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歴史編集

陸軍による対艦船攻撃の研究編集

陸軍中央では1944年初頭に組織的な航空特攻の検討が始まった。陸軍はそれまでも前線からの切実な要望を受けて 浜松陸軍飛行学校が中心となって艦船に対する攻撃法を研究していた[1]。まずは陸軍重爆の雷撃隊への改修を決定し、1943年12月に海軍より九六式陸上攻撃機の提供を受けて訓練が実施された。同時に四式重爆撃機「飛龍」の雷撃機改修も行われた。後に雷撃訓練は海軍指導のもとに行われ、陸軍の技量は向上した[2]。陸軍を指導した海軍航空隊の搭乗員は、自らが運用する「一式陸上攻撃機」と比較するとスマートな機影で、対艦船用レーダー「タキ1」を搭載し、飛行速度や操縦性など基本性能が勝る「飛龍」を見て「陸さんはいいなぁ」と羨望の眼差しを向けたという[3]

 
飛行第98戦隊の雷撃が命中した軽巡洋艦ヒューストン、その2日後にもう1発魚雷を被弾し大量に浸水して曳航されている

海軍に鍛えられた、陸軍雷撃の精鋭部隊飛行第7戦隊飛行第98戦隊の「飛龍」68機は、海軍の指揮下となり、第七六二海軍航空隊(部隊名T攻撃部隊)に編入されて、台湾沖航空戦を戦うこととなった[4]。陸軍雷撃隊の初陣は10月12日の夜間出撃となったが、出撃した飛行第98戦隊の「飛龍」22機は迎撃してきた夜間戦闘機に次々と撃墜され、ようやく敵艦隊に接触した「飛龍」が雷撃のために照明弾を投下するも激しい対空砲火を浴びて損害が続出したため、雷撃することもできずに引き返した。この日の未帰還機は9機となり、わずか1回の出撃で雷撃することも無く半数の「飛龍」を失ってしまった[5]。捲土重来に燃える飛行第98戦隊は、10月14日に稼働機15機全機と出撃可能な搭乗員全員で再度出撃した。途中でF6Fヘルキャット1機から攻撃を受けたが、編隊全機の集中射撃でこれを撃退(もしくは撃墜)し、日没直後に敵艦隊に接触した。「飛龍」全機は激しい対空砲火の中で敵艦隊に突入、うち1機が「魚雷命中」の無電を発するも、その後、次々と出撃機からの無電発進が途絶えていき、結局この日出撃した15機中11機が未帰還となった[6]。アメリカ軍の戦闘記録によれば、飛行第98戦隊の雷撃が命中したのは軽巡洋艦ヒューストン」と見られ[7]、これは陸軍雷撃隊の最大かつ唯一の戦果となったが、精鋭の第98戦隊は24機もの「飛龍」を失い、熟練搭乗員の多くが戦死してしまった[8]

「台湾沖航空戦」は大戦果の虚報が日本中を驚喜させたものの実態は惨敗であった。これは、アメリカ軍はトラック島を空襲のさいに、日本軍雷撃機の夜間雷撃で正規空母イントレピッドに魚雷1発が命中して損傷するなど[9]、日本軍機の夜間雷撃による損害が絶えなかったため、1944年8月以降に空母部隊の夜間戦闘能力の向上を図っていたからである。アメリカ軍は各空母に4-6機の夜間戦闘機を配置するとともに[10]、正規空母エンタープライズと軽空母インディペンデンス硫黄島の戦いのときは正規空母サラトガ)に夜間戦闘機の専門部隊を配置、夜間戦闘専門の空母群である第7夜間空母群英語版を編成して万全の夜間防空体制を整えており[11]、「台湾沖航空戦」の時点では、飛躍的に夜間や日没直後といった視界不明瞭時の雷撃対策を強化していた[12][13]。「台湾沖航空戦」に圧勝した第3艦隊司令のウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督は、日本軍機によるアメリカ軍艦隊に対する夜間雷撃を含む攻撃を「それほど激しいものでも正確なものでもなく、よく訓練されたアメリカ軍の航空隊にとっては深刻な脅威ではなかった」と振り返っている[14]

 
跳飛爆撃(反跳爆撃)のイメージ図

以上の通り航空機による通常雷撃はアメリカ艦隊に対して殆ど損害を与えることができなくなっていたが、陸軍は雷撃部隊の編成と並行して、連合軍が採用しビスマルク海海戦などで成果を挙げていた反跳爆撃(陸軍名「跳飛爆撃」)なども研究も行った。跳飛爆撃の演習担当として、陸軍きっての操縦技術を有する鉾田陸軍飛行学校岩本益臣大尉(53期)が選ばれて、1年以上も訓練を繰り返した[15]。しかし、陸軍きっての操縦技術を有する岩本とは言え、陸軍の爆撃機の搭乗員は元々、ソビエト連邦軍の地上部隊を爆撃することを想定した、投下した爆弾を炸裂させて地上の広い範囲に大打撃を与えるような爆撃技術をたたき込まれており、海軍の搭乗員が訓練してきた、海上の航行中の艦船に投下した爆弾を命中させるといった精密性を要する爆撃は不得手であった。そのために岩本ら陸軍の搭乗員は訓練を初歩からやりなおす他なかった[16]

1944年には、航空本部の主催で、神奈川県真鶴岬にて陸軍航空審査部と各航空隊との跳飛爆撃の合同訓練が行われた。岬の南に点在している岩を目標として、爆弾の投下訓練を行った。この訓練は大成功で、ほぼ百発百中に近い好成績を得られた[17]。特に岩本がこれまでの訓練の成果を発揮し、命中弾の半数をひとりでたたき出している[18]。しかし、この訓練を視察していた鉾田陸軍飛行学校校長今西六郎少将(のちに中将)は「本戦法は鈍重、低速機に適しない。波が高いときは、波の山に当たれば40mから50mの高さに跳飛して船を飛び越え、谷に落ちれば跳飛しないことがある」「波が静かなときは、目標から100mから200mに投下して百発百中である。いずれの場にも効果があるのは、舷側迄水面下を直撃するように投下することである。編隊のまま攻撃するのは相互に妨害して不利である」と穏やかな海面でしか十分な効果が発揮できないという感想を抱いた[19]。8月には、少し厳しい環境での実験として、沖縄那覇で風速10mから15mの風が吹いている環境下で沈没船を目標として実験を行った。このときは全体での命中率が60%に低下したが[20]、岩本はただ一人ほぼ全弾命中という驚異的な結果を残したという[21]。この一連の実験で、陸軍作戦機の殆どで実施可能という長所があると判ったが、一方で、投下爆弾が海面でのバウンドで減速するために、爆弾衝突時の速度が他の攻撃法と比較して著しく遅くなり重装甲の軍艦には通用しないことと、また爆撃機の行動を軽快、優速に保つため、大質量の爆弾を装備できないことが判明したが、これらは攻撃の成果に重大な懸念を抱かせる致命的な欠陥と言えた[22]

また、鉾田陸軍飛行学校で岩本らとともに「跳飛爆撃」の研究に携わっていた倉澤清忠少佐が、同時期に「反跳爆撃」の研究を行っていた海軍航空隊の横須賀鎮守府横須賀海軍航空隊を訪ねて訓練を見学をしたところ、海軍の陸上攻撃機艦上攻撃機の数機が目標の模擬航空母艦に向けて同時に高度1,000mから急降下、その後に水平飛行に移行し、海面スレスレの高度で各方向から一斉に目標に襲いかかる光景を見て、海軍航空隊の訓練の凄まじさに言葉を失い「目標が海上を動いているだけに、跳飛弾訓練は難しい。陸軍の艦船攻撃は全くの初歩の段階だ。最初からやり直すしかない」と岩本を含む陸軍航空隊と海軍航空隊の熟練度の乖離に絶望し、ともに「跳飛爆撃」を研究していた教導飛行研究部福島尚道大尉に「(跳飛爆撃の研究を続けている)もう、時間は無い」「跳飛爆撃訓練を徹底的に行わせることによって、特攻隊攻撃に転用できるのではないか。1,000mの高度から、跳飛爆撃と同じ角度で突っ込み、その勢いをかって直接体当たりすれば成功する」と意見を述べたところ福島も「やはりそれ以外に敵艦を撃沈する方法はありませんね」と同意し、2人でその特攻戦術をまとめた意見書を作成し、航空本部を通じて参謀本部に提出している[23]。その意見書に基づき、別府湾で海軍の空母鳳翔と標的艦摂津を使用して行われた航行中の艦船に対する訓練では、九九式双発軽爆撃機に500kg爆弾を搭載して、1,000mから急降下させたところ、陸軍の軽爆撃機と搭乗員ではその後に海軍機のような海面スレスレの飛行に移行できず、なかには急降下の惰性で海上に突っ込む機もあって、陸軍機に500kg爆弾以上の大型爆弾を搭載した「跳飛爆撃」の実現性に疑問符がついている[24]

そもそも、連合軍の「スキップボミング」が成功したのは、日本軍の輸送艦隊や「チャスタイズ作戦」におけるナチス・ドイツダム破壊など、対空砲火が弱く、不動もしくは動きが緩慢な目標に対してであり[25]、岩本ら陸軍による「跳飛爆撃」よりも圧倒的に「反跳爆撃」に熟練していた海軍は、「反跳爆撃」の致命的な欠点として、爆弾を投下した攻撃機がそのまま敵艦上空を通過するとき、激しいアメリカ海軍の対空砲火の弾幕に飛び込むこととなるため、被弾の確率が跳ね上がり、殆ど生還が望めないことだと判断している[26]。また、「跳飛爆撃」にしろ「反跳爆撃」にしろ、航行中の敵艦に爆弾を確実に命中させるためには、敵艦の1,000mから高度は約10mを保ちながら接近し、敵艦の200mから300mの距離で投弾することを求められた。高度が高すぎると海面でのバウンドが大きくなり敵艦を飛び越し、投弾が早すぎるとバウンド後に敵艦に到達せずに海中に没する可能性が高かった。また、適切な高度と距離で投弾した場合においても、わずか2秒程度で敵艦まで到達するため、迅速に機体を引き起さないと、そのまま敵艦に激突することとなった。従って体当たりも辞さない覚悟がないと正確な投弾を行うことができなかった[27]

それでも陸軍では、急降下爆撃よりは機体に負担をかけず、水平爆撃よりは命中率がいい艦船攻撃法として[28]実際に採用する部隊もあり、飛行第3戦隊南西諸島で跳飛爆撃の猛訓練を行い[29]、練度を高めて自信を深めたうえで、レイテ沖海戦中の1944年10月24日に「九九式双軽爆撃機」22機をもって陸軍航空隊最大規模の跳飛爆撃を敢行したが、上陸支援のアメリカ軍護衛空母群から出撃した「F4Fワイルドキャット」隊の迎撃により[30]、途中で引き返した4機を除いて18機全機が撃墜され、初回の出撃で全滅し戦隊長の木村修一中佐も戦死するなど失敗に終わっている[31]。同じ頃に「反跳爆撃」の致命的な欠点を認識していた海軍においても、捷号作戦において、航空打撃力を強化するため、マリアナ沖海戦時と同様に戦闘機を爆装して(爆戦)敵艦隊攻撃に回すこととしたが、艦船攻撃に不慣れな戦闘機搭乗員の攻撃手段として、熟練を要する急降下爆撃ではなく、操縦技術的にはまだ簡単な「反跳爆撃」を導入せざるを得なくなっていた[32]。これには多分に「体当たりも辞せず」という決死攻撃の意図も含まれていたが、訓練中にダバオ誤報事件が発生し、第一航空艦隊は100機近くの「零式艦上戦闘機」を損失、戦力が激減した第一航空艦隊は「神風特別攻撃隊」編成に大きく舵を切っていくことになった[33]。結局、陸海軍ともに大きな労力と時間をかけて研究、訓練した「跳飛爆撃」と「反跳爆撃」であったが、実戦で役に立つことは無かった[34]

陸軍特別攻撃隊の開始編集

 
特攻機に改造された九九式双発軽爆撃機、突き出ている3本の管が爆弾の起爆管、のちに1本に改修された

雷撃や跳飛爆撃の研究や訓練は続けていたものの、陸軍中央航空関係者の間で 圧倒的に優勢な敵航空戦力に対し、尋常一様な方策では対抗できないとの意見が主流を占めつつあり、1944年3月には艦船体当たりを主とした航空特攻戦法の検討が開始され[35]、春には機材、研究にも着手した[36]。特攻兵器の研究は第3陸軍航空技術研究所所長正木博少将が進めており、正木は日本中の権威と呼ばれる学者を集めて研究を進めたが、中でも東京帝国大学建築科浜田稔教授は「甲板にぶつかってこわれてしまう陸用爆弾でも、飛行機が爆弾をつけたまま体当たりすれば、爆弾自体の爆発力は弱くとも、飛行機自体の自重で三層の甲板を貫くことは可能」とする理論を公表した[37]。権威のある学者の理論を武器にして特攻を推進しようとする正木らに対して、鉾田陸軍飛行学校校長藤塚止戈夫中将(当時)、教導飛行研究部福島尚道大尉らは「1、急降下爆撃の場合は、敵戦闘機や防御砲火による損害が多く、接敵占位するまでに困難が多い。しかし、一旦目標をとらえて、急降下にはいれば、爆撃の目的を達する率が多い」ところが体当たり攻撃のばあいは「1、武装、戦闘行動で劣り、結果として不利である」「1、体当たり攻撃の最大の欠点は落速の不足にある。爆弾の落速に比較すれば、飛行機はその二分の一程度であるから装甲板を貫通することができない。従って体当たり攻撃では、一般として撃沈の可能性はない」という反論の報告書を作成し、体当たり攻撃導入に反対している[38]

