新聞統制
新聞統制(しんぶんとうせい)は、新聞資本の統合(新聞統合)及び新聞の統制団体設置を目的として策定されたオペレーションを指す。内務省と情報局を中心として運用され、1938年より始まり1942年末に完成した。統合の結果、一つの県に一つの県紙が置かれた「一県一紙」は現在までほぼそのままで維持されている。
概要
編集言論統制は国による言論の自由抑制を指すが、そこには消極的統制と積極的統制が存在する。検閲は前者であり、新聞統合及び統制団体設置は後者に属する[1]。
戦争報道による影響
編集1930年、ロンドン軍縮条約締結。軍部を中心に反対の声が挙がるが、各紙は条約を支持。軍部批判もまだ活発に行われていた[2]。
しかし1931年、蒋介石の勢力拡大などにより、ナショナリズム世論が激化したことで、各紙は軍縮から軍拡へ路線を変更[注 1]。日清日露で得た満蒙権益の死守を訴えた[2]。9月18日、満州事変。12月19日、新聞各紙が連名で満州事変支持の共同宣言発表[2]。満州事変でスクープ合戦やナショナリズム世論が形成され新聞各社の売上が増加、各社は自発的に軍部を支持することにつながった[3]。
これらの経緯を経て、新聞社や日本放送協会の報道は制約されはじめる。従軍報道においても取材写真は幾つもの検閲を経て、何度もふるいにかけられてようやく紙面に掲載されることになった[要出典]。また、言論統制もあって、記事にも日本に有利な情報しか掲載されなくなり、事実に反する内容も少なくなかった[要出典]。そのため、複数の「真実」が存在する、曖昧な事件が幾つかあり、現在に至るまで議論がなされている[要出典]。
新聞統合の進捗
編集新聞統合における一県一紙は、正確には1つの県に新聞が1つあるという意味ではない。全国紙(中央紙)と地方紙は併存していたし、全国紙、地方紙以外の新聞も存在した。つまり日本新聞博物館(横浜市)の歴史コーナーが説明しているように「日刊新聞社」が昭和12年(1937年)に1208社あったものが、昭和17年(1942年)には55社に統合されたという実相が新聞統合である。毎日刊行される日刊紙以外にも週刊紙、旬刊紙、不定期紙などの新聞は存在する。
カテゴリ | 地域 | 統合後の新聞 | 母体 (太字の場合は当該紙が他紙を吸収) |
完成時期 | 完成前地元紙 統合後部数 |
備考 |
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全国紙 | 朝日新聞 | 大阪朝日新聞、東京朝日新聞 | 1940.9.1 | - 3,677,336 |
東京五紙、大阪四紙、名古屋撤退、九州存続 新聞統合以前より経営統合されていた。 | |
毎日新聞 | 東京日日新聞、大阪毎日新聞 | 1943.1.1 | - 3,245,369 |
東京五紙、大阪四紙、名古屋撤退、九州存続 新聞統合以前より経営統合されていた。 | ||
讀賣報知[注 2] | 読売新聞、報知新聞 | 1942.8.5 | - 1,728,194 |
東京五紙 | ||
地方紙 | 樺太 | 樺太新聞★[注 3] | 樺太日日新聞、樺太時事新聞、 樺太旭新聞、樺太毎日新聞 |
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北海道 | 北海道新聞 | 北海タイムス、小樽新聞★、室蘭日報 新函館、網走新報、根室新聞 北見新聞、旭川タイムス、旭川新聞 釧路新聞、十勝毎日新聞 |
1942.11.1 | 293,390 484,521 |
6月、知事が統合裁定案を出すが 岡村二一が来道し東季彦を社長に推薦。 | |
青森県 | 東奥日報 | 東奥日報、八戸合同、弘前新聞、 青森日報、東北タイムス |
1942.1.1 | 38,870 63,501 |
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岩手県 | 新岩手日報[注 4] | 岩手日報、岩手國民新聞、三陸日日新聞 日刊岩手、宮古新聞、岩手日日新聞他3紙 |
1942.1.1 | 13,300 34,713 |
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秋田県 | 秋田魁新報 | 1942.6.1 | 21,300 50,100 |
