京に戻っていた。すでにSSKの社員で働いていた[20]村山はマウンドから長く遠ざかっていたが、引退試合前の数日間には村山の知人から紹介された明星中学3年生[20]岡田彰布と肩慣らしのキャッチボールをしたほか[22]、登板前には江夏ら投手陣[注釈 9]が作った騎馬に乗って右翼側ブルペンから登場し、満場の拍手が送られた[21][22]。村山は捕手の田淵幸一に「今日は全部フォーク。あとはコースだけ」と告げ、田淵は3人から三振を奪った後、「まだまだ現役でいけますよ。いまの球は最高でした」と声をかけた[22]。マウンドに立った時点で村山の目は涙であふれ、田淵の言葉を聞いてさらに涙した[22]。また、この試合では女優の浪花千栄子が試合後に挨拶し、「村山はん!ほんまにあんた、ようおきばりやしたなぁ。おおきに、おおきに」とねぎらいの言葉を贈った[21][23]

通算222勝は、大学卒の投手としては若林忠志(237勝)に次ぐ歴代2位で、阪神の投手勝利数の記録でも歴代2位、通算防御率2.09はセ・リーグ記録である。また通算WHIP0.95は日本記録で、沢村賞3回受賞は歴代最多タイ記録であった。

村山の背番号11は、阪神タイガースの永久欠番となった。村山は背番号11を関西大学時代から着用しており[24]、タイガースでもそれを貫いた形だったが、村山が入団するまで阪神の背番号11は不吉な番号とされ、着用した選手が故障を含めて何らかの形で不幸が襲っていたため、関西大学の先輩で自身も背番号11を着用したことがある御園生崇男から「自分が付けていた背番号15を譲るから、絶対に11は着用するな」と説得されたが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたい」と拒否した。そうした経緯からか、村山は永久欠番となった栄誉を生涯誇りとしており、サインを求められた際にも必ず「阪神タイガース永久欠番」と添えていたほか、阪神・淡路大震災で被災した際に世話になった人たちへ腕時計を贈ったが、その時計の裏にも「阪神タイガース 11 村山實」と刻まれていたという。

野球解説者・一般会社員として編集

引退後は日本テレビよみうりテレビ広島テレビ[注釈 10]解説者(1973年 - 1987年)となり、その傍らで引退直後の1973年にSSKへ入社[22]。前述のように、タイガース入団時に阪神電鉄本社へ入社していたが結局、阪神グループに残ることは無かった[22]。SSKには1976年まで開発室長として勤務し、在籍当時の部下には沢田ユキオがおり、後に沢田が漫画家としてデビューするきっかけを作った[25]1978年7月24日には、金田正一を会長として日本プロ野球名球会が発足し、村山は入会条件を満たしていたために入会する。大学卒業選手で通算200勝以上を記録した会員は村山が史上初で、後に黒田博樹(日米通算203勝)がいるのみである[注釈 11]

阪神専任監督就任~選手起用の苦労編集

1987年の阪神は球団史上最低の勝率.331で9年ぶりの最下位に終わり、この責任を取って10月12日吉田義男が監督を解任、2日後の同14日に村山の元へ監督就任が要請された[26]。村山は泥にまみれ、ボロボロになると予感し、「8時間も役員会で会議した、その中に飛び込むのは怖い」と言った[27]岡崎義人球団社長は同日、東京世田谷にいる田宮謙次郎に電話し、ヘッドコーチを要請[27]。村山の意向はさておき、先に田宮就任が内定[27]。結局はこれを受諾して監督に就任し、村山は16日に監督就任会見を行った。「ブチ、ユタカ、タイラも帰ってこい」とかつての弟分である江夏、田淵、藤田平に入閣を呼びかけたが、球団の意向もあり、どのコーチも実現しなかった[27]。盟友の田淵とは急きょ上京し、深夜11時から東京プリンスホテルで会談[27]。「トラ番も入ってくれ」と番記者同席で「昔の阪神ではない」「阪神を助けてほしい」と口説いたが、田淵は「他球団の要請なら喜んで受けるが、阪神の要請は断る」[26]「村山タイガースなら受けるが」と固辞された[27]。藤村富美男、不仲や確執も伝えられた吉田の自宅に挨拶し、背番号として自身の永久欠番である11を着用した[27]

