ナシオナル・モンテビデオ

クルブ・ナシオナル・デ・フットボールスペイン語: Club Nacional de Football, スペイン語発音: [kluβ nasjoˈnal de ˈfutbol])は、ウルグアイモンテビデオをホームタウンとするスポーツクラブ。特にサッカーチームが有名であるが、他にも多くの競技チームを保有している[3]。通称はナシオナル・モンテビデオ(Nacional de Montevideo)。

ナシオナル・モンテビデオ
原語表記 Club Nacional de Football
愛称 Tricolores(トリコロール)
Bolsos(ポケット)
Bolsilludos(太っ腹)
Albos(白)[1]
Decano(長老)
クラブカラー 白・青・赤
創設年 1899年
所属リーグ ウルグアイリーグ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン モンテビデオ
ホームスタジアム グラン・パルケ・セントラル
収容人数 34,000[2]
代表者 ウルグアイの旗 ホセ・デクルネクス
監督 ウルグアイの旗 グスタボ・ムヌア
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

概要編集

ウルグアイの首都モンテビデオを本拠地としている。ナシオナルと呼ばれるクラブは世界中に存在するため、都市名を加えてナシオナル・モンテビデオと呼ばれることが多い。エスタディオ・グラン・パルケ・セントラルをホームスタジアムとして使用している。

2019シーズン終了時点で、アマチュアリーグ時代・プロリーグ時代の通算で47回のリーグ優勝回数を誇る。リーグ優勝50回(前身であるCURCC時代の5回を含む)のペニャロールとライバル関係にあり[4]クラシコ・デル・フトボル・ウルグアージョ(クラシコまたはスーペルクラシコ)と呼ばれるペニャロールとの対戦はラテンアメリカで最も歴史のあるダービーマッチである[5]コパ・リベルタドーレスでは3回、1971年と1980年と1988年に優勝している。同大会の出場回数は、ペニャロールと並んで歴代最多タイである。インターコンチネンタルカップでも1971年と1980年と1988年に優勝しており、一度も敗れることなく3回優勝した史上初のクラブとなった。レコパ・スダメリカーナでは第1回大会の1989年に優勝した[6]。これまでに、137個の国内タイトル、22個の国際タイトルを獲得している。国際タイトルのうち、9個は南米サッカー連盟(CONMEBOL)もしくは国際サッカー連盟(FIFA)によって主催されたもので、13個はアルゼンチンサッカー協会(AFA)とウルグアイサッカー協会(AUF)の共催によるものである[7]。南米王者と北中米カリブ海王者が対戦するコパ・インテラメリカーナでは1972年と1989年の2回優勝している[8]。ペニャロールはこの大会のタイトルを獲得していないが、それはこの大会が不規則開催であったためである。

歴史編集

クラブ創設と黎明期編集

 
1905年の第1回コパ・デ・オノール・クセニエールアルムニ(アルゼンチン)を破って優勝した時のチーム

南米にはヨーロッパ出身の移民労働者によって創設されたサッカークラブが多く、ライバルのペニャロール(1913年まではCURCC)もまたイギリス人労働者によって創設されたクラブである。一方、ナシオナルは古くからモンテビデオに住むウルグアイ人が中心となって創設した、南米初の土着のクラブである[9]。なお、当時のウルグアイの人口はわずか93万人であり、首都モンテビデオの人口29万人の半数以上がウルグアイ国外出身者であった[9]。1899年5月14日、ウルグアイAC(Uruguay Athletic Club)とモンテビデオFC(Montevideo Fútbol Club)が合併してクルブ・ナシオナルが創設された[10]。ウルグアイの独立指導者ホセ・アルティガスが掲げた3色旗に由来する白・青・赤をクラブカラーと定め[11]、赤色をメインに青色も用いたユニフォームをデザインした。6月18日、インテルナシオナルとの間でクラブ初試合となる親善試合を開催した[9]。1900年にはデフェンサFC(Defensa FC)を吸収し、デフェンサの選手も取り込んだ。同年に創設されたウルグアイ・サッカーリーグには、翌1901年の第2回大会から続けて参加している。当初は、ヨーロッパ人によって運営される4クラブ(アルビオンFC、CURCC、ドイチャーFK(Deutscher FK)、ウルグアイ・アトレティック(上述のウルグアイACとは別クラブ))が加盟しており、クリオーリョの選手やクラブが欠如しているというナシオナルの請願は却下されたが、ナシオナルが親善試合での傑出した成績が評価されてアルゼンチンリーグに招待されたため、1901年、ウルグアイリーグに所属する4クラブはナシオナルの請願を認めざるを得なくなった。翌1902シーズンにはリーグ戦で初優勝を果たした。同じ年、赤色だったユニフォームが白色に変更された。1903年9月13日、ウルグアイ代表アルゼンチン代表との親善試合を行い、アルゼンチン代表を相手に3試合目にして初勝利(スコアは3-2)をあげた。この時のウルグアイ代表のメンバーは完全にナシオナルの選手だけで構成されていた。前年に続き1903シーズンもリーグ戦を制した。2シーズンとも無敗での優勝であった。1900年前後のナシオナルの選手は新しく持ち込まれたプレースタイルを具現化し始めており、従来よりも肉体的なコンタクトを減らし、より創造的で敏速な連係プレーやドリブルなどを多用した。マガリーニョス・ピッタルーガはナシオナルについて以下のように述べている。

