赤道ギニア
- 赤道ギニア共和国
- República de Guinea Ecuatorial(スペイン語)
République de Guinée Équatoriale(フランス語)
República da Guiné Equatorial(ポルトガル語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:Unidad, Paz, Justicia
(スペイン語: 統一、平和、正義) - 国歌:Caminemos Pisando la Senda de Nuestra Inmensa Felicidad
-
公用語 スペイン語(第一公用語)
フランス語(第二公用語)
ポルトガル語(第三公用語)首都 マラボ 最大の都市 バタ 独立
- 日付スペインより
1968年10月12日通貨 CFAフラン(XAF) 時間帯 UTC (+1)(DST:なし) ISO 3166-1 GQ / GNQ ccTLD .gq 国際電話番号 240
赤道ギニア共和国(せきどうギニアきょうわこく、República de Guinea Ecuatorial)、通称赤道ギニアは、ギニア湾に浮かぶビオコ島、アンノボン島、および大陸部のリオ・ムニ(ンドウェ語: ンビニ)とエロベイ・グランデ島及びエロベイ・チコ島を併せたエロベイ諸島から成る共和制国家。リオ・ムニは北にカメルーン、南と東にガボンに隣接する。首都はマラボ。
概要編集
同国は中部アフリカに位置する、高温多湿の熱帯性気候の国である。首都であるマラボはビオコ島にある。大陸部分に海外領土でない領土を持ち、首都が島に存在する国は赤道ギニアとデンマークのみである(海外領土も含める場合はほかにジブラルタルを領有するイギリスがある)。また、ポルトガル語公用語アフリカ諸国及びフランコフォニー国際機関に加盟している国家の一つともなっている。
1992年の原油生産開始以降、急速に経済成長が進み、2017年には後発発展途上国の指定を解除されたものの[2]、貧富の差やガバナンスに多大な問題があることが指摘されている。
国名編集
正式名称はスペイン語でRepública de Guinea Ecuatorial(レプブリカ・デ・ギネア・エクアトリアル)、フランス語でRépublique de Guinée Équatoriale(レピュブリク・ドゥ・ギネ・エクアトリヤル)、ポルトガル語でRepública da Guiné Equatorial(レプブリカ・ダ・ギネー・エクアトリアル)。
公式の英語表記は、Republic of Equatorial Guinea(リパブリック・オヴ・エクワトーリアル・ギニー)。
日本語表記は、正式名称赤道ギニア共和国、通称赤道ギニア。赤道上に領土を持たないが、西アフリカのギニアと区別し、かつ首都マラボがあるビオコ島がギニア湾に浮かぶことから、赤道に近いギニアとして名づけられた。
歴史編集
独立前編集
ヨーロッパ人の到達以前に、すでにビオコ島には先住民としてブビ族が居住していた。リオムニにはバントゥー系民族が居住していたものの、このころまだ現在の主要民族であるファン人はこの地に到達していなかった[3]。
1472年にポルトガル人のフェルナン・ド・ポーがビオコ島を発見し、この一帯はポルトガル領とされ、島は発見者の名を取ってフェルナン・ド・ポー島と名付けられた。また17世紀後半にはファン人のリオムニへの進入が始まり、これは20世紀初頭まで続いた[4]。1778年にポルトガルはブラジルの領有権を認めてもらうことと引き替えに大陸部のリオムニとフェルナン・ド・ポー島をスペインに割譲し[5]、スペイン領ギニアが成立した。スペインの統治下では特にフェルナン・ド・ポー島でカカオのプランテーション開発が進められたものの[6]、その統治は島部や海岸部に限られ、リオムニ内陸部に実質的な支配が及んだのは1920年代後半のことだった[7]。1958年、スペイン領ギニアはスペインの海外県となり、住民は本国と同等の市民権を得て、1963年には自治政府を樹立した[8]。自治政府の主席には赤道ギニア民族同盟運動のボニファシオ・オンド・エドゥが就任し、また1966年には2年後の独立が約束された。1968年9月の独立準備選挙においては野党・赤道ギニア解放民族運動のフランシスコ・マシアス・ンゲマが勝利し、新政府の首班となることになった[9]。
独立後編集
