PRIDE(プライド)は、日本総合格闘技イベント1997年から1999年まではKRSが、1999年から2007年まではドリームステージエンターテインメントが開催していた。現在、PRIDE FC WORLDWIDE株式会社がブランド及び興行権を保有している。海外でのイベント名称はPride Fighting Championships(略称Pride FC)。

PRIDE
設立 1997年
主催 KRS(1997年 - 1999年)
ドリームステージエンターテインメント(1999年 - 2007年)
ズッファ(2007年)
本部 日本の旗 日本
東京都港区
代表者
サイト prideofficial.com - ウェイバックマシン(2007年4月26日アーカイブ分)
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2000年代前半の総合格闘技においては名実ともに「世界最高峰の舞台」であり、日本における総合格闘技人気の火付け役となった。また、アメリカUFC日本K-1に並ぶ格闘技イベントに成長した。

「PRIDE 武士道 -其の七-」での選手紹介

さいたまスーパーアリーナの15周年記念では「PRIDE GRANDPRIX 2005」が最多動員記録として表彰された[1]

2015年に旗揚げされた格闘技団体「RIZIN」の前身といわれることもある[2]

概要 編集

PRIDEの主な開催イベントシリーズは、「PRIDE.」の後に通し番号が入る「PRIDEナンバーシリーズ」、数大会に分けたトーナメントによって優勝者を決定する「PRIDE GRANDPRIX」、実験的要素と日本対世界の対抗戦を軸にしてスタートし、途中から中・軽量級中心に特化した「PRIDE武士道」、大晦日に行われ、当日時間差放送ながらも、フジテレビ系列の地上波放送にて、ゴールデンタイムを含む長時間枠で放送された「PRIDE男祭り」の4つであった。

1997年の「PRIDE.1」より数か月に1回のペースで「PRIDEナンバーシリーズ」のみを開催していたが、2000年の1月と5月に体重無差別級による「PRIDE GRANDPRIX 2000」を開催。

その後はまた、数か月に1回ナンバーシリーズの興行に落ち着くが、2003年には再び、今度はミドル級選手による「PRIDE GRANDPRIX 2003」を8月、11月の2大会に分けて行う。この年にはアーケードゲームとして「PRIDE」と「PRIDE GRANDPRIX 2003」の2作品がカプコンからリリースされ、後にPlayStation 2用ゲームソフトとして移植もされた。また、この年の10月に「PRIDE武士道」も初開催される。

そして大晦日の「PRIDE男祭り」は、オリンピックの格闘競技での金メダリストや、他格闘競技のトップ選手などのPRIDEデビュー試合の場として、またはその年に各PRIDEイベントで活躍した選手が一度に集うオールスター大会として開催され、全試合終了後にはカウントダウンイベントも行われた。

2005年から始まったPRIDE武士道では、「中・軽量級」のみの試合を行う興行としてナンバーシリーズ、GPとの差別化が計られるようになったが、2006年11月5日のPRIDE 武士道 -其の十三-をもって同シリーズは終了し、それ以降のナンバーシリーズ、GPにおいて正式に中軽量級のウェルター級(83kg以下)、ライト級(73kg以下)が設置された。

その他の関連するイベント・大会としては、PRIDEへの登龍門を謳い二軍的位置付けだった「MMA THE BEST」シリーズ、東海テレビのテレビ番組「PRE-PRIDE」「PRIDE王」内企画の大会だった「PRE-PRIDE」シリーズ、興行的要素を一切排したアマチュア選手のための大会「PRIDEチャレンジ」がある。