同年11月に行われたファン感謝デーにおいて、就任直後の村山は「いま、チームは過渡期なので…」と若手を重点的に起用する方針を示し、その言葉通りにオープン戦から和田豊大野久中野佐資などの若手を積極的に起用していった[28]。この3人は身長が170cm前後であったことから「少年隊」と名付け、村山自ら打撃投手として登板したが、この無茶が祟って股関節を痛め、人工関節手術を受けることとなった。

しかし、この起用方針は他の選手に受け入れられたとは言えないものとなった。田尾安志は「和田は後にモノになったが、大野と中野には負ける気がしなかった。そうやって未完成の選手を重用したから、オープン戦の成績は散々だった」と述べ、さらに「オープン戦の終盤、東京での試合の前にミーティングで、監督が『何とか、この苦境を打開したい』とベテランに意見を求めた。最初に指名された掛布は『監督の考えが選手に伝わりにくい感じがします』と話した。新聞を通じてしか監督の考えを知ることが出来ない状況を述べたものだった。次に柏原さんが『ベテランでも、悪かったら叱って下さい』と言い、3番目に意見を求められた私は『勝つための野球をしてほしいです』と答えたところ、場が静まり返った[28]。それから監督は私をあまり使ってくれなくなった。(意見を述べる前に)『無礼講だ』と言うので思いを素直に言ったまでだったのだが…。ベテランで真っ先に二軍へ行かされ、『このまま一軍に上げないつもりではないか』と感じた。当時まだ34歳。そのまま不本意な形で引退に追い込まれてはたまったもんじゃない。『(監督が)村山さんの間は絶対にクビにはなるまい』と二軍で必死に頑張った。やっとの思いで一軍に復帰すると、その年だけで3本のサヨナラ本塁打。引退を免れ、監督が中村勝広さんに代わって2年目の1991年までユニフォームを着ることが出来た。反骨のエネルギーを胸に37歳までプレー出来たことを思えば、村山さんに感謝すべきかもしれない」と述懐している[28]。また、岡田は「当時、阪神は前年が大惨敗だったので、村山監督はチームをガラリと変えようとしたのかもしれないが、話をした時はあそこまで激変させるとは思わんかった。最たるものが大野、和田、中野の『少年隊』だ。この3人をレギュラーに抜擢したのだが、ポジションを与えるならある程度の実力が無いと戦力として機能しない。一方で平田佐野さんらの出番が減り、チーム内はいつもモヤモヤしていて、一つの方向に向かうという雰囲気では無かった。阪神は日本一になった1985年をピークにチーム力はガクッと落ちていたから、村山監督の2年間も6位、5位と低迷した」と述べている[29]。さらに、嶋尾康史も村山監督の時代は「大変だった」と語り、「ブルペンに電話する前に投手交代がしょっちゅうありました」と述べたところ、投手コーチであった若生智男も「あったね。ブルペンに伝わってないことが…」と語っている[30]

1989年、一軍投手コーチであった上田次朗は「監督専任の第2次政権は、チームが弱い時期でした。監督は先発を早く交代させたがるので『もっと引っ張って下さい』とお願いするのですが、続投させて打たれると、これ見よがしにベンチの椅子を蹴飛ばすんですよ。やがて、試合開始と同時にリリーフ要員をブルペンに向かわせるようになりました。甲子園はブルペンが観客席の下にあるので(先発から見えないために)大丈夫ですが、広島や地方球場はグラウンドの中にあります。先発からは丸見えですから気持ちがいいはずがありません。意を決して『初回からリリーフを準備される(先発投手の)気持ちがわかりますか?』と抗議すると、『そりゃあ分かるけど、先発が信用できんからや。とにかく準備させといてくれ』でした。ある時は『(リリーフを)右も左も両方用意させとけ』と言われたので、『それは止めましょう。2番手にロングリリーフが出来る投手を作っておきますから』とお断りしました。現役時代に大投手だった監督でも、投手のやり繰りには苦労します」と述べている[31]