1968年10月12日、赤道ギニア共和国として独立し、フランシスコ・マシアス・ンゲマ(以下マシアス)が初代大統領に就任した。マシアス・ンゲマは独立後すぐに恐怖政治を敷き、1970年に自身の与党労働者国民統一党以外の政党活動を禁止し、1972年には終身大統領を宣言、独裁体制を固めた[10]。マシアスは国内では反対派への弾圧や殺害を行い、また国民の外国との接触を極度に制限する一種の鎖国政策を敷いて、すべての諸外国から孤立した。国民のおよそ3分の1にあたる10万人が難民として国外に脱出し[11]、さらに1975年にはナイジェリア人であったカカオ農園労働者の虐殺事件が発生してナイジェリア政府が労働者の引き上げを決定したため、経済も困窮した[12]。
1979年8月、フランシスコの甥のテオドロ・オビアン・ンゲマ(以下ンゲマ)がクーデターを起こし、マシアスを処刑して大統領に就任、軍事政権を敷いた。1982年に民政移管などを定めた新憲法を採択したが、クーデター未遂がたびたび発生。1987年、ンゲマの一党独裁の政権党として赤道ギニア民主党(以下PDGE)結成され、1989年ンゲマは3選された[13]。
民主化を要求するスペイン、フランス、米国の圧力を受け1991年11月、複数政党制を認めた新憲法が国民投票で承認されたが、大統領の免責規定などに野党勢力は反発し、1993年の総選挙は野党の大半がボイコットする中、PDGEが大勝した[14]。1996年2月の大統領選も野党はボイコットし、ンゲマが得票率99%で4選された。1997年6月、政府は最大野党赤道ギニア進歩党党首のセベロ・モトヌサに武器密輸容疑をかけ、進歩党の政治活動を禁止したため、モトヌサはスペインに亡命し、裁判所は8月、国家反逆罪でモトヌサに懲役101年の判決を下した。
1999年3月の総選挙でPDGEが80議席中75議席を獲得。残り4議席を人民同盟、1議席を社会民主連合が獲得。11月に赤道ギニア進歩党 (PPGE) など6つの反政府野党が民主化促進を掲げ、野党連合である民主野党戦線を結成。2002年12月の大統領選で野党4候補がボイコットし、ンゲマが得票率97.1%で5選された。2004年3月にイギリス陸軍特殊空挺部隊にかつて属していたサイモン・マンが首謀し、ンゲマを追放してモトヌサを大統領へ据えるクーデター計画が発覚したが、傭兵部隊と共にマンがジンバブエで逮捕されて計画は未遂に終わった(マンは赤道ギニアへ移送され、裁判で禁固34年の刑を受けた[15]が、2008年に恩赦で釈放された)。ンゲマは旧宗主国のスペインが関与したとして、国際連合総会でスペインを激しく批判した。また、イギリス元首相マーガレット・サッチャーの息子であるマークが関与したとしてケープタウンで逮捕された(後に司法取引で釈放)。
2009年の大統領選でもンゲマは得票率95%で再選された[16]。2016年、ンゲマは大統領に6期目の就任を果たした[17]。
政治編集
国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は7年と長く、また再選制限がない。大統領は強大な権力を憲法により保障されている。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーを任命・罷免し、法令制定権、議会の解散権、軍の統帥権や条約の調印権などを持つ。テオドロ・オビアン・ンゲマ現大統領は1979年の就任以降在任を続けており、アフリカ最長の長期政権となっている[18]。
閣僚評議会は首相、数名の副首相、および閣僚で構成されるが、実際の行政権は大統領が行使し、閣僚評議会はその執行機関に過ぎない。よってその権力は極めて小さく、大統領の補佐機関であるといえる。また、政府の一機関として国家評議会が置かれている。これは大統領が死亡、もしくは職務続行不可能な状況に陥った場合、その職務を一時的に代行することを主目的とした機関である。国家評議会議員は大統領、首相、国防相、人民代表院議長、および社会経済評議会(社会・経済問題に関する大統領の諮問機関)議長で構成される。
議会はかつては人民代表院(スペイン語でCamara de Representantes del Pueblo、定数80,2004年より100)の一院制だった。議員は任期5年で、政党名簿比例代表制度に基づき、国民の直接選挙により選出された。しかし2012年に定数75の上院が創設され、これまでの議会は下院となって、二院制へと移行した[19]。
主要政党には赤道ギニア民主党 (PDGE) がある。PDGEは旧独裁政党で、現行憲法により複数政党制が承認されてからも、議会内で圧倒的多数を占める支配政党である。野党は存在するが、いずれもPDGEにより活動が著しく制限されており、合法野党は社会民主連合のみとなっている。最大野党の赤道ギニア進歩党は国内で活動禁止状態となっており、2003年にはスペインのマドリードに赤道ギニア亡命政府を樹立したものの、勢力は非常に小さい。このほかにもビオコ自治運動などいくつかの非合法野党が存在する。
