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東艦(あずまかん、旧名ストーンウォール(CSS Stonewall))は、日本海軍の軍艦。 艦名のの意味は吾妻吾嬬などと共に全てあづま(あずま)と読み、京都から東のを指す汎称になる[19]

東艦
アメリカ軍艦Stonewall(後の東艦)[1]
アメリカ軍艦Stonewall(後の東艦)[1]
基本情報
建造所 アルマン兄弟造船所[2](フランスボルドー[3])
運用者  大日本帝国海軍
艦種 軍艦(戦艦)[3]
艦歴
起工 1863年
進水 1864年6月21日
竣工 1864年10月25日
除籍 1888年1月28日
その後 解体
要目
排水量 計画:1,358.43トン[4]
または 1,800トン[5]
全長 60.00m[4]
水線長 55.70m[6]、または55.78m[4]
垂線間長 47.44m[4]
最大幅 10.00m[4]
深さ 5.20m[4]
吃水 平均:4.40m[4]
または15 ft 6 in (4.72 m)[7]
ボイラー マゼリン式石炭専焼缶 2基
(チューブラル・ボイラー 2基[5])
主機 マゼリン式水平直動レシプロ 2基[8]
または 直立直動機械[5]
推進 4翼スクリュー、2軸[5]
出力 1,200IHP[3][5][9]
帆装 帆面積:750m2[10]
速力 常用:10.5 ノット (15 km/h)
試運転:10.8ノット[8]
燃料 常備:石炭95トン[11]
満載:石炭200トン[8](または700,000ポンド[5])
航続距離 1,200カイリ / 9ノット[8]
乗員 慶応4年1月定員:49名[12]
1873年10月定員:135名+鍛冶長2名[13]
1883年8月定員:130名、練習員約100名[14]
兵装 竣工時[15][16]
(口径28cm)300ポンド・アームストロング前装式滑腔砲 1門
(口径12.7cm)70ポンド・アームストロング前装式ライフル砲 2門
1871年[17]
(27.9cm)300ポンド前装滑腔砲 1門
パロット16.5cm前装ライフル砲 4門
6連装ガトリング砲 1基
装甲 舷側:125-90mm錬鉄 +1.25in(32mm)鉄板[8]
ケースメート:140-102mm[8]
その他 信号符字:GQBU(1886年-)[18]
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本艦を指すことが多い呼称で甲鉄艦(こうてつかん)があり、一般には鋼鉄製装甲の軍艦(装甲艦、Ironclad)を指す言葉で固有名詞ではないが、幕末から明治にかけての日本史でこれが用いられる時は本艦を指す事が多い。

概要編集

外洋航行能力を持ちながら装甲で覆われた日本の軍艦で、日本海軍の草創期の艦である。

艦型編集

 
竣工当時の本艦の装甲配置を斜線で示した図。艦首水面下に突出した衝角が特徴的である。

マスト2本のいわゆるブリッグと呼ばれる船である。 左は本艦の装甲配置を示した図である。本艦の基本構造は艦首に鋭い形状の衝角(ラム)を持つ木造船体に2本の帆走用マストと一本煙突を持つ装甲ブリッグである。船体上の2本のマストには本格的な帆走設備が整えられており、蒸気機関が発明されたとは言え機関技術の信頼性がこの時期では未知数で、長期航海時には帆走を行うのが普通であり、本艦の帆の総面積は750平方メートルもあった。艦首水面下の衝角はコードネームの「スフィンクス(Sphinx)」の名の通り、スフィンクスの顎のように艦首の水線面から、先端部を鉄で皮膜した衝角が水中に7mも突出していた。

これは、後の「リッサ沖海戦」でも行われた「衝角攻撃(ラミング)」を行うために特化した設計である。衝角攻撃とは、大砲が発明されていない時代に敵艦の船体を効果的に破壊するために舳先を相手の舷側に突っ込ませて破壊する攻撃方法で、追突した時の衝撃よりも自艦をバックさせて舳先を引き抜いた時に出来る大破口からの浸水により短時間で相手を撃沈できる戦法である。大型の大砲が開発されたとは言え、この時期の砲弾は性能が低く、効果的に敵艦を無力化するには衝角攻撃が主流であった。

