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歌川国芳画『東海道五十三対 土山』 左より鈴鹿山の鬼神、鈴鹿御前、坂上田村麻呂

坂上 田村丸 / 坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまる/さかのうえ の たむらまろ)は、田村語り坂上田村麻呂伝説に登場する伝説上の人物。

目次

概要編集

平安時代前期の大納言坂上田村麻呂がモデルとされ、物語や伝説によっては鎮守府将軍藤原利仁(ふじわら の としひと)と融合されていることもある[1][2]

平安時代中期、田村麻呂と利仁は歴史事実からかけ離れた説話軍記物語寺社の縁起などに頻繁に登場すると同時に、その人物像も次第に史実から解離が進んで伝説化したことから、田村語りが萌芽して成長し始めた[3]。坂上田村麻呂伝説は、鬼神討伐など文芸的な伝説・創作の『討征譚』、寺社建立にまつわる言い伝えの『寺社縁起譚』に分類される。坂上田村麻呂伝説は室町時代から江戸時代にかけて田村語りを通して本地譚に採り入れられたもののため、田村麻呂本人にとってはあずかり知らないことであるが、後世の人々が伝説を受け入れたのは確かである[4]

歴史編集

京都での伝説化編集

坂上田村麻呂は『公卿補任弘仁2年(811年)の条に「毘沙門天の化身、来りてわが国を護ると云々」と記述されているように、生前には既に毘沙門天の化身として評価されていた。11世紀頃、平安時代後期に成立したとされる『陸奥話記』にも坂面伝母礼麻呂[注 1]は北天の化現にして希代の名将と記していることから、生前から英雄的武人としての原型が出来ていた。『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』に清水寺の創建伝承がみえるものの、蝦夷征討に関する事蹟は記されていない。『今昔物語集』、『扶桑略記』、『源平盛衰記』も同様である。鎌倉時代武家の時代がはじまると、清水寺の創建伝承に田村麻呂による討征譚が結び付いた。元亨2年(1322年)に臨済宗虎関師錬がまとめた『元亨釈書』巻九「清水寺延鎮伝」に「奥州の逆賊高丸駿河国清見関を目指して攻め上がり、坂将軍田村の出陣を聞いた高丸は奥州へと退いた」と清水寺の創建縁起から続けた物語が加えられ、明衡撰の『清水寺縁起』では登場していなかった高丸が登場したことで脚色が加えられ、史実から遊離して説話化が進んだ[5][6]

一方で、藤原利仁は『今昔物語集』巻十四に「心猛クシテ其ノ道に達セル者」として新羅征討を命じられ、それを事前に察知したの法全阿闍利に調伏させたため頓死したと、院政期に成立した説話で語られ、平安時代末期には英雄的武人としての原型が出来上がっていた。鎌倉時代に成立した『平家物語』では、木曽義仲について「田村利仁余五将軍致頼保昌頼光義家とくらべて遜色ない」と田村麻呂と利仁が並んで登場し、この時点で既に歴代武将のはじめに田村麻呂、続けて利仁が置かれている。『保元物語』や『義経記』などの軍記物語にはこれと類似する記述があり、『保元物語』では「古その名聞し田村利仁が鬼神をせめ、頼光・保昌の魔軍を破りしも、或は勅命をかたどり、或は神力をさきとして、武威の誉を残せり」と、蝦夷征討から離れ、田村麻呂と利仁が結合した鬼神退治の英雄として記されていく[5][7]

室町時代の『義経記』巻第二では、「本朝の武士は坂上田村丸はこれを読み伝えてあくじの高丸(悪事の高丸)を取り、藤原利仁はこれを読みて、赤頭の四郎将軍を取る」と、太公望の撰とされる六韜という兵法書を読むことで田村麻呂と利仁は名を挙げたと脚色された。幸若舞未来記』では坂上李人(さかのうえの りじん)として完全に融合し、その子と思われる田村丸(たむらまる)は奈良坂のかなつぶてと鈴鹿の立烏帽子を討伐したと語る。世阿弥作ともされる田村』では、清水寺は大同2年の創建で坂上田村麿の御願なりと清水寺の創建伝承を語ったあと、田村丸による伊勢国鈴鹿山の悪魔退治へと移り、「道行」も加わったことで京都における田村語りの表現形態や構成が完璧に整った。こうした背景からお伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』が誕生した。文明18年(1486年)に記された『壬生家文書』「坂上田村麻呂伝勘文」の田村すずゞかの物語の勘文から、この頃には『鈴鹿の草子(田村の草子)』が成立していたことがわかる。『田村の草子』では、鈴鹿山の鬼神大だけ丸を討つのが藤原俊仁(ふじわらの としひと)の子・坂上田村丸俊宗(さかのうえの たむらまるとしむね)と親子関係で描かれた[5][8]