赤道ギニア政府はその腐敗ぶりで知られており、2019年度の腐敗認識指数は180カ国中173位となるなど深刻な腐敗が広がっている[20]。初代マシアス大統領、および現ンゲマ大統領はいずれも国土東端にあるモンゴモの出身であり、大統領の係累は「モンゴモの一族 (clan de Mongomo) 」と呼ばれ、絶大な権力を握っている[21]。石油の富は大統領とその一族に集中しており、ンゲマ大統領はアフリカ有数の富豪として知られている[22]。2016年には大統領の息子であるテオドロ・ンゲマ・オビアン・マングが副大統領に就任したが[23]、彼もまた腐敗で知られており、2019年にはスイス検察からの公金横領・汚職事件の捜査打ち切りと引き換えに所持するスーパーカー25台が差し押さえられ競売にかけられた[24][25]。報道も政府の統制を受けており、2011年に起きたアラブの春においても赤道ギニア国内では報道管制が行われ、一切報道されることはなかった[26]。
軍事編集
地方行政区分編集
赤道ギニアは8県に分けられている。( )内は県庁所在地。
- アンノボン県 (パレ)
- 北ビオコ県 (マラボ)
- 南ビオコ県 (ルバ)
- 中南部県 (エヴィナヨング)
- キエンテム県 (エベビイン)
- リトラル県 (バタ)
- ウェレンザス県 (モンゴモ)
- ジブロホ市(ラパス) - 2017年発足
大陸部の4県(中南部県、キエンテム県、リトラル県、ウェレンザス県、ジブロホ市)を総称してリオ・ムニと呼ぶ。
主要都市編集
主要な都市はビオコ島北部にある首都のマラボ(人口15万人、2014年)と[28]、リオ・ムニの中心である港湾都市バタ(人口13万人、2001年)がある[29]。ンゲマ大統領は2012年に首都移転計画を発表し、リオムニ東部の内陸部に新首都としてラパス(旧称オヤラ)の建設が進んでいる[30]。
地理編集
ギニア湾のビオコ島と大陸のリオ・ムニ、そしてアンノボン島など周囲の島々からなる。
カメルーンの西56km、リオ・ムニの北西約259kmに位置するビオコ島は火山島であり、最高地点は標高3,008mのマラボ山(旧名サンタ・イサベル山)である[31]。1970年代まではポルトガル人の「発見」者の名にちなみフェルナンド・ポー島と呼ばれた。南部海岸はごつごつしているが、北部は標高も低く近づきやすい。マラボとルバという良港があり、その間にはいくつかの美しい浜がある。ビオコ島は火山性の肥沃な土壌と豊富な降水量に恵まれるため、古くからプランテーションが開かれ農業生産が盛んだった[32]。アンノボン島も火山島でビオコ島の南西686kmに位置する[33]。海岸は急で小さな湖がある。推定2,500人の住民の多くは、伝統的なカツオ漁や鯨漁に従事している。
リオ・ムニは北をカメルーン、東と南をガボン、西をギニア湾(大西洋)に接している。主な河川は3本存在し、いずれも東から西へと流れてギニア湾へ注ぐ。最も北のンテム川はカメルーンとの国境を、最も南のムニ川はガボンとの国境をなし、中央をベニト川が貫いている[34]。標高の低い丘陵や台地が多く、隣国ガボンに続くシエラ・クリスタル山脈にある大陸部最高地点であるミトラ山でも1,200mである。リオ・ムニは植生としては熱帯雨林が広がっている。海岸はマングローブの森である。
赤道ギニアの総面積28,051km2のうち、ビオコ島 (2,017km2) とアンノボン島 (17km2) からなる諸島部の総面積は2,034km2である。大陸部のリオ・ムニ (26,003km2) の近くにコリスコ島、エロベイ・グランデ島とエロベイ・チコ島からなるエロベイ諸島 (17km2) がある。なお、コリスコ島についてはガボンとの間に領有権の争いがある。
気候編集
ビオコ島、リオ・ムニともに熱帯モンスーン気候 (Am) に属し、短い乾季がある。リオ・ムニの雨季は2月から6月、9月から12月で内陸より海岸部で雨が多い。バタでの年間雨量は2,400mm、カラトラバでは4,000mmに達することがある。内陸のミコメセングでは1,300mmである。ビオコ島より気温は低く、湿度が高い。
ビオコ島の乾季は11月から3月である。年間平均気温は25度で気温変化は少なく、空は一日中どんよりしている。南部でとくに雨が多く、サン・アントニア・デ・ウレカではモンスーンにより年間11,000mmの雨がもたらされることがある[35]。
経済編集