歴史 編集

前史 編集

そもそもPRIDEは、高田延彦ヒクソン・グレイシーの試合を実現するためだけに立ち上げられたイベントであった。きっかけは東海テレビ事業時代の榊原信行がUWFインターナショナルの名古屋大会の運営に携わり、高田延彦と深夜まで飲み明かしたことだったという。その10日後に偶然、東海テレビ事業と取り引きのあるH2Oがヒクソンの写真集を制作する話があり、ヒクソンと榊原が会うことになっており、ここから対戦の計画が始まった[3][4]。当初の企画書で、K-1の石井和義館長の名前が総合プロデューサーに名前を連ねていたのも、榊原が東海テレビ事業時代にK-1名古屋大会の運営をしていたためである[5]
1997年7月22日、ホテルニューオータニ・シリウスの間で行われた記者会見で、10月11日に東京ドームで行われる格闘技イベント『PRIDE-1』のメインイベントで、『ヒクソン・グレイシー高田延彦』の一戦を行うと両者会見に出席のもと発表された。ヒクソン対高田は、勝者に賞金2000万円が贈られる「ザ・ワールド・マーシャルアーティスト選手権」と銘打たれた。会見の時点で「PRIDE-1」はヒクソン対高田以外は何も決まっておらず、会見当日は他の対戦カードだけでなく、前売り券の発売日や試合開始時刻も発表されなかった。当初8月15日開催の計画で一人歩きしながら、結局何の発表のないまま自然消滅しただけに、マスコミは一抹の不安が残ったが、会見から2日後に主催のKRSから「開場午後3時、試合開始・午後5時」と発表するとともに、「我々は他のプロレスや格闘技団体と比べても、運営組織としては何ら見劣りするとは思っていません」とFAXで宣言し、2か月後に迫った大会開催に自信を持っていることを改めて宣言した。

旗揚げ 編集

1997年10月11日に第1回大会「PRIDE.1」が開催され、高田延彦 vs. ヒクソン・グレイシーの試合で注目を集める。 前項で述べているが、当初は1回きりの開催予定であった。そのため「たった一つのプライド(誇り)」と言う意味を込めて「PRIDE.1」と命名された。しかし、「PRIDE.1」が好評であったため第2回開催が決定。大会名の意味を変えて1998年に「PRIDE.2」を横浜アリーナで開催した。その後はPRIDEの後に開催順に数字が続く「PRIDEナンバーシリーズ」を続々と開催した。

初期には、スタンディングバウトルール、空手ルール、組み技ルールなど夢の対戦カード実現の舞台として、色々なルールも試行されたが、その後は総合格闘技ルールに一本化。立ち技のK-1に対して、立ち技も寝技もありの総合格闘技として認知された。

「PRIDE.1」から「PRIDE.4」までは、実行委員会形式のKRS(格闘技レボリューション・スピリッツ)が母体となって運営。KRSは、名古屋の広告代理店(DSE前社長森下直人が在籍した名古屋の家電チェーン・エイデン子会社のハドック、パーフェクTV!-現スカパー!の広告代理店)、安室奈美恵関連の制作をしていた名古屋のイベント制作会社H2O、関西の大物プロモーター、のちにDSE社長となる榊原信行らが立ち上げたという[5][4]。イベントの制作はH2Oが行なっていた[6]

KRSのスーパーバイザーは、三井物産の契約プロデューサーとしてパーフェクTV!立ち上げに参加し、サムライTV(現・スカパー・ブロードキャスティング)のプロデューサーで小室哲哉のアドバイザーでもあった喜多村豊が務め、空手家の黒澤浩樹が代表幹事としてKRSの顔の役割を担った。喜多村はメディアファクトリーのプロデューサーでもあり、同社からPRIDEの公式ガイドブックと公式ビデオが発売されていた[7]

DSEの時代 編集

1999年1月20日に株式会社ドリームステージエンターテインメント(DSE)が発足し、実行委員会組織での運営に限界があったKRSに代わり、「PRIDE.5」から運営を担当することになった。社長にはKRSで調整役として活躍した森下直人が就任。株の過半数を持つオーナー社長だったという。2000年8月27日の「PRIDE.10」で、アントニオ猪木エグゼクティブ・プロデューサーに、2003年1月8日に森下直人が死去した後任の社長に榊原信行常務取締役が、2003年4月には、高田延彦がPRIDE統括本部長に、それぞれ就任。公的な役職には就いていはいないものの、作家の百瀬博教もプロデューサー的な立場だったと言われる(百瀬の公式ウェブサイトでは、興行を「百瀬博教プロデュース」と明記していた)。なお、榊原体制発足時にテレビ制作会社イースト(現・イースト・エンタテインメント)とスカイパーフェクト・コミュニケーションズ(現・スカパーJSAT)の資本がDSEに入った[8]

K-1UFCなどの他興行との協調路線を打ち出しており選手層の拡大が期待されたが、PRIDEがK-1からミルコ・クロコップを引き抜いたのをきっかけにK-1とは険悪な関係になり、日本の格闘技ブームの一つの頂点とも言える2003年12月31日の興行戦争[注釈 1]以来、K-1との対立は決定的になり、猪木、百瀬は離反した。