1944年3月28日、陸軍航空本部には特攻反対意見が多かったことから、内閣総理大臣陸軍大臣参謀総長東條英機大将航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭、後宮淳大将を後任に据えた[39]。後宮を補佐するため、次長には陸軍航空の第一人者となっていた菅原道大中将が就任した[40]

後宮が航空総監になった直後の4月に、後宮は陸軍航空本部の幕僚を集めて会議を開催した。その席の冒頭で後宮が「現況を打開するため、必殺体当たり部隊を編成する」旨の発言を行い、幕僚らに意見を求めた。このときは主に若手の参謀から強硬な反対論が出たため、後宮の命令で、一旦は白紙撤回としこの会議自体をなかったこととした[41]。しかし、東條や後宮が必殺体当たり部隊を諦めることはなく、4月17日、東條が日本本土への空襲が懸念されていた超重爆撃機B-29に対し「これに対して十分なる対策を講じ、敵の出鼻を叩くため一機対一機の体当たりで行き、一機も撃ち洩らさぬ決意でやれ。海軍はすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している。」と述べて対空特攻の体当たり部隊編成を示唆している[42]

特攻開始に向けて準備が進んでいた5月27日、ニューギニアを飛び石作戦で攻略してきたダグラス・マッカーサー元帥率いる連合軍南西太平洋方面軍は、ニューギニア攻略の仕上げと、マッカーサーが強いこだわりを持つフィリピン奪還の準備として、ビアク島に来襲し大規模な上陸作戦が行われた(ビアク島の戦い)。ニューギニア西端のエフマン飛行場英語版に配備されていた飛行第5戦隊長の高田勝重少佐は、出撃命令を待っていたがなかなかこなかったので、二式複座戦闘機「屠龍」4機での自爆攻撃を決断し、「屠龍」4機に高田以下8名の搭乗員が乗り込み出撃した[43]。4機は、連合軍上陸部隊の歩兵の上陸が完了し、「LST-1級戦車揚陸艦」が海岸にのし上げて戦車の揚陸を開始した頃に、超低空飛行で艦隊に接近してきた。各機は海岸で揚陸中の「LST」に爆弾を投下、うち1発が命中したが不発弾であったため損害はなかった[44]。そこに船団を護衛していた「P-47」が現れ、たちまち2機の「屠龍」を撃墜し高田機も被弾した[45]。残った1機が上陸支援を行う第77任務部隊司令官ウィリアム・フェクテラー少将旗艦である駆逐艦サンプソン英語版に突入しようとしたが、被弾のためサンプソンへの突入はわずかに逸れ、付近の駆潜艇「SC-699」に側面の水面付近に命中した。機体の一部が海面に接触してからの激突で速度が落ちていたことと、爆弾は投下済みであったため、「SC-699」の木製の船体にエンジンを食い込ませて、船内を多少破壊したものの沈没には至らず、戦死者も2名に止まった[46]。1機残された高田は、伝声管で同乗していた本宮利雄曹長に「只今より自爆するから基地に打電せよ」と命じたのち「天皇陛下万歳」と叫んで拳銃で自決した。高田機はそのまま墜落したが、本宮は海中に投げ出されて一命を取り留めている[47]。この日の戦果は実際には駆潜艇1隻撃破であったが、南方軍は駆逐艦2隻撃沈、2隻撃破の大戦果を挙げたとの過大な戦果発表を行い、それを聞いた第4航空軍司令官富永恭次中将が、特攻により敵の大型艦船に対しても大打撃を与えることが可能と確信するなど、陸軍内部の特攻推進派に勢いをつけることとなった[48]。この後、前線の航空部隊では、艦船攻撃に際し爆弾投下前に被弾し生還が望めない場合、機上で信管を外し体当たりできるように現地で改修することもあった[49]

マリアナ沖海戦の敗北後開催された1944年6月25日の元帥会議で、伏見宮博恭王が「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言し、陸軍の参謀本部総長東條と海軍の軍令部総長嶋田繁太郎は2〜3考案中であると答えているが[50]、この会議で実質的には特攻を兵器として採用することが日本軍として組織決定された[51]

サイパンの戦いで守備隊玉砕の悲報が報じられた1944年7月7日、人目のある官公庁街を避けて、市ヶ谷河田町の個人邸宅を借り「航空寮」と名付けられた秘密の会議室で、大本営陸軍部が、陸軍航空本部や陸軍航空技術研究所などの陸軍航空関係者首脳を招集しての会議が開催された。のちにこの会議は陸軍特攻の大きな転機となったので「市ヶ谷会議」とも呼ばれるが、闊達な意見交換ができるようにと参謀などの実務の責任者が呼ばれて、後宮や菅原などの組織のトップは敢て参加していない[52]。その会議の冒頭で大本営陸軍部の参謀が「わが海軍航空兵力の主力は、すでに全滅し、さらにサイパン島を失陥した現在、敵の海上兵力を撃滅するには、もはや尋常一様の攻撃手段では、とうてい成功する道はなくなった。」「いまや体当たり攻撃により、1機をもって1艦を撃沈する、特別攻撃を採用するほかないのであります」と特別攻撃隊編成を迫った[53]。そこで陸軍航空審査部員の酒本秀夫技術少佐など技術者から「飛行機が近代科学の結晶であり、この飛行機で体当たりすることは、技術進歩に逆行する」「各部門ごとに命中精度の向上、射距離の延伸、性能の向上などに日夜神経をすり減らしているのに、何のために心血を注いできたのか」「空気力学的に考えても、操縦上の見地から言っても非常な練度を必要とするためなかなか容易には体当たりできるものではない」などの反対意見も出されたが[54]、既に大本営陸軍部内では特攻の開始は決まっており、この会議は陸軍航空の諸機関を集めて特攻開始を承諾させるという儀式に過ぎなかった[55]。陸軍の特攻開始の方針がいつ決定したのかは定かではないが、3月28日航空総監部次長に就任した菅原は「就任した3月の時点ですでに特攻作戦については実施を前提とした議論がされていた」と証言している[56]

航空特攻についての研究を命じられていた第3陸軍航空技術研究所所長の正木博は、「市ヶ谷会議」後の1944年7月11日、「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」として対艦船特攻の6つの方法を提案した。その6つの方法のなかで5番目にあげられた「1噸爆弾を胴体下に装備し、上甲板又は舷側に激突するか、水中爆発を期する方法。この方法は弱艦船を撃沈でき、強艦船に対してもかなりの効果が期待できる」という提案が即刻対応可能ということになり、重量は1トンであっても陸軍の破甲爆弾では貫通力不足であるため、海軍から800kg通常爆弾の支給を受けて、「九九式双発軽爆撃機」に同爆弾を1発装備して特攻機とすることとした。同時に四式重爆撃機「飛龍」も特攻機にすることに決定し、800kg爆弾2発を搭載することとした[57]。7月中旬からは九九双軽と四式重爆「飛龍」の体当たり機への改修が秘かに進められた[58][59]。主な改修点としては、爆弾や爆薬をもっと効率的に装備できるようにするなどの特攻機に不可欠なものの他に、片道なのだからとして一部を簡略化する改修も行われ、ジュラルミンの不足から素材を一部ブリキに変更するとか、配管を簡略化し、エンジンより燃料タンクに直結させることによって燃料コックを省略するとか、操縦席計器は羅針儀高度計速度計回転計のみに限定するといったように、爆弾を積んで敵艦に体当たりするに必要な最低限の軽装備が徹底された[60]

鉾田で跳飛爆撃の研究をしていた岩本が演習帰りに立川飛行場に立ち寄ると、そこに3本の細長い槍のような管が突き出た異様な「九九式双発軽爆撃機」が格納庫に駐機してあるのを見かけている。岩本はここで「市ヶ谷会議」で酒本とともに特攻開始に反対した竹下福寿少佐より、この異様な「九九式双発軽爆撃機」が体当たり用の飛行機であることを聞かされて驚いている[61]。しかし、同じ鉾田の福島は、当初は正木が集めた学者に反論するなど、特攻に反対であったのに、この頃には特攻容認に転じており、上記の通り倉澤とともに特攻戦術の意見書を参謀本部に提出している[62]

万朶隊の編成編集

 
フィリピンへ出発直前の万朶隊、前列左から3人目が隊長の岩本益臣大尉

着々と特攻開始に向けて準備が進むなか、7月中には鉾田陸軍飛行学校から組織変更された鉾田教導飛行師団に「九九式双発軽爆撃機」装備、浜松教導飛行師団に四式重爆撃機「飛龍」装備の特攻隊を編成する内示が出た。9月25日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻を推進してもらいたい」との大本営の強い要請が航空本部になされた。大本営参謀からは「航空がボヤボヤしているから戦争に負ける」とする強い非難もあり、航空本部からは強い反発もあったが、サイパン失陥の責任をとって首相の東條とともに退任に追い込まれた後宮のあとを引き継ぎ航空総監兼航空本部長となった菅原は、本来は特攻に消極的であったが、「今や対米勝利を得がたしとするも、現状維持にて終結するの方策を練らざるべからず。之れ、最後に於ける敵機動部隊に対する徹底的大打撃なり」と日記に記述しているなど[63]、急速な進撃を続けるアメリカ軍艦隊に「徹底的大打撃」を与えるための作戦について、開戦初頭の南方作戦の航空作戦などで絶大な実績を上げて陸軍航空の第一人者と評されていた菅原も[64]特攻の他は手段がないと考えており[63]、9月28日から大本営から航空本部になされた特攻隊編成の指示に従うこととなった[65][66]

10月4日に航空本部は、鉾田教導飛行師団長今西に特攻部隊編成の準備命令を下した。今西は、1回きりの特攻で航空機や搭乗員を失うよりも、何度も繰り返して出撃すべきとの持論によって特攻に批判的であり[67]、この命令に苦悩して人選が進まず、10月13日に隊員の人選方法について部隊幹部と協議したが、結論は出なかった。今西は特攻の問題点は「体当たり部隊の編成化は士気の保持が困難で統率に困り、かえって戦力が低下するだろう」「この種の決死隊は、皇国の興廃がこの1戦にあることを将兵一同が認識した時に、下部から盛り上がる気勢を巧みにとらえて自然に結成された殉国の結晶によって決行されるのが適当であり、内部部隊として常時編成しておく性質のものではない」「人の心は一日の中でのたびたび変わる者で、殉国の精神に懸念のない多数の青年を長時苦悩させるものではない」であると考えていた[68]

しかし10月17日にレイテにアメリカ軍が来襲し捷号一号作戦が発令されると、20日には正式な編成命令があり、今西中将は苦悩の末、最初の特攻は確実を期さなければいけないと判断し、陸軍航空隊きっての操縦技量を持ち、特攻には批判的であった岩本を中隊長とした佐々木友次伍長ら搭乗員の精鋭16名(操縦士12名、航法1名、通信士3名)を指名し、他に整備員12名もつけた[69]。志願を募らなかったのは、鉾田教導飛行師団首脳らの「志願者を募れば、全員志願するであろう」という考えに基づくものであった[70]。指名ののち、岩本ら士官には今西ら司令部から特攻についての説明はあったが、下士官以下には「特殊任務」という曖昧な説明しかなかった。下士官らは、風防ガラスから3本の角を突き出すような異様な姿に改造された「九九式双発軽爆撃機」を前にして、士官らから「特殊任務」とは体当たりのことで、突き出た3本の角が搭載爆弾の起爆管であると説明を受けて動揺している[71]

岩本は、海軍初の航空特攻神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長となった関行男大尉と同じく1943年12月に結婚したばかりの新婚であった。10月21日に自宅に帰宅を許された岩本は新妻和子と親しい友人に別れを告げた[72]。特別攻撃用に改造された「九九式双発軽爆撃機」は、空中で爆弾が投下できない状態になっていたが、司令の今西はその用法を不審に思って爆弾を空中投下できるように改修する許可を出した[73]。10月22日に陸軍航空審査部に立ち寄った岩本大尉は、竹下より爆弾の安全装置離脱と緊急時の爆弾投下を可能にする改修方法の説明を受けて、立川航空敞で安全措置の改修も加えられた[74]。同日に岩本らは改修を終えた「九九式双発軽爆撃機」で立川を出発、途中各務ヶ原飛行場雁ノ巣飛行場、台湾嘉義飛行場を経由し10月29日にルソン島バタンガス州リパへ進出した[75]

 
フィリピンで爆弾を搭載し訓練飛行中の万朶隊の九九式双発軽爆撃機、改造後で機首の起爆管が1本になっている

このとき、隊員のひとりの田中逸夫曹長は、「編隊が東京上空にさしかかると、視界をさえぎる一点の雲も無く、はるかに宮城をおがみたてまつった。目の前には、白雪におおわれた富士山が朝日に美しく映えていた。宮城と富士と、そこに私はけがれなき国体が輝いているものと思った。操縦桿を握りしめる私の手は、感激の涙でしめった」と感じ「自分の命で国体を護るのだ」という思いを新たにし、これは隊長の岩本以下全隊員同じ思いであったと毎日新聞従軍記者福湯豊に述べている[76]