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宮城県 | 河北新報 | 1942.2.1 | 21,450 98,179 |
河北が事実上の一県一紙であったため北海道、中日ほどの効果はなかった。 | ||
山形県 | 山形新聞 | 山形新聞、米澤新聞、 鶴岡新報、酒田毎日新聞 |
1942.2.1 | 8,500 35,678 |
地域ごとに一社に統合、さらに県都を拠点とする有力な一社に統合。 | |
福島県 | 福島民報 | 福島民報、福島民友新聞[注 5] | 1941.9.1 | 11,650 30,608 |
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茨城県 | 茨城新聞[注 6] | いはらき、常総新聞、 常南日報、関東毎日新聞 |
1942.2.1 | 9,800 19,532 |
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栃木県 | 下野新聞 | 下野新聞ほか県内各紙 | 1942.1.1 | 6,800 21,390 |
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群馬県 | 上毛新聞 | 上毛新聞、上州新報、群馬新聞など | 1940.10.1 | 18,040 16,913 |
東京紙に侵食された県内の新聞社が有力な地元紙の下で統合。 | |
埼玉県 | 埼玉新聞[注 7] | 埼玉県新聞、埼玉日報など | 1940.11.17 | 1,500 5,910 |
有力な地元紙がないため県当局が弱小紙を束ねる形で創刊させた。 | |
千葉県 | 千葉新聞[注 8] | 千葉毎日新聞、房総新聞、 千葉日日新聞、千葉県民新聞など |
1940.11.19 | 8,300 13,273 |
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東京都 | 東京新聞[注 9] | 都新聞、國民新聞 | 1942.10.1 | - 238,264 |
夕刊紙。東京五紙(ブロック紙) | |
神奈川県 | 神奈川新聞 | 神奈川県新聞、神奈川日日新聞 | 1942.2.2 | 12,400 23,179 |
知事は神奈川日日新聞に買収資金を斡旋。 | |
静岡県 | 静岡新聞 | 静岡民友新聞、静岡新報★、浜松新聞、 沼津合同新聞、清水新聞、熱海毎日新聞 |
1941.12.1 | 19,010 31,411 |
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山梨県 | 山梨日日新聞 | 山梨日日新聞、峡中日報、 山梨民報、山梨毎日新聞など |
1941.2.1 | 39,440 35,516 |
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長野県 | 信濃毎日新聞 | 信濃毎日新聞、南信毎日新聞など | 1942.5.1 | 51,340 90,420 |
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新潟県 | 新潟日報 | 新潟日日新聞、新潟県中央新聞、上越新聞 | 1942.11.1 | 53,750 104,422 |
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富山県 | 北日本新聞 | 富山日報、高岡新聞、 北陸日日新聞、北陸タイムス |
1940.9.1 | 35,000 66,390 |
知事の指示を受けた特高課検閲係の鰐淵国光警部が斡旋。設立後、鰐淵は主幹として入社。 | |
石川県 | 北國毎日新聞[注 10] | 北國新聞、北陸毎日新聞、 北國夕刊、北國日報 |
1942.5.11 | 59,390 93,105 |
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福井県 | 福井新聞 | 福井民報、みくに新聞、敦賀時事、 新福井日報、若州新聞、北陸新聞、 勝山朝日など |
