島野育夫
島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 2007年12月15日)は、栃木県宇都宮市出身のプロ野球選手(外野手)、コーチ、監督、野球解説者。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県宇都宮市 |
生年月日 | 1944年3月30日 |
没年月日 | 2007年12月15日(63歳没) |
身長 体重 |
175 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1963年 |
初出場 | 1963年10月22日 |
最終出場 | 1980年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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コーチ時代は相手の癖を盗む特技を生かし、 三宅博は著書で、センスを持ったクセ盗みの名人と記している[1]。特に星野仙一との監督・コーチコンビでは中日ドラゴンズ・阪神タイガースで優勝を経験しており、低迷期の長かった阪神にあって、島野が在籍していた時期は最下位になったことは一度もなかった。
経歴
編集プロ入りまで
編集作新学院高校時代の1961年、中堅手として1学年下の八木沢荘六、高山忠克らとともに第33回選抜高等学校野球大会に出場した。作新学院はセンバツ初出場であったが、2回戦で高松商に敗退[3]。同年の春季関東大会では決勝に進むが、法政二高の柴田勲に抑えられ敗れた。夏の甲子園予選北関東大会でも決勝に進むが、宇都宮学園に惜敗し、甲子園に出場できなかった。卒業後は社会人野球の明電舎に進み、1962年の都市対抗東京都予選準決勝に進出するが、船田和英のいた北洋水産に敗れた。
現役時代
編集中日ドラゴンズ時代
編集1963年に中日ドラゴンズへ入団。
1965年には一軍に定着し中堅手、右翼手として32試合に先発出場した。しかし当時の中日は江藤慎一、中暁生、葛城隆雄ら外野手の層が厚く、控え・守備要員としての起用が主だった。
南海ホークス時代
編集1968年シーズン途中に佐藤公博とともに、堀込基明との交換トレードで南海ホークスに移籍した。
1969年に左翼手の定位置を獲得し、初めての規定打席(20位、打率.266)に達した。翌年に門田博光が台頭して外野手のレギュラーを外れた。
1973年にはリードオフマンとして中堅手に定着し61盗塁を記録(キャリアハイ)、9試合連続盗塁を記録したほか(周東佑京が2020年10月27日のロッテ戦で10試合連続盗塁で更新されるまで球団記録)[4]、ダイヤモンドグラブ賞を受賞し、リーグ優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズは全5試合に1番として先発出場し、20打数5安打を記録したが、最終第5戦では最後の打者になっている。
1974年には打率.274(13位)を残し、1974年・1975年ともダイヤモンドグラブ賞を受賞した。
阪神タイガース時代
編集1976年、江夏豊・望月充との交換トレードで、江本孟紀・池内豊・長谷川勉とともに阪神タイガースに移籍した。
1980年をもって現役引退した。
現役引退後
編集1981年から、阪神の一軍守備・走塁コーチに就任した。
1982年8月31日の大洋ホエールズ戦で、石橋貢の捕球に対する判定を巡って柴田猛とともに審判に暴行し、無抵抗状態の審判を殴り蹴り続けた(横浜スタジアム審判集団暴行事件)。この暴行は映像がテレビ中継で流れ、永久追放を求める声も出た。翌9月1日、無期限出場停止の処分を受けるが、翌1983年3月に解除された。
1984年シーズン終了後に退団し、サンテレビジョンで野球解説者を務めた。
1986年から、中日の一軍外野守備・走塁コーチに就任した。
1987年に星野仙一が監督に就き、以降は星野とともに活動する機会が増えた[5]。千原陽三郎から「コイツは必ずドラゴンズの監督になるから。そのときは島野、お前が助けてやれ」と言われた[6]。1989年まで総合コーチを務めていた木俣達彦は「彼(星野)が決めるのは投手交代だけ。作戦面のサインは全て島野コーチで任せていました。」[7]と述べている。落合博満は「島野コーチだけは選手の不平不満をちゃんと聞いてやり、ストレス解消と緩衝材としての役割を果たしていた」と語っている[8]。1988年の優勝に貢献した[6]。彦野利勝を徹底的に鍛え、守備力をアップさせ、彦野は「1番・センター」としてリーグ優勝に貢献し、ゴールデン・グラブ賞も受賞した[9]。