2001年11月3日、「PRIDE.17」でヘビー級(93kg以上)とミドル級(93kg以下)の王座の新設に伴い王座決定戦が行われ、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラヴァンダレイ・シウバがそれぞれ初代王者となった。

2003年ミドル級グランプリが2004年にはヘビー級グランプリが行われる。また2005年には再びミドル級グランプリが行われたほか、武士道においてウェルター級およびライト級のグランプリも開催された。

2004年12月31日、「PRIDE男祭り 2004 -SADAME-」において国際レスリング連盟(FILA)会長のラファエル・マルティニティと、日本レスリング協会会長の福田富昭がリング上より「FILAはアマチュアレスラーのプロ格闘技活動を公式に認め、今後協会よりオリンピックメダリストをはじめ、世界中の強豪レスラーをPRIDEに送りこむ」という内容の挨拶を行う。

2005年4月23日から『PRIDE GRANDPRIX 2005』を開催。12月31日には「PRIDE 男祭り 2005」を開催し49801人の集客に成功した。

2006年3月、ウェルター級及びライト級王座を設立し、ダン・ヘンダーソン五味隆典を初代王者に認定する。4月、無差別級グランプリが開催される。その最中の2006年6月5日、フジテレビはDSEとの契約を全面解除したことで、地上波中継が出来なくなる。直後に開催された「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND」では、会場の照明やセット、煽りVTR、実況等において劣化がみられ、フジテレビの撤退が少なからず影響したといえる。「PRIDE 武士道 -其の十三-」では、煽りVTR制作にフジテレビを退社した佐藤大輔、ナレーターに立木文彦という体制が復活。しかし地上波撤退の影響で、DSEへの信用失墜によるスポンサーの撤退が相次ぎ、一気に資金繰りが悪化していった。10月にはアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスにて初めての海外大会「PRIDE.32」を開催。翌年2月には「PRIDE.33」を再び同地で催して活路を求めたが、経営体力は限界に達していた。

イベント消滅 編集

2007年3月27日、東京・六本木ヒルズアリーナで記者会見が行われ、DSEはアメリカの総合格闘技イベントUFCおよび同イベントを主催するズッファ社のオーナーであるロレンゾ・フェティータに興行権を譲渡するとともに、本社を米・デラウェア州に置く新会社「PRIDE FC WORLDWIDE (Pride FC Worldwide Holdings, LLC)」の設立が発表された[9]。4月8日の「PRIDE.34」がDSE体制として最後の興行となった。だが、2007年5月に開催予定だったライト級グランプリは準備不足のため夏に延期になるなど、新体制発足後は興行開催の目途が全く立たない先行き不透明の状態が続いた。そのため提携先のUFCやDEEP、さらに最大のライバル団体であったHERO'Sへと選手が流出した。また、2007年4月17日にDSEが開いた臨時株主総会で法人解散を決議したことが官報に公示された。

2007年10月4日、PRIDE FC WORLDWIDE日本事務所の解散と運営スタッフの解雇がなされたことが報じられ、PRIDEは事実上消滅した[10]。これについてPRIDE FC WORLDWIDE側は、事務所の解散およびスタッフの解雇は日本でのイベント開催が不可能になったことに起因するもので、それらは旧DSEの元役員の協力不足によるものであるとする声明を発表した。

その後もPRIDEの各権利はPRIDE FC WORLDWIDEが保持しているが、2008年2月にアメリカでPRIDE FC WORLDWIDEと関連会社が榊原信行らを相手取り協力不足や情報開示がされなかったこと等を理由に、これまでに支払われた金銭の返還とPRIDEを維持する義務の免除を求める訴訟を起こした。これに対して、榊原側はPRIDEの興行継続を断念したことは契約違反だとして、フェティータ兄弟とPRIDE FC WORLDWIDEを同年4月に訴えている[11][12][13]

PRIDEの消滅に伴い、ここを主戦場としていた選手らの多くは各所に流出していった。2008年度前半期には、UFCへと流出した元PRIDE選手らが、UFCのヘビー級からミドル級までの3階級を全て制覇し、UFC王者の過半数を元PRIDE選手が占めるという事態が起こった。(2007~8年頃、ヘビー級暫定王者:アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ライトヘビー級王者:クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン、ミドル級王者:アンデウソン・シウバ

2007年9月8日、UFC 75で、PRIDEミドル級王座を保持したままUFCに移籍したダン・ヘンダーソンと、クイントン・"ランペイジ"・ジャクソンの持つUFC世界ライトヘビー級王座との統一が行われ、ミドル級王座が消滅した。