フィリピンに到着すると、岩本らの部隊は現地で「万朶隊」と命名された。部隊名は幕末時代の水戸藩藩士藤田東湖漢詩正気の歌」の一節「発いては万朶の桜となり、衆芳与に儔し難し。凝つては百錬の鉄となり、鋭利鍪を断つべし」を出典としており[77][78]、万朶とは多くの花の枝、または多くの花、という意味であるが、万朶の花の散り際のあわただしさが愛惜されるので、散り際がまことに清いことを表現しているという意味もあるとされる[79]。同じ頃浜松教導飛行師団において四式重爆撃機「飛龍」装備の特別攻撃隊「富嶽隊」も編成され、ルソン島クラーク飛行場に進出していた[80]。いずれも飛行学校改編の教導飛行師団の精鋭であった。

両隊がフィリピンに向かっていた10月25日、レイテ沖海戦中に関ら神風特別攻撃隊が空母撃沈を含む大戦果を挙げたと報じられ、その情報を聞いた陸軍特別攻撃隊員たちは衝撃を受けている[81]。その知らせを聞いた「万朶隊」の佐々木は「海軍には負けてられん」という気持ちになったという[82]

フィリピンに到着した特別攻撃隊「万朶隊」と「富嶽隊」は第4航空軍の指揮下に入り、クラーク・フィールドで激しい訓練を繰り返しながら出撃の機会をうかがった。10月30日には岩本の要請により、リバに進出していたマニラ航空敞の第3分敞が、「九九式双発軽爆撃機」の3本の突き出た起爆管を1本にする改造を行っている。このときに爆弾投下装置に更に改修が加えられ、手元の手動索によって爆弾が投下できるようになった[83]。この改修は岩本が命令に反して決行したとの主張もあるが[84]、既に鉾田教導飛行師団司令の今西が許可していた[85]。この改修ののち、「万朶隊」隊員に対して岩本は「体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけでなく、(敵艦を)撃沈できる公算は少ない。出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」などという指示を出したとする証言もある[86]

しかし、「万朶隊」のフィリピンでの訓練を取材していた従軍記者の福湯によれば、小柄且つ痩身で、普段は大きな声を出すこともない岩本が、人が変わったかのように声を張り上げて、岩本が立っているピスト(指揮所)に向けて突入する訓練を繰り返させていた[87]。岩本が繰り返させた訓練は、加速度で爆弾の破壊力を増大させ、また対空砲火による撃墜の可能性が低いという利点があるが、敵艦が回避行動をとった場合に機体を立て直すことが困難という弱点のある「急降下法」と、散々訓練してきた「跳飛爆撃」の応用で、敵艦の2,000mから急降下して、海面20m程度の高度の水平飛行に移行し、そのまま敵艦の喫水線に体当たりを行うため、高い命中率が期待できるが、「跳飛爆撃」の欠点と同様に一定時間敵艦の対空砲火の浴び続けるので、撃墜される可能性が高いという欠点のある「水平跳飛法」の2つであった。岩本は戦況に応じて、確実に特攻を成功させるためにどちらの戦法で行くかその場で判断せよ。と厳格を通り越した神経質なまでの指示を与えていた[88]。訓練中、各機はプロペラでピストを切るかのような勢いで突進してくるので、そのたびピストがゆらぎ、岩本は立っているのがやっとという状態であった。この訓練は、やり直しのきかない、一発必中を期した特攻を意識した訓練であり、岩本は隊員がヘトヘトになるまでこの突入訓練を繰り返させた。訓練終了後に「万朶隊」隊員が訓練の疲労で寝静まると、岩本は従軍記者の福湯と酒を酌み交わしながら「万朶隊の攻撃はたった1度です。1度で必ず成功しなければなりません。死ぬことは、そんなにやさしいものではありません」と話すなど、初めから特攻を覚悟していたという[89]

 
隊長の岩本益臣大尉ら士官が戦死したのちマニラに招かれた万朶隊隊員、酒を酌しているのが第4航空軍富永恭次中将、酒を注がれているのが空襲で負傷し頭に包帯を巻いてる石渡俊行軍曹

その後も出撃に備えて訓練を繰り返していたが、11月4日に第4航空軍の司令官富永恭次中将から、「11月7日にネグロス島から帰ってくるので申告(到着の挨拶)をするように」という命令があった。富永は個人的に部下を褒めるのが好きであり、特攻隊員を呼んで宴会を開いて酒を振る舞いたいという意図での命令であった[90]。翌5日の早朝からアメリカ軍の艦載機による空襲があっており、岩本らの身を案じた第4航空軍司令部は「飛行機は危ないから車で来るように」と指示していたが[91]、岩本は司令部の忠告を聞くことも無く、朝8時に将校全員となる4名を乗せると自ら特攻機仕様の「九九式双発軽爆撃機」を操縦して、兵舎のあるリパからマニラの第4航空軍司令部に向かった[92][93][94]。岩本機は離陸後まもなくF6Fヘルキャットから攻撃を受けた。ニコルス飛行場でその様子を見ていた海軍の津田忠康少尉は敵の激しい空襲のなかで爆撃機単機で飛行していた岩本機を訝しみ「今頃、飛んでくるなんて、おかしな双軽だな」などと心配して見守っていたが、F6Fヘルキャットの銃撃を受けた岩本機は大きく姿勢を崩して、黒煙を噴き上げながらモンテルンパ付近の畑のなかに墜落した[95]。墜落地付近はゲリラの勢力が強いため、第4航空軍は武装兵を入れた救援隊を編成し救助に向かったが、岩本、園田芳巳中尉、安藤浩中尉、川島孝中尉の操縦士士官は全員即死、唯一、通信士官の中川勝巳少尉が重体で収容されたがのちに死亡した[96]。岩本らが指示を破って航空機で戦死したという報告を聞いた第4航空軍司令部は全員落胆し、高級参謀の松前未曽雄大佐は「あれほど自動車でこいと指示しておいたのに」とがっかりとした表情で話していたという[97]。「万朶隊」は岩本以下の操縦士将校全員が出撃前に戦死してしまうという不運に見舞われた[98]。「万朶隊」の不運は続き、同日のアメリカ軍艦載機による空襲で石渡俊行軍曹と通信員の浜崎曹長2名の隊員が負傷、鵜沢邦夫軍曹もフィリピン到着時に不時着して入院していたが、戦死した岩本らを火葬するさいに、火葬のために使ったガソリン缶に引火し爆発、辺り一面に火災が広がり、社本忍軍曹 が大火傷を負ってしまった[99]。これで「万朶隊」で健在な搭乗員はたった5名になってしまった[100]

意気消沈した「万朶隊」隊員を激励するため、11月10日に第4航空軍司令官富永は同じ特攻隊の「富嶽隊」隊員と共に全隊員をマニラでの会食に招いた。その席で富永は自ら「万朶隊」の隊員ひとりひとりに酒を酌して回り、「とにかく注意してもらいたいのは、早まって犬死にをしてくれるな」「目標が見つかるまでは何度でも引き返してかまわない」「それまでは身体を大事にしてもらいたい」と声をかけた。体当たりをせずに爆弾を投下して帰還しようと密かに考えていた佐々木は、富永の「何度でも引き返してかまわない」という言葉に心をひかれた。富永はさらに「最後の1機には、この富永が乗って体当たりする決心である。安んじて大任を果たしていただきたい」という言葉をかけたが、それを聞いた佐々木は「これほど温情と勇気がある軍司令官なら、自分の決死の計画も理解してもらえる」と意を強くした[101]。富永は最後に「御国の柱たらんと生れ来て君らの姿今ぞ輝く」という詩を隊員に贈っている[102]

初出撃編集

 
出撃する万朶隊隊員と握手をする第4航空軍司令官富永恭次中将
 
初出撃日に日本酒で乾杯する万朶隊隊員、左から佐々木友次伍長、生田留夫曹長、田中逸夫曹長、久保昌昭軍曹、奥原秀孝伍長
 
万朶隊が出撃した日に損傷した「アキレス」「エゲリア」と同型艦のアケローオス級上陸用舟艇工作艦、この戦果は万朶隊のものとの意見もある。同級の艦は神話や宗教に因んだ艦名を名付けられた艦が多い

岩本ら搭乗員の士官が全員戦死後、隊長代理は整備班の士官村崎正則中尉となったが[103]、搭乗員の指揮は先任下士官の田中がとることとなった。田中は北支戦線で転戦した戦歴を有するベテランであり、岩本に代わる新攻撃隊長として適任と見られていた[104]。田中ら「万朶隊」は出撃に備えてルソン島南部のカローカン飛行場に進出した。田中は岩本が課していた訓練をそのまま引き継ぎ、連日激しい訓練が繰り返され、それを田中機に搭乗する通信兵の生田留夫曹長が補佐した。ある日、生田は佐々木がエンジンに防塵網を取り付けずに機体に乗り込もうとしているのを見て、「おい、佐々木、ちょっと待て、貴様は防塵網を忘れているではないか!ゴミで、もし故障でも起こったら、死んだ隊長殿に何と言って申し訳するつもりだ、この馬鹿野郎!」と叫んで直立不動の佐々木をビンタで力任せに殴りつけた。カローカン飛行場は乾燥しており、滑走路を航空機が滑走する際に砂塵が舞い上がり、砂がエンジンを損傷させる恐れがあるので、防塵網は必須であったのを佐々木が装着し忘れていたので生田が叱責したのであったが[105][106]、訓練が終わると生田は階級が下の佐々木の歩み寄って「さっきは痛かったろう、すまなかったなぁ」と詫びる心遣いを見せている[107]。カローカン基地指揮所の黒板には岩本が詠んだ短歌が記されて、全員が岩本らの仇を討つことを誓った[108]

大君のみこと畏み 賤が民は
なりゆく儘にまかせことすれ。 — 岩本益臣

その後、1週間経った11月11日、同郷(福岡県)の従軍記者の福湯と故郷の会話をかわしていた田中に、偵察機からの「レイテ湾南方300kmの海上にアメリカ機動部隊北進中」という報告があった。田中はその報告を聞くなり「わぁ、すごい、すごい」「すげえ、獲物がやってきた!」と跳び上がって喜び、福湯を置き去りにして本部にとんでいったという。その様子を見ていた福湯は、出撃即戦死の状況にも関わらず高揚していた田中のことを戦後に回想して「戦死することを食事をすることぐらいにしか考えていない」「死を恐れるのが人間の本能であって、訓練によって死を喜ぶ心境になっている当時の特攻隊員は人間という名で呼ぶには相応しくなかったかもしれない」という感想を述べている[109]

その後、田中ら「万朶隊」隊員に「明朝、レイテ湾の敵艦船に必殺攻撃を実施すべし」との命令が下された。その夜、明日出撃する下士官以下5名のための壮行会が、カローカン飛行場近隣の日本料理店で開催され、上座に「万朶隊」隊員、下座に第4飛行師団参謀長猿渡篤孝大佐などの将校らが並んで盛大な宴が催された[110]。宴会には従軍記者も呼ばれ、互いのお国自慢も飛び交うなど大いに盛り上がったという[111]。なかでも、通信兵の生田は普段の実直な人柄と違ってかなりの酒豪であり、酔って持ち前の美声で民謡の磯節を歌い、「内地を出るときは(今西)校長閣下に酒は呑んでも呑まれるなよ。と言われたぞ」と嬉しそうに語っていたという[112]。「万朶隊」の隊員らは従軍記者にもお酌をして回ったが、なかでも久保昌昭軍曹は毎日新聞の福湯に酌するとき、「あなたの社に叔父さんがいるのですよ。飛石賢一郎という。どうか、昌昭は元気でいったとお伝え下さい」と語りかけてきた。福湯は驚き「飛石君は同僚ですよ。なぜあなたはそれを早く言わなかった」と尋ねると、久保は「いや、それを言うと、あなたが私に特別な便宜をはかってくださるような気がしたので」と答え、それを聞いた福湯は、久保の万事に控えめで落ち着いた態度に感心させられている[113]。久保は陸軍少年飛行兵出身であり、非常な熱血漢でもあった。飛行の際には「万夷必ず一撃を期す」との書き込みがある日の丸の鉢巻をしていたが、そのことについて問われると「轟沈した敵空母の連中を極楽だか地獄だかに引率する時の指揮をとるには、日の丸でなければいかんのです」と答えたという[114]。宴会で隊員らは夜更けまで痛飲したが[115]、出撃前の壮行会なので酒気は形ばかりであった。最後に田中が従軍記者に「長いこと娑婆に置いて貰ったなあ、これで思い残すことはないよ」とぽつりともらしている[116]

壮行会を終えた田中らが兵舎に帰ると、フィリピン到着時に機体が不時着して負傷していた鵜沢邦夫軍曹が「自分も是非一緒に搭せていって下さい。お願いします」と陸軍少年飛行兵上がりのまだあどけない顔で、泣き出しそうにうったえてきた。田中は諭すように「お前の気持ちは判っている。だが今回は俺たちが行く、一人でも残って次の攻撃に参加してくれ」と鵜沢の肩を叩きながら優しく語りかけると、鵜沢は肩をふるわせて大泣きした[117][118][119]。その後、本日出撃予定の、田中、生田、久保、奥原、佐々木の5名は第4飛行師団志村参謀らと最後の打ち合わせを行い、田中は「攻撃は各自が最も効果を生ずると思う方法でやるのだ。自分の乗る隊長機は最初に突っ込む。敵艦を海の底に沈めるのではなく、自分らと一緒に空中分解させるつもりでやるのだ」「無電が切れたその瞬間に俺の機が命中するのだから最後の無電はよく聞いてくれよ。そして今度お前が攻撃するときもその要領でやるんだ」「明日は隊長の弔い合戦だ、敵の奴に俺達の死に際を見せてやれよ」と訓示した。その後、おのおの私物の整理をし、最後に全員で習字の書き納めをして出撃の時間を待った[120]