イギリス系のクラブのプレーは、純粋で標準化されたイギリスのスポーツの美学に則って行われた。ポジション変更が少ないプレー、ロングパスの多用、強烈なシュート、肉体の強さを活かしたプレーなどである。選手の肉体自体が武器となり、攻撃的にも守備的にもプレーする。(中略)ナシオナルはイギリス系のクラブに比べて小柄で機敏な選手で構成される。(中略)肉体の接触を捨て、自身の創造性に従ったプレーを選択する。彼らはドリブル、スピードのあるショートパス、ダッシュを行い、常にピッチを走り続ける[12]

1911年、27歳のホセ・マリア・デルガドが会長に就任し、1916年に世界トップクラスの選手だったエクトル・スカローネが加入すると、ナシオナルは最初の黄金期を迎えた。1915年には国内リーグ、コパ・コンペテンシア、コパ・デ・オノールの国内3冠(トリプレ・コローナ)を達成。1916年と1917年も続けて国内リーグを制し、ウルグアイ初のリーグ3連覇(コパ・ウルグアージャ・エン・プロピエダ)を達成した。

この時代のナシオナルは国際大会でも活躍した。当時、アルゼンチンサッカー協会(AFA)とウルグアイサッカー協会(AUF)は、両国のカップ戦王者同士が対戦するタイ・カップ(Tie Cup)[注釈 1]コパ・デ・オノール・クセニエール(Copa de Honor Cusenier)[注釈 2]を共催していた。ナシオナルはウルグアイの代表としてこれらの大会に何度も出場しており、タイ・カップで2回(1913, 1915)、コパ・デ・オノール・クセニエールでは歴代最多の4回(1905, 1915, 1916, 1917)の優勝を遂げた。1916年には、アルゼンチンウルグアイの国内リーグ王者同士が対戦するコパ・アルダオの国際タイトルも獲得した。コパ・アルダオは、後のコパ・リベルタドーレスの礎となった大会である。この大会でナシオナルはウルグアイ勢最多となる5回[注釈 3]の優勝を記録した。当時の国際大会におけるナシオナルのライバルは、ラシン・クルブボカ・ジュニアーズリーベル・プレートインデペンディエンテアルムニなどであった。

ヨーロッパ遠征と黄金期編集

 
5連覇達成期の前線の選手

国内やアルゼンチンでの大会で成功を収めた後、ナシオナルは国際舞台でも大きな活躍を遂げた。1924年のパリオリンピックにはアンドレス・マサーリサントス・ウルディナランスカローネアンヘル・ロマーノアルフレード・シベーチ、パスクアル・ソーマの6選手をウルグアイ代表に送り込んだ。ウルグアイは決勝でスイスを破り、初出場・初優勝を遂げた。続く1928年のアムステルダムオリンピック、1930年に自国で開催された第1回FIFAワールドカップでも、ナシオナルはウルグアイ代表に多数の選手を送り込み、そのすべてでウルグアイは優勝を果たした。国内リーグでの活躍や、所属選手の代表での成功などの理由から、1925年には長期間のヨーロッパ遠征に招待され、190日におよぶ滞在期間中に38試合を行った。9ヶ国のプロクラブや各国代表チームと対戦し、26勝7分5敗(130得点30失点)の成績を残した[9]。ヨーロッパ遠征中には約80万枚のチケットが売れた[13]。1927年にはアメリカ遠征を行い、16勝2分1敗の成績を残した。その後、1932年に国内リーグがプロリーグに移行した。ナシオナルは、アマチュアリーグ時代の優勝回数において最多の11回を数えた。また、1920年代前半まで開催されていた国内カップ戦のコパ・コンペテンシア(優勝7回)、コパ・デ・オノール(優勝7回)の優勝回数も共に最多であった。