他に船体形状で他にも目を引く艦尾形状も特徴的で、当時としては非常に珍しかったクルーザースターン(巡洋艦型船尾)を採用していた。水面下では、舵と推進軸の周辺形状にはツイン・スケグを採用していた。ツイン・スケグとは、船底部からスクリュー軸を伝うように垂直に伸ばされた鰭状の構造物を設け、そのままスクリュープロペラの背後に主舵を配置する形式の事で、スクリューで生じた水流の真後ろに舵が配置されるために舵効きが良く、また、スケグがスクリュー軸を囲って守るのでスクリューに異物が巻きついて行動不能になるのを防ぐ効果もあった。

兵装編集

 
竣工当時の本艦の武装配置を示した図。ピポッティング・スライド・キャリッジの配置を示している。船体断面図の前述の艦尾のダブル・スケグが特徴的である。

本艦の主砲にはアームストロング砲を採用している。艦首砲郭部には300ポンドアームストロング前装式滑空砲(口径27.9cm)を単装砲架で1基を配置し、重量136㎏の砲弾を撃つ事が出来た。船体中央砲郭部に70ポンドアームストロング前装式ライフル砲(口径12.7cm)を単装砲架で片舷1基ずつ計2基を装備し、重量32kgの砲弾を撃つ事が出来た。しかし、砲弾の性能が良くなく、火薬庫等に命中しないかぎり敵艦を大破させるのは難しかった[20]。後に米国製のパロット砲に備砲を換装されている。

 
ドックで整備を受ける竣工当時の本艦を艦首から撮影した写真。男性が座っている砲門部により艦首方向への砲撃を可能とした。

砲廓部の床面には、ピポッティング・スライド・キャリッジ(Pivotting Slide Calliage)と呼ばれる円弧状のレールが敷設され、その上に置かれた砲架を旋回・移動させる事により、砲郭から大砲を出した砲身を出した際に砲門を支点として砲尾部を扇状に動かすことにより広い射界が得られた。これにより少ない門数でも迅速に火砲を敵艦に向けられる工夫であった。

 
ドックで整備を受ける竣工当時の本艦の艦首を後方から撮影した写真。砲を使用しない時は砲門は蓋で閉じられた。

更に砲架の設計も新型で、従来の砲架の仰角は10度程度であったが、本艦の物はスライド・キャリッジと呼ばれる形式の砲架により、仰角は一挙に倍以上の25度が可能となり射程の延伸が可能となった。また、砲廓に設けられた砲門には戦闘時に開口部から敵弾が飛び込むのを防ぐために装甲板と同じ材質の蓋が取り付けられ、装填時に開口部を塞いだ。

装甲編集

本艦の防御要求は対15インチ砲防御を目標として設計され、北軍の持つあらゆる種類の艦砲に対して貫通されない防御力が要求された。

砲郭部の形状は前後ともに横方向に広い楕円形をしており、当時の低い工作技術で複雑な曲線の船体に装甲板を満遍なく貼り付けるフランスの建艦技術の高さが窺える。船体甲板上の艦首側と中央部に主砲を収める楕円筒形の砲郭(ケースメイト)が設けられた。砲郭部には船体構造部とは別個に装甲板を装着するためのコーキングと呼ばれる緩衝材が構造材から上に貼り付け、その上にアーマーパッキング(砲弾が命中した際にショックを和らげるための緩衝材)として厚さ80mmのチーク材が更に貼り付けられた。このアーマーパッキングに装甲板を専用のボルトで螺子止めして装着される。本艦の砲郭部には装甲板の材質は粘り気のある錬鉄製で前述のアーマーパッキングの上から厚さ102mmから140mmの装甲を貼った。同時期のデンマーク海軍の装甲艦「ペダー・スクラム(1866年竣工、3,300トン)」の砲廓部の装甲が120mmであることを考えれば本艦は排水量が2倍の艦と同等の装甲厚を持っていた事が判る。

