植村 義信(うえむら よしのぶ、1935年1月5日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ監督解説者

植村 義信
Uemura Yoshinobu.jpg
1954年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県芦屋市
生年月日 (1935-01-05) 1935年1月5日(85歳)
身長
体重
179 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1953年
初出場 1953年3月30日
最終出場 1961年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

息子はフジテレビプロデューサーの植村義勝。

経歴編集

プロ入りまで編集

 
芦屋高校時代

芦屋高校では杉谷和男(大映)の1学年下、本屋敷錦吾阪急阪神)の1学年上で、2年次の1951年夏から3回連続で甲子園に出場。初出場の選手権では準々決勝に進出するが、怪童・中西太を擁する高松一高に敗退[1]。同年秋の広島国体では決勝に進むが、広島観音高に敗退。この大会の準々決勝ではエース・大田垣喜夫を擁する尾道西高を相手にノーヒットノーランを記録する。3年次の1952年選抜では、2回戦で平安高に敗れる[2]同年の選手権は、準々決勝で森永勝治を擁する柳井商工を完封するなど順調に勝ち進む。決勝では八尾高木村保に投げ勝ち初優勝を飾り[1]、同年秋の東北3県国体にも出場。決勝に進むが盛岡商に敗れ、2年連続準優勝に終わる。

現役時代編集

1953年毎日オリオンズへ入団。エースナンバー18を付け、1年目の開幕直後から一軍で先発として起用される。シーズン中盤には失速して同年は1勝に終わるが、2年目の1954年は力を付けはじめて9勝、3年目の1955年にはチーム最多の50試合に登板し17勝、同僚の中川隆に次ぐリーグ2位の防御率2.13と好成績を記録。1956年には19勝を挙げ、最高勝率のタイトルを獲得。1957年の開幕戦では柴田英治と並ぶプロ野球最少投球数(71球)で完投勝利を収める[3]。その後は故障で一時低迷するが、1959年には14勝と復活し、チームの2位浮上に貢献。1960年には再び故障、赤痢罹患の影響もあり、1961年オフに26歳で現役を引退。

引退後編集

引退後は指導者としての才能が開花し、5球団で36年間にわたり指導者を務めた。大毎→東京→ロッテ(1962年1964年1969年 - 1970年1999年 - 2000年二軍投手コーチ, 1963年1965年 - 1968年1971年 - 1973年1989年 - 1991年1997年一軍投手コーチ, 1998年二軍育成投手コーチ)、阪急(1974年二軍投手コーチ, 1975年 - 1978年1986年 - 1988年一軍投手コーチ)、ヤクルト1979年一軍投手コーチ)、日本ハム1980年 - 1983年一軍投手コーチ, 1984年監督)、巨人1992年 - 1994年二軍投手育成コーチ)で監督・コーチを歴任。コーチ業の合間を縫って、関西テレビ解説者(1985年, 1995年 - 1996年)を務めた。

コーチ時代は空手三段の特技を生かし、投球に空手の呼吸法を生かしたり、股関節や内転筋強化の特殊メニューを考案するなど、自身の体験から裏打ちされた個性的なトレーニング法で知られた[3]。東京のコーチ時代には、1967年のドラフトの1位指名の選択を濃人渉監督から一任され、村田兆治の指名を進言した[4]。ロッテ時代にはエースとなった成田文男を一本立ちさせ、阪急でも山口高志佐藤義則ら期待のルーキーを早くから一軍で投げられるように指導[3]。1979年に広岡達朗監督に請われてヤクルトの投手コーチに就任した際には、前年オフからの広岡と松園尚巳オーナー、佐藤邦雄球団社長との対立によってチームが混乱しており、前年の日本一から一転して6月以降は最下位を独走する状態であった。そうした中、8月17日の試合前に佐藤社長が植村と森昌彦ヘッドコーチの無期限休養を発表すると、広岡はこの現場介入に激怒して試合の指揮を拒否し辞意を表明。同29日には正式に退団を宣言し、植村も広岡・森と共にヤクルトを去った[5]。日本ハムでは埋もれていた工藤幹夫や伸び悩んでいた間柴茂有らを大化けさせ[3]、1984年には、勇退してフロント入りすることになった大沢啓二前監督の推薦で監督に就任。就任要請を「私はその器ではない」と再三固辞したが、大沢の懇請を断り切れず監督を引き受けた。春の名護キャンプでは「弱いチームが、よそより多く練習するのは当然」として、休日無しで長時間の通常練習の後に紅白戦と特訓を行い、さらに夕食後には室内練習場で遅くまで夜間練習を課したが、このオーバートレーニングによる慢性疲労が原因でシーズン中に不調に陥る選手が続出した[6]。また、戦術面でも自身がコーチを務めていた阪急・上田利治監督の御家芸であった走塁戦術「ギャンブルスタート」を模倣して多用したが上手くいかず、逆にチャンスの場面で相手にアウトを献上した。上田は1970年代後半に、無死または一死の場面で三塁走者に対し、打球がゴロと判ってから走る一般的な「ゴロ・ゴー」だけではなく、バットがボールに当たると同時に走り出す「当たり・ゴー」、さらにはバットに当たる前から走らせる「ヒット・エンド・ラン」の三種のサインを状況に応じて使い分ける戦術を考案して実行し一点をもぎ取っていた。上記のような局面での「当たり・ゴー」と「ヒット・エンド・ラン」は、打者がライナーを打ってしまった場合等には逆に併殺打になるため、非常にリスクの高い作戦であり[7][8][9]、大沢からギャンブルスタートは「円熟した阪急勢でも危険なプレー」だと注意されたが、植村はこの作戦を続けて失敗を重ねた。大沢は植村がギャンブルスタートにこだわった理由を「自分の色を出したかったのだろう」と推察している[9]。こうしたチーム状態のため、日本ハムは5月から最下位に沈んだまま浮上のきっかけもつかめず、植村は成績不振を理由にシーズン途中の6月で辞任した[10]