1939年から1943年にかけて国内リーグ5連覇(キンケニオ・デ・オロ)を達成。この5年間に国内リーグで96試合を戦い、77勝9分10敗(318得点108失点)の成績を残した。1941シーズンは、プロリーグ化以降唯一の完全優勝(20戦全勝)でリーグを制した。この間、ライバルのペニャロールに対しても、史上最長となる国内リーグにおけるクラシコ10連勝を達成した。

1948年、南米最強クラブを決めるためにカンペオナート・スダメリカーノ・デ・カンペオネス(南米クラブ選手権)がチリで開催された。同大会には南米サッカー連盟(CONMEBOL)に加盟する7ヶ国(パラグアイ、コロンビア、ベネズエラは不参加)の王者が参加し、ウルグアイからは前年の国内リーグを制したナシオナルが出場した。大会は1試合総当たり方式で行われ、ナシオナルは、ヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)、リーベル・プレート(アルゼンチン)に次ぐ3位の成績を残した。この大会はコパ・アルダオと共に、後のコパ・リベルタドーレスの創設に向けた重要な足掛かりとなったと見なされている[14]

1960年には南米王者を決めるコパ・リベルタドーレスが創設された。ナシオナルは1962年に初出場を果たした。1964年には準決勝でコロコロ(チリ)を破って決勝に進出したが、インデペンディエンテ(アルゼンチン)に敗れ準優勝に終わった。1967年にはクルゼイロ(ブラジル)、ペニャロールと同居した準決勝リーグを突破したが、決勝でラシン・クルブ(アルゼンチン)に敗れて再び準優勝に終わった。1969年には準決勝でライバルのペニャロールを破ったが、決勝でエストゥディアンテス(アルゼンチン)に敗れて3回目の準優勝に終わった。決勝で敗れた相手はいずれもアルゼンチンのクラブであった。1971年大会で4回目の決勝進出を果たした際もアルゼンチンのエストゥディアンテスとの対戦となったが、3連覇中の相手にもひるまず勝利して同大会初優勝を飾った。同年にはインターコンチネンタルカップにも出場し、ストライカーのルイス・アルティメの2得点でパナシナイコス(ギリシャ)を破り、初のクラブ世界一となった。この時代の南米のトップクラブは全般的に荒っぽいプレーで知られており、UEFAチャンピオンズカップ優勝のアヤックス(オランダ)が出場を辞退したため、準優勝のパナシナイコスが代わりに出場していた。翌1972年のコパ・インテラメリカーナではクルス・アスル(メキシコ)を破って優勝した。

1980年のコパ・リベルタドーレスでは決勝でインテルナシオナル(ブラジル)と対戦し、超満員のセンテナリオでインテルナシオナルを破って2回目の南米制覇を果たした。同年のインターコンチネンタルカップではノッティンガム・フォレスト(イングランド)と対戦し、ワルデマール・ビクトリーノが唯一の得点を挙げてノッティンガムを撃破、2回目の世界一となった。1988年のコパ・リベルタドーレス決勝ではニューウェルズ・オールドボーイズ(アルゼンチン)と対戦。センテナリオでの試合ではバルガス、デ・レオンオストラサが得点して3-0で勝利、3回目の南米王者に輝いた。同年のインターコンチネンタルカップではフース・ヒディンク監督が率いるPSV(オランダ)と対戦し、2-2(得点はいずれもオストラサ)で決着がつかなかったが、PK戦に勝利して、3回目の世界一を達成した。1989年のコパ・インテラメリカーナではCDオリンピア(ホンジュラス)に勝利して2回目の優勝を飾った。同年のレコパ・スダメリカーナではラシン・クルブ(アルゼンチン)を破って優勝した。