11月12日の空は快晴で、少しの薄雲が流れていくぐらいであった。午前4時に第4航空軍司令官富永が隊員ひとりひとりと握手をかわすと「諸子は比類なき忠節心と勇気とを持つ陛下の兵士である。諸子は万朶隊の隊員であり、神国日本の精神と正義をまさに発揮しようとしているのである」「一命は鴻毛より軽く、諸子が託されている敵艦撃沈の任務は富士山より重い」との訓示を行った[121]。出撃は4機の「九九式双発軽爆撃機」に5名の「万朶隊」隊員が搭乗して行われた。本来、「九九式双発軽爆撃機」は4名で運用するが、機銃などは特攻機改造で全て撤去しており、通信士の搭乗する1番機を除いては、全機操縦士1名で飛行した。先に戦死した岩本以下4名の遺骨が入った白木の箱を抱いた「万朶隊」隊員には、日本酒が振る舞われて、軽食として海苔巻きも出されたが、手を出す隊員はいなかった[122]。最後に参謀長の猿渡が「天佑神助のもとに諸子の成功を祈る」と訓示、田中は「田中曹長以下4名只今出発いたします」と猿渡に敬礼すると、「万朶隊」の5名は白木の箱を抱いたまま「九九式双発軽爆撃機」に乗り込んだ。そこに「万朶隊」の整備兵が駆け寄り、岩本の遺影を田中に渡した。やがて4機は多くの幕僚、飛行兵、整備兵に見送られながら順に離陸していき、飛行場上空を一週すると見事な編隊を組んでレイテ湾に向かった[123]。護衛には一式戦闘機「隼」が11機ついた。「万朶隊」は途中で1機がエンジン故障で引き返したが、残り3機はレイテ湾に突入した。援護についていた「隼」は船団を護衛していた「P-38」と空戦となり、空戦で被弾した第24中隊の渡邊史郎伍長も、搭乗していた「隼」で「万朶隊」と共に敵艦隊に突入した[124][125]

「万朶隊」3機の突入を視認した護衛機「隼」によって「残る3機はP-38に迎撃されつつも輸送船に体当たりした」[126]「もうもうたる黒煙を吹き沈没寸前の大型艦2隻と炎上中の小型船1隻を確認」という戦果報告がなされた[127]。なかには、田中機が急降下し突入しようとした艦には赤十字のマークが記してあり、これが病院船と認識した田中は突入を止め、一旦態勢を立て直して急上昇すると、再び急降下し敵の1番艦に突入、その後、同じ艦に空戦で被弾した護衛機の渡邊機も突入して傲然たる閃光と火柱が吹き上がった。次いで久保機が戦艦の舷側に命中し大きな水柱を上げ、最後に佐々木機が敵機の攻撃を受けつつも、そのまま戦艦に垂直降下し、護衛の戦闘機搭乗員が攻撃成功を祈っている間に、敵戦艦が豪爆音と共に爆発を発した。などとする非常に臨場感溢れた戦果報告もあった[128]。第4航空軍はこの攻撃で戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したと戦果判定し、南方軍司令官寺内寿一大将より戦死した4名への感状が授与がされることとなった[129]。しかしこの戦果は、海軍の神風特別攻撃隊が空母を撃沈したという戦果発表に張り合って陸軍は戦艦を撃沈したという過大戦果発表であった[130]。また、田中が病院船への突入を止めたという報告を利用して、「急降下の途中、体当たりの瞬間に、目標が病院船であるのを確認して中止し、心にくい落ち着きののち、好餌輸送船に体当たりした。敵の病院船攻撃はしばしば繰り返され、特に11月に入ってからも、比島近海においてわが橘丸に対する鬼畜機銃掃射が伝えられる時、悠久に生きる大死の瞬間まで、至高至純あくまでも曇ることなきわが特別攻撃隊員の、この聖なる散華こそ、名にふさわしき万朶の桜といわずして何であろうか」とアメリカ軍が繰り返し日本軍の病院船を攻撃していることと対比して報じている[131]

アメリカ軍の公式記録上で、この日にアメリカ軍所属艦が被った損害は、上陸用舟艇工作艦「アキレス(上陸用舟艇工作艦)」英語版「エゲリア(上陸用舟艇工作艦)」英語版 の2隻の損傷のみであった[132]。アメリカ軍の戦闘記録によれば、「アキレス」は歩兵揚陸艇英語版4隻、「エゲリア」は歩兵揚陸艇2隻、中型揚陸艦1隻をそれぞれ横付けさせて修理中で停泊していた[133]。そこに「ジーク」こと「零式艦上戦闘機」複数機が来襲し、「アキレス」にそのうち1機が命中、エンジンが主甲板を貫通、航空機の機体は甲板室まで到達して爆発、耳をつんざくような爆音ののち、甲板上を航空燃料により生じた火災がなめ尽くした。甲板上で作業をしていた水兵多数が死傷し、戦死者33名、負傷者28名という大きな人的損失と甚大な損傷を被ったが沈没には至らず、1945年2月まで修理のために戦線離脱した[134]。他の1機がタンカー「カリブー(タンカー)」英語版に突入しようとしたが、対空砲火により方向転換し、3隻の艦を修理中の「エゲリア」に向かってきた。修理のため横付けしていた3隻のうち、歩兵揚陸艇の「LCI-430」が「零戦」に向けて対空射撃を行い、「零戦」は「エゲリア」の25フィートの至近距離で撃墜されたが、搭載されていた爆弾の爆発で横付けされていた歩兵揚陸艇の「LCI-364」側面に大穴が空き、その衝撃で「エゲリア」も軽微ながら損傷を被って21名が負傷した。大破した「LCI-364」は他の揚陸艇に曳航されて浅瀬に座礁させられた[135]

しかし、この両艦に突入したのは海軍の「ジーク」こと「零戦」で、攻撃を受けたのは午後13時とされており[136]、「万朶隊」の3機が突入した午前8時30分とは時間がずれる[137]。11月12日はアメリカ海軍の軍艦以外にも、アメリカ合衆国商船隊英語版リバティ船7隻が特攻で損傷しているが、「モリソン・R・ウェイト」(戦死者21名 負傷者43名)が突入機「零戦」で午前10時29分[138]、「トーマス・ネルソン」(戦死者168名 負傷者88名)「レオニダス・メリット」(戦死者58名 負傷者33名)「マシュー・P・デェディ」(戦死者61名 負傷者104名)が3機の機種不詳の特攻機に攻撃されたとしており機数は「万朶隊」と符合するが時間は午前11時27分で相違[139]、「ジェレミー・M・デイリー」(戦死者106名 負傷者43名)が突入機機種不詳で午後14時20分[140]、「アレキサンダー・メイジャーズ」(戦死者2名 負傷者15名)が突入機「零戦」で午後17時18分、「ウィリアム・A・コルター」(戦死者なし 負傷者69名)が突入機「零戦」で17時45分といずれも機種や突入時間が相違している[141]

この日出撃した佐々木によれば、途中で編隊を組んでいたはずの奥原機が見えなくなり、レイテ湾まで到達できたのは指揮官の田中機と久保機と佐々木機の3機であったが、レイテ湾から出港する船団を見つけて突入しようとしたときに、佐々木機はほかの2機とはぐれてしまったという。その後、佐々木は敵艦を求めて単機で彷徨ったが、航行中の船首が切り立ったようになっている小さな船1隻を確認、佐々木はこれを揚陸艦と判断し、当初から決めていたとおり体当たりをすることなく急降下して高度800mで爆弾を投下した。しかし投下した爆弾は命中せず、揚陸艦から離れた海上に着弾したので佐々木は急上昇で戦場を後にすると、当初から考えていたとおりミンダナオ島に向かうことにしたという[142]。この日に損傷した上陸用舟艇工作艦「アキレス」もしくは「エゲリア」を佐々木の戦果だと断定する意見もあるが[143]、上記の通り、「アキレス」と「エゲリア」が攻撃されたのは午後13時で[144]、「万朶隊」が突入した午前8時30分とは大きく時間がずれる上に[145]、アキレスとエジェリアに突入したのは単発の「ジーク」こと「零戦」の特攻機であり、双発の「九九式双軽爆撃機」ではない[146]。また、「アキレス」、「エゲリア」は「アケローオス級上陸用舟艇工作艦」英語版であるが、佐々木の目撃談とは異なって、艦首が箱形に切り立った形状ではなく、全長約100m、総排水量3,775トンと小型船という規模でもなく[147]、単独で航行中ではなくて複数で停泊中であった[148]。また、佐々木自身も「船体から離れた水面に大きな波紋がわき立った」のを見て「しまった。あたらなかった」と思ったとしている[149]

万朶隊全滅編集

 
1944年12月5日、万朶隊佐々木友次伍長の6回目の出撃と一緒に出撃した鉄心隊、先頭は指揮官の松井浩中尉
 
1944年12月5日、万朶隊佐々木友次伍長と同日に出撃した一宇隊の一式戦闘機「隼」の特攻で沈む中型揚陸艦LSM-20

初出撃の日、突入した「万朶隊」の4名は全員戦死と思われていたが、後に佐々木が敵艦に体当たりせず通常攻撃を行い、ミンダナオ島カガヤン飛行場英語版に生還していたことが判明した[150]。ミンダナオからカローカンに帰ってきた佐々木に、第4飛行師団参謀長の猿渡が「どういうつもりで帰ってきたのか」と詰問したが、佐々木は「犬死にしないようにやりなおすつもりでした」と答えている。第4航空軍司令部にも出頭し、参謀の美濃部浩次少佐に帰還を報告したが、美濃部は大本営に「佐々木は突入して戦死した」と報告した手前「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく胆に銘じて、次の攻撃には本当に戦艦を沈めてもらいたい」と、次回の出撃では確実に体当たりをするようにと即した。天皇に報告した通りに死ななければいけないという不条理に佐々木は憤然としたが、軍司令官の富永は思いのほか優しく、軍司令官室に入って佐々木が敬礼するなり「おお、佐々木、よく帰ってきたな」「よくやった。これぞという目標をとらえるまでは、何度でも帰ってこい。はやまったりあせってはいかん」と下士官に対しては破格の声をかけて、「昼飯を一緒に食べようと思ったら、他に予定があるそうだ。せっかくだから、お土産を進呈しよう」と上機嫌で缶詰を佐々木に手渡した。佐々木は軍司令官から贈り物をもらって光栄な思いを抱きながら司令部から退去した[151]

11月15日、負傷から復帰した石渡俊行軍曹が隊長となり、前回出撃から漏れた近藤行雄伍長、前回出撃しながら帰還した奥原と佐々木の4機が「万朶隊」第二回目の出撃を命じられたが、初出撃日と違って天候に恵まれず上空に雲が多かった。4機は離陸後に飛行場上空で空中集合して編隊を組んで進撃する予定であったが、初陣の近藤機が自分の位置を見失って墜落、佐々木機と奥原機は雲に遮られて予定の空中集合ができずに再び帰還した。隊長の石渡は単機で進撃したと思われるが、そのまま行方不明となった。のちほど近藤機がニルソン飛行場付近に墜落しているとの連絡があり処理班が駆けつけたが、800kg爆弾の爆発で近藤の遺体もろとも機体は粉々になっており、近くの椰子の木に引っかかっていた千人針の切れ端に残っていた名前で近藤機の残骸であることが確認された[152]。佐々木はこの日に再び特攻に失敗したとされて、戦死公報は取り消され、感状の授与は見送られた[153]。こののち、「万朶隊」初回出撃の戦果によって、11月12日に戦死した田中と生田と久保の3名に感状の授与、さらに一緒に敵艦に突入して戦死した護衛戦闘機隊の渡邊を含めた4名に対して少尉への特進と、特旨による論功行賞が発令されている[154]

その後の11月25日に3回目の「万朶隊」の出撃がわずかに残っていた奥原、佐々木の2名に命じられたが、出撃直前にアメリカ軍艦載機の空襲を受けて、奥原が爆撃により戦死、両名の九九双軽も撃破されてしまった。負傷により入院中の2名を除けば「万朶隊」は佐々木ただひとりとなってしまい、その後もたったひとりの「万朶隊」に出撃が命じられたが、佐々木はその都度帰還した。帰還を続ける佐々木に猿渡は「爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりなら確実に撃沈できる」と次回出撃時は確実に体当たりするよう諭したが、佐々木は「私は必中攻撃で死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と反論している。上官に対する明白な反抗で本来であれば軍法会議行きでもおかしくなかったが、この時はさらに罵倒されただけで不問とされている[155]。佐々木が何度帰還しても処罰されずに出撃を繰り返せたのは、司令官の富永の裁量であったとも言われる[156]。初出撃前の宴会で顔見知りとなっていた毎日新聞の従軍記者の福湯には「むざむざ死ぬ必要はないでしょう。生きていた方が、それだけ仕事ができるものですからね」と別にふてくされた様子も無く、笑顔で話していたという[157]