この当時の艦体の防御様式は水線部は装甲板を舷側の全周に装着する全体防御方式が主流であった。本艦は高さ2.7mの装甲板を水線部を0として上方向に1.5m、水線下に1.2mもの範囲で舷側を覆っていた。防御厚は船体中央部は125mmで艦首と艦尾の水線末端部に向かって90mmにテーパーした。さらに、その装甲板の上から厚さ約32mm(1.25インチ)の装甲を貼る複合装甲を採用していた。

後に北部合衆国軍が開発したモニター艦モニター (USS Monitor)」の搭載砲は11インチ(279 mm)砲でしかない事を考えれば、本艦の防御能力は高い物であった。

機関編集

本艦の主機関はル・アーヴルのマゼリン鉄工所でボイラーとレシプロ機関が共に製造されて搭載された。マゼリン式チューブラーボイラー2基とマゼリン式水平型レシプロ機関2基2軸が組み合わせられ、推進機関であるレシプロ機関は1基あたり600馬力の出力があり、それを2基搭載されたので最大出力は1,200馬力を発揮できた。推進軸に取り付けられたスクリュープロペラは一枚が推進軸に対して斜め45度に傾けられた長方形の板状の4枚プロペラで直径は約3.6mであった。本艦は公試において最高速力10.8ノットを発揮し実用速力は10.5ノットとした。同時に燃料消費量から計算して石炭200トンを満載して9ノットで1,200海里を航行できると計算された。

艦歴編集

 
竣工当時の本艦を右舷から描いた絵。
 
プロシア(ドイツ)に売却された姉妹艦「プリンツ・アダルベルト」

本艦は南北戦争中にアメリカ南部連合の同盟国だったフランスで建造された。もともとは南部連合がボルドーにあったアルマン・ブラザース社造船所に発注したコードネーム「スフィンクス(Sphinx)」と呼ばれていた装甲艦で、同型艦には「キーオプス(Cheops)」があった。本艦の設計者はM・アルマンで、1863年に起工され、翌1864年6月に進水式を行い、建造途中に「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」と名付けられ同年中に竣工した。本艦は当時の南軍において数少ない有力艦としてアメリカへの到着が心待ちにされていたが、アメリカ北部合衆国からフランス政府へクレームが付いて引渡し契約が破棄されてしまった。

そこで2艦は売りに出され、当時戦争中であったプロイセンとデンマークに渡った。デンマークに売却されたのが本艦で「ステークオザー(Staerkodder)」と命名されるも、デンマーク到着前に戦争が終結。受け取りを拒否された艦は「オリンダ」となりフランスへ戻された。だが、その途中の1865年1月24日にアメリカ南軍がこれを奪取。「ストーンウォール」となるもハバナ入港後北軍に包囲されたためキューバに売却されてしまった。戦後、アメリカはそれを買い戻すも、繋留状態に置かれていた。

本艦の防御は、当時のフランス海軍の「ラ・グロワール」やイギリス海軍の主力艦「ウォーリア」のどちらに対しても耐えられる性能を持っていた。

なおプロイセンに売却された姉妹艦の「キーオプス」は、「プリンツ・アダルベルト(Prinz Adalbert)」と改名されプロイセン海軍の戦艦第一号として就役した。

購入編集

 
「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」時代の写真。

慶応3年(1867年)に小野友五郎を代表とする江戸幕府の訪米使節がアメリカに「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」買取を約束したが、翌慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して幕府が瓦解すると、新政府側でもストーンウォールを買い取りたいと言い出した。旧幕府側はこれに反発。横浜に至ったアメリカ側は、戦争の決着がつくまでストーンウォールをどちらにも売る気はないと、局外中立を宣言した。しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、榎本武揚ら旧幕府海軍蝦夷地へ渡って所謂「蝦夷共和国」を樹立させた頃には、明治政府が新たなる政府であることを認めて局外中立を撤廃。まだまだ財政が厳しかった明治政府は躊躇したが、明治2年(1869年)2月3日ストーンウォール(甲鉄艦)購入に踏み切った。