監督就任1年目の1988年は前述の「少年隊」を開幕から1、2、7番で使った[27]。開幕4連敗の後に巨人戦(甲子園)で中野がプロ初打点の決勝打を含む3安打を放ち、初勝利となった[27]。会見中「中野がよく打った……」と突然席を立ち、あふれる涙をぬぐった[27]5月3日から同5日に巨人戦(東京D)に3連勝して2位に浮上するが、この時が頂点であった[27]。直後の6日には田宮が左足太腿肉離れでベンチを外れて治療に専念し、6月15日には村山との関係が悪化したこともあり、辞任にいたった[27]ランディ・バース水頭症を患った長男への対応を巡って球団と対立し、シーズン途中の同27日に解雇された[27]。メンバーの和田がレギュラーに定着したが、主砲の岡田が打率.267・23本塁打・72打点と平凡な成績に終わり、掛布も33歳の若さで引退。野田浩司は42試合に登板するも3勝13敗と大きく負け越すなど、優勝の中日に29.5ゲームの大差がつき[27]、前年に引き続き2年連続勝率3割台での最下位に終わった[32]。2年目となった1989年は開幕戦の広島戦を快勝でスタートするが、4月12日の巨人戦(阪神甲子園球場)から同19日の大洋戦(横浜)まで6連敗を喫するなど9試合で2勝7敗と大きく負け越し、最下位に低迷する。その後、6月に上位争いに加わるが、マット・キーオセシル・フィルダーら外国人頼みの投打からキーオ、仲田幸司が負傷離脱、池田親興猪俣隆が期待外れに終わり、5位でシーズンを終えた[33][34][35]。観客動員数も前年より10,6%減り、暗黒時代始まりの幕開けとなった[35]またドラフト会議においては古田敦也立命館大学)の獲得を球団に進言したが、古田が眼鏡をかけているとして拒否されていたことをテレビ番組で話している。また、主力選手であった真弓明信は故郷の福岡ダイエーホークスへのトレードが決まりかけていたが、村山が自身のクビを賭けて全力で阻止した。[要出典]

1989年6月25日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)で、岡田がビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転サヨナラ満塁本塁打を放って阪神が勝利するが、この日は前述の天覧試合からちょうど30年目で、同じ左翼ポール際への本塁打でスコアも5-4と裏返しとなり、しかも当時の巨人監督は天覧試合で完投勝利した藤田元司だったことから、岡田が村山の仇討ちを果たした形となった。村山は試合後、「今日は岡田に尽きるが、若いの(この日出場した若手の八木裕亀山努和田豊)がよくつないだ。天覧試合と同じ日?そりぁ嬉しい。気分が全然違うよ」とコメントした[36]。同年シーズン終了後に監督を退任した。

退任後~晩年編集

1991年からは朝日放送(ABC)[注釈 12][注釈 13]サンテレビジョン解説者に就任し、1993年野球殿堂入りを果たした。また、村山は現役時代から実業家の資質に長けており、中でも芦屋市のマンション(現存せず)を購入して自身の会社の本社にしたエピソードは大変有名であるが、その自宅マンションは阪神・淡路大震災で被災し、村山自身もしばらくは自家用車で寝泊まりする生活を強いられた。

1998年8月22日、直腸癌のため神戸市中央区神戸大学医学部附属病院で死去、61歳没[37]。神戸市内で行われた葬儀の後、村山の棺を乗せた霊柩車は、参列した大勢のファンの「六甲おろし」の大合唱に送られて斎場を後にした。

2004年8月、出身校である尼崎産業高等学校(旧・住友工業高校)に村山の投球フォームの銅像(モニュメント)が建てられた。このモニュメントは、卒業生が「後輩の励みになるように」と約1000万円の寄付金を募って校門近くに建立されたもので、高さは台座も含めて2.65mと、ほぼ村山の等身大に近い造型であった。ベースとなったのは1959年に後楽園球場で行われた天覧試合長嶋茂雄を相手に投げている瞬間で、尼崎産業高校が2005年尼崎市立尼崎東高等学校との統合が決定、2011年春に尼崎市立尼崎双星高等学校として新発足し、学校は移転した。移転後も銅像は敷地に残されたが、兵庫県は兵庫県立尼崎総合医療センターを学校跡地に建設することになり、2012年には病院完成後に敷地内に村山の銅像を設置することが決定[38][39]。そして、2015年7月1日に開院した同医療センター正面玄関前の遊歩道に銅像が再設置された[40]