1991年、星野の辞任に伴い中日を退団。
1992年に阪神に一軍外野守備・走塁コーチ(三塁ベースコーチ)として復帰した。2軍コーチだった柏原純一は「1軍に送り出した亀山と新庄にコーチとして思い切りプレーできる環境をつくったのは島野育夫さんだった。怒らせた怖い人だが、面倒見はよかった。新庄も尊敬するコーチとして自分と島野さんの名前を何度も挙げていた。目立ちたがり屋だけど、準備はおそろかにしない彼の取り組む姿勢を知っていたからこそ、壁になって新庄を守っていたんだ。95年に阪神退団が決まった後も、島野さんに声をかけていただいた。中日に1軍打撃コーチとしてお世話になった。」[10]と述べている。
1995年、中日に二軍監督として4年ぶりに復帰した。監督の高木守道が成績不振と健康問題で6月2日で休養し、6月3日からヘッドコーチの徳武定祐が監督代行を務めたが、徳武監督代行も12勝25敗と成績が上がらず、7月23日に解任が発表され、球宴明けの7月29日から島野が監督代行を務め[11]、54試合で采配を振るった[12]。7月30日の広島戦(広島市民)、9点差の劣勢を跳ね返し勝利、9点差以上の逆転勝利は33年ぶり5度目だった[13]。成績は25勝29敗で、最下位から5位に上がった[13]。
2000年5月6日の横浜戦で球審の橘高淳への暴行で退場となった、監督の星野仙一に代わり代行を務めた。
2001年オフ、阪神の監督に招聘された星野からの強い要請を受け、中日・阪神間の交渉を経て、翌2002年1月10日に阪神にヘッドコーチとして移籍した。既に前年末時点で、島野は二軍監督として2002年の中日コーチングスタッフが発表されていたため、反故にされた中日側からは批判の声が上がったが、星野は「オレと島ちゃんはどんな名刀でも切り裂くことができない」とし、「非はこちらにあるが勘弁してくれ」と中日側を説得したという。当時2軍監督の岡田彰布は「島野さんは現役の時から一緒にやってるから、二軍との風通しはたいぶ良くなったよ。」[14]と述べている。
2003年のリーグ優勝に貢献した。星野は著書の中で、「野球の原点と戦術にたけたベテランコーチ」と評価している[15]。下柳剛は「島野さんという人は親父であり、上司であり、時には兄貴のような人、あるときは仲間でもあった」と語っている[16]。同年シーズンを以っての星野の勇退とともにコーチを辞任し、フロント入りした。
2005年にオーナーの久万俊二郎の鶴の一声で、一軍総合コーチとして現場復帰した[8]。
2006年、二軍監督に配置転換となったが、4月26日から胃潰瘍により長期入院となりチームを離れた。島野の休養中は、二軍打撃兼守備コーチの立石充男が二軍監督代行を務めた。
2007年、二軍監督を平田勝男に譲って現場から離れ、総合特命コーチに就任し、翌年からは球団アドバイザーに肩書きが変更になる予定だったが、胃癌のため12月15日に兵庫県西宮市の病院で死去した。63歳没。
2008年3月5日の京セラドーム大阪でのオープン戦が、追悼試合として行われ、星野と田淵幸一が始球式を行った。
亡くなる数か月前、神戸市三宮に創作洋食の店をオープンし、オーナーとして経営していた。島野が亡くなってからは夫人が店長兼オーナーを務めた。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1963 | 中日 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1964 | 44 | 28 | 27 | 8 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 3 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 11 | 0 | .185 | .214 | .222 | .437 | |
1965 | 99 | 169 | 155 | 23 | 30 | 2 | 3 | 2 | 44 | 14 | 14 | 5 | 3 | 2 | 8 | 0 | 1 | 36 | 2 | .194 | .235 | .284 | .519 | |
1966 | 104 | 141 | 126 | 16 | 30 | 2 | 1 | 1 | 37 | 10 | 7 | 4 | 5 | 1 | 7 | 0 | 2 | 13 | 0 | .238 | .287 | .294 | .580 | |