戊辰戦争編集

旧幕府海軍は旗艦の開陽丸を座礁で失った上、明治政府のストーンウォール(甲鉄艦)購入の知らせが箱館に届き危機を感じた榎本らは軍議の上、同艦への移乗攻撃による奪取作戦を計画(アボルダージュ作戦)、宮古湾海戦が起こった。榎本らは甲鉄艦の装甲を貫ける新型砲弾を開発しており、船に積んでいたと言われるが、天候などの不運も重なりその威力は試せないまま奪取に失敗した。

 
函館湾海戦時の東

本艦は宮古湾海戦で旧幕府軍艦を追撃した後、青森に待機し、同年4月9日の新政府軍上陸に際して箱館湾に出撃。箱館湾海戦を経て旧幕府軍の降伏に至った。

日本海軍編集

1872年(明治5年)12月7日には名を「東艦」と改められた[21]。その後、佐賀の乱台湾出兵に出動。1874年(明治7年)8月19日に長崎港に停泊中に台風により沈没したが、程なく浮揚されて横須賀海軍工廠で復旧修理の上海軍に復帰し、1877年(明治10年)の西南戦争では瀬戸内海の警備任務についた。購入から17年後の1888年(明治21年)に除籍された。

解体のため民間に売却された東艦の装甲板は上質であったので浅草火力発電所変圧器の鉄芯に再利用された。

その他編集

  • 本艦と混同されることがあるストーンウォール・ジャクソン号(CSS Stonewall Jackson)は1862年に配備され、同年自焼した南軍の外輪式河川砲艦である。
  • 本艦の分類等級は以下のとおり。西暦との併記が無い限り天保暦を用いる。
    • 明治4年10月28日、海軍規則の制定により甲鉄艦は三等軍艦(中艦)に分類[22]される。
    • 明治5年10月5日、艦船等級の改正により三等以上は大艦に分類されるが、東は三等軍艦(中艦)に分類[23]される。
    • 1876年(明治9年)4月8日、三等軍艦(小艦)に分類[24]される。

艦長編集

  • 中島四郎 船将:明治2年(1869年)[25]
  • (艦長代)福島敬典(福嶋彌太六) 大尉:明治4年5月17日[26](1871年7月4日) - 明治4年6月[27]
  • 伊東祐亨 少佐:1872年12月14日 - 1875年11月10日[28]
  • 井上良馨 中佐:1879年8月19日 - 1880年6月14日[29]
  • 山崎景則 少佐:1880年6月14日 - 1881年7月7日[30]
  • 瀧野直俊 中佐:1883年8月16日 - 1885年11月7日[31]
  • 国友次郎 中佐:1885年11月7日[32] - 1886年6月23日[33]
  • 伊地知弘一 大佐:1887年4月19日[34] - 1887年6月11日[35]
  • 国友次郎 大佐:1887年10月27日[36] - 1888年1月28日(旧東艦残務取扱[37])