1941.3.1 | 16,960 23,816 |
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愛知県 | 中部日本新聞[注 11] | 新愛知、名古屋新聞 | 1942.9.1 | - 736,980 |
中部(ブロック紙)。小山松寿の新社長就任は岡村二一の知事面談で潰されたとの証言あり。 | |
岐阜県 | 岐阜合同新聞[注 12] | 岐阜日日新聞、飛騨毎日新聞、 岐阜新聞、美濃大正新聞など |
1942.1.6 | 17,860 31,150 |
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三重県 | 伊勢新聞 | 伊勢新聞、北勢朝日、 三重新聞、南勢新聞など |
1942.4.5 | 19,110 22,594 |
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滋賀県 | 滋賀新聞[注 13] | 1942.8.1 | 1,300 6,310 |
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奈良県 | 奈良日日新聞[注 14] | 旧奈良新聞、中和新聞、大和日報 | 1941.1.1 | 1,000 9,212 |
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京都府 | 京都新聞 | 京都日出新聞、京都日日新聞 | 1942.4.1 | 45,800 88,073 |
統合の準備に入ると関西進出を狙う読売が三社共同経営を提案するなど一時難航。 | |
大阪府 | 大阪新聞[注 15] | 夕刊大阪新聞、関西中央新聞、関西日報、 大阪日日新聞、大阪時事新報★など |
1942.5.1 | - 182,569 |
夕刊紙。大阪四紙(ブロック紙) | |
和歌山県 | 和歌山新聞[注 16] | 1942.9.1 | 8,880 16,821 |
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兵庫県 | 神戸新聞 | 神戸新聞、神戸又新日報 | 1941.12.1 | 97,140 124,961 |
特高課は神戸社長の進藤信義を追放。自由主義の点が睨まれた。後任は川崎芳熊。 | |
岡山県 | 合同新聞[注 17] | 合同新聞ほか県内各紙 | 1941.11.4 | 46,570 144,441 |
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広島県 | 中國新聞[注 18] | 中國新聞、山陽日日新聞 | 1941.10.30 | - 182,208 |
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呉新聞[注 19] | 呉新聞、芸備日日新聞、呉新興日報 | 存続 | ||||
鳥取県 | 日本海新聞[注 20] | 鳥取新報、因伯時報、山陰日日新聞 | 1939.10.1 | 29,650 12,972 |
知事の慫慂を受けて米原章三が奔走し9月に会合、その席で統合が決定。 | |
島根県 | 島根新聞[注 21] | 山陰新聞★、松陽新報 | 1942.1.1 | 74,800 24,297 |
1940年、田部長右衛門 (23代)が松陽を買い取る。 | |
山口県 | 関門日報[注 22] | 関門日日新聞、防長新聞 | 1942.2.1 | 19,700 33,788 |
知事は1.13に県庁に各紙代表を招き新たな新聞の創刊を通告。廃刊届けを強要 | |
徳島県 | 徳島新聞[注 23] | 徳島日日新報、徳島毎日 | 1941.12.16 | 39,700 40,595 |
合併後に主導権争い。解決のため社団法人で設立。 | |
香川県 | 香川日日新聞[注 24] | 香川時報、讃岐実業新聞 | 1941.2.11 | 5,860 13,471 |