1967 | 86 | 151 | 136 | 13 | 28 | 2 | 1 | 0 | 32 | 8 | 2 | 2 | 7 | 1 | 6 | 0 | 1 | 33 | 0 | .206 | .243 | .235 | .478 | |
1968 | 22 | 20 | 20 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | .100 | .100 | .150 | .250 | |
南海 | 91 | 139 | 124 | 21 | 28 | 2 | 2 | 4 | 46 | 12 | 14 | 3 | 4 | 1 | 10 | 0 | 0 | 26 | 1 | .226 | .281 | .371 | .652 | |
'68計 | 113 | 159 | 144 | 23 | 30 | 3 | 2 | 4 | 49 | 12 | 15 | 4 | 4 | 1 | 10 | 0 | 0 | 32 | 1 | .208 | .258 | .340 | .598 | |
1969 | 119 | 412 | 380 | 38 | 101 | 12 | 2 | 6 | 135 | 28 | 21 | 6 | 6 | 1 | 23 | 0 | 2 | 58 | 11 | .266 | .310 | .355 | .666 | |
1970 | 81 | 165 | 154 | 20 | 45 | 5 | 1 | 1 | 55 | 9 | 5 | 6 | 2 | 0 | 8 | 0 | 1 | 18 | 1 | .292 | .331 | .357 | .688 | |
1971 | 82 | 89 | 84 | 17 | 15 | 0 | 0 | 0 | 15 | 3 | 7 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 19 | 1 | .179 | .225 | .179 | .403 | |
1972 | 85 | 203 | 185 | 28 | 52 | 5 | 4 | 0 | 65 | 14 | 12 | 3 | 1 | 3 | 13 | 1 | 1 | 16 | 2 | .281 | .327 | .351 | .678 | |
1973 | 130 | 594 | 559 | 68 | 141 | 17 | 2 | 2 | 168 | 28 | 61 | 14 | 8 | 0 | 27 | 0 | 0 | 46 | 10 | .252 | .287 | .301 | .587 | |
1974 | 106 | 413 | 380 | 55 | 104 | 17 | 6 | 2 | 139 | 25 | 30 | 17 | 2 | 3 | 26 | 1 | 2 | 39 | 4 | .274 | .321 | .366 | .687 | |
1975 | 103 | 402 | 375 | 44 | 86 | 11 | 4 | 2 | 111 | 30 | 28 | 7 | 4 | 2 | 21 | 1 | 0 | 34 | 4 | .229 | .269 | .296 | .565 | |
1976 | 阪神 | 78 | 70 | 67 | 16 | 12 | 2 | 0 | 0 | 14 | 2 | 11 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 21 | 1 | .179 | .214 | .209 | .423 |
1977 | 68 | 76 | 65 | 15 | 17 | 3 | 0 | 1 | 23 | 9 | 7 | 0 | 5 | 0 | 6 | 0 | 0 | 10 | 0 | .262 | .324 | .354 | .678 | |
1978 | 89 | 196 | 179 | 22 | 34 | 8 | 1 | 3 | 53 | 16 | 9 | 0 | 4 | 1 | 9 | 1 | 3 | 30 | 4 | .190 | .240 | .296 | .536 | |
1979 | 43 | 14 | 12 | 10 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 14 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 1 | .250 | .357 | .250 | .607 | |
1980 | 35 | 0 | 0 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