脚注編集

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注釈編集

出典編集

  1. ^ #日本海軍全艦艇史p.489、No.1232の写真解説。
  2. ^ #日本の戦艦(上)2001p.21
  3. ^ a b c #日本近世造船史明治(1973)p.81
  4. ^ a b c d e f g #日本の戦艦(上)2001p.11
  5. ^ a b c d e f #帝国海軍機関史(1975)別冊表1
  6. ^ #日本の戦艦(上)2001p.106
  7. ^ #日本近世造船史明治(1973)p.171
  8. ^ a b c d e f #日本の戦艦(上)2001p.16
  9. ^ 図示馬力(IHP) 元綱 11頁
  10. ^ #日本の戦艦(上)2001p.12
  11. ^ 西村30頁
  12. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.201-202人、乗員定員表。 船将(代軍艦役)1人、 軍艦役竝勤方一等2人、 軍艦取調役2人、 軍艦役竝勤方二等5人、 医師2人、 軍艦役竝勤方三等3人、 下役2人、 手伝医師2人、 当分出役2人(以上士官)、 水夫小頭・火焚小頭10人、 平水夫・平火焚・銃卒14人、 大工2人、 鍛冶2人。
  13. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.153-155、明治6年10月闕月(軍務局)艦船乗組定員。合計135名、外に鍛冶長(下士12等)2人有り
  14. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.159-161、明治16年8月18日(丙71)迅鯨艦外四艘ノ乗員
  15. ^ #日本の戦艦(上)2001p.17
  16. ^ 元綱数道 幕末の蒸気船物語 139頁
  17. ^ 1871年12月改装以降の備砲については泉 江三 「軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上巻」18頁参照
  18. ^ 公文類聚・第十編・明治十九年・第三十三巻・運輸三・船舶車輌・津港・河渠・橋道:逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ点付ス・其二』 アジア歴史資料センター Ref.A15111235500  画像1「二月十八日 逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ點付ス 逓信省達 第八号本年一月中海軍艦船及ヒ西洋形商船左ノ通信号符字ヲ點付ス十九年二月十八日 海軍艦船ノ部 信号符字 艦名 砲數 GCEC 龍驤Ru-jo 六 GQBF 筑波Tsuku-ba 八 GQBJ 春日Kasuga 五 GQBL 鳳翔 Hosyo 四 GQBN 富士山 Fujiyama 十二 GQBR 孟春Mo-shun 四 信號符字 艦名 砲數 GQBU 東Aduma 三 GQBH 日進Nisshin 七 GQBK 雷電Raiden 四 GQBM 石川Ishi-kawa 二 GQBP 天城Ama-ki 六 GQBS 清輝Sei-ki 六」
  19. ^ #艦船名考(1928)pp.16-18「東(初代) 吾妻(二代) あづま Aduma.」
  20. ^ 新選組 128頁
  21. ^ 『海軍制度沿革』巻8、1940、p.354。国立国会図書館デジタルコレクション コマ197 「◉甲鐡艦ヲ東艦ト改稱ノ件 明治四年十二月七日(兵部省一五七) 甲鐡艦ノ儀自今東艦ト改號候條此旨相達候事」
  22. ^ 明治4年10月28日制定 「海軍規則並俸給表」 第三條、および明治4年11月15日付 「諸艦等級附」。
  23. ^ 明治5年10月5日付 乙第238号但し書き。
  24. ^ 明治9年4月8日付 記三套第33号。
  25. ^ 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年、312頁。
  26. ^ #M4公文類纂11/福島弥太六甲鉄艦長代外数件達画像1、海軍所達留169「大坂丸船長 福嶋福嶋彌太六 甲鉄艦長代申付候事 辛未五月十七日 兵部省」
  27. ^ 『日本海軍史』第10巻、388頁。
  28. ^ 『日本海軍史』第9巻、7頁。
  29. ^ 『日本海軍史』第9巻、10頁。
  30. ^ 『日本海軍史』第10巻、536頁。
  31. ^ 『日本海軍史』第10巻、205頁。
  32. ^ 『官報』第709号、明治18年11月10日。
  33. ^ 『官報』第895号、明治19年6月26日。
  34. ^ 『官報』第1139号、明治20年4月20日。
  35. ^ 『官報』第1186号、明治20年6月14日。
  36. ^ 『官報』第1301号、明治20年10月28日。
  37. ^ 『官報』第1373号、明治21年1月31日。

参考文献編集

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『公文類聚・第十編・明治十九年・第三十三巻・運輸三・船舶車輌・津港・河渠・橋道:逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ点付ス・其二』。Ref.A15111235500。(国立国会図書館)
    • 『公文類纂 明治4年 巻11 本省公文 黜陟部8/海軍諸達 福島弥太六甲鉄艦長代外数件達』。Ref.C09090287600。
  • 国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館)
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 図説・新選組幕末斬闘賦 学研 2010年 ISBN 978-4-05-605775-1
  • 海人社『世界の艦船』2007年12月号 No.683 p156~p161
  • 中名生正己『幕末軍艦史話』最終話 甲 鐵
  • 中村彰彦『軍艦「甲鉄」始末』新人物往来社、2005年。ISBN 4-404-03288-9
  • 西村誠ほか『日本海軍 艦艇発達ガイド』双葉社 2010年 ISBN 978-4575451337
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
  • 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年。ISBN 4425302516
  • 官報

関連項目編集

外部リンク編集

  • 'Sphinx' (1863) 南部連合「スフィンクス」時代の本艦のスペックがあるページ。(英語)