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ホクトベガ日本競走馬1993年エリザベス女王杯勝ち馬。1996年JRA賞最優秀ダートホースNARグランプリ特別表彰馬。

ホクトベガ
欧字表記 Hokuto Vega
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1990年3月26日
死没 1997年4月3日(7歳没・旧8歳)
登録日 1992年10月15日
抹消日 1997年4月3日
ナグルスキー
タケノファルコン
母の父 フィリップオブスペイン
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産 酒井牧場
馬主 金森森商事(株)
調教師 中野隆良美浦
厩務員 藤井浩
競走成績
生涯成績 42戦16勝
中央競馬)32戦7勝
地方競馬)9戦9勝
(日本国外)1戦0勝
獲得賞金 8億8812万6000円
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ダート競走において無類の強さを発揮し、牝馬でありながらダートでは並み居る牡馬をことごとく退ける圧倒的な走りを見せたことから、『砂の女王』とも呼ばれる。

目次

生涯編集

馬齢は旧表記を用いる。

誕生からデビューまで編集

1990年3月26日北海道浦河郡浦河町酒井牧場で生まれる。酒井牧場の同期生産馬には、牝馬クラシック二冠馬マックスビューティの初年度産駒で、後に共に桜花賞と優駿牝馬に出走するマックスジョリーがいた。

父・ナグルスキーと母・タケノファルコンの配合はホクトサンバースト(中央11戦2勝、地方3勝)と同じもので、牧場主の酒井公平が「素晴らしい馬体の持ち主で、若駒のころに浦河地区のコンクールで最優秀賞を受賞したこともあった」というホクトサンバーストの好馬体の再現を狙ったものだった[1]。しかし生まれた仔馬(ホクトベガ)は「兄とは全く似ていない粗野な印象の馬」で、酒井はこんなはずじゃなかったと落胆したという[1]。また生後1、2か月のホクトベガを見た調教師の中野隆良は、その印象を「牝馬にしては体がいかつい感じで、これは大きくなるという印象を持った。牧場関係者にはダート900万条件の特別くらいは勝てると言ったのを覚えている」と語っている[2]が、どちらにしても関係者の期待はさほど高いものではなかった。ホクトベガのオーナーとなった森滋は、購入理由を「理屈じゃなく一目で気に入ってしまった」と語る。ホクトベガの名前は森の妻が名付けたもので、冠名の『ホクト』にハ行の単語を組み合わせるという慣例から、こと座のα星のベガを合わせたものである[3]

2歳になったホクトベガは日高町ファンタストクラブで育成調教を受けるが、体は大きいものの体力が全くなく、他の馬が坂路コースを2本走るところを1本しか走ることができないという有り様だった。これを見たオーナーの森は、「この馬は競走馬にはなれないんじゃないかと思ったくらいだった」と語っている[3]。結局育成スケジュールは遅れ、3歳でのデビューはできなかったが、美浦トレーニングセンター中野隆良厩舎へ入厩して調教を続ける中で着々と地力を付けていく。調教助手の田畑正照は「後ろ足のバネが強すぎて、乗っていて変な感じだった。1ハロン15秒程度の追い切りをする頃には、『これはモノが違う』と思った」と語る[4]

エリザベス女王杯を制覇編集

明けて1993年加藤和宏の鞍上で1月5日の4歳新馬戦(中山競馬場)に出走すると、2番人気ながらダート1200mを1分12秒5という準オープンクラス馬を凌ぐ時計を叩き出し、2着に9馬身差をつけて逃げ切り勝ちを収める。次戦となった同年1月16日の朱竹賞(中山競馬場、4歳500万円以下)では2着に敗れるが、3戦目のカトレア賞(東京競馬場、4歳500万円以下)で2勝目を挙げる。新馬戦から3戦目まではいずれもダート戦である。

