民芸運動
民芸運動(民藝運動、みんげいうんどう)とは、1926年(大正15年)、「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊により開始された、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動。21世紀の現在でも活動が続けられている。「民芸」とは、民衆的工芸の意[1]。
概要編集
日本民藝館の創設者であり民芸運動の中心人物でもある柳宗悦は、日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、江戸時代の遊行僧・木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努めた(柳が収集活動を行っていた時代の日本では「李朝」という用語が一般的で、柳自身ももっぱら「李朝」を用いているが、本項では「朝鮮王朝時代」の表記を用いる)。
雑誌『白樺』の同人であり西洋近代美術の紹介者でもあった柳は、1914年(大正3年)、朝鮮陶磁研究家の浅川伯教との出会いを通じて朝鮮の美術に関心をもつようになり朝鮮王朝時代の白磁、朝鮮民画、家具などの素朴な美を世に紹介することに努めた。
1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移した柳は、濱田庄司、河井寛次郎らとともに、いわゆる「民芸運動」を展開した。柳、濱田、河井らは、当時の美術界ではほとんど無視されていた日本各地の日常雑器、日用品など、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、これを世に広く紹介する活動に尽力した。運動の中心であった柳は、当時ほとんど研究が進んでおらず、美術品としての評価も定まっていなかった日本各地の民衆的工芸品の調査・収集のため、日本全国を精力的に旅した。
柳はこうして収集した工芸品を私有せず広く一般に公開したいと考えていた。当初は帝室博物館(現在の東京国立博物館)に収集品を寄贈しようと考えていたが、寄贈は博物館側から拒否された。京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移した柳は、実業家大原孫三郎(株式会社クラレ、大原美術館、大原社会問題研究所などの創設者)より経済面の援助を得て、1936年(昭和11年)、東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設した。木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる日本民藝館本館は、第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民芸運動の拠点として地道に活動を継続している。
「民芸品売り場」「民芸調の家具」など、現代日本語の表現として定着している「民芸」という言葉自体が、柳らによって使い始められた造語である。
民芸運動に対する評価編集
民芸運動は熱烈に歓迎されるか、無関心、不快のうちに黙殺される傾向にあった[2]。正面切って民芸運動を批判した数少ない人物の一人として北大路魯山人が挙げられる。北大路は1930年から31年にかけて自身の主宰する『星岡』において激しい非難を浴びせたが、柳らはこれを黙殺した。
むしろ、運動から離脱していく者から批判が加えられる事態が幾度か見られている。富本憲吉は手仕事における機械の使用に対する見解の不一致から、理論的に折り合いがつかなくなり離脱した。また、三宅忠一は個人作家が民芸に関与することの弊害を説き、個人作家と職人の共存を望む柳と意見が合わず、民芸運動を離脱して新たに日本民藝協団を設立した。民芸運動の理論は柳個人が支える部分が大きく、同じく離脱した青山二郎は「柳宗悦個人の意識を民藝の美と称するものから取去つて見給へ、美術館は消えてなくなるだろう。だからその他大勢は概念の虜である」[2]と述べている。
思想家編集
陶芸家編集
木工家編集
染織家編集
版画家編集
建築関係編集
その他編集
関連項目編集
脚注編集
参考文献編集
- 栗田邦江、福田アジオ(編)、2006、「民藝運動」、『結衆・結社の日本史』、山川出版社〈結社の世界史〉 ISBN 4634444100