1990年代以降編集

1992シーズンにはフリオ・デリー・バルデスとアントニオ・ビダル・ゴンサレスの活躍で9年ぶりのリーグ優勝を果たした。1993年から1997年まではペニャロールに2回目の5連覇を許し、ダンテ・イッコ会長が復帰した。1990年代の大部分は財政危機に悩まされ、スポーツ面で得た成功は少なかったが、1998年にはウーゴ・デレオン監督の下でリーグを制し、1994年に短期リーグ制(アペルトゥーラとクラウスーラ)が採用されて以降、アペルトゥーラ、クラウスーラ双方で優勝した初のクラブとなった。チームの礎となる選手を引き留め、2000年から2002年にはリーグ3連覇を果たした。2005年にはグラン・パルケ・セントラルの改修工事が行われ、国有のエスタディオ・センテナリオを使用する機会が減少した。フアン・ラモン・カラスコ監督が率いた2010-11シーズンには2シーズンぶり43回目の優勝を飾った。アルゼンチン人マルセロ・ガジャルド監督が率いた2011-12シーズンにはペニャロールとのクラシコでダブルを達成して2連覇を果たした。シーズン終了後にガジャルド監督がクラブを離れ、後任にはデフェンソール・スポルティングを率いていたチャボ・ディアス監督を招聘した。

ライバル編集

 
ナシオナルのサポーター

ペニャロールとの対戦はクラシコ・デル・フトボル・ウルグアージョ(クラシコまたはスーペルクラシコ)と呼ばれる。ウルグアイにおけるクラシコはラテンアメリカで最も歴史のあるダービーマッチである[15]。クラシコの初試合は1900年7月15日に行われ、ペニャロール(当時CURCC)が2-0で勝利した[16]。2019年12月15日までに544試合が行われ、ペニャロールが191勝、ナシオナルが177勝、引き分けが176試合である[16]。2強の優勝回数を合計すると、国内リーグ開催回数全体の約80%にもなる[17]

1939年から1943年にかけてナシオナルは国内リーグ5連覇(キンケニオ・デ・オロ)を達成した。1938年から1943年の間に23回クラシコが行われ、ナシオナルはペニャロールに対して18勝4敗(1分)と圧倒的な成績を残している。1941年12月14日の対戦では6-0で大勝し、クラシコにおける最大得点差記録を樹立。1943年11月21日のペニャロール戦では、史上最長となる国内リーグにおけるクラシコ10連勝を達成。この時代の主力には以下の選手らがいる。

選手 リーグ
優勝回数
備考
アティリオ・ガルシア 8回 クラブ歴代最多得点、クラシコ最多得点(35点)、8回のリーグ得点王
アニバル・パス 9回 ウルグアイ代表として1950年ワールドカップ・ブラジル大会優勝
スチュベルト・ガンベッタ 9回 ウルグアイ代表として1950年ワールドカップ・ブラジル大会優勝
ルイス・エルネスト・カストロ 7回
アニバル・シオッカ 8回
エウヘニオ・パト・ガルバリーシ 7回
ロベルト・ポルタ 6回
ビビアーノ・サピライン 6回

スタジアム編集

 
エスタディオ・グラン・パルケ・セントラル

クラブ創設当初はエスタディオ・プンタ・デ・ラス・カレータスを使用していたが、その後、ラ・ブランケアーダ地区にあるエスタディオ・グラン・パルケ・セントラルに移転した[9]。一般にエル・パルケと呼ばれるこのグラン・パルケ・セントラルは、コパ・アメリカの1923年大会と1924年大会の単独会場となった[18]。1930年の第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会では、開幕戦2試合のうちの1試合、7月13日に行われたアメリカベルギー戦の会場となった。

ペニャロールとのクラシコなどのビッグゲームはウルグアイのナショナル・スタジアムであるエスタディオ・センテナリオを使用するため、エル・パルケが使用されない試合も多い。しかし、2000年代になって改修工事が行われたことから、2005年以降はかつてよりも多くのホームゲームがエル・パルケで行われている。