「万朶隊」が満足な戦果を挙げることなく壊滅状態となり「富岳隊」も戦果が不明ななかで、陸軍中央は苛立ちを募らせていた。陸軍での特攻開始に深く関与していた参謀本部参謀の田中耕二少佐は、戦後に当時のことを振り返って「海軍の航空隊の戦果は、誠に華々しいものであります。母艦をたくさん沈めているのに、陸軍航空は何もしてないじゃないか。しょっちゅう叱られますので、私はまったく、参謀本部に来てから2年間、毎日針のの上におる思いがしているわけであります」[158]「明快な(戦果の)報告が電報されてこないんですね。それでこれはどうしちゃったんだろうというようなですね、せっかく改装をして、特別選り抜きの搭乗員をあてがって、何か寂しいような感じを持ちましたですね」と「万朶隊」と「富岳隊」が陸軍からは期待外れであったと回想している[159]

陸軍中央は海軍が「万朶隊」と「富嶽隊」のような爆撃機ではなく、小回りの利く「零戦」や艦上爆撃機「彗星」などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団一式戦闘機「隼」などの小型機を乗機とする特攻隊を編成し[160]、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(淮南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。その後に「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊を八紘隊一宇隊靖国隊護国隊鉄心隊石腸隊と命名している[161]。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団・下志津教導飛行師団・鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊と命名された[162]。八紘隊各隊は「十神鷲十機よく十艦船を屠る」と称されたほど[163]、「特攻で艦船の撃沈は無理」などとして特攻に反対していた岩本ら[164]の懸念を払拭し、確実に戦果を挙げるようになった[165]

何度も出撃しながら帰還を繰り替えす佐々木は有名人となっており、なかには喝采を送る人もいたが、同じ第4航空軍で「九九式双発軽爆撃機」を運用していた飛行第75戦隊の戦隊長土井勤少佐は、佐々木が帰還を繰り返しているという噂を耳にしたときに、死を賭して戦っている自分らに対して、佐々木のように自ら進んで死ぬという覚悟ができていない人間に、無理に死ねと言うことがいかに難しいものか、ということを感じたと冷めた見方をしている[166]。そして佐々木には、12月5日には6回目の出撃が命じられた。この日佐々木は特攻隊「鉄心隊」(装備機「九九式襲撃機」、隊長松井浩中尉)と一緒にカローカン飛行場から出撃[167]、数時間の飛行でレイテ湾まで到達し、アメリカ軍の無数の艦影を確認し突入していく松井機に続いて佐々木機も急降下を開始した。佐々木はやがて大型船(艦種不詳)を視認したので、同船を攻撃することとし攻撃態勢に突入した。無数の対空砲弾を掻い潜りながら、佐々木は大型船から200mから300mの高度で爆弾を投下、命中の瞬間は海面すれすれでの待避行動中で確認できなかったが、振り返ると大型船に火柱が上がってはいなかったものの傾いていたように見えたので、この大型船を撃沈したと判断し「レイテで大型船を撃沈しました」と報告している[168]。佐々木はこの出撃で「戦死した」と第4航空軍から陸軍中央に報告されており、天皇から金鵄勲章勲6等旭日章が授与されることが決定した。この一連の受勲によって佐々木は公式には戦死扱いとなった[169]

この日の大型船を撃沈とする報告は、佐々木の特攻出撃中唯一の戦果報告となったが、この日のアメリカ軍及びアメリカ合衆国商船隊の公式記録によれば、沈没艦は中型揚陸艦「LSM-20」の1隻のみであった。アメリカ軍の戦闘記録では「LSM-20」は「オスカー」こと一式戦闘機「隼」に特攻されたとしており、「隼」に艦尾付近に激突された「LSM-20」は戦死者8名、負傷者9名を出し、艦首を上にして艦尾から次第に沈んでいった[170]。この日に出撃した「隼」を装備した特攻隊は天野三郎少尉率いる「一宇隊」の3機のみで、従ってこの戦果は同隊のもので佐々木の爆撃によるものではない[171]。「一宇隊」の「隼」は、他にも中型揚陸艦の船団を護衛していた駆逐艦「ドライトン(駆逐艦)」英語版にも命中し、Mk 12 5インチ砲の砲塔を一つを叩き壊し、戦死者6名と負傷者12名を生じさせた[172]。「一宇隊」と同時に出撃した「石腸隊」の「九九式襲撃機」7機も突入し中型揚陸艦「LSM-23」を撃破し戦死者8名と負傷者7を生じさせたが、他の機は上空で護衛していた「P-38」に撃墜された[173]

この日、「鉄心隊」3機と「万朶隊」佐々木らは午後15時に出撃し、日没の前に敵艦隊を攻撃したとされるが[174]、同時間の連合軍の該当する損害は、対潜水艦警戒にあたっていた駆逐艦「マグフォード(駆逐艦)」英語版の損傷で、同艦は午後17時15分から「ヴァル」こと海軍の「九九式艦上爆撃機」数機の攻撃を受け、1機目は突入に失敗、2機目が艦の中央部に激突し8名の戦死者と14名の負傷者を出して大破したが、他の機は護衛の「P-38」に撃墜されたとされている[175]。しかし、この日に出撃した海軍の「九九式艦上爆撃機」はなく、同じ固定脚で機影も似ている陸軍の「九九式襲撃機」と誤認したものと思われるが[176]、戦闘記録に佐々木の乗機である双発機「九九式双発軽爆撃機」は登場しない[177]。その他にも海軍の「零戦」がリバティ輸送船「マーカス・デイリー 英語版」(海軍戦死者65名 負傷者49名、乗船していた陸軍兵士200名以上死傷)を大破させ、「ジョン・エバンス」(負傷者4名)に軽微な損傷を与えている[178]

11月27日に八紘隊(一式戦闘機「隼」)が戦艦コロラド」、軽巡洋艦セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入して大きな損害を与え、駆潜艇「SC-744」を撃沈。11月29日、靖国隊(一式戦「隼」)が戦艦「メリーランド」、駆逐艦ソーフリー」、駆逐艦「オーリック」に突入し、これも大きな損害を与えている。なかでも、靖国隊の一式戦「隼」が40.6cm砲(16インチ砲)の主砲塔に突入した戦艦「メリーランド」は大破炎上し、修理のために翌1945年3月まで戦列を離れている。「メリーランド」に突入した「隼」は、雲の中から現れて急降下で同艦に突入する寸前に機首を上げて急上昇をはじめ、尾翼を真下に垂直上昇してまた雲に入ると、1秒後には太陽を背にしての急降下で「メリーランド」の第2砲塔に突入した。その間、特攻機はまったく対空射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていた「メリーランド」の水兵は、「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一瞬の栄光の輝きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻機の曲芸飛行を見ていた「モントピリア」の艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している[179]

さらに12月13日には一宇隊(一式戦「隼」)が軽巡洋艦「ナッシュビル」に突入、「ナッシュビル」はダグラス・マッカーサー元帥の旗艦であったが、この日はマッカーサーは乗艦しておらず、ミンドロ島上陸作戦のために攻略部隊を率いていたアーサー・D・ストラブル少将が旗艦として使用していた。そこに特攻機の攻撃を受けたため、ストラブル自身は無事であったが、攻略部隊の多くの指揮官や幕僚を含む325名の大量の死傷者を生じて艦は大破し、この艦を気に入っていたマッカーサーを落胆させた[180]

富永はミンドロ島攻略部隊への継続攻撃として、第5飛行団の一〇〇式重爆撃機に全力特攻を命じた[181]。第5飛行団の100式重爆撃機は陸軍対艦攻撃の専門部隊として、北海道で跳飛爆撃の猛訓練を積んで意気揚々とフィリピンにはせ参じていたが、他の跳飛爆撃部隊と同様に戦果を挙げること無く損失だけが増えて、当初56機あった一〇〇式重爆撃機が[182]12月13日には9機にまで減っていた。つい先日の12月9日にも、レイテ島のオルモック湾に来襲した連合軍上陸艦隊を7機で攻撃して、戦果もないまま2機を損失したばかりであった[183]。今までの戦績も踏まえて、参謀長の隈部らが鈍重な重爆を特攻に出しても敵戦闘機の餌食になるだけだと反対意見を述べたが、日々の心労で不眠症となっていた富永は、感情の移り変わりが激しくなっており、部下の忠告を聞くような状態ではなくなっており、命令を覆すことはなかった[184]。富永の命令を受けた飛行団長の小川小二郎少将は命令に反発し「弾を落として帰ってこい」と体当りをせずに、今まで訓練してきた跳飛爆撃で攻撃し帰還するように指示したが、隊員らは初めから生還は考えておらず、遺品を整理し下着を取り替えて出撃した[185]。出撃時間は護衛戦闘機の関係で早朝7時とされたが、攻撃の成功率を向上させるためにもせめて夜間の出撃にさせて欲しいとする小川の上申を、第4飛行師団の参謀が「出撃時刻は第4航空軍が決めたもので、護衛戦闘機の手配もあって変更は難しい」と拒否された[186]。重爆特攻の9機は「菊水隊」と命名され、12月14日の午前7時に、13機の一式戦闘機「隼」の護衛付きで予定通り出撃することとなった。「菊水隊」の出撃には、「万朶隊」の佐々木も同行が命じられたが、佐々木機は離陸に失敗して滑走路外に機体が飛び出してしまい、佐々木はそのまま出撃すること無く、飛行場上空で護衛戦闘機隊と合流するため旋回している「菊水隊」に手を振って見送った。佐々木は「菊水隊」と一緒では危なかったと考えていたので、離陸に失敗してよかったと胸をなで下ろしていたという[187]。「菊水隊」は佐々木らの懸念通り、敵艦隊に達する前にアメリカ軍艦載機の迎撃を受けて「敵戦闘機に襲わる!」との悲痛な打電を最後に全滅した[188]。撃墜された100式重爆撃機から海上に投げ出されたサイトウジュウロウ軍曹(氏名の漢字不明)1名がアメリカ軍に救助されて捕虜となっている[189]。この「菊水隊」の特攻出撃は、作戦指導に冷静さを欠いていたこの時期の富永の暴挙であったと非難されることも多い[190]

12月18日に佐々木は最後となる9回目の出撃命令が下された。カローカン飛行場には司令官の富永もわざわざ来訪して、取材する従軍記者に「新聞記者諸君、佐々木は幽霊じゃからのう。そのつもりで話を聞いてくれ」などと笑顔で軽口をたたいていた。富永に対しては悪感情を抱いていなかった佐々木はその軽口を富永の好意と受け取った。この日は「鉄心隊」の残存2機との出撃となったが、やがて佐々木の出撃時間となり、離陸する佐々木を富永は軍刀を振りかざしながら「佐々木、がんばれ。佐々木、がんばれ。」と激励した。今まで富永に温情のある扱いを受けていると考えていた佐々木は、わざわざ軍司令官が自分を激励してくれていると素直に感激してキャノピーを開けると富永に向けて敬礼している[191]。佐々木は最後まで富永に対しては悪意を持っておらず、2015年鴻上尚史の取材に対して「(富永に対して悪い印象は)ないんですよ。握手している」と答えている[192]。結局、佐々木の最後の出撃となったこの日は、機体のエンジン不調により引き返したが、カローカン飛行場に帰還したときには富永らはおらず、佐々木はそのあとに高熱を出して入院することとなった[193]。佐々木は引き返したが、「鉄心隊」の「九九式襲撃機」はミンドロ島まで飛行し、上陸作戦支援中のPTボート隊に突入してPT-300を撃沈した[194]

12月20日には、フィリピン到着時に不時着して重傷を負っていたが、「万朶隊」初出撃日に隊長の田中に出撃を直訴した[195]鵜沢邦夫軍曹が復帰した。佐々木は高熱がひかずに出撃できなかったので、鵜沢は復帰直後であったが「万朶隊」最後の1機として、「若櫻隊」の余村五郎伍長といっしょに「九九式双発軽爆撃機」で出撃した[196]。しかしわずか2機の出撃であったので、この日アメリカ軍に損害はなく[197]、鵜沢も未帰還となり、この出撃で「万朶隊」は事実上全滅した[198]

連合軍ルソン島進攻編集

 
陸軍特別攻撃隊一誠隊もしくは進襲隊の突入で撃沈された護衛空母オマニー・ベイ

レイテ島を攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。旗艦の「ナッシュビル」は特攻で破壊されたため、軽巡洋艦「ボイシ」に乗り換えたマッカーサーは、1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間雅晴中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特攻機であった[199]。まずは1月4日、護衛空母「オマニー・ベイ」に一誠隊(一式戦「隼」)あるいは進襲隊(「九九式襲撃機」)が突入した[200]。特攻機は「オマニー・ベイ」に発見されることなく1,200m以内の位置まで達すると急降下を開始、まったく対空砲火を受けることも無くそのまま飛行甲板の右舷側側に激突した。火のついた航空燃料が飛行甲板上に並べられた艦載機に降り注いで大火災を発生させ、機体と搭載爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その後に「総員戦闘配置につけ」のブザーが鳴ったが既に手遅れで、艦載機と弾薬が次々と誘爆をおこし、特攻機が突入したわずか23分後には戦死者93名を残して「総員退艦」が命じられた[201]。1機で護衛空母1隻を葬った殊勲の特攻機は護衛戦闘機の戦果確認報告によると1番機であったとのことで、一誠隊隊長津留洋中尉の戦果であった。津留は1回目の出撃で不時着して生還しており、それから毎日戦闘指揮所にやってきては、所属する第30戦闘飛行集団の副官金川守雄中尉に「いい目標が出たら、いつでも出ますよ」と出撃を嘆願しに来た。金川は「よう来たな」とそのたびに津留をもてなし、ビールを飲みながら一緒に会食したが、津留は「うまい」と言いながら実によく食べたという。出撃日も「きょうは、やりますよ」と怯むことなく出撃したので、津留の殊勲の報告を受けた金川は「とうとう彼もやりおった」と目頭が熱くなるのを覚えて、津留の覚悟を知っていた団長の青木武三少将も喜んでいたという。「オマニー・ベイ」は陸軍が沈めた唯一の空母で、通常攻撃も含めて陸軍航空隊最大の戦果となった[202][203][204]