伝統的にカカオとコーヒーのプランテーションの国であり、1960年代の輸出額はカカオ38%、コーヒー25%、木材10%となっていた[36]。主力のカカオはビオコ島で主に生産され、コーヒーや木材はリオムニで生産されている[37]。独立後、マシアス・ンゲマの暴政によって一時プランテーションの産出量が激減したものの回復し、1980年代までこの構造に変化はなかった[38]。
しかし、1992年にビオコ島沖のアルバ油田で原油生産が開始されて以来、主産業は農林水産業から鉱業生産に依存するようになり、さらに1996年のザフィーロ油田、2000年のセイバ油田と新規油田の開発が相次いだため、2011年には原油輸出が40.3%、天然ガス輸出が25.3%を占めるようになって[39]、完全に鉱業を基盤とするようになった。2017年には石油輸出国機構 (OPEC) に加盟した[40]。政府予算もまた原油収入に大きく依存しており、2007年には歳入の約85%が石油・ガス収入によって占められ[41]、また原油生産の伸びに伴い2001年から2009年にかけて政府支出は名目上13倍[42]、インフレを考慮した後でも約8倍の増加を示した[43]。
油田の創業以来経済成長が著しく、CIAワールドファクトブックによれば、2016年の一人当たりGDP (PPP) は推計で38,600USドルに達し[44]、アフリカ大陸では最も高く、先進国並の水準となっている。これによって2017年には後発発展途上国の指定を解除された[45]。しかし、2008年の世界平和度指数に基づくジニ係数は65%となっており、所得格差は世界最悪水準となっている。通貨は1985年以降、近隣国と同じく中部アフリカ諸国銀行の発行するCFAフランを使用している[46]。
交通編集
同国は2,880 km(1,790マイル)の高速道路があり、その大部分は2002年まで舗装されていなかったのだが近年から徐々に改善されて来ている。
最近では、バタとオビアン・ンゲマ大統領国際空港を結ぶ長さ175 kmの2車線高速道路を建設し、ガボンとの国境にあるモンゴモ市へ接続する計画が上がっており、同国はその計画の実行へ向けて動き出している。
梅雨の時期には、四輪駆動車がないと道路が通行できないことがよくあり、現在も問題となっている面がある[47]。
鉄道編集
赤道ギニアに鉄道は存在していない。
空港編集
空運は、首都のマラボにマラボ国際空港、バタにバタ空港が存在し、両空港間に国内線が就航しているほか、それぞれ近隣諸国に国際線が就航している。またアンノボン島にもアンノボン空港が存在し、マラボとバタに航空便が就航している。また、ラパスへの首都移転に伴い新首都近郊のモンゴメイェンに新しい国際空港の建設が計画され、2012年にオビアン・ンゲマ大統領国際空港として開港した[48]。
赤道ギニアにはCEIBAインターコンチネンタルやギニア・エクアトリアル・エアラインズ、クロノス航空、プント・アズール、エア・アンノボンといった航空会社が存在するが、2020年時点ですべての赤道ギニアの航空会社は危険性が高いとしてEU域内乗り入れ禁止航空会社に指定されている[49]。
国際関係編集
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日本との関係編集
国民編集
人口編集
赤道ギニアの人口は1963年に24万5000人だったが[52]、1986年には40万人[53]、2017年には126万人にまで増加した[54]。人口密度は2017年で1km2あたり45.2人であるが[55]、これは隣国ガボンに比べて著しく高く、近隣では比較的人口稠密な地域となっている[56]。
民族編集
住民は、ほとんどがバントゥー系で、一番多いのは大陸リオ・ムニのファン人で総人口の57%を占める。同じくバントゥー系のブビ人は10%で二番目に多く[57]、ビオコ島に住む。ビオコ島の住民のほとんどはブビ人だが、少数ではあるもののフェルナンディノと呼ばれるクレオール(ムラート)やヨーロッパ人もいる。
バントゥー系には、ほかにンドウェ族/コンベ族、ブジェバ族、バレング族、ベンガ族、ベティ族がいる。イボ系には、アロ人がいる。
言語編集
長くスペインの植民地であったため、言語はアフリカ大陸で唯一スペイン語を公用語としている。また第二公用語としてフランス語も導入している[58]。現地語であるファン語やブビ語は主要言語である。また、ポルトガル語諸国共同体にもオブザーバーとして参加し、ポルトガル語も第三公用語としている。
スペイン語話者が447,000人、ポルトガル語話者が523,040人というデータがあり、国民の大部分がスペイン語とポルトガル語を同時に話しているという計算になるが、実際にはスペイン語とポルトガル語、さらには現地語の影響を受けたクレオール言語(文法、語彙などの面でスペイン語寄り)を話している。