選手としての特徴編集

全身を使って喘ぎながら闘志むき出しで投げる姿は、「人間機関車」と称された陸上長距離選手のエミール・ザトペックの走法に譬えられ、「ザトペック投法」と呼ばれた[1][2]。ほぼ同時期に活躍した小山正明は「10-0」でも「10-9」でも勝ちは勝ちというドライな性格だったのに対し、村山の場合は「10-0」で9回2死ランナー無しでも、全力投球するスタイルを貫いた[41]。小山は村山に対して、「適当に力を抜いた方が負担がかからなくてよいのではないか」といった話をしたことがあったと述べている[41]。このように、「プロとして勝利に拘る」意識が非常に高く、「勝てば官軍。そのためには少々卑怯なことをしたっていい」とインタビューで答えたこともある(『勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー』の村山実特集回より)が、実際には卑怯な真似は大嫌いで、終生のライバルだった長嶋は村山の死後、「一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)は投げて来なかった」と回想している[42]。長嶋との対戦は333打席を数えるが死球は0である。下の通算成績を見ても分かるように、これだけの回数を投げた投手としては死球が極めて少ないのも特筆すべき点である。[要出典]

遊撃手の吉田義男によると、村山は捕手の山本哲也のサインとは逆の投球を時々行っていたという。サインを見て打球の方向を予測していた吉田が、村山が戻って来た際に「なんでや?」と聞くと「打者が山を張っているのがわかったので」と答えた[43]

投球フォームもオーバースロースリークォーターサイドスローの三種投法で分けており[44]、その3種類の投球フォームから放たれる勝負球のフォークボール「三段フォーク」は長年に渡って対戦打者を翻弄させた。オーバースローからのフォークならほとんど目を閉じていても思ったところに落とせたとされ、サイドスローからのそれは、揺れながら落ちると言われた[18]。村山自身はプロ野球の投手としては、やや小柄であったが、手は大きく[45]、手首から中指の先端までが約22cmあったとされている。一方で、フォークボールを多投する投手は投球が捕手の元でワンバウンドして暴投になりやすいが、村山は3000投球回以上でありながら僅か16個しかなく、シーズン全体で見ても1961年に4個記録したのを除けば全て2個以下、1959年1965年に至ってはそれぞれ295回1/3、307回2/3を投げてどちらも暴投が無い。

杉浦忠近鉄バファローズの投手コーチを務めていた頃、太田幸司が「村山さんを見習ってスピードをつけたい」とフォーム改造に取り組もうとすると、「村山のフォームは上半身の使い方が強引で、ある意味邪道。それでも見事に剛球を投げ分けた。形だけ真似してもぶっ壊れるだけだ」と諭して中止させている[46]。なお、太田に対しては1969年のドラフト会議で村山がコーチ兼任選手となっていた阪神が1位指名を検討していたが、村山が上田二朗を強く推薦したことで上田を1位指名している。上田は「(村山は)自らに厳しく他人に優しい人でしたが、私に対しては両方。村山さんが完投勝利を挙げて一緒に帰宅した後、『ちょっと来い』と呼び出されたことがあります。(村山さんの)体中から汗が吹き出ているので『どうしたんですか?』と尋ねると、『シャドーピッチング。これが大事なんや』と。自分の姿を見て学べ、ということです。村山監督の第1次政権では9勝、1勝、9勝。4年目の1973年に自己最多の22勝を挙げることが出来たのは、村山さんのおかげだと思っています」と述べている[47]

村山のフォークボール編集

村山はフォークボールを多い時では1試合で30~40球は投げたと言われている。血行障害に苦しむ村山に代わって頭角を現した江夏豊は、現役引退後に行われた岡田彰布との対談で村山のフォークについて、「最盛期だと、フッと浮いて止まったような感じで、そこからストーンと落ちる。それが2~3年経ってくると浮く感じが無くなったんで、シュート回転とスライダー回転のフォークを投げ分けてきた」と語っている[48]