ユニフォーム編集

ファーストキット編集

1899年のクラブ創設から1902年まで使用された最初のユニフォームは、ウルグアイ独立の英雄ホセ・アルティガス3色旗に由来する赤色と青色が採用されていた。1902年、ウルグアイサッカー協会からアルビオンFCのユニフォームとの類似を回避するよう要請を受け、ポケット付きの白色のシャツを採用した。このデザインが、ナシオナルのニックネームの1つであるBolsos(ポケット)の由来である。以来、現在に至るまで100年以上にわたりデザインの変更はほとんどされていない。なお、スーペルクラシコや優勝決定プレーオフなどの特別な試合では全身白色のユニフォームを着用することが多い。

 
 
 
 
 
 
 
1899-1902
 
 
 
 
 
1902-1967
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1967-現在
 
 
 
 
 
 
 
 
 
特別な試合

セカンドキット編集

伝統的に赤色を基調としたユニフォームを採用している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
1902-1993
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1994-1995
 
 
 
 
 
 
 
 
 
現在

サポーター編集

サッカーのサポーターを表すスペイン語に「インチャ(hincha)」という単語があり、ナシオナルのサポーターを表す際にも使用される。20世紀初頭のナシオナルの関係者であったプルデンシオ・ミゲル・レジェスは、長年にわたるクラブへの貢献によって有名だった。レジェスの職務にはボールに空気入れること(「膨らます」というスペイン語は一般的にはinflarであるが、ウルグアイではhincharがよく使用される)があったが、他のサポーターらが職務名で彼の名を呼び、わずか数試合のうちに、レジェスはナシオナルの「インチャ」として広まった。これが、世界中に広がるスペイン語話者によって頻繁に使用されるインチャという単語の起源である[19]

ナシオナルは、3色のクラブカラーからトリコローレス(Tricolores、トリコロール)、かつて胸ポケットの付いたユニフォームを使用していたことからボルソス(Bolsos、ポケット)またはボルシリュードス(Bolsilludos、太っ腹)、クラブの歴史の長さからデカーノ(Decano、長老)などのニックネームを持つ。

2011年にはソシオ(クラブ会員)数が40,000人を突破し[20]、2012年中頃には50,000人を突破した[21]

タイトル編集

国内タイトル編集

  • プリメーラ・ディビシオン(1900-):47回
    • アマチュアリーグ時代(1900-1931):11回
      • 1902, 1903, 1912, 1915, 1916, 1917, 1919, 1920, 1922, 1923, 1924
    • プロリーグ時代(1932-):36回
      • 1933, 1934, 1939, 1940, 1941, 1942, 1943, 1946, 1947, 1950, 1952, 1955, 1956, 1957, 1963, 1966, 1969, 1970, 1971, 1972, 1977, 1980, 1983, 1992, 1998, 2000, 2001, 2002, 2005, 2005-06, 2008-09, 2010-11, 2011-12, 2014-15, 2016, 2019
  • コパ・コンペテンシア(1904-1925):7回
    • (1903), 1912, 1913, 1914, 1915, 1919, 1921, 1923 ※1900-1903年は前身の大会
  • コパ・デ・オノール(1905-1922):7回
    • 1905, 1906, 1913, 1914, 1915, 1916, 1917