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愛媛県 | 愛媛合同新聞[注 25] | 海南新聞、南予時事新聞、伊予新報 | 1941.12.1 | 35,500 51,503 |
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高知県 | 高知新聞[注 26] | 高知新聞、土陽新聞 | 1941.9.1 | 35,980 73,730 |
土陽は政友会、高知は民政党寄り。 | |
福岡県 | 西日本新聞 | 福岡日日新聞、九州日報★ | 1942.8.10 | - 374,408 |
九州(ブロック紙) | |
大分県 | 大分合同新聞[注 27] | 大分新聞、豊州新報 | 1942.4.3 | 27,470 50,779 |
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佐賀県 | 佐賀新聞 | 1941.5.1 | 7,700 12,132 |
|||
長崎県 | 長崎日報[注 28] | 長崎日日新聞★、長崎民友新聞、 軍港新聞、島原新聞 |
1942.4.1 | 58,100 45,615 |
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熊本県 | 熊本日日新聞 | 九州日日新聞、九州新聞 | 1942.4.1 | 35,100 76,271 |
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宮崎県 | 日向日日新聞[注 29] | 県内の9紙 | 1940.11.25 | 10,630 18,884 |
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鹿児島県 | 鹿児島日報[注 30] | 鹿児島新聞、鹿児島朝日新聞 | 1942.2.10 | 48,200 91,521 |
歴史を有するライバル紙が円満に統合された珍しい例。 | |
沖縄県 | 沖縄新報[注 31] | 沖縄朝日新聞、琉球新報、沖縄日報 | 1940.11.20 | 10,000 25,621 |
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経済紙 | 東日本 | 日本産業経済[注 32] | 中外商業新報、日刊工業新聞、経済時事新報 ほか業界紙11紙 |
1942.11.1 | - 246,354 |
東京五紙 日刊工業新聞は統合後も軍事工業新聞として発行を継続。 |
西日本 | 産業経済新聞[注 33] | 日本工業新聞、大阪毎夕新聞 ほか業界紙33紙 |
1942.11.1 | - 106,233 |
大阪四紙 |
★は読売新聞より買収、または資本提携をうけていた新聞
カテゴリ | 地域 | 統合後の新聞 | 母体 (太字の場合は当該紙が他紙を吸収) |
完成時期 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
外地 | 朝鮮 | 京城日報 | 日本語。日本の撤退に伴い消滅。 | ||
毎日新報 | 朝鮮語。短期の休刊を経て、現在の「ソウル新聞」。 | ||||
台湾 | 台湾新報 | 台湾日日新報、興南新聞、台湾新聞、 台湾日報、高雄新報、東台湾新聞 |
1944.4.1 | 日本語。日本の撤退に伴い、中国語の「台湾新生報」。 |
全国新聞社一元化案の提示と頓挫
編集1941年(昭和16)秋、政府は全国新聞一元会社案を提示するも正力松太郎が反対し頓挫した[4]。
以下、提示、頓挫までの経緯と、それ以降の新聞統制の流れを記す。
ちなみに全国新聞一元会社案は、前記出典の記述者である春原昭彦上智大学名誉教授の記述に拠るが、提示されたのは「新聞共同会社(仮称)」(原文ママ)である[5]。
新聞統合は挙国一致の体制の中で行われた。1937年(昭和12)に日中戦争が始まり[6]、太平洋戦争は1941年(昭和16)に始まった[6]。国家の政治を助ける国民がなすべきことを行うことが求められた[6]。
新聞統合の段階は
- 1938年(昭和13)秋から1940年(昭和15)5月までの「悪徳不良紙の整理」
- 1940年(昭和15)5月から1941年(昭和16)9月までの「弱小紙整理」