特攻で損害を被りながらも、1月6日にはマッカーサーが自ら率いるルソン島攻略部隊の連合軍大艦隊がリンガエン湾に出現、第4航空艦隊第30戦闘飛行集団は死力を尽くして攻撃した[205]。海軍の特攻機を含めたこの日の戦果は、駆逐艦1隻撃沈、戦艦4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻撃破と特攻開始してからの最大の戦果となった[206]。なかでも重巡洋艦「ルイビル」に突入した石腸隊あるいは進襲隊の九九式襲撃機は、機体や爆弾でルイビルに甚大な損害を与えるとともに、火がついた航空燃料をまき散らして、それを全身に浴びたスリガオ海峡戦で第2戦艦部隊を指揮したセオドラ・チャンドラー英語版少将が重篤な火傷を負って戦死した[207]。チャンドラーは真珠湾攻撃でのアイザック・C・キッド少将、第三次ソロモン海戦でのダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将と並んで、第二次世界大戦中に戦死したアメリカ海軍最高階級の将官となった[208]。他にも戦艦「ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)、軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、がそれぞれ突入し大きな損害を与えた。日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで、リンガエン湾の連合軍艦隊に襲いかかった。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、ミンドロ島に進出した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、日本軍は特攻機を林の中などに隠し、夜間に修理した狭い滑走路や、ときには遊歩道からも特攻機を出撃させた。そのため圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった[209]

連合軍指揮官たちはこの日の特攻による大損害に怯み、最高司令官のマッカーサーは、ルソン島上陸作戦を観戦するため戦艦「ニューメキシコ」に乗艦していたイギリス軍ハーバード・ラムズデン英語版中将が海軍機の特攻で戦死したことで大きな衝撃を受けている[199]。また特攻で大破した「ナッシュビル」から乗り換えた旗艦軽巡洋艦「ボイシ」も、再三特攻機に攻撃されたがかろうじて被害はなく、ボイシ艦上で特攻機との戦闘を見つめていたマッカーサーは「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と特攻は上陸作戦の成否を左右させかねないと懸念を示している[210]。 また、スリガオ海峡戦で日本軍の西村祥治中将ひきいる日本軍艦隊を撃破した第77.2任務群指揮官ジェシー・B・オルデンドルフ少将は「日本軍の特攻機は大した妨害も受けずに攻撃を実施することが可能のように見受けられる」「リンガエン地区付近の大小全ての飛行場に対して、連続的に爆撃を加え、無力化して状態をつづけさせるようにしなければならない」「これ以上さらに損害を受けると、現在の作戦及び今後の重要な作戦に、重大かつ不利な影響を与えるかも知れない」「特攻機が輸送艦を攻撃した場合、その結果は悲惨なものになるかもしれない」という切実な戦況報告を行ったが[211]、日本軍は陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機を使い果たしてしまい、こののちは散発的な攻撃しかできなかった。陸軍のフィリピンにおける最後の特攻出撃となったのが1月13日となり、この日、精華隊の2機の四式戦「疾風」が出撃[212]、うち1機が護衛空母「サラマウア」に命中、機体と爆弾は次々と甲板を貫通し最下甲板まで達し、搭載爆弾は機関室英語版で爆発。そのため、サラマウアは操舵、航行不能となり、発生した火災で格納庫も炎上し、95名の死傷者を出すなど甚大な損傷を被ったが沈没は逃れた[213]。最後まで特攻で大損害を被ったアメリカ軍のなかでは、日本軍がフィリピンにあと100機の特攻機を保有していたら、連合軍の進攻を何ヶ月か遅らせることができたという評価もある[214]

これら八紘隊各隊による戦果は、陸軍航空隊による特攻が開始される前のレイテ島の戦いでの第4航空軍の航空通常作戦において、1944年10月24日の飛行第3戦隊の跳飛爆撃隊22機の全滅を始めとして、1944年10月20日から26日までの通常作戦機の損失が、未帰還116機、大破17機、中破11機で合計144機と甚大であったのに対して[215]、戦果が殆ど無かったのとは対照的であった[216]。なお、その数少ない戦果のなかで、第4航空軍による確実な戦果はオーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」の撃破であるが、これは第4航空軍隷下の第6飛行団の九九式襲撃機が体当たりをして挙げた戦果であり[217]、「オーストラリア」はこの体当たりでエミール・デシャニュー英語版艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が戦死するなど大きな損害を受け、海軍の神風特別攻撃隊の「敷島隊」や陸軍初の特別攻撃隊「万朶隊」「富岳隊」出撃前の特攻による戦果となっている[218][219]。特攻に反対し、苦悩のうえで岩本ら「万朶隊」を送り出した鉾田教導飛行師団長の今西も、次々と報じられる特攻の戦果を聞いて特攻推進派に転じており、その後も多くの特攻隊員を送り出した。1945年年頭には「戦局は最後の段階に突入せり、昭和20年は大日本が三千年の光輝ある歴史を子孫に伝ふるか、或いは日本永遠に亡びるか必ず決定する年なり」「見よ、特別攻撃の戦果を。十分なる戦闘機の援護も無く、或いは敵艦船に、或いは敵飛行場に殺到。殆ど全機目的を達成し、挙げたる戦果と損害の比較は殆ど問題にならさる懸隔ある所以は何ぞ」などとする激烈な師団長訓示を行っている[220]

その後の佐々木友次伍長編集

 
終戦直後の1946年に制作された日本映画社の映画『日本の悲劇 自由の声』で批判される第4航空軍富永恭次司令官

「万朶隊」の佐々木は合計9回の出撃命令を受けて7回出撃し生還したが(うち敵艦を攻撃したのは2回)最後の出撃後にマラリアを発症、回復したころにはルソン島にマッカーサーが直率する連合軍の上陸部隊が迫っていた[221]。指揮する第4航空軍の戦力を使い果たした富永はマニラでの玉砕を声高に主張していたが[222]第14方面軍司令官山下奉文大将は、マニラは防衛戦に適さず多くの民間人が居住しているためオープン・シティとすべく、富永に撤退を散々促していた。山下との意見相違で次第に心身ともに病んできた富永は寝込むことが多くなり従軍看護婦の介助を必要としたが、デング熱の高熱の症状もあって感情的になることも多く、参謀らにあたりちらすようになっていた[223]。心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長の隈部正美少将は、富永を退避させることを名目に、第4航空軍司令部を台湾に撤退させることを計画し幕僚らと協議した[224]。この計画は第4航空軍を台湾に撤退させた後に、戦力を補充してフィリピンを支援するという計画であったが[225]、「最後の1機には、この富永が乗って体当たりする決心である」「マニラを離れては、特攻隊に申し訳ない」などと言ってきた富永もこの計画を了承した。ただし、戦後の富永の回想によれば、富永は入浴中に「第4航空軍の台湾移動の命令が出た」という隈部の嘘の報告を信じて、やむなく台湾に後退したとしているが、隈部が森本軍蔵少将に語ったところによると、事実は全く逆で、隈部は入浴中の富永に呼ばれると「総軍から、第4航空軍司令部は台湾にさがれという命令がきたぞ」と言われて、その頃は軍司令官と参謀の間には感情的なしこりもあったことから、参謀の誰もがことの真偽を確かめること無く、富永の指示通り台湾撤退の準備をしたとしており、富永の記憶と真っ向から対立している[226]。 その後、隈部ら参謀は台湾後退の準備を進めるも、第4航空軍の台湾利用については南方軍に相談はしていたが、司令部後退までの承認は取っておらず、直属の第14方面軍や大本営には相談すらしていなかった。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永を台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目で台湾行きを大本営に申請した。やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認の電文が届いたので、これを富永らは台湾撤退許可と解釈し[227]、富永は「九九式軍偵察機」2機に、身辺を世話する准・下士官だけを乗せて、「隼」2機を護衛につけて台湾に向けて出発した[228]。あとから隈部ら参謀も続いた。

司令部が台湾に逃亡したのち、搭乗員や整備兵といった航空要員は、育成が困難な特殊技術者でもあるため、優先的に台湾に避難させることにした。これには陸海軍の協力体制が構築され、輸送機、練習機、爆撃機など人員を多く乗せることができる機体がルソン島北部トゥゲガラオ飛行場と台湾を往復してピストン輸送を行った[229]。しかし制空権は連合軍に握られており、航空機では一度に輸送できる人数が限られていることから、海軍が3隻の駆逐艦を救援に出すこととしたが、台湾を出てルソン島に向け航行中に「」が空襲により撃沈され、残り2隻も引き返した。やむなく海軍は潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦を準備したが、作戦を察知したアメリカ軍の潜水艦バットフィッシュに待ち伏せされ、呂112呂113が撃沈されて、ルソン島に到着し航空要員の救出に成功したのは呂46のみであった。しかし、航空機のピストン輸送と呂46に救出された航空要員は相当数に上り、日本軍航空史上では未曾有の大輸送作戦となった[230]。輸送機には、従軍記者や[231]、従軍看護婦や、日本軍が愛用していたマニラの料亭「広松」の女将や芸者といった女性も軍属扱いで優先的に搭乗できたが[232]、第4航空軍司令部幕僚が搭乗した機が撃墜され[233]、また、連絡無く台湾澎湖諸島の海軍基地上空を飛行したため、海軍の高角砲で同士討ちされた機もあって、兵器部長小沢直治大佐、経理部長西田兵衛大佐、軍医部長中留金蔵大佐や溝口高級副官などの多くの第4空軍幕僚が戦死するといった混乱もあった[234]

佐々木も台湾に撤退するため、どうにか司令部のある第4飛行師団エチアゲに到着したが、他の航空要員の撤退が進む中でも、公式には戦死扱いであった佐々木には、輸送用の航空機に搭乗するための証明書が第4飛行師団司令部より発行されず、そのままルソン島に取り残された[235]。佐々木は似たような境遇の特攻隊員の生存者らと臨時集成飛行隊として編成されたが、集成飛行隊には1機の稼働機もなかった[236]。他にルソン島の取り残された多くの第4航空軍将兵は、第14方面軍の山下の指揮下に入って地上戦を戦うこととなった。十分な装備はなかったが、決して烏合の衆ではなく、ルソンに残った第2航空師団参謀長猿渡の作戦指導のもとで、高い士気で鉄の団結を作り上げて[237]、激戦地となったバレテ峠サラクサク峠では「東京を救おう」を合い言葉に、山下の指揮通り、徹底した拘束持久作戦を戦って、連合軍を長い期間足止めしたが、激戦と飢餓や病気により多くの将兵が命を落とした[238]。一方、佐々木ら臨時集成飛行隊には地上戦を戦う意志はなく、連合軍がエチアゲに迫ると、佐々木は戦うこと無くアメリカ軍を避けて山中に逃げ込み、自作した粗末な小屋で自給自足の生活を送り、飢餓と病気に苦しみながらもどうにか終戦まで生存し、アメリカ軍に投降して捕虜となった[239]

佐々木は1946年1月にアメリカ軍の輸送船で日本に帰国、その後に復員の手続きをするため、第一復員省に出向いたが、そこで佐々木に何度も特攻を強要した元参謀の猿渡と再会した。公式には戦死扱いの佐々木であったが事情を知っていた猿渡が係官に指示し、復員証明書が交付された。猿渡はゲリラとの戦闘で片目を負傷しており、またフィリピンでの堂々とした姿からは変わり果てて、すっかりと老け込んだように見えたので、佐々木は抱いていた憎しみが急にしぼんでいくのを感じたなどと、佐々木がずっと猿渡を憎んでいたように、戦後に佐々木を取材した作家高木俊朗の著書に記述してあるが[240]2015年鴻上尚史の取材に対しては、何度も特攻を命じた猿渡について「それは上官だから言いますよ」と淡々と答えている[241]。その後、佐々木は航空関係の仕事を希望するもかなわず、故郷の北海道に帰って農業に従事し結婚もした[242]。晩年は病気で失明し入院を余儀なくされた。意識や記憶はしっかりとしており取材には明瞭に受け答えしていたが、2016年2月9日に永眠した[243]