平泉での伝説化編集

平安時代初期の東北地方における田村麻呂の事蹟や田村語りは『吾妻鏡』の記述が影響した。文治5年(1189年)9月21日の条では、源頼朝が胆沢郡鎮守府に鎮座する鎮守府八幡宮に参詣した事が記されている。田村麻呂が東夷の為に下向した時に勧進され、田村麻呂の弓箭や鞭などが宝蔵に納められていると創建の由来を記している。これは平安京岩清水八幡宮が勧進される以前に、田村麻呂により鎌倉方が崇敬する八幡神が胆沢郡の鎮守府に勧進されていた事に驚いて記述した。同年9月28日の条では、頼朝が鎌倉へと帰還する途中、平泉達谷窟を通ったときの記述に「田村麻呂利仁等の将軍、綸命を奏じて夷を征するの時、賊主悪路王並びに赤頭等、塞を構ふるの岩屋なり」とあり、岩屋から外ヶ浜まで10日あまりで至り、坂上将軍は鞍馬寺を模して多聞天を安置、西光寺と号して水田を寄付したと続けている。『吾妻鏡』で田村麻呂利仁と続けて書かれていることが、のちの田村麻呂と利仁の融合へと影響した。慶長12年(1607年)の『西光寺代々之事』では、坂上田村丸が東夷押領赤頭四郎などを討ち取ったとしている。この赤頭については『常陸大掾伝記』『常陸大掾系図』の中で、平国香の子孫・正幹について「石毛荒四郎、後に赤頭の四郎将軍と号す」「荒人神トナル」などとし、鎌倉時代中期から後期に成立した『八幡愚童訓』でも塵輪という魔の者の姿を「色赤ク、頭ハ八有テ」と常套的な表現を用いており、これら時代的趣向を念頭に、鎌倉時代末期の『吾妻鏡』でも蝦夷の長に赤頭という名を使用したものと考えられる[9][10][11]

田村麻呂は『清水寺縁起』から清水寺との関係が強いが、利仁は『鞍馬蓋寺縁起』から鞍馬寺との関係が強いことがわかる。『鞍馬蓋寺縁起』では「利仁は鞍馬に毘沙門天像を造顕し、剣を納め祈願して下野の高坐山の蔵宗と蔵安を頭目とする群盗を討った」としているが、『吾妻鏡』では鎮守府八幡宮に剣を納め、鞍馬寺に模して達谷窟に多門天(毘沙門天)像を安置し、西光寺を建立したのは田村麻呂とされている。田村麻呂は生前から毘沙門天の化身や北天の化現と評価されていたこと、常に「田村利仁」として組み合わされていたこと、仏典では観音と毘沙門天はイコールで解釈する説があることなどから、両者の融合は当然の帰結であったと考えられる。このように10世紀以降の東北地方でも田村麻呂と利仁の名前が混融された主人公田村麻呂利仁等の将軍が登場し、夷の賊主である悪路王や赤頭を討伐するといった縁起や伝承が平泉を中心に東北、さらには東国も含めて存在していた。これらは地域を超えたより広汎な思想的背景があったこと、田村麻呂は清水寺の建立者ではなく毘沙門堂の建立者として受け入れられていたことが背景にある[10][12]。田村麻呂利仁等の将軍の伝承が広く存在した江戸時代の東北地方にお伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』、古浄瑠璃『田村』『坂上田村丸誕生記』などの京都の物語が伝わると、これら物語を底本とし、旧仙台藩北上川流域を中心に語られた達谷窟の悪路王などの東北各地に残る坂上田村麻呂伝説と融合して奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』が成立した[2]。『田村三代記』では、陸奥の鬼神大嶽丸を討つのが鎮守府将軍・利光の子・坂上田村丸利仁(さかのうえの たむらまるとしひと)となった。