- 1941年(昭和16)9月から1942年(昭和17)10月までの「一県一紙」主義の統合
以上の三段階に分けられる[7]。
整理とは懇諭、つまり心を込めて諭すことにより新聞が自発的廃刊の措置に出ることであり[8] 、整理対象は悪徳不良紙[注 34]から経営難に陥っている会社までを含む[8] 。政府は警視庁及び地方庁警務課に内示して、徐々に弱小新聞の整理を行って整備に邁進した[9]。
1940年(昭和15)5月、商工省から内閣に用紙管理委員会が移管された[10]。1937年(昭和12)に物資の消費規制から始まった用紙管理だが、商工省繊維局の三十にならない小僧事務官(原文ママ)に日本の新聞界の喉首を抑えられている事に困惑、憤慨したと証言がある[11] 。新聞社の支出の内、用紙代は約半分というのが目安で[12]、これを押さえられると新聞は手も足も出ない[12]。政府は経済面(営業面)から攻め[9]、弱小新聞の整理、強制的な合併を行った[9]。
政府の最高目標は一県一紙主義にあるが、それでも大新聞については手つかずであった[9]。これが第三段階に入ると、「新聞事業令」により、新聞事業の開始、経営、譲渡、合併などは全て内閣総理大臣の許可を必要とし、内閣総理大臣は会社の合併や事業の廃止などを命令出来るようになり、強制的に新聞社の合併、統合が進められた[6]。1942年(昭和17)10月には739社あった日刊紙は54社を残してすべて消えた[6]。
話を1941年(昭和16)の弱小紙整理の時期に戻すと、新聞は資金、用紙や資材の調達も制約が加えられた[13]。新聞界では上からの統制が避けられないならば望ましい統制のためにと、新聞社と通信社が集まり1941年(昭和16)5月、「日本新聞連盟」が創設された[14]。
当初は朝日、毎日、読売の全国紙を含む中央紙と地方紙のそれぞれが別々の団体を作ろうとする動きがあったが、情報局の指導と同盟通信社の説得により一つにまとまった[14][5]。全国紙は地方紙を盛んに買収し、とくに正力の読売は馬力が強く、全国全てを支配下に置こうとしたため、朝日、毎日も対抗した[5]。地方紙は生き残りのために、政府の統制により深く関わり、それにより全国紙を抑制しようとした[5]。
日本新聞連盟において、議決機関である理事会は中央紙及び通信社から六社、地方紙も六社が理事として、監事として中央、地方のそれぞれ一社から選ばれた[9][10][14] 。
名前を挙げると、理事長が田中都吉、理事が緒方竹虎(朝日)、正力松太郎(読売)、田中都吉(中外商業新報)、三木武吉(報知)、古野伊之助(同盟)、高石真五郎(大毎。のち高石に代わり東日の山田潤二[15])。東季彦(北海タイムス)、一力次郎(河北)、森一兵(名古屋)、大島一郎(新愛知)、杉山栄(合同)、永江眞郷(福岡日日)。幹事は福田英助(都)、山本実一(中国)になった[10][14]。
建議の場が14社に限られた点には不満は無かったようである[14]。全国の発行数の八割が理事社にあり、また理事社の独断で進められる時勢では無かった[14]。資本の多寡に関わらず理事の一社は一票の議決権をもつ[5]。また主務大臣の推薦を受けた参与理事が情報局から二名、内務省警保局から一名、選ばれていた[10][14]。
1941年(昭和16)9月17日、政府は日本新聞連盟の参与理事をして二つの審議事項を審議されたいと提案した[11]。そこに全国新聞統制会社の可否が含まれていた[11]。可否というが政府の真意は可であり、今ある新聞の資産を評価し、これを全国新聞統制会社が時価で購入。その支払いに新しい会社の株式を充てるというもので、株券の発行と手間で全国の新聞を手にしようという話である[11]。
これは日本発送電で政府がやった手口(原文ママ)で、松永安左衛門は「官僚は人間のクズ」だと罵った。この際に政府側にいた革新官僚の奥村喜和男が今回も案に関わっていた[11]。
理事社のうち地方紙は六社が賛成。中央紙も報知、国民は賛成。反対は朝日、毎日、読売、都の四社だった[11]。