一夜限りの復活 編集

2007年11月21日の会見で同年の大晦日にロシアの総合格闘技プロモーション「M-1 Global」のサポートを受け、旧PRIDEスタッフの手により一夜限りでイベント「やれんのか! 大晦日! 2007」を開催することとなった。統括本部長は高田延彦が務めた[14]。大会後、高田延彦は「やれんのか!」について、PRIDEで行ってきたスタイルとしては最後のイベントであると語った[15]

新イベント 編集

2008年2月13日には「DREAM」の旗揚げが発表、同年3月5日には「戦極」の旗揚げ戦が開催され、事実上PRIDEからの新たな継承団体が生まれた。両イベントに高田延彦、榊原信行は関与していない。戦極は2010年、DREAMは2013年にそれぞれ活動を停止した。2015年、高田と榊原が中心となり新たに「RIZIN FIGHTING FEDERATION」が設立されている。

八百長問題 編集

2001年7月29日のPRIDE.15における桜庭和志クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン戦において、試合前にPRIDE幹部がジャクソンに対して「ノックアウト負けかサブミッションによるタップアウト負けをしてくれたら2000ドルのボーナスを支払う」と打診していたことを2007年にジャクソンが告白した。この『片八百長』の打診に対してジャクソンは「俺は金で負けるようなファイターじゃねぇ!俺はそんなことはしない!」と言って拒否したため、試合自体は真剣勝負で行われた(1R5分41秒 ジャクソンの一本負け)。この件についてジャクソンは「俺は言ったさ。『じゃあ俺がヤツをKOしたらどうなるんだい?』とね。そしたら『1万ドルのままです』と。そこでようやく連中の言いたいことが解ったってわけさ」「この時は日本で初めての試合でビッグショーだった。連中が向こうに勝って欲しいというムードをひしひしと感じたよ」と語っている。また、「八百長を打診してきたのは最近PRIDEを離れた二人の人物(このインタビューが行われたのは2007年6月)」「当時のPRIDEの社長である森下直人がこのことを把握していたかどうかは不明」「相手の桜庭がこのことを知っていたかは不明」と語っている[16]マーク・コールマンは高田延彦戦が八百長であったと認めている。

テレビ中継 編集

地上波放送 編集

発足当初、高田延彦の希望で地上波でのテレビ放送が模索され、一時日本テレビで放送という話があったものの[17]、パーフェクト・チョイス(現スカチャン)のPPV放送に落ち着いた。PPV重視は一貫してPRIDEの基本姿勢ではあったが、2004年から2006年まで一部の試合は試合当日ないしは同週の夜にフジテレビで録画放送されていた。

東海テレビは、PRIDE.1のパーフェクTV!(当時)での中継映像を約1時間に編集し、後日、東海地区ローカルで放映した(1997年10月31日 深夜2:00 - 2:55 「PRIDE1」)。同局はさらに、DSEが発足したPRIDE.5からは全ての大会を中継するようになった。テレビ東京の格闘技番組『格闘コロシアム』、中京テレビの格闘技ミニ番組『夢格闘・ドリームファイト』(提供はDSE)、フジテレビの格闘技番組『SRS』など、各テレビ局でPRIDEの試合が放送されることはあったが、2000年にフジテレビが大会主催者として加わるようになると、PRIDEはフジテレビ系のコンテンツとなった。特に東海テレビは、PRIDE情報を扱うレギュラー番組・『PRIDE炎のリング』(ミニ番組・提供はスカイパーフェクTV!)、『PRE-PRIDE』(新人ファイター発掘オーディションを兼ねた情報番組)、『PRIDE王(キング)』を作り続け、中継がゴールデン・プライムタイム以外の場合は、フジテレビとは別に独自の編集で中継番組を制作・放映し、PRIDEを重要コンテンツとして取り扱った。