佐々木らを置き去りにした富永は台湾に待避後、敵前逃亡に等しい無断撤退を聞いた第14方面軍司令官山下は「部下を見捨てて」と激怒したが、組織上は自分の部下となっていた富永に懐の大きさを示して「すんでしまったことは仕方ない」と撤退を事後承諾した。しかし、それで収まることはなく、陸軍中央は常軌を逸した行動をしていた富永を、心身共に軍務には耐えられないとして司令官を更迭し予備役行きとした[244]。その後、本土決戦準備の根こそぎ動員師団の師団長として現役復帰し、満州に送られてそこで終戦を迎えてソビエト連邦軍に降伏、捕虜としてシベリアに抑留された。1955年に他の多くの抑留者と一緒に解放されたが、10年間の抑留生活ですっかりと身体は弱っており、ひとりで満足に歩行できず、しゃべるのも困難となっていた[245]。帰国した富永は戦争責任を追及する国民や、特攻隊員の遺族らから厳しく非難される一方で、親族や陸軍士官学校の同期で東京大学法学博士軍事評論家軍事史家松下芳男など、富永の人間性を知る旧軍人[246]や特攻隊員の一部の遺族、また長期の抑留生活で弱り切った富永に同情する国民などからは擁護され、大きな論争を引き起こしている[247]。富永自身は、その論争に積極的に反論することも無く、「シベリアでわが将兵、わが同胞が現在なお、いかに苦しい思いをしているかを説明し、帰還を促進してもらうよう陳情します」と[248]シベリアに残してきた抑留者同胞の帰国実現のために国会で証言するなど尽力していたが[249]、抑留中に発症した脳溢血の影響で身体が弱っていたこともあって1960年に病死した[250]。富永の台湾脱出を手助けした第4航空軍参謀長の隈部は、戦後すぐの1945年8月15日深夜にフィリピンでの特攻指揮の責任をとって家族を道連れにして自決、他にも菅原の後任として陸軍特攻全般を指揮した航空本部長の寺本熊市中将、「万朶隊」の九九双軽を特攻機仕様に改造するなど、陸軍の特攻機や特攻機用爆弾開発の指揮をとった航空総軍兵器本部小林巌大佐、陸軍技研爆弾関係部長兼審査部員水谷栄三郎大佐など、岩本らを死地に追いやった陸軍特攻の首脳陣らが戦後に相次いで自決している[251]

「万朶隊」隊長岩本の戦死を新妻和子は鉾田市の新居で聞かされた。後に、岩本に特攻を命じた今西から鉾田教導飛行師団に呼ばれて慰めの言葉をかけられたが、和子は心を動かされなかったという。その和子が救われた思いとなったのは、梅津美治郎陸軍参謀総長が昭和天皇に「万朶隊」の戦果を上奏し、天皇からは「万朶隊はそんなにたくさんの弾丸を受けながら、低空攻撃をやって、非常な戦果をあげたことは結構であった」というお言葉があったと陸軍省から通知があったときであった[252]。その後、岩本の兄嫁からの申し出で岩本の甥を養子縁組し、自分の子供として育てることを決心。戦争が終わると岩本姓のまま故郷の萩市に戻り、再婚することもなく洋裁教室を開業、苦しいながらもどうにか生計を立てた。1946年の春には、ルソン島から復員後体調を崩していた佐々木が回復したので、岩本の最期を語るために萩を訪れた。和子と父母は佐々木をまるで岩本が帰ってきたかのように歓待し、和子は佐々木の話を涙を流しながら聞き入っていたという[253]。その後も経済的に困窮しながらも子供を育て上げ[254]、1999年に亡くなった。和子は亡くなるまで、軍服やマントや金鵄勲章などの岩本の遺品を大事に保管しており、死後に有志により、岩本の故郷である福岡県豊前市に寄贈された[255]

その後の特攻編集

 
アメリカ海軍が作成したニュース映画「自殺攻撃機との戦い」での特攻機の通常攻撃と比較しての利点のイラスト(詳細は本文参照)

フィリピン戦で陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったが[256]、なかでもフィリピン戦での陸軍特攻の主力となった第4航空軍の特攻機は148機で、これは第4航空軍の艦船攻撃での総損失機数342機中で43.2%を占めたが[257]、フィリピン戦における日本陸海軍合計での特攻による損失機数650機は、戦闘における全損失機数約4,000機の14%に過ぎなかった[258]。一方で連合軍は、特攻によりフィリピンだけで、22隻の艦艇が沈められ、110隻が撃破された(海軍の戦果も含む)。これは日本軍の通常攻撃を含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦で67%、撃破艦では81%を占めており[259]、特攻は相対的に少ない戦力の消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であった[260]。特攻が通常攻撃より有効であった理由として、アメリカ軍は特攻を「特攻は、アメリカ軍艦隊が直面したもっとも困難な対空問題」指摘した上で下記のように分析していた(画像参照)[261]

  1. 特攻機は片道攻撃で帰還を考慮しないため、攻撃距離が長い。
  2. 突っ込む直前まで操縦できるため、命中率が高い。
  3. 特攻機パイロットは精神的に強靱である。
  4. 特攻機は爆弾を積んでいなくても搭載している航空燃料で強力な焼夷弾になる。

また、他の報告では下記のようにも分析している[262]

  1. 従来の対空戦術は特攻機に対しては効力がない。
  2. 特攻機は撃墜されるか、操縦不能に陥るほどの損傷を受けない限りは、目標を確実に攻撃する。
  3. 目標となった艦船の回避行動の有無に関わらず、損傷を受けていない特攻機はどんな大きさの艦船にでも100%命中できるチャンスがある。

指摘された命中率の高さについては、アメリカ軍の公式資料によれば、フィリピン戦の期間中、航空機による通常攻撃の命中率はわずか3.3%に過ぎなかったが、特攻の命中率は31.9%と高い水準であり、実に通常攻撃の約10倍であった[263]。この命中率は、アメリカ海軍の対空装備の射程範囲内に入った航空機の命中率で、艦載機に撃墜された航空機も母数に入っているが、実際に攻撃してきた特攻機の命中率はさらに向上し、1944年10月から1945年3月までの平均で56%にも上っている[264]

特攻開始前に陸軍ではその有効性に対して激論が交わされており、「軽量の飛行機が重量の軍艦に突入すれば、それによるエネルギーは、軍艦を貫通するより先に、飛行機自体を破壊してしまうことは明らかである」「急降下で突っ込んで、体当たりするとしても、飛行機の速度は爆弾の落速の半分である」「体当たりでは船は沈まない、卵をコンクリートにたたきつけるようなもの」などという反論が反対派から出され[265]、「万朶隊」の隊長岩本も「体当たり機は、操縦者をむだに殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算はすくないのだ。こんな飛行機や戦術を考えたやつは、航空本部か参謀本部か知らんが、航空の実際を知らないか、よくよく思慮のたらんやつだ」などと痛烈に非難したと言われることもあるが[266]、実際に特攻が挙げた実績や、戦中戦後の日米両軍の調査、分析により、結果的にいずれも事実誤認であったことが判明している。特攻機からの被害を詳細に分析した米国戦略爆撃調査団の『UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY SUMMARY REPORT JAPANESE AIR POWER』で「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる」との日本陸軍航空隊参謀の供述を引用するかたちで評価している[267]

 
アメリカ軍による特攻機の突入方法分析図、通常爆撃と異なりあらゆる高度や方向から攻撃できるため命中率は高かったが、直上からの急降下突入以外の緩降下突入や低空からの水平突入は、通常爆撃の爆弾の落下速度に突入速度が劣る

特攻機と投下爆弾の速度については、日本海軍第五航空艦隊参謀野村中佐が、爆戦零式艦上戦闘機による、投下爆弾の終速(目標命中時の速度)と零戦本体の終速を推計している[268]

爆戦による投下爆弾と爆戦本体の終速の推計(突撃角度を35度 - 55度、攻撃開始速度を360km/hと設定)

投下高度 終速
2,000m 1,027km/h
1,000m 860km/h
500m 713km/h
零戦本体 720km/h

日本海軍の試算の通り、2,000mの高度から投下した爆弾は時速1,027km/hにも達する。艦船攻撃では陸軍航空隊より一日の長があった日本海軍は、爆弾の命中速度が上がり貫通力が増加する高高度からの艦船への水平爆撃を熱心に取り組んでいた。しかし、命中率が非常に悪かったため、海軍航空隊の第一人者で海軍航空本部教育部長であった大西瀧治郎少佐が、高高度よりの水平爆撃を廃止すべきとの意見具申を行ったが、山本五十六海軍次官により続行方針が示されている[269]。高高度からの水平爆撃は太平洋戦争前半戦では多用され、停泊中の目標については真珠湾攻撃で停泊中の戦艦アリゾナを轟沈するなどの戦果を挙げている。一方で航行中の艦船に対してはマレー沖海戦では陸攻25機が、戦艦2隻合計で2発 - 3発の命中弾を得たが、[270]続く珊瑚海海戦では九六陸攻19機が米機動部隊に水平爆撃を行ったものの[271]1発の命中弾もなかった[272]など、大戦中目ぼしい成果を挙げることができず、航行中の目標への水平爆撃により確実に戦果を挙げた戦例は、開戦初頭のマレー沖海戦以外にはなかった[273]

このような戦績も踏まえ、戦後に桑原虎雄元中将以下、多数の元海軍航空隊関係者で組織された日本海軍航空史編纂委員会が、その著書『日本海軍航空史』にて、日本軍の水平爆撃に対して「大東亜戦争開戦前に至ってようやく訓練方法も確立し、その精度も向上して用兵的に期待し得る練度に達したものの、なおその程度は艦船攻撃における急降下爆撃並びに雷撃に比すれば、その期待度ははるかに低いものであった。」と総括し、アメリカ軍が動的水平爆撃をする環境(優勢な航空戦力、優秀な照準器)は整っていたのに、動的水平爆撃を実施した戦例がなかったことも指摘し、航行中の艦船への高高度からの水平爆撃は殆ど効果はなかったと結論づけている[273]

また、命中率の高い急降下爆撃については、航空隊要員の教育・練成や戦技研究を担当した横須賀海軍航空隊が、多くの訓練結果を分析した上で、急降下爆撃の投弾高度に対し「しかるに800m以上にては命中率著しく低下するをもって」と所見を述べており[274]、1939年の横須賀航空隊並びに航空本部の所見では「基準投下高度を700mとし、本高度をもって訓練するを適当と認む。」としている[275]。さらに、真珠湾攻撃以降、急降下爆撃の理想的な攻撃法は「緩降下しつつ接敵し、高度2000mから角度45度以上の急降下で突入、高度400mで投弾、ただちに引き起こし、海面より200m程を高速で退避する」と投下高度が引き下げられた[276]。以上の通り、急降下爆撃は400m - 700mで投弾されるため、日本海軍の推計の通り、急降下爆撃と同じ前提(角度や初速)で突入した特攻機は、急降下爆撃で命中が期待可能な400m - 700mの高度で投弾された爆弾単体より、突入速度の方が遅いということはなく、速度が半分ということはあり得ない。実際に特攻機仕様の九九式双発軽爆撃機で急降下爆撃を行った「万朶隊」の佐々木によれば、第1回目の出撃のときは、高度は不明ながら、気がついたときには九九式双発軽爆撃機の最高速度と言われる505km/hをあっさりと超えて、600km/hまで達し、その後も加速したので、空中分解を懸念して機首を引き上げたという[277]。また、6回目の出撃のときは、高度1,500mで急降下を開始したとき速度は450km/hであったが、まもなく500km/hに上がり、その後もみるみる加速するので、どうにか機体を引き上げようとしたが、引き上げができた高度が敵艦に激突寸前の高度200mから300mだったという[278]

 
陸軍特別攻撃隊進襲隊の特攻で大破した駆逐艦ガンズヴォート、アメリカ軍の的確なダメージコントロールで沈没は逃れた

上記のように「適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速い」との分析は実証されているものの、第二次世界大戦中のアメリカ軍の駆逐艦の撃沈破艦の約半数が特攻による損害であったという事実でも解るとおり、その攻撃有効性の高さも相まって、多種多様な角度で特攻機が命中しており、平均的な命中速度は通常の爆撃よりは遅かった[279]。従って、特攻による艦内部の破壊は平均すると通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)よりも少なく、駆逐艦においては、通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)での被害艦の沈没比率は28.9%であったが、特攻による沈没率は13.7%と約半分であった[280]。しかし、特攻による損害は被害艦を沈没まで至らせなくても重篤になることが多く、特に航空燃料による激しい火災は、特攻機の激突や爆弾に加えて艦の損傷を拡大させ、多くの人員に重篤な火傷を負わせて戦闘不能にさせた。また、適切な消火に失敗すると艦を再起不能の損傷に至らせている[281]。また、第二次世界大戦末期のアメリカ軍は、それまでの経験によりダメージコントロールが格段に進歩しており、特攻による撃沈率を低減させるに成功している。例えば、硫黄島の戦いで海軍の第二御楯隊が大破させた正規空母サラトガの損傷具合は、第二次大戦初期に珊瑚海海戦で沈没したレキシントンより遙かに深刻であったと、両艦のいずれの被爆時にも乗艦していたパイロットのV・F・マッコルマック少佐が証言している[282]。また、12月30日に陸軍特攻進襲隊の特攻で大破したガンズヴォート英語版[283]船体の損傷が非常に重篤で、前線の応急修理要員が経験したことのないレベルの損傷であったが、適切なダメージコントロールで沈没を逃れ、アメリカ本土に修理のため自力航行できるまでに応急修理をしている[284]

特攻への総合的な評価として、米国戦略爆撃調査団の報告書『UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY SUMMARY REPORT (Pacific War) 』では「日本軍パイロットがまだ持っていた唯一の長所は、彼等パイロットの確実な死を喜んでおこなう決意であった。 このような状況下で、かれらはカミカゼ戦術を開発させた。 飛行機を艦船まで真っ直ぐ飛ばすことができるパイロットは、敵戦闘機と対空砲火のあるスクリーンを通過したならば、目標に当る為のわずかな技能があるだけでよかった。もし十分な数の日本軍機が同時に攻撃したなら、突入を完全に阻止することは不可能であっただろう。 」と述べられている[285]。また、米国戦略爆撃調査団は太平洋戦争中の日本軍の航空戦力全般を分析して「日本人によって開発された唯一の最も効果的な航空兵器は特攻機で、戦争末期の数ヶ月間に、日本陸軍と日本海軍の航空隊が連合軍艦船にたいして広範囲に使用した」と評価している[286]。また、近年のアメリカ空軍の研究においても、特攻機は現在の対艦ミサイルに匹敵する誘導兵器と見なされて、当時の連合軍艦船の最悪の脅威であったと指摘されている。そして特攻機は比較的少数でありながら、連合軍の作戦に重大な変更を強いて、実際の戦力以上に戦況に影響を与える潜在能力を有していたとも評価している[287]