約一ヶ月に渡り議論したが結論が出ず[11] 、議論を打ち切り小委員会に具体案作成を委任することに決定した[10] 。理事から選出された小委員会の委員は参与理事の三名、それと理事長(新聞社)と理事(通信社)であった[10] 。11月5日、理事会に小委員会案が報告された[10] 。小委員会案では全国共同会社(原文ママ)により全国の新聞を一元(一社)に統合するという案が出た[10] 。 前述の通り、正力の読売、それと朝日、毎日の三社が反対して共同会社案は頓挫した。
その代わりに新聞連盟の理事会が政府に答申したのは、新聞の統制は現在のままでは不可能であり、それには法令による統制機関を作って、そこに強力な権限を与えなければならないという内容になった(田中都吉の証言)[13]。同時に田中は新聞の個性を無くさず、創意工夫ができるように留意して貰いたいと政府に申し入れている[13]。
この答申を受け、政府は国家総動員法に基づき前述の「新聞事業令」を公布。全国の新聞104社を指定して「日本新聞会」という統制機関を作らせた。メディアからなる日本新聞会は新聞社の統合の整備計画を自ら立案した。
1942年(昭和17年)7月24日、日本の新聞は以下のように定められた。
- 東京は全国紙の三社、ブロック紙は一社、業界紙は一社。
- 大阪は全国紙の二社、ブロック紙は一社、業界紙は一社。
- 名古屋はブロック紙の二社をなるべく一社に統合する(朝日、毎日は発行を停止する)。
- 福岡はブロック紙の一社(朝日、毎日は北九州の発行を可とする)。
- その他の県は一県一紙。
- また新聞は個人企業を廃し、すべて法人とする。株主は役員又は従業員とし、社外株主は排除する(所有と経営の分離)[9]。
伊藤正徳の『新聞五十年史』は新聞事業令に続けて、新聞共同会社(仮称)案について以下のように書いている。
(中略)これを一挙に実現するためには時期が未だ熟しなかつたし、かつ新聞の実情は容易にこれを許さなかつたのである。而して右の申達内容(新聞事業令)は、実行可能なる最大限度であることは、引き続き日本新聞会設立に依つて業者の自ら体験したところである。結果から見るならば初めダイナマイトを示して心胆を奪い各理事をして自ら火薬を選ばしめた感はあるが(中略)[14]
持ち分合同
編集太平洋戦争の激化に伴う空襲の危険増加や交通手段の悪化より、1945年に「戦局ニ対処スル新聞非常態勢ニ関スル暫定措置要綱」、いわゆる「持ち分合同」がなされる。これはいわゆる全国紙(中央紙ともいう)の主要な発行拠点である東京都、大阪府、福岡県とその周辺府県(概ね、埼玉県・千葉県・神奈川県・滋賀県・京都府・奈良県・兵庫県[注 35]・和歌山県・山口県)については従来通り全国紙と地方紙を単独発行することとし、それ以外は有力地方紙に全国紙(朝日・毎日・読売報知[注 36])の題字を一緒に載せて、地方紙と合わせた4紙連名という形で統合したものである。
新聞統制が遺したもの
編集従来は地方紙同士での競争もあったが、新聞統制後は全国紙と1県1つの地方紙になったため、関東・関西以外の地方紙は、ほぼ独占的なシェアを誇ることとなった。そのため現在に至るまでこの枠組みが続いている[16]。
一方、新たな新聞社の設立が自由となって「福島民友」が復刊し、「栃木新聞」、「山梨時事新聞」、「北陸新聞」[注 37]、「日刊福井」、「奈良新聞」、「山口新聞」、「日刊新愛媛」、「フクニチ新聞」、「鹿児島新報」、「沖縄タイムス」のような第二県紙的な存在となる新聞も相次いで設立された。
大阪府においては特に、夕刊専売の地方紙(大阪新聞=産経新聞系、新大阪・日本投書新聞→新関西=毎日新聞系、関西新聞、大阪日日新聞=いずれも当時独立系)が乱立する状態[注 38]になっていた。
讀賣報知は、読売新聞との合弁を解消後、旧報知新聞の社員有志により、夕刊紙・新報知として復刊するが、経営難が続き、1949年に再び読売新聞傘下になり、スポーツ紙(現在のスポーツ報知)にシフトすることになる。
また、地方紙でも都市部においては全国紙や有力ブロック紙に発行部数を食われる新聞社も少なくなく、「千葉新聞」、「和歌山新聞」、「滋賀日日新聞」、「防長新聞」は廃刊に追い込まれ、ブロック紙の中日新聞社は1960年に「北陸新聞」、1967年「東京新聞」、1992年に「日刊福井」の編集・発行権を譲り受けて発行エリアを拡大、「日刊福井」は「北陸中日新聞」(「北陸新聞」の後身)の福井版と統合した後、1994年に「日刊県民福井」と題号を改めた。