ホクトベガが初めて芝コースを走ったのは、4戦目で初の重賞挑戦となったフラワーカップ(GIII)である。初めての芝コースでのレースということで2番人気だったが、直線で内から楽に抜け出して3勝目を飾る。桜花賞トライアルのフラワーカップを勝ったことでホクトベガは牝馬クラシック候補の1頭に数えられ、同じ星の名前を頂く栗東所属のベガとの対戦は『東西ベガ対決』とも呼ばれたが、桜花賞は長距離輸送で落ち込んだ馬体を戻せず、さらに阪神競馬場では不利となる大外枠だったこともあってベガの5着、優駿牝馬は道中ベガをマークし、早めに動いたものの直線で伸びきれずにまたしてもベガの6着にそれぞれ敗れた。優駿牝馬終了後に放牧に出され、帰厩後にトライアル競走クイーンステークスローズステークスを戦うが、それぞれユキノビジンの2着、スターバレリーナの3着に敗れた。ローズステークスの後は美浦に戻らずに栗東で調整を続けて調子は上向いていたが、この頃には既に勝ち切るだけの決め手に欠けるという評価が定着しており、エリザベス女王杯では1番人気のスターバレリーナ、牝馬三冠がかかる2番人気のベガに対し、ホクトベガは9番人気と評価を落としていた。

レース本番、ケイウーマンがスタートから飛び出して大逃げを打ち、1200m通過タイムが1分10秒2というハイペースで進む。1枠1番という最内からスタートしたホクトベガは、これまでの先行策ではなく道中は中団で折り合いをつけ、4コーナーで最内から先頭へ進出。先行するベガとノースフライトをかわして先頭に立つと、追いすがるノースフライトを上り3ハロン35秒3の時計でねじ伏せ、2分24秒9というレースレコードをマークしてエリザベス女王杯を制した。このホクトベガ陣営の作戦は、かつて中野が管理していたグリーングラスが同じ京都競馬場で行われた菊花賞を優勝した際の作戦をほぼそのまま踏襲したものであり、これが見事にはまった形となった。この時実況を担当した関西テレビ放送馬場鉄志が発した「東(美浦)の一等星北斗のベガ!ベガはベガでもホクトベガ!!」というフレーズは現在でも語り草となっている。騎手の加藤と調教師の中野は当レース初勝利、GIは加藤がシリウスシンボリで勝った1985年東京優駿以来、中野がクシロキングで勝った1986年天皇賞(春)以来の勝利となった。酒井牧場にとっても当レースは初勝利であり、かつて牝馬三冠を目指したマックスビューティでも果たせなかった勝利を飾ることになった。しかし、牧場主の酒井はまさかホクトベガが勝つとは思っていなかったため、この時京都競馬場に応援に行っていなかった。このことについて酒井は後年、「せっかくの晴れ舞台なのに、彼女には申し訳ないことをした。馬を見る目がないことを思い知らされた。あの馬の強さを見抜くことができなかったなんて、プロのホースマン失格です」と語っている[1]

晴れてGI馬の仲間入りを果たしたホクトベガは、1993年12月18日のターコイズステークス(中山競馬場)に出走してユキノビジンの3着となり、同年の出走を終えた。

幻に終わった障害転向編集

1994年(5歳時)は札幌日経オープン、札幌記念(いずれも札幌競馬場)と連勝するが、ホクトベガにとって中央競馬のレース体系は生易しいものではなかった。古馬のGIは全て牡馬との混合戦、ハンデ戦や賞金別定戦ではGIホースであるがゆえに重い負担重量を課されて苦戦が続き、結局5歳時は9戦に出走して2勝、3着1回着外6回という、GIホースとしては物足りないものとなった[5]。この状態を見た調教師の中野は、平地GI優勝馬でありながら障害競走への転向を考え、6歳になった1995年の正月明けから実際に障害飛越の練習を開始する。ホクトベガは障害飛越がうまく、1月のアメリカジョッキークラブカップ(AJC杯、中山競馬場)を控えた中であったが調教は障害練習を中心に行われ、追い切りはレース直前に1本行われただけであった。これについて中野は「入障するプランもあるが、今回(AJC杯)は斤量が軽いので使ってみることにした」とAJC杯のレース前に語っている[6]。ところが障害転向がほぼ決まっていたAJC杯でホクトベガはサクラチトセオーからクビ差の2着に入線、結局障害レースへの転向は白紙に戻されることとなった。

ホクトベガは後にダートコースで圧倒的な強さを見せるが、この時に行われた障害飛越の練習による足腰の強化が活躍に繋がったのではないかと考える者もいたという。中野も障害練習がホクトベガの心身を共に鍛え、さらなる成長を促したのではないかと語っている[6]。さらに、2年前にメジロパーマーが史上初の「障害帰りのGI馬」となったこともあり、程度の差こそあるものの調教において障害飛越の練習を採用する厩舎が急増するきっかけにもなった。現在では、平地競走で調子を落とした馬のリズムを取り戻させるために行う手段の一つとされている。