村山のフォークボールについては、日本初のフォークボーラーとされた杉下茂も認めており、「本物のフォークボールを投げたのは、私と村山、村田野茂佐々木だけだ」と語っている。また、後年スプリット・フィンガード・ファストボール(SFF)が新魔球としてブームとなった際、このボールの握りを一目見た村山は「なんだ、この球・・・、俺が20年前に使ってたヤツだぜ」と苦笑したという[18]

影響編集

野球漫画『巨人の星』に登場する花形満は、村山がモデルである[注釈 14]。『巨人の星』には村山もキャラクターとして登場している。

関西大学の後輩で、村山と同じく全日本大学野球選手権大会に主戦投手として優勝した山口高志阪急ブレーブス)には「村山二世」の異名が付けられた[49]。関西大学時代の山口は村山と同じ背番号11をつけていた[24]

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1959 大阪
阪神
54 26 19 7 2 18 10 -- -- .643 1079 295.1 165 15 56 2 5 294 0 1 45 39 1.19 0.75
1960 36 18 7 1 0 8 15 -- -- .348 665 167.2 116 12 48 7 3 153 2 0 62 47 2.52 0.98
1961 48 31 18 3 1 24 13 -- -- .649 1148 293.0 238 16 62 9 7 221 4 1 81 74 2.27 1.02
1962 57 38 23 6 7 25 14 -- -- .641 1386 366.1 261 17 55 8 5 265 1 0 62 49 1.20 0.86
1963 28 16 10 2 0 11 10 -- -- .524 640 158.1 126 16 48 1 1 121 1 1 59 49 2.79 1.10
1964 46 33 17 5 2 22 18 -- -- .550 1043 255.0 227 27 80 7 5 159 2 0 102 94 3.32 1.20
1965 39 37 26 11 4 25 13 -- -- .658 1165 307.2 221 17 52 5 4 205 0 0 72 67 1.96 0.89
1966 38 32 24 8 9 24 9 -- -- .727 1102 290.1 194 16 52 3 4 207 1 0 58 50 1.55 0.85
1967 30 25 9 3 2 13 9 -- -- .591 709 180.1 141 20 42 3 1 126 2 0 62 56 2.79 1.01
1968 32 24 14 1 0 15 8 -- -- .652 784 198.0 169 13 39 3 7 152 2 0 66 60 2.73 1.05
1969 35 26 11 1 2 12 14 -- -- .462 842 214.2 180 19 38 2 7 160 0 0 58 48 2.01 1.02
1970 25 19 7 5 1 14 3 -- -- .824 573 156.0 85 7 34 6 3 118 0 0 18 17 0.98 0.76
1971 19 10 4 2 1 7 5 -- -- .583 325 83.0 70 6 15 1 3 45 0 0 26 25 2.71 1.02
1972 22 13 3 0 1 4 6 -- -- .400 340 84.2 78 8 18 3 2 45 1 0 36 34 3.61 1.13
通算:14年 509 348 192 55 32 222 147 -- -- .602 11801 3050.1 2271 209 639 60 57 2271 16 3 807 709 2.09 0.95
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字NPB記録
  • 大阪(大阪タイガース)は、1961年に阪神(阪神タイガース)に球団名を変更

年度別監督成績編集

年度 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 本塁打 打率 防御率 年齢 球団
1970年 2位 130 77 49 4 .611 2 110 .245 2.36 34歳 阪神
1971年 5位 130 57 64 9 .471 12.5 101 .220 2.76 35歳
1972年 2位 130 71 56 3 .559 3.5 125 .239 3.00 36歳
1988年 6位 130 51 77 2 .398 29.5 82 .248 3.82 52歳
1989年 5位 130 54 75 1 .419 30.5 135 .257 4.15 53歳
通算:5年 528 241 271 16 .471  

※1 1970年から1996年までは130試合制。
※2 選手(投手)専念のため、1972年4月21日より指揮権返上(8試合2勝6敗、勝率.250)。監督代行は金田正泰
※3 通算成績は、実際に指揮した試合。