さらに戦後復発刊した第二県紙も多くは既存地方紙との競争に負け、「福島民友」、「奈良新聞」と「沖縄タイムス」以外は経営悪化に追い込まれている[注 39]。特に鳥取県の日本海新聞は、隣県・島根県の山陰中央新報(旧・島根新聞)が鳥取県の一部地域で発行されるようになって以後は、その山陰中央やブロック紙の中国新聞などのあおりを受けて、一度1975年に経営破たん(会社更生法申請)を引き起こしたため休刊に追い込まれたが、1976年に地元の実業家・吉岡利固(グッドヒル社主、新日本海新聞社社主)のグループが再建スポンサーとなって復刊した。
また戦後の民間放送開始によって、多くの地方紙はラジオ・テレビ放送局に出資することとなり、それがそのまま放送局においても当初は「1県1波」の原則で話が進むこととなる(マスメディア集中排除原則も参照)。UHF波解禁後のテレビ放送は、放送免許の大量交付に伴い、地方紙よりも全国紙・キー局との関連性が深い局が増加したが、AMラジオ放送に関してはほとんどの地方で1波体制であるため、地方紙とのかかわりが非常に深い状態が今も続いている。全国紙と関わりの深いラジオ局は主に地方紙が弱体化している県で、WBS、BSS、KRYくらいである(BSSは朝日系、WBSは毎日系、KRYは朝日系→読売系)。また、LuckyFM茨城放送もかつては全国紙(朝日新聞)との関わりが深かった。なお、奈良県のように地方紙が弱体化している県で県域ラジオ放送がない事例もある[要出典]。
戦後の新たな新聞社の設立の自由化は、道県域の一部をエリアとした地域・ローカル新聞社の設立も促し、青森県の「デーリー東北」、「陸奥新報」のように第二、第三県紙的ポジションの新聞がある一方、函館新聞のように、地方紙との遺恨が長く生じ、新聞業界の閉鎖性と新規参入の困難さを物語る事案も起きている。
脚注
編集注釈
編集- ^ 大阪朝日新聞は軍縮の論調を続けていたが、右翼などから不買運動を起こされた[2]。
- ^ 当時の実態としてはブロック紙。報知新聞は戦後に独立・復刊、後に読売系スポーツ紙に転換を経て、現在の「スポーツ報知」
- ^ ソビエト連邦軍の侵攻により消滅
- ^ 現在の「岩手日報」
- ^ 民友は戦後に再独立。
- ^ 一時また「いはらき」の題号を使用していた。
- ^ 埼玉県発足時社団法人。戦後に株式会社化した。
- ^ 1956年12月21日をもって廃刊した。
- ^ 発足時は夕刊紙。対等合併だが、都側が主導権。1967年以降は中日新聞社が発行している。
- ^ これ以前に金澤新報も合併。戦後「北國新聞」に復題。
- ^ 1965年に「中日新聞」と改題。
- ^ 現在の「岐阜新聞」の母体。
- ^ 一時休刊していたが、「滋賀日日新聞」に改題して再発行。後に京都新聞に吸収される
- ^ 2005年11月30日から一時休刊。2010年7月10日付で日刊紙としての発行を終了し、週刊紙となる。2019年に奈良新聞に吸収される。
- ^ 2002年3月30日休刊(「産経新聞」大阪夕刊に統合され、事実上の廃刊)。
- ^ 1972年10月11日をもって廃刊した。
- ^ 現在の「山陽新聞」の源流。
- ^ 1948年に呉新聞を統合した。
- ^ 中国新聞系。紙齢は芸備日日新聞を引き継ぐ。1948年に「中國新聞」と統合した。
- ^ 1975年に倒産したが、翌年に別会社により復刊した。
- ^ 現在の「山陰中央新報」の源流
- ^ 1945年5月に山口県全域を販売地域とする旨「防長新聞」に再改題。1978年の倒産により廃刊。宇部時報は戦後再分離、現在の宇部日報
- ^ 統合の自主協議を認めず、県警察部長へ白紙一任の誓約書、廃業届の提出を強要される。
- ^ 戦後「四国新聞」に改題
- ^ 戦時中「愛媛新聞」に改題
- ^ 高知は土陽より独立して発足した過去がある。
- ^ 全国の主要紙で唯一の特例有限会社である。
- ^ 現在の長崎新聞の母体。原爆投下後に再分裂・統合を繰り返す。
- ^ 1961年宮崎日日新聞に改題
- ^ 戦後南日本新聞に改題
- ^ 米軍侵攻により消滅。琉球新報は戦後に復刊した。
- ^ 現在の「日本経済新聞」の源流
- ^ 戦後、一般紙に転換。日本工業新聞を産業紙として分離・復刊、現在は「フジサンケイ ビジネスアイ」。産業経済新聞は東京進出で準全国化、現在の「産経新聞」