通算:18年 | 1466 | 3283 | 3029 | 431 | 733 | 90 | 27 | 24 | 949 | 211 | 251 | 78 | 51 | 15 | 175 | 4 | 13 | 419 | 42 | .242 | .285 | .313 | .598 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
編集- ダイヤモンドグラブ賞:3回(1973年 - 1975年)
記録
編集- 初出場:1963年10月22日、対阪神タイガース28回戦(阪神甲子園球場)、5回表に山中巽の代打として出場
- 初先発出場:1964年8月9日、対阪神タイガース18回戦(中日スタヂアム)、7番・左翼手として先発出場
- 初安打:1964年8月15日、対大洋ホエールズ22回戦(中日スタヂアム)、8回裏に平山佳宏から
- 初打点:1964年8月26日、対広島カープ21回戦(広島市民球場)、9回表に大石清から適時打
- 初本塁打:1965年4月16日、対読売ジャイアンツ4回戦(中日スタヂアム)、6回裏に中村稔から左越ソロ
- 通算1000試合出場:1974年7月13日、対阪急ブレーブス後期3回戦(大阪スタヂアム)、9回表に中堅手として出場 ※史上175人目
背番号
編集- 11 (1963年 - 1964年)
- 33 (1965年 - 1968年途中)
- 10 (1968年途中 - 1975年)
- 8 (1976年 - 1980年)
- 88 (1981年 - 1984年)
- 76 (1986年)
- 68 (1987年 - 1989年)
- 81 (1990年 - 1991年)
- 73 (1992年 - 1994年)
- 91 (1995年、2005年 - 2007年)
- 78 (1996年 - 2003年)
関連情報
編集出演
編集- サンテレビボックス席 - 解説者として出演していた番組
脚注
編集- ^ 三宅博著、虎のスコアラーが教える「プロ」の野球観戦術、2013年、祥伝社、P26
- ^ “数年後のシマちゃんは「ウフフフ」”. Sponichi Annex. (2015年12月1日) 2020年9月10日閲覧。
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ ソフトバンク周東が福本豊の日本記録に王手 10戦連続盗塁にどよめき - 西日本スポーツ 2020年10月27日
- ^ 星野の妻が病死した際は葬儀にも納骨まで出席し、亡くなるまで墓参りを欠かさなかった。田淵幸一や山本浩二と星野の「友達」関係とはまた違う、職場関係を越えた深い仲にあった([いつ?]デイリースポーツの島野コラムより)。
- ^ a b c 【こぼれ話】まさに一期一会。星野さんと島野さんを繋いだ52年前の運命の出会い 中日ドラゴンズオフィシャルサイト
- ^ 2024年7月号、ベースボールマガジン別冊薫風号、1969-1982 星野仙一と中日ドラゴンズ、SPECIAL INTERVIEW 背番号20を語る【バッテリー編】木俣達彦[元中日]「巨人戦で燃えた本当の理由」23頁
- ^ a b サンケイスポーツ内コラム「猛虎水滸伝」、2012年7月29日
- ^ “恩師の一言が生んだ覚醒「お前、わかってるやろな」 報道陣も驚いた異例の“罰則””. full-count (2023年12月10日). 2023年12月23日閲覧。
- ^ スポーツニッポン2022年3月26日11版、柏原純一の我が道㉕、引退と同時、フロリダでコーチ修行
- ^ 監督代行の代行/メモ
- ^ 日本プロ野球平成の名将―1989ー2012、2012年、ベースボール・マガジン社、P103
- ^ a b 球界デキゴトロジー/7月30日 島野育夫監督代行率いる中日が9点差の大逆転勝利(1995年7月30日) 週刊ベースボール2018年7月30日
- ^ ベースボールマガジン2015年3月号監督1年目の群像、岡田彰布[元阪神・オリックス監督]、[やりたいことをやるしかない。1年目だからって、周囲の声に惑わさせてはあかん!」58頁
- ^ 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P40
- ^ 本邦初公開 下柳氏が楽天入団時に背番号「91」選んだ理由 スポーツニッポン
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 島野育夫 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)