タイトル編集

表彰編集

記録編集

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1962年8月11日、対読売ジャイアンツ15回戦(後楽園球場) ※史上95人目
  • 1000奪三振:1963年8月28日、対中日ドラゴンズ18回戦(阪神甲子園球場)、6回表にジム・マーシャルから ※史上26人目
  • 100勝:1964年6月13日、対国鉄スワローズ12回戦(阪神甲子園球場)、12回表1死に6番手で救援登板・完了、2/3回無失点 ※史上37人目
  • 1500投球回:1964年8月16日、対読売ジャイアンツ24回戦(後楽園球場) ※史上54人目
  • 1500奪三振:1966年6月8日、対読売ジャイアンツ7回戦(阪神甲子園球場)、6回表に長嶋茂雄から ※史上15人目
  • 2000投球回:1966年7月5日、対読売ジャイアンツ13回戦(阪神甲子園球場) ※史上31人目
  • 150勝:1966年7月17日、対大洋ホエールズ17回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点完投勝利 ※史上21人目
  • 2500投球回:1968年10月6日、対大洋ホエールズ27回戦(阪神甲子園球場) ※史上20人目
  • 2000奪三振:1969年8月1日、対読売ジャイアンツ14回戦(阪神甲子園球場)、1回表に長嶋茂雄から ※史上7人目
  • 200勝:1970年7月7日、対大洋ホエールズ11回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点(自責点0)完投勝利 ※史上14人目
  • 3000投球回:1972年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(阪神甲子園球場) ※史上13人目
  • 500試合登板:1972年6月24日、対大洋ホエールズ12回戦(川崎球場)、先発登板で4回1/3を5失点 ※史上27人目
その他の記録
  • 通算WHIP 0.95 (通算2000投球回以上、日本記録[50]
  • 通算防御率 2.09 (通算2000投球回以上、セ・リーグ記録)
  • シーズンWHIP 0.748 (規定投球回以上、1959年、セ・リーグ記録[50]
  • シーズン防御率 0.98 (規定投球回以上、1970年、セ・リーグ記録[注釈 16]
  • オールスターゲーム出場 8回 (ファン投票選出:1962年[注釈 17]、1964年、1966年/監督推薦:1959年、1960年、1961年、1965年、1967年、1969年)

背番号編集

  • 11 (1959年 - 1972年、1988年 - 1989年) ※永久欠番

登録名編集

  • 村山 実 (むらやま みのる、1959年 - 1963年5月21日、1964年 - )
  • 村山 昌史 (むらやま まさし、1963年5月22日 - 同年終了)

