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身延町

日本の山梨県の町

身延町(みのぶちょう)は、山梨県の南西部に位置する南巨摩郡日蓮宗本山身延山久遠寺の門前町。千円紙幣E号券、五千円紙幣D号券にある本栖湖の逆さ富士は、身延町の中ノ倉峠から撮影された写真がモデルである。

みのぶちょう
身延町
身延山久遠寺本堂
身延山久遠寺本堂
日本の旗 日本
地方 中部地方甲信越地方
都道府県 山梨県
南巨摩郡
団体コード 19365-8
法人番号 9000020193658
面積 301.98km2
総人口 11,571
推計人口、2018年4月1日)
人口密度 38.3人/km2
隣接自治体 甲府市西八代郡市川三郷町
南巨摩郡南部町富士川町早川町
南都留郡富士河口湖町
静岡県静岡市富士宮市
身延町役場
町長 望月幹也
所在地 409-3392
山梨県南巨摩郡身延町切石350
北緯35度28分2.9秒東経138度26分32.8秒
Minobu Town hall.JPG
外部リンク 身延町の公式サイト

身延町位置図

― 市 / ― 町 / ― 村

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目次

地理編集

 
旧身延町(梅平地区) 画面上部は富士川

隣接している自治体・行政区編集

山梨県

静岡県

地名編集

郵便番号の区分で記している。

旧中富町北部
(切石・西嶋)
旧中富町南部
(原・曙)
旧下部町北西部
(久那土・市之瀬)
旧下部町南西部
(下部温泉・常葉)
旧下部町東部
(古関・本栖)
旧身延町西部
(下山・身延山)
旧身延町東部
(身延駅・大島)
大塩 飯富 市之瀬 岩欠 大磯小磯 相又 大崩
上田原 伊沼 一色 上之平 大山 粟倉 大島
切石 江尻窪 切房木 大炊平 折門 梅平 大垈
久成 遅沢 久保 下部 釜額 大城 帯金
下田原 中山 熊沢 常葉 川向 大野 上八木沢
手打沢 梨子 車田 波高島 北川 小田船原 下八木沢
寺沢 福原 樋田 桃ケ窪 清沢 門野 角打
西嶋 古長谷 三沢 湯之奥 芝草 下山 椿草里
日向南沢 宮木 瀬戸 杉山 樋之上
平須 八日市場 山家 大子 清子 丸滝
矢細工 中之倉 波木井 身延
夜子沢 根子 光子沢 和田
八坂 横根中
古関
水船

歴史編集

 
旧身延町(1955-2004)、県内位置図
 
『富嶽三十六景 身延川裏不二』
身延道から見る富士山

古代の律令制下では富士川左岸が巨摩郡川合郷、富士川東岸は八代郡川合郷に比定される。平安時代後期には甲斐国各地で荘園が成立し、大野近辺には『玉葉安元2年(1176年)条に見られる施薬院領・飯野牧が成立する。

鎌倉時代には、飯野牧内の波木井郷に甲斐源氏の一族加賀美氏の分流である南部光行の子・波木井実長が居館を構える。実長は同地の地頭になり、南部氏の河内支配の一端を担った。また、下山郷には加賀美氏の一族である秋山光行の兄・光季の子・下山光重が、帯金には同じく加賀美氏の一族とされる帯金氏が入部するなど、町域では加賀美一族の影響が強い。鎌倉期の文永11年(1274年)には波木井実長の庇護のもと日蓮草庵を構え、日蓮の草庵から発展した身延山久遠寺は甲斐・駿河方面における日蓮宗の拠点となり、波木井実長ら南部一族も帰依した。

南北朝時代には南部氏が奥州に入府し、河内地方には甲斐守護・武田氏の一族である穴山氏が入府する。戦国時代には守護武田氏の勢力が衰え、甲斐国内では武田氏と有力国人勢力との抗争が行われるが、穴山氏も河内地方における有力国人として台頭する。穴山氏は信友期に武田氏に臣従し、本拠を南部から下山に移転し、下山館を築いて河内支配の本拠とした。下山は下山館を中心とした城下町(下山城下町)が形成され、河内路(近世の駿州往還)の宿場が設けられ交通の要地としても機能した。

その後、穴山氏は信君期に領国化された駿河江尻領を任され支配領域が拡大し、下山は引き続き穴山領の中心として機能する。天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して信君は織田方に帰属し離反するが、上方にいた信君は同年6月の本能寺の変に際して一揆に襲われ横死する。本能寺の変により武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生すると、三河国徳川家康は家臣の岡部正綱を甲斐へ派遣し、下山において菅沼城を築城された。穴山氏は家康の庇護のもと信君の子・勝千代が継承するが、天正15年(1587年)に勝千代が死去し、穴山氏の河内支配は終焉を迎えた。