現地語には上記2言語のほか、ンドウェ語/コンベ語、ブジェバ語、バレング語、ベンガ語、バセケ語、ベティ語がある。
宗教編集
宗教は大部分がキリスト教で、中でもローマ・カトリックが最も多く、人口の79.9%(2000年)を占めている[59]。
教育編集
2000年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87%(男性:93.4% 女性:80.5%)である [44]。
赤道ギニアには大学が一つある。赤道ギニア国立大学 (UNGE) がそれであり、マラボにキャンパスが、バタに医学部が存在する。バタの医学部はキューバの主要な援助を受けており、同国政府はセンターの教授、医師を提供している[要出典]。スペインの国立遠隔教育大学もマラボとバタに支部を置いている。
文化編集
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食文化編集
赤道ギニアの料理は宗主国であったスペインやモロッコなどのイスラム国家の料理だけでなく、先住民族の料理を取り入れ独自の進化を遂げている点がある。唐辛子や幾つものスパイスを利用した味付けが特徴。
主食にはキャッサバ、サツマイモ、ヤムなどのイモ類をはじめ米やトウモロコシが用いられ、野菜はオクラ、レタス、ニンジン、トマトなどが消費されている。トロピカルフルーツも消費されている。
また、海鮮料理が発達しており、サメなどの魚類を用いた料理が存在する。
音楽編集
ポピュラー音楽においては、スペインで活躍したビオコ島出身のブビ系の女性デュオイハス・デル・ソルが特筆される。
世界遺産編集
同国には現在、世界遺産となるものが存在していない。
祝祭日編集
日付 | 日本語表記 | スペイン語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajo | |
6月5日 | 共和国大統領の誕生日 | Natalicio del Presidente de la República | |
8月3日 | 解放クーデターの日 | Día del Golpe de Libertad | |
8月15日 | 憲法記念日 | Día de la Constitución | |
10月12日 | 独立記念日 | Día de la Independencia | |
12月8日 | 無原罪の聖母の祭日 | Festividad de la Inmaculada Concepción | |
12月10日 | 人権の日 | Día de los Derechos Humanos | |
12月25日 | クリスマス | Navidad |
スポーツ編集
赤道ギニアはサッカーのアフリカネイションズカップ2012を隣国ガボンと共同開催しており、また2015年には開催を返上したモロッコの代替としてアフリカネイションズカップ2015を単独開催した[60]。主なスタジアムは、マラボのヌエボ・エスタディオ・デ・マラボやバタのエスタディオ・デ・バタがある。オリンピック赤道ギニア選手団は1984年ロサンゼルスオリンピック以降すべての大会に参加しているもののメダル獲得実績がないなど、全般にスポーツは強くなく、環境も整っていないが、2000年のシドニーオリンピックにおいては水泳で初出場したエリック・ムサンバニが他選手よりもはるかに遅いタイムながら泳ぎ切って話題となった[61]。
その他編集
同国出身の有名人編集
- マーティン・プエ - 政治活動家
- ミゲル・アビア・ビテオ・ボリコ - 政治家
- エリック・ムサンバニ - 水泳選手
- リカルド・マンゲ・オバマ・ンフベア - 政治家
- ハビエル・バルボア - サッカー選手
- パウラ・バリーラ・ボローパ - 水泳選手
脚注編集
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- ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2415321 「愛すべき敗者たち―五輪精神の体現者か? 出場枠の無駄遣いか?」AFPBB 2008年7月8日 2020年4月11日
関連項目編集
外部リンク編集
- 政府
- 赤道ギニア共和国政府 (スペイン語)(英語)
- 日本政府
- 日本外務省 - 赤道ギニア (日本語)
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