国際タイトル編集

国際タイトル(AFA/AUF主催大会)編集

過去の成績編集

シーズン ディビジョン 順位 試合数 得点 失点 勝ち点 備考
2003 アペルトゥーラ プリメーラ 1 17 14 2 1 34 9 44
クラウスーラ 9 17 7 5 5 29 23 26 ペニャロールとの年間優勝プレーオフに敗れて準優勝
2004 アペルトゥーラ プリメーラ 1 9 6 3 0 17 6 21
クラウスーラ 3 9 4 3 2 18 12 15 ダヌービオとの年間優勝プレーオフに敗れて準優勝
2005 プリメーラ 1 (注1) 17 12 5 0 39 16 41
2005-06 アペルトゥーラ プリメーラ 2 17 9 7 1 32 16 31
クラウスーラ 1 16(注2) 12 2 2 31 12 38 ロチャとの年間優勝プレーオフに勝って優勝
2006-07 アペルトゥーラ プリメーラ 5 15 8 3 4 28 22 27
クラウスーラ 15 15 5 3 7 14 22 18
2007-08 アペルトゥーラ プリメーラ 5 15 6 6 3 19 12 24
クラウスーラ 5 15 10 1 4 33 21 31
2008-09 アペルトゥーラ プリメーラ 2 15 10 2 3 23 13 32 1位のダヌービオとのプレーオフに勝利
クラウスーラ 6 14(注3) 6 5 3 27 21 23 デフェンソールとの年間優勝プレーオフに勝利して優勝
2009-10 アペルトゥーラ プリメーラ 1 15 13 0 2 36 11 36
クラウスーラ 4 15 8 3 4 27 15 27 ペニャロールとの年間優勝プレーオフに敗れて準優勝
2010-11 アペルトゥーラ プリメーラ 2 15 8 5 2 28 18 29
クラウスーラ 1 15 11 1 3 32 13 34 デフェンソールとの年間優勝プレーオフに勝利して優勝
2011-12 アペルトゥーラ プリメーラ 1 15 9 5 1 30 11 32
クラウスーラ 2 15 11 2 2 38 20 35 デフェンソールとの年間優勝プレーオフに勝利して優勝
2012-13 アペルトゥーラ プリメーラ 3 15 10 2 3 29 14 32
クラウスーラ 4 15 7 5 3 23 21 26
2013-14 アペルトゥーラ プリメーラ 3 15 10 0 5 29 18 30
クラウスーラ 3 15 9 0 6 26 18 27
2014-15 アペルトゥーラ プリメーラ 1 15 14 0 1 34 7 42
クラウスーラ 9 15 6 3 6 24 21 21 ペニャロールとの年間優勝プレーオフに勝利して優勝
2015-16 アペルトゥーラ プリメーラ 2 15 9 3 3 32 21 30
クラウスーラ 5 15 7 3 5 21 17 24
  • (注1) - レギュラーシーズン最終節では90+7分にPKによる決勝点を挙げ、デフェンソールと同勝ち点でプレーオフ出場を決めた。しかし、この疑惑の勝利を不服としたデフェンソールがプレーオフ出場を拒否し、ナシオナルの優勝が自動的に決定した。
  • (注2) - アペルトゥーラは18クラブ、クラウスーラは17クラブによって争われたため。
  • (注3) - アペルトゥーラ終了後、財政問題によりビジャ・エスパニョーラがアペルトゥーラ終了後に強制降格となったため、クラウスーラは14試合制で行なわれた。

現所属メンバー編集

2018年8月24日現在
No. Pos. 選手名
1   GK エステバン・コンデ  
2   DF マルコス・アンヘレリ
3   DF ロドリゴ・エラムスペ
4   DF アグスティン・オリベロス
5   DF ラファエル・ガルシア
6   DF アレクシス・ロリン
7   MF ルイス・アギアル
9   FW ティアゴ・ベシノ
10   MF タバレ・ビウデス
11   FW レアンドロ・バルシア
12   GK ルイス・メヒア
13   MF マティアス・スニーノ
14   FW チョリ・カストロ
15   MF アルバロ・ゴンサレス
16   MF セバスティアン・ロドリゲス
18   FW セバスティアン・フェルナンデス
No. Pos. 選手名
19   MF サンティアゴ・ロメロ
20   FW カルロス・デ・ペナ
21   DF ギジェルモ・コトゥグノ
22   DF アルフォンソ・エスピーノ
23   MF サンティアゴ・ロドリゲス
24   FW ゴンサロ・ベルヘッシオ
25   GK ギジェルモ・セントゥリオン
26   DF マティアス・ビーニャ
27   MF ガブリエル・ネベス
28   MF ホアキン・トラサンテ
29   MF ブリアン・オカンポ
30   DF マキシミリアーノ・ビジャ
33   DF パウロ・ヴィニシウス
-   DF グズマン・コルホ
-   MF ファクンド・ワレル
-   FW レアンドロ・オトルミン
-   FW ピエール・ウェボ