その後、支配領主は徳川氏、豊臣大名と変遷し、近世には巨摩郡西河内領の13か村、八代郡東河内領の11か村が成立する。全村が幕府直轄領甲府藩領を経て、享保9年に甲斐一国が幕府直轄領化されると在方は三分代官支配となり、町域は上飯田代官支配、後に市川代官支配となる。このころは身延山久遠寺の門前町が発達し、多くの参詣者が訪れた。

山間部の河内地方は米麦栽培が乏しく農間余業が行われ、町域でも紙漉三椏栽培が行われた。富士川流域の大野には大野堤防が所在する。大野堤防は石積の堤防で、慶安2年以前に水害により破損し、本遠寺と関係の深い紀州徳川家により修築されたと考えられている。

沿革編集

人口編集

 
身延町と全国の年齢別人口分布(2005年) 身延町の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 身延町
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
身延町(に相当する地域)の人口の推移
1970年 27,697人
1975年 25,083人
1980年 23,222人
1985年 22,327人
1990年 20,849人
1995年 19,570人
2000年 18,021人
2005年 16,334人
2010年 14,462人
2015年 12,669人
総務省統計局 国勢調査より

行政編集

  • 首長名:望月仁司(もちづきひとし)2008年10月24日就任 2期
前町長:依田光弥(よだみつや)

経済編集

産業編集

姉妹都市・提携都市編集

国内編集

その他
  •  全国門前町サミット - 全国の神社仏閣を中心に発展してきた門前町を有する自治体・観光協会・商業関係者などが集まり地域活性、街作り推進のため開催する会議。
  •  平成・南部藩 - 南部氏とゆかりのある自治体により結成された架空の自治体。

教育編集

大学編集

高等学校編集

中学校編集

合併時点では4校存在したが、現在は1校に集約している。

  • 身延町立身延中学校(久那土中学校、下部中学校、中富中学校、旧身延中学校の4校が統廃合し、2016年に開校)

小学校編集

合併時点では8校あった小学校であるが、現在は3校に集約している。なお、統合にあたり旧町域にこだわらず北部、中部、南部で統合を行っている。

  • 身延町立身延清稜小学校(2017年に身延町立西島小学校と身延町立久那土小学校が統合。校舎は西嶋小学校を使用。):町北部(西島・切石(静川)・久那土地区)
身延町立西島小学校は2010年に身延町立西嶋小学校と身延町立静川小学校が統合したため、合併後2回統合されたことになる。
  • 身延町立下山小学校(2017年に(旧)身延町立下山小学校、身延町立下部小学校、身延町立原小学校が統合。校舎は(旧)下山小学校を使用。):町中部(飯富(原)・下山・常葉・古関地区)
身延町立下山小学校は旧身延町立身延北小学校であった。
  • 身延町立身延小学校(2018年に(旧)身延町立身延小学校、身延町立大河内小学校が統合。校舎は(旧)身延小学校を使用。):町南部(梅平・豊岡・帯金・大河内地区)
身延町立身延小学校は旧身延町立身延西小学校、身延町立大河内小学校は旧身延町立身延東小学校であった。なお、かつて豊岡地区に身延町立身延南小学校が存在したが、身延町豊岡小学校に改名を経て(旧)身延小学校に統合されている。

交通編集

鉄道路線編集

身延駅、下部温泉駅には特急ふじかわが停車する。

バス編集

道路編集

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事編集

 
久遠寺の桜
  • 下部町地域
    • 甲斐黄金村・湯之奥金山博物館:戦国期に稼働し、「武田信玄の隠し金山」として伝承される湯之奥金山遺跡の出土品や関係資料の展示と金山の歴史等を映像シアターが観覧できるほか、砂金採りの体験室がある。
    • ヤマメの里: バーベキュー等のキャンプ施設とバンガロー10室を併設する渓流釣り場。
    • 下部温泉
    • ホタルまつり
    • ヤマメまつり
    • 毛無山
  • 中富町地域
    • 山梨県立なかとみ青少年自然の里: 和紙・陶芸の手作り体験ができる陶芸工房を備え、雨天時にも活動可能な体育館と定員数100人の宿泊施設をもつ。
    • なかとみ和紙の里: 西嶋和紙の手漉き体験、全国の和紙の展示、工芸美術館、地元特産品の飲食施設の4施設で構成されている。
    • ふるさと富士川まつり
    • 沢奥(さおき)のおまつり
    • 西島秋季例大祭
    • 八日市
  • 旧身延町地域

出身有名人編集

身延町が舞台、または登場する作品編集

下部温泉の温泉宿が舞台。
舞台の中心が同町にある架空の高校「本栖高校」(旧下部小学校・下部中学校跡地にあるという設定)で、主要メンバーはそこに通学している。
その他、作中では中之倉にある本栖湖畔のキャンプ場、身延駅前などといった実在する風景やフレスポみのぶを基にした店舗などが登場する。
ギャンブル『宝探し』にて富士山の真西というヒントから、同町の梅平地区内にある架空の新興住宅地を捜索する。
作中では「梅平」の地名は出てくるが、「身延」の地名は記されていない。

外部リンク編集