2006年6月5日、フジテレビはDSEとの契約を全面解除し、番組の放送を取りやめることを発表。そのため、フジテレビ系の地上波で放送されるはずであったPRIDE 武士道 -其の十一-とハッスル・エイド2006(いずれもDSEがプロデュース)の放送がいずれも中止された。武士道-其の十一-に至っては、契約解除の前日にパーフェクト・チョイスのPPV放送がフジテレビスタッフにより中継されており、またそれまで地上波では深夜放送だった武士道シリーズが其の十一で初めて地上波ゴールデンタイムで放送されることが内定していながら中止となってしまった[18]。同時に東海テレビも追随を余儀なくされ、PRIDE情報を扱うレギュラー番組『PRIDE王』が休止となった。さらに、パーフェクト・チョイスを運営するペイ・パー・ビュー・ジャパン(PPVJ、現スカパー・ブロードキャスティング)の親会社かつスカパー!運営会社でもあるスカイパーフェクト・コミュニケーションズ(スカパー、現・スカパーJSAT)の主要株主に、フジテレビが名を連ねていたため、パーフェクト・チョイスのPPV放送についても放送中止が一時懸念されたが、スカパーは放送継続を決定した。

地上波およびPPV放送以外では、過去の試合を取り上げて放送する「PRIDE REVIVAL」という番組が、J sports ESPNで、FIGHTING TV サムライでは「PRIDE武士道マガジン」という番組が放送されている。なおPRIDEは、全米・ブラジルでのPPV放送のみならず韓国インドネシアロシア連邦・ヨーロッパの一部と世界各国で放送されており、PRIDE.32では全世界へ向けたインターネットによる有料配信も行われた。

インターネット配信 編集

光ファイバ・インターネットサービス「TEPCOひかり」のコンテンツサイトcasTY内の「PRIDEひかり道」では多くの試合なども流される(司会:ユウキロック(ハリガネロック)、須之内美帆子、ふるけいこ)。

2006年にフジテレビの放送が契約解除されてからは、パーフェクト・チョイスのPPV放送とともに、インターネットを通じた試合の配信が開始された。

パーフェクト・チョイスのPPV終了後に、デジタルメディアマート(DMM)による有料配信、さらにDMMによる有料配信が終わると、「あっ!とおどろく放送局」が無料配信する順序となっていた。選手紹介の煽りビデオと入場はカットとなっている。

なお、「あっ!とおどろく放送局」での無料配信は、PRIDE.32までで終了。引き続きDMMは、PRIDE 男祭り 2006の生中継と録画配信を行った。インターネットを通じたPRIDEの生中継はこれが初である。生中継ではオンデマンド配信と異なり、選手紹介も入場もノーカットだった。

PRIDE.34は、ライブ・エンターテインメント・チャンネル「LIVE MASTER」が有料録画配信を行った。また「ShowTime」により独占ライブ配信と録画配信が為され、期間を置いた後GyaOで無料配信が行われることになった。

実況・解説 編集

KRS時代には、当時格闘技通信編集長だった朝岡秀樹や格闘技ライターの近藤隆夫、格闘家の中井祐樹などが務めた。DSE体制のPRIDE.5以降は、谷川貞治と高田延彦が主に解説し、実況はフジテレビと東海テレビのスポーツ実況アナウンサーが担当した。2002年2月からはタレントの小池栄子がキャスターとして登場した他、過去のゲストには、大槻ケンヂ畑野浩子長谷川京子石橋貴明などがいる。2003年に谷川貞治がFEG社長に就任したため降板した後は、主に高田延彦が解説を務め、PRIDEに出場している格闘家が時折ゲスト解説していた。

また、東海テレビが東海地区のみで放映した独自編集版(「テレビ中継」の項参照)では、当時自社製作していたPRIDE情報番組のナビゲーターが、そちらでもそのままナビゲーターを務めた(「PRIDE炎のリング」と「PRE-PRIDE」がリサ・ステッグマイヤー、「PRIDE王」が佐藤江梨子)。

フジテレビの放送中止後は、解説を高田延彦と高阪剛、実況を矢野武市川勝也が担当していた。海外向けPPVの実況はマウロ・ラナーロ、解説はバス・ルッテンが行った。

フジテレビで放送していた時の番組スタッフ 編集

  • プロデューサー:滝澤美衣奈
  • チーフプロデューサー:清原邦夫
  • ディレクター:永盛 健之
  • 演出:佐藤大輔
  • 制作:フジテレビスポーツ部

視聴率 編集

2003年から始まった大晦日に開催される男祭りでは日本テレビからの選手の横取りなどで出遅れたものの、2005年にはTBSで放送されていた「K-1 PREMIUM Dynamite!!」などにも視聴率では上回っている。