川崎で開花したダートへの適性編集

転機が訪れたのは、1995年6月13日川崎競馬場である。同年から中央と地方競馬の交流が盛んに行われるようになり、川崎競馬場伝統の牝馬限定重賞・エンプレス杯が当時としては唯一となる牝馬限定の中央・地方全国交流競走として実施されることとなった[注 1]。中野は「牝馬限定でメンバー的に楽だったこと、そして斤量が55キロとこれも楽だったこと」を理由にホクトベガを出走させることを決定する[2]。なお、このエンプレス杯には同厩舎のヒシアマゾンも出走登録していたが、こちらは後に登録を取り消している。

初めての川崎競馬場、初めてのナイター競走、水溜りができて田んぼのようになった不良馬場のコンディション、そして中野が「中央のGIホースが地方に乗り込んで、負けたらマズいというぎりぎりの切羽詰まった気持ちで行った」[2]と語るプレッシャーの中、ホクトベガは向こう正面で先頭に立つと1頭だけ別次元のレースを繰り広げ、同年のダイオライト記念優勝馬で南関東最強牝馬と目されたアクアライデン、前年のエンプレス杯優勝馬のケーエフネプチュン、当時7連勝中で地元川崎の期待を集めるマフィン、笠松代表として安藤勝巳を鞍上に送り込んだクラシャトルといった他の出走馬を全て子供扱いにし、終始まったくの馬なりにもかかわらず、2着のアクアライデンに3.6秒差(18馬身差。公式では大差)という観客の度肝を抜く圧巻の走りを見せつけて勝利。4着のマフィン鞍上の山崎尋美に「前のレースの馬が残っているかと思った」[7]と言わしめる圧勝劇で、地方競馬関係者に大きな衝撃を与えた。

ダート交流重賞を席巻編集

エンプレス杯を圧勝したホクトベガは、その後函館記念函館競馬場)、毎日王冠(東京競馬場)、天皇賞(秋)(東京競馬場)など芝コースのレースに5戦出走したが、いずれも敗れて1995年を終える。この結果を受けて陣営は翌年からの本格的なダートレースへの参戦を決め、手始めにエンプレス杯と条件が同じ川崎記念1996年1月24日)に出走させた。

このレースは第1回ドバイワールドカップに出走予定の日本が誇るダート最強馬・ライブリマウントの壮行レースと考えられており、レースでも1番人気に推されていた。他の出走馬も「打倒ライブリマウント」を掲げてJRAからトーヨーリファール[注 2]船橋期待のアマゾンオペラなど、中央・地方を問わず当時のダート戦線の精鋭たちが顔を揃えていた。しかし蓋を開けてみれば、3コーナーで先行するライブリマウントをかわして先頭に立ったホクトベガは他馬を全く寄せ付けず、2着・ライフアサヒ(名古屋)に1秒(5馬身)差をつける圧勝で交流競走2勝目を飾る。ホクトベガから6馬身差の3着に敗れたライブリマウントの陣営はこの結果にショックを受け、ライブリマウントの壮行レースと考えていた周囲にも動揺が広がったという。

大差勝ちではなかったものの、エンプレス杯のパフォーマンスは再現できたと考えた陣営は、その後もダートの中央・地方交流競走に照準を定め、フェブラリーステークス(東京競馬場)、ダイオライト記念船橋競馬場)に勝利。群馬記念高崎競馬場)ではレースレコードも記録する。そして帝王賞大井競馬場)で5連勝を飾るとともに、ヒシアマゾンの生涯獲得賞金額を上回り、牝馬の獲得賞金額の新記録を樹立。この時実況を担当した及川暁は、「この実況をお聞きの、大井の、そして地方競馬ファンの皆さん、私は何度でも言いましょう。…ホクトベガ、やはりお前は強かった!」と、その強さに脱帽したと言わんばかりの実況を行っている。ホクトベガのあまりの強さに出走回避が相次いで6頭立てとなったエンプレス杯で2着のスピードアイリスに8馬身差をつけて悠々と連覇を飾り、ジャパンブリーダーズカップ協会が設けた1億円ボーナスを獲得すると、秋の初戦となったマイルチャンピオンシップ南部杯盛岡競馬場)では、場内実況を務めた井上学が「女王様とお呼び![注 3]」と実況するほどの圧勝劇で7連勝を達成した。陣営は、もしダート戦で敗れたら潔くその時点で引退させる方向だったが、レースが始まってみれば3・4コーナーでの一捲りだけで圧勝してしまい、敗れる要素は何も見つからなかった。