しかし、連合軍は大きな損害を被りながらも、レイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続けたので、特攻は結局のところは遅滞戦術のひとつに過ぎなかった[288]。それでも、日本軍からは特攻の戦果の確認が困難だったために、戦果報告は実際に与えた損害より過大となり、その過大報告がそのまま大本営発表となって国民に知らされた。NHKや新聞各社は、連日新聞紙上やラジオ放送などで、大本営発表の華々しい戦果報道や特攻隊員の遺言の録音放送など一大特攻キャンペーンを繰り広げた[289]。国民はその過大戦果に熱狂し、新聞・雑誌は売り上げを伸ばすために争うように特攻の「大戦果」や「美談」を取り上げ続けた[290]。やがてこの過大戦果報道は特攻を万能絶対の威力を持つかのように過信させ、特攻隊を出し続ければ勝利を得られるかのような考え違いをも起こさせて[291]、軍の中で特攻に反対していた人々の意見を封殺するようになっていった[292]

フィリピン戦時点では、特攻による損失機数(陸海軍合計)は戦闘における全損失機数の14%に過ぎなかったように、日本軍の航空作戦の中心は特攻ではなかった。アメリカ軍も、「特攻が開始されたレイテ作戦の前半には、レイテ海域に物資を揚陸中の輸送艦などの「おいしい獲物」がたっぷりあったのに対して、アメリカ軍は陸上の飛行場が殆ど確保できていなかったので、非常に危険な状況であったが、日本軍の航空戦力の主力は通常の航空作戦を続行しており、日本軍が特攻により全力攻撃をかけてこなかったので危機は去った。」と評価していた[293]。航空総監兼航空本部長菅原は、12月26日に第6航空軍司令官に転任となって、きたる沖縄を含む本土近辺での大規模な特攻作戦を前線で指揮することとなった。その参謀長には特攻開始時に強硬な反対をした鉾田陸軍飛行学校校長の藤塚が就任した。特攻作戦を企画する側から、前線で指揮する立場となった菅原は、かつては特攻に懐疑的であったのにも関わらず、フィリピンを失い、硫黄島にもアメリカ軍が迫るといった追い詰められた状況では特攻にしか頼る道はないと考え始めており[294]沖縄戦では特攻戦法を軸にして戦うという方向性が示され[295]。そして特攻に反対していた藤塚も菅原を補佐し先頭に立って沖縄特攻戦を指揮していくことになった。フィリピンで異常強烈な体当たり戦法に大損害を被ったアメリカ軍は、数々の特攻対策を講じてそれを迎え撃ち[296]、沖縄戦では第二次世界大戦でも最大級の空海の激戦が繰り広げられることとなった[297]

隊員編集

 
隊長の岩本益臣大尉
 
万朶隊兵舎の前に立つ、左から安藤浩中尉、岩本益臣大尉、園田芳巳中尉

操縦員編集

通信員編集

整備士編集

  • 村崎正則中尉(整備班長)
  • 藤本軍曹
  • 林伍長
  • 桶屋伍長
  • 仁平伍長
  • 古川伍長
  • 川端伍長
  • 柴田軍属
  • 野村軍属
  • 上野軍属
  • 遠藤軍属


万朶隊戦績編集

出撃日 出撃機 未帰還機 戦果報告 実際の戦果 備考
1944年11月12日[305] 田中機 久保機 奥原機 佐々木機  田中機 久保機 戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈[306] 該当する連合軍損害なし[307][308] 奥原は機体不調、佐々木は通常爆撃し(命中せず)生還
1944年11月15日[309] 石渡機 近藤機 奥原機 佐々木機 石渡機 近藤機 なし なし 天候不良で空中集合できず近藤機が墜落、石渡機は先行して未帰還、奥原機と佐々木機は離陸直後に攻撃を諦め帰還
1944年11月25日[310] 奥原機 佐々木機 奥原機 佐々木機 なし なし 出撃前に敵機の空襲を受け、出撃予定の2機が地上で撃破、奥原は爆死、佐々木は生存
1944年11月28日[311] 佐々木機 なし なし なし 佐々木機単機での出撃もレイテ湾上空の天候悪く、敵を発見できずに帰還
1944年12月4日[312] 佐々木機 なし なし なし レイテ湾上でアメリカ軍艦載機を発見し、搭載爆弾を海上に投棄して退避し生還
1944年12月5日[313] 佐々木機 なし 急降下爆撃により大型船1隻撃沈[314] 該当する連合軍損害なし[315] 「鉄心隊」3機と出撃、佐々木は通常爆撃で大型船の撃沈を主張、「鉄心隊」が特攻で駆逐艦マグフォードを撃破[316]
1944年12月14日[317] 佐々木機 なし なし なし 「菊水隊」の一〇〇式重爆撃機9機と出撃も、佐々木機は離陸に失敗して出撃できず
1944年12月16日 佐々木機[318] なし なし なし ミンドロ島に上陸作戦中の連合軍大艦隊を発見するも攻撃せず、戦闘機に発見される前に退避し生還
1944年12月18日[319] 佐々木機 なし なし なし 「鉄心隊」2機と出撃するも、佐々木機は故障により帰還。「鉄心隊」はPTボートPT-300を撃沈[320]
1944年12月20日[321] 鵜沢機 鵜沢機 なし なし 「若櫻隊」1機と出撃し未帰還、「万朶隊」最後の出撃

佐々木友次を扱った作品編集

脚注編集

  1. ^ 戦史叢書87 1975, p. 434
  2. ^ 戦史叢書94 1976, p. 231
  3. ^ 神野正美 2004, p. 105
  4. ^ 神野正美 2004, p. 162
  5. ^ 神野正美 2004, p. 226
  6. ^ 神野正美 2004, p. 226
  7. ^ 神野正美 2004, p. 281
  8. ^ 神野正美 2004, p. 297
  9. ^ ニミッツ & ポッター 1962, p. 246
  10. ^ 歴史群像53 2006, p. 177
  11. ^ USS ENTERPRISE CV-6 CARRIER DIVISION SEVEN
  12. ^ 神野正美 2017, pp. 362-363
  13. ^ トーランド 2015, 電子版, 位置No.392
  14. ^ The Night Fighters - Chapter 11 of Radar and the Fighter Directors pp.35-36.
  15. ^ 高木俊朗① 2018, p. 25
  16. ^ 林えいだい 2007, p. 91
  17. ^ 生田惇 1977, p. 24
  18. ^ 高木俊朗① 2018, p. 27
  19. ^ 生田惇 1977, p. 24
  20. ^ 生田惇 1977, p. 25
  21. ^ 高木俊朗① 2018, p. 27
  22. ^ 生田惇 1977, p. 25
  23. ^ 林えいだい 2007, p. 92
  24. ^ 林えいだい 2007, p. 97
  25. ^ 森史朗 2006, pp. 64-67
  26. ^ 大岡昇平㊤ 1974, p. 286
  27. ^ 冨永 & 安延 1972, p. 40
  28. ^ 木俣滋郎 2013, p. 268
  29. ^ 戦史叢書87 1975, p. 434
  30. ^ 木俣滋郎 2013, p. 268
  31. ^ 戦史叢書87 1975, p. 331
  32. ^ 戦史叢書37 1970, p. 164
  33. ^ 戦史叢書37 1970, p. 165
  34. ^ 冨永 & 安延 1972, p. 42
  35. ^ 戦史叢書87 1975, p. 455
  36. ^ 戦史叢書48 1971, p. 344
  37. ^ 高木俊朗① 2018, p. 29
  38. ^ 高木俊朗① 2018, p. 34
  39. ^ 秦郁彦 1999b, p. 507
  40. ^ ウォーナー 1982a, p. 128
  41. ^ 深堀道義 2001, p. 155.
  42. ^ 戦史叢書66 1973, pp. 300-301B-29対応策
  43. ^ 高木俊朗① 2018, p. 43
  44. ^ ウォーナー 1982a, p. 120
  45. ^ 高木俊朗① 2018, p. 43
  46. ^ ウォーナー 1982a, p. 121
  47. ^ 高木俊朗① 2018, p. 45
  48. ^ ウォーナー 1982a, p. 122
  49. ^ 戦史叢書48 1971, p. 344
  50. ^ 戦史叢書45 1971, pp. 34-39
  51. ^ ウォーナー 1982a, p. 130
  52. ^ 深堀道義 2001, p. 159.
  53. ^ 特攻の記録 2011, p.265
  54. ^ 特攻の記録 2011, p.267
  55. ^ 深堀道義 2001, p. 160.
  56. ^ 大貫健一郎 & 渡辺考 2009, p. 121
  57. ^ 戦史叢書87 1975, pp. 455-456
  58. ^ 戦史叢書48 1971, p. 345
  59. ^ 大貫健一郎 & 渡辺考 2009, p. 55
  60. ^ 特攻の記録 2011, p.271
  61. ^ 鴻上尚史 2017, 電子版, 位置No.304
  62. ^ 林えいだい 2007, p. 93
  63. ^ a b 『特攻隊振武寮』p.123 - 124
  64. ^ 大貫健一郎 & 渡辺考 2009, p. 120
  65. ^ 深堀道義 2001, p. 161.
  66. ^ 大貫健一郎 & 渡辺考 2009, p. 57
  67. ^ 林えいだい 2007, p. 91
  68. ^ 生田惇 1977, p. 45
  69. ^ 生田惇 1979, p. 81
  70. ^ 戦史叢書48 1971, p. 346
  71. ^ 鴻上尚史 2017, 電子版, 位置No.436
  72. ^ 鴻上尚史 2017, 電子版, 位置No.402
  73. ^ 戦史叢書48 1971, p. 347
  74. ^ 戦史叢書48 1971, p. 346
  75. ^ 押尾一彦 2005, p. 8
  76. ^ 大東亜戦史③ 1969, p. 379
  77. ^ 現代読本④ 1956, p. 244
  78. ^ 戦史叢書48 1971, p. 347
  79. ^ 日本大歳時記 1983, p. 332
  80. ^ 押尾一彦 2005, p. 10
  81. ^ 特攻の記録 2011, p.287
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  • 『日本海軍航空史』1 用兵篇、日本海軍航空史編纂委員会 編、時事通信社、1969年。
  • 『日本海軍航空史』3 制度・技術篇、日本海軍航空史編纂委員会 編、時事通信社、1969年。
  • 『現代読本』4 日本特攻隊総集版、日本文芸社 編、日本文芸社、1956年。
  • 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設東方出版、2007年。ISBN 978-4-86249-058-2
  • 原勝洋『真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日』ベストセラーズ、2004年。ISBN 4584187991
  • 原勝洋『写真が語る「特攻」伝説 航空特攻、水中特攻、大和特攻』ベストセラーズ、2006年。ISBN 9784584189795
  • ハンソン・ボールドウィン『勝利と敗北 第二次大戦の記録』朝日新聞社、1967年。
  • 深堀道義『特攻の真実―命令と献身と遺族の心』原書房、2001年。ISBN 978-4562040957
  • 深堀道義『特攻の総括―眠れ眠れ母の胸に』原書房、2004年。ISBN 978-4562037490
  • 『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社戦史叢書36〉、1970年。
  • 『海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社戦史叢書37〉、1970年。
  • 『比島捷号陸軍航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書48〉、1971年。
  • 『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書87〉、1975年。
  • 『陸軍航空の軍備と運用』3(大東亜戦争終戦まで)、防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書94〉、1976年。
  • 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡』米国戦略爆撃調査団 編纂、大谷内和夫(訳)、光人社、1996年。ISBN 4769807686
  • 『特攻の記録 「十死零生」非情の作戦』「」編集部 編、光人社〈光人社NF文庫〉、2011年。ISBN 978-4-7698-2675-0
  • 水原秋桜子『カラー図説 日本大歳時記 座右版』講談社、1983年。ISBN 978-4061286467
  • 森史朗『特攻とは何か』文藝春秋〈文春新書〉、2006年。ISBN 978-4166605156
  • 森史朗『暁の珊瑚海』文藝春秋〈2009〉、2009年。ISBN 9784167773151
  • 山岡荘八『小説 太平洋戦争⑥』講談社〈講談社文庫〉、1987年。ISBN 978-4061950979
  • 陸軍航空士官学校史刊行会編『陸軍航空士官学校』1996年。
  • リチャード オネール『特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS』益田 善雄(訳)、霞出版社、1988年。ISBN 978-4876022045
  • 『[歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.53「アメリカの空母」』学研〈歴史群像53〉、2006年2月。ISBN 4-05-604263-2
  • Rielly, Robin L. (2010). KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II. Mcfarland. ISBN 0786446544. 
  • Preliminary Design Section Bureau of Ships Navy Department, ed (1945). Destroyer Report Gunfire, Bomb and Kamikaze Damage Including Losses in Action 17 October, 1941 to 15 August, 1945. Naval History and Heritage Command. 
  • この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。