関連情報編集

出演番組編集

日本テレビ・よみうりテレビ・広島テレビ時代
朝日放送時代

著書編集

関連楽曲編集

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 2011年度に尼崎市立尼崎東高等学校との統合・移転によって尼崎市立尼崎双星高等学校となった。
  2. ^ 初登板完封勝利は日本プロ野球史上15人目。
  3. ^ ただし、佐渡稔『天皇と背番号3』(祥伝社、1983年)には「私にとってサヨナラホームランを打たれたことは勲章」とのコメントも寄せている。
  4. ^ その後、2011年5月に日テレ系で放送された『Going!Sports&News』の特集で、映像を鮮明化する技術を使った検証が行われ、長嶋の打球は左翼ポールの右側に入っていたことが解析から判明している。
  5. ^ このエピソードはTBSテレビクイズダービー』の問題で出題された。
  6. ^ 1962年日本シリーズ第2戦における7回1/3のパーフェクトピッチングは長らく日本シリーズ記録であったが、2007年日本シリーズ第5戦の山井大介中日ドラゴンズ)の8回で更新された。
  7. ^ 前日の同一カードでは、7回までノーヒットピッチングだった村山から8回に安打を奪っていた。
  8. ^ 朝日新聞の記事では、王が「前の2人(高田、末次)の三振を見て、やっぱりこういう形(三振する)で送り出してあげるのが一番いいんじゃないかと思ってね」というコメントが紹介され「『演技』があったことを仄めかしていた」と記されているほか、村山自身もそれに気付いており、記事で「(巨人の)皆さんが協力してくれたのでしょう」とコメントしている。
  9. ^ 朝日新聞記事では江夏のほかに谷村智啓五月女豊の名前が挙げられているが、中川(2016年)では江夏以外は上田二朗古沢憲司・谷村・平山英雄となっており、五月女の名は出ていない。
  10. ^ 広島テレビについては、対巨人戦以外のローカル放送は1979年頃から1987年まで出演、1979年10月6日の優勝決定試合(広島対阪神戦)の解説も濃人渉と共に務めた(実況:加藤進・ベンチリポート:脇田義信)。
  11. ^ なお、若林忠志(237勝)、杉下茂(215勝)、藤本英雄(200勝)の3人も大学卒だが、明治・大正生まれのために入会資格が無い。
  12. ^ 2018年に認定放送持株会社への移行により朝日放送グループホールディングスとなった旧法人。テレビ部門およびラジオ部門はそれぞれ子会社化。
  13. ^ 解説者としては1990年に契約を結んだが、体調の都合により活動は1991年からとなった。
  14. ^ 川崎のぼる日刊スポーツ連載コラム・伝説『スポ根アニメの原点 巨人の星』(2009年4月21日5月2日)の中で、「村山実は『巨人の星』のキャラクターの中で唯一存在したモデル」と語っている。
  15. ^ 当時は最多奪三振の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイトには、1965年、1966年の「最多奪三振」として村山の名前が記載されている。なお、セントラル・リーグでは、1991年より最多奪三振の表彰が開始された。
  16. ^ 2リーグ制後の最高記録でもある。1リーグ時代も含めると1943年の藤本英雄(巨人)の0.73が最高。
  17. ^ 1962年はファン投票で選出されるも出場辞退のため不出場。
  18. ^ 1991年までナイターは放送される曜日に合わせて『○曜ナイター』(○ようナイター)と題され、デーゲームは1987年までは『プロ野球中継』(プロやきゅうちゅうけい)、1988年から1991年までは『(西暦下二桁)プロ野球公式戦』(プロやきゅうこうしきせん)と題されていた。
  19. ^ 日曜日の朝日放送制作時を中心に出演。