テーマ曲 編集

PRIDEの大会テーマ曲は高梨康治の作曲による、開会式などで使用される「PRIDE」と、勝利時などで使用される「Victory」の2曲がある。これらの曲を収録したCDも2000年4月26日に発売された。特に「PRIDE」はオフィシャルサイトの大会前の煽り映像にも使用されており、大会を代表する曲として格闘技ファンならずとも知名度の高いテーマ曲となっている。現在でもPRIDEにゆかりのある選手の入場や、Bellator MMARIZIN FIGHTING FEDERATIONのオープニング、テレビ番組において使用されるなど、大会消滅後も耳にする機会が多い。日本のプロ野球においても、内海哲也篠原慎平三ツ間卓也吉住晴斗の各選手らが登場曲に使用していたことがある。

ニコニコ動画では大相撲の写真にエフェクトを加えたMADムービー「世界最強の国技 SUMOU」のテーマ曲として「PRIDE」が使われている。このためインターネット上では「PRIDE」ではなく「SUMOUのテーマ」と呼ぶ人も多い。ボディビルでは、国内外でポージングBGMとして使用されることがある。 フジテレビの中継放送のテーマ曲は、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのアルバム「バトル・オブ・ロサンゼルス」収録曲の「ゲリラ・レイディオ(Guerrilla Radio)」であった。2005年12月31日の「PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI-」から「PRIDE feat. Erick Martin」の「THE LAST MAN STANDING」が使用されていた。

階級・王座 編集

階級 重量区分 王者 防衛回数
ヘビー級 93kg以上   エメリヤーエンコ・ヒョードル 3
ミドル級 93kg未満 ダン・ヘンダーソン[注釈 2] -
ウェルター級 83kg未満   ダン・ヘンダーソン 0
ライト級 73kg未満   五味隆典 1

ルール 編集

概要 編集

通常のパンチ・キックに加え、パウンド関節技絞め技、および4点ポジション(両手足をマットについた状態、実質的にはグラウンドの状態)での頭部への蹴り(サッカーボールキック、踏みつけ、上四方固めからの頭頂部への膝蹴りを含む)および膝蹴り、が有効となる。ただし、4点ポジションでの頭部への蹴りおよび膝蹴りについては、対戦する選手の体重差が、両選手ともヘビー級の場合で15kg以上、いずれか一方の選手がミドル級以下の場合で10kg以上ある場合には、体重の軽い側の選手が当該攻撃の有り・無しを選択することができる。

なお、アメリカ大会(PRIDE.32PRIDE.33)ではネバダ州アスレチック・コミッション(NSAC)が認可したルールを採用した(5分3R、4点ポジションでの頭部への蹴りの禁止等)。当該ルールでは頭部・顔面への肘打ちが有効であるが、大会開催時には従来のPRIDEルール同様、禁止となった[19]

ラウンド 編集

1R10分・2R5分・3R5分(ラウンド間のインターバルは2分)の変則3R制を採用している。ただし武士道およびグランプリトーナメント準決勝に関しては1R10分・2R5分(ラウンド間のインターバルは2分)の変則2R制となる。例外的に変更も認められ、ホイス・グレイシーは、桜庭和志との試合前にラウンド無制限を求めた。

リング 編集

通常の7m四方の正方形リング上で行われる。

選手の服装 編集

オープンフィンガーグローブマウスピースファウルカップ、トランクスまたはスパッツを着用して試合をする。道衣やレスリング用のシューズなどの着用を認めている。ドス・カラスJrは簡易化されたルチャリブレのマスクを着用した。

勝敗 編集

KO、ギブアップ、TKO(レフェリーストップ、ドクターストップ、タオル投入)、反則、判定などにより決する。なお、判定においては必ず勝敗を決し、ドロー裁定のないマストシステムが採用されている。判定は3名のジャッジにより行われ、ポイント制ではなく試合全体での優劣により判定される。なお、判定基準の順位は以下の通りである。

  1. KO、ギブアップを狙う姿勢
  2. 相手に与えたダメージ
  3. 打撃のコンビネーション・グラウンドコントロール
  4. テイクダウン・ディフェンス
  5. アグレッシブさ
  6. ウェイト(両選手に10kg以上の体重差があった場合)