南部藩での伝説化編集

史実性の議論編集

『吾妻鏡』では、頼朝が教えられた内容として、田村麻呂は鎮守府八幡宮を祀り、達谷窟では田村麻呂利仁等が悪路王や高丸を討伐して毘沙門堂を建立したと、史実における田村麻呂の事蹟とは異なる記述がされている。『吾妻鏡』の記述は田村麻呂の没後、約370年が経過した頃となり、おそらくはアテルイの事蹟が反映して伝説化さされた架空の人物である悪路王を登場させ、有名な武将の建立とさせるなど、漠然と史実に似て非なる点を含んでいる[13]

松本盆地一帯の魏石鬼八面大王の伝説では、妻の紅葉鬼神ともども伝説上の人物である田村利仁によって討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が残る。しかし『仁科濫觴記』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、八面鬼士大王を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられているため、史実上の人物である坂上田村麻呂による征討という史実性はない。

桐村栄一郎は、熊野の鬼退治伝説は、坂上田村麻呂が熊野へ遠征している事で成立しているが、史実において田村麻呂が熊野へ遠征した歴史的事実は確認できないとしている。金平鹿の伝説では、先に「時の権力に抵抗する勢力を鎮圧した」伝承があり、時代と共に伝承の中身や主役が入れ替わったのではないかとしている。『熊野山略記』には、「桓武天皇の頃に熊野山が蜂起し、併せて南蛮の乱も起き、熊野三党榎本氏宇井氏穂積氏藤白鈴木氏))に征伐せよとの勅命が下ったとある。嵯峨天皇の弘仁元年(810年)、熊野三党は大将の愛須礼意と孔子を討ったが、悪事高丸は討ち逃した。東国に逃げた高丸を坂上田村丸が征伐した」とある。『熊野山略記』では熊野三党が主役で田村麻呂は脇役であるが、「南蛮」が「鬼」に、「榎本、宇井、鈴木」が「田村麻呂」に入れ替わったのが熊野の坂上田村麻呂伝説のルーツではと推測している[14]

高橋崇は、田村麻呂建立寺社伝説も、鬼神退治物語も、後世の人々がそれを受け入れていたことは確かであるとしながらも、田村麻呂本人の与り知らぬことであるとしている[4]

名前編集

歴史上の人物と同じ坂上田村麻呂と呼称している例も多数を占める。そのため、現代では史実と伝承の混同が進み、田村麻呂による鬼退治はまつろわぬ民の敗者の歴史であるなど、歴史の事実と伝承の区別がつけられていない例もみられる。

お伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』では坂上田村丸俊宗 / 坂上田村麻呂俊宗奥浄瑠璃『田村三代記』では坂上田村丸利仁 / 坂上田村麻呂利仁とされる。通称は田村丸田村丸利仁田村丸将軍など。

脚注編集

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  1. ^ 喜田貞吉は「さかのものてもれまる」と訓み、坂上田村麻呂であろうとしている

出典編集

  1. ^ 高橋 1986, p. 204.
  2. ^ a b 阿部 2004, p. 9.
  3. ^ 阿部 2004, p. 65.
  4. ^ a b 高橋 1986, pp. 214-216.
  5. ^ a b c 高橋 1986, pp. 207-211.
  6. ^ 阿部 2004, pp. 66-68.
  7. ^ 阿部 2004, p. 68.
  8. ^ 阿部 2004, pp. 68-72.
  9. ^ 阿倍 2004, pp. 73-74.
  10. ^ a b 阿倍 2004, pp. 78-79.
  11. ^ 内藤 2007, pp. 226-227.
  12. ^ 内藤 2007, pp. 215-219.
  13. ^ 高橋 1986, pp. 203-206.
  14. ^ 桐村 2012, pp. 43-47.

参考文献編集

  • 阿部幹男『東北の田村語り』三弥井書店〈三弥井民俗選書〉、2004年1月。ISBN 4-8382-9063-2
  • 桐村栄一郎『熊野鬼伝説-坂上田村麻呂 英雄譚の誕生』三弥井書店、2012年1月。ISBN 978-4-8382-3221-5
  • 高橋崇『坂上田村麻呂』吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年、新稿版。ISBN 978-4-642-05045-6
  • 内藤正敏『鬼と修験のフォークロア』法政大学出版局〈民俗の発見〉、2007年3月。ISBN 978-4-588-27042-0

関連項目編集