出典編集

  1. ^ a b “【11月11日】1958年(昭33) 昭和11年生まれの背番号11、村山実が阪神と契約”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2007年11月11日). オリジナルの2013年8月31日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/20130831071545/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_november/KFullNormal20071025183.html 
  2. ^ a b 村山さんが背負った「悲運」の歴史再び… 天国で悔し涙!?「命かけて判定してくれッ」”. 産経新聞 (2016年5月12日). 2017年7月5日閲覧。
  3. ^ 村山実『炎のエース ザトペック投法の栄光』ベースボール・マガジン社、1993年、p34
  4. ^ 村山[1993: 36]
  5. ^ 村山[1993: 34]
  6. ^ 村山[1993: 40]
  7. ^ 村山[1993: 44]
  8. ^ 村山[1993: 52]
  9. ^ 村山[1993: 58]
  10. ^ 村山[1993: 62]
  11. ^ 村山[1993: 71]
  12. ^ 村山[1993: 72]
  13. ^ 村山[1993: 73]
  14. ^ 村山[1993: 74]
  15. ^ 野村克也『プロ野球 最強のエースは誰か?電子書籍版』彩図社、2014年10月7日、p.1991
  16. ^ 『21世紀の伝説史 長嶋茂雄DVD 第一巻 背番号3の時代』メディア・ファクトリー、2001年10月26日、Capter2、11.宿命『村山実・天覧ホーマーの真実と復讐』で本人が発言したものを収録
  17. ^ 読売新聞東京本社編『巨人軍5000勝の記憶 永久不滅版』ベースボール・マガジン社、2007年、pp.32-35
  18. ^ a b c d 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』33頁
  19. ^ 【昭和39年物語】(9)村山実という男…「泣きの村山」怒りの猛抗議
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 【内田雅也の猛虎監督列伝(16)~第16代・村山実】苦悩の「指揮権返上」が招いた悲劇
  21. ^ a b c 「村山、最後のフォーク」朝日新聞1973年3月22日朝刊8頁
  22. ^ a b c d e f g 中川右介『阪神タイガース 1965 - 1978』角川書店角川新書》、2016年、pp.255 - 256
  23. ^ 玉木正之『プロ野球大事典』新潮社新潮文庫》、1990年、p.415(「浪花千栄子」の項)
  24. ^ a b 鎮勝也『君は山口高志を見たか-伝説の剛速球投手』講談社、2014年、p.18。
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  26. ^ a b 【セ・パ誕生70記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.3 [1987年編] (週刊ベースボール別冊立春号)ベースボール・マガジン社、2020年、92頁
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m n 【内田雅也の猛虎監督列伝(24)~第24代 村山実】激情家の「11」を襲った相次ぐ事件
  28. ^ a b c 球場が呼んでいる(田尾安志)首脳陣・フロントが押さえたい大物新人のトリセツ”. 日本経済新聞. 2019年2月24日閲覧。
  29. ^ 岡田彰布、日刊ゲンダイ、俺の頭はなぜデカイのか<第22回>村山監督がチームをガラリと変えて暗黒時代に突入2015年10月3日
  30. ^ 月刊タイガース2016年12月号、嶋尾康史のシマ・しま日記、第84回 若生智男さん(タイガースOB)
  31. ^ “【私の失敗(5)】上田二朗、マイク仲田に背を向け、機嫌を損ねてしまった”. サンケイスポーツ. (2015年11月21日). https://www.sanspo.com/baseball/news/20151121/tig15112111000001-n2.html 2020年8月24日閲覧。 
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  33. ^ “1989年 セントラル・リーグ”. NPB. (2020年8月24日). https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1989.html 2020年8月24日閲覧。 
  34. ^ “【タイガース血風録 猛虎水滸伝】負の連鎖…6連敗で定位置へ 村山監督が故障仲田&キーオにやつ当たり”. 産経新聞. (2014年4月1日). https://www.sankei.com/west/news/140401/wst1404010003-n2.html 2020年8月24日閲覧。 
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  36. ^ ミスタータイガース村山実、天覧試合30年目のリベンジ 愛弟子・岡田が満塁弾― スポニチ Sponichi Annex 野球
  37. ^ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月23日閲覧。
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  39. ^ 村山 実(阪神タイガース)さんの銅像 西宮ブログ2015年2月12日
  40. ^ あまが咲だより 第15号 (PDF)”. 尼崎総合医療センター. p. 2 (2015年8月). 2021年10月1日閲覧。
  41. ^ a b “村山実編 その一 「不仲説」の真相は…”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社). (2005年8月15日). オリジナルの2012年7月24日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/20120724021012/http://www.daily.co.jp/information/feature/0003215213.shtml 
  42. ^ 雑誌『Number 名勝負列伝』文藝春秋
  43. ^ 吉田義男『牛若丸の履歴書』日経ビジネス人文庫、2009年、p.150
  44. ^ メジャーリーグベースボールでもフアン・マリシャルが投球フォームを投げ分けていた。
  45. ^ 野村克也『プロ野球 最強のエースは誰か?電子書籍版』彩図社 2014年10月7日、p.1990-1991
  46. ^ ベースボールマガジン』2011年11月号、p.56
  47. ^ “【私の失敗(4)】上田二朗、球宴でライバル球団の捕手に研究され…”. サンケイスポーツ. (2015年11月20日). https://www.sanspo.com/baseball/news/20151120/tig15112011000001-n2.html 2020年8月24日閲覧。 
  48. ^ 江夏豊・岡田彰布(共著)『なぜ阪神は勝てないのか?-タイガース再建への提言』角川ONEテーマ21、角川書店、2009年、pp.139-140
  49. ^ 鎮勝也『君は山口高志を見たか-伝説の剛速球投手』講談社、2014年、pp.40-43
  50. ^ a b 日本プロ野球記録 Japanese Baseball Records
  51. ^ a b c 産経新聞』1999年8月3日付大阪夕刊、社会面/1999年8月9日付東京朝刊、社会面。

参考文献編集

  • Sports Graphic Number編『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1989年
  • 村山実『炎のエース ザトペック投法の栄光』ベースボール・マガジン社、1993年

関連項目編集

外部リンク編集