歴代監督編集


歴代所属選手編集

1924年のパリオリンピック・サッカー競技ではウルグアイ代表が金メダルを獲得したが、ナシオナルはウルグアイ代表に6人の選手を送り込んだ。1928年のアムステルダムオリンピック・サッカー競技では、4年前を上回る8人をウルグアイ代表に送り込み、ウルグアイは2大会連続で金メダルを獲得した。1930年にウルグアイで開催された第1回FIFAワールドカップでは、9人のナシオナルの選手が初代大会王者となった。ウルグアイが2回目の優勝を果たした1950年のFIFAワールドカップにも5人の選手を送り込んだ。ウルグアイが世界大会で優勝した4大会すべてに代表選手を送り込んだクラブはナシオナルのみである[22]

GK編集

DF編集


MF編集


FW編集


サッカー以外の競技編集

ナシオナルは、サッカー以外にも、フットサルバスケットボールバレーボールなどの競技チームを保有している。特にフットサルと自転車競技では、これまでに大きな成功を収めている。

バスケットボール編集

1933年1月26日創設。以来、ウルグアイバスケットボール連盟(FUBB、Federación Uruguaya de Basketball)が主催するカンペオナート・フェデラル(1915年-2003年)、リーガ・ウルグアージャ・デ・バスケトボル(Liga Uruguaya de Básquetbol、2003年-)に参加。1935年と1937年にはリーグ優勝を記録している。ウルグアイ初のNBA選手であるエステバン・バティスタが在籍したこともある。

  • 国内タイトル
  • 国際タイトル
    • リオプラテンセ選手権(Campeonato Rioplatense)
      • 優勝:1936

自転車競技編集

ウルグアイ自転車競技連盟(Federación Ciclista Uruguaya)が主催する大会に当初より参加しており、チーム・個人ともに主要大会で多くの優勝を記録している。近年では、シドニーオリンピック銀メダリストのミルトン・ウィナンツが在籍した。

  • ブエルタ・シクリスタ・デル・ウルグアイVuelta Ciclista del Uruguay
    • チーム優勝:1960, 1968, 1994, 1999, 2000[23]
    • 個人優勝:1939, 1968, 1996
  • ルータス・デ・アメリカRutas de América
    • チーム優勝:1993, 1994, 1995, 2000, 2001[24]
    • 個人優勝:2000

フットサル編集

ウルグアイサッカー協会のフットサル委員会(Comisión Delegada de Futsal)が主催する大会に参加している。2003年のコパ・リベルタドーレス・デ・フトサルで準優勝の実績がある。

FIFUSA/AMF主催大会
  • 国内タイトル
    • カンペオナート・メトロポリターノ(Campeonato Metropolitano)
      • 優勝:1990, 1991, 1992, 1993, 1994, 1995, 1996, 1997
    • カンペオナート・ナシオナル・デ・クルベス・カンペオネス(Campeonato Nacional de Clubes Campeones)
      • 優勝:1994, 1997
  • 国際タイトル
    • カンペオナート・スダメリカーノ・デ・クルベス・カンペオネス(Campeonato Sudamericano de Clubes Campeones)
      • 優勝:1996
FIFA/AUF主催大会
  • 国内タイトル
    • カンペオナート・ウルグアージョCampeonato Uruguayo
      • 優勝:1998, 2000, 2002, 2003, 2005, 2008, 2009, 2017, 2018
    • カンペオナート・メトロポリターノ(Campeonato Metropolitano)
      • 優勝:2002, 2004, 2005, 2007, 2009

女子サッカー編集

ウルグアイサッカー協会が主催するカンペオナート・ウルグアージョ・デ・フトボル・フェメニーノ(Campeonato Uruguayo de Fútbol Femenino)に、初年度の1997シーズンから参加。2005年にリーグを脱退したが、2009年に再加盟した。

  • カンペオナート・ウルグアージョCampeonato Uruguayo
    • 優勝:1997, 2000, 2010, 2011-12

バレーボール編集

ウルグアイバレーボール連盟(Federación Uruguaya de Voleibol)が主催するスーペル・リーガに所属。パルケ・セントラルの体育館にバレーボールコートを保有している。

男子
  • カンペオナート・フェデラル(Campeonato Federal)
    • 優勝:1954
  • スーペル・リーガ・ウルグアージャ・デ・ボレイボル(Super Liga Uruguaya de Voleibol)
    • 優勝:2008, 2009, 2010, 2013
女子
  • カンペオナート・フェデラル(Campeonato Federal)
    • 優勝:1955, 1960, 1961