2011年までは少年野球・東京ベイボーイズの総監督を務めていた。

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1953 毎日
大毎
9 8 0 0 0 1 5 -- -- .167 154 34.1 30 2 22 -- 0 27 0 1 18 17 4.37 1.51
1954 46 18 5 0 0 9 15 -- -- .375 876 216.0 170 8 73 -- 0 128 4 0 67 54 2.25 1.13
1955 50 23 5 1 3 17 10 -- -- .630 900 220.0 196 5 61 0 0 146 9 0 71 52 2.13 1.17
1956 58 21 6 4 3 19 5 -- -- .792 925 232.2 191 10 37 1 0 161 5 0 75 52 2.01 0.98
1957 47 21 4 0 1 8 16 -- -- .333 744 183.1 152 18 43 4 7 124 6 0 70 58 2.84 1.06
1958 35 13 4 0 1 3 9 -- -- .250 532 125.1 118 12 29 0 6 82 1 0 63 54 3.86 1.17
1959 47 26 5 1 1 14 8 -- -- .636 739 181.2 148 17 40 1 4 126 1 0 67 59 2.92 1.03
1960 11 1 0 0 0 1 1 -- -- .500 77 16.0 17 2 8 0 1 11 1 0 16 13 7.31 1.56
1961 19 0 0 0 0 2 0 -- -- 1.000 118 30.2 25 5 5 0 0 27 0 0 13 11 3.19 0.98
通算:9年 322 131 29 6 9 74 69 -- -- .517 5065 1240.0 1047 79 318 6 18 832 27 1 460 370 2.69 1.10
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更

通算監督成績編集

  • 67試合 21勝 37敗 9分 勝率.362

タイトル編集

記録編集

背番号編集

  • 18(1953年 - 1961年)
  • 62(1962年)
  • 63(1963年 - 1965年)
  • 53(1966年 - 1972年)
  • 83(1973年、1997年 - 2000年)
  • 60(1974年 - 1978年、1984年)
  • 73(1979年)
  • 81(1980年 - 1983年)
  • 80(1986年 - 1991年)
  • 86(1992年 - 1994年)

出演編集

テレビ番組編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ a b c d 開幕初先発右腕 半世紀以上破られていない日本記録達成 スポーツニッポン
  4. ^ 週刊現代 (2017年7月15日号). “週現『熱討スタジアム』「マサカリ投法」村田兆治を語ろう 袴田英利×福本豊×植村義信”. 講談社: 142–145頁. 
  5. ^ 『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』282-283頁
  6. ^ 『監督たちの戦い 決定版 下』226頁
  7. ^ 『走らんかい!』98頁
  8. ^ 『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』131頁
  9. ^ a b 『監督たちの戦い 決定版 下』227頁
  10. ^ 【6月28日】1984年(昭59) 植村義信監督 近鉄戦未勝利で辞任 後見人・大沢親分急復帰 スポーツニッポン

参考文献編集

  • 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』(ベースボール・マガジン社、1992年)
  • 浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 下』(日本経済新聞社、2001年)
  • 福本豊
    • 『走らんかい!』(ベースボール・マガジン社、2009年)
    • 『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』(ベースボール・マガジン社、2014年)

関連項目編集

外部リンク編集