反則 編集

  1. 噛みつき
  2. 目潰しおよび目突き
  3. 頭突き
  4. 金的攻撃
  5. 頭髪を掴む
  6. 手指を用いて気管を押しつぶす・喉をつかむなど喉へ対する直接的な攻撃(PRIDE.17で、トム・エリクソンマット・スケルトンの喉を手の指で上から押さえつけるチョーク攻撃を行った際に、スケルトンが声帯損傷を負ったため、次大会から反則に追加された。なお、公式記録では「ギロチンチョーク」が決まり手と記載されている)
  7. 後頭部・延髄・脊髄への打撃攻撃(後頭部とは、頭の真後ろのことをいい、側面、耳の周りは後頭部とはみなさない)
  8. 頭部・顔面への肘打ち
  9. 故意にロープを掴んで離さない、また故意にロープに手、足を引っかけてはならない。上腕部分をロープに引っかける行為は即、注意とする。
  10. リング外へ逃げる
  11. 相手をリング外へ投げる
  12. 試合中、相手に対しダメージを与えると認められない無気力な攻撃、および膠着を誘発する動き
  13. 試合中の選手による非人道的な行為(なお、この行為に対して審判団は、試合中以外にも注意や警告を出すことができる)

開催履歴 編集

出場選手 編集

スタッフ 編集

リングアナウンサー 編集

特別リングアナウンサー 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ DSEとフジテレビPRIDE 男祭り 2003さいたまスーパーアリーナ)、アントニオ猪木と日本テレビINOKI BOM-BA-YE 2003神戸ウイングスタジアム)、K-1とTBSK-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!ナゴヤドーム)の三つ巴。
  2. ^ 2007年9月8日、UFC 75において第2代ミドル級王者ダン・ヘンダーソンがUFC世界ライトヘビー級王者クイントン・"ランペイジ"・ジャクソンに敗れ、ミドル級王座はUFC世界ライトヘビー級王座へ統合された。

出典 編集

  1. ^ https://twitter.com/nobu_sakakibara/status/683527551000522753?ref_src=twsrc%5Etfw
  2. ^ ヴァンダレイ・シウバ、総合格闘技「公式引退」もボクシングでの復帰と息子のRIZIN参戦示唆”. 日刊スポーツ (2022年9月1日). 2022年9月1日閲覧。
  3. ^ 「関係者だけが知る高田延彦・榊原信行」『高田延彦のカタチ』東那出版編、東那出版、2002年、pp.203-204.
  4. ^ a b CORPORATE PROFILE H2O公式サイト
  5. ^ a b 神山典士「続・格闘技最強の仕掛け人たち」『サイゾー』2003年11月号、インフォバーン
  6. ^ CORPORATE HISTORY H2O公式サイト
  7. ^ 「実力派プロデューサー 喜多村豊氏ロングインタビュー」『格闘技vsプロレス誰がいちばん強いんだ!』芸文社、2003年
  8. ^ PRIDE 榊原社長&高田統括本部長の初お披露目。8.10ミドル級GP開幕」BoutReview 2003年4月16日
  9. ^ [PRIDE]UFCオーナーのロレンゾ・フェティータ氏がPRIDEの全権掌握 BoutReview 2007年3月27日
  10. ^ 【PRIDE】PRIDEスタッフ全員に解雇通知、事務所も閉鎖「ファンの皆様に申し訳ない」 GBR 2007年10月4日
  11. ^ Adam Swift Background Checks at Center of Multi-Million Dollar Pride Lawsuit Sherdog Adam Swift 2008年2月8日
  12. ^ Adam Swift Former Pride Owners Sue Zuffa Holding Companies, Fertittas Sherdog 2008年4月7日
  13. ^ 『kamipro』No.128、エンターブレイン
  14. ^ PRIDEが一夜限りの復活!? 噂の大みそか格闘技イベント「やれんのか!」開催決定! スポーツナビ 2007年11月21日
  15. ^ 高田延彦、激白!「やれんのか!」を振り返る=『格闘技通信』発「PRIDEでやってきたあのスタイルを集約した形としては最後」 スポーツナビ 2008年2月7日
  16. ^ Jackson: PRIDE Offered Bonus to Lose SHERDOG 2007年6月12日
  17. ^ 金子達仁『泣き虫』幻冬舎、2003年、p248.
  18. ^ kamipro』No.129、エンターブレイン浅草キッドの発言。
  19. ^ PRIDE NEVADA OFFICIAL RULES PRIDE公式サイト(Internet Archive)
  20. ^ a b c PRIDEからRIZINまで! 選手の名前をコールし続けた男・太田真一郎:Dropkick”. Dropkick:ブロマガ - ニコニコチャンネル. 2023年11月27日閲覧。

外部リンク 編集