ラグビー編集

南米ラグビー連盟(Sudamérica Rugby)が主催するスーペル・リーガ・アメリカーナ・デ・ルグビー(Súper Liga Americana de Rugby)の2021年シーズンに参戦するためにラグビー部門を創設することを発表した[26]

テニス編集

パルケ・セントラルには多くのテニスコートがあり、様々なカテゴリーの大会が開催されている。2005年にはデビスカップのアメリカゾーン・グループIIのウルグアイ代表戦が行われた。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ アルゼンチンのコパ・デ・コンペテンシア・ジョッキー・クルブ(Copa de Competencia Jockey Club)とウルグアイのコパ・コンペテンシア(Copa Competencia)の優勝クラブ同士が対戦。ブエノスアイレスで開催。
  2. ^ アルゼンチンのコパ・デ・オノール・ムニシパリダ・デ・ブエノス・アイレス(Copa de Honor Municipalidad de Buenos Aires)とウルグアイのコパ・デ・オノール(Copa de Honor)の優勝クラブ同士が対戦。モンテビデオで開催。
  3. ^ a b 大会における試合の成立を巡る議論があり、3回や6回とカウントする場合もある。

出典編集

  1. ^ Nacional en búsqueda de un triunfo en la Copa Libertadores”. 2014年3月20日閲覧。
  2. ^ Archived copy”. 2014年6月28日閲覧。
  3. ^ Classic club”. FIFA.com. 2012年3月31日閲覧。
  4. ^ FIFA.com - Peñarol - Nacional, una rivalidad única”. FIFA.com. 2012年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月31日閲覧。
  5. ^ Montevideo’s ancient Superclasico
  6. ^ Recopa”. RSSSF (2012年2月29日). 2012年3月31日閲覧。
  7. ^ 17:55. “¿El verdadero Rey de Copas? - Algo de Fútbol de allá”. Eduardocantaro.blogspot.com. 2012年3月31日閲覧。
  8. ^ Copa Interamericana”. RSSSF (2011年2月25日). 2012年3月31日閲覧。
  9. ^ a b c d e CLUBS Nacional”. FIFA.com. 2012年5月22日閲覧。
  10. ^ Uruguay - Foundation Dates of Clubs”. RSSSF. 2012年3月31日閲覧。
  11. ^ Nacional entró con la bandera de Artigas - Diario EL PAIS - Montevideo - Uruguay”. Ovaciondigital.com.uy. 2012年3月31日閲覧。
  12. ^ 3 Magariños Pittaluga, "Del fútbol heroico", Montevideo, 1943, p. 74 ss.
  13. ^ Giovannini, Eduardo (2003). La gira de Nacional por Europa en 1925. Montevideo: Nacional Digital. ISBN 9974-39-500-3 
  14. ^ Carluccio, Jose (2007年9月2日). “¿Qué es la Copa Libertadores de América?” (Spanish). Historia y Fútbol. 2010年5月18日閲覧。
  15. ^ Montevideo’s ancient Superclasico
  16. ^ a b Uruguayan Derby – Peñarol vs. Nacional RSSSF
  17. ^ CLUBS PeñarolFIFA.com
  18. ^ 000webhost.com - free web hosting provider”. Parquecentral.com.uy. 2012年3月31日閲覧。
  19. ^ Amando de Miguel. “Amando de Miguel - El incierto origen de las palabras”. Libertad Digital. 2012年3月31日閲覧。
  20. ^ [1]
  21. ^ Ovacion (2012年6月12日). “El interior aporto el socio 50.000”. 2013年5月22日閲覧。
  22. ^ 1904”. Nacionaldigital.com. 2012年3月31日閲覧。
  23. ^ Interior”. 2009年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月14日閲覧。
  24. ^ Federación Ciclista Uruguaya”. Federacionciclistauruguaya.com.uy. 2012年3月31日閲覧。
  25. ^ Conmebol.com (2003年7月2日). “Futsal: Nacional de Uruguay ganador de la Zona Sur”. 9 de julio閲覧。
  26. ^ Súper Liga Sudamericana To Begin in March 2020”. Americas Rugby News. 2019年4月28日閲覧。

参考文献編集

  • クリストファー・ヒルトン&イアン・コール著 『南米サッカーのすべて』 大栄出版

外部リンク編集