出走条件が4歳以上牝馬に変更となったことで3年ぶりに参戦した11月10日のエリザベス女王杯(4着)を挟み、浦和記念浦和競馬場)の勝利で南関東公営競馬の4競馬場全てでの重賞勝利を達成する。レースは2着・キョウトシチーに3/4馬身差に詰め寄られるものだったが、内容は危なげないものだった。続いて出走した芝レースの有馬記念は9着に終わるが、結局1996年はダートで8戦8勝、前年のエンプレス杯から続くダート交流重賞の連勝記録を9に伸ばすなど凄まじい成績を残し、この年のJRA賞最優秀ダートホースに選出。またJRA所属馬のためにNARグランプリの受賞資格はなかったが、特別表彰という形で表彰を受ける。そして1997年の最初のレースとして川崎記念に出走し、楽々と独走して連覇を達成。ダート交流重賞10連勝・通算16勝目を挙げ、グレート制導入以降のJRA所属馬の最多勝利記録を更新した。このレースはホクトベガの国内におけるラストレースとなることが事前に発表されており(後述)、スタンド改築工事中だったために実質30000人程度の収容能力しかなかった川崎競馬場に2倍近いおよそ59000人もの観客が来場。ロジータの引退レースとなった、1990年の川崎記念を上回る大混雑となった。

このように、ホクトベガが出走する日の競馬場では入場者数もレコードを記録し、さらに勝ち続けたことでファンの期待も裏切らなかった。特に1996年6月19日の帝王賞では、大井競馬場に定員をはるかに上回る77818人が来場。これは大井競馬場の入場者数の昼夜通じての最高記録である[注 4]

ダートグレード競走導入前夜のため、数字上では重賞4勝・GI1勝[注 5]にとどまっているが、競走実績や人気を鑑みれば、ホクトベガは紛れもなく1990年代におけるスターホースの一頭である。

ドバイ遠征と死編集

ホクトベガは、1997年に実施された第2回ドバイワールドカップに招待されて出走する。このレースがホクトベガの引退レースとなり、レース終了後はそのまま渡欧させてヨーロッパの一流種牡馬交配させ、酒井牧場に戻って繁殖牝馬となる予定だった。ドバイまでの長距離輸送に起因する飼葉食いの落ち込みに加えてドバイでは裂蹄にも悩まされるが、裂蹄はアメリカの装蹄師トッド・ボストンによって、グラスファイバーによる治療が施された。また最終追い切りには馬場状態の良いゴドルフィン軍団のアル・クオーツ厩舎の専用コースを借りることができた。これらの関係者の努力によって、ホクトベガの体調は復調傾向にあり、十分にレースが可能な状態に仕上げられていった[8]

しかし、当初の開催予定日(3月29日)はドバイでは数十年に一度という猛烈なスコールとなり、レースは4月3日に順延となった。レース本番を迎えたホクトベガは中断から後方に位置していたが、最終コーナーで転倒し、さらに後続のビジューダンド(Bijou d'Inde)が巻き込まれる形で追突。ホクトベガは左前腕節部複雑骨折となり、予後不良と診断されて間もなく安楽死処置を受けた。

安楽死処分となったホクトベガの遺体は輸送(検疫)の関係上で日本に帰ることができず、故郷の酒井牧場に建立された墓にはホクトベガのたてがみが遺髪として納められた。この17日後には繁殖牝馬として酒井牧場に帰っていたマックスジョリーが出産時の子宮大動脈破裂で急死、酒井牧場には悲報が相次ぐことになった。