- ^ いわゆるユスリ屋の類。保証金を積まない日刊紙ではない朦朧新聞は東京では千紙を数えた。
- ^ 神戸市など、阪神間の一部地域
- ^ 読売新聞と報知新聞は当時、経営統合状態だった。
- ^ 「北日本新聞」の僚紙として発刊したが、1953年に身売りした。
- ^ その後、新関西はスポーツニッポンと経営統合し「スポニチ夕刊」の冠を付けていたが、1979年10月31日発行の11月1日号でスポニチ本体に吸収(その際「前夜速報版」→「早刷り号」に改題)された。1980年代までは他のスポーツ紙も、地方向け早版を都市部では即売用夕刊の扱いで発行していたが、地方都市の印刷工場の整備に伴う同時印刷の確立により、即売夕刊を廃止したが、21世紀になってからもスポニチ関西版夕刊と、デイリースポーツの首都圏向け「夕刊デイリー」は発行し続けてきた。しかしいずれも2009年11月29日発行の11月30日号で廃刊となった。 1990年代に入ると、関西新聞とフクニチが1991年(前者はイトマン事件に絡んで、後者は経営破たん)で、新大阪は1995年に阪神・淡路大震災による経営悪化などで休刊、2000年には大阪日日新聞も新日本海新聞社と経営統合し、子会社化。2008年に法人統合され「新日本海新聞大阪本社」から大阪日日を発行している。唯一の夕刊地方紙となった大阪新聞も、産経新聞関東版夕刊の休止にともない、2002年3月に親会社の産経新聞関西版に統合・休刊、法人自体も2004年に産経大阪本社に合併された。
- ^ 例えば奈良県では、第一県紙であった奈良日日新聞が奈良新聞に統合された。
出典
編集- ^ 里見脩『新聞統合:戦時期におけるメディアと国家』勁草書房、2011年12月。ISBN 9784326302055
- ^ a b c d 荒井魏「新聞はなぜ戦争に加担したのか ――平和を考える上での新聞昭和前史再検証」『環太平洋大学研究紀要』第3巻、環太平洋大学、2010年3月、91-98頁、doi:10.24767/00000281、ISSN 1882-479X、NAID 120006587351。
- ^ コロナのメディア報道と世論に思う「90年前と同じ無責任な過ち」との酷似|荒川和久/「結婚滅亡」著者
- ^ 正力松太郎コトバンク
- ^ a b c d e 里見 2021.
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- ^ a b c d e f 新聞要覧 1946.
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- ^ a b c 電通 1955.
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- ^ 山田潤二コトバンク
- ^ 「太平洋戦争を煽りに煽って、焼け太りした」新聞社の社史に出てこない空白の歴史 新聞がつまらない根本的理由 (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
参考文献
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- 水越伸『メディア・ビオトープ : メディアの生態系をデザインする』紀伊國屋書店、2005年。ISBN 4314009772。 NCID BA71112981。全国書誌番号:20761452。
- 監修 安田 常雄『ポプラディア情報館38 日本の歴史4 幕末~昭和時代(前期)』ポプラ社、2009年。ISBN 9784591106839。 NCID BA89990868。全国書誌番号:21590688。
- 里見修『戦時期におけるメディアと国家 : 新聞統合の実証的研究』 東京大学〈博士 (社会情報学) 甲第26228号〉、2010年。doi:10.15083/00002510 。
- 里見脩『言論統制というビジネス』新潮社、2021年8月25日。ISBN 9784106038716。 NCID BC09441207。全国書誌番号:23642748。
関連項目
編集外部リンク
編集- 中野文庫・新聞事業令 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)