競走成績編集

年月日 競馬場 競走名 人気 倍率 着順 距離 タイム 3F 騎手 斤量 勝ち馬/(2着馬)
1993 1. 5 中山 4歳新馬 2人 3.7 1着 ダ1200m(良) 1:12.5 (38.5) 加藤和宏 53 (イズミブルー)
1. 16 中山 朱竹賞 1人 1.5 2着 ダ1800m(不) 1:52.4 (39.8) 加藤和宏 53 サイキョウホウザン
2. 20 東京 カトレア賞 1人 1.9 1着 ダ1600m(良) 1:37.8 (37.4) 加藤和宏 53 (サンエイレコード)
3. 20 中山 フラワーC GIII 2人 2.9 1着 芝1800m(良) 1:49.7 (35.9) 加藤和宏 53 (タイジュリエット)
4. 11 阪神 桜花賞 GI 6人 16.2 5着 芝1600m(良) 1:37.7 (49.6) 加藤和宏 55 ベガ
5. 23 東京 優駿牝馬 GI 5人 10.2 6着 芝2400m(良) 2:28.2 (36.0) 加藤和宏 55 ベガ
10. 3 中山 クイーンS GIII 2人 3.3 2着 芝2000m(良) 2:02.6 (36.0) 加藤和宏 54 ユキノビジン
10. 24 京都 ローズS GII 3人 5.5 3着 芝2000m(良) 2:00.7 (34.9) 加藤和宏 55 スターバレリーナ
11. 14 京都 エリザベス女王杯 GI 9人 30.4 1着 芝2400m(良) 2:24.9 (35.3) 加藤和宏 55 ノースフライト
12. 10 中山 ターコイズS 2人 3.7 3着 芝1800m(良) 1:49.8 (34.6) 加藤和宏 56 ユキノビジン
1994 1. 15 阪神 平安S GIII 2人 5.3 10着 ダ1800m(良) 1:54.3 (40.1) 加藤和宏 54 トーヨーリファール
2. 27 中山 中山牝馬S GIII 2人 3.6 4着 芝1800m(良) 1:48.3 (36.5) 加藤和宏 56 ホッカイセレス
4. 23 東京 京王杯スプリングC GII 5人 12.1 5着 芝1400m(良) 1:21.4 (34.7) 加藤和宏 56 スキーパラダイス
6. 12 札幌 札幌日経オープン 1人 2.3 1着 芝1800m(良) R1:47.2 (35.2) 加藤和宏 55 (モガミサルノ)
7. 3 札幌 札幌記念 GIII 1人 2.0 1着 芝2000m(良) 2:00.9 (35.7) 加藤和宏 56 (エーピーグランプリ)
8. 21 札幌 函館記念 GIII 1人 2.9 3着 芝2000m(良) 2:02.1 (36.7) 加藤和宏 55 ワコーチカコ
10. 9 東京 毎日王冠 GII 11人 26.5 9着 芝1800m(良) 1:45.4 (35.3) 加藤和宏 57 ネーハイシーザー
11. 13 東京 富士S 2人 6.6 6着 芝1800m(良) 1:47.6 (34.8) 加藤和宏 55 サクラチトセオー
12. 18 阪神 阪神牝馬特別 GII 6人 16.3 5着 芝2000m(良) 2:01.2 (37.0) 加藤和宏 57 メモリージャスパー
1995 1. 22 中山 AJCC GII 6人 57.1 2着 芝2200m(良) 2:14.5 (34.6) 加藤和宏 56 サクラチトセオー
2. 26 中山 中山牝馬S GIII 1人 3.2 2着 芝1800m(稍) 1:49.5 (34.9) 加藤和宏 57.5 アルファキュート
3. 12 中山 中山記念 GII 2人 10.3 8着 芝1800m(稍) 1:50.8 (34.9) 加藤和宏 56 フジヤマケンザン
4. 22 東京 京王杯スプリングC GII 11人 25.6 3着 芝1400m(良) 1:21.5 (35.4) 横山典弘 57 ドゥマーニ
5. 14 東京 安田記念 GI 3人 10.1 5着 芝1600m(良) 1:33.5 (34.7) 横山典弘 55 ハートレイク
6. 13 川崎 エンプレス杯 G1 1人 1着 ダ2000m(不) 2:06.5 横山典弘 55 アクアライデン
8. 20 函館 函館記念 GIII 5人 8.5 11着 芝2000m(重) 2:03.5 (38.0) 的場均 56 インターマイウェイ
10. 8 東京 毎日王冠 GII 8人 21.6 7着 芝1800m(重) 1:49.2 (35.2) 大塚栄三郎 57 スガノオージ
10. 29 東京 天皇賞(秋) GI 15人 77.0 16着 芝2000m(良) 2:00.2 (36.9) 横山典弘 56 サクラチトセオー
11. 19 新潟 福島記念 GIII 8人 13.7 2着 芝2000m(良) 2:01.9 (35.4) 中舘英二 56 マイネルブリッジ
12. 17 阪神 阪神牝馬特別 GII 5人 12.8 5着 芝2000m(良) 2:00.8 (35.6) 中舘英二 57 サマニベッピン
1996 1. 24 川崎 川崎記念 G1 2人 1着 ダ2000m(良) 2:07.5 横山典弘 53 ライフアサヒ
2. 17 東京 フェブラリーS GII 3人 4.6 1着 ダ1600m(良) 1:36.5 (37.0) 横山典弘 57 アイオーユー
3. 20 船橋 ダイオライト記念 G1 1人 1着 ダ2400m(良) 2:31.3 横山典弘 53 スペクタクル
5. 5 高崎 群馬記念 1人 1着 ダ1500m(不) R1:33.6 横山典弘 53 ヒカリルーファス
6. 19 大井 帝王賞 G1 1人 1着 ダ2000m(良) 2:04.2 横山典弘 53 (アイオーユー)
7. 15 川崎 エンプレス杯 G2 1人 1着 ダ2000m(良) 2:06.7 横山典弘 56 スピードアイリス
10. 10 盛岡 マイルCS南部杯 1人 1着 ダ1600m(良) 1:38.3 的場均 54 ヘイセイシルバー
11. 10 京都 エリザベス女王杯 GI 4人 8.5 4着 芝2200m(良) 2:14.4 (33.7) 的場均 56 ダンスパートナー
12. 4 浦和 浦和記念 G1 1人 1着 ダ2000m(良) 2:05.5 横山典弘 53 キョウトシチー
12. 22 中山 有馬記念 GI 9人 31.3 9着 芝2500m(良) 2:36.0 (38.5) 藤田伸二 54 サクラローレル
1997 2. 5 川崎 川崎記念 G1 1人 1着 ダ2000m(稍) 2:06.7 横山典弘 53 (キョウトシチー)
4. 3 UAE ドバイワールドC ダ2000m(良) 中止 横山典弘 55.5 Singspiel

※1 南関東競馬主催の重賞競走の格付けは、全て南関東グレードである。
※2 タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

エピソード編集

ホクトベガの馬体編集

ホクトベガは牝馬ながら500キログラム近い雄大な馬体の持ち主であった。また、逞しく力強いが同時に牝馬らしい丸さに欠けるという見方も多かった。事実、その馬体は牡馬が周回するパドックに入った所で何ら見劣りするものではなく、むしろ他の牡馬たちを凌駕さえする見栄えの良さであった。と球節は、カナダ産馬である父ナグルスキーの特徴をそのまま受け継いだ様に全体的に深い形をしていた。特に蹄は他の馬より倍近く深く、丁度お碗を逆さにしたような形で、厩務員の藤井は「他の馬と違って、産まれつきスパイクを穿いている感じだった」と語っている。

調教師の中野はホクトベガの馬体を見て「牝馬には繁殖に向いた馬と競走に向いた馬があるが、ホクトベガの馬体は明らかに競走型である」として、ベガユキノビジンなど同世代のクラシック路線を競った牝馬たちが次々に引退し、繁殖生活に入るのを横目に競走生活を続行させたが、果たして6歳になってからダート路線で大活躍した。

川崎記念連覇後のインタビューで、中野はホクトベガの強さについて「彼女はモナ・リザ、その強さは永遠の秘密です[9]」と語っている。

ホクトベガとヒシアマゾン編集

同じ中野厩舎所属の1世代後輩ヒシアマゾン誕生日も同じ3月26日生まれ)と合わせて語られることも多く、「ホクトベガとヒシアマゾン、2頭がレースしたらどちらが勝ったと思いますか」という質問に対し、中野と藤井は「芝でレースをしたら、(ホクト)ベガは(ヒシ)アマゾンに100回挑戦しても勝てないでしょう。でもダートですとアマゾンが100回挑戦してもベガには勝てなかったでしょう」と異口同音に語っている。

この2頭は1996年のエリザベス女王杯と有馬記念(どちらも芝のレース)で対戦しており、ヒシアマゾンが2度とも先に入線している。ただしエリザベス女王杯においてヒシアマゾンは2位入線から降着となっており、確定後の着順としてはホクトベガが上位となる。

ホクトベガメモリアル編集

ダートコースで圧倒的強さを誇ったホクトベガの功績を称え、エンプレス杯と川崎記念を連覇し、4戦4勝と無敗を誇った川崎競馬場では、1998年より牝馬限定の中央・地方競馬交流重賞のスパーキングレディーカップに「ホクトベガメモリアル」の冠を付けている。また、最期の地となったドバイにおいても、1998年にはドバイワールドカップを主宰するシェイク・モハメドの計らいによって、ドバイミーティング中にホクトベガの名を冠した競走が施行された。

生涯獲得賞金は8億8812万6000円。これは2009年ウオッカが更新するまで、牝馬の獲得賞金最高記録であった。

血統表編集

ホクトベガ血統ニジンスキー系/アウトブリード (血統表の出典)[§ 1]
父系 ニジンスキー系
[§ 2]

*ナグルスキー
Nagurski カナダ
1981 鹿毛
父の父
Nijinsky
1967 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
父の母
Deceit
1968 黒鹿毛
Prince John Princequillo
Not Afraid
Double Agent Double Jay
Conniver

タケノファルコン
1982 黒鹿毛
*フィリップオブスペイン
Philip of Spain
1969 黒鹿毛
Tudor Melody Tudor Minstrel
Matelda
Lerida *マタドア
Zepherin
母の母
クールフェアー
1978 栗毛
*イエローゴッド
Yellow God
Red God
Sllay Deans
*シャークスキン *シルバーシャーク
Artrevida F-No.9-c
母系(F-No.) 9号族(FN:9-c) [§ 3]
5代内の近親交配 なし [§ 4]
出典
  1. ^ JBIS ホクトベガ5代血統表2016年7月14日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com ホクトベガ5代血統表2016年7月14日閲覧。
  3. ^ JBIS ホクトベガ5代血統表2016年7月14日閲覧。
  4. ^ JBIS ホクトベガ5代血統表2016年7月14日閲覧。

父・ナグルスキーはアメリカで32戦7勝。ニジンスキーの直系として日本で種牡馬供用され、ホクトベガ以外にもナリタハヤブサなど、ダートに適性を持つ馬を数多く出している。また、母の父・フィリップオブスペインは安田記念に勝利したフレッシュボイスの父として有名だが、スルガスペインキタシバスペインといったダート巧者も数多く輩出している[10]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 当時のエンプレス杯は夏に行われていた。2003年よりエンプレス杯は春に移動し、この時期には中央・地方交流の牝馬限定重賞の関東オークスが実施されている。
  2. ^ 1994年の第1回平安ステークス勝ち馬。このレースにはホクトベガも出走したが、10着と大敗。競走中止となったドバイワールドカップを除き、生涯で唯一、ダート競走で連対を外している。
  3. ^ この発言はレース後に局内で問題となり、井上はアナウンサーから外され、その後ディレクター職を経て現在は記者となっている。
  4. ^ 施設に定員以上の人員を入場させることは消防法施行規則違反に当たるため、レース後に消防当局から厳重注意処分を受けた競馬場もあった。
  5. ^ 勝利した競走のうち、ダート競走格付け委員会によってフェブラリーステークスはGIに、川崎記念・帝王賞・マイルチャンピオンシップ南部杯はJpnIに、エンプレス杯・ダイオライト記念・浦和記念はJpnIIに格付けされており、現在の基準で言えば重賞12勝・GI6勝である。また、群馬記念は廃止されるまではGIIIの格付けであった。

出典編集

  1. ^ a b c 別冊宝島『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』60頁 - 61頁。
  2. ^ a b c 別冊宝島『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』62頁 - 63頁。
  3. ^ a b 別冊宝島『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』58頁 - 59頁。
  4. ^ 別冊宝島『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』68頁。
  5. ^ 双葉文庫『ホクトベガ 北斗一番星 天を駆ける~』66頁。
  6. ^ a b 別冊宝島『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』27頁。
  7. ^ 別冊宝島『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』31頁。
  8. ^ 双葉文庫『ホクトベガ 北斗一番星 天を駆ける~』72頁。
  9. ^ 松永郁子『名馬は劇的に生きる』(講談社、2000年)83頁。
  10. ^ 別冊宝島『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』72頁 - 73頁。

参考文